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2013年9月16日 (月)

実体二元論がダメなわけ<心は実在するか8>

ここまで、意志と行為とその因果関係について考えてきたが、ここでいったん話を戻し、心身の構成および心身問題について考えてみたい。
サールによると、心身の構成についての諸アイデアは下のように整理して分類できる。

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まず、もっとも大きな分類は、一元論か二元論かである。
「心」と「身体」の二者が、どちらか一方に還元できるとするのが一元論。還元できないので別々のものとして考えるしかないとするのが二元論である。世界のすべては、一元論では、メンタル(心的)な存在であるか、或いは、フィジカル(物理的・身体的)な存在であるかの、どちらか一方の対象として説明できるとする。一方、二元論では、メンタルな存在とフィジカルな存在が全く別のものであって、どちらか一方が存在するとするだけでは世界を説明しきることができないので、メンタル的なものとフィジカル的なものの二つが別々に存在せねばならないとする。

心の哲学はアリストテレス以前からずっと問われ続けている歴史があるが、ここでは、その問題をかなり整理してくれたデカルトから見ていくことにしたい。

 

デカルトの実体二元論

デカルトによれば、われわれ人間は身体と心からできている。身体は、時空間の広がり(延長)を持つものであり、物理法則によって状態変化は決定されている。小さな部分に分割することが可能であり、破壊することができる。そして、間接的にしか知ることができない。一方、心は、意図であり思惟であり、延長がない。物理法則に従う必要はなく自由である。部分に分割することができず、破壊することができない。そして、直接的に知ることができる。人は自己としての心によって同一性を持つ。
このように、身体と心の両方によって、人間と世界が構成されているとするのがデカルトの心身二元論である。
この二元論では、身体と心は互いに相関関係を持ち得るとしている。身体は心に対して因果的に働きかけることができ、心も身体に対して因果的に働きかけることができるとする。身体も心も互いに還元されることはないが、どちらも実体として存在するのだ。だから、実体二元論とも呼ばれる。

(二元論には、もう一つ性質二元論というものもある。これはフィジカルな存在とは別に、クオリアなどのメンタルな存在が存在するとするものだが、そのメンタルな存在は実体ではなく、身体に因果的に働きかけることがない。すべてを物理的存在に還元できないが、物理的存在以外の実体があるわけではなく、性質上だけの存在が存在するという意味で性質二元論という。これはまた、あとで考える。)

しかし、実体二元論は現在の心の哲学ではあまり相手にされていないダメなアイデアなようだ。ダメなアイデアだとされる最大の理由は心身問題である。
心身問題とは、物理的なもの「身体」がなぜ物理的でないもの「心」に対して作用を働かせ得るのか、また、働かされ得るのかという問題である。
「眼に入力された映像情報を脳が物理的に受け取って、物理的に分析処理され、再度脳から運動命令が物理的に出力され、身体が反応して動く」というような、物理的な一連の変化が起こっただけだとして行為のすべてが語り得てしまうのなら、「心」は必要ない。しかし、実際には、そこに視覚映像を見た「私」がその映像対象をカップ麺だと「判断」して、食べたいと「欲求」して、お湯を注ごうと「意志」することによって身体が動くのだ。物理的な身体が行為するにあたって、「私」の「判断、欲求、意志」なるものと相互に作用しているのである。
ここで問題となるのが、フィジカルな存在とメンタルな存在は相互作用しあっているのだから明らかに還元可能なはずではないか、ということである。フィジカルとメンタルは還元不可能な実体だと定義したはずだったのに、それに反する状況になってしまうのであれば、このアイデアは使い物にならず間違いであるはずだ、ということである。
メンタルな心的実体がフィジカルな物理的実体に作用を及ぼし及ぼされるのであれば、そのことだけで、「メンタルな心的実体は物理的にも存在していると言える」と言っても良いはずではないか。或いは「フィジカルな物理的実体は心的にも存在していると言える」と言っても良いはずである。互いに影響を及ぼしあえるということは、心を物理的存在として語ったり、身体を心的存在として語ったりして、どちらか一方に還元して語ることが可能であるということに他ならないはずだ。
だから、実体二元論は論理的に破綻する。これが、実体二元論のダメなわけである。

しかし、実際、どう考えても、物理的実体には還元不能な「このクオリア」なるものが存在する。これは確固として心的な存在であり、これが「無い」なんてことは考えられない。また、物理的法則には還元不能な「私の意志」なるものが存在する。これも確固として心的に存在し、これが「無い」なんて考えられない。
だのに、そのことをそのまま二元論に当てはめて考えようとすると、そのアイデアは破綻してしまうのだ。

では、どう考えればいいのか。一元論ならうまくいくのか。しかし、一元論で、フィジカルな存在しかないのだと考えるにしても「このクオリア」や「私の意志」はどうなるのか。これに対して、サールの「生物学的自然主義」やデイヴィドソンの「非法則的一元論」など、いろいろな一元論のアイデアが出されている。しかし、どの一元論も何らかの反論と矛盾を孕んでいるので、現状では、これという決まり手は無いとされているようだ。

一般的な心の哲学ではウィトゲンシュタインの哲学はすでに乗り越えられた過去のものとして扱われていることが多いみたいだ。しかし僕自身は、ウィトゲンシュタインによる「言語論的一元論」ですべて片が付くと考えている。また、私の意志の問題については前節までで考えたデイヴィドソンの「行為者性自由」のアイデアが一つの解決策になるだろう。

次節から、この混沌の中で様々な哲学者たちから出されているアイデアを一つ一つ見て、クオリアなどの問題をどう処理すればいいかを考えていきたい。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


言うまでもないと思いますが、通常心的(と見做されている)現象―痛み・悲しみ・怒り・苦悩・不安etc―と心的(と見做されている)現象の【記述】―「私は左肩が痛い」「彼は怒っているように見える」「私は苦悩している」etc―はイコールではありません。
通常物的(と見做されている)現象―核分裂・神経発火・降雨・地震etc―と物的(と見做されている)現象の【記述】―「激しい雨が降っている」「静岡で震度4の地震があった」etc―についても然り。
付言しますと、心的(と見做されている)現象には、
①物的(と見做されている)現象との本質的な連関が既に「発見され」ている―例えば、痛み=或る身体的存在者が持つ視認不可能な感覚と神経発火=痛みを感じている人もそれ以外の人も視認可能な事象の関係―もの

②物的(と見做されている)現象と本質的な連関を持つのかどうか定かではない―例えば、アザンデ族の呪術・丑の刻参り・天罰を信じること・改悛することetc―もの
がありますね。

ここで注意しなければならないのは、↓以下の異なる二つの問い或は似非問題

a. 通常心的(と見做されている)現象―痛み・悲しみ・怒り・苦悩・不安etc―を通常物的(と見做されている)現象―核分裂・神経発火・降雨・地震etc―に還元することは可能か否か?
b. 今の社会で通常心的(と見做されている)現象の【記述】―「私は左肩が痛い」「彼は怒っているように見える」「私は苦悩している」etc―と今の社会で通常物的(と見做されている)現象の【記述】―「C繊維が発火している」「アドレナリンの血中濃度が上昇している」「雷が落ちた」etc―をどちらか一方に還元することは可能か否か?

を混同してはならない、ということでしょう。しかしながら、これはa. とb. の間に明確な境界線を引くことが出来るという主張ではありません。

b. の問いについて言えば、今日では通常物的(と見做されている)現象を或る種の心的現象と【理解し・かつ記述して】いた時代もありましたし、そのような地域は今猶存在しています。例えば、「ゼウスが雷を落とした」「彼が急死したのは神の逆鱗に触れたからだ」等々。
因みに、僕は心的現象の【記述】と物的現象の【記述】は(おおよそのところ)相互に還元不可能だと考えています。

(念の為に補足しておきますと)
①一人称の心理的言明「私は左足が痛い」「私はウキウキしている」等々と三人称的・物的(と見做されている)現象の記述「ここにデカルトがいる」等々の【文法的差異】
②我々が一人称の心理的言明を為す際に自分の身体や振舞を観察する必要がない―別の言い方をすれば、この種の言明を為すことは自らの身体に対して三人称的・物的な記述を為すことと独立である―という【経験的かつ文法的な事実】
③一人称現在の心理的言明は不可謬性であるという【文法的信念】
を相互に独立した二つの実体が存在するという形而上学的事実を証し立てるものと誤認した哲学者がデカルトでした。

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