フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 思考実験に対する状況の解釈と言語の限界についての考察 | トップページ | 2013/7/21大阪哲学道場発表メモ »

2013年7月 2日 (火)

「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ

思考実験の内容

永井均「ウィトゲンシュタインの誤診」p204の思考実験は次のような事例である。
「C、N、Yという三人の人間を考えよ。彼らはたんなる三個の人体ではなく、独立の記憶をもったごくふつうの三人の人間であるとする。さて、いまCの身体の左手に何らかの衝撃が加わり、Cの左手のある部分が損傷を被ったとする。当然、損傷を被ったその箇所に痛みが感じられる。損傷を被り、痛みが感じられるその箇所が、当然また治療を受けるべき箇所である。ところでなぜかC自身は痛くも痒くもない、としよう。Cの左手に強い衝撃が加わり損傷を被った痛みが生じた瞬間、顔をしかめ、口からうめき声を発したのは付近にいたNであった。そのうめき声の延長線上に、Nはまた言語によって「痛い、痛い」と発語もしたとする。「私は痛い」という意味の言葉が発せられたと想定してもよい。さて、ところで、そのNもまた、痛くも痒くも感じてはいない、としよう。彼の役割は(主として口からの)表出者としての役割にすぎない。実際に痛いのは、CでもNでもなく、彼らの付近にいたYという第三の人物である。彼は、Cの左手が損傷を被った瞬間、そこに痛みを感じた人物であり、だからおそらくは思わず、しかしなぜかNの口からうめき声を発し、かつ「私は痛い」と発語した人物でもある。」
これによって、永井は「この思考実験は、痛みを感じている人物が「ゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人である」という主張の反例となりうる」と、主張する。Yが痛みを感じている本人なのに、それは傷を被った人でも、痛みを表出している人でもないのだから、この永井の主張は一見正しいように見える。しかしここには誤解がある。この思考実験は、ウィトゲンシュタインの主張への反例としてはダメなのである。

何がダメなのかと言うと、ここで扱われている人物表現の記述は「たんなる三個の人体ではなく、独立の記憶をもったごくふつうの三人の人間である」としているのだが、思考実験の内容は、痛みを感じている人物主体と痛みを受けているべき人物客体の分離にほかならない。この思考実験は、このねじれの混乱から生じた誤解でしかないのだ。

話を単純化して考えてみよう

そこで、このことを考えていくために、いったん、このC、N、Yの三者をたんなる三個の人体とすることにして話を簡単にする。そして、「私は痛い」という文についてその「私」とはいかなる存在かを検討してみる。スタートは「私は痛い」という文であって、痛いのはまず「私」だとするのである。
まずCについて、Cとは左手に傷を負う人体である。Cの体が傷を負うと「私」が痛みを感じるのである。ということはつまり、Cは私の感覚器官だということにならないか。思考実験の設定ではCの身体が受けた傷のことだけしか述べられていなかったので、Cの目から見える情景が「私」に見えているのか、Cの耳から入った音が「私」に聞こえているのかは設定外の内容であって、見えているとも見えていないとも言えるものではない。しかし、ここでは考えやすくするためにCの目に見えている情景は「私」に見えていることに設定してしまおう。Cの耳に聞こえている音も「私」に聞こえ、Cの頬を撫でる風も「私」に感じられる、ということにするのだ。そうすると、Cは私の感覚器官であり、私の体だと言えるものだと考えられる。ただし、Cは私の主体ではない。「私」という主体が感覚を得るための、「客体」としての私なのである。
次に、Nとは、痛みに対する振舞いをする人体である。「私」が痛みを感じた瞬間に、顔をしかめ「痛い」と発語する。ということはつまり、Nは「私」の運動器官ということだ。思考実験の設定ではNの顔がしかめられ、口が「痛い」と発語することだけしか述べられていなかったので、「私」が手を上げようとするときNの手は上がるのか、「私」が駆けようとするときNの足は動くのかは設定外の内容であって、手が上がるとも上がらないとも言えるものではない。しかし、ここでは考えやすくするために「私」が手を上げようとするとNの手が上がるという設定にしてしまおう。「私」が駆けようとするとNの足が走り出し、「私」が話そうとすると、Nの口が発声する、ということにするのだ。そうすると、Nは私の運動器官であり、私の体だと言えるものだと考えられる。ただし、Nは私の主体ではない。「私」という主体が物理的活動をするための、「客体」としての私なのである。
そして、Yとは、「私」が「痛み」そのものを感じる人体である。主体としての私が痛みを感じるとき、その痛みはYが感じたものだというのである。しかし、これはおかしくないか。なぜYが痛みを感じた対象だと分かるのだろう。これについて永井は次のように言う。
「痛みを感じているのがYであることがどうしてわかるのか。こう問われたならY自身にとって直接的にと答えるほかあるまい。もしYにはなぜ自分の痛みだと分かるのか、と問われるなら、Yの独我論によってと答えるべきであろう」と。
なるほど確かに、Y自身にとって自分の感じている痛みを他者の痛みと読み誤るはずはないだろう。だったら、この痛みはYの痛みに違いないはずか。ところが、これはおかしい。永井がそう言うのならわれわれは「なぜYが私だとわかったのか」と問わねばならないのだ。思考実験の設定では、Yは端的に、「Cに私の痛みを感じる人物であり、Nの体を動かす人物である」とされていたが、「Cに私の痛みを感じ、Nの体を動かす」のは「主体」としての「私」であって、決して「客体」としてのYの身体ではない。思考実験の文脈から考えるとおそらくYはふだん「私」の感覚器官であり、運動器官として働いているものであって、Yが「私」の身体であることは明らかなのであろう。しかし、ここでは、すでにNとYを感覚器官と運動器官に当てた。また、話を簡単にするために、Yは、純粋に主体としての「私」をそれのみで受け止めている身体とし、感覚器官でも運動器官でもないとしてみよう。そうすると、どうだろう。「私」が痛みを感じるとき、Cが傷を受けていて、Nが痛い振舞いをする。世界はCの目から見え、「私」がコーヒーを飲もうとするとNの手がカップを持ち上げCの口へコーヒーを流し込む、Cの口に流れ込んだコーヒーを「私」は味わう。Yはどこにも出てこない。そうなのだ、もともと、「私」とは、世界の内部には存在しない、世界に対する主体であるのに対して、Yという身体は世界の中に存在する客体でしかない。「私」とYを何の関係も設定しないままに、そのむき出しの存在のままで結びつけようとするのは無理な話であって、カテゴリーミステイクなのだ。
だから、Yは単に私とは何の関係もない身体でしかないことになる。「実際に痛いのはYだ」という主張文は、言語ゲームの射程範囲を超えたナンセンスなたわ言でしかないのだ。

思考実験の設定で考えてみよう

では、次に、かなり煩雑な話になるが、C、N、Yを「たんなる三個の人体ではなく、独立の記憶をもったごくふつうの三人の人間である」という、永井の思考実験そのままの設定で考えてみる。それでも「実際に痛いのはYだ」という主張文が何の意味も持たないナンセンスな擬似文になるのだろうか。結論から言うともちろんナンセンスになる。
こうである。

思考実験の再記述

C、N、Yは独立の記憶を持った人間であって、それぞれに独立の主体のもとに独立の感覚をもち、独立の運動反応をもつ。つまり、Cは、主体Cのもとに、感覚器官Cとしての感覚身体Cと、運動器官Cとしての運動身体Cが、一人の人間存在として成立している。同様に、Nは、主体Nのもとに、感覚器官Nとしての感覚身体Nと、運動器官Nとしての運動身体Nが、一人の人間存在として成立しており、Yは、主体Yのもとに、感覚器官Yとしての感覚身体Yと、運動器官Yとしての運動身体Yが、一人の人間存在として成立している。
この前提の事態はまったくありきたりの普通の状況である。ここから思考実験の異常な出来事が起こる。
さて、いま感覚身体Cの左手に何らかの衝撃が加わり、感覚身体Cの左手のある部分が損傷を被ったとする。当然、損傷を被ったその箇所に痛みが感じられる。損傷を被り、痛みが感じられるその箇所が、当然また治療を受けるべき箇所である。ところで主体C自身は痛くも痒くもない。感覚身体Cの左手に強い衝撃が加わり損傷を被った痛みが生じた瞬間、顔をしかめ、口からうめき声を発したのは付近にいた運動身体Nであった。運動身体Nはまた言語によって「痛い、痛い」と発語もした。そのとき主体Nもまた、痛くも痒くも感じてはいない。実際に痛いのは、主体Cでも主体Nでもなく、彼らの付近にいた主体Yという第三の人物である。彼は、感覚身体Cの左手が損傷を被った瞬間、そこに痛みを感じた人物であり、だからおそらくは思わず、しかしなぜか運動身体Nの口からうめき声を発し、かつ「私は痛い」と発語した人物でもある。

こんな異常な状況だ。異常であるが、ナンセンスだろうか。ここまでは文法的に不可能というわけではないのじゃないか。否、実は言語ゲーム論で言えば、ここですでにナンセンスになっているのだ。
また、「この思考実験は、痛みを感じている人物が「ゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人である」という主張の反例となりうる」という主張が妥当であるかも問題になる。この思考実験で「痛みを感じている人物」は主体Yであり、「泣いたり顔をしかめたりする人」は運動身体Nなのであるから、一見、「痛みを感じている人物がゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人である」という状況が崩れて反例になっているかのように見える。しかし、これは、主体と客体の結び付け方の混乱でしかない。
主体Yが客体Yの主であることは「主体Yのもとに、感覚器官Yとしての感覚身体Yと、運動器官Yとしての運動身体Yが、一人の人間存在として成立している」ことによって、はじめて言い得るものとなる。主体Yが痛みを感じる時に運動身体Yや痛みの表出をすることによって、はじめて主体Yは身体Yの主たり得るのである。
だから、「主体Y」が痛みを感じたときに「身体Y」が反応せず「身体N」が反応したのであれば、主体と客体の関係の方が崩れる。「主体Y」が「身体Y」の主だとするゲームは終わってしまい、新しくゲームを立て直さねばならなくなるのだ。「主体Y」はYの主体ではなくなり、単なる「主体」でしかなくなってしまうのだ。無理に表現するとすれば「それまではYの主体であったものが、この傷に関しては感覚身体Cと運動身体Nの主体になったもの」というようなややこしい主体になるのであって、決して「主体Y」で片付けられるようなものではなくなる。このややこしい主体を主体Zと名づけよう。すると、「痛みを感じている人物がゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人である」という主張は、「痛みを感じている人物、つまり「それまではYの主体であったものが、この傷に関しては感覚身体Cと運動身体Nの主体になった主体Z」がゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人、つまり身体Nの主体である」というしごく当然のことを言っているものになる。

だから、この思考実験は、ウィトゲンシュタインの主張への反例としてはダメなのである。
「私の痛み」という語が語る「私」はたんなる身体的な連続性によって同一性が保たれるとは限らない。「私」という基本的な語でさえ言語ゲームの実践の中でしか、その意味を考えることはできないものなのである。

ではでは、最後に、「主体Z」の用語を使って、この思考実験の状況を再記述してみることにアタックする。

思考実験の再々記述・決定版

こうである。
C、N、Yは独立の記憶を持った人間であって、それぞれに独立の主体のもとに独立の感覚をもち、独立の運動反応をもつ。つまり、Cは、主体Cのもとに、感覚器官Cとしての感覚身体Cと、運動器官Cとしての運動身体Cが、一人の人間存在として成立している。同様に、Nは、主体Nのもとに、感覚器官Nとしての感覚身体Nと、運動器官Nとしての運動身体Nが、一人の人間存在として成立しており、Yは、主体Yのもとに、感覚器官Yとしての感覚身体Yと、運動器官Yとしての運動身体Yが、一人の人間存在として成立していた。ところがこの後異常事態が起こり、言語設定が一変する。
いま感覚身体Cの左手に何らかの衝撃が加わり、感覚身体Cの左手のある部分が損傷を被った。当然、損傷を被ったその箇所に痛みが感じられる。損傷を被り、痛みが感じられるその箇所が、治療を受けるべき箇所である。このとき主体C自身は痛くも痒くもない。感覚身体Cの左手に強い衝撃が加わり損傷を被った痛みが生じた瞬間、顔をしかめ、口からうめき声を発したのは付近にいた運動身体Nであった。運動身体Nはまた言語によって「痛い、痛い」と発語もしたとする。そのとき主体Nもまた、痛くも痒くも感じてはいない。彼の役割は表出者としての役割にすぎない。実際に痛いのは、主体Cでも主体Nでもなく、彼らの付近にいた主体Z「それまではYの主体であったものが、この傷に関しては感覚身体Cと運動身体Nの主体になったもの」という人物である。彼は、感覚身体Cの左手が損傷を被った瞬間、そこに痛みを感じた人物であり、思わず運動身体Nの口からうめき声を発し、かつ「私は痛い」と発語した人物でもある。

とこうなるのである。
グロテスクであり、むちゃくちゃではあるが、一応ナンセンスではなくなって、有意味な文になった。

この思考実験、グロテスクな状況設定だからダメなわけじゃない。言語ゲームの射程を外れていることに気づかないまま、文法違反を犯している言葉づかいをしていたからダメなのだ。ただ、反例としてはダメなのだけど、この思考実験を考えること自体の意義は大きい。
痛みと主体と客体の関係のような一般的にはゲームのルールから外れてしまうことがあり得ないような、基本的な関係においても、この思考実験のような異常な状況では、崩れてしまう。そして、その時に、思考実験は、語とその意味の関係がどのように立ち上がるかを検証する手立てになり得る。そういう意味でこの思考実験自体は全然ダメじゃない。

 

 

こう考えてみると少し、はっきりしてきただろうか。やはり、痛みを感じている人物とはゲームの規則によって泣いたり顔をしかめたりする人なのである。原理的にそうなのである。

思いつき言々

« 思考実験に対する状況の解釈と言語の限界についての考察 | トップページ | 2013/7/21大阪哲学道場発表メモ »

コメント

素晴らしい。実に実に面白いです。
話が具体的になると、やっぱりわかりやすいですね。僕の意見をどのように受け取られていたのか、どういう意味で否定されていたのか、ようやくわかってきた気がします。

ここからの話の展開もすごく楽しみにしています。

工藤さんのいう「主体概念」がどうも掴みにくいのですが、
独我論的に或いは一人称的に主体の対象を求めようとするのではなく、
三人称的に、或る身体に対して主体が存在しているものだとする言語ゲームのなかで「身体のあるじとなっている心的存在」を意味するものとして考えていいのでしょうか。
「状況描写における一人称視点と三人称視点の混同混乱」の論点と「主体概念」とはどのような関係にあるのかを読み取りたいと頑張っています。

工藤さんに、また反論文を提出します。正確には反論ではないのですが。

ちょっと待って。この話はまだ考える余地がありそうだよ。

Yハ タチドマッテ、フタタビ ハナシダシタ。

実は、僕とソコロフとアイマールとジダンは、1か月前に、偶然、ちょうどこの場所に一緒にいたんだよ。そのとき、すぐ近くの木に落雷があってね。どうやら、その落雷がこの怪現象と関係があるらしいんだが、その時以来、ソコロフが彼の左手を叩くと、アイマールの口が痛いと叫び、その痛みを僕が感じ、ジダンの眼に映る光景が僕に見えるようになったんだ。僕たち4人は初め、この怪現象が信じられなくて、いろいろ実検してみたんだ。4人が互いに見えない場所に立ってみて、ソコロフの好きなどんなタイミングで左手を叩いてみても、その瞬間瞬間にアイマールの口は痛いと叫び、僕には、痛みとジダンの見るべき光景視角を感じることを確かめた。僕たちは100回以上確かめたが、何れも完璧な実検結果だったよ。僕からは到底見えないはずの情報をジダンの眼から見て言い当てることも自在にできた。
この実検、4人の距離を徐々に離していって確かめているんだか、今日、それぞれが互いに違う大陸に別れて試してみたんだ。それが10分前の実検さ。やはり予想通りの結果だったよ。さっきジダンに電話して確かめたんだが、スフィンクスが突然のどしゃ降りにずぶ濡れになっているという、僕の知らないはずの事実を、僕は言い当てられたんだ。

ウィトゲンシュタインは「探究」の199節で、一生にたった一度だけ或る規則に従うことは不可能だと言った。対象が1つしかない規則なんて原理的に無理だからね。科学的検証についても同じことが言えるよね。実検対象が1つしかないところから、何らかの規則や法則をでっち上げるなんてのは、自分の手を自分の頭に乗せて自分の身長を計っているようなものだ。君が言うように僕たち4人の怪現象もそれが1回きりの出来事ならそれが怪現象だと主張することには何の意味もない。
でも逆に、実検対象が十分多量にあれば、それがどんなグロテスクな現象であっても、そこから規則法則を考えることは意味があることなんじゃないかな。すべての科学的法則は帰納的仮説でしかない。因果説でさえ帰納的な仮説でしかないことを明らかにしたのはヒュームだったよね。
この右手のカバンを手からはなすと下に落ちるよね。ほら、落ちた。このことについて、「カバンは重力によって落ちた」と表現するのは正しい表現だよね。でも重力なんて概念は単なる仮説でしかない。これまで何千何億の実証体験によってその確かさは疑う余地の無いものと考えられているけれど、次同じことをしても同じ結果になるという絶対的確証があるわけではない。重力は絶対的な存在ではないんだ。それでも「カバンは重力によって落ちた」というのは正しい表現なんだ。帰納的な仮説は十分な実証によって正しいとされていいんだ。
また。新開発された感覚器官つきの義手を左手につけたとき、この義手の先の痛みを僕が感じ、僕が動かそうとしたようにその義手が動いたなら、そして十分な実証によって、その義手がその先の痛みを僕に感じることができるものであり、僕の意思通りに動くものであることがはっきりさせられていれば、「その義手に僕は痛みを感じた」という表現だって正しい表現として使えるものになるのだ。
そして、だから同様に、僕とソコロフとアイマールとジダンの関係についても十分な実証があれば、その正しさが明らかになったとしていいと思うんだ。つまり、「モスクワのソコロフが左手を叩いたときに僕が痛いと叫んだんだけど、その叫び声を出した口はアイマールのものだった。またエジプトのジダンの眼の見ていたスフィンクスが僕に見えたんだ」という表現も正しいとしていいんじゃないかな。
ポイントは「十分な実証があれば」という点だね。だから以前、電信柱の痛みの思考実験を考えた時にも「それが繰り返し起こる場合は」という注意書きが挟み込まれていたんだよ。

でも君はもっと根本的なところが問題なのだと反論するかもしれないね。「私の痛み」や「私の見え」を身体から独立させて、ただそれだけで問題を捉えると、独我論に陥ってしまって「独りよがりな思い込み」をしているのと変わらなくなると反論するのかな。これについて、「或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である」という表現で、K君が表したことを、そのような反論だと理解したんだけど、間違っているかな?確かに「私は痛い」という文について一人称的に考えることは、公共的に確かめようのない、無意味な独我論に陥りやすい危険を孕んでいる。しかしだからと言って、「私は痛い」という文を一人称的にとらえることが他者から理解され得ないことに直結しているとは限らないんだ。

たとえば、「探究」361節の「椅子が独りで考えている」ことについても僕は君とは違う読みをしている。こんな風だ。
「この椅子は独りで考えているとしよう。しからば、何処で?その或る一部においてか。[そうとも言えるかもしれないが、「違う」と言うべきだろう。] 或いはその外部においてか。[そうだとも言えないこともないが、やはり「違う」と言うべきだろう。] たとえば、それをとりまく空気においてか。[そうとも言えないこともないだろうが、これも「違う」。] 或いは全くどこでもないのか。[然り、どこでもないとするのが自然だろう。] [ならば、] この椅子が内的に語っているのと、その隣りの椅子が内的に語っているのとの間の区別はなんであろうか。[その区別を示すものは「この椅子が独りで考えている」とする状況設定の中には何も無いのだ。その区別を示すものは考えられている思考の内容の中身だけにこそそのヒントがあるのだ。もともと、思考内容とは別に「椅子が考えている」と設定したというその設定自体が何を意味しているのか決定しえず宙に浮いてしまうような無意味な状況設定だったのだ。]
私見だが、ウィトゲンシュタインはそのようなことを考えていたのだと読むのが自然な読みだと、僕は思うよ。
椅子が、見える目を持たず、聞こえる耳を持たず、何も感じない、全く動かない、喋る口を持たないで、本当に思考だけで何かを思っているとき、その思考を椅子の思考だとすることは、何ら肯定的基準を持たない、単なる無意味な定義遊びであって、無理やりな設定でしかないんだ。
しかし、でも、椅子からの視点で何らかの光景が見えている場合、そして、身体を動かそうとするとその椅子がカタカタ震えだすような場合、そのような身体との関係反応があるのなら「僕は椅子になった」という文は意味があるだろう。
だから、でも逆に、「椅子が考えている」という設定を先に決めてしまうってのは変だよね。だって、「椅子が考えている」という設定がまずあって、「僕は椅子になった」という文の真偽が決まったり、意味があるかないかが決まったりするしかないというのでは、結局、論点先取でしかないじゃないか。本来は、「僕が椅子になった」という<思考>とその内容が示される状況がまずあって、「椅子が考えている」という文の真偽が決められたり、意味があるかないかを考えたりするのだと、するべきだろう。

それでも、一人称視点から始めたのならしょせんは独我論に過ぎないのではないかと問われるかも知れない。
たとえば、これから言うのはさらにかなり無茶な設定なんだけど、「見えるべき目を持たないけど見えている」という状況。これはそんな状況を想像するのはすごく難しい。難しいけど不可能じゃない。難しいけどできるよね。あらゆる方向から四次元的に見えているキュビスムの映像みたいなのを思い浮かべたらいいかも。たとえば、「喋る口をもたないけど喋れる」という状況。これも想像しにくいけど不可能じゃない。誰かの心に直接話しかけるテレパシーを思い浮かべればいいかも。
あるときから、僕には、世界が様々な視点からキュビスム的に見え、様々な地点から音が聞こえてきて、あらゆる物という物が思い通りに動かせるようになってしまっていた…とする。そして、人の心に直接話しかけられるようになった…とする。僕の物質的な身体はないのだけれど、僕の想念は事実、存在しているような状況を考えるんだ。
どうだい。実は、本当に、僕の物理的な身体はさっきから無くなってしまっていて、テレパシーで君に話していたんだけど、気づいていたかい?ちょっと、向こうに見える教会の鐘を鳴らしてみようか。こっちの青年の歩き煙草をテレパシーで注意してやろうか。ホントだよ。ほら、鐘が聞こえただろ。あの青年、自分で煙草消しちゃっただろ。身体はなくなったけど、自由にあらゆる物を動かせるんだから、あらゆる物が僕の身体だと言ってもあながち間違いではないと思うね。

少なくとも、僕のこの声が聞こえているなら、「僕が僕と呼ぶこの存在」が存在していることは認めるだろう。僕は、僕の一人称的視点から身体のない僕についての話をしているけど、身体がなくても念力が使えたりテレパシーが使えたりして、世界と関わりあうことができるのなら、それは君や第三者から見ても存在し得る対象になるんだ。
まあ、そこまでグロテスクな想定をしなくても、「僕は僕の感覚と僕の意思によって世界を捉え、世界に働きかけ得る主体なんだ」という発言は、一人称的視点から出発していても、第三者が理解し得る三人称的発言として成立するということは認められるべきだと思う。

トイッテ Yハ マタ、ソノ シンタイヲ シュツゲンサセタ。

あの落雷以来、僕の身体や僕の周辺は不思議なことだらけさ。でも、「このカバンが重力によって落ちた」という表現が正しい表現としていいのなら、「ソコロフが左手を叩けばアイマールの口で僕が『痛い』と叫んだ」というのも正しい表現だとしていいはずなんだ。
僕の言っていることを信じるか否かは君次第だけど、少なくとも僕の発言が有意味なことは認めてほしいね。

ほら、テレビニュースが、エジプトの歴史的降雨を報じているよ。

「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』の概念的差異。うーん。「見える眼を持たないけど見える」「喋る口を持たないけど喋れる」では概念説明になってないですか。眼が無くても視角的情報を得られる、口が無くても聴覚的情報を与えられる、ということです。まだ足りませんか。

上のコメントで僕が主張したかったのは、大まかに言って、「どんなトンデモ理論でも、トンデモ記述でも、文法的に有意味であって、その記述を裏付ける一定数以上の実証があれば、それだけでその理論記述は正しいとされるべきだ」なのですが、工藤さんはそれ以外の基準を考えるべきだというお考えだと、理解していいのでしょうか。

付け加え。
だから結局、「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』の差異は、生物学的な眼と口が有るか無いかです。

なかなか、工藤さんと僕の溝は埋まらないですね。

2.「翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像できる」の「想像できる」が「あり得る筈だ」に対する肯定を含んでいる場合、件の文は事物の在り方に反する事柄=ナンセンスを肯定しているから、この「想像できる」もナンセンスだ。仮に、件の文を本気で主張する人がいるとすれば、唯単に彼が事物の在り方に関する自らの無知錯誤を自覚出来ていないというだけの話だ。・・・の論点が、僕にはまったく理解不能なのです。
「とにかく、常識に反しているからナンセンスなのだ」と言われているようにしか理解できないのです。

僕がこの思考実験で探りたいのは言語の限界です。だから、思考実験を考えるときに「まず現象ありき」で、その上で「どんな言語が使用可能か」という順で考えるべきだと考えているのですが、工藤さんは、「まず言語ゲームありき」で考えられていて、「現象をどう語るべきかは、あらかじめルールが決まっている」と捉えられているように、僕には感じられてしかたありません。言語ゲームが最初に設定されてしまうとそれを遵守しなければならなくなると。

某かの異常現象があったとき、それに対応して、言語ゲームはどんどん新しいルール設定が可能であり必要であると、僕は思っているのですが、工藤さんはどうお考えですか。

なかなか、伝わりにくいなあ。
僕の方も僕の言っていることを理解して頂けたかどうか・・・甚だ心許無いと言わざるを得ません。(嫌味ですね。スミマセン。でもこの「甚だ心許無い」と言われるのはバカだと言われているように思って苛ついてしまいます。もう勘弁してもらえませんか。理解が違うことを批判されるのは勿論受け入れますが、批判とは違う意図を感じてしまいます。)

「常識に反するからその思考はナンセンス」という理解で不充分なら、「世界中の最先端の知識に照らして反するからその思考はナンセンス」と言い替えましょう。
しかし、そう言い替えても思考実験の内容をあり得ないと切り捨てる理由にはならないと思います。物理的にあり得るかどうかに関わらず文法的にあり得るのなら思考実験の対象にして、何がダメなのでしょう。

別に僕が言語の限界を的確に探れていると自負して「現象ありき」から始めると言っているわけではありません。でも、「現象ありき」から始めなければ言語の限界を考えようとすることができないと考えているのはその通りです。

それについて互いの理解が進まないのは、言語ゲームのルール設定に対する捉え方が違うからではないかと真剣に考えています。
僕は言語ゲームはコロコロ変えられるし、変えなければならないものだと捉えています。工藤さんは違うんじゃないですか。
ここがポイントのように思います。

物質の粒子性と波動性が両立されるというのは、19世紀には最先端科学の洞察によって不可能だとされていた。でも、文法的にはあり得る話だった。これも、そんな思考実験は19世紀の時点では捨てられるべきなのでしょうか。

そんなことはないですよね。

十分に検討された洞察であるならそれが思考実験を否定する根拠になる・・・とは一概に言えないのじゃないでしょうか。話がミクロの話だから次元が違うというのは反論の理由にならないと思います。

如何なる力も働かなければ物体は等速度運動を永遠に続ける。これも4世紀の最先端の叡智からみるとナンセンスでしかなかった。でも文法的にはあり得るはなしだった。十分な知恵を集め、検討を尽くして不可能と判断されたのだったら、この思考実験もナンセンスと捨てるべきだったと思われますか。

物体の粒子性と波動性についても19世紀の時点での思考実験はナンセンスだと考えられているということをおっしゃっているのでしょうか。
そうおっしゃっているように読めてしまいます。

A(「Pでありえる」または「Pをイメージできる」)からB(「P」または「Pの真偽判断のできる事実がある」)は導出できない。
そりゃそーだ。しかし、それは(「P」という仮想事象を設定できるか否か、或いはすべきか否か)という問題とは独立で無関係だ。

一方、「P」が現実化するか否かの判断は、文法的で演繹的な判断か、経験的で帰納的は判断の、いずれかである。つまり、或る判断が文法的演繹的判断でないのなら、経験的帰納的判断にすぎないということである。
そして、経験的帰納的判断がどうだったとしても、演繹的判断によって「P」が「あり得る」と判断するということは、まさしく、「P」という仮想事象を設定することが言語的に可能だということと同値である。
これだけで僕は十分だと思う。
それに対して工藤氏は、経験的帰納的判断によってナンセンスか否かの判断をすべきであると説く。しかし、少なくとも僕にはその価値が理解できないし、そんなことが可能だと主張される根拠も理解できない。

或いは工藤氏は「事物の在り方に反するか否かの判断が経験的帰納的判断だ」とすることさえ受け入れないかもしれない、そうなると僕にはお手上げ、まったく理解不能だ。

もちろん、経験的帰納的判断は、科学的にも日常生活でもこの上なく価値の高いものである。でもそれが哲学の仕事だとも、哲学的に価値のあるものだとも思えない。

「Yは何故自分がその状況にあったことを知っているのか。『覚えているから』は答えにならない。第三者によるチェックが不可能であるとすればそれが生起したと思い込んでいることと区別できない」このK氏の主張について、僕は「第三者によるチェックが不可能であるような記述は自分自身でさえ真偽をチェックすることができず、その意味を理解することができない」という原理的不可能性を意味しているのだと理解していました。この原理的不可能性とは、或る人が一生のうちに一度だけ或る規則に従うことができないという原理、つまり一回きりの出来事に対してはいかなる文法の規則も立ち上げることができないということを指しているのだと理解していたのです。だから、Y氏は自分に起こった異常事態が一回きりの出来事ではないことを示して反論しようとしたのです。
そして、K氏の次の言「或る人が公共的に観察可能な或る状況を見ることは彼が公共的に観察可能な一つの身体であり、身体としての彼が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ることを前提含意している」についても「どんな場合でも『見る』という行為を語るためには『身体』を必要とする」という意味だとは解釈せず、「一回きりの出来事についての『見る』という行為を有意味にするためには『身体』が必要になる」と解釈していたのです。
誤読ですね。しかし、そのように誤読しないと、「『見る』という行為を語るためには『身体』が必要だ」という主張が原理的主張でも、文法上の主張でもなくなってしまうと思ったのです。
もしかして、「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というのは原理的な主張なのだと、工藤さんは言われるでしょうか。
しかし、言語ゲームのルール設定がそのつど新しいものに設定できるのだとする立場に立つならば、目のない人が「心眼で見る」という言い方をするゲームでも、身体のない人が「私は見ている」という言い方をするゲームでも立ち上げることは可能なはずです。言語ゲームのルール設定について、工藤さんは「言葉の意味というものは我々の言語的交流においてその都度この今生成するもの」とお考えとのことですが、それが「制限の全くない、ありとあらゆる言語ゲームの中から、我々の言語交流においてそのつど使い得るもの便利なもの有価値なものが生き残る」という意味だとすれば「身体のない人が『私は見ている』という言い方をするゲーム」は可能なはずではないでしょうか。身体のない「声」と色当てゲーム(指差した色の名を当てるゲーム)をすることだって可能です。
そんな非常識なゲームはできないのだと言われるのであれば、言語ゲームのルール設定に何かしらの制限を導入してしまっていると思います。そして、その制限とは何か恣意的なものでしょうから、結局、[「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というルールになるような制限を導入したのだから「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要なのだ」]というような、主張を掲げているだけの話にしかならないと思います。決して原理的な主張ではなく、自分でルールを作って宣言している宣言文でしかないのではないでしょうか。

こう考えて、僕は工藤さんの言う「事物の在り方に反するからナンセンス」というのが全く理解できないのです。

それから、ご質問への回答としては、「概念的な差異」というのは何をお聞きなのか分からないですが、前に行った通り、「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』「身体を使って物を動かすこと」と『念力』の差異は、単に身体を使うか使わないかの違いです。
でも「見える」も『見える』もその基準は、例えば、色当てゲームで一定以上正答することなどで、変わりはありません。
また、身体を持たない人は空間的な連続体ではないかもしれませんが、時間的には或る程度連続している必要はあると思います。

>公共的に観察可能な或る状況を「見る」という【概念の本質】には以下の事柄①「見る」者が公共的に観察可能な【一つの身体】であること②「見る」者=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること③視線は「見る」者=身体上の或る点から向けられていること が組み込まれている―ということでした。

これこそ、言語ゲームのルール設定への恣意的な制限の導入だと思うのです。上記の3点を「見る」という概念の本質だと定義づけすれば、見るために身体は必要でしょうけど、この3点を含まない見るは「見る」に値しないと誰か特定の人が決定できるということでしょうか。

>誰かが『鯨は魚類である』『菅直人は米国大統領である』という言い方をするゲームを創案した所で、鯨が鰓呼吸したり・菅直人が米国大統領になることはありません。

「どんな状況がありえるかを常識的に考えて判断しましょう」という話をされていませんか。何度も言っていますが、それには興味がありません。まず、状況「菅直人が米大統領だったら」があった時にどういう記述が可能かという話をしたいと僕は思っています。

―上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・既にある言葉に対して(僕も含めて殆どの人は認容しないであろう)恣意的で的外れな拡張(=文法・概念上の混乱)を図ろうとしてきたのは横山さんであって、僕ではありません。

おっしゃる通り。僕は工藤さんの言われることほとんど理解できていないと思います。僕はだれかが常識的な判断で、「そんな言語ゲームは使えない」と言うのを否定したいと思っているのです。言語ゲームは本来、論理と原理と、その言葉遊びをする人々の好き嫌いと使いやすさ以外には、制限するものはないのじゃないかと思っています。常識的じゃないからダメだ。と言うのに反発しているのです。

>見えるべき目を持たないけど見えている??不可能じゃない?? ―これがもし【視点或は視野を持たない視覚というものが想像出来る】という意味だとすれば、端的に不可能だと思われます(付言すれば、件の想定とキュビズムの映像は無関係でしょう)。

あらゆるところからあらゆる映像が同時に見えているという、多重次元的な空間をイメージしていますから、キュビスムは大いに関係しています。イメージしにくいでしょうが、不可能じゃありません。

>あらゆるところからあらゆる映像が同時に見えているという、多重次元的な空間をイメージしていますから、キュビスムは大いに関係しています。イメージしにくいでしょうが、不可能じゃありません。

ですから、或る一つの視点から捉えられた視覚印象を幾つも(アングルを変えたりして)組み合わせるキュビズムの映像≠視点或は視野を持たない視覚というものが想像出来る、なのですよ。

事物の在り方にあってるか反するかって言う判断は、まさしく、誰かの常識的な判断ではないんですか。概念的な意味づけと言っても所詮は経験的な判断だということですから、僕はそう思っていました。

僕が言ってるのは、「視点或は視野を持たない視覚」ではありません。目のない人の「見え」です。
ですから、或る一つの視点から捉えられた視覚印象を幾つも(アングルを変えたりして)組み合わせるキュビズムの映像=目のない人の「見え」
はあり得るでしょう。そう読んでください。

>事物の在り方にあってるか反するかって言う判断は、まさしく、誰かの常識的な判断ではないんですか。概念的な意味づけと言っても所詮は経験的な判断だということですから、僕はそう思っていました。

(以下、再々録しますが・・・「或る文法・概念の出自と[事物世界]の関係」と横山さんの言う「経験的な判断」の差異について考えてみてください)
Y氏とK氏は銀座を散歩しながら話をしている。
Y氏「ここは銀座一丁目―さっき『ホテルモントレラ・スールギンザ』を通り過ぎたのを覚えている―だよね。まあ、それはともかく・・・君には黙っていたけど、十分くらい前かな、いきなり左手が痛くなったんだよ。でも、その左手は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、モスクワ在住の大工ウラジミール・ソコロフ氏の左手だったんだ。そのとき彼はカナヅチで自分の左手を叩いたんだよ。そして、そのとき僕は「痛い!」と叫んでしまったんだけど、その叫び声を出した口は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、リオデジャネイロ在住の大学生フランシスコ・アイマール君の口だったんだ。そのとき彼は友人とフットサルをしていたんだが、別に誰かに蹴られたりしたわけじゃない。それで、そのとき僕にはエジプトの?スフィンクスらしきものが見えていたんだけど、それを見ていた眼は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくてフランスからの旅行者フランソワ・ジダン氏の両眼だったんだ。どうだろう、この話・・・君は信じてくれるかい?」

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。じゃあ、とりあえず、幾つか質問させてもらうよ。
①今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故かつて(十分くらい前に)自分が今君が話してくれたような状況にあったことを【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えている】からだ」と答えても何にもならないよね。例えば(通常)或る人が「僕は東京タワーを【見ている】のだ」と主張する場合、彼以外の第三者がその主張の真偽をチェック出来る。彼の視線が東京タワーに向いているか、彼が見ているのは東京タワーではなく東京タワーの写真なのかどうか、彼が自分の想像表象と[実物]の―彼や第三者が視認し得る―東京タワーを取り違えていないかどうか等々。もし第三者によるチェックが【原理的に】不可能であるとすれば、その事柄については「それが生起したこと」と「それが生起したと或る人が【思い込んでいる】こと」を区別出来ないんじゃないかな。だから、そんな代物はゲームの指手にはならないし、なり得ないよね。
②(質問①に関連して)今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故ソコロフ、アイマール、ジダン各氏の個人情報とそのとき彼らが置かれていた状況を【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えているから】だ」とか「かつて(十分くらい前)の僕がそれらの状況を【見ていた】からだ」と答えても何にもならないよね。仮に或る人が「僕は昨日東京タワーを見たのを覚えている」と主張したとしても、それが記憶違いだった―覚えていると【思い込んでいた】が実際は違っていた―ということも『あり得る』わけだし、君の言う状況が【原理的に】第三者によるチェックを受け付けないものであるなら、さっきと同じ話になる。そして、【本当に】【そのとき】君がそれらの状況を【見ていた】のだとすれば、君の言う?ジダン氏の視線と君の言う?スフィンクスらしきものとの関係と【そのとき】銀座を闊歩していたY氏なる身体との繋がりに加えて、それら全てと今の君―僕から見れば、Y氏なる身体的存在者なのだが―との関係(言うまでもなく【それら一連の記憶】も含めて)は、第三者によるチェックが「可能な」ものでなければならない。記憶と思い込みの違いは別にしても、そうでなければ又さっきと同じ話になってしまうからね。
要するに、こういうことかな。或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】を前提・含意している、と。別の言い方をすれば、或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である、ということ。まあ、他にもツッコミたい所はあるんだけど・・・そんなことより鮨でも食べに行かないか? せっかく銀座まで来たんだから」

Y氏「そうしよう。小腹も空いてきたことだし。この辺で良い店でも知ってるのかい?」

K氏「『次郎』にでも行こうか。君のおごりで」


>素晴らしい。実に実に面白いです。
話が具体的になると、やっぱりわかりやすいですね。僕の意見をどのように受け取られていたのか、どういう意味で否定されていたのか、ようやくわかってきた気がします。
>ここからの話の展開もすごく楽しみにしています。


お解り頂けたでしょうか。

何度も同じ所をぐるぐるしていますが、僕が「素晴らしい」と言ったのは、K氏が一回きりの出来事について原理的不可能性を説いたのだと、誤読したからです。
そうでないなら、誰かの常識的な判断でしかないと、しか考えられません。そんな判断は科学の仕事であると思われますので、僕は興味ありません。

>僕が言ってるのは、「視点或は視野を持たない視覚」ではありません。目のない人の「見え」です。
ですから、或る一つの視点から捉えられた視覚印象を幾つも(アングルを変えたりして)組み合わせるキュビズムの映像=目のない人の「見え」
はあり得るでしょう。そう読んでください。

目のない人の「見え」?? ―既述の通り、通常の視覚「見る」と想像表象『見る』は違います。仮に横山さんの言う「見え」なる代物?が想像表象の在り方に依拠して想像されているのだとしても、全く意味不明と言わざるを得ません。
時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

>何度も同じ所をぐるぐるしていますが、僕が「素晴らしい」と言ったのは、K氏が一回きりの出来事について原理的不可能性を説いたのだと、誤読したからです。
そうでないなら、誰かの常識的な判断でしかないと、しか考えられません。そんな判断は科学の仕事であると思われますので、僕は興味ありません。

オカシイですね。上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・科学の話をしたのは横山さんであって、僕ではありません。量子論云々然り。

(件の論点について。以下、再々録しておきます)
>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。


お解り頂けたでしょうか。

答えになっていないと言われても、僕には以前の回答を繰り返すしかできません。

「見え」も『見え』も基準は、例えば、色当てゲームで一定値以上の正答率を上げることです。

科学的論争を舞台にした哲学的な問題には非常に興味があります。
でも、常識的に経験的に何かの状況が起こり得るかどうかを判断するのに実験観察を繰り返す科学的作業にはさっばり興味がありません。

身体がなくたって、目がなくたって、声があれば、色当てゲームはできるじゃないですか。

何故K氏は自分の心に語りかけたのがY氏だと知っているのか。

この論点で話し合うのならすごく安心できます。一回きりの出来事についての原理的不可能性を論じていて、論理ははなしだからです。ここには事物の在り方に反するか否かの判断は関係ないからです。

物体が粒子性と波動性を両立させられるか、も、身体のない人がものを見えるか、も、しっかり考えようとするなら、僕はそれを哲学と呼びたいと思います。工藤さんに賛同してもらえないのは残念ですが、けっこう多くの賛同が得られる考え方だと自負しています。

事物に即した概念を構成することというのは何のことか全然わかりませんが、こっちの方が、哲学じゃなくて、科学なんじゃないかと訝っています。

様々な観測データから世界の事実を解釈判断し、構成することを科学的探究と呼ぶなら、事実的探究とは正しく科学的探究ではないですか。

何故Y氏だと知っているのか。
これは、一回きりの出来事についての規則性解釈の原理的不可能性の問題だと僕は思いますが。

それについては、Y氏の反論で、言ったように、データを十分多くすることで乗り越えられます。

しかし、Y氏の声がホントに聞こえるのだということを示すデータが増えれば第三者も、認めるでしょうね。

僕が興味を持っているのは、どのような世界の内容が構成され得るかという科学的探究ではなく、どのようにすれば世界の記述が構成され得るかという方法的探究です。
だから、適当なデータをでっち上げて、何の断りもなく導入してもまったく問題ないと思っていますし、それで、例えば、K氏以外にも多くの人がテレパシーを聞いたと訴えるような状況が出てくれば第三者の判断も変わってくるだろうとか、変わらないだろうとかいうことが考えられればそれでいいと思っています。
もちろん、状況のデータからどのような解釈をするかということは、どんな場合でも分析的に導出されることはありませんし、だから、ホントにテレパシーが聞こえているのかという問題と第三者の同意の問題が独立だというのはその通りです。
しかし、テレパシーが聞こえているとすべき判断材料が増えれば、第三者が同意しやすくなるというのも当然の話です。
現実的にそれが現実の物になるかどうかという問題からは外れてしまいますが、或る解釈が論理的原理的にあり得るなら、それは現実化し得る世界構成であると考えていいように思います。それだけでいいんじゃないでしょうか。それ以上の判断は現実的に実験観察を繰り返し正しい現実的データを多量に持ち得る専門家に任せたいです。
こんなスタイルは後期ウィトの思考実験の意義を誤解しているということでしたが、思考実験に「事実的探究」なるものを導入されることの方が僕にはまったく理解不能です。それは思考実験でなく現実的実験の出番になるべきところのように思います。

それから、フォンノイマンの霊については、Y氏が霊と交信しているのを自分で確かめられるのなら、その根拠は第三者にとっても確かめ得る根拠のはずだと思います。自分でそうだと思っているだけでは確かめたことにはならないというのは、僕もそう思いますから、Y氏に根拠を聞いて「そう思うからそうなのだ」なんていう答えしか得られなかったら信用する必要はないし、第三者が確かめ得る根拠があるのなら、それを示してもらえばいいんじゃないでしょうか。

たとえば、「猫は猫である」のような無意味文でも、

我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです

か?

>横山さんの想像は【概念的にあり得ない】のです。

その概念的にありえないっていうのの論拠を、具体的に示してもらいたいです。そうすれば、アプリオリにダメなわけじゃないのに、概念的にダメと言われる意味が僕にも少しは分かるのじゃないかと思います。経験的にダメっていうのは、その総合文が偽であるという意味にしか、僕には理解できません。、

>たとえば、「猫は猫である」のような無意味文でも、

我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです

か?

の回答としては、トートロジーは無意味であるという考察はできるということで理解していいですね。事物の概念がなくても文法的考察ができる場合とできない場合があると考えていいでしょうか。すり替えと言われても、言われていることが理解できないのですから一つ一つ確かめていくしかありません。

>概念的にあり得ない≠経験的にあり得ない

アプリオリな判断ではないということですからそう思ったのですが、それも違うのですか。むちゃくちゃむずかしいですね。
再録されてもわからない言葉づかいは何度繰り返されてもやはりわかりませんから、新しい言葉づかいを望みます。

「その概念的にありえないっていうのの論拠を、具体的に示してもらいたいです」というお願いさえも誤読と言われるなんてなんのこっちゃか、誤読の意味さえ分からないです。むずかしいにもほどがあります。

>空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か? そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か? 件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

いずれにも、意味のあるゲームを為すための、語の基準を示せると思いますが、それはおいておくとして、工藤さんがこれらに適切な答えがないっと思われるのなら、それは「アプリオリ」で「分析的」な不可能性を問われているのではないのですか。文法的にダメなのとどう違うのでしょう。やはり意味が分かりません。

再録されてもわからない言葉づかいは何度繰り返されてもやはりわかりませんから、新しい言葉づかいを望みます。

規則はどんな解釈をも許します。許されない解釈などないし、唯一の絶対的な解釈もありません、

「概念的に」適切な解釈と不適切な解釈とに切り分けることとはいかなる正当性があるのでしょう。

僕はいくらでも適当な解釈をつけつづけ、工藤さんは工藤さんの立場でそれを受け入れられない解釈だと言い続ける。どこまでも自分が正しいと主張するいたちごっこがあるだけじゃないんですか。
どっちが正当だと決められる絶対的な立脚点があるとは思えません。

>規則に従っていると【信じている】ことは、規則に従っていることではない。

全く同じ答えをお返しします。事物の在り方に適した解釈と反した解釈を切り分けることができると信じることは、適合することではない、と。

文法的にあり得るなら思考実験の対象にすることは許されるとする僕の主張に対して、工藤さんの回答は「概念的にあり得ないのです」でした。そこで「概念的な判断」とは何なのかを掴もうとしているのですが、
「概念的探究=経験的探究」ではなく、しかし一方、ある時には、「概念的な判断は経験的探究によってなされる」、と、こういうことですよね。

色々質問させてもらっていますが、結局、何も得られず振り出しに戻ってきた印象です。

>以下の話http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC
は、我々が実験等の経験的探究を通して①[事物]に即した【概念】―横山さんが言う意味での「解釈」ではありません―と②[事物]の在り方にそぐわない【概念】―横山さんが言う意味での「解釈」ではありません―を区別し得ることを示しているように思われます。

のご回答から、「概念的な探究なるものは経験的探究によってなされる」、と、いうことをおっしゃっているのだと思ったのですが、違うということですか。

「再録」と「?? ―オカシイですね。上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・」もできたらなくしてもらえませんか。どこまでが新しい文章か古い文章か、僕には読みにくくて困ります。

「概念的探究」或いは「事物の在り方に対する判断」ってのは、もしかすると、「クワスは正しい足し算ではない」という判断のように「日常の言語ゲームから外れているような規則解釈は言語理解から除外できる」という意味合いのものだと考えればいいのでしょうか。
僕が分からないと言っている「再録」を繰り返されるだけなら御返事はいらないです。

横山にとっての「文法的に可能」とは、「言語ゲームを行う上での設定が成立している」ということのみの意味です。僕の印象としては、それは即ち、「分析的に可能」ということであり、「内的に可能」ということであり、「アプリオリに可能」ということであるとして捉えています。

僕の問い方に問題があるということだったが、論点を問いあう以前の問題だった。言われている内容どころかその一つ一つ単語の意味が分からないのだから、それを確かめないと話し合いにはならないわけで、確かめようとするのは当然だ。何を主張されているのか、どんな言葉で言われているのかもさっぱり分からないのに、根気強く聞き取ろうと努力できたと、自分では評価している。

それから、僕が語る言葉の意味を僕が勝手に決められないとの指摘があった。これは或る意味では正しいが、或る意味では正しくない。と言うのは、その言語内容が言語ゲームの中で働きを持たず、語り手自身が何を語っているのかを掴み得ない場合は、そこまで語り手の権力が働くと考えるのは間違いである。しかし、ゲームの中で働き得る語については、語の主は語り手である。語り手が何を言いたいかはっきりさせたいなら、語り手に聞くのが一番手っ取り早い。

そして、僕の思考実験はグロテスクな空想ではあるが、新しいゲームの作ってその中で語を働かせることができることを、想定しているのだから、語の主は語り手と考えられるのだ。それがオーケーなことを主張するにはゲーム内での具体的な語の働きを示せばいいし、ダメなことを主張するには語がゲーム内で働き得ない根拠を示さねばならない。

僕のいわゆる胡乱な思考実験が「概念的にダメなので」あり「事物のあり方に反するナンセンス」であると工藤さんがおっしゃっているのは、ぜんたい如何なることなのかを理解したくて、さまざまな質問を繰り返しています。このコメントのやりとりでの僕の発言は全てその一点に集約できます。「概念的探求」と僕が言ったのは「僕の思考実験をダメだと『概念的に』判断するための探求」ということを表現したかったのです。言葉足らずでした。そこで質問を言い換えると「僕のいわゆる胡乱な思考実験が概念的にダメだとする判断は、クワス算が正しい足し算ではないという判断のように、日常の言語ゲームから外れているような規則解釈がその言語理解から除外できるという判断だと考えてもいいのでしょうか」となります。
また、「不明瞭で胡乱な想像の垂れ流しと「分析的に可能」はイコールではありません」とおっしゃるのは、「僕のいわゆる胡乱な思考実験の内容が分析的に不可能だ」という意味ではないですよね。でも文脈的にはそうなのかなあ。それとも「僕のいわゆる胡乱な思考実験は分析的に可能とは限らない」ということでしょうか。でも「可能とは限らない」ってことは「不可能とも限らない」ってことだし「不可能とは限らない」のなら「可能性はある」ってことだし。結局、これもどういう意味なのかさっぱり分からないです。

長い長いやりとりをしていますがそれでも、僕の思考実験の何を否定されているのかが皆目分からないので、「時空的連続体の一部分から開けているのではない視点」「Y氏のテレパシーをホントに受信していること」「フォンノイマンの霊とホントに交信していること」などのご質問にも、それらの語のどういう働きをお示しすれば問いの答えになるのかが、やはり分からないのです。それでも、とりあえず僕の思う「答え」を出しますので、それの、どこが、どのように、ダメなのか教えてください。ダメな理由を細かに教えてもらえれば僕がオーケーだと考えていることと問題の擦り合わせができていくと思いますので。

1.時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或いは視野のようなもの、とは何か。

・近代的遠近法では「空間の或る1点の視点からパースベクティブに広がる視野」を絵画にします。でも、僕は今実際に、空間的に離れた複数の地点から開けている視野を感じています。両目で見ていますから。「三つ目が通る」の写楽君は3点から開けている視野を持っているのでしょうし、妖怪百目は体中の無数の視点から視野が開けているのだと思われます。
一方、視点の位置は、目がある場所で判断するという場合もあるでしょうが、自分の視野の中でその大元を辿っていって(視野の中に見えている指を始点に近づけていって)見つけるという場合もあるでしょう。(青色本)この後者の場合だと目の形をしたものが必ずしも視点になっているとは限りません。複数の視点がある場合にこの視点の場所が1m以上離れてはならないという原則が原理的に存在するとは思えません。この視点の個数が100個以上あってはならないという原則が原理的に存在するとも思えません。
この視点をあらゆる空間に無数にあるものと想定して、それら無数の地点からあらゆる無数の視野が開けているという「妖怪目無し」を考えることは出来ます。この妖怪目無しの視点視野が質問のそれに当たると思います。

2.そのような視点或いは視野のようなものすら欠いた映像のごときものとは何か

・妖怪目無しは無数の視点を持っているので、もはや、Aの視点とその直近のBの視点には断絶はなく連続的につながっています。一点一点の個別的な視点ではなく連続的にのっぺりした視点的なものになってしまっているという意味で「視点ですらない」と表現しました。Aからの視野とその直近のBからの視野も連続的です。これが無数に連なっているわけですから、一般的な2次元的な視野が個別的にあるわけではなく、多次元的な視野がのっぺりと重なり合ったものになってしまっているという意味で「視野のごときものすら欠いた映像」と表現しました。

3.件の状況において、「“Y氏”からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ」とは何か?

・今朝、K氏がY氏の声を聞いたのは大通りを歩いている時だった。「ごきげんよう」確かにYの声だったが、辺りにはY氏の影どころか人っ子一人見当たらなかった。Y氏の声はさまざまに話し続けた。話の内容から、話し手は確かにYのようだ。「僕はテレパシーでちょくせつ君の心に話しかけているんだ」とYは言う。馬鹿にするなとK氏は思い、その場を立ち去ろうとしたがどこへ行っても、その声は追いかけてくる。K氏は有り得そうな原因を考えてみた。夢を見ているんじゃないだろうか。違うこんなリアリティーのある夢など見たことが無い。僕の気が変になったのではないか。その可能性はあるかも。何か物理トリックを使っているのではないか。ある物理機器を使って音波や電磁波を送って聴覚にちょくせつ音波を届けるような話が「ガリレオ」でやっていたぞ。それかも知れない。「そんなんじゃないって、ホントにテレパシーを送っているんだよ。どうしたら信じてくれるんだ」Yの声はまだ続いて聞こえる。
「では、まず、①僕だけの気が変になったんじゃないってことを示してもらうために、僕以外の大勢にテレパシーを送れるか。それから②録音とかでなくその場でちょくせつ話していることをはっきりさせたい。そこで、僕の言う問題にすぐに答えられるか。③Yがどこかの陰で隠れてこそこそ変な行動をしていないことをはっきりさせたい。また僕の近くに居られては声自体が届いてしまうかもしれない。そこで君を、あらゆる電波音波放射線などを通さない完全防備室に入れ、監視者の監視の下に監禁しその様子を死角のない映像でも撮らしてもらう。その上で、僕自身もあらゆる電波音波放射線などを通さない完全防備室に入り、その中から君にある質問をする。そして君にその答えを僕とその他の大勢の人にテレパシーで送ってもらう。どうだい、できるかい?」とK氏は声に出さずに言った。
「それができれば、僕がテレパシーで話をしていることをホントだと認めてくれるのか」とY氏の声。「それができれば認めよう」とK氏の心の声。「ではやってみよう」とY。
Kは東京の、あらゆる波動を通さない壁で仕切られた個室に入り、Yは、K指定の監視者の監視の下で、あらゆる波動を通さない壁で仕切られたブラジルの個室に入った。Yの様子は映像で撮られ死角なくすべてKに明らかになっている。逆にKの様子をYが知る術は無い、はずだ。Kの部屋にはYを映すディスプレイのほかに、室外の人々を映すディスプレイや一般のテレビも置かれてある。その状況でKが心の中でつぶやく「Yよ、100、99、98と大きい方から順に小さくしていって100から0まで数をゆっくりと数えよ」と。
Yはそれが聞こえたのかにこりと笑ってカメラに視線を向けた。「100」「99」「98」ゆっくりとYの数を読む声が聞こえてくる。Kの部屋の外では人々が「何か聞こえない?」
「数字が聞こえる」などと言い合っている。「95」「94」「93」Yの声は続く。テレビ放送が「世界中のあらゆる場所であらゆる人に数字の逆唱が聞こえているらしい」と報道している。「5」「4」「3」「2」「1」「0」世界中が大騒ぎになったが、結局その声が聞こえただけでそれ以上の異常はみられなかったので、騒ぎは3日で沈静化した。
「どうだい。ホントだと認めてくれるかい。この世界中の大騒ぎが「僕からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ」であったと認めてくれるかい」とYの声。「ホントだったんだね。まだ半信半疑の部分もあるんだけど、とりあえずホントだと認めるよ。」「『とりあえず』で充分さ。世界の科学的法則の全ては『とりあえず』の仮説だからね。これから、この僕の声と付き合い続けてくれればどんどん確信になっていくはずさ。」
終わり。
つまり、【ホントに】でさえゲームの中の言葉遣いでしかありえないのだから、そのような言語ゲームの具体的な例が示せれば、「“Y氏”からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ」を示せると考えています。以上、質問3への回答です。

4.件の状況において『Y氏が“フォンノイマン”の霊と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠とは何か?

たとえば、フォンノイマン本人しか知りえない秘密のお宝の場所を聞き出してきて、それが本当にその場所に見つかるかというようなテストが100回連続して成功すれば【ホント】であると認める・・・などという基準です。基本的に3と同様です。フォンノイマンの霊と【ホントに】交信している証拠として何を見せれば納得できるのかということを、Yと第三者で話し合い、ゲームのルール設定をします。そしてYの示す証拠が二人で決めた基準に達していれば、その相手は【ホントに】交信していることを認めるというゲームが成り立ちます。ここで、言語ゲームのルールを恣意的に二人だけで決められないと言うなかれ。アインシュタインが空間のねじれの計算の仕方を考えた時、空間のねじれという言葉の意味を数学的に定義しきめたのは、アインシュタインとヒルベルトの二人だけでした。そして二人だけで使っているときにその言葉はすでに有意味でした。新しい状況が発生したり新しい発見があったりしたときにそれを表現するためには新しい言語ゲームが必要です。いちいち社会の承認がなくても二人居ればゲーム設定は可能です。(僕はひとりでも可能だと考えていますがここの議論ではそこまで踏み込まなくてもいいでしょう。たぶん工藤さんは否定されるでしょうね。)ただし、その新しいルール設定の基盤にも人間としての習性は依然として残っています。岩盤だと思えていたルール基盤の上っ張りが、状況の変化や新発見によって砕けて、その下のさらに固い岩盤が現れたのでそこに新しいルールを乗っけたということです。

以上質問4までの回答です。ぜひとも、この回答のどこがどのようにダメで、どのように考えたらいいのかを、具体的に、噛み砕いて、前向きにポジティブに(できれば否定文ではなく肯定文で)、指摘してください。ここまでの延々の話し合いにもかかわらず当方本当に何も理解できておりませんので、そのおつもりでお答えください。

「僕のいわゆる胡乱な思考実験が概念的にダメだとする判断は、クワス算が正しい足し算ではないという判断のように、日常の言語ゲームから外れているような規則解釈がその言語理解から除外できるという判断だと考えてもいいのでしょうか」についても併せてお願いします。

コメント欄がいっぱいになってきましたので、次ページに移ります。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ:

« 思考実験に対する状況の解釈と言語の限界についての考察 | トップページ | 2013/7/21大阪哲学道場発表メモ »