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2013年8月12日 (月)

公共言語私的言語五十歩百歩論<「哲学探究」をまとめました上5>

エイヤーの反論

Ayer
前節に引き続き私的言語批判への反論を見ていきたい。本節では、エイヤー(1910~1989)の、私的言語も公共言語もしょせん私の感覚によるものなのだから程度問題でしかないのだという訴えについて考える。

列車の発車時刻の記憶を確かめるのに時刻表の記憶を思い浮かべるだけでなく実際の時刻表と見比べて確かめねばならないと、ウィトゲンシュタインは言う。しかし、もし自分の感覚が信用できないのであれば、時刻表と見比べたとしても依然として記憶を確証することはできない。他人に問い合わせることもできるだろうが、その場合も他人の返事を正しく同定させられなければならない。私が強調したいのは、この確認作業には終わりがないからこそ、どこかの段階で終止符を打たなければ系列全体が無意味になってしまうということである。そして、このことは、あらゆる同定が結局は感覚に依存していることを示している。私が同定すべきものは何であれ、つまり、対象、出来事、イメージ、記号のいずれであれ、私が頼れるのは自分の記憶と現在の感覚だけである。記憶と感覚が相互に確認される程度に違いがあるだけなのである。(A.J.エイヤー「ウィトゲンシュタイン」邦訳p.126)

エイヤーの上の私的言語批判に対する反論には、2種類の主張があると僕は読んでいる。1つめは、公共言語と私的言語の可能性は程度の問題でしかなく、公共言語が可能なのであれば、私的言語も可能であるはずだという主張である。2つめは「根源的な規則性の崩壊」のレベルの問題で、引用文には表面的に現れてはいない問題である。深読みしすぎて、エイヤーの主張からはみ出しているとお叱りを受けるかもしれないが、こちらの方こそエイヤーの指摘の本質だと僕は考えており、ぜひとも本ブログで取り組んでみたい。

 

1つめの問題 公共言語私的言語五十歩百歩説

1つめの問題から考えよう。
まず、エイヤーが批判しているウィトゲンシュタインの文章を引用する。

われわれの想像の中にだけあるような表、たとえば辞書のようなもの、を考えてみよう。辞書を使って、人は或る語Xを別の語Yによって翻訳することを正当化できる。しかし、その表が想像の中でだけ参照される場合でも正当化と呼ぶべきなのか。――「そう、それはまさに主観的な正当化なのだ」――でも、正当化というのは、何か独立した所へ訴えることによって成り立つのである。――「しかし、私は或る記憶については別の記憶に訴えることもできる。たとえば、列車の発車時刻を正しく覚えたかどうか分からないので、それを調べるために列車時刻表のページのイメージを思い起こす。この場合も同じことではないのか」――違う。というのは、そのような出来事が実際に正しい記憶を呼び起こすのでなくてはならないからである。もし想像の時刻表のイメージがそれ自体の正しさを証明できないとしたら、どうして最初の記憶の正しさを確認することができるのか。(今日の朝刊が真実を報道していることを確かめようとしてそれを何部も買い込んでくるようなものである)実験の結果を想像することが実験の結果でないのと同様、想像の中で表を参照するということは、表を参照することではない。(「探究」第265節)

ウィトゲンシュタインは、列車の発車時刻の記憶を確かめるのに時刻表の記憶を思い浮かべるだけではダメだとする。時刻表の記憶を思い出すだけでは記憶に関する確証の度合いを高めることはできないのだから、確かめたことにはならないと言うのだ。
これに対して、記憶を手繰り寄せるだけでも十分確かめの意義はあるんじゃないかとエイヤーは考える。ウィトが価値ありとする実物の時刻表で確かめたとしても、それはしょせん、視覚という感覚によって記憶という感覚を確かめているだけじゃないか。確かに、確かさは増すだろうが、確かさの程度が上がるというだけの、「程度」の問題であって、質的な違いがあるわけではないという主張である。
これは例えば、或る私的クオリアが「痛み」であることを確かめるために、身体的な振舞いを見ようとする場合でも同様だ。私的クオリア自体も、身体的な振舞いも、自分が感じている「感覚」でしかない。「感覚」によって「感覚」を確かめているだけのことだから、確かさは高まるかもしれないが、それは程度の問題でしかない。身体的な振舞いによってそれが有意味な「痛み」であると確かめられるとするのであれば、内的な体験によってだけでも有意味な「痛み」であると確かめられるはずだ。そうだとしたら、身体的な振舞いによらないで私的なクオリアだけによって確かめた「痛み」であっても、多少なりとも意味があるはずである。私的言語ははっきりと意味を持つと言えるのだとエイヤーは主張する。

 

語は働かないと意味がない

説得力があるように見えるだろうか。しかし、この主張は「私的言語」という語の捉え方に誤解があり、あきらかに間違っている。前節で考えたように「痛み」のような公共言語を私的言語だと捉えると混乱を生む要因になる。ここでも同様の混乱があるのだ。
「痛み」という語の働きが、過去の身体的振舞いによって社会の中ですでに意義づけされているのであれば、私的クオリアを「痛み」だと判断することには意味がある。しかし、「痛み」という語が何も意義づけられていなかったら、言語ゲームの中で何の働きも持ち得ないので、何かのクオリアに対してそれが「痛み」だと判断することに意味はあると言えない。
たとえば、今までに一度も「痛み」という語を教えられてない子どもが「痛み」に匹敵するような語「あたみ」を自分で発明したとしよう。このとき、或る私的クオリアが「あたみ」であるか否かを判断する基準はどこにもないはずだ。だから、「あたみごっこ」は言語ゲームではなく、言語モドキを使った儀式でしかないものになってしまう。語の基準がないのなら、クオリアと語を関連付けても意味は何も生じないのだ。

 

基準の無限後退

この私的言語否定論に対して、エイヤーの反論は、それなら振舞いだって基準になり得ないのではないかというものだ。顔をしかめるような表出を「痛み」の基準だとするのなら、「顔をしかめている」ことがなぜ分かるのか、それは最終的には内的な視覚クオリアによってでしかないのではないか。視覚クオリアによるものでしかないのなら、「痛み」のクオリアを直接同定することができなかったように、顔をしかめているのを見た視覚クオリアも直接同定することはできないのじゃないか。
だから、それを確かめるための新たな基準が必要になり、さらにその新たな基準を確かめるための新たな基準が必要になって、無限後退に陥ってしまう、という指摘である。「この確認作業には終わりがないからこそ、どこかの段階で終止符を打たなければ系列全体が無意味になってしまう」のだから、逆に、エイヤーは、最初の私的なクオリアから直接「痛み」を判断することも可能だとすべきだと言うのだ。

 

公共言語私的言語五十歩百歩説のダメなわけ

しかし、エイヤーは間違っている。エイヤーの間違いは、言語の意味を言語ゲームの中での使用だとせず、解釈によって確定させ得るものだとした点であり、表出による基準をすでに持つ「痛み」と、何の基準も無い「あたみ」を混同している点でもある。
エイヤーのように語の意味を解釈しようとすると、泥沼にはまってしまう。本来は、その人が顔をしかめたこと基準にしてそこに「痛み」があるとするような言語ゲームが(或いはまた別の言語ゲームが)、まず成立しているとするべきなのだ。このとき、顔をしかめているか否かを解釈する必要は無い。ある人Aが顔をしかめたときにそれに対してBが「痛いね」と言って慰める。または、ある人Aが顔をしかめて「痛い」と言って自分で身体の全体或いは一部を撫でる。というような言語ゲームをまず始める。何をもって「顔をしかめた」とするかという解釈は後付けの問題だとするのだ。解釈をしなくても、とにかく何かの身体的行動と何かの言語があれば、そこにゲームのフィールドができる。そのようなフィールドが生じている状況下で、再び「痛い」という語が何かの働きを持つのであれば、そこに「痛い」という語ははっきりとした意味を持ったと言えるのだ。しかし、何ら外的表出がなく、私的クオリアがあるだけでそれを「あたみ」と呼ぶとするなら、それはゲームになり得るだろうか。儀式にはなるかもしれない。もしかするとフィールドの無いゲームだとも言えるのかもしれない。しかし、それだけのことである。何か意味のあるゲームではないのだ。私的クオリアを私的言語に当てはめただけで意味が生まれると考えるのは間違いなのである。チェスをするのに、駒の意味の解釈を確定させてから始めようとすると、いつまでたっても確定させることができず、ゲームを始めることができない。だから、確定されられないままでチェスゲームを始めてしまうのだ。そして始めてしまったゲームの中での駒の動きが逆に駒の意味を決めるのである。駒の意味はゲームの中で後づけの形で決められるのだ。語の意味は言語ゲームに先立って決められるものではない。意味も分からないままでゲームを始めてしまうと、後から語の意味が付いてくるのである。

 

「痛み」にはあって、「あたみ」にはないもの

それでも、エイヤーはまだ程度問題なのだというかもしれない。私的クオリアを「痛み」と呼ぶだけの言語ゲームでも、ゲームにはなっているはずであり、微小なりとも意味はあるのだと。
たしかに、何一つ身体的表出をしないでも、何らかの私的クオリアを「痛み」と名づけるのなら、そのゲームは言語ゲームとして意味があると言える。なぜなら、「痛み」という語は、すでに過去の身体的表出によってそのゲームフィールドを持っていて、或るクオリアを「痛み」と呼ぶだけで、顔をしかめるべき代償であるとか、慰めてもらうべき対象であるなどというような分類分別の作業をしたことになって、はっきりとした意味があるゲームになるからだ。
このように「痛み」のゲームが成立するのに対して、「あたみ」のゲームは成立しない。某かの私的クオリアを「あたみ」と呼んで分類しようとしても「あたみ」には過去の身体的表出によるゲームフィールドが無いのだから、ただただ無意味にむやみに「あたみ」と言っているだけのことでしかない。エイヤーはおそらく「痛み」のような公共言語をイメージながら、それを私的言語だとして想定して考えてしまい、私的言語にも意味はあるのだと誤解してしまったのではないだろうか。例えば、「痛み」という語を親からも社会からも一切学ばなかった子がいたとして、その子が或る私的クオリアに対して「痛み」という語を用いたとしても、そこに微小なりとも意味はあるはずだなどとは、考えないはずである。そのゲームは何の働きもなく、言わば儀式でしかないのだから。何か言語らしきものを発声したからといってそこに必ずゲームが発生し意味が発生するとは限らないのである。

だから、これは五十歩百歩の程度問題なのではない。意味が有るか無いかの、言わば0歩1歩の質的な問題なのである。

2つめの「根源的な規則性の崩壊」に関わる問題については次節で考える。

つづく

「哲学探究」をまとめました

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