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2013年8月 3日 (土)

私的言語とは何か<「哲学探究」をまとめました上3>

規則のパラドクスの言う通りあらゆる規則がどんな解釈をも許してしまうのなら、語は固定的な意味を持ち得ないはずである。人々は、振舞いと言語ゲームを通じて語のやり取りをすることができるだけであり、そのやりとりの機能だけが本質的な語の意味であることになる。
それなら、振舞いや言語ゲームから切り離された「私的な」言語は意味を持つことは不可能だということになる。本節では、この私的言語とはどのようなものなのか、はたしてそれは、本当にあらゆる意味で意味を持たないのかを追求し、語の意味についての考察を深めたい。

 

私的言語とは

誰かが自分だけの内的体験――自分の感じ、気分などを――自分だけの用途のために書き付けたり口に出したりできるような言語を考えることができるだろうか。――さて、我々は自分たちのふつうの言語でできないのか?〔もちろんできる。〕――だが、私の考えていることはそういうことではない。そのような言語に含まれる言葉はそれを話している者だけが知り得ること、つまり直接的で私的なその者の感覚を指し示すはずなのである。それゆえ他人はこの言語を理解することができない。(「探究」第243節)
私の内的体験を記述し、私だけが理解できるような言語についてはどうだろうか。どのようにして私は自分の諸感覚を言葉によって表記しているのか。日常行っているようにか。だとすると…私の言語は<私的>でない。…しかし、もし私に感覚の自然な表出がなく、感覚だけがあったとしたらどうか。私は単純に名と感覚を結びつけ、それらの名を記述に用いるのである。(「探究」第256節)

私的言語とは自分だけの内的体験を言語化したもので、原理的に他者には理解できないような言葉である。
だから、地球最後の男の独り言は私的言語ではない。もしたまたま生き残っていたもう一人の女がその男の独り言を聞いた場合に、その内容を理解できる可能性があるからだ。
また、その言語が他の言語に翻訳され得るのなら、それは私的言語ではない。
たとえば、火星で一人きりで生まれた赤ちゃんが一人きりで育ったとして、この子が天才であったとして、一人きりで独自の言語を発明し、自分ひとりの言語によってその世界を自らに理解させることができたとする。この場合でも、この一人きりの言語は、それを観察する者がいた場合には翻訳可能である。その子が痛そうにするたびにいう言葉が「痛い」であると翻訳できるからだ。

 

痛みを表出しない子は「痛い」という語を持ち得ない

しかし、その子がまったく痛がらず痛みを表出しない場合はどうか。

「人間が自分たちの痛みを表出しない(呻かず、顔をゆがめない、など)としたら、どうであろうか。そのとき人は子どもに<歯痛>といった言葉の使用を教えることはできないだろう」――では、その子どもが天才で、自分で感覚の名を考えだす、と仮定しよう。―その時にはもちろんそうした言葉で自分自身を理解させることなどできないだろう。――だから、彼はその名を理解しているがその意味をだれにも説明できないというわけか。――しかしそれなら、彼が<自分の痛みに名前を付けた>ということはどういうことなのか。――どのようにして彼は、痛みに名前をつけるなどということを行ったのか?!そして、彼が何をしたにせよ、それはどのような目的を持っているのか。――「彼は感覚に名を与えたのだ」と言う人があれば、その人は、単なる命名が意義を持つためには言語の中ですでにたくさんのことが準備されていなくてはならない、ということを忘れている。誰かが痛みに名を与えるということについて、我々が語るときにはその場合の「痛み」と言う語の文法こそ準備されていたものなのであって、それはこの新しい語の配置される場所を示している。(「探究」第257節)

痛みを表出しない子は「痛い」という言葉を持ち得ない。「痛い」という語は、痛みの表出に対して他者から「痛かったねえ」などと言われて名づけられる体験を通して、その意味を獲得し得るものだからである。もし、火星の天才児が自分の或る感覚に対して名前をつけたとしても、この子が表出を伴わない感覚に名づけるということがどういうことなのか、他者だけでなく、自分でもその意味をはっきりさせることはできないことになる。「痛い」という語が表出を伴わないのなら、内的な何らかの感覚のみをもってそれが「痛い」であるのかどうかを同定しなければならないのだが、内的な感覚のみをその基準としようとしても確定しようがない。どれほど同じような感覚が繰り返しているとしても、異なる2つの感覚の、どれとどれが同じ「痛み」であるかを決めるためには、それを決めるための基準が必要になる。完全に同一の感覚がもしあったとすれば、それは異なる2つの感覚ではなく同じ「1つ」の感覚になってしまうからである。そして、その基準が内的な感覚のみに依拠しているのなら、或る感覚が「痛み」なのか否かを判断するということは、それが「痛み」であるという新しい基準をその場で設けていることになる。結局は、「痛い」という語を私的に用いるということは、その語を用いるたびにその感覚が「痛み」であると定義づけしているということに他ならないのだ。だから、内的な感覚だけでは語の同一性の基準にはならないのだ。

「他人は私の痛みを感じることができない」――そのどれが私の痛みなのか。何がここで同一性の基準と考えられているのか。…私の痛みが彼の痛みと同じだと言うことに意義のある限り、その限りで我々二人は同じ痛みを感じることができる。(たとえばシャムの双子など、2人の人間が同じ場所に痛みを感じることも考えられる。)この問題を論議している時、或る人が胸を叩いて「でも他人はこの痛みを感じることができない!」と言うのを見たことがある。――これに対する答えは「この」という言葉を強調して発音したところで、同一性の基準を定義したことにはならない、ということである。(「探究」第253節)

「でも他人はこの痛みを感じることができない」と言って自分の胸を叩く人は、「この痛み」を私的言語として用いていると言えるだろう。そしてこのとき「この痛み」の「この」を強調するということは、叩かれている感覚そのものだけを同一性の基準にすることを強調していることになる。つまり、この人はその感覚を「痛み」として同定しているのではなく、その感覚を「痛み」として定義している以上のことはしていないのである。つまり、「他人はこの痛みを感じることができない」という発言は、「他人はこの○○を感じることができない」或いは「他人はこの『僕が勝手な名前をつけたこれ』を感じることができない」ということしか言っていないのである。自分でも本当は何を言っているか分かっていないはずなのだ。彼は実は、「痛み」の表出をその同定基準とするような公共言語としての「意味」を知らず知らずに密輸入させることで、私的言語としての「痛み」を(理解可能な公共言語としての「痛み」とすり替えて)同定し得たと誤解しているのである。

 

感覚日記「E」

このことは感覚日記「E」を検討することではっきりする。

次のような場合を想像してみよ。私は或る種の感覚がくり返し起こることについて、日記をつけたいと思う。そのため、私はその感覚を「E」なる記号に結び付け、自分がその感覚を持った日には必ずこの記号をカレンダーに書きこむ。――第一に言いたいのはこの記号の定義を述べることができないということだ。――にもかかわらず、私は自分自身に対してそれを一種の直示的定義として与えることができる!――どのようにして私はその感覚を指し示すことができるのか?――普通の意味ではできない。だが私はその記号を口に出したり書いたりして、自分の注意をその感覚に集中させて――それゆえ、言わば心の中でそれを指し示す。――でも、何のためにそのような儀式をするのか。というのは、そのようなことは儀式であるとしか思えないからだ!しかし、定義は記号の意味を確定させるのに役立つ。――ところが、そのことは正に注意力の集中によって行われる。なぜなら、そうすることによって私は記号と感覚との結合を自分に刻みつけているから。――もっとも『自分に刻みつける』というのは、このような出来事を経過すれば、私が正しくその結合を思い出すようになるということでしかない。しかし、この場合、私には正しさの基準が無いのだ。人は私にとっていつも正しいと思われることが正しいのだと言うかもしれない。このことはここでは<正しい>ということについて語ることができないということでしかないのだ。(「探究」第258節)
「ところで私はこれもくり返し起こった感覚Eだと信ずる」――あなたは多分そう信じると信じているのだ。そうすると、この記号をカレンダーに記入した人は全然何も書きとめなかったことになるのか。――誰かが記号を――たとえばカレンダーに――記入すれば何かを書きとめたことになるのが当然などと考えるな。書きとめることには確かに何らかの機能はあるけれども、記号「E」には今のところまだ何の機能もないのである。(「探究」第260節)

私的言語「E」を書き記したとしても、それが内的感覚のみを同定基準としたものだったなら、まったく意味あることは書き記されていないのだ。私的言語は他者に伝えられないだけではなく、自分自身でもそれが何を意味するものなのかをはっきりさせることができない、言語モドキでしかないものなのだ。

(今日の朝刊が真実を報道していることを確かめようとしてそれを何部も買い込んでくるようなものである)(「探究」第265節)
「私は自分の身長がどれくらいか知っている」と言いながら手を頭に乗せているのを想像せよ(「探究」第279節)

何かを同定しようとするとき、同定するための基準はその外に求めなければならない。同定する基準がそのもの自体であれば、基準もヘッタクレもない「同定ごっこ」「同定儀式」をしているに過ぎない。或る記事の真実性をその同じ朝刊に求めても仕方ないし、自分の身長を知るのに自分の身長を基準にしても仕方ないのだ。だから、当然、語の基準も何か外的な基準がないと、同定ごっこ同定儀式をしているだけで、何ら意味のある語には成し得ないのである。

 

私的かぶと虫 

一人に一つずつ箱を持っていて、その中に私たちが「かぶと虫」と呼んでいるような何かが入っていると仮定する。誰も他人の箱を覗き込むことができず、自分のかぶと虫を見ることによってのみ、かぶと虫とは何であるかを知ることができる。このとき、どの人もそれぞれの箱の中に違ったものを持っていることが当然あり得る。…箱の中のそのものは言語ゲームの一部ではないし、何か或るものですらない。なぜなら、その箱は空っぽでさえあり得るのだから。いや、箱の中のものを通り抜けて「短絡させる」こともできるのだ。何であろうとそれは消え失せてしまうのだ。(「探究」第293節)

上の「かぶと虫」は、痛みを私的な感覚として捉えたときの「私的痛み」の比喩である。この「かぶと虫」という語は「箱の中のもの」という基準でしか使われることはない。箱の中はどんなものであっても、或いは何もなくても、「箱の中のもの」が「かぶと虫」なのである。これは、他者にとって「箱の中のもの」が「かぶと虫」であるだけでなく、自分自身にとっても、「箱の中のもの」そのものが「かぶと虫」なのである。「痛み」という語も某か「痛み」という私的感覚を名指しているように思ってしまいがちだが、実際には「痛み」という語は「『痛みの振舞いという箱』の中のもの」という基準でしか使われることはなく、箱の中がどんなものであっても、或いは何もなくても、「『傷みの振舞いという箱』の中のもの」それ自体が「痛み」なのである。他者にとって「箱の中にあればそれが痛み」であるだけでなく、自分自身にとっても、「箱の中にあればそれが痛み」なのである。

私的言語が不可能だというのは、その同定基準が外的な表出に求められないのならその語が意味を持ち得ないということである。
だから、他者がその意味を知り得ないような語「E」は自分自身でも意味を知り得ない、というだけではなく、誰もが知っているような語「痛み」についても自分自身の内的感覚だけを同定基準だとするのなら、それは私的言語でしかなく意味を持ち得ないと断言できるのだ。

 

他人の痛みをどう理解するか

人が他人の痛みを、自分の痛みを手本にして想像しなければならないとすればそれは容易なことではない。というのは、私は自分が感じている痛みに基づいて、自分が感じていない痛みを想像しなければならないことになるからだ。私は或る痛みの場所を想像し、それを、手の痛みから腕の痛みというように別の痛みの場所に移動すれば良いというわけにはいかないのである。なぜなら、なすべきことは想像の中で私が彼の体の位置に痛みを感じることではないからである。(それなら可能であろうが)痛みの振舞いが痛みの位置を示すことはありうる。しかし痛みを蒙っている人こそ痛みを表出している当人なのである。(「探究」第302節)

そうすると、他人の痛みはどう理解すべきなのだろう。私は他者の痛みを想像することはできないのか。「人が他人の痛みを、自分の痛みを手本にして想像する」ということは、「想像の中で私が彼の体の位置に痛みを感じる」ことではない。想像の中で私が彼の体の位置に痛みを感じる場合、彼の体の位置で痛みを感じたとしてもそれはやっぱり「私が感じた私の痛み」である。たとえば、結合双生児A、Bの二つの頭部がそれぞれ一つの同じ腰部に痛みを感じたと言う場合でも、A児はB児の痛みを感じることはできない。A児が感じているのはあくまでもA児の痛みであり、B児が感じているのはあくまでもB児の痛みなのである。そして、これ以上は文法の問題となってくる。「A児はB児と同じ場所に痛みを感じることはできる」「A児とB児は一つの痛みを感じることができる」「A児とB児は同一の痛みを感じることができる」というさまざまな表現のどこまでを真とするかはその文法をどう設定するかの問題になってくる。「本当は」同じ痛みを感じているのかどうかが問えるような「神の視点」での「本当」を示す言語などあり得ない。その言葉を使うわれわれがどう表現するかを決定しなければならない。だから、この状況で「A児とB児が同じ痛みを感じている」を真だとするならば、それはそう定義したことにしかならない。本当はどっちなのだと問うことには意味がなくなるような次元の話なのだ。
では、「私が他者の痛みを、自分の痛みを手本にして想像する」とはどういうことを為せばいいのか。ここで言われている「他者の痛み」が、痛みの表出とは関係のない彼の私的な感覚を意味し、「自分の痛み」が、痛みの表出とは関係のない自分の私的な感覚を意味しているのなら、これはまったく不可能であり、ナンセンスである。箱の中のかぶと虫は空っぽでさえあり得て、箱の中は短絡させざるを得ないのだからだ。私的な痛みは比較したり同定したりすることはできない。それは、できないだけでなく、何をしようとしているのかさえ分からない、ナンセンスな行為もどきなのである。
だから同様に、たとえば、「AとBはどちらが強い痛みを感じているのか」という問いは一般に意味がない。「Aの痛み」と「Bの痛み」の基準が私的感覚にしかないのであれば、比べることができるはずはなく、比較という言葉自体がどういうことを指すのか意味不明になってしまう。しかし、「AとBはペインビジョン的にはどちらが強い痛みを感じているのか」という問いには意味がある。ペインビジョンというのは二プロ社が製作した痛さ度の測定器である。測定の仕方はこうである。或る痛みを感じている人に電流を流す。徐々に電流を強めてそれに気づくことができるぎりぎりの電流の強さ「a」を測定する。さらに電流を強めて、初めに感じていた痛みから電流の方に意識が切り替わる瞬間の電流の強さ「b」を測定する。そして、このbに対するaの比率「a/b」がこの人の痛みを表す数値になる。このように、痛みの定義づけをするならば、「AとBはペインビジョン的にはどちらが強い痛みを感じているのか」ははっきりとその外部に同定の基準があり、意味ある問いになる。もともと私的言語を扱っているような文だったとしても、その語の同定が可能になるような基準を定めた場合は、それは私的言語ではなくなり、その真偽が確かめ合える有意味な文になるのである。
「私が他者の痛みを、自分の痛みを手本にして想像する」という文にしたって、新しい語の同定基準を作り、そのための言語ゲームを策定するなら、有意味になるかもしれない。ただし、その時に問われているものは、私的言語でも私的な感覚でもなく、他者と共有可能な「振舞いという箱の中にあればそれが痛みである」という意味での公的な痛みでしかない。
このように考えると、私的言語はどうやったって意味を持ち得そうにない。

しかし、永井均が「私的言語こそが言語に必須なものである」と主張するように私的言語を肯定する哲学者も多い。次節では、それらの論議について考える。

つづく

「哲学探究」をまとめました

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