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2013年8月22日 (木)

語の意味が人間の偏見によって決まること<「哲学探求」をまとめました上6>

2つめの問題 振舞いの規則性の崩壊説

2つめの、「根源的な規則性の崩壊」に関わる問題について考えてみよう。
エイヤーの指摘をさらに突き詰めると、「根源的な規則性の崩壊」が私的クオリアの側だけの問題なのではなく、振舞いの側の問題にもなるのではないかという疑問に突き当たる。
「私的言語」なるものはでっち上げられた規則モドキでしかないのだと主張して、規則のパラドクスは「私的言語の側」で語の意味を問うても無意味であることを導いた。それなら、「振舞いの側」から語の意味を紡ぎだそうとするときでも、結局、そのつど、規則モドキをでっち上げるだけなのだから、問題を「振舞いの側」に転じても同じじゃないのかという疑問が生じると考えるのだ。

 

クオリアについての根源的な規則性の崩壊(前々節のおさらい)

順に考えてみる。
まず、私的クオリアが規則モドキのでっち上げだと主張する「クオリアについての根源的な規則性の崩壊」の問題について、振り返ってみよう。

私的クオリアA、B、Cに対して当てはめた「E」という語を、別の新たな私的クオリアDに対しても当てはめることができるかを考えてみる。これは、AとBとCの同一性基準がDに当てはめられるかという問題になる。しかし、A、B、Cの同一性基準をDに当てはめられるか考えようとしても、AもBもCもDもそれぞれ私的クオリアであるために基準と比較しあうことができず、同じだとすることも、違うとすることも、どうにでもなってしまうのだった。だから、何か一つのクオリアがあるたびに「それはEである」とするか、或いは「Eでない」とするか、勝手に決めてしまうしかないのだ。規則のパラドクスは、規則がどのようにでも解釈可能であるということを示した。この視点で考えると、私的クオリアに対応させて或る語の意味を考えるときにも、語の同一性に関する規則性は崩れてしまう。これが「クオリアについての根源的な規則性の崩壊」であった。
この規則性の崩壊の問題を解消させるために、ウィトゲンシュタイン「探究」は、語の意味が振舞いによって決められなければならないとする。或る語がクオリアを指示することとし、クオリアの同一性によって語の同一性を担保しようとしても、それは原理的に不可能なのだ。だから、語の同一性を担保するために、同一性の確認が可能となるような身体的振舞いをその基準にする必要が出てくるのだ。
ここまでは前々節で考えた。

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振舞いについての根源的な規則性の崩壊

ここからさらに、エイヤーの指摘を、振舞いにその基準を求めようとしても規則性崩壊問題の解決にはならないとする指摘だとして考えてみたい。振舞いでさえ規則性崩壊の対象になるからダメなのではないか、という問題である。そして、結論から言うと、これがかなり正しい指摘なのである。
外的振舞いAと外的振舞いBと外的振舞いCに対して当てはめた「E」という語を、外的振舞いDに対しても当てはめられるかを考えてみる。これは、AとBとCの同一性基準がDに当てはめられるかという問題になる。クオリア同士を比較したときにはAとBとCとDの同一性基準は基準の役割を果たさなかったが、振舞いではどうか。振舞いを比べるのであっても同一性基準の確かな基準とはならないのではないか。規則のパラドクスは、どんな規則もあらゆる解釈を許すことを示す。それなら、振舞いDが振舞いA、B、Cと同一だと解釈することも、同一ではないと解釈することも、原理的にはできるはずである。外的な振舞いを基準にするときでさえ、AとBとCと、Dを同じだとすることも、違うとすることも、どうにでもできてしまうのだ。或る外的振舞いを「Eだ」と言うことも「Eではない」と言うことも自由にできるのだ。だから、何か一つの外的振舞いがあるたびに「それはEである」とするか、或いは「Eでない」とするかして、そのつど勝手に決めるしかないのだ。「私的クオリア」に対応させて或る語の意味を考えると、語の同一性に関する規則性は崩れてしまうのと同様に、「外的振舞い」に対応させて語の意味を考えようとしても、語の同一性に関する規則性は崩れてしまうのだ。これが「振舞いについての根源的な規則性の崩壊」である
私的クオリアを語の同一性の基準にしようとするたびに、語り手は、同一性基準を作り続けるしかなかった。同様に、振舞い語の同一性の基準にしようとするたびにも、同様に同一性基準を作り続けるしかないというのが、エイヤーの指摘の真意だと考えられる。

 

社会は同一性基準を構成者たり得るか

では、振舞いではなく、「社会」によって同一性基準を構成すると考えることで、この問題を解決することはできないだろうか。ここで「社会による同一性基準の構成」とは、たとえば「E」なるものについて「E」という判断を社会が教え込み、「E」という語の使い方を訓練によって発言者に身に付けさせるということである。

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図は「赤い」という語がどのように意味を持つかの過程を考えている。物体Aなる実体の色調について、他者から「赤い」という判断を受け、社会的に「赤い」と名付ける。同様に実体B、Cについても、他者からの判断で社会的に「赤い」という名付けの過程を踏む。このようにして、十分な数の対象にもとづいて「赤い」という語の基準を作る。これらの基準をもとにして、新たな対象実体Dについてそれが「赤い」か否かの正当な判断ができるかを考える。赤い物そのものを基準にするのではなく、社会がどう反応するかを基準にするのだ。他者に聞けば、それが「赤い」か否かを答えてくれるだろうし、社会はそれを「赤い」か否かを決定してくれるだろう。だから、社会を「赤さ」の同一性の基準の拠り所とすることができると思われる。しかし、社会はそれが「赤い」か否かを事前に決定し得るのだろうか。実体に対して社会が判断する場合でも、規則のパラドクスを考えると、赤さの基準についての根源的な規則性は崩壊するのは同じで、基準はなくなってしまうはずだ。だから、基準を社会に求める場合でも、その新しい対象が「赤い」か否かをそのつど新たに決定する必要が出てくる。「赤い」という語の規則性は、外的で社会的な取り決めを基準にしてもあらかじめ決定しておくことはできず、新しい対象が出てくる度にそのつど定義しなければならなくなってしまうのだ。

他者による判断基準だけをいくら積み重ねても、新たな対象が出てきたときにそれについて判別することはできないはずなのだ。確かに、実際に、社会は或る対象が「赤」であるか否か、「痛み」であるか否かを判断してくれるだろうから、社会を同一性基準の構成者として捉えることは可能かもしれない。しかし、それは社会を、何故だけわからないけれど語の基準を構成してくれるブラックボックスとして捉えているに過ぎない。そもそも、根源的な規則性の崩壊を考える場合、帰納は法則性を作り出すシステムにはなり得ない。つまり、社会はそれ自体それのみでは同一性基準の構成者にはならないはずなのだ。他者や社会が同一性基準の構成者であるためには、それが社会であるということ以外に何か秘密のからくりがあるのではないだろうか。

 

人間性による規則性の正当化

それなら、僕らは日常生活でどうやって、赤いものを「赤い」と判別し、痛いときに「痛い」と判別しているのだろうか。
この問題についてウィトゲンシュタインは次のように言う。

「私がこの体験をした――たとえばこの式を見た――あとでは、その数列の先を続けていけるだろうという確信は、端的に帰納に基づいている。」どういうことか。――「その火は私を焼くだろうという確信は帰納に基づいている。」これは「私がいつも炎で火傷してきたから、今回も起こるだろう」と自分で結論することなのか。或いは、以前の経験は私の確信の原因なのであって、その根拠ではないのか。以前の経験は確信の原因か。――これは我々が確信という現象を考察している仮説の体系、自然法則の体験の問題である。自信は正当化されるか。――人々が何を正当化と見なすかは――彼らが如何に考え、生きているかを示している。(「探究」第325節)

帰納の根拠は、その帰納自身にはないのだから、たとえば全能の神が完全に公平公正な立場で「帰納」というものを考えるなら、如何なる結論を立てたとしても正当とは言えない。なぜなら、根源的な規則性の崩壊は帰納からどんな解釈をすることも許してしまうため、逆にどんな解釈も正当ではなくなってしまうからだ。全能の神にさえ出来ない正当な解釈を、無力な人間に出来るわけがないと、普通は、思える。しかし、この、帰納の問題では偏った見方をする人間だからこそ、正当な結論を得られると考えることができるのだ。
人間が生来的に持っている偏見によって、或る帰納的基準の経験A、B、Cから新たな経験Dについて確信をもって判断し結論付けることができるようになる。神ならば完全に公正だからどんな解釈をも等しく公平に扱ってしまうけれども、僕ら人間は偏見があるからこそ、自分が見ているようにしか見えないし自分が解釈するようにしか解釈できないような或る見方、解釈の仕方がある。人間だからこそ逆に、人間の自然法則的体系の偏見によって、正当に偏った解釈というものが存在してしまえるのだ。

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図は、「赤い」という語について、人間の偏見がどのように効いてくるかの具体例を示したものである。
1.まず、実体A、B、Cの色調について教えてくれる他者が「赤い」とする判断を受ける。
2.それを受けてこの主体はA、B、Cの私的感覚をそれぞれ「赤い」とカテゴライズし、これを「赤い」についての判断基準にする。
3.新しく色を判断すべき対象、実体Dについてその私的感覚Dを、A、B、C等からの「赤い」についての基準と比較し、Dが何色かを判断する。このとき、完全に公正な神の視点ならば、根源的な規則性の崩壊によって、Dを何色だと判断することもできるはずなのだが、ここで判断するのは人間であるゆえ、その生来的偏見によってDが「赤い」と判断される。
4.「赤い」と判断された私的感覚によって、実体Dを「赤い」と判断する。

このアイデアは、つまり、「赤い」という語の意味がそのつど正当な解釈をもって使えるようになるためには、社会的な訓練によって多くの「赤い」の基準を得るという社会性が必要であるとともに、人間の生来的な偏見によってその基準から一つの解釈を得るという人間性が必要なのだというものである。
例えば、足し算というものの解釈がプラスであってもクワスであっても、その他のいかなる解釈であっても、許されてしまうがゆえに逆に正当性を失うはずであった。しかし、人間の生来的な偏見によって、プラスこそが足し算の正当な解釈だと決定できるのである。

例えば、「痛い」という語がそのつど正当な解釈をもって使えるようになるには、社会的な訓練によってどんな振舞いが「痛み」の振舞いであるかについての多くの基準を得ることが必要である。しかし、それだけであれば、あらゆる振舞いを「痛み」の振舞いであるとすることも、違うとすることもできてしまう。そこで、人間の生来的な偏見によって、それまでの基準となる振舞いと新たに判別すべき振舞いが同一であるか否かを、正当に決定できるようになるのである。
つまり、「痛みの意味を決めるのは振舞いだ」と言って片づけてしまうのは、あまりに安直で誤解を生む表現であったのだ。正しくは、振舞いにもとづいて社会的訓練から得られる基準と、それを生来的な偏見によって一つの解釈をしてしまう人間性によって、「痛み」の意味は正当に決定されるのだとしなければならなかったのだ。

 

偏見が異なると語の解釈は一致しない

しかしそれなら、この生来的な偏見というものが、私と他者で違っていたら、語の意味は違うものになってしまうではないか。その通りなのである。プラス人は足し算をプラスだと解釈してしまうのに対して、クワス人はクワスだと解釈してしまう。そして、このプラス人とクワス人が足し算について話し合ったとしても、どちらが正当であるかは決めることができない。この二人は足し算について意味を共有することができないのだ。生まれつきの偏見が共有できていない他者がいた場合に、その他者と話をしようと思っても、その食い違いに関わる内容については語の意味を共有することができないから、話が通じないのだ。この場合どちらが正当であるかを問うことは意味がない。単に話が通じず、言語ゲームが成り立たないだけのことだ。語の意味は、その生まれつきの偏見がたまたま一致していた相手とだけ共有することができる。語の意味は、そのたまたま持っていた偏見にもとづいてあとづけで作られる。たまたまその偏見が一致していた人とだけ語の解釈が一致し、言語ゲームが成立し得るのである。

 

「私には赤くに見える」は有意味な発言だ

だから、エイヤーや永井の指摘の通り、「痛み」はある程度の社会的な訓練による基準が出来上がれば、振舞いがなくても、個人的感覚だけでそれが「痛み」であるということが言えるようになる。

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それゆえ、例えば、上の錯視の図で①と②の矢印の先の「赤色」を比べると、僕には②の方が「濃い赤」に見える。でも実際にはどちらも同じ濃さの赤色[R255.G0.B0]である。この②の「赤色」が、外的には①の赤色と同じ色であるはずなのに、内的感覚において「濃い赤」と判断してしまうのである。これは、外的な認知だけが語の意味を決めるとする立場からするとあり得ない内容である。「本当は①と同じ色なのだが、②の方が濃い赤に見える」という発言は明らかに有意味なはずである。「赤」に対する認識は社会的な訓練による基準が或る程度出来上がれば、公的な確かめに頼らなくても、個人的感覚と人間性の偏見によって、それが「赤」であるということが言えるようになるのだ。

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語の意味は、社会的な訓練によって得られた判断基準によってのみでなく、それをもとにして人間の生来的偏見によって正当に決定できるのだ。だから、社会的な判断とは異なる個人的な判断が可能になるのである。

 

それならば

・「たとえば私は、外部からそれとわかる脈絡や表出(転んで顔をしかめるとか)といっさい無関係に、自分に向かって断言できる「私がいま感じているのは、私がずっと『痛み』と呼んできたものである」と。「痛み」というだれもが知っている語が使われていてもこれは私的言語である。なぜなら、他の誰がどう言おうとこれは私が「痛み」と呼んできたものだと言っているのだから」(永井均「私・今・そして神」p.197)
・「私的言語がなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は完成するのです」(永井均「なぜ意識は実在しないのか」p.36)

それなら、永井の上の言について「公共言語が私的言語に反転して語は完成する」という主張も正しいのではないかと考えられる。
確かにここで僕が主張していることと永井の主張はかなり重なっている。しかし、公共言語が私的言語に反転するというのは全くの勘違いであると僕は考えている。それについて、次節でもう一度整理して考えたい。

つづく

「哲学探究」をまとめました

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コメント

ご返答ありがとうございます。
エイヤーは名前だけ知っていたのですが、その主張はここで初めて知りました。
まだ自分の理解が浅く生煮えの状態ですが、感想のようなものを書きたいと思います。
横山さんの議論を見ると自分は随分科学に『毒されている』んだなと感じました。それは多分個性でもあり、センスの違いでもあるんでしょうが哲学をすると言う観点から見れば横山さんの方が純粋な立場に立っていると思います。『哲学探究』やクワス算などの結論に基づいた、なんというかゼロから始める議論、それは非実在的とでも表現したらいいのかもしれませんが、やはり哲学空間ならではの論理展開をされているように思います。自分はどうも科学というか実在、物理主義に逃げる傾向がありまして、そこまで徹底することが出来ません。(でも最終的には科学が勝利すると思っているですが)その点興味深く読ませてもらってます。

 
さてエイヤーの議論ですが、公共言語を私的言語の地位まで落としてしまうと言うのは
方法論としてはなかなか面白い展開だと思います。しかし、具体的には少し厳しいかなという印象は受けました。少し飛躍があるんですね。けれど確信犯としては結構面白くて、そのまま突き詰めてゆくと、言語使用、意味の不確定性の議論に結び付けられるような雰囲気は感じました。自分なら前言語的な思考といいますか意識の表象下の機能にその辺の不確定性の解消を押し付けて考えてしまいそうですが、哲学的にも結構考えられるなと感じました。クワインの仕事にも近いかもしれないです。

文面でお分かりかと思いますがまだ理解が十全ではないのでこの程度のことしか考えられません。
横山さんは小学校の教師という職業柄か非常に平易に哲学的な問題を扱われているように感じました。なんというか手間を惜しまないと感じですかね。これはなかなか出来そうで出来ないことだと思います。このページにきたのはグルーのパラドックスを調べたからでして他の2,3のサイトも含めてやっと理解することが出来ました。これからもこのスタイルで哲学をしてくれたらと思います。

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