フォト
無料ブログはココログ

« 私的言語とは何か<「哲学探究」をまとめました上3> | トップページ | 公共言語私的言語五十歩百歩論<「哲学探究」をまとめました上5> »

2013年8月 8日 (木)

私的言語批判への反論を検討する<「哲学探究」をまとめました上4>

私的言語は他者に対して語ることができないだけでなく、自分自身でさえその意味が理解できないとするウィトゲンシュタインの主張に対して、さまざまな反論がなされている。それらの幾つかの反論を取り上げ、私的言語の不可能性がどこまでどんな風に効力を持つのか、或いは持たないのかを検討したい。

 

ハンプティダンプティの反論

「栄誉ってどういう意味?」とアリス。「そいつは『君がぎゃふんと言うような素敵な議論だ』という意味だ」とハンプティダンプティは小馬鹿にしたように微笑みました。「でも『栄誉』は『ぎゃふんと言うような素敵な議論』という意味にはならないわ」「言葉はわしが意味させようとしたものを意味する。それ以上でもそれ以下でもない。問題は、言葉とわしのどっちがどっちの言うことを聞くかということ。それだけだ」(ルイス・キャロル「鏡の国アリス」角川文庫版p.120)

Carroll0

ルイスキャロル(1832~1898)の「鏡の国のアリス」は1871年の発表だから、引用は、1889年生まれのウィトゲンシュタインに対する反論では、もちろん、ない。しかし、これに登場するハンプティダンプティの主張は、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とはっきりと対立しており、とても興味深い内容なので、まず第一に取り上げてみたい。
ハンプティダンプティの訴えは、語のあるじは語り手だということである。何を語りたいのかを知っているのは語り手であり、何が語られているのかはっきりさせたいなら、語り手に問うのがいちばん手っ取り早い。もしも語られている内容が語り得ないことだったとしてもだ。語り得ない内容であっても、語り手が何かを語ろうとしているのであれば、そこで語られている語の「本当の意味」は語り手が語ろうとしているその内容であるはずなのじゃないか。だから、私的言語なるものが他者に伝わり得ず語り得ない言語であっても、その意味するところが本人の私的感覚だと指示されているのなら、はっきりと「本当の意味」を持つ言語として存在し得るのではないか。ハンプティダンプティを、このような私的言語批判への反論として読んでもいいだろう。

 

永井の反論

もう少し引用する。ハンプティダンプティと似た視点で、永井均(1951~)は私的言語が言語に不可欠だと言う。

Nagai_2

「私が感じているのは実は『痛み』なのか『くすぐったさなのか』なのか決定しうる権威を持つのは私であって共同体ではない。これは68+57の答がいくつになるかを決定しうる権威を持つのが共同体であって私ではないのと同様にまったく明白なことであると思われる。68+57が実はつねに5であるなどということには何の意味もないが、くすぐられてくすぐったそうにしている私は実はつねに痛みを感じていたということは少なくとも有意味に想定可能なのである」(永井均「<魂>に対する態度」p.65)
「たとえば私は、外部からそれとわかる脈絡や表出(転んで顔をしかめるとか)といっさい無関係に、自分に向かって断言できる「私がいま感じているのは、私がずっと『痛み』と呼んできたものである」と。「痛み」というだれもが知っている語が使われていてもこれは私的言語である。なぜなら、他の誰がどう言おうとこれは私が「痛み」と呼んできたものだと言っているのだから」(永井均「私・今・そして神」p.197)

「私的言語がなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は完成するのです」(永井均「なぜ意識は実在しないのか」p.36)

永井によると「私が感じているのは実は『痛み』なのか『くすぐったさなのか』なのか決定しうる権威を持つのは私であって共同体ではない」。私的感覚において語のあるじは語り手の「私」である。
私が実際に感じている「これ」があってはじめて世界が立ち上がるような根源的に私的な出来事「これ」がある。たとえば「これA」は私がずっと「痛み」と呼んできた感覚である。ずっと「痛み」と呼んできた感覚だから、これは「痛み」と呼ぶべきものなのである。このときこの「痛み」は根源的に私的な言語であると考えられる。「痛い」という語の意味を、語り手は決して「痛みの振舞いだ」などとは考えていない。「痛い」という語の意味は「実際に痛むこの感覚のクオリア」である。もともと公共言語として教えられた「痛み」だが「実際に痛むこの感覚のクオリア」を示す私的言語として転じさせることによって言語は完成するのだ。
たとえば「これB」は私がずっと「赤」と呼んできた視覚印象である。ずっと「赤」と読んできた印象だから、これは「赤」と呼ぶべきものなのである。このときこの「赤」は根源的に私的な言語であると考えるべきである。「赤」という語の意味を、語り手は決して「赤い対象に対する振舞いだ」などとは考えていない。「赤」という語の意味は「実際に赤く感じるこの印象のクオリア」であるはずだ。もともと公共言語として教えられた「赤」だが「実際に赤く感じるこの印象のクオリア」を示す私的言語として転じさせることによって言語は完成するのだ。語の意味が振舞いだけであるのなら、語は死んでいる。本来語りえないことなのではなるが、私的なクオリアをその「本当の意味」として持つことによって、語はいきいきとした命を持ち得るのである。
永井はこのように、私的クオリアを表現した語にことを私的言語だと捉え、言語にとって私的言語は不可欠だと言った。
 
 

 

語の主権は無尽蔵に語り手にあるわけではない

僕も、語のあるじが語り手だという意見には賛成だ。しかし、ハンプティと永井が言うほど、語り手の主権は強くないと思う。何を言いたいか自分でもはっきりさせられていないような内容まで、語り手は語のあるじだとは言えないだろう。どこまではっきりさせられているかは、ゲームの中でどこまで語が働いているかによって決まるのであって、無尽蔵に語り手が主権を持っているわけではないはずだ。
たとえば、「くすぐられてくすぐったそうにしている私は実はつねに痛みを感じていたということは少なくとも有意味に想定可能なのである」という永井の想定のとおり、「語り手本人が実際に痛いと感じていてくすぐったそうな振舞いをすること」はもちろん想定可能である。しかし、永井の想定は所詮「語りえる公共言語」の次元の「想定可能さ」である。この語り手が私的に痛みを感じながら「くすぐったい」と発言をし、くすぐったそうに振舞っているという状況での、永井の言う「私的痛みなるもの」は完全に公共言語に翻訳可能である。「くすぐったそうにしていたけど実は痛みをこらえていたのだ」と表現できるのであるから、その「私的痛みなるもの」は完全に他者に理解可能な内容であって、決して私的言語ではない。永井が問題にすべきなのは「私的なクオリア」としての「痛み」であるはずだが、それは実は「痛み」という語では全く言語化されないものなのだ。「くすぐったそうにしていたけど実は痛みをこらえていたのだ」と語り手が表現したときに、その「痛み」という語が、聞き手にとって公共言語としてしか理解されないだけではなく、語り手にとっても原理的に公共言語の「痛み」としてしか捉えられない語だからである。「実は(公共言語としての意味での)痛みをこらえていたのだ」と言うことは可能なのだが、「実は(私的クオリアという意味での)痛みをこらえていたのだ」と言うことは不可能なのだ。
なぜか。それを考えるには、私的言語をどう捉えるかという問題と、語の同一性がどこまで維持されるかという問題の、2つのレベルでの検討が必要である。

 

公共言語が私的言語に反転して語は完成するという永井の主張

まず、私的言語の捉え方の問題について考えよう。永井は、私的クオリアを表現したものを私的言語として捉え、「痛み」という一般的に公共言語とされるような語でさえ私的クオリアの表出という視点では私的言語だと言えるとしている。しかし、ここに誤解がある。私的クオリアは構造的に私的クオリアのまま言語化されることが不可能なのであって、私的言語にはなり得ないのである。無理に言語化してもそれは公共言語でしかないのである。だから、「痛み」は永井の論に反して、決して私的言語にはならないのだ。

たとえば、「私的な感覚のクオリアA」があって、これを感じた時の私の振舞いに対して、最初に社会が「痛み」と名づけるとする。私は「私的感覚のクオリアA」と「Aに対する振舞い」と「痛み」という語を関連付けて覚える。次に、「私的な感覚のクオリアB」があって、これを感じた私の振舞いに対して社会が「痛み」と名づける。私は「私的感覚のクオリアB」と「Bに対する振舞い」と「痛み」という語を関連付けて覚える。このとき、AとBを両方とも「痛み」と呼んで同じ範疇に入れるためには、同一性の基準が必要になる。ところが、私的クオリアを直接比較することはできないので、「Aに対する振舞い」と「Bに対する振舞い」に共通する某かの要素をもって「痛み」に対する基準とすることになる。これが一般的な共通言語の成立手順であろう。そしてここから、共通言語が私的言語に反転する段階を経ることで言語は完成すると、永井は言う。私は「Aに対する振舞い」と「Bに対する振舞い」を基準にして「痛み」という語の意味を掴んだ。このとき私はその振舞いとともに「私的感覚のクオリアA」や「私的感覚のクオリアB」も関連付けて捉え、そのクオリアをも指示する意味をも含めて「痛い」と言う。そして、はじめは、振舞いが語の基準であったものが、クオリア自身が基準になるようになって、意味の反転が行われる、とするのだ。そしてだから、その反転があった上で、「私的な感覚のクオリアC」があったとき、このCに対する振舞いを見る前に、直接クオリアを基準にしてこれが「痛み」であると判断できるのだ。そして、「私的感覚のクオリアC」をそのまま「痛み」と表現することができ、「痛み」が私的言語になる。それゆえ、「痛み」を隠してくすぐったい振りをするという想定も有意味になるのだ、というのが永井の主張であった。

 

「痛み」は公共言語でしかありえない

しかし、ここで、「『私的感覚のクオリアC』をそのまま『痛み』と表現することができ、『痛み』が私的言語になる」としたのは間違いだ。永井の言いたかった「私的な感覚のクオリア」は、完全に内的な感覚で原理的に他者に伝えることができない「何か」であったはずである。たとえば、「これ」とでも表現する以外ないような「何か」なのだ。だから、それは実は「感覚」とか「クオリア」というふうに言語化することさえ許されないような「何か」だったはずなのである。しかし、それを「感覚」とか「クオリア」とかいう語を使わないままではこの「何か」について語ることができないので、無理をし、言語的違反を犯して「私的な感覚のクオリア」と言っているのだ。そして、「『私的感覚のクオリアC』をそのまま『痛み』と表現」しようとしたとき、もともと言語化できなかったはずの私的な「これ」が、さらに言語としての「痛み」に成り下がってしまうのだ。そして、そのため、逆に、もともと感じていたはずの、本来の私的なクオリアはどうあがいても意味のある言語にはなり得ないことになる。私が私的に感じているクオリアに対して「痛み」という語を当てはめたとき、私的な痛みのクオリアは、公共言語の「痛み」に成り下がるのだ。私的クオリアは言語化できないのだ。もともとの意味から言って、私的言語は原理的にあり得ない。言語化された時点でそれは「私的」なものではなくなるのだ。

(しかし、それなら私的クオリアはあるのだろうか。「私的クオリアは言語化できない。けれども、有る」というのも、間違いだろう。言語化されていない「もともとの痛みのクオリア」など幻想である。言語化されていないのだから、それは痛みでも感覚でもなんでもない。「痛みである」わけでも「痛みでない」わけでもなく、「感覚である」わけでも、「感覚じゃない」わけでもなく、「有る」わけでも「無い」わけでもない。それは、言わば仏教用語の「空」でしかないものだろう。)

 

「赤」も公共言語でしかない

くどいかもしれないが、「私的な赤」の例でも同じ説明をさせてもらいたい。

たとえば、「私的な感覚のクオリアD」があって、そのとき私が見ている対象<もの>を、社会が「赤」と名づけるとする。私は「私的感覚のクオリアD」と「Dに対応する対象」と「赤」という語を関連付けて覚える。次に、「私的な感覚のクオリアE」があって、そのとき私が見ている対象も、社会が「赤」と名づける。私は「私的感覚のクオリアE」と「Eに対応する対象」と「赤」という語を関連付けて覚える。私は「Dに対応する対象」と「Eに対応する対象」を基準にして「赤」という語の意味を掴む。このとき私はその対象とともに「私的感覚のクオリアD」や「私的感覚のクオリアE」も関連付けて捉え、そのクオリアをも指示する意味をも含めて「赤」と呼ぶ。そして、はじめは、対象が語の基準であったものが、クオリア自身が基準になるようになって、意味の反転が行われる。そしてだから、その反転があった上で、「私的な感覚のクオリアF」があったとき、このFに対応する対象に対する社会的な判断を聞く前に、直接クオリアを基準にしてこれが「赤」であると判断できるようになる。だから、「みんなには青く見えているものが私には赤く見える」という発言が有意味になる。それは、その対象の色に対する社会的判断構成がなくても、自分の今感じている私的な感覚のクオリアFとこれまでに見てきた様々の赤のクオリアだけを基準にして、それが同じだと判断できる証拠である。これが永井の主張に沿う例示になるだろう。
これのどこが間違いか。確かに、「みんなには青く見えているものが私には赤く見える」というのははっきりと有意味な文章である。しかし、この「赤」は「私的言語」ではなく「公共言語」でしかないのだ。確かに、「私に見えている感覚」を、その対象の社会的判断基準を問うことのないまま、言語化しているように見える。確かに、社会的判断基準を問うていないのだから、私的感覚を私的に言語化したように見える。しかし、このケース、実は社会的判断基準を問うているのだ。私的感覚Fは、以前に見た「Dに対応する対象」が社会的に「赤」とされたことや「Eに対応する対象」が社会的に「赤」とされたことを基準にして、「赤」だと判断しているのだ。「赤」という語の意味するところについて、社会的な判断基準がすでにあって、そこに私的感覚Fが起こったときに、それを「赤」という語の下にカテゴライズしてしまうという言語化が行われる。このとき、私的な感覚のクオリアであり言語化不可能だったはずの「これ」が、公共言語のフレームの中に組み込まれ理解可能なものに成り下がっているのである。

だから、永井が「『痛み』というだれもが知っている語が使われていてもこれは私的言語である。なぜなら、他の誰がどう言おうとこれは私が『痛み』と呼んできたものだと言っているのだから」と言うのは、明らかに誤りである。「『私的感覚のクオリアC』をそのまま『痛み』と表現することができ、『痛み』が私的言語になる」としたのは間違いだ。確かに「くすぐったそうに振舞っているが実は痛みを感じている」というのははっきりと有意味な文章である。しかし、この「痛み」は「私的言語」ではなく「公共言語」でしかないのだ。確かに、「私の感覚」を、その振舞いの社会的判断基準を問うことのないまま、言語化しているように見える。確かに、社会的判断基準を問うていないのだから、私的感覚を私的に言語化したように見える。しかし、このケース、実は社会的判断基準を問うているのだ。私的感覚Cは、以前に感じた「Aに対応する振舞い」が社会的に「痛み」とされたことや「Bに対応する振舞い」が社会的に「痛み」とされたことを基準にして、「痛み」だと判断しているのだ。「痛み」という語の意味するところについて、社会的な判断基準がすでにあって、そこに私的感覚Cが起こったときに、それを「痛み」という語の下にカテゴライズしてしまうという言語化が行われる。このとき、私的な感覚のクオリアであり言語化不可能だったはずの「これ」が、公共言語のフレームの中に組み込まれ理解可能なものになるのである。確かに「私的感覚のクオリアC」を「痛み」と表現することはできる。しかし、それは私的言語になるような次元の言語化ではない。私的感覚だったはずのものを、単なる公共言語の「痛み」のフレームに当てはめて表現しただけのことなのである。決して私的言語ではないのだ。

 

基準が私的であることによる根源的な規則性の崩壊

では次に、「実は(私的クオリアという意味での)痛みをこらえていたのだ」と言うことが不可能だとする、もう一方の問題、語の同一性がどこまで維持されるかという問題を考えたい。
それは規則のパラドクスでの議論で考えた「規則性」の崩壊の問題である。

前項では「痛み」や「赤」というもともと公共言語だった言葉を私的言語としてとらえるとうまくいかないことを考えたので、本項では本来的な私的言語「E」について考えることにする。
まず初めに、「私的な感覚のクオリアA」があって、外的な振舞いに頼らずに内的な感覚のみによって、これを「E」と名づけることにする。次に、「私的な感覚のクオリアB」があって、これも「E」と呼ぶとする。このとき、AとBを両方とも「E」と呼んで同じ範疇に入れるためには、同一性の基準が必要になる。どれほど同じ感覚だと言っても、その感覚Eの内容もEを感じる場所もEを感じる時間もすべてが同じだったなら、それは2つの感覚ではなく、1つの感覚でしかないことになってしまう。AとBは少なくとも別の感覚なのだから、それを同じ「E」と呼ぶための基準が必要になるのだ。ところが、前提からAもBも「私的クオリア」でしかないので、外的な振舞いを基準にすることはできない。だから、結局、AとB自身が基準となるしかない。AとBは同じ「E」だとするから同じ「E」になるのである。そしてその上で、「私的な感覚のクオリアC」があったとき。このCを「E」と呼ぶためにはAとBは基準になるだろうか。AとBが外的な振舞いを伴うのであれば基準になり得るだろうが、どちらも外的な振舞いを持たない、内的な何かがあるだけなので、基準にしようにもやりようが無いのだ。だから、Cを「E」と呼ぶためには、C自身を基準にする以外ない。結局、外的な基準が無いのであれば、何か新しい対象を「E」とするためにはそのつど、同一性の基準を作り続けていくしかないのだ。このとき、語り手は盲目的に何某かの「Eゲーム」の規則なるものに従っているのではない。むやみに「Eゲーム」の規則もどきを作っているだけなのだ。「E」という語の同一性の基準は、何かを「E」だと言おうとするたびに更新されなければならない。だから、基準としての働きを持たない。私的な基準は、基準たり得ないのだ。このように、私的な基準が原理的に規則性の基準になり得ないことを、僕は「根源的な規則性の崩壊」と呼びたい。私的言語としての「E」はそれが語られるたび、同一性基準をでっち上げることにしかならず、なにか意味のある発言にはなり得ないのだ。

だから、この根源的な規則性の崩壊の問題の次元においても、永井の「『痛み』という語…は私的言語である。なぜなら、他の誰がどう言おうとこれは私が『痛み』と呼んできたものだと言っているのだから」という言は誤りで、たとえ「痛み」を「E」という私的言語用の語に置き換えたとしても、通らない話なのである。「私が『E』と呼んできたもの」と今感じているクオリアが同じ「E」であると分かるのはそこに外的な振舞いの基準があるときに限るのだ。内的なクオリアしか基準が無いのであれば、「これは私が『E』と呼んできたものだ」という発言は「これは私が『E』と呼んできたものと同じであることにしたのだ」と言われるべきものでしかないのだ。「これ」を「E」と定義づけただけのことであり、「E」の意味をそのつど更新しているだけなのだから、「E」が「私的言語」どころか「言語」でさえ無いのだ。
同じ理由で、「私的なクオリアEがある」という発言は無意味である。「私的なクオリアE」なる語は、そのつど基準付けを必要とする言葉なのだから、「今私が『私的なクオリアE』という語で表せることにした何かがある」という発言しかしていないことになってしまう。何を言っているのか全然わからない。内容を何も持たないナンセンスな発言でしかないのだ。

結局、私的言語が私的な内的体験を示す語で、かつ、他者に伝えられない語であれば、それはどんな風に考えても、原理的に、意味のある言語であることができないのだ。

ここまで、私的言語は原理的に不可能だということを考えたが、それだったら、公共言語だって不可能じゃないかと言うのがエイヤーの反論である。それについては次節で考えたい。

どうも思考がうまくまとめられないで、問題をすり替えいるように思われても仕方ないような語りっぷりになってしまった。公共言語が私的言語に反転して語は完成するという永井の主張をどう考えるかについては、次々節の、「私的クオリアと振舞いについての根源的な規則性の崩壊」を考えるときに再度取り上げて、まとめて整理できるようにしていきたい。

つづく

「哲学探究」をまとめました

« 私的言語とは何か<「哲学探究」をまとめました上3> | トップページ | 公共言語私的言語五十歩百歩論<「哲学探究」をまとめました上5> »

コメント

興味深く読ませてもらいました。
後半に書かれた私的なクオリアEがある、という方を反証したいのですが、例えばある人物がそのように主張するとしましょう。確かにそれはただの独断、思い込み、根拠のない言明とも考えられるでしょう。しかし仮に脳波やらなんやらで専門家がその感覚の可能性を認めたとしたらどうでしょうか。その時、科学的な外的基準が正当化してくれたことになるでしょう。勿論100パーではないとは思いますが信じる理由にはなるでしょう。
つまりその人は嘘をついていたことにもなりませんし、ただの思い込みでもなかったと言えるでしょう。彼がそう主張した時点から検査を受ける時点までは私的言語の不可能性は保たれるでしょうが、脳科学者の判定が出た時点で彼の言明はある程度正当化されることになります。勿論、そこには外的基準があるからそのように認められたのですが、人間に内部感覚に対する同定能力があることを認めることになるでしょう。
私見ですが、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの方はかなりの破壊力を有しているように思います。これは哲学史に残る発見です。しかし、後半の私的言語の方は若干無理があるように思えます。
言語と言う一番最後に現れた機能に全権を委ねた発想ではないかと若干比喩的表現ではありますが、そう考えております。

ソンタークさん、コメントありがとうございます。
鋭い指摘を受けて、たいへん嬉しいです。

今「探究をまとめました」の6節まで書いていますが、ここまでは私的クオリアが言語化できたり実在したりするものとして、わざと、言語化できず実在しない本来的なクオリアとの区別をつけず語ってきました。しかし、次の7節ではそこの区別をしっかりつけることで、私的クオリアと私的言語が実在しないということの考察に挑戦したいと考えています。

ソンタークさんの指摘はその意味でタイムリーでたいへん興味深いです。折角ですので次の第7節で、ソンタークさんのご指摘への反論を考えたいと思います。よろしければ、またコメントください。

(以前話したことの繰り返しになりますが)視野について考えてみてください。
"僕"の視野―精確に言えば、[工藤庄平なる身体から開けた視野]―は指示・伝達・並列不可能です。
"僕"―精確に言えば、[工藤庄平なる身体から開けた生]―は[工藤庄平なる身体から開けた視野]が捉える指示・並列可能な諸対象―石や猫や永井均氏etc―と指示・伝達・並列不可能な[工藤庄平なる身体から開けた視野]を区別出来ます。
とはいえ、我々が伝達し合えるのは、[工藤庄平なる身体から開けた生]とか[工藤庄平なる身体から開けた視野]といった【文字や発語】に過ぎません。別の言い方をすれば、[工藤庄平なる身体から開けた生]は言語ゲームに顕現し得ない、ということです。
我々が伝達し合えるのは、[工藤庄平なる身体から開けた生]は言語ゲームに顕現し得ない、という【文字や発語】に過ぎないのですから。

言い方を変えてみましょう。
[固有名を与えられた身体から開けた視野]が捉える指示・並列可能な諸対象―石や猫や工藤庄平氏etc―と指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた視野]の差異を"君"―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―は理解しているのではないか?
もしそうであるならば、ここには言語ゲームに現れない[世界の構造に関する事実]が存在している筈です。我々が伝達し合えるのは、[固有名を与えられた身体から開けた視野]とか[固有名を与えられた身体から開けた生]【といった文字や発語】に過ぎないのですから。


語ることも示すことも出来ない[生]を自得すること。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/57953752

この記事へのトラックバック一覧です: 私的言語批判への反論を検討する<「哲学探究」をまとめました上4>:

« 私的言語とは何か<「哲学探究」をまとめました上3> | トップページ | 公共言語私的言語五十歩百歩論<「哲学探究」をまとめました上5> »