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2013年7月 2日 (火)

「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ

思考実験の内容

永井均「ウィトゲンシュタインの誤診」p204の思考実験は次のような事例である。
「C、N、Yという三人の人間を考えよ。彼らはたんなる三個の人体ではなく、独立の記憶をもったごくふつうの三人の人間であるとする。さて、いまCの身体の左手に何らかの衝撃が加わり、Cの左手のある部分が損傷を被ったとする。当然、損傷を被ったその箇所に痛みが感じられる。損傷を被り、痛みが感じられるその箇所が、当然また治療を受けるべき箇所である。ところでなぜかC自身は痛くも痒くもない、としよう。Cの左手に強い衝撃が加わり損傷を被った痛みが生じた瞬間、顔をしかめ、口からうめき声を発したのは付近にいたNであった。そのうめき声の延長線上に、Nはまた言語によって「痛い、痛い」と発語もしたとする。「私は痛い」という意味の言葉が発せられたと想定してもよい。さて、ところで、そのNもまた、痛くも痒くも感じてはいない、としよう。彼の役割は(主として口からの)表出者としての役割にすぎない。実際に痛いのは、CでもNでもなく、彼らの付近にいたYという第三の人物である。彼は、Cの左手が損傷を被った瞬間、そこに痛みを感じた人物であり、だからおそらくは思わず、しかしなぜかNの口からうめき声を発し、かつ「私は痛い」と発語した人物でもある。」
これによって、永井は「この思考実験は、痛みを感じている人物が「ゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人である」という主張の反例となりうる」と、主張する。Yが痛みを感じている本人なのに、それは傷を被った人でも、痛みを表出している人でもないのだから、この永井の主張は一見正しいように見える。しかしここには誤解がある。この思考実験は、ウィトゲンシュタインの主張への反例としてはダメなのである。

何がダメなのかと言うと、ここで扱われている人物表現の記述は「たんなる三個の人体ではなく、独立の記憶をもったごくふつうの三人の人間である」としているのだが、思考実験の内容は、痛みを感じている人物主体と痛みを受けているべき人物客体の分離にほかならない。この思考実験は、このねじれの混乱から生じた誤解でしかないのだ。

話を単純化して考えてみよう

そこで、このことを考えていくために、いったん、このC、N、Yの三者をたんなる三個の人体とすることにして話を簡単にする。そして、「私は痛い」という文についてその「私」とはいかなる存在かを検討してみる。スタートは「私は痛い」という文であって、痛いのはまず「私」だとするのである。
まずCについて、Cとは左手に傷を負う人体である。Cの体が傷を負うと「私」が痛みを感じるのである。ということはつまり、Cは私の感覚器官だということにならないか。思考実験の設定ではCの身体が受けた傷のことだけしか述べられていなかったので、Cの目から見える情景が「私」に見えているのか、Cの耳から入った音が「私」に聞こえているのかは設定外の内容であって、見えているとも見えていないとも言えるものではない。しかし、ここでは考えやすくするためにCの目に見えている情景は「私」に見えていることに設定してしまおう。Cの耳に聞こえている音も「私」に聞こえ、Cの頬を撫でる風も「私」に感じられる、ということにするのだ。そうすると、Cは私の感覚器官であり、私の体だと言えるものだと考えられる。ただし、Cは私の主体ではない。「私」という主体が感覚を得るための、「客体」としての私なのである。
次に、Nとは、痛みに対する振舞いをする人体である。「私」が痛みを感じた瞬間に、顔をしかめ「痛い」と発語する。ということはつまり、Nは「私」の運動器官ということだ。思考実験の設定ではNの顔がしかめられ、口が「痛い」と発語することだけしか述べられていなかったので、「私」が手を上げようとするときNの手は上がるのか、「私」が駆けようとするときNの足は動くのかは設定外の内容であって、手が上がるとも上がらないとも言えるものではない。しかし、ここでは考えやすくするために「私」が手を上げようとするとNの手が上がるという設定にしてしまおう。「私」が駆けようとするとNの足が走り出し、「私」が話そうとすると、Nの口が発声する、ということにするのだ。そうすると、Nは私の運動器官であり、私の体だと言えるものだと考えられる。ただし、Nは私の主体ではない。「私」という主体が物理的活動をするための、「客体」としての私なのである。
そして、Yとは、「私」が「痛み」そのものを感じる人体である。主体としての私が痛みを感じるとき、その痛みはYが感じたものだというのである。しかし、これはおかしくないか。なぜYが痛みを感じた対象だと分かるのだろう。これについて永井は次のように言う。
「痛みを感じているのがYであることがどうしてわかるのか。こう問われたならY自身にとって直接的にと答えるほかあるまい。もしYにはなぜ自分の痛みだと分かるのか、と問われるなら、Yの独我論によってと答えるべきであろう」と。
なるほど確かに、Y自身にとって自分の感じている痛みを他者の痛みと読み誤るはずはないだろう。だったら、この痛みはYの痛みに違いないはずか。ところが、これはおかしい。永井がそう言うのならわれわれは「なぜYが私だとわかったのか」と問わねばならないのだ。思考実験の設定では、Yは端的に、「Cに私の痛みを感じる人物であり、Nの体を動かす人物である」とされていたが、「Cに私の痛みを感じ、Nの体を動かす」のは「主体」としての「私」であって、決して「客体」としてのYの身体ではない。思考実験の文脈から考えるとおそらくYはふだん「私」の感覚器官であり、運動器官として働いているものであって、Yが「私」の身体であることは明らかなのであろう。しかし、ここでは、すでにNとYを感覚器官と運動器官に当てた。また、話を簡単にするために、Yは、純粋に主体としての「私」をそれのみで受け止めている身体とし、感覚器官でも運動器官でもないとしてみよう。そうすると、どうだろう。「私」が痛みを感じるとき、Cが傷を受けていて、Nが痛い振舞いをする。世界はCの目から見え、「私」がコーヒーを飲もうとするとNの手がカップを持ち上げCの口へコーヒーを流し込む、Cの口に流れ込んだコーヒーを「私」は味わう。Yはどこにも出てこない。そうなのだ、もともと、「私」とは、世界の内部には存在しない、世界に対する主体であるのに対して、Yという身体は世界の中に存在する客体でしかない。「私」とYを何の関係も設定しないままに、そのむき出しの存在のままで結びつけようとするのは無理な話であって、カテゴリーミステイクなのだ。
だから、Yは単に私とは何の関係もない身体でしかないことになる。「実際に痛いのはYだ」という主張文は、言語ゲームの射程範囲を超えたナンセンスなたわ言でしかないのだ。

思考実験の設定で考えてみよう

では、次に、かなり煩雑な話になるが、C、N、Yを「たんなる三個の人体ではなく、独立の記憶をもったごくふつうの三人の人間である」という、永井の思考実験そのままの設定で考えてみる。それでも「実際に痛いのはYだ」という主張文が何の意味も持たないナンセンスな擬似文になるのだろうか。結論から言うともちろんナンセンスになる。
こうである。

思考実験の再記述

C、N、Yは独立の記憶を持った人間であって、それぞれに独立の主体のもとに独立の感覚をもち、独立の運動反応をもつ。つまり、Cは、主体Cのもとに、感覚器官Cとしての感覚身体Cと、運動器官Cとしての運動身体Cが、一人の人間存在として成立している。同様に、Nは、主体Nのもとに、感覚器官Nとしての感覚身体Nと、運動器官Nとしての運動身体Nが、一人の人間存在として成立しており、Yは、主体Yのもとに、感覚器官Yとしての感覚身体Yと、運動器官Yとしての運動身体Yが、一人の人間存在として成立している。
この前提の事態はまったくありきたりの普通の状況である。ここから思考実験の異常な出来事が起こる。
さて、いま感覚身体Cの左手に何らかの衝撃が加わり、感覚身体Cの左手のある部分が損傷を被ったとする。当然、損傷を被ったその箇所に痛みが感じられる。損傷を被り、痛みが感じられるその箇所が、当然また治療を受けるべき箇所である。ところで主体C自身は痛くも痒くもない。感覚身体Cの左手に強い衝撃が加わり損傷を被った痛みが生じた瞬間、顔をしかめ、口からうめき声を発したのは付近にいた運動身体Nであった。運動身体Nはまた言語によって「痛い、痛い」と発語もした。そのとき主体Nもまた、痛くも痒くも感じてはいない。実際に痛いのは、主体Cでも主体Nでもなく、彼らの付近にいた主体Yという第三の人物である。彼は、感覚身体Cの左手が損傷を被った瞬間、そこに痛みを感じた人物であり、だからおそらくは思わず、しかしなぜか運動身体Nの口からうめき声を発し、かつ「私は痛い」と発語した人物でもある。

こんな異常な状況だ。異常であるが、ナンセンスだろうか。ここまでは文法的に不可能というわけではないのじゃないか。否、実は言語ゲーム論で言えば、ここですでにナンセンスになっているのだ。
また、「この思考実験は、痛みを感じている人物が「ゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人である」という主張の反例となりうる」という主張が妥当であるかも問題になる。この思考実験で「痛みを感じている人物」は主体Yであり、「泣いたり顔をしかめたりする人」は運動身体Nなのであるから、一見、「痛みを感じている人物がゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人である」という状況が崩れて反例になっているかのように見える。しかし、これは、主体と客体の結び付け方の混乱でしかない。
主体Yが客体Yの主であることは「主体Yのもとに、感覚器官Yとしての感覚身体Yと、運動器官Yとしての運動身体Yが、一人の人間存在として成立している」ことによって、はじめて言い得るものとなる。主体Yが痛みを感じる時に運動身体Yや痛みの表出をすることによって、はじめて主体Yは身体Yの主たり得るのである。
だから、「主体Y」が痛みを感じたときに「身体Y」が反応せず「身体N」が反応したのであれば、主体と客体の関係の方が崩れる。「主体Y」が「身体Y」の主だとするゲームは終わってしまい、新しくゲームを立て直さねばならなくなるのだ。「主体Y」はYの主体ではなくなり、単なる「主体」でしかなくなってしまうのだ。無理に表現するとすれば「それまではYの主体であったものが、この傷に関しては感覚身体Cと運動身体Nの主体になったもの」というようなややこしい主体になるのであって、決して「主体Y」で片付けられるようなものではなくなる。このややこしい主体を主体Zと名づけよう。すると、「痛みを感じている人物がゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人である」という主張は、「痛みを感じている人物、つまり「それまではYの主体であったものが、この傷に関しては感覚身体Cと運動身体Nの主体になった主体Z」がゲームの規則によって、泣いたり顔をしかめたりする人、つまり身体Nの主体である」というしごく当然のことを言っているものになる。

だから、この思考実験は、ウィトゲンシュタインの主張への反例としてはダメなのである。
「私の痛み」という語が語る「私」はたんなる身体的な連続性によって同一性が保たれるとは限らない。「私」という基本的な語でさえ言語ゲームの実践の中でしか、その意味を考えることはできないものなのである。

ではでは、最後に、「主体Z」の用語を使って、この思考実験の状況を再記述してみることにアタックする。

思考実験の再々記述・決定版

こうである。
C、N、Yは独立の記憶を持った人間であって、それぞれに独立の主体のもとに独立の感覚をもち、独立の運動反応をもつ。つまり、Cは、主体Cのもとに、感覚器官Cとしての感覚身体Cと、運動器官Cとしての運動身体Cが、一人の人間存在として成立している。同様に、Nは、主体Nのもとに、感覚器官Nとしての感覚身体Nと、運動器官Nとしての運動身体Nが、一人の人間存在として成立しており、Yは、主体Yのもとに、感覚器官Yとしての感覚身体Yと、運動器官Yとしての運動身体Yが、一人の人間存在として成立していた。ところがこの後異常事態が起こり、言語設定が一変する。
いま感覚身体Cの左手に何らかの衝撃が加わり、感覚身体Cの左手のある部分が損傷を被った。当然、損傷を被ったその箇所に痛みが感じられる。損傷を被り、痛みが感じられるその箇所が、治療を受けるべき箇所である。このとき主体C自身は痛くも痒くもない。感覚身体Cの左手に強い衝撃が加わり損傷を被った痛みが生じた瞬間、顔をしかめ、口からうめき声を発したのは付近にいた運動身体Nであった。運動身体Nはまた言語によって「痛い、痛い」と発語もしたとする。そのとき主体Nもまた、痛くも痒くも感じてはいない。彼の役割は表出者としての役割にすぎない。実際に痛いのは、主体Cでも主体Nでもなく、彼らの付近にいた主体Z「それまではYの主体であったものが、この傷に関しては感覚身体Cと運動身体Nの主体になったもの」という人物である。彼は、感覚身体Cの左手が損傷を被った瞬間、そこに痛みを感じた人物であり、思わず運動身体Nの口からうめき声を発し、かつ「私は痛い」と発語した人物でもある。

とこうなるのである。
グロテスクであり、むちゃくちゃではあるが、一応ナンセンスではなくなって、有意味な文になった。

この思考実験、グロテスクな状況設定だからダメなわけじゃない。言語ゲームの射程を外れていることに気づかないまま、文法違反を犯している言葉づかいをしていたからダメなのだ。ただ、反例としてはダメなのだけど、この思考実験を考えること自体の意義は大きい。
痛みと主体と客体の関係のような一般的にはゲームのルールから外れてしまうことがあり得ないような、基本的な関係においても、この思考実験のような異常な状況では、崩れてしまう。そして、その時に、思考実験は、語とその意味の関係がどのように立ち上がるかを検証する手立てになり得る。そういう意味でこの思考実験自体は全然ダメじゃない。

 

 

こう考えてみると少し、はっきりしてきただろうか。やはり、痛みを感じている人物とはゲームの規則によって泣いたり顔をしかめたりする人なのである。原理的にそうなのである。

思いつき言々

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コメント

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

首肯しかねる部分も散見されますが、大凡の方向性は間違っていないのではないかと。僕のコメント


>つまり、事物の在り方に反していることによって、或る思考実験が不可能であることを判断するのは、科学の仕事であって哲学の仕事ではないんじゃないでしょうか。

(上の発言を読むにつけ、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)既に述べた

個人的な印象ですが、(横山さんに限らず)ウィトゲンシュタインの後期哲学に触れた人の多くは【ウィトゲンシュタインの哲学的営為における思考実験の目的と意義】を誤解しているように見えます。手段としての思考実験に拘泥した挙句、本来の目的は完全に見失われている―とでも言いましょうか。
「私が他人の身体に痛みを感じることは可能である」―これは【文法的注釈】として受け取られるべき「挿画」に過ぎないのです。重要なのは「挿画」ではなく、それが【示すもの】なのですから。
哲学は文法的探究―我々の概念構成の在り方を示すこと―であり、思考実験はその為の方便(の一つ)に過ぎません。

ように、或る思考実験の内実を明晰化することによって我々の概念構成の在り方を示すことは【哲学の領分】では(様々な不可能性の内実を明晰化することも又然り)。


も参考にして頂けたようで、非常に嬉しく思っております。例えば、以下の件

>痛みと主体と客体の関係のような一般的にはゲームのルールから外れてしまうことがあり得ないような、基本的な関係においても、この思考実験のような異常な状況では、崩れてしまう。そして、その時に、思考実験は、語とその意味の関係がどのように立ち上がるかを検証する手立てになり得る。そういう意味でこの思考実験自体は全然ダメじゃない。

などはそうですね。何と言いましょうか・・・安心致しました。

>この思考実験、グロテスクな状況設定だからダメなわけじゃない。言語ゲームの射程を外れていることに気づかないまま、文法違反を犯している言葉づかいをしていたからダメなのだ。ただ、反例としてはダメなのだけど、この思考実験を考えること自体の意義は大きい。

付言しますと、文法的考察によって得られた知見を形而上学的事実と錯認する―文法的探究と事実的探究の混同―のもダメだと思いますが。永井均氏や入不二基義さんなんかは「意図的に」やってるように見えますね。まあ、これは僕の個人的な印象?に過ぎません(と言っておきましょう・・・)。既に述べた


ところで、 「私が他人の身体に私が痛みを感じることは【可能】である」とか「痛みを感じ、または見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、『私は痛みを感じる』における『私』という語は或る特定の身体を指示してはいない、ということだけである。その『私』を或る特定の身体の記述で置き換えることは出来ないのだから」といったウィトゲンシュタインの発言は【一人称代名詞の使用に関する文法的注釈】であって、【今現に存在している身体的存在者―つまり固有名で指示されるような事物=人間である我々―に関する形而上学的主張ではない】のです。
(既述の通り)或る人物が突然発狂して「私はこの電信柱に痛みを感じている!」と【思い込んでいる】ケースは【あり得る】でしょうが、「人間(有機体)が電信柱(無機物)に痛みを感じる」という文は明瞭な意味を全く持っていない―②[事物]の在り方に反しているが故に無意味である―ように思われます。
何度でも繰り返しますが・・・①文法的混乱に由来するナンセンス(ex. 私は君の痛みを感じるetc)と②[事物]の在り方に反しているという意味でのナンセンス―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」といった主張のことですが―は全く別物です。そして、僕は以下の想定

>だから、同様に電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合、そしてそれが繰り返し起こる場合、「電信柱が痛む」という判断をするのは妥当である。

が②[事物]の在り方に反しているという理由でナンセンス(即ち不可能)と言ったのであって、これと①文法的混乱―私は君の痛みを感じるetc―に由来するナンセンス(不可能性)は区別していた筈ですが・・・。翻って、僕が文法問題と言ったのは【一人称の心理的言明の文法的特殊性から生じた似非問題】―例えば「私が君の痛みを感じることは可能である」や「私が君の身体に痛みを感じることは可能である」等々―です。


ように、一人称代名詞「私」の適用について考察すること―例えば「私は他人の身体や電信柱に痛みを感じる」の有意味性を検討する等々―は、或る形而上学的主張の内実を明晰化すること―例えば「人間(有機体)が電信柱(無機物)に痛みを感じる」の真偽性を検討する等々―ではないのですから。

(或る文の真偽を問うことと文法的探究の差異について。以下、再録しておきます)

>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。

さて、では、件の思考実験に対する僕の見解を述べさせて頂きます。半年ほど(というか実際には一年近く)前にツイートした分も含めて纏めてみましょうか。
今しばらくお待ちください。

とりあえず、横山さんが言及しなかった論点も取り上げつつ、外堀から埋めていこうと思います。
先ず、件の思考実験については、『哲学探究』361節「この椅子は独りで考えている・・・としよう。しからば【何処】で。その或る一部分においてか。或は、その外部においてか、例えばそれを取り巻く空気においてか。或は、全く【何処で】でもないのか。とはいえ、この椅子が内的に語っているのと、その隣りの椅子が内的に語っているのとの間の区別は何であろうか」が参考になると思います。
抑も我々が或る物的対象に対して感覚や思考を帰属させるなどということを【考え得る】のは、我々が感覚や思考を持ち得る主体としての<この椅子><あの椅子><その椅子>etc・・・即ち【主体】概念を把持しているからなのだが、想定された主体が如何なる領域と境界を持つのかに関する我々の規定は恣意的なものである。とはいえ、我々が他人や動物等に対して感覚・感情・主体(心)を認めるのは【我々の生活形式の一部~魂に対する態度】なのである。―私見ですが、ウィトゲンシュタインはそのようなことを考えていたと思います。
従って、永井均『誤診』30頁や204頁①NYCのような思考実験は、パースペクティブ性と指標性の他は未規定であるような【主体】概念―商売上の理由で永井氏は認めないと思いますが、この【主体】概念こそ<この私>~《主体一般》の本体なのです―の不明瞭・曖昧性に便乗した上で構成されているわけです。
もうお気づきかと思いますが、横山さんの言う<主体Y>と<この椅子>或は<この私>はパラレルです。とはいえ、既に示唆した


ところで、「私が他人の身体に痛みを感じることは【可能】である」というウィトゲンシュタインの発言は【一人称代名詞の用法から導出された文法的可能性に関する注釈】だったわけですから、ここで我々は[事物]の在り方に関わる問い「工藤庄平は横山信幸の身体や電信柱や天竜川etcに痛みを感じることは【可能】か?」を提出してみましょう。
件の問いを通して、我々の文法と[事物]の在り方を架橋する幾つかの事柄が示される筈ですから。

>その想像の先、他者の腹に自分の痛みがあるという状況を考えることも可能だ。

先ず、"僕"は[工藤庄平なる身体から開けた生]以外の何者でもありません。そして、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]以外の人々が知覚する工藤庄平という名の人物です。"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は、ウィトゲンシュタインの発言「私が他人の身体に痛みを感じることは【可能】である」に登場する「私=一人称代名詞」ではないのです。従って、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]と工藤庄平なる人物を切り離すことは出来ません。
さて、では、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]が電信柱や天竜川に痛みを感じることは可能でしょうか? 否。工藤庄平の神経系を無機物であり・抑も神経系を持たない電信柱や天竜川に接続するのはナンセンスでしょう。


ように、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]であり、かつ"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]以外の人々が知覚したり・話しかけたり出来る工藤庄平という人物です。要するに、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は、ウィトゲンシュタインの発言「私が他人の身体に痛みを感じることは【可能】である」に登場するような一人称代名詞「私」ではありません。
話は飛びますが、永井均氏の言説を信捧する人は(ほぼ例外なく)"自ら"が現にそうで在るところの現存在~指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]と、永井均氏が言うところの「身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>」なる概念的構成物を混同してしまっているようです。まあ、この話は既に縷言した

付言しますと、文法的考察によって得られた知見を形而上学的事実と錯認する―文法的探究と事実的探究の混同―のもダメだと思いますが。永井均氏や入不二基義さんなんかは「意図的に」やってるように見えますね。まあ、これは僕の個人的な印象?に過ぎません(と言っておきましょう・・・)。
一人称代名詞「私」の適用について考察すること―例えば「私は他人の身体や電信柱に痛みを感じる」の有意味性を検討する等々―は、或る形而上学的主張の内実を明晰化すること―例えば「人間(有機体)が電信柱(無機物)に痛みを感じる」の真偽性を検討する等々―ではないのですから。

と思いますので・・・。

先取り的に言っておきますと、僕は横山さんの言う「思考実験の再々記述・決定版」


こうである。
C、N、Yは独立の記憶を持った人間であって、それぞれに独立の主体のもとに独立の感覚をもち、独立の運動反応をもつ。つまり、Cは、主体Cのもとに、感覚器官Cとしての感覚身体Cと、運動器官Cとしての運動身体Cが、一人の人間存在として成立している。同様に、Nは、主体Nのもとに、感覚器官Nとしての感覚身体Nと、運動器官Nとしての運動身体Nが、一人の人間存在として成立しており、Yは、主体Yのもとに、感覚器官Yとしての感覚身体Yと、運動器官Yとしての運動身体Yが、一人の人間存在として成立していた。ところがこの後異常事態が起こり、言語設定が一変する。
いま感覚身体Cの左手に何らかの衝撃が加わり、感覚身体Cの左手のある部分が損傷を被った。当然、損傷を被ったその箇所に痛みが感じられる。損傷を被り、痛みが感じられるその箇所が、治療を受けるべき箇所である。このとき主体C自身は痛くも痒くもない。感覚身体Cの左手に強い衝撃が加わり損傷を被った痛みが生じた瞬間、顔をしかめ、口からうめき声を発したのは付近にいた運動身体Nであった。運動身体Nはまた言語によって「痛い、痛い」と発語もしたとする。そのとき主体Nもまた、痛くも痒くも感じてはいない。彼の役割は表出者としての役割にすぎない。実際に痛いのは、主体Cでも主体Nでもなく、彼らの付近にいた主体Z「それまではYの主体であったものが、この傷に関しては感覚身体Cと運動身体Nの主体になったもの」という人物である。彼は、感覚身体Cの左手が損傷を被った瞬間、そこに痛みを感じた人物であり、思わず運動身体Nの口からうめき声を発し、かつ「私は痛い」と発語した人物でもある。

とこうなるのである。
グロテスクであり、むちゃくちゃではあるが、一応ナンセンスではなくなって、有意味な文になった。


はナンセンスだと考えています。では、何故そう考えるのか。

と、その前に・・・『誤診』本文を瞥見しておきましょうか。
では始めに、本文205~206頁「もしYにはなぜ自分の痛みだと分かるのか、と問われたなら、【Yの独我論によって】、と答えるべきであろう。【Yが私である】世界(現実に感覚が生じるのはYだけである世界)において、世界に痛みが生起するとはすなわちYが痛いことなのだから-略-【この状況理解】には【他人の独我論の承認が不可欠な役割を果たす】ことになる。なにしろ、Yの身体はいかなる損傷も被っておらず、Yの身体はいかなる痛みの反応もしていないのに、痛いのは【彼】なのだから」について考えてみたいと思います。
先ず、極めて単純な疑問があります。抑もここで「独我論」を持ち出す必要があるのでしょうか? ―否。以下の論述

抑も我々が或る物的対象に対して感覚や思考を帰属させるなどということを【考え得る】のは、我々が感覚や思考を持ち得る主体としての<この椅子><あの椅子><その椅子>etc・・・即ち【主体】概念を把持しているからなのだが、想定された主体が如何なる領域と境界を持つのかに関する我々の規定は恣意的なものである。とはいえ、我々が他人や動物等に対して感覚・感情・主体(心)を認めるのは【我々の生活形式の一部~魂に対する態度】なのである。―私見ですが、ウィトゲンシュタインはそのようなことを考えていたと思います。
従って、永井均『誤診』30頁や204頁①NYCのような思考実験は、パースペクティブ性と指標性の他は未規定であるような【主体】概念―商売上の理由で永井氏は認めないと思いますが、この【主体】概念こそ<この私>~《主体一般》の本体なのです―の不明瞭・曖昧性に便乗した上で構成されているわけです。
もうお気づきかと思いますが、横山さんの言う<主体Y>と<この椅子>或は<この私>はパラレルです。

を思い出して頂きたいのですが、件の想定に必要なのは【主体】概念であって、「独我論」ではありません(永井均氏の主張に反して)。事柄に即して考えれば、そうなります。傍証として?本文205~206頁を書き直してみましょうか。

「もしYにはなぜ自分の痛みだと分かるのか、と問われたなら、【我々がYに<主体Y>概念を適用することによって】、と答えるべきであろう。【Yが<主体Y>である】世界(現実に感覚が生じるのはYだけである世界)において、世界に痛みが生起するとはすなわちYが痛いことなのだから-略-【この状況理解】には【<主体Y>概念が不可欠な役割を果たす】ことになる。なにしろ、Yの身体はいかなる損傷も被っておらず、Yの身体はいかなる痛みの反応もしていないのに、痛いのは【<主体Y>】なのだから」

どうでしょう。不自然極まりない永井氏の表現と比べてみてください。一「読」瞭然ではありませんか。

では、次に、『誤診』本文206頁「もちろん【他人】は、これにさらに【Y(とNとC)の発言の誠実性】に対する信頼が加わらなければ、このような状況が実際に成立したと【信じる】ことはできないだろう」を検討してみます。
言うまでもなく、ポイントは件の思考実験における【他人=第三者】―件の状況を「三人称的に」捉えざるを得ない人々―の視点でしょう。付言しますと、永井氏は件の状況が形而上学的な事実を示している?と言いたいようですが、抑も或る人物の発言を【信じる】ことは、その発言の真偽やそこで語られている状況が『あり得る』か否かとは独立・無関係です。話を戻せば、既に示唆した


>次に、双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると、姉の右腕は何ともないが、姉の表情は険しくなり、姉の口が「痛い」という声を発する。

先ず、件の状況を【①『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』の
意味で】考えてみます。すると、この状況は「おそらく妹は痛みに堪えながらポーカーフェイスを装っており、姉の方は痛いふりをして『痛い』と発語したのだ」と解釈されることになるでしょう。基より、これが【①における解釈】の全てではありません。他に「おそらく妹は痛みに堪えながらポーカーフェイスを装っており、【頭のおかしい】姉は妹の身体に"自分の"痛みが生じていると【思い込んでいる】のだ」という解釈もあると思います。
何れにせよ、ここで留意すべきことは、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]や横山さんがこの姉妹(=概念的構成物)ではない、ということです。


通り、[現実]に"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]や横山さんはY・C・N(=概念的構成物)ではないのですから、ここには[現実]と言語のギャップが横たわっているわけです。とはいえ、我々は【主体】概念を適用することによって、件の状況を「一人称的に」理解し得るのではないでしょうか? 既に述べた


従って、永井均『誤診』30頁や204頁①NYCのような思考実験は、パースペクティブ性と指標性の他は未規定であるような【主体】概念―商売上の理由で永井氏は認めないと思いますが、この【主体】概念こそ<この私>~《主体一般》の本体なのです―の不明瞭・曖昧性に便乗した上で構成されているわけです。
もうお気づきかと思いますが、横山さんの言う<主体Y>と<この椅子>或は<この私>はパラレルです。
「もしYにはなぜ自分の痛みだと分かるのか、と問われたなら、【我々がYに<主体Y>概念を適用することによって】、と答えるべきであろう。【Yが<主体Y>である】世界(現実に感覚が生じるのはYだけである世界)において、世界に痛みが生起するとはすなわちYが痛いことなのだから-略-【この状況理解】には【<主体Y>概念が不可欠な役割を果たす】ことになる。なにしろ、Yの身体はいかなる損傷も被っておらず、Yの身体はいかなる痛みの反応もしていないのに、痛いのは【<主体Y>】なのだから」


ように、件の状況理解には<主体Y>概念が不可欠なのですから。

では、最後に、『誤診』本文206頁「それは結局、【自分の場合にかんして】、そういうことが【起こりうる】(自分がYでありうる)と【感じることに帰着する】だろう。つまり、この三人の中で【Yの役割】だけは、世界における自分自身の存在(を相対化すること)によってしか理解できないだろう。おそらくはこれが、【他者の存在ということの意味】である」について考えてみたいと思います。
先ず、既に示唆した

"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]であり、かつ"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]以外の人々が知覚したり・話しかけたり出来る工藤庄平という人物です。要するに、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は、ウィトゲンシュタインの発言「私が他人の身体に痛みを感じることは【可能】である」に登場するような一人称代名詞「私」ではありません。

ように、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]が"僕自身"=[工藤庄平なる身体から開けた生]を相対化する(永井氏の言葉)ことは出来ませんし、「"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]がYであり得る」とも思いません。"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は【主体】概念―<この私>・《私一般》、商売上の理由で永井均氏は認めないでしょうが、<あの彼>・<その君>・《彼一般》etc―ではないのですから。
永井氏の主張を逆手にとって言えば、【主体】概念こそ我々が相対化し得るものに他なりません。お気付きでしょうが、【主体】概念には人称間の論理的な対応関係が組み込まれています。<この私>と区別される君や彼は《私一般》或は<他の私>であり、かつ<他の私>から見れば<この私>も又<他の私>であり・・・云々。これは誰もが認めざるを得ない文法的事実だと思いますし、(先の発言と矛盾するようですが)実際には永井氏も認めているのです。
上の引用で、永井氏は「つまり、この三人の中で【Yの役割】だけは、世界における自分自身の存在(を相対化すること)によってしか理解できないだろう。おそらくはこれが、【他者の存在ということの意味】である」と言っていますね。ここで【他者の存在ということの意味】なるフレーズに注目してください。事柄に即して考える限り、これは【主体】概念に組み込まれた人称間の論理的な対応関係を指している、と言わざるを得ません。即ち、<この私>と区別される君や彼は《私一般》或は<他の私>であり、かつ<他の私>から見れば<この私>も又<他の私>であり・・・云々、と。

まだまだ書き足りないこともありますが、これでようやく横山さんの言う「思考実験の再々記述・決定版」の検討に移ることが出来ます。
では先ず、件の思考実験で語られている【感覚身体】や【運動身体】なる代物(発想)の出自を指摘するところから始めたいと思います。
例えば、実際はどこも痛くないのに痛いふりをすること、実際は痛いのにそれを表情に出さないこと、実際はどこも痛くないのに「痛い」と言う(発語する)こと、外的脈絡(ex. 殴られる、蜂に刺される、転倒して腰を強打するetc)なしに突然痛みが生じること、外的脈絡(ex. 転倒して腰を強打するetc)があっても痛みが生じない場合etcの【文法的差異】或は【経験的事実】について考えてみてください。思い当たる節がある筈です。
そして、これらの事柄が示しているのは、我々が外的脈絡(ex. 殴られる、蜂に刺される、転倒して腰を強打するetc)/泣く顔を顰める呻く等の自然発生的な表出/意図的な表明/嘘泣き等の偽装行為/痛覚それ自体 を区別しつつ、それらの連関と独立性を把握しているという【文法的かつ経験的な事実】に他なりません。
私見ですが、永井氏の(本人曰く)形而上学的?主張、或は横山さんの言う【感覚身体】や【運動身体】なる代物(発想)の出自―少なくともその一つ―はここにあると思われます。永井氏の思考実験を例にすると、Cは外的脈絡→左手の損傷、Nが「表出と発語(永井氏の言葉。cf. 『誤診』205頁)」、Yは「痛覚と意図的な表明(cf. 『誤診』206頁)を其々担当するわけですが、これは先述した【文法的差異】を前提しています。
しかしながら、既に示唆した


明らかにウィトゲンシュタインは、独我論者の表現形式は我々の通常の表現法が覆い隠している或る重要な【哲学的真理】を照らし出している、と考えているように見える(クリプキ)

―前後の文脈を見る限り、ここで示唆されている【哲学的真理】は、永井均『誤診』136頁の問い―なぜ「つねにルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインである」ではなく「つねに私である」と言いたいのか―に対する解答と一致するように思われる。
例えば「私は今左肩が痛い」というような一人称の心理的言明を為す際に、自分の身体や振る舞いを観察する必要はないだろう。この意味で、一人称の心理的言明は自分の身体に関する知識と独立である。
同様に、「私は昨日蕎麦を食べたことを憶えている」というような一人称の記憶言明を為す際に、自分の身体を調べてそれが昨日と同じ身体だと確信する必要はない。つまり、記憶に基づいて為される自分の過去についての言明は、自分の現在の身体と過去のそれとの【関係】についての知識に基づいてはいないのである。
実際には、自分の記憶に基づかなければ、身体の同一性に関する判断が真であるということは知りえないし、それに関する身体的な基準(時空的連続性)を適用することも出来なくなるであろう。従って【この種の言明】について言えば、身体的な用語で自己を記述出来なければならないということは「私」という語を使用し得るための条件ではないのだ。【この種の言明】における「私」という語は身体的記述の省略形ではないのだから。
永井均氏の主張に反して、他人の身体に私が痛みを感じることは【可能である】とか「痛みを感じ、または見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、『私は痛みを感じる』における『私』という語は或る特定の身体を指示してはいない、ということだけである。その『私』を或る特定の身体の記述で置き換えることは出来ないのだから」というウィトゲンシュタインの発言は、このことを【比喩的に】述べたものに過ぎない(永井均氏の主張に反して)。
この辺の事情については、『哲学探究』404・405節も参照して頂きたい。
畢竟、この議論のポイントは【私と身体の概念上の区別を実在的な区別に短絡させてはならない http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564】ということであって、それこそがクリプキの言う【哲学的真理】の核心であったと考えられるのである。
事柄に即して考える限り、氏は「ウィトゲンシュタインのこの画期的な洞察(永井均『誤診』240頁)」を捉え損なっていると言わざるを得ない。

言うまでもない?と思いますが、【哲学的真理=我々の概念構成の在り方】でしょう。


ように、一人称的視点である主体(概念)は第三者が観察する身体(概念)とは文法的に区別されるという見解から、前者は後者を前提・含意しないということは帰結しません。それは唯、我々が一人称の心理的言明を為す際に(通常)自分の身体や振る舞いを観察する必要はない、別の言い方をすれば、我々が「同定に基づかない自己知(cf. 『誤診』207頁)」を持ち得ると言っているに過ぎず、一人称的視点である主体(概念)は第三者が観察する身体(概念)を前提・含意しないという結論を導出しているわけではないのですから。

補足しますと、横山さんの言う「主体Z」は永井均氏の言う【独在的身体】にアレンジを加えたものと見ることも出来ますね。
僕としんいさんの遣り取り
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
を参照して頂けたのでしょうか。
猶、永井氏によれば、「口を持つ特定の身体との関係が偶然的な【独在的身体】が存在し、かつ【独在的身体】と"私"の関係も又偶然的なのだ」そうです(cf. 『聖家族』266~268頁)。

まだ続きますが・・・今しばらくお待ちください。

おはようございます、工藤です。昨日は仕事で家を空けており、コメントの追加が出来ませんでした。
少し仮眠を取った後で、コメントさせて頂きます。

>もともと、「私」とは、世界の内部には存在しない、世界に対する主体であるのに対して、Yという身体は世界の中に存在する客体でしかない。「私」とYを何の関係も設定しないままに、そのむき出しの存在のままで結びつけようとするのは無理な話であって、カテゴリーミステイクなのだ。

【もともと】、「私」とは、【世界の内部には存在しない、世界に対する主体】である??―オカシイですね。関係の設定云々以前に、抑も「世界の内部には存在しない、世界に対する主体」―『論考』の【形而上学的主体】もそうですね―などという代物を持ち出す必要があるのでしょうか? ―否。既に示唆した

話は飛びますが、永井均氏の言説を信捧する人は(ほぼ例外なく)"自ら"が現にそうで在るところの現存在~指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]と、永井均氏が言うところの「身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>」なる概念的構成物を混同してしまっているようです。

ように、[固有名を与えられた身体から開けた生]が指示・伝達・並列不可能であるという[端的な事実]は「形而上学的主体は世界の内部に存在しない」という主張とは無関係ですし、[固有名を与えられた身体から開けた生]は[事物世界]の中に存在しています。まあ、それ以前に、抑も【世界の内部には存在しない、世界に対する主体】という規定そのものが矛盾を抱えているわけですが・・・。
話を戻しますと、ポイントは「世界」という語の多義性―精確には【誤用】―だと思います。私見では、「私」とは【もともと】[事物世界]の内部に存在する有機体(人間)が自らを「世界内の一主体」として把握する―付言しますと、再帰的な自己了解と主体概念の成立は不可分かつ同時的だと思われます―ことによって【はじめて】成立した「言葉(概念)」です。従って、「私」という語が[事物世界]に内属する存在者―工藤庄平や横山信幸や菅直人etc―を【指す】のは(永井氏等の言説に誑かされていない限り)当然ですし、「私」の主体(一人称的)用法にしても、それが有意味たり得るのは【我々の言語ゲームに位置付けられる限りにおいて】なのですから(cf. 相互的な私秘性)。
そういう意味で、横山さんのご主張

>「私」という基本的な語でさえ言語ゲームの実践の中でしか、その意味を考えることはできないものなのである。

は至極真っ当なものだと思います。

とはいえ、横山さんの言う「思考実験の再々記述・決定版」がご自身の発言

>言語ゲームの実践の中でしか、その意味を考えることはできないものなのである。

を満足させ得るのかどうか・・・。

先取り的に言ってしまうと、これら一連の思考実験に通底しているのは【状況描写における一人称的視点と三人称的視点の混同・混乱】でしょうね。
とりあえず、問題の所在をわかりやすくする為に、件の思考実験をアレンジしてみましょうか。

Y氏とK氏は銀座を散歩しながら話をしている。
Y氏「ここは銀座一丁目―さっき『ホテルモントレラ・スールギンザ』を通り過ぎたのを覚えている―だよね。まあ、それはともかく・・・君には黙っていたけど、十分くらい前かな、いきなり左手が痛くなったんだよ。でも、その左手は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、モスクワ在住の大工ウラジミール・ソコロフ氏の左手だったんだ。そのとき彼はカナヅチで自分の左手を叩いたんだよ。そして、そのとき僕は「痛い!」と叫んでしまったんだけど、その叫び声を出した口は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、リオデジャネイロ在住の大学生フランシスコ・アイマール君の口だったんだ。そのとき彼は友人とフットサルをしていたんだが、別に誰かに蹴られたりしたわけじゃない。それで、そのとき僕にはエジプトの?スフィンクスらしきものが見えていたんだけど、それを見ていた眼は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくてフランスからの旅行者フランソワ・ジダン氏の両眼だったんだ。どうだろう、この話・・・君は信じてくれるかい?」

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。じゃあ、とりあえず、幾つか質問させてもらうよ。
①今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故かつて(十分くらい前に)自分が今君が話してくれたような状況にあったことを【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えている】からだ」と答えても何にもならないよね。例えば(通常)或る人が「僕は東京タワーを【見ている】のだ」と主張する場合、彼以外の第三者がその主張の真偽をチェック出来る。彼の視線が東京タワーに向いているか、彼が見ているのは東京タワーではなく東京タワーの写真なのかどうか、彼が自分の想像表象と[実物]の―彼や第三者が視認し得る―東京タワーを取り違えていないかどうか等々。もし第三者によるチェックが【原理的に】不可能であるとすれば、その事柄については「それが生起したこと」と「それが生起したと或る人が【思い込んでいる】こと」を区別出来ないんじゃないかな。だから、そんな代物はゲームの指手にはならないし、なり得ないよね。
②(質問①に関連して)今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故ソコロフ、アイマール、ジダン各氏の個人情報とそのとき彼らが置かれていた状況を【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えているから】だ」とか「かつて(十分くらい前)の僕がそれらの状況を【見ていた】からだ」と答えても何にもならないよね。仮に或る人が「僕は昨日東京タワーを見たのを覚えている」と主張したとしても、それが記憶違いだった―覚えていると【思い込んでいた】が実際は違っていた―ということも『あり得る』わけだし、君の言う状況が【原理的に】第三者によるチェックを受け付けないものであるなら、さっきと同じ話になる。そして、【本当に】【そのとき】君がそれらの状況を【見ていた】のだとすれば、君の言う?ジダン氏の視線と君の言う?スフィンクスらしきものとの関係と【そのとき】銀座を闊歩していたY氏なる身体との繋がりに加えて、それら全てと今の君―僕から見れば、Y氏なる身体的存在者なのだが―との関係(言うまでもなく【それら一連の記憶】も含めて)は、第三者によるチェックが「可能な」ものでなければならない。記憶と思い込みの違いは別にしても、そうでなければ又さっきと同じ話になってしまうからね。
要するに、こういうことかな。或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】を前提・含意している、と。別の言い方をすれば、或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である、ということ。まあ、他にもツッコミたい所はあるんだけど・・・そんなことより鮨でも食べに行かないか? せっかく銀座まで来たんだから」

Y氏「そうしよう。小腹も空いてきたことだし。この辺で良い店でも知ってるのかい?」

K氏「『次郎』にでも行こうか。君のおごりで」

素晴らしい。実に実に面白いです。
話が具体的になると、やっぱりわかりやすいですね。僕の意見をどのように受け取られていたのか、どういう意味で否定されていたのか、ようやくわかってきた気がします。

ここからの話の展開もすごく楽しみにしています。

>素晴らしい。実に実に面白いです。
話が具体的になると、やっぱりわかりやすいですね。僕の意見をどのように受け取られていたのか、どういう意味で否定されていたのか、ようやくわかってきた気がします。

有難いお言葉です。横山さんの永井批判も的確でしたよ。

>ここからの話の展開もすごく楽しみにしています。

これまで書き溜めたものを纏めている最中でして。近いうちに「形」になれば、と。

ご参考になれば幸甚です。

工藤さんのいう「主体概念」がどうも掴みにくいのですが、
独我論的に或いは一人称的に主体の対象を求めようとするのではなく、
三人称的に、或る身体に対して主体が存在しているものだとする言語ゲームのなかで「身体のあるじとなっている心的存在」を意味するものとして考えていいのでしょうか。
「状況描写における一人称視点と三人称視点の混同混乱」の論点と「主体概念」とはどのような関係にあるのかを読み取りたいと頑張っています。

>独我論的に或いは一人称的に主体の対象を求めようとするのではなく、
三人称的に、或る身体に対して主体が存在しているものだとする言語ゲームのなかで「身体のあるじとなっている心的存在」を意味するものとして考えていいのでしょうか。

「身体のあるじ」という表現に引っ掛かりを感じますが・・・ポイントは【主体概念には人称間の論理的な対応関係が組み込まれている】ということでしょうか。

既出コメントの中に考えるヒントが見つかるかも?しれません。

工藤さんに、また反論文を提出します。正確には反論ではないのですが。

ちょっと待って。この話はまだ考える余地がありそうだよ。

Yハ タチドマッテ、フタタビ ハナシダシタ。

実は、僕とソコロフとアイマールとジダンは、1か月前に、偶然、ちょうどこの場所に一緒にいたんだよ。そのとき、すぐ近くの木に落雷があってね。どうやら、その落雷がこの怪現象と関係があるらしいんだが、その時以来、ソコロフが彼の左手を叩くと、アイマールの口が痛いと叫び、その痛みを僕が感じ、ジダンの眼に映る光景が僕に見えるようになったんだ。僕たち4人は初め、この怪現象が信じられなくて、いろいろ実検してみたんだ。4人が互いに見えない場所に立ってみて、ソコロフの好きなどんなタイミングで左手を叩いてみても、その瞬間瞬間にアイマールの口は痛いと叫び、僕には、痛みとジダンの見るべき光景視角を感じることを確かめた。僕たちは100回以上確かめたが、何れも完璧な実検結果だったよ。僕からは到底見えないはずの情報をジダンの眼から見て言い当てることも自在にできた。
この実検、4人の距離を徐々に離していって確かめているんだか、今日、それぞれが互いに違う大陸に別れて試してみたんだ。それが10分前の実検さ。やはり予想通りの結果だったよ。さっきジダンに電話して確かめたんだが、スフィンクスが突然のどしゃ降りにずぶ濡れになっているという、僕の知らないはずの事実を、僕は言い当てられたんだ。

ウィトゲンシュタインは「探究」の199節で、一生にたった一度だけ或る規則に従うことは不可能だと言った。対象が1つしかない規則なんて原理的に無理だからね。科学的検証についても同じことが言えるよね。実検対象が1つしかないところから、何らかの規則や法則をでっち上げるなんてのは、自分の手を自分の頭に乗せて自分の身長を計っているようなものだ。君が言うように僕たち4人の怪現象もそれが1回きりの出来事ならそれが怪現象だと主張することには何の意味もない。
でも逆に、実検対象が十分多量にあれば、それがどんなグロテスクな現象であっても、そこから規則法則を考えることは意味があることなんじゃないかな。すべての科学的法則は帰納的仮説でしかない。因果説でさえ帰納的な仮説でしかないことを明らかにしたのはヒュームだったよね。
この右手のカバンを手からはなすと下に落ちるよね。ほら、落ちた。このことについて、「カバンは重力によって落ちた」と表現するのは正しい表現だよね。でも重力なんて概念は単なる仮説でしかない。これまで何千何億の実証体験によってその確かさは疑う余地の無いものと考えられているけれど、次同じことをしても同じ結果になるという絶対的確証があるわけではない。重力は絶対的な存在ではないんだ。それでも「カバンは重力によって落ちた」というのは正しい表現なんだ。帰納的な仮説は十分な実証によって正しいとされていいんだ。
また。新開発された感覚器官つきの義手を左手につけたとき、この義手の先の痛みを僕が感じ、僕が動かそうとしたようにその義手が動いたなら、そして十分な実証によって、その義手がその先の痛みを僕に感じることができるものであり、僕の意思通りに動くものであることがはっきりさせられていれば、「その義手に僕は痛みを感じた」という表現だって正しい表現として使えるものになるのだ。
そして、だから同様に、僕とソコロフとアイマールとジダンの関係についても十分な実証があれば、その正しさが明らかになったとしていいと思うんだ。つまり、「モスクワのソコロフが左手を叩いたときに僕が痛いと叫んだんだけど、その叫び声を出した口はアイマールのものだった。またエジプトのジダンの眼の見ていたスフィンクスが僕に見えたんだ」という表現も正しいとしていいんじゃないかな。
ポイントは「十分な実証があれば」という点だね。だから以前、電信柱の痛みの思考実験を考えた時にも「それが繰り返し起こる場合は」という注意書きが挟み込まれていたんだよ。

でも君はもっと根本的なところが問題なのだと反論するかもしれないね。「私の痛み」や「私の見え」を身体から独立させて、ただそれだけで問題を捉えると、独我論に陥ってしまって「独りよがりな思い込み」をしているのと変わらなくなると反論するのかな。これについて、「或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である」という表現で、K君が表したことを、そのような反論だと理解したんだけど、間違っているかな?確かに「私は痛い」という文について一人称的に考えることは、公共的に確かめようのない、無意味な独我論に陥りやすい危険を孕んでいる。しかしだからと言って、「私は痛い」という文を一人称的にとらえることが他者から理解され得ないことに直結しているとは限らないんだ。

たとえば、「探究」361節の「椅子が独りで考えている」ことについても僕は君とは違う読みをしている。こんな風だ。
「この椅子は独りで考えているとしよう。しからば、何処で?その或る一部においてか。[そうとも言えるかもしれないが、「違う」と言うべきだろう。] 或いはその外部においてか。[そうだとも言えないこともないが、やはり「違う」と言うべきだろう。] たとえば、それをとりまく空気においてか。[そうとも言えないこともないだろうが、これも「違う」。] 或いは全くどこでもないのか。[然り、どこでもないとするのが自然だろう。] [ならば、] この椅子が内的に語っているのと、その隣りの椅子が内的に語っているのとの間の区別はなんであろうか。[その区別を示すものは「この椅子が独りで考えている」とする状況設定の中には何も無いのだ。その区別を示すものは考えられている思考の内容の中身だけにこそそのヒントがあるのだ。もともと、思考内容とは別に「椅子が考えている」と設定したというその設定自体が何を意味しているのか決定しえず宙に浮いてしまうような無意味な状況設定だったのだ。]
私見だが、ウィトゲンシュタインはそのようなことを考えていたのだと読むのが自然な読みだと、僕は思うよ。
椅子が、見える目を持たず、聞こえる耳を持たず、何も感じない、全く動かない、喋る口を持たないで、本当に思考だけで何かを思っているとき、その思考を椅子の思考だとすることは、何ら肯定的基準を持たない、単なる無意味な定義遊びであって、無理やりな設定でしかないんだ。
しかし、でも、椅子からの視点で何らかの光景が見えている場合、そして、身体を動かそうとするとその椅子がカタカタ震えだすような場合、そのような身体との関係反応があるのなら「僕は椅子になった」という文は意味があるだろう。
だから、でも逆に、「椅子が考えている」という設定を先に決めてしまうってのは変だよね。だって、「椅子が考えている」という設定がまずあって、「僕は椅子になった」という文の真偽が決まったり、意味があるかないかが決まったりするしかないというのでは、結局、論点先取でしかないじゃないか。本来は、「僕が椅子になった」という<思考>とその内容が示される状況がまずあって、「椅子が考えている」という文の真偽が決められたり、意味があるかないかを考えたりするのだと、するべきだろう。

それでも、一人称視点から始めたのならしょせんは独我論に過ぎないのではないかと問われるかも知れない。
たとえば、これから言うのはさらにかなり無茶な設定なんだけど、「見えるべき目を持たないけど見えている」という状況。これはそんな状況を想像するのはすごく難しい。難しいけど不可能じゃない。難しいけどできるよね。あらゆる方向から四次元的に見えているキュビスムの映像みたいなのを思い浮かべたらいいかも。たとえば、「喋る口をもたないけど喋れる」という状況。これも想像しにくいけど不可能じゃない。誰かの心に直接話しかけるテレパシーを思い浮かべればいいかも。
あるときから、僕には、世界が様々な視点からキュビスム的に見え、様々な地点から音が聞こえてきて、あらゆる物という物が思い通りに動かせるようになってしまっていた…とする。そして、人の心に直接話しかけられるようになった…とする。僕の物質的な身体はないのだけれど、僕の想念は事実、存在しているような状況を考えるんだ。
どうだい。実は、本当に、僕の物理的な身体はさっきから無くなってしまっていて、テレパシーで君に話していたんだけど、気づいていたかい?ちょっと、向こうに見える教会の鐘を鳴らしてみようか。こっちの青年の歩き煙草をテレパシーで注意してやろうか。ホントだよ。ほら、鐘が聞こえただろ。あの青年、自分で煙草消しちゃっただろ。身体はなくなったけど、自由にあらゆる物を動かせるんだから、あらゆる物が僕の身体だと言ってもあながち間違いではないと思うね。

少なくとも、僕のこの声が聞こえているなら、「僕が僕と呼ぶこの存在」が存在していることは認めるだろう。僕は、僕の一人称的視点から身体のない僕についての話をしているけど、身体がなくても念力が使えたりテレパシーが使えたりして、世界と関わりあうことができるのなら、それは君や第三者から見ても存在し得る対象になるんだ。
まあ、そこまでグロテスクな想定をしなくても、「僕は僕の感覚と僕の意思によって世界を捉え、世界に働きかけ得る主体なんだ」という発言は、一人称的視点から出発していても、第三者が理解し得る三人称的発言として成立するということは認められるべきだと思う。

トイッテ Yハ マタ、ソノ シンタイヲ シュツゲンサセタ。

あの落雷以来、僕の身体や僕の周辺は不思議なことだらけさ。でも、「このカバンが重力によって落ちた」という表現が正しい表現としていいのなら、「ソコロフが左手を叩けばアイマールの口で僕が『痛い』と叫んだ」というのも正しい表現だとしていいはずなんだ。
僕の言っていることを信じるか否かは君次第だけど、少なくとも僕の発言が有意味なことは認めてほしいね。

ほら、テレビニュースが、エジプトの歴史的降雨を報じているよ。

こんばんは、今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>実検対象が十分多量にあれば、それがどんなグロテスクな現象であっても、そこから規則法則を考えることは意味があることなんじゃないかな。すべての科学的法則は帰納的仮説でしかない。因果説でさえ帰納的な仮説でしかないことを明らかにしたのはヒュームだったよね。
>ポイントは「十分な実証があれば」という点だね。だから以前、電信柱の痛みの思考実験を考えた時にも「それが繰り返し起こる場合は」という注意書きが挟み込まれていたんだよ。

ヒュームの議論は以下の事柄
①[因果連鎖]と因果関係の差異
②[事物]の恒常性と形而上学的様相の自存性に依拠した想像可能性論法との差異
への目配りを欠いている点で極めて不十分なものと言わざるを得ません。
とはいえ、問題は【現に】横山さんが言うところの「実検対象」が無い、ということでは。
概念的探究ということであれば、また話は別ですが。

>4人が互いに見えない場所に立ってみて、ソコロフの好きなどんなタイミングで左手を叩いてみても、その瞬間瞬間にアイマールの口は痛いと叫び、僕には、痛みとジダンの見るべき光景視角を感じることを確かめた。僕たちは100回以上確かめたが、何れも完璧な実検結果だったよ。僕からは到底見えないはずの情報をジダンの眼から見て言い当てることも自在にできた。

(上の文章を読むにつけ、先般の『対話』を理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)忌憚なく言わせて頂ければ、ただ言葉を並べているだけではないかと。例えば、「見る」と【千里眼】の概念的差異について考えてみてください。「痛み」「叫び声」然り。

>でも君はもっと根本的なところが問題なのだと反論するかもしれないね。「私の痛み」や「私の見え」を身体から独立させて、ただそれだけで問題を捉えると、独我論に陥ってしまって「独りよがりな思い込み」をしているのと変わらなくなると反論するのかな。これについて、「或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である」という表現で、K君が表したことを、そのような反論だと理解したんだけど、間違っているかな?

はい、間違っています。「~を見る」という表現の文法的注釈・適用条件を示すことによって件の思考実験が内包する陥穽を剔抉した、とは言えると思いますが。

>椅子が、見える目を持たず、聞こえる耳を持たず、何も感じない、全く動かない、喋る口を持たないで、本当に思考だけで何かを思っているとき、その思考を椅子の思考だとすることは、何ら肯定的基準を持たない、単なる無意味な定義遊びであって、無理やりな設定でしかないんだ。
しかし、でも、椅子からの視点で何らかの光景が見えている場合、そして、身体を動かそうとするとその椅子がカタカタ震えだすような場合、そのような身体との関係反応があるのなら「僕は椅子になった」という文は意味があるだろう。

「でも御伽話の中では、壺だって見たり聞いたり出来る!」―確かに。だが、それは話すことも【出来る】のだ。―ウィトゲンシュタイン
「しかし、君の言うことは、要するにこうではないか。例えば、痛みの振舞がなければ、痛みは存在しない、と」―いや、こういうことなのだ。我々は生きた人間と、それに似たもの(言い換えれば生きた人間と似た振舞をするもの)についてだけ、それには感覚があるとか、それは目が見えるとか、耳が聞こえるとか、聞こえないとか、意識があるとか、意識がないとか【言うことが出来る】のだ、と。―ウィトゲンシュタイン

>だから、でも逆に、「椅子が考えている」という設定を先に決めてしまうってのは変だよね。だって、「椅子が考えている」という設定がまずあって、「僕は椅子になった」という文の真偽が決まったり、意味があるかないかが決まったりするしかないというのでは、結局、論点先取でしかないじゃないか。本来は、「僕が椅子になった」という<思考>とその内容が示される状況がまずあって、「椅子が考えている」という文の真偽が決められたり、意味があるかないかを考えたりするのだと、するべきだろう。

仰る通りなのですが、ウィトゲンシュタイン(と僕)は【我々の概念構成の在り方を炙り出す為に】敢て問題含みの設定から事を始めているわけです。
謂わば「方法的懐疑」ならぬ「方便としての思考実験」だと。

>「見えるべき目を持たないけど見えている」という状況。これはそんな状況を想像するのはすごく難しい。難しいけど不可能じゃない。難しいけどできるよね。あらゆる方向から四次元的に見えているキュビスムの映像みたいなのを思い浮かべたらいいかも。たとえば、「喋る口をもたないけど喋れる」という状況。これも想像しにくいけど不可能じゃない。誰かの心に直接話しかけるテレパシーを思い浮かべればいいかも。

とりあえず、「見る」と横山さんの想像する『見る』、或は「喋る」と『テレパシー』の概念的な差異を示して(記述して)頂けますか。そうでなければ、

>僕の言っていることを信じるか否かは君次第だけど、少なくとも僕の発言が有意味なことは認めてほしいね。

既に述べた

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。

事を繰り返す他ありません。

>「僕は僕の感覚と僕の意思によって世界を捉え、世界に働きかけ得る主体なんだ」という発言は、一人称的視点から出発していても、第三者が理解し得る三人称的発言として成立するということは認められるべきだと思う。

既述の通り、これは【相互的な私秘性】ですから、問題なく認められる筈です。

>あるときから、僕には、世界が様々な視点からキュビスム的に見え、様々な地点から音が聞こえてきて、あらゆる物という物が思い通りに動かせるようになってしまっていた…とする。そして、人の心に直接話しかけられるようになった…とする。僕の物質的な身体はないのだけれど、僕の想念は事実、存在しているような状況を考えるんだ。
どうだい。実は、本当に、僕の物理的な身体はさっきから無くなってしまっていて、テレパシーで君に話していたんだけど、気づいていたかい?ちょっと、向こうに見える教会の鐘を鳴らしてみようか。こっちの青年の歩き煙草をテレパシーで注意してやろうか。ホントだよ。ほら、鐘が聞こえただろ。あの青年、自分で煙草消しちゃっただろ。身体はなくなったけど、自由にあらゆる物を動かせるんだから、あらゆる物が僕の身体だと言ってもあながち間違いではないと思うね。
>少なくとも、僕のこの声が聞こえているなら、「僕が僕と呼ぶこの存在」が存在していることは認めるだろう。僕は、僕の一人称的視点から身体のない僕についての話をしているけど、身体がなくても念力が使えたりテレパシーが使えたりして、世界と関わりあうことができるのなら、それは君や第三者から見ても存在し得る対象になるんだ。

既に示唆した

「私は、猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を【②想像出来る】のだ」が「猫と鷹を足したような容姿を持つ謎の有機体が空を飛び回り、両目から火炎を出すことは【①あり得る】筈だ」を含意しないように、②「想像出来る=想像表象と戯れる」から③『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を導出することは出来ません。

ように、「・・・とする」「身体がなくても念力が使えたりテレパシーが使えたりして、世界と関わりあうことができるのなら」―仮定法 「✖✖があり得るかどうか定かではないが、ここで仮に○○は出来るとしてみよう。そうすれば✖✖が成立することになる」―から『存在し得る』を導出することは出来ません(cf. 詭弁術)。
とりあえず、身体を持たないことを想像するとは如何なることか、抑も身体を持たないとは如何なることか、身体を持たない存在者が事物に働きかけるとは如何なることか、「見る」と横山さんの想像する『見る』、「喋る」と『テレパシー』、「身体を使って物を動かすこと」と『念力』etcの概念的な差異を示して(記述して)頂けますか。そうでなければ、

>僕の言っていることを信じるか否かは君次第だけど、少なくとも僕の発言が有意味なことは認めてほしいね。

既に述べた

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。

事を繰り返す他ありません。


ご参考になれば幸甚です。

「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』の概念的差異。うーん。「見える眼を持たないけど見える」「喋る口を持たないけど喋れる」では概念説明になってないですか。眼が無くても視角的情報を得られる、口が無くても聴覚的情報を与えられる、ということです。まだ足りませんか。

上のコメントで僕が主張したかったのは、大まかに言って、「どんなトンデモ理論でも、トンデモ記述でも、文法的に有意味であって、その記述を裏付ける一定数以上の実証があれば、それだけでその理論記述は正しいとされるべきだ」なのですが、工藤さんはそれ以外の基準を考えるべきだというお考えだと、理解していいのでしょうか。

付け加え。
だから結局、「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』の差異は、生物学的な眼と口が有るか無いかです。

>上のコメントで僕が主張したかったのは、大まかに言って、「どんなトンデモ理論でも、トンデモ記述でも、文法的に有意味であって、その記述を裏付ける一定数以上の実証があれば、それだけでその理論記述は正しいとされるべきだ」なのですが、工藤さんはそれ以外の基準を考えるべきだというお考えだと、理解していいのでしょうか。

(上の文章を読むにつけ、先般の『対話』を理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)既述の通り、ただ言葉を並べているだけではないかと。件の発言は有意味でもなければ、実証の裏付けもありません。

>「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』の概念的差異。うーん。「見える眼を持たないけど見える」「喋る口を持たないけど喋れる」では概念説明になってないですか。眼が無くても視角的情報を得られる、口が無くても聴覚的情報を与えられる、ということです。まだ足りませんか。
>だから結局、「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』の差異は、生物学的な眼と口が有るか無いかです。

(上の文章を読むにつけ、先般の『対話』を理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)既に示唆した

或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】を前提・含意している、と。別の言い方をすれば、或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である、ということ。

通り、我々が或る存在者に対して「見る」という表現を適用し得る為には、【①そいつが時空的連続体であり・かつ②その時空的連続体上の或る点から事物を見ていることを我々がチェック出来るのでなければならない】筈ですが、横山さんの想像する状況ではそれが出来ません(cf. 狂人がそういう妄想に耽っているケースは全く異なる)。


ご参考になれば幸甚です。

なかなか、工藤さんと僕の溝は埋まらないですね。

2.「翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像できる」の「想像できる」が「あり得る筈だ」に対する肯定を含んでいる場合、件の文は事物の在り方に反する事柄=ナンセンスを肯定しているから、この「想像できる」もナンセンスだ。仮に、件の文を本気で主張する人がいるとすれば、唯単に彼が事物の在り方に関する自らの無知錯誤を自覚出来ていないというだけの話だ。・・・の論点が、僕にはまったく理解不能なのです。
「とにかく、常識に反しているからナンセンスなのだ」と言われているようにしか理解できないのです。

僕がこの思考実験で探りたいのは言語の限界です。だから、思考実験を考えるときに「まず現象ありき」で、その上で「どんな言語が使用可能か」という順で考えるべきだと考えているのですが、工藤さんは、「まず言語ゲームありき」で考えられていて、「現象をどう語るべきかは、あらかじめルールが決まっている」と捉えられているように、僕には感じられてしかたありません。言語ゲームが最初に設定されてしまうとそれを遵守しなければならなくなると。

某かの異常現象があったとき、それに対応して、言語ゲームはどんどん新しいルール設定が可能であり必要であると、僕は思っているのですが、工藤さんはどうお考えですか。

>2.「翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像できる」の「想像できる」が「あり得る筈だ」に対する肯定を含んでいる場合、件の文は事物の在り方に反する事柄=ナンセンスを肯定しているから、この「想像できる」もナンセンスだ。仮に、件の文を本気で主張する人がいるとすれば、唯単に彼が事物の在り方に関する自らの無知錯誤を自覚出来ていないというだけの話だ。・・・の論点が、僕にはまったく理解不能なのです。
「とにかく、常識に反しているからナンセンスなのだ」と言われているようにしか理解できないのです。


(件の論点について。以下、再録しておきます)
>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。

(件の論点について。以下、再録しておきます)

>事物の在り方に反する存在の否定は事実的探究という理解でいいですか。それなら、アポステリオリな内容によってそれが事物の在り方に反すると判断されるのですから、それが事物の在り方に反するか否かは、判断材料の内容によって異なることになりますね。つまり、事物の在り方に反する理由は、議論の対象になるという理解でいいですか。

何度でも繰り返しますが・・・既に述べた

>「[事物]の在り方に反する」とは、科学的常識に反するという意味なのでしょうか。

必ずしもそうとは言えません。とはいえ、「水がH2Oではないと【判明することもあり得る】のではないか?」とか「物が何の原因もなしに突然消失することも【あり得る】のではないか? それが【あり得ない】ことを自然科学は【証明した】のか?」といった問いはナンセンスだと思いますが(これについては既に縷言したので割愛させて頂きます)。
当然ながら、(信頼に足るという意味で)十分に確立された自然科学によって発見・開示された知識―[事物]の在り方に即した概念(ex. 医学、分子生物学、神経生理学etc)―を否定する際には、(論拠だけではなく)相応の証拠を提示する必要があります。

ように、或る問いが(信頼に足るという意味で)十分に確立された自然科学によって発見・開示された知識―[事物]の在り方に即した概念(ex. 医学、分子生物学、神経生理学etc)―に対する否定を含んでいる場合、挙証責任は問いを提出する者に帰せられることになります。

>某かの異常現象があったとき、それに対応して、言語ゲームはどんどん新しいルール設定が可能であり必要であると、僕は思っているのですが、工藤さんはどうお考えですか。

(件の論点について。以下、再録しておきます)
>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。

>工藤さんは、「まず言語ゲームありき」で考えられていて、「現象をどう語るべきかは、あらかじめルールが決まっている」と捉えられているように、僕には感じられてしかたありません。言語ゲームが最初に設定されてしまうとそれを遵守しなければならなくなると。

これは全くの誤解です。(永井氏の思考実験に対する批判は別にしても)最新の思考実験もそうでしたが、横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。(失礼ながら)僕に言わせれば「文法的混乱」でしかないものを「言語の限界についての考察」と混同しているように見えますし、横山さんが以下のスローガン

>それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

を体現されているとは到底思えません。
付言しますと、僕が示唆したのは【想像された状況においては「見る」「喋る」「聴く」「身体を使って物を動かす」等々の表現を適用することが出来ないし、全く別の概念(千里眼、テレパシー、念力etc)を持ち出すにしても、その超自然的能力と「時空的連続体ではない存在者」の繋がりは全く明らかではない】ということでした。


ご参考になれば幸甚です。

(件の論点について。以下、再録しておきます)

とはいえ、以下の論述

>なるほど、このような解釈を与えれば「その状況の理解」の一助になるだろう。しかし、ここで求めているのが「状況の理解」ではなく「言語の限界についての考察とその理解」なのだとすれば、この解釈では解決にはならない。

などを読む限り、これまで僕が論じてきたことを本当に理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いと言わざるを得ません。
何度でも繰り返しますが、僕は【件の思考実験で語られている状況を①『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』の意味で理解しようとするならば】と言っておいた筈です。前回の記事で僕が出題した問題

「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」
「翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る」
「猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る」
*上に挙げた文の違いが解りますか?

とその解答について再考してみてください。「言語の限界について考察とその理解」とは【当に後期ウィトや僕が示してみせたようなこと】なのであって、無批判で無自覚な想像の垂れ流しではないのです。例えば、以下の論述

>何故、状況の理解から外れる想定は否定されるのか、その理由こそが求めているところなのに、

などを読む限り、僕には横山さんがご自分の問いを誤解しているとしか思えません。

>でも、極端にへんてこな世界で言語の限界を考えるのも哲学の1つの楽しみであり、これを科学的帰納の問題とすることで言語の限界にアタックするのは哲学的遊戯として許されると思います。

何度でも繰り返しますが・・・①文法的探究(ex. 我々の概念構成の在り方を精査しつつ哲学的似非問題を解消する)と②事実的探究(ex. [事物]に即した概念を構成する)を混同しない方が良いと思います。既述の通り、我々の概念構成の在り方を見極めることは浅薄で胡乱な想像に振り回されることではありません。

なかなか、伝わりにくいなあ。
僕の方も僕の言っていることを理解して頂けたかどうか・・・甚だ心許無いと言わざるを得ません。(嫌味ですね。スミマセン。でもこの「甚だ心許無い」と言われるのはバカだと言われているように思って苛ついてしまいます。もう勘弁してもらえませんか。理解が違うことを批判されるのは勿論受け入れますが、批判とは違う意図を感じてしまいます。)

「常識に反するからその思考はナンセンス」という理解で不充分なら、「世界中の最先端の知識に照らして反するからその思考はナンセンス」と言い替えましょう。
しかし、そう言い替えても思考実験の内容をあり得ないと切り捨てる理由にはならないと思います。物理的にあり得るかどうかに関わらず文法的にあり得るのなら思考実験の対象にして、何がダメなのでしょう。

別に僕が言語の限界を的確に探れていると自負して「現象ありき」から始めると言っているわけではありません。でも、「現象ありき」から始めなければ言語の限界を考えようとすることができないと考えているのはその通りです。

それについて互いの理解が進まないのは、言語ゲームのルール設定に対する捉え方が違うからではないかと真剣に考えています。
僕は言語ゲームはコロコロ変えられるし、変えなければならないものだと捉えています。工藤さんは違うんじゃないですか。
ここがポイントのように思います。

>僕は言語ゲームはコロコロ変えられるし、変えなければならないものだと捉えています。工藤さんは違うんじゃないですか。

【言葉の意味というのは我々の言語的交流において・その都度この今生成するもの】だと僕は考えています。とはいえ、これは「恣意的にコロコロ変えられる」とイコールではありません。

>「常識に反するからその思考はナンセンス」という理解で不充分なら、「世界中の最先端の知識に照らして反するからその思考はナンセンス」と言い替えましょう。
しかし、そう言い替えても思考実験の内容をあり得ないと切り捨てる理由にはならないと思います。物理的にあり得るかどうかに関わらず文法的にあり得るのなら思考実験の対象にして、何がダメなのでしょう。

【概念的に】不可能なのですよ。我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っていたわけではなく、経験的探究を積み重ねる中で[事物]に即した概念を獲得してきました。そして、件の概念群は我々の文法に編み込まれています。従って、既に示唆した

⑤一連の思考実験において、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?、ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

通り、我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです。「猫」「見る」「喋る」「聴く」etcについても然り。

(件の論点について。以下、再録しておきます)
当然ながら、我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っているのではありません。経験的探究を積み重ねつつ、[事物]に即した知識(概念)を獲得してきたわけです。
何度でも繰り返しますが、件の文脈におけるナンセンス=[事物]の在り方に反しているが故に不可能、とお考え下さい。そして、既に述べた

①我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である。
②翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
③猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
*上に挙げた文の違いが解りますか?

ように、「Pはあり得る」と「Pは想像し得る」の文法は全く違います。とはいえ、ここでは寧ろ②と③の違いが重要でしょう。
先ず、③は無問題(=ナンセンスではない)ですね。想像上の存在が想像の中で何をしようが、【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】OKですから。
さて、問題は②です。おそらく、これを読む人は【意味内容が不明瞭な文】だと考える筈ですが、それでも幾つかの解釈を与えることは出来るでしょう。以下、例示してみます。
a.ここで言われている『想像出来る』が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【肯定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は[事物]の在り方に反する事柄=ナンセンスを肯定していることになるわけですから、この『想像出来る』も又ナンセンスです。仮に件の文を本気で主張する人がいるとすれば、それは【唯単に彼が[事物]の在り方に関する自らの無知・錯誤を自覚出来ていない】というだけの話です。
b.ここで言われている「想像出来る」が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【明確な否定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は③【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】を含意していることになります。つまり、この場合、猫が空を飛んだり両目から火炎を出したり出来ないことは【承知の上で】そのような【イメージを思い描いている】わけです。従って、b.は③の舌足らずな表現と考えるのが妥当でしょう。
(ここで【想像出来る】という語の異なる二つの文法、即ち「想像出来る=想像表象と戯れる」と『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を混同しないように注意してください)

物質の粒子性と波動性が両立されるというのは、19世紀には最先端科学の洞察によって不可能だとされていた。でも、文法的にはあり得る話だった。これも、そんな思考実験は19世紀の時点では捨てられるべきなのでしょうか。

そんなことはないですよね。

十分に検討された洞察であるならそれが思考実験を否定する根拠になる・・・とは一概に言えないのじゃないでしょうか。話がミクロの話だから次元が違うというのは反論の理由にならないと思います。

>十分に検討された洞察であるならそれが思考実験を否定する根拠になる・・・とは一概に言えないのじゃないでしょうか。話がミクロの話だから次元が違うというのは反論の理由にならないと思います。

(件の論点について。以下、再録しておきます)
さて、では、先取りついでに幾つかの論点を洗い直していきましょうか。

>検察にとって、弁護人の話はとうてい受け入れがたい、反常識であり、「明らかに事物の在り方に反する」ものであったろう。しかし、これは現代物理学からすると「あり得る」話なのである。検察は常識に反して、明らかに事物の在り方に反するものを受け入れねばならないのである。

ここで重要なのは【これは現代物理学からすると「あり得る」話なのである】のところでしょう。既に述べた

「なぜそんなことが起こるか【②原因がわからない】なら【①そんなことは起こらない・・・なんてことはない】ので」―もうお解り?だと思いますが、件の浅薄で胡乱な主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異のみに依拠して提出されています。
以前お話した永井均氏の主張「①物が当然なくなることがあり得ないということは②いつ誰が証明したのか?」と構造が同じですよね。言うまでもないことですが、「なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはない」から【そういうことが起こる】を導出することは出来ません(況してや【そういうことが起こる】という文を真にする[出来事]を導出することなど不可能です)。

ように、「Pであり得る」から「Pである」況してや「Pである」を真/偽にする[事実]を導出することは出来ません。従って、「明らかに事物の在り方に反するものを受け入れねばならない」ことにはならないのです。付言しますと、量子論が[事物]に即した概念体系であるか否かは未だ係争中の問題ですし、ミクロの話をマクロのそれに短絡させることも出来ない―【朝永氏の思考実験③「光子の裁判」に反して】―のですから。

>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

これらの思考実験?? ―僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは以下の論述

>そこで、上の2つのような「あり得ない」想定ではなく、「あり得る」想定で、しかし抜本的なパラダイムシフトが要求されるような状況を考えよう。

で①NYC三者の痛みの思考実験及び②双子の痛みの思考実験と③「光子の裁判」を区別していた筈ですが・・・それがここでは【何の断りもなく】一括りにされてしまっています。これが不注意によるものなのかどうか僕には判りませんが・・・極めて遺憾と言わざるを得ません。

>明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、

事物の在り方に反している?? ―既に述べた

付言しますと、量子論が[事物]に即した概念体系であるか否かは未だ係争中の問題ですし、ミクロの話をマクロのそれに短絡させることも出来ない―【朝永氏の思考実験③「光子の裁判」に反して】―のですから。

ように、ミクロとマクロを一緒くたにした上で、それを「事物の在り方」の一言で片付けられても・・・。

>物質の粒子性と波動性が両立されるというのは、19世紀には最先端科学の洞察によって不可能だとされていた。でも、文法的にはあり得る話だった。これも、そんな思考実験は19世紀の時点では捨てられるべきなのでしょうか。

これは論点のスリカエですね。何度でも繰り返しますが、量子論が[事物]に即した概念体系であるか否かは未だ係争中の問題です(無知の避難所に便乗して物を言うのは・・・)。
因みに、ここで「物質における粒子性と波動性の両立」と「スピノザ哲学における実体と諸属性の関係」を比べてみるのは有益かもしれません。

如何なる力も働かなければ物体は等速度運動を永遠に続ける。これも4世紀の最先端の叡智からみるとナンセンスでしかなかった。でも文法的にはあり得るはなしだった。十分な知恵を集め、検討を尽くして不可能と判断されたのだったら、この思考実験もナンセンスと捨てるべきだったと思われますか。

物体の粒子性と波動性についても19世紀の時点での思考実験はナンセンスだと考えられているということをおっしゃっているのでしょうか。
そうおっしゃっているように読めてしまいます。

>如何なる力も働かなければ物体は等速度運動を永遠に続ける。これも4世紀の最先端の叡智からみるとナンセンスでしかなかった。でも文法的にはあり得るはなしだった。十分な知恵を集め、検討を尽くして不可能と判断されたのだったら、この思考実験もナンセンスと捨てるべきだったと思われますか。
>物体の粒子性と波動性についても19世紀の時点での思考実験はナンセンスだと考えられているということをおっしゃっているのでしょうか。
そうおっしゃっているように読めてしまいます。


何度でも繰り返しますが・・・既に述べた

「なぜそんなことが起こるか【②原因がわからない】なら【①そんなことは起こらない・・・なんてことはない】ので」―もうお解り?だと思いますが、件の浅薄で胡乱な主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異のみに依拠して提出されています。
以前お話した永井均氏の主張「①物が当然なくなることがあり得ないということは②いつ誰が証明したのか?」と構造が同じですよね。言うまでもないことですが、「なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはない」から【そういうことが起こる】を導出することは出来ません(況してや【そういうことが起こる】という文を真にする[出来事]を導出することなど不可能です)。

ように、「Pであり得る」或は「Pをイメージ出来る」から「Pである」況してや「Pである」を真/偽にする[事実]を導出することは出来ません。

不明瞭で胡乱な想像を膨らませるのは簡単ですが、[事物]に即した概念を構成するのは生中な事ではないのです。

A(「Pでありえる」または「Pをイメージできる」)からB(「P」または「Pの真偽判断のできる事実がある」)は導出できない。
そりゃそーだ。しかし、それは(「P」という仮想事象を設定できるか否か、或いはすべきか否か)という問題とは独立で無関係だ。

一方、「P」が現実化するか否かの判断は、文法的で演繹的な判断か、経験的で帰納的は判断の、いずれかである。つまり、或る判断が文法的演繹的判断でないのなら、経験的帰納的判断にすぎないということである。
そして、経験的帰納的判断がどうだったとしても、演繹的判断によって「P」が「あり得る」と判断するということは、まさしく、「P」という仮想事象を設定することが言語的に可能だということと同値である。
これだけで僕は十分だと思う。
それに対して工藤氏は、経験的帰納的判断によってナンセンスか否かの判断をすべきであると説く。しかし、少なくとも僕にはその価値が理解できないし、そんなことが可能だと主張される根拠も理解できない。

或いは工藤氏は「事物の在り方に反するか否かの判断が経験的帰納的判断だ」とすることさえ受け入れないかもしれない、そうなると僕にはお手上げ、まったく理解不能だ。

もちろん、経験的帰納的判断は、科学的にも日常生活でもこの上なく価値の高いものである。でもそれが哲学の仕事だとも、哲学的に価値のあるものだとも思えない。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>それに対して工藤氏は、経験的帰納的判断によってナンセンスか否かの判断をすべきであると説く。しかし、少なくとも僕にはその価値が理解できないし、そんなことが可能だと主張される根拠も理解できない。
>或いは工藤氏は「事物の在り方に反するか否かの判断が経験的帰納的判断だ」とすることさえ受け入れないかもしれない、そうなると僕にはお手上げ、まったく理解不能だ。

これも完全な誤読ですね。誰がそんなことを言ったのでしょう? 既に述べた


ところで、 「私が他人の身体に私が痛みを感じることは【可能】である」とか「痛みを感じ、または見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、『私は痛みを感じる』における『私』という語は或る特定の身体を指示してはいない、ということだけである。その『私』を或る特定の身体の記述で置き換えることは出来ないのだから」といったウィトゲンシュタインの発言は【一人称代名詞の使用に関する文法的注釈】であって、【今現に存在している身体的存在者―つまり固有名で指示されるような事物=人間である我々―に関する形而上学的主張ではない】のです。
(既述の通り)或る人物が突然発狂して「私はこの電信柱に痛みを感じている!」と【思い込んでいる】ケースは【あり得る】でしょうが、「人間(有機体)が電信柱(無機物)に痛みを感じる」という文は明瞭な意味を全く持っていない―②[事物]の在り方に反しているが故に無意味である―ように思われます。
何度でも繰り返しますが・・・①文法的混乱に由来するナンセンス(ex. 私は君の痛みを感じるetc)と②[事物]の在り方に反しているという意味でのナンセンス―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」といった主張のことですが―は全く別物です。そして、僕は以下の想定

>だから、同様に電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合、そしてそれが繰り返し起こる場合、「電信柱が痛む」という判断をするのは妥当である。

が②[事物]の在り方に反しているという理由でナンセンス(即ち不可能)と言ったのであって、これと①文法的混乱―私は君の痛みを感じるetc―に由来するナンセンス(不可能性)は区別していた筈ですが・・・。翻って、僕が文法問題と言ったのは【一人称の心理的言明の文法的特殊性から生じた似非問題】―例えば「私が君の痛みを感じることは可能である」や「私が君の身体に痛みを感じることは可能である」等々―です。


ように、僕は①文法的混乱に由来するナンセンスと②[事物]の在り方に反しているという理由でナンセンスを区別していますし、或る文の真偽を問うことと文法的探究の差異についても論じています。

(或る文の真偽を問うことと文法的探究の差異について。以下、再々録しておきます)
>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。


お解り頂けたでしょうか。

>それに対して工藤氏は、経験的帰納的判断によってナンセンスか否かの判断をすべきであると説く。しかし、少なくとも僕にはその価値が理解できないし、そんなことが可能だと主張される根拠も理解できない。

(以下、再録しますが・・・K氏の考察と横山さんの言う「経験的帰納的判断」の差異について考えてみてください)
Y氏とK氏は銀座を散歩しながら話をしている。
Y氏「ここは銀座一丁目―さっき『ホテルモントレラ・スールギンザ』を通り過ぎたのを覚えている―だよね。まあ、それはともかく・・・君には黙っていたけど、十分くらい前かな、いきなり左手が痛くなったんだよ。でも、その左手は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、モスクワ在住の大工ウラジミール・ソコロフ氏の左手だったんだ。そのとき彼はカナヅチで自分の左手を叩いたんだよ。そして、そのとき僕は「痛い!」と叫んでしまったんだけど、その叫び声を出した口は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、リオデジャネイロ在住の大学生フランシスコ・アイマール君の口だったんだ。そのとき彼は友人とフットサルをしていたんだが、別に誰かに蹴られたりしたわけじゃない。それで、そのとき僕にはエジプトの?スフィンクスらしきものが見えていたんだけど、それを見ていた眼は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくてフランスからの旅行者フランソワ・ジダン氏の両眼だったんだ。どうだろう、この話・・・君は信じてくれるかい?」

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。じゃあ、とりあえず、幾つか質問させてもらうよ。
①今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故かつて(十分くらい前に)自分が今君が話してくれたような状況にあったことを【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えている】からだ」と答えても何にもならないよね。例えば(通常)或る人が「僕は東京タワーを【見ている】のだ」と主張する場合、彼以外の第三者がその主張の真偽をチェック出来る。彼の視線が東京タワーに向いているか、彼が見ているのは東京タワーではなく東京タワーの写真なのかどうか、彼が自分の想像表象と[実物]の―彼や第三者が視認し得る―東京タワーを取り違えていないかどうか等々。もし第三者によるチェックが【原理的に】不可能であるとすれば、その事柄については「それが生起したこと」と「それが生起したと或る人が【思い込んでいる】こと」を区別出来ないんじゃないかな。だから、そんな代物はゲームの指手にはならないし、なり得ないよね。
②(質問①に関連して)今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故ソコロフ、アイマール、ジダン各氏の個人情報とそのとき彼らが置かれていた状況を【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えているから】だ」とか「かつて(十分くらい前)の僕がそれらの状況を【見ていた】からだ」と答えても何にもならないよね。仮に或る人が「僕は昨日東京タワーを見たのを覚えている」と主張したとしても、それが記憶違いだった―覚えていると【思い込んでいた】が実際は違っていた―ということも『あり得る』わけだし、君の言う状況が【原理的に】第三者によるチェックを受け付けないものであるなら、さっきと同じ話になる。そして、【本当に】【そのとき】君がそれらの状況を【見ていた】のだとすれば、君の言う?ジダン氏の視線と君の言う?スフィンクスらしきものとの関係と【そのとき】銀座を闊歩していたY氏なる身体との繋がりに加えて、それら全てと今の君―僕から見れば、Y氏なる身体的存在者なのだが―との関係(言うまでもなく【それら一連の記憶】も含めて)は、第三者によるチェックが「可能な」ものでなければならない。記憶と思い込みの違いは別にしても、そうでなければ又さっきと同じ話になってしまうからね。
要するに、こういうことかな。或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】を前提・含意している、と。別の言い方をすれば、或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である、ということ。まあ、他にもツッコミたい所はあるんだけど・・・そんなことより鮨でも食べに行かないか? せっかく銀座まで来たんだから」

Y氏「そうしよう。小腹も空いてきたことだし。この辺で良い店でも知ってるのかい?」

K氏「『次郎』にでも行こうか。君のおごりで」


>素晴らしい。実に実に面白いです。
話が具体的になると、やっぱりわかりやすいですね。僕の意見をどのように受け取られていたのか、どういう意味で否定されていたのか、ようやくわかってきた気がします。
>ここからの話の展開もすごく楽しみにしています。


お解り頂けたでしょうか。

>しかし、それは(「P」という仮想事象を設定できるか否か、或いはすべきか否か)という問題とは独立で無関係だ。
>一方、「P」が現実化するか否かの判断は、文法的で演繹的な判断か、経験的で帰納的は判断の、いずれかである。つまり、或る判断が文法的演繹的判断でないのなら、経験的帰納的判断にすぎないということである。
そして、経験的帰納的判断がどうだったとしても、演繹的判断によって「P」が「あり得る」と判断するということは、まさしく、「P」という仮想事象を設定することが言語的に可能だということと同値である。
これだけで僕は十分だと思う。

上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・既述の通り、ただ言葉を羅列したり・不明瞭で胡乱な想像を記述する―「想像出来る=想像表象と戯れる」―ことと十全な思考を混同してはならないと思いますし、我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行することなど出来ません。

(件の論点について。以下、再々録しておきます)
>「常識に反するからその思考はナンセンス」という理解で不充分なら、「世界中の最先端の知識に照らして反するからその思考はナンセンス」と言い替えましょう。
しかし、そう言い替えても思考実験の内容をあり得ないと切り捨てる理由にはならないと思います。物理的にあり得るかどうかに関わらず文法的にあり得るのなら思考実験の対象にして、何がダメなのでしょう。

【概念的に】不可能なのですよ。我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っていたわけではなく、経験的探究を積み重ねる中で[事物]に即した概念を獲得してきました。そして、件の概念群は我々の文法に編み込まれています。従って、既に示唆した

⑤一連の思考実験において、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?、ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

通り、我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです。「猫」「見る」「喋る」「聴く」etcについても然り。

(件の論点について。以下、再録しておきます)
当然ながら、我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っているのではありません。経験的探究を積み重ねつつ、[事物]に即した知識(概念)を獲得してきたわけです。
何度でも繰り返しますが、件の文脈におけるナンセンス=[事物]の在り方に反しているが故に不可能、とお考え下さい。そして、既に述べた

①我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である。
②翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
③猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
*上に挙げた文の違いが解りますか?

ように、「Pはあり得る」と「Pは想像し得る」の文法は全く違います。とはいえ、ここでは寧ろ②と③の違いが重要でしょう。
先ず、③は無問題(=ナンセンスではない)ですね。想像上の存在が想像の中で何をしようが、【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】OKですから。
さて、問題は②です。おそらく、これを読む人は【意味内容が不明瞭な文】だと考える筈ですが、それでも幾つかの解釈を与えることは出来るでしょう。以下、例示してみます。
a.ここで言われている『想像出来る』が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【肯定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は[事物]の在り方に反する事柄=ナンセンスを肯定していることになるわけですから、この『想像出来る』も又ナンセンスです。仮に件の文を本気で主張する人がいるとすれば、それは【唯単に彼が[事物]の在り方に関する自らの無知・錯誤を自覚出来ていない】というだけの話です。
b.ここで言われている「想像出来る」が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【明確な否定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は③【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】を含意していることになります。つまり、この場合、猫が空を飛んだり両目から火炎を出したり出来ないことは【承知の上で】そのような【イメージを思い描いている】わけです。従って、b.は③の舌足らずな表現と考えるのが妥当でしょう。
(ここで【想像出来る】という語の異なる二つの文法、即ち「想像出来る=想像表象と戯れる」と『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を混同しないように注意してください)

とりあえず、時空的連続体ではない存在者を想像するとは如何なることか・抑も時空的連続体ではない何かが存在し、その何かが超自然的能力を使って事物(時空的連続体)に働きかけるとは如何なることか・超自然的能力と時空的連続体ではない存在者の繋がりはどのようなものであるのか・「見る」と横山さんの想像する『見る』、「喋る」と『テレパシー』、「身体を使って物を動かすこと」と『念力』etcの概念的な差異を教えて頂けませんか?
現状では、件の仮想事象を設定することは出来ない―【想像表象と戯れる】と言うならまだしも―と思います。

「Yは何故自分がその状況にあったことを知っているのか。『覚えているから』は答えにならない。第三者によるチェックが不可能であるとすればそれが生起したと思い込んでいることと区別できない」このK氏の主張について、僕は「第三者によるチェックが不可能であるような記述は自分自身でさえ真偽をチェックすることができず、その意味を理解することができない」という原理的不可能性を意味しているのだと理解していました。この原理的不可能性とは、或る人が一生のうちに一度だけ或る規則に従うことができないという原理、つまり一回きりの出来事に対してはいかなる文法の規則も立ち上げることができないということを指しているのだと理解していたのです。だから、Y氏は自分に起こった異常事態が一回きりの出来事ではないことを示して反論しようとしたのです。
そして、K氏の次の言「或る人が公共的に観察可能な或る状況を見ることは彼が公共的に観察可能な一つの身体であり、身体としての彼が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ることを前提含意している」についても「どんな場合でも『見る』という行為を語るためには『身体』を必要とする」という意味だとは解釈せず、「一回きりの出来事についての『見る』という行為を有意味にするためには『身体』が必要になる」と解釈していたのです。
誤読ですね。しかし、そのように誤読しないと、「『見る』という行為を語るためには『身体』が必要だ」という主張が原理的主張でも、文法上の主張でもなくなってしまうと思ったのです。
もしかして、「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というのは原理的な主張なのだと、工藤さんは言われるでしょうか。
しかし、言語ゲームのルール設定がそのつど新しいものに設定できるのだとする立場に立つならば、目のない人が「心眼で見る」という言い方をするゲームでも、身体のない人が「私は見ている」という言い方をするゲームでも立ち上げることは可能なはずです。言語ゲームのルール設定について、工藤さんは「言葉の意味というものは我々の言語的交流においてその都度この今生成するもの」とお考えとのことですが、それが「制限の全くない、ありとあらゆる言語ゲームの中から、我々の言語交流においてそのつど使い得るもの便利なもの有価値なものが生き残る」という意味だとすれば「身体のない人が『私は見ている』という言い方をするゲーム」は可能なはずではないでしょうか。身体のない「声」と色当てゲーム(指差した色の名を当てるゲーム)をすることだって可能です。
そんな非常識なゲームはできないのだと言われるのであれば、言語ゲームのルール設定に何かしらの制限を導入してしまっていると思います。そして、その制限とは何か恣意的なものでしょうから、結局、[「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というルールになるような制限を導入したのだから「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要なのだ」]というような、主張を掲げているだけの話にしかならないと思います。決して原理的な主張ではなく、自分でルールを作って宣言している宣言文でしかないのではないでしょうか。

こう考えて、僕は工藤さんの言う「事物の在り方に反するからナンセンス」というのが全く理解できないのです。

それから、ご質問への回答としては、「概念的な差異」というのは何をお聞きなのか分からないですが、前に行った通り、「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』「身体を使って物を動かすこと」と『念力』の差異は、単に身体を使うか使わないかの違いです。
でも「見える」も『見える』もその基準は、例えば、色当てゲームで一定以上正答することなどで、変わりはありません。
また、身体を持たない人は空間的な連続体ではないかもしれませんが、時間的には或る程度連続している必要はあると思います。

>もしかして、「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というのは原理的な主張なのだと、工藤さんは言われるでしょうか。

これも完全な誤読ですね。ご存知だと思いますが、僕が【原理的】という言葉を使ったのは「第三者のチェックが~」の所です(因みに、件の言葉は【絶対に】くらいの意味で使っています)。翻って、僕の主張の眼目は、(私秘的な想像表象等ではなく)公共的に観察可能な或る状況を「見る」という【概念の本質】には以下の事柄
①「見る」者が公共的に観察可能な【一つの身体】であること
②「見る」者=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること
③視線は「見る」者=身体上の或る点から向けられていること
が組み込まれている―ということでした。従って、(既述の通り)先般の思考実験で想像されているような事柄に対して「見る」という概念は適用出来ないのです。

(件の論点について。以下、再々録しておきます)
>工藤さんは、「まず言語ゲームありき」で考えられていて、「現象をどう語るべきかは、あらかじめルールが決まっている」と捉えられているように、僕には感じられてしかたありません。言語ゲームが最初に設定されてしまうとそれを遵守しなければならなくなると。

これは全くの誤解です。(永井氏の思考実験に対する批判は別にしても)最新の思考実験もそうでしたが、横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。(失礼ながら)僕に言わせれば「文法的混乱」でしかないものを「言語の限界についての考察」と混同しているように見えますし、横山さんが以下のスローガン

>それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

を体現されているとは到底思えません。
付言しますと、僕が示唆したのは【想像された状況においては「見る」「喋る」「聴く」「身体を使って物を動かす」等々の表現を適用することが出来ないし、全く別の概念(千里眼、テレパシー、念力etc)を持ち出すにしても、その超自然的能力と「時空的連続体ではない存在者」の繋がりは全く明らかではない】ということでした。

お解り頂けたでしょうか。

>公共的に観察可能な或る状況を「見る」という【概念の本質】には以下の事柄①「見る」者が公共的に観察可能な【一つの身体】であること②「見る」者=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること③視線は「見る」者=身体上の或る点から向けられていること が組み込まれている―ということでした。

これこそ、言語ゲームのルール設定への恣意的な制限の導入だと思うのです。上記の3点を「見る」という概念の本質だと定義づけすれば、見るために身体は必要でしょうけど、この3点を含まない見るは「見る」に値しないと誰か特定の人が決定できるということでしょうか。

>しかし、言語ゲームのルール設定がそのつど新しいものに設定できるのだとする立場に立つならば、目のない人が「心眼で見る」という言い方をするゲームでも、身体のない人が「私は見ている」という言い方をするゲームでも立ち上げることは可能なはずです。言語ゲームのルール設定について、工藤さんは「言葉の意味というものは我々の言語的交流においてその都度この今生成するもの」とお考えとのことですが、それが「制限の全くない、ありとあらゆる言語ゲームの中から、我々の言語交流においてそのつど使い得るもの便利なもの有価値なものが生き残る」という意味だとすれば「身体のない人が『私は見ている』という言い方をするゲーム」は可能なはずではないでしょうか。身体のない「声」と色当てゲーム(指差した色の名を当てるゲーム)をすることだって可能です。

身体のない人が『私は見ている』という言い方をするゲーム??は可能なはず??身体のない「声」と色当てゲーム(指差した色の名を当てるゲーム)をすることだって可能?? ―確かに【ただ言葉を羅列したり・不明瞭で胡乱な想像を膨らませることは可能】でしょう。当然ながら、誰かが『鯨は魚類である』『菅直人は米国大統領である』という言い方をするゲームを創案した所で、鯨が鰓呼吸したり・菅直人が米国大統領になることはありません。それは【他人から見れば】―内輪の冗談か言葉遊びならともかく―言葉の誤用に過ぎない。既述の通り、我々の「見る」は横山さんの言う『見る』ではないのですから。
ところで、[事物]の在り方からすれば全くのナンセンスでありながら、或る時期まで(現在も??)は有価値と見做されていた言語ゲーム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB_(%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99)
は星の数ほど?存在していた筈です。まあ、ぶっちゃけた話、「様相」なんかも・・・

>そんな非常識なゲームはできないのだと言われるのであれば、言語ゲームのルール設定に何かしらの制限を導入してしまっていると思います。そして、その制限とは何か恣意的なものでしょうから、結局、[「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というルールになるような制限を導入したのだから「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要なのだ」]というような、主張を掲げているだけの話にしかならないと思います。決して原理的な主張ではなく、自分でルールを作って宣言している宣言文でしかないのではないでしょうか。
>これこそ、言語ゲームのルール設定への恣意的な制限の導入だと思うのです。上記の3点を「見る」という概念の本質だと定義づけすれば、見るために身体は必要でしょうけど、この3点を含まない見るは「見る」に値しないと誰か特定の人が決定できるということでしょうか。

原理的な主張??恣意的な制限の導入??定義づけ?? ―上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・既にある言葉に対して(僕も含めて殆どの人は認容しないであろう)恣意的で的外れな拡張(=文法・概念上の混乱)を図ろうとしてきたのは横山さんであって、僕ではありません。

>こう考えて、僕は工藤さんの言う「事物の在り方に反するからナンセンス」というのが全く理解できないのです。


既に述べた

個人的な印象ですが、(横山さんに限らず)ウィトゲンシュタインの後期哲学に触れた人の多くは【ウィトゲンシュタインの哲学的営為における思考実験の目的と意義】を誤解しているように見えます。手段としての思考実験に拘泥した挙句、本来の目的は完全に見失われている―とでも言いましょうか。
「私が他人の身体に痛みを感じることは可能である」―これは【文法的注釈】として受け取られるべき「挿画」に過ぎないのです。重要なのは「挿画」ではなく、それが【示すもの】なのですから。
(上で論じた 幾何学的不可能性/論理的不可能性/[事物]の在り方に反しているが故にナンセンスな思考 の差異、形而上学的様相/認識論的様相/思考様相 の差異、【想像出来る】という語の異なる二つ―「想像出来る=想像表象と戯れる」 『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』―の文法を踏まえつつ、以下の質問について考えてみてください)

通り、(一連の遣り取りの中で)僕は事実的探究と文法的探究を混同しないように「示唆してきた」つもりなのですが・・・お解り頂けなかったとすれば、非常に残念です。

>それから、ご質問への回答としては、「概念的な差異」というのは何をお聞きなのか分からないですが、前に行った通り、「見る」と『見る』「喋る」と『テレパシー』「身体を使って物を動かすこと」と『念力』の差異は、単に身体を使うか使わないかの違いです。
でも「見える」も『見える』もその基準は、例えば、色当てゲームで一定以上正答することなどで、変わりはありません。
また、身体を持たない人は空間的な連続体ではないかもしれませんが、時間的には或る程度連続している必要はあると思います。

全く回答になっていませんね。何故か?

>誰かが『鯨は魚類である』『菅直人は米国大統領である』という言い方をするゲームを創案した所で、鯨が鰓呼吸したり・菅直人が米国大統領になることはありません。

「どんな状況がありえるかを常識的に考えて判断しましょう」という話をされていませんか。何度も言っていますが、それには興味がありません。まず、状況「菅直人が米大統領だったら」があった時にどういう記述が可能かという話をしたいと僕は思っています。

>「見えるべき目を持たないけど見えている」という状況。これはそんな状況を想像するのはすごく難しい。難しいけど不可能じゃない。難しいけどできるよね。あらゆる方向から四次元的に見えているキュビスムの映像みたいなのを思い浮かべたらいいかも。

見えるべき目を持たないけど見えている??不可能じゃない?? ―これがもし【視点或は視野を持たない視覚というものが想像出来る】という意味だとすれば、端的に不可能だと思われます(付言すれば、件の想定とキュビズムの映像は無関係でしょう)。

―上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・既にある言葉に対して(僕も含めて殆どの人は認容しないであろう)恣意的で的外れな拡張(=文法・概念上の混乱)を図ろうとしてきたのは横山さんであって、僕ではありません。

おっしゃる通り。僕は工藤さんの言われることほとんど理解できていないと思います。僕はだれかが常識的な判断で、「そんな言語ゲームは使えない」と言うのを否定したいと思っているのです。言語ゲームは本来、論理と原理と、その言葉遊びをする人々の好き嫌いと使いやすさ以外には、制限するものはないのじゃないかと思っています。常識的じゃないからダメだ。と言うのに反発しているのです。

>見えるべき目を持たないけど見えている??不可能じゃない?? ―これがもし【視点或は視野を持たない視覚というものが想像出来る】という意味だとすれば、端的に不可能だと思われます(付言すれば、件の想定とキュビズムの映像は無関係でしょう)。

あらゆるところからあらゆる映像が同時に見えているという、多重次元的な空間をイメージしていますから、キュビスムは大いに関係しています。イメージしにくいでしょうが、不可能じゃありません。

>「どんな状況がありえるかを常識的に考えて判断しましょう」という話をされていませんか。何度も言っていますが、それには興味がありません。まず、状況「菅直人が米大統領だったら」があった時にどういう記述が可能かという話をしたいと僕は思っています。

上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・常識云々は(僕ではなく)横山さんの話でしょう。これまで僕が「これは常識だから・・・」という物言いをしたことはないと思います。
とりあえず、【言葉の意味は"自分"以外の人が決める】という視点から我々の言語活動を眺めてみてはどうでしょう。

>おっしゃる通り。僕は工藤さんの言われることほとんど理解できていないと思います。僕はだれかが常識的な判断で、「そんな言語ゲームは使えない」と言うのを否定したいと思っているのです。言語ゲームは本来、論理と原理と、その言葉遊びをする人々の好き嫌いと使いやすさ以外には、制限するものはないのじゃないかと思っています。常識的じゃないからダメだ。と言うのに反発しているのです。

上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・常識云々は(僕ではなく)横山さんの話でしょう。これまで僕が「これは常識に反しているからダメだ」と言ったことはないと思います。
とりあえず、【言葉の意味は"自分"以外の人が決める】という視点から我々の言語活動を眺めてみてはどうでしょう。

>あらゆるところからあらゆる映像が同時に見えているという、多重次元的な空間をイメージしていますから、キュビスムは大いに関係しています。イメージしにくいでしょうが、不可能じゃありません。

ですから、或る一つの視点から捉えられた視覚印象を幾つも(アングルを変えたりして)組み合わせるキュビズムの映像≠視点或は視野を持たない視覚というものが想像出来る、なのですよ。

事物の在り方にあってるか反するかって言う判断は、まさしく、誰かの常識的な判断ではないんですか。概念的な意味づけと言っても所詮は経験的な判断だということですから、僕はそう思っていました。

僕が言ってるのは、「視点或は視野を持たない視覚」ではありません。目のない人の「見え」です。
ですから、或る一つの視点から捉えられた視覚印象を幾つも(アングルを変えたりして)組み合わせるキュビズムの映像=目のない人の「見え」
はあり得るでしょう。そう読んでください。

>事物の在り方にあってるか反するかって言う判断は、まさしく、誰かの常識的な判断ではないんですか。概念的な意味づけと言っても所詮は経験的な判断だということですから、僕はそう思っていました。

(以下、再々録しますが・・・「或る文法・概念の出自と[事物世界]の関係」と横山さんの言う「経験的な判断」の差異について考えてみてください)
Y氏とK氏は銀座を散歩しながら話をしている。
Y氏「ここは銀座一丁目―さっき『ホテルモントレラ・スールギンザ』を通り過ぎたのを覚えている―だよね。まあ、それはともかく・・・君には黙っていたけど、十分くらい前かな、いきなり左手が痛くなったんだよ。でも、その左手は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、モスクワ在住の大工ウラジミール・ソコロフ氏の左手だったんだ。そのとき彼はカナヅチで自分の左手を叩いたんだよ。そして、そのとき僕は「痛い!」と叫んでしまったんだけど、その叫び声を出した口は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、リオデジャネイロ在住の大学生フランシスコ・アイマール君の口だったんだ。そのとき彼は友人とフットサルをしていたんだが、別に誰かに蹴られたりしたわけじゃない。それで、そのとき僕にはエジプトの?スフィンクスらしきものが見えていたんだけど、それを見ていた眼は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくてフランスからの旅行者フランソワ・ジダン氏の両眼だったんだ。どうだろう、この話・・・君は信じてくれるかい?」

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。じゃあ、とりあえず、幾つか質問させてもらうよ。
①今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故かつて(十分くらい前に)自分が今君が話してくれたような状況にあったことを【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えている】からだ」と答えても何にもならないよね。例えば(通常)或る人が「僕は東京タワーを【見ている】のだ」と主張する場合、彼以外の第三者がその主張の真偽をチェック出来る。彼の視線が東京タワーに向いているか、彼が見ているのは東京タワーではなく東京タワーの写真なのかどうか、彼が自分の想像表象と[実物]の―彼や第三者が視認し得る―東京タワーを取り違えていないかどうか等々。もし第三者によるチェックが【原理的に】不可能であるとすれば、その事柄については「それが生起したこと」と「それが生起したと或る人が【思い込んでいる】こと」を区別出来ないんじゃないかな。だから、そんな代物はゲームの指手にはならないし、なり得ないよね。
②(質問①に関連して)今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故ソコロフ、アイマール、ジダン各氏の個人情報とそのとき彼らが置かれていた状況を【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えているから】だ」とか「かつて(十分くらい前)の僕がそれらの状況を【見ていた】からだ」と答えても何にもならないよね。仮に或る人が「僕は昨日東京タワーを見たのを覚えている」と主張したとしても、それが記憶違いだった―覚えていると【思い込んでいた】が実際は違っていた―ということも『あり得る』わけだし、君の言う状況が【原理的に】第三者によるチェックを受け付けないものであるなら、さっきと同じ話になる。そして、【本当に】【そのとき】君がそれらの状況を【見ていた】のだとすれば、君の言う?ジダン氏の視線と君の言う?スフィンクスらしきものとの関係と【そのとき】銀座を闊歩していたY氏なる身体との繋がりに加えて、それら全てと今の君―僕から見れば、Y氏なる身体的存在者なのだが―との関係(言うまでもなく【それら一連の記憶】も含めて)は、第三者によるチェックが「可能な」ものでなければならない。記憶と思い込みの違いは別にしても、そうでなければ又さっきと同じ話になってしまうからね。
要するに、こういうことかな。或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】を前提・含意している、と。別の言い方をすれば、或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である、ということ。まあ、他にもツッコミたい所はあるんだけど・・・そんなことより鮨でも食べに行かないか? せっかく銀座まで来たんだから」

Y氏「そうしよう。小腹も空いてきたことだし。この辺で良い店でも知ってるのかい?」

K氏「『次郎』にでも行こうか。君のおごりで」


>素晴らしい。実に実に面白いです。
話が具体的になると、やっぱりわかりやすいですね。僕の意見をどのように受け取られていたのか、どういう意味で否定されていたのか、ようやくわかってきた気がします。
>ここからの話の展開もすごく楽しみにしています。


お解り頂けたでしょうか。

何度も同じ所をぐるぐるしていますが、僕が「素晴らしい」と言ったのは、K氏が一回きりの出来事について原理的不可能性を説いたのだと、誤読したからです。
そうでないなら、誰かの常識的な判断でしかないと、しか考えられません。そんな判断は科学の仕事であると思われますので、僕は興味ありません。

>僕が言ってるのは、「視点或は視野を持たない視覚」ではありません。目のない人の「見え」です。
ですから、或る一つの視点から捉えられた視覚印象を幾つも(アングルを変えたりして)組み合わせるキュビズムの映像=目のない人の「見え」
はあり得るでしょう。そう読んでください。

目のない人の「見え」?? ―既述の通り、通常の視覚「見る」と想像表象『見る』は違います。仮に横山さんの言う「見え」なる代物?が想像表象の在り方に依拠して想像されているのだとしても、全く意味不明と言わざるを得ません。
時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

>何度も同じ所をぐるぐるしていますが、僕が「素晴らしい」と言ったのは、K氏が一回きりの出来事について原理的不可能性を説いたのだと、誤読したからです。
そうでないなら、誰かの常識的な判断でしかないと、しか考えられません。そんな判断は科学の仕事であると思われますので、僕は興味ありません。

オカシイですね。上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・科学の話をしたのは横山さんであって、僕ではありません。量子論云々然り。

(件の論点について。以下、再々録しておきます)
>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。


お解り頂けたでしょうか。

>僕が言ってるのは、「視点或は視野を持たない視覚」ではありません。目のない人の「見え」です。
ですから、或る一つの視点から捉えられた視覚印象を幾つも(アングルを変えたりして)組み合わせるキュビズムの映像=目のない人の「見え」
はあり得るでしょう。そう読んでください。

目のない人の「見え」?? ―既述の通り、通常の視覚「見る」と想像表象『見る』は違います。仮に横山さんの言う「見え」なる代物?が想像表象の在り方に依拠して想像されているのだとしても、全く意味不明と言わざるを得ません。
時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

答えになっていないと言われても、僕には以前の回答を繰り返すしかできません。

「見え」も『見え』も基準は、例えば、色当てゲームで一定値以上の正答率を上げることです。

>何度も同じ所をぐるぐるしていますが、僕が「素晴らしい」と言ったのは、K氏が一回きりの出来事について原理的不可能性を説いたのだと、誤読したからです。
そうでないなら、誰かの常識的な判断でしかないと、しか考えられません。そんな判断は科学の仕事であると思われますので、僕は興味ありません。

オカシイですね。上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・科学の話をしたのは横山さんであって、僕ではありません。量子論云々然り。

(件の論点について。以下、再々録しておきます)
>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。


お解り頂けたでしょうか。

(何故か名前が入っていなかったので)再投稿しました。

>答えになっていないと言われても、僕には以前の回答を繰り返すしかできません。
>「見え」も『見え』も基準は、例えば、色当てゲームで一定値以上の正答率を上げることです。

時空的連続体ではない存在者と我々が色当てゲームをするとは如何なることか?
目のない人の「見え」?? ―既述の通り、通常の視覚「見る」と想像表象『見る』は違います。仮に横山さんの言う「見え」なる代物?が想像表象の在り方に依拠して想像されているのだとしても、全く意味不明と言わざるを得ません。
時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

科学的論争を舞台にした哲学的な問題には非常に興味があります。
でも、常識的に経験的に何かの状況が起こり得るかどうかを判断するのに実験観察を繰り返す科学的作業にはさっばり興味がありません。

身体がなくたって、目がなくたって、声があれば、色当てゲームはできるじゃないですか。

>「喋る口をもたないけど喋れる」という状況。これも想像しにくいけど不可能じゃない。誰かの心に直接話しかけるテレパシーを思い浮かべればいいかも。
>実は、本当に、僕の物理的な身体はさっきから無くなってしまっていて、テレパシーで君に話していたんだけど、気づいていたかい?ちょっと、向こうに見える教会の鐘を鳴らしてみようか。こっちの青年の歩き煙草をテレパシーで注意してやろうか。

(想像された状況において)抑も何故K氏は自分の心に語りかけている??のが"Y氏"だと【知っている】のか? この問いに対して「私がそう【思う】からだ」と答えたとすれば、第三者はK氏が発狂した(か幻覚を見ていた)と判断するかもしれませんね。

>身体がなくたって、目がなくたって、声があれば、色当てゲームはできるじゃないですか。

(想像された状況において)抑も何故K氏は自分の心に語りかけている??のが"Y氏"だと【知っている】のか? この問いに対して「私がそう【思う】からだ」と答えたとすれば、第三者はK氏が発狂した(か幻覚を見ていた)と判断するかもしれませんね。

>科学的論争を舞台にした哲学的な問題には非常に興味があります。
でも、常識的に経験的に何かの状況が起こり得るかどうかを判断するのに実験観察を繰り返す科学的作業にはさっばり興味がありません。

不明瞭で胡乱な想像を膨らませることと哲学的探究は無関係ですし、[事物]に即した概念を構成するのは生中な事ではないのです。

何故K氏は自分の心に語りかけたのがY氏だと知っているのか。

この論点で話し合うのならすごく安心できます。一回きりの出来事についての原理的不可能性を論じていて、論理ははなしだからです。ここには事物の在り方に反するか否かの判断は関係ないからです。

>この論点で話し合うのならすごく安心できます。一回きりの出来事についての原理的不可能性を論じていて、論理ははなしだからです。ここには事物の在り方に反するか否かの判断は関係ないからです。

これも誤読ですね。僕は「一回きりの出来事についての原理的不可能性」とか「事物の在り方」云々を問題にしているのではありません。

物体が粒子性と波動性を両立させられるか、も、身体のない人がものを見えるか、も、しっかり考えようとするなら、僕はそれを哲学と呼びたいと思います。工藤さんに賛同してもらえないのは残念ですが、けっこう多くの賛同が得られる考え方だと自負しています。

>物体が粒子性と波動性を両立させられるか、も、身体のない人がものを見えるか、も、しっかり考えようとするなら、僕はそれを哲学と呼びたいと思います。工藤さんに賛同してもらえないのは残念ですが、けっこう多くの賛同が得られる考え方だと自負しています。


(件の論点について。以下、再々録しておきます)
>工藤さんは、「まず言語ゲームありき」で考えられていて、「現象をどう語るべきかは、あらかじめルールが決まっている」と捉えられているように、僕には感じられてしかたありません。言語ゲームが最初に設定されてしまうとそれを遵守しなければならなくなると。

これは全くの誤解です。(永井氏の思考実験に対する批判は別にしても)最新の思考実験もそうでしたが、横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。(失礼ながら)僕に言わせれば「文法的混乱」でしかないものを「言語の限界についての考察」と混同しているように見えますし、横山さんが以下のスローガン

>それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

を体現されているとは到底思えません。

事物に即した概念を構成することというのは何のことか全然わかりませんが、こっちの方が、哲学じゃなくて、科学なんじゃないかと訝っています。

>事物に即した概念を構成することというのは何のことか全然わかりませんが、こっちの方が、哲学じゃなくて、科学なんじゃないかと訝っています。

オカシイですね。僕の書き方が悪かったのかもしれませんが・・・①不明瞭で胡乱な想像を膨らませることと【哲学的探究=概念的探究】は無関係②[事物]に即した概念を構成する(=自然科学が目指すべき目標)のは生中な事ではない、と読んでください。

(想像された状況において)抑も何故K氏は自分の心に語りかけている??のが"Y氏"だと【知っている】のか?

(件の論点について。再々録しておきます)
①事実的探究(ex. [事物]に即した概念を構成すること)
②文法的探究(ex. 我々の概念構成の在り方を精査する。哲学的似非問題を解消する)
③幾何学的構成
④算術的構成
⑤数学的探究という名の錯誤(ex. 微積分学や集合論における論理・算術・幾何学の混同から生じた擬似問題)

様々な観測データから世界の事実を解釈判断し、構成することを科学的探究と呼ぶなら、事実的探究とは正しく科学的探究ではないですか。

>様々な観測データから世界の事実を解釈判断し、構成することを科学的探究と呼ぶなら、事実的探究とは正しく科学的探究ではないですか。

とはいえ、イコールではありませんよね。

(想像された状況において)抑も何故K氏は自分の心に語りかけている??のが"Y氏"だと【知っている】のか?

↑言うまでもなく、概念的探究ですね。

何故Y氏だと知っているのか。
これは、一回きりの出来事についての規則性解釈の原理的不可能性の問題だと僕は思いますが。

それについては、Y氏の反論で、言ったように、データを十分多くすることで乗り越えられます。

>何故Y氏だと知っているのか。
これは、一回きりの出来事についての規則性解釈の原理的不可能性の問題だと僕は思いますが。
>それについては、Y氏の反論で、言ったように、データを十分多くすることで乗り越えられます。

(想像された状況において)抑も何故K氏は自分の心に語りかけている??のが"Y氏"だと【知っている】のか?
この問いに対して「私がそう【思う】からだ。初めて彼がテレパシーを送ってきたのは一週間くらい前だったと記憶している」と答えたとすれば、第三者はK氏が狂っている(か幻聴におかされている)と判断するかもしれませんね。

しかし、Y氏の声がホントに聞こえるのだということを示すデータが増えれば第三者も、認めるでしょうね。

>しかし、Y氏の声がホントに聞こえるのだということを示すデータが増えれば第三者も、認めるでしょうね。


件の状況でデータを云々し得るのは第三者のみですし、ここで【何の断りもなしに】導入された仮定法「✖✖があり得るかどうかはともかく、ここで『Y氏の声がホントに聞こえるのだということを示すデータ』が得られたと【仮定して】みよう。【そうすれば】✖✖が成立する【ことになる】のだ」から第三者の同意を導出することは出来ません(cf. 詭弁術)。とはいえ、第三者の同意(≠チェック)と【"Y氏"の声がホントに聞こえること】は独立・無関係でしょう。

Y氏が「十日前から私はフォン・ノイマンの霊と交信している。"彼"が私の心に直接語りかけてくるのだ!」と強弁している。我々は(面倒臭いので)相槌を打ってやる。
件の状況において、『Y氏の主張が事実であることを示すデータ』とは何か?

僕が興味を持っているのは、どのような世界の内容が構成され得るかという科学的探究ではなく、どのようにすれば世界の記述が構成され得るかという方法的探究です。
だから、適当なデータをでっち上げて、何の断りもなく導入してもまったく問題ないと思っていますし、それで、例えば、K氏以外にも多くの人がテレパシーを聞いたと訴えるような状況が出てくれば第三者の判断も変わってくるだろうとか、変わらないだろうとかいうことが考えられればそれでいいと思っています。
もちろん、状況のデータからどのような解釈をするかということは、どんな場合でも分析的に導出されることはありませんし、だから、ホントにテレパシーが聞こえているのかという問題と第三者の同意の問題が独立だというのはその通りです。
しかし、テレパシーが聞こえているとすべき判断材料が増えれば、第三者が同意しやすくなるというのも当然の話です。
現実的にそれが現実の物になるかどうかという問題からは外れてしまいますが、或る解釈が論理的原理的にあり得るなら、それは現実化し得る世界構成であると考えていいように思います。それだけでいいんじゃないでしょうか。それ以上の判断は現実的に実験観察を繰り返し正しい現実的データを多量に持ち得る専門家に任せたいです。
こんなスタイルは後期ウィトの思考実験の意義を誤解しているということでしたが、思考実験に「事実的探究」なるものを導入されることの方が僕にはまったく理解不能です。それは思考実験でなく現実的実験の出番になるべきところのように思います。

それから、フォンノイマンの霊については、Y氏が霊と交信しているのを自分で確かめられるのなら、その根拠は第三者にとっても確かめ得る根拠のはずだと思います。自分でそうだと思っているだけでは確かめたことにはならないというのは、僕もそう思いますから、Y氏に根拠を聞いて「そう思うからそうなのだ」なんていう答えしか得られなかったら信用する必要はないし、第三者が確かめ得る根拠があるのなら、それを示してもらえばいいんじゃないでしょうか。

こんばんは、工藤です。昨夜は友人との会合でチェック出来ませんでした。では、コメントをいくつか。

>僕が興味を持っているのは、どのような世界の内容が構成され得るかという科学的探究ではなく、どのようにすれば世界の記述が構成され得るかという方法的探究です。

オカシイですね。(横山さんの主張に反して)どのような世界の内容が構成され得るかという概念・文法的探究は、実験等の経験的探究を通して[事物]に即した概念を構成することを目的とした科学的探究とは違います。
付言しますと、(既述の通り)横山さんの記述はただ言葉を並べているに過ぎず、世界記述と呼べるようなものではありません。


(件の論点について。再々々録しておきます)
>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。

>こんなスタイルは後期ウィトの思考実験の意義を誤解しているということでしたが、思考実験に「事実的探究」なるものを導入されることの方が僕にはまったく理解不能です。それは思考実験でなく現実的実験の出番になるべきところのように思います。

これも信じ難い誤読です。誰がそんなことを言ったのでしょう? 上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・既に述べた

個人的な印象ですが、(横山さんに限らず)ウィトゲンシュタインの後期哲学に触れた人の多くは【ウィトゲンシュタインの哲学的営為における思考実験の目的と意義】を誤解しているように見えます。手段としての思考実験に拘泥した挙句、本来の目的は完全に見失われている―とでも言いましょうか。
「私が他人の身体に痛みを感じることは可能である」―これは【文法的注釈】として受け取られるべき「挿画」に過ぎないのです。重要なのは「挿画」ではなく、それが【示すもの】なのですから。
(上で論じた 幾何学的不可能性/論理的不可能性/[事物]の在り方に反しているが故にナンセンスな思考 の差異、形而上学的様相/認識論的様相/思考様相 の差異、【想像出来る】という語の異なる二つ―「想像出来る=想像表象と戯れる」 『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』―の文法を踏まえつつ、以下の質問について考えてみてください)

通り、(一連の遣り取りの中で)僕は事実的探究と文法的探究を混同しないように「示唆してきた」つもりなのですが・・・お解り頂けなかったとすれば、非常に残念です。


(件の論点について。再々々録しておきます)
①事実的探究(ex. [事物]に即した概念を構成すること)
②文法的探究(ex. 我々の概念構成の在り方を精査する。哲学的似非問題を解消する)
③幾何学的構成
④算術的構成
⑤数学的探究という名の錯誤(ex. 微積分学や集合論における論理・算術・幾何学の混同から生じた擬似問題)


(件の論点について。以下、再々々録しておきます)
>「常識に反するからその思考はナンセンス」という理解で不充分なら、「世界中の最先端の知識に照らして反するからその思考はナンセンス」と言い替えましょう。
しかし、そう言い替えても思考実験の内容をあり得ないと切り捨てる理由にはならないと思います。物理的にあり得るかどうかに関わらず文法的にあり得るのなら思考実験の対象にして、何がダメなのでしょう。

【概念的に】不可能なのですよ。我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っていたわけではなく、経験的探究を積み重ねる中で[事物]に即した概念を獲得してきました。そして、件の概念群は我々の文法に編み込まれています。従って、既に示唆した

⑤一連の思考実験において、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?、ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

通り、我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです。「猫」「見る」「喋る」「聴く」etcについても然り。

たとえば、「猫は猫である」のような無意味文でも、

我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです

か?

>もちろん、状況のデータからどのような解釈をするかということは、どんな場合でも分析的に導出されることはありませんし、だから、ホントにテレパシーが聞こえているのかという問題と第三者の同意の問題が独立だというのはその通りです。
しかし、テレパシーが聞こえているとすべき判断材料が増えれば、第三者が同意しやすくなるというのも当然の話です。

しかし、横山さんも認めているように、第三者の同意(≠チェック)は【"Y氏"からのテレパシーをホントに受信していること】は独立・無関係ですね。
件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

>それから、フォンノイマンの霊については、Y氏が霊と交信しているのを自分で確かめられるのなら、その根拠は第三者にとっても確かめ得る根拠のはずだと思います。自分でそうだと思っているだけでは確かめたことにはならないというのは、僕もそう思いますから、Y氏に根拠を聞いて「そう思うからそうなのだ」なんていう答えしか得られなかったら信用する必要はないし、第三者が確かめ得る根拠があるのなら、それを示してもらえばいいんじゃないでしょうか。

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

>或る解釈が論理的原理的にあり得るなら、それは現実化し得る世界構成であると考えていいように思います。それだけでいいんじゃないでしょうか。

何度でも繰り返しますが、横山さんの想像は【概念的にあり得ない】のです。

>それ以上の判断は現実的に実験観察を繰り返し正しい現実的データを多量に持ち得る専門家に任せたいです。

現実的に実験観察を繰り返し正しい現実的データを多量に持ち得る専門家?? ―オカシイですね。これこそ当に概念的探究と事実的探究の混同では? 何故この文脈でこういう発言が出てくるのか、理解に苦しみます。

>たとえば、「猫は猫である」のような無意味文でも、

我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです

か?


これは論点のスリカエですね。文脈を無視して半端な読みをされても困ります。

(件の論点について。以下、再々々々録しておきます)
>「常識に反するからその思考はナンセンス」という理解で不充分なら、「世界中の最先端の知識に照らして反するからその思考はナンセンス」と言い替えましょう。
しかし、そう言い替えても思考実験の内容をあり得ないと切り捨てる理由にはならないと思います。物理的にあり得るかどうかに関わらず文法的にあり得るのなら思考実験の対象にして、何がダメなのでしょう。

【概念的に】不可能なのですよ。我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っていたわけではなく、経験的探究を積み重ねる中で[事物]に即した概念を獲得してきました。そして、件の概念群は我々の文法に編み込まれています。従って、既に示唆した

⑤一連の思考実験において、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?、ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

通り、我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです。「猫」「見る」「喋る」「聴く」etcについても然り。

>横山さんの想像は【概念的にあり得ない】のです。

その概念的にありえないっていうのの論拠を、具体的に示してもらいたいです。そうすれば、アプリオリにダメなわけじゃないのに、概念的にダメと言われる意味が僕にも少しは分かるのじゃないかと思います。経験的にダメっていうのは、その総合文が偽であるという意味にしか、僕には理解できません。、

とはいえ、「猫は猫である」は【如何なる文脈においても】無意味な文なのでしょうか?
例えば、「 P=P」と「猫は猫である」の差異について考えてみてください。

>たとえば、「猫は猫である」のような無意味文でも、

我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです

か?

の回答としては、トートロジーは無意味であるという考察はできるということで理解していいですね。事物の概念がなくても文法的考察ができる場合とできない場合があると考えていいでしょうか。すり替えと言われても、言われていることが理解できないのですから一つ一つ確かめていくしかありません。

>その概念的にありえないっていうのの論拠を、具体的に示してもらいたいです。そうすれば、アプリオリにダメなわけじゃないのに、概念的にダメと言われる意味が僕にも少しは分かるのじゃないかと思います。経験的にダメっていうのは、その総合文が偽であるという意味にしか、僕には理解できません。


具体的に示す??経験的にダメ?? ―これも又信じ難い誤読です。誰がそんなことを言ったのでしょう? 上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・言うまでもなく、概念的にあり得ない≠経験的にあり得ない、でしょう。

(件の論点について。以下、再々録しておきます)
>もしかして、「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というのは原理的な主張なのだと、工藤さんは言われるでしょうか。

これも完全な誤読ですね。ご存知だと思いますが、僕が【原理的】という言葉を使ったのは「第三者のチェックが~」の所です(因みに、件の言葉は【絶対に】くらいの意味で使っています)。翻って、僕の主張の眼目は、(私秘的な想像表象等ではなく)公共的に観察可能な或る状況を「見る」という【概念の本質】には以下の事柄
①「見る」者が公共的に観察可能な【一つの身体】であること
②「見る」者=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること
③視線は「見る」者=身体上の或る点から向けられていること
が組み込まれている―ということでした。従って、(既述の通り)先般の思考実験で想像されているような事柄に対して「見る」という概念は適用出来ないのです。

>工藤さんは、「まず言語ゲームありき」で考えられていて、「現象をどう語るべきかは、あらかじめルールが決まっている」と捉えられているように、僕には感じられてしかたありません。言語ゲームが最初に設定されてしまうとそれを遵守しなければならなくなると。

これは全くの誤解です。(永井氏の思考実験に対する批判は別にしても)最新の思考実験もそうでしたが、横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。(失礼ながら)僕に言わせれば「文法的混乱」でしかないものを「言語の限界についての考察」と混同しているように見えますし、横山さんが以下のスローガン

>それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

を体現されているとは到底思えません。
付言しますと、僕が示唆したのは【想像された状況においては「見る」「喋る」「聴く」「身体を使って物を動かす」等々の表現を適用することが出来ないし、全く別の概念(千里眼、テレパシー、念力etc)を持ち出すにしても、その超自然的能力と「時空的連続体ではない存在者」の繋がりは全く明らかではない】ということでした。

お解り頂けたでしょうか。

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

>概念的にあり得ない≠経験的にあり得ない

アプリオリな判断ではないということですからそう思ったのですが、それも違うのですか。むちゃくちゃむずかしいですね。
再録されてもわからない言葉づかいは何度繰り返されてもやはりわかりませんから、新しい言葉づかいを望みます。

「その概念的にありえないっていうのの論拠を、具体的に示してもらいたいです」というお願いさえも誤読と言われるなんてなんのこっちゃか、誤読の意味さえ分からないです。むずかしいにもほどがあります。

>「その概念的にありえないっていうのの論拠を、具体的に示してもらいたいです」というお願いさえも誤読と言われるなんてなんのこっちゃか、誤読の意味さえ分からないです。むずかしいにもほどがあります。


(件の論点について。以下、再々々録しておきます)
Y氏とK氏は銀座を散歩しながら話をしている。
Y氏「ここは銀座一丁目―さっき『ホテルモントレラ・スールギンザ』を通り過ぎたのを覚えている―だよね。まあ、それはともかく・・・君には黙っていたけど、十分くらい前かな、いきなり左手が痛くなったんだよ。でも、その左手は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、モスクワ在住の大工ウラジミール・ソコロフ氏の左手だったんだ。そのとき彼はカナヅチで自分の左手を叩いたんだよ。そして、そのとき僕は「痛い!」と叫んでしまったんだけど、その叫び声を出した口は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、リオデジャネイロ在住の大学生フランシスコ・アイマール君の口だったんだ。そのとき彼は友人とフットサルをしていたんだが、別に誰かに蹴られたりしたわけじゃない。それで、そのとき僕にはエジプトの?スフィンクスらしきものが見えていたんだけど、それを見ていた眼は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくてフランスからの旅行者フランソワ・ジダン氏の両眼だったんだ。どうだろう、この話・・・君は信じてくれるかい?」

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。じゃあ、とりあえず、幾つか質問させてもらうよ。
①今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故かつて(十分くらい前に)自分が今君が話してくれたような状況にあったことを【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えている】からだ」と答えても何にもならないよね。例えば(通常)或る人が「僕は東京タワーを【見ている】のだ」と主張する場合、彼以外の第三者がその主張の真偽をチェック出来る。彼の視線が東京タワーに向いているか、彼が見ているのは東京タワーではなく東京タワーの写真なのかどうか、彼が自分の想像表象と[実物]の―彼や第三者が視認し得る―東京タワーを取り違えていないかどうか等々。もし第三者によるチェックが【原理的に】不可能であるとすれば、その事柄については「それが生起したこと」と「それが生起したと或る人が【思い込んでいる】こと」を区別出来ないんじゃないかな。だから、そんな代物はゲームの指手にはならないし、なり得ないよね。
②(質問①に関連して)今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故ソコロフ、アイマール、ジダン各氏の個人情報とそのとき彼らが置かれていた状況を【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えているから】だ」とか「かつて(十分くらい前)の僕がそれらの状況を【見ていた】からだ」と答えても何にもならないよね。仮に或る人が「僕は昨日東京タワーを見たのを覚えている」と主張したとしても、それが記憶違いだった―覚えていると【思い込んでいた】が実際は違っていた―ということも『あり得る』わけだし、君の言う状況が【原理的に】第三者によるチェックを受け付けないものであるなら、さっきと同じ話になる。そして、【本当に】【そのとき】君がそれらの状況を【見ていた】のだとすれば、君の言う?ジダン氏の視線と君の言う?スフィンクスらしきものとの関係と【そのとき】銀座を闊歩していたY氏なる身体との繋がりに加えて、それら全てと今の君―僕から見れば、Y氏なる身体的存在者なのだが―との関係(言うまでもなく【それら一連の記憶】も含めて)は、第三者によるチェックが「可能な」ものでなければならない。記憶と思い込みの違いは別にしても、そうでなければ又さっきと同じ話になってしまうからね。
要するに、こういうことかな。或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】を前提・含意している、と。別の言い方をすれば、或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である、ということ。まあ、他にもツッコミたい所はあるんだけど・・・そんなことより鮨でも食べに行かないか? せっかく銀座まで来たんだから」

Y氏「そうしよう。小腹も空いてきたことだし。この辺で良い店でも知ってるのかい?」

K氏「『次郎』にでも行こうか。君のおごりで」

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

>空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か? そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か? 件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

いずれにも、意味のあるゲームを為すための、語の基準を示せると思いますが、それはおいておくとして、工藤さんがこれらに適切な答えがないっと思われるのなら、それは「アプリオリ」で「分析的」な不可能性を問われているのではないのですか。文法的にダメなのとどう違うのでしょう。やはり意味が分かりません。

再録されてもわからない言葉づかいは何度繰り返されてもやはりわかりませんから、新しい言葉づかいを望みます。

>いずれにも、意味のあるゲームを為すための、語の基準を示せると思います


時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

>それは「アプリオリ」で「分析的」な不可能性を問われているのではないのですか。文法的にダメなのとどう違うのでしょう。やはり意味が分かりません。
>再録されてもわからない言葉づかいは何度繰り返されてもやはりわかりませんから、新しい言葉づかいを望みます。

とりあえず、クリプキの『名指しと必然性』を読んでください。

>アプリオリにダメなわけじゃないのに、概念的にダメと言われる意味が僕にも少しは分かるのじゃないかと思います。経験的にダメっていうのは、その総合文が偽であるという意味にしか、僕には理解できません。

その総合文が偽であるという意味にしか、僕には理解できません?? ―既述の通り、【様相文】―例えば「ヒトラーが米国大統領になることもあり得た」等々―は基本的に真理値を持ちません。別の言い方をすれば、様相文は真理条件ではなく言明可能性条件によって特徴付けられる、ということです。
とりあえず、上の様相文と「ヒトラーは日本の首相であった」という文の差異について考えてみてください。

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

規則はどんな解釈をも許します。許されない解釈などないし、唯一の絶対的な解釈もありません、

「概念的に」適切な解釈と不適切な解釈とに切り分けることとはいかなる正当性があるのでしょう。

僕はいくらでも適当な解釈をつけつづけ、工藤さんは工藤さんの立場でそれを受け入れられない解釈だと言い続ける。どこまでも自分が正しいと主張するいたちごっこがあるだけじゃないんですか。
どっちが正当だと決められる絶対的な立脚点があるとは思えません。

>規則はどんな解釈をも許します。許されない解釈などないし、唯一の絶対的な解釈もありません、
>「概念的に」適切な解釈と不適切な解釈とに切り分けることとはいかなる正当性があるのでしょう。
>僕はいくらでも適当な解釈をつけつづけ、工藤さんは工藤さんの立場でそれを受け入れられない解釈だと言い続ける。どこまでも自分が正しいと主張するいたちごっこがあるだけじゃないんですか。
どっちが正当だと決められる絶対的な立脚点があるとは思えません。


それは横山さんの「解釈」です。そして、

ここに誤解があるということは、我々がこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行っているという事実の内に既に示されている。-略-そして、規則に従っていると【信じている】ことは、規則に従っていることではない。―ウィトゲンシュタイン

ご参考になれば幸甚です。

>規則に従っていると【信じている】ことは、規則に従っていることではない。

全く同じ答えをお返しします。事物の在り方に適した解釈と反した解釈を切り分けることができると信じることは、適合することではない、と。

>全く同じ答えをお返しします。事物の在り方に適した解釈と反した解釈を切り分けることができると信じることは、適合することではない、と。


事物の在り方に適した解釈と反した解釈を切り分けることができると信じる?? ―オカシイですね。上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・何度でも繰り返しますが、我々の概念構成の在り方を見極めることは浅薄で胡乱な想像に振り回されることではありません。

(件の論点について。以下、再々々録しておきます)
>もしかして、「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というのは原理的な主張なのだと、工藤さんは言われるでしょうか。

これも完全な誤読ですね。ご存知だと思いますが、僕が【原理的】という言葉を使ったのは「第三者のチェックが~」の所です(因みに、件の言葉は【絶対に】くらいの意味で使っています)。翻って、僕の主張の眼目は、(私秘的な想像表象等ではなく)公共的に観察可能な或る状況を「見る」という【概念の本質】には以下の事柄
①「見る」者が公共的に観察可能な【一つの身体】であること
②「見る」者=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること
③視線は「見る」者=身体上の或る点から向けられていること
が組み込まれている―ということでした。従って、(既述の通り)先般の思考実験で想像されているような事柄に対して「見る」という概念は適用出来ないのです。

>工藤さんは、「まず言語ゲームありき」で考えられていて、「現象をどう語るべきかは、あらかじめルールが決まっている」と捉えられているように、僕には感じられてしかたありません。言語ゲームが最初に設定されてしまうとそれを遵守しなければならなくなると。

これは全くの誤解です。(永井氏の思考実験に対する批判は別にしても)最新の思考実験もそうでしたが、横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。(失礼ながら)僕に言わせれば「文法的混乱」でしかないものを「言語の限界についての考察」と混同しているように見えますし、横山さんが以下のスローガン

>それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

を体現されているとは到底思えません。
付言しますと、僕が示唆したのは【想像された状況においては「見る」「喋る」「聴く」「身体を使って物を動かす」等々の表現を適用することが出来ないし、全く別の概念(千里眼、テレパシー、念力etc)を持ち出すにしても、その超自然的能力と「時空的連続体ではない存在者」の繋がりは全く明らかではない】ということでした。

お解り頂けたでしょうか。

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

>全く同じ答えをお返しします。事物の在り方に適した解釈と反した解釈を切り分けることができると信じることは、適合することではない、と。


ところで、以下の話
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC
は、我々が実験等の経験的探究を通して①[事物]に即した【概念】―横山さんが言う意味での「解釈」ではありません―と②[事物]の在り方にそぐわない【概念】―横山さんが言う意味での「解釈」ではありません―を区別し得ることを示しているように思われます。
とはいえ、全く同じ答え??適した解釈?? ―オカシイですね。これこそ当に概念的探究と事実的探究の混同では? 何故この文脈でこういう発言が出てくるのか、理解に苦しみます。(永井氏の思考実験に対する批判は別にして)先般の思考実験もそうでしたが、横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。(失礼ながら)僕に言わせれば「文法的混乱」でしかないものを「言語の限界についての考察」と混同しているように見えますし、横山さんが以下のスローガン

>それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

を体現されているとは到底思えません。

文法的にあり得るなら思考実験の対象にすることは許されるとする僕の主張に対して、工藤さんの回答は「概念的にあり得ないのです」でした。そこで「概念的な判断」とは何なのかを掴もうとしているのですが、
「概念的探究=経験的探究」ではなく、しかし一方、ある時には、「概念的な判断は経験的探究によってなされる」、と、こういうことですよね。

色々質問させてもらっていますが、結局、何も得られず振り出しに戻ってきた印象です。

こんばんは、工藤です。作家の友人から未発表小説の論評を依頼された関係で、ここ数日はコメントする暇がありませんでした。

因みに、彼のデビュー作はコチラ↓
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF-%E6%9C%A7%E5%A1%9A/dp/B00D7C4AL8
になります。

お読み頂ければ幸甚です。

>文法的にあり得るなら思考実験の対象にすることは許されるとする僕の主張に対して、工藤さんの回答は「概念的にあり得ないのです」でした。


問題は【文法】という言葉で横山さんが何を考えておられるのか、でしょうね。
ここで「文法的にあり得る」とは何の謂か? 「"私(=横山さん)"は何となくイメージ出来るような気がする」くらいの意味なのか、それとも何か別の基準があるのか。
ところで、既に示唆した

①事実的探究(ex. [事物]に即した概念を構成すること)
②文法的探究(ex. 我々の概念構成の在り方を精査する。哲学的似非問題を解消する)
③幾何学的構成
④算術的構成
⑤数学的探究という名の錯誤(ex. 微積分学や集合論における論理・算術・幾何学の混同から生じた擬似問題)

通り、(後期ウィトもそうですが)僕は文法的探究と概念的探究を区別しておりません。僕が「概念的にあり得ない」と言ったのは、横山さんが考える『文法』と僕の言う「文法」を混同してほしくなかったからであって、他意はありません。


>「概念的探究=経験的探究」ではなく、しかし一方、ある時には、「概念的な判断は経験的探究によってなされる」、と、こういうことですよね。


概念的な判断?? ―オカシイですね。上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・僕は【実験等の経験的探究】と言った筈です。
よもや誤解は無いと信じますが、ここで言う実験と思考実験=概念構成を混同しないでください(無論【実験等の経験的探究に基づく判断】と【文法=概念的に不可能であるという判断】も又然り)。

(件の論点について。以下、再録しておきます)
ところで、以下の話
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC
は、我々が実験等の経験的探究を通して①[事物]に即した【概念】―横山さんが言う意味での「解釈」ではありません―と②[事物]の在り方にそぐわない【概念】―横山さんが言う意味での「解釈」ではありません―を区別し得ることを示しているように思われます。

付言しますと、不明瞭で胡乱な想像―何となくイメージ出来るような気がする―の垂れ流しと思考実験=概念構成はイコールではありません。

ご参考になれば幸甚です。

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

>以下の話http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC
は、我々が実験等の経験的探究を通して①[事物]に即した【概念】―横山さんが言う意味での「解釈」ではありません―と②[事物]の在り方にそぐわない【概念】―横山さんが言う意味での「解釈」ではありません―を区別し得ることを示しているように思われます。

のご回答から、「概念的な探究なるものは経験的探究によってなされる」、と、いうことをおっしゃっているのだと思ったのですが、違うということですか。

「再録」と「?? ―オカシイですね。上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・」もできたらなくしてもらえませんか。どこまでが新しい文章か古い文章か、僕には読みにくくて困ります。

>「概念的な探究なるものは経験的探究によってなされる」、と、いうことをおっしゃっているのだと思ったのですが、違うということですか。


信じ難い程の誤読ですね。

>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

「概念的探究」或いは「事物の在り方に対する判断」ってのは、もしかすると、「クワスは正しい足し算ではない」という判断のように「日常の言語ゲームから外れているような規則解釈は言語理解から除外できる」という意味合いのものだと考えればいいのでしょうか。
僕が分からないと言っている「再録」を繰り返されるだけなら御返事はいらないです。

横山にとっての「文法的に可能」とは、「言語ゲームを行う上での設定が成立している」ということのみの意味です。僕の印象としては、それは即ち、「分析的に可能」ということであり、「内的に可能」ということであり、「アプリオリに可能」ということであるとして捉えています。

僕の問い方に問題があるということだったが、論点を問いあう以前の問題だった。言われている内容どころかその一つ一つ単語の意味が分からないのだから、それを確かめないと話し合いにはならないわけで、確かめようとするのは当然だ。何を主張されているのか、どんな言葉で言われているのかもさっぱり分からないのに、根気強く聞き取ろうと努力できたと、自分では評価している。

それから、僕が語る言葉の意味を僕が勝手に決められないとの指摘があった。これは或る意味では正しいが、或る意味では正しくない。と言うのは、その言語内容が言語ゲームの中で働きを持たず、語り手自身が何を語っているのかを掴み得ない場合は、そこまで語り手の権力が働くと考えるのは間違いである。しかし、ゲームの中で働き得る語については、語の主は語り手である。語り手が何を言いたいかはっきりさせたいなら、語り手に聞くのが一番手っ取り早い。

そして、僕の思考実験はグロテスクな空想ではあるが、新しいゲームの作ってその中で語を働かせることができることを、想定しているのだから、語の主は語り手と考えられるのだ。それがオーケーなことを主張するにはゲーム内での具体的な語の働きを示せばいいし、ダメなことを主張するには語がゲーム内で働き得ない根拠を示さねばならない。

こんばんは、工藤です。私事に忙殺されており、コメントする暇がありませんでした。

>横山にとっての「文法的に可能」とは、「言語ゲームを行う上での設定が成立している」ということのみの意味です。僕の印象としては、それは即ち、「分析的に可能」ということであり、「内的に可能」ということであり、「アプリオリに可能」ということであるとして捉えています。

既述の通り、不明瞭で胡乱な想像―何となくイメージ出来るような気がする―の垂れ流しと「分析的に可能」はイコールではありません。

>「概念的探究」或いは「事物の在り方に対する判断」ってのは、もしかすると、「クワスは正しい足し算ではない」という判断のように「日常の言語ゲームから外れているような規則解釈は言語理解から除外できる」という意味合いのものだと考えればいいのでしょうか。
僕が分からないと言っている「再録」を繰り返されるだけなら御返事はいらないです。

オカシイですね。上の文章を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・僕は【実験等の経験的探究】と言った筈です。
よもや誤解は無いと信じますが、ここで言う実験と概念的探究=概念分析を混同しないでください(無論【実験等の経験的探究に基づく判断】と【文法=概念的に不可能であるという判断】も又然り)。
何度でも繰り返しますが・・・不明瞭で胡乱な想像―何となくイメージ出来るような気がする―の垂れ流しと「分析的に可能」はイコールではありません。

>僕の問い方に問題があるということだったが、論点を問いあう以前の問題だった。言われている内容どころかその一つ一つ単語の意味が分からないのだから、それを確かめないと話し合いにはならないわけで、確かめようとするのは当然だ。何を主張されているのか、どんな言葉で言われているのかもさっぱり分からないのに、根気強く聞き取ろうと努力できたと、自分では評価している。
>そして、僕の思考実験はグロテスクな空想ではあるが、新しいゲームの作ってその中で語を働かせることができることを、想定しているのだから、語の主は語り手と考えられるのだ。それがオーケーなことを主張するにはゲーム内での具体的な語の働きを示せばいいし、ダメなことを主張するには語がゲーム内で働き得ない根拠を示さねばならない。


全く同じ答えをお返しします。僕には件の思考実験?―不明瞭で胡乱な想像の垂れ流しに過ぎず、凡そ思考と呼べる代物ではないと思われます―で言われている内容どころかその一つ一つ単語の意味が全く解らないのですから、横山さんが言うところの新しいゲーム?の中で語を働かせることが出来る根拠を示してください。

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

とりあえず、横山さんが言うところの新しいゲーム?の中で語を働かせることが出来る根拠を示して頂けますか。


時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォンノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

僕のいわゆる胡乱な思考実験が「概念的にダメなので」あり「事物のあり方に反するナンセンス」であると工藤さんがおっしゃっているのは、ぜんたい如何なることなのかを理解したくて、さまざまな質問を繰り返しています。このコメントのやりとりでの僕の発言は全てその一点に集約できます。「概念的探求」と僕が言ったのは「僕の思考実験をダメだと『概念的に』判断するための探求」ということを表現したかったのです。言葉足らずでした。そこで質問を言い換えると「僕のいわゆる胡乱な思考実験が概念的にダメだとする判断は、クワス算が正しい足し算ではないという判断のように、日常の言語ゲームから外れているような規則解釈がその言語理解から除外できるという判断だと考えてもいいのでしょうか」となります。
また、「不明瞭で胡乱な想像の垂れ流しと「分析的に可能」はイコールではありません」とおっしゃるのは、「僕のいわゆる胡乱な思考実験の内容が分析的に不可能だ」という意味ではないですよね。でも文脈的にはそうなのかなあ。それとも「僕のいわゆる胡乱な思考実験は分析的に可能とは限らない」ということでしょうか。でも「可能とは限らない」ってことは「不可能とも限らない」ってことだし「不可能とは限らない」のなら「可能性はある」ってことだし。結局、これもどういう意味なのかさっぱり分からないです。

長い長いやりとりをしていますがそれでも、僕の思考実験の何を否定されているのかが皆目分からないので、「時空的連続体の一部分から開けているのではない視点」「Y氏のテレパシーをホントに受信していること」「フォンノイマンの霊とホントに交信していること」などのご質問にも、それらの語のどういう働きをお示しすれば問いの答えになるのかが、やはり分からないのです。それでも、とりあえず僕の思う「答え」を出しますので、それの、どこが、どのように、ダメなのか教えてください。ダメな理由を細かに教えてもらえれば僕がオーケーだと考えていることと問題の擦り合わせができていくと思いますので。

1.時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或いは視野のようなもの、とは何か。

・近代的遠近法では「空間の或る1点の視点からパースベクティブに広がる視野」を絵画にします。でも、僕は今実際に、空間的に離れた複数の地点から開けている視野を感じています。両目で見ていますから。「三つ目が通る」の写楽君は3点から開けている視野を持っているのでしょうし、妖怪百目は体中の無数の視点から視野が開けているのだと思われます。
一方、視点の位置は、目がある場所で判断するという場合もあるでしょうが、自分の視野の中でその大元を辿っていって(視野の中に見えている指を始点に近づけていって)見つけるという場合もあるでしょう。(青色本)この後者の場合だと目の形をしたものが必ずしも視点になっているとは限りません。複数の視点がある場合にこの視点の場所が1m以上離れてはならないという原則が原理的に存在するとは思えません。この視点の個数が100個以上あってはならないという原則が原理的に存在するとも思えません。
この視点をあらゆる空間に無数にあるものと想定して、それら無数の地点からあらゆる無数の視野が開けているという「妖怪目無し」を考えることは出来ます。この妖怪目無しの視点視野が質問のそれに当たると思います。

2.そのような視点或いは視野のようなものすら欠いた映像のごときものとは何か

・妖怪目無しは無数の視点を持っているので、もはや、Aの視点とその直近のBの視点には断絶はなく連続的につながっています。一点一点の個別的な視点ではなく連続的にのっぺりした視点的なものになってしまっているという意味で「視点ですらない」と表現しました。Aからの視野とその直近のBからの視野も連続的です。これが無数に連なっているわけですから、一般的な2次元的な視野が個別的にあるわけではなく、多次元的な視野がのっぺりと重なり合ったものになってしまっているという意味で「視野のごときものすら欠いた映像」と表現しました。

3.件の状況において、「“Y氏”からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ」とは何か?

・今朝、K氏がY氏の声を聞いたのは大通りを歩いている時だった。「ごきげんよう」確かにYの声だったが、辺りにはY氏の影どころか人っ子一人見当たらなかった。Y氏の声はさまざまに話し続けた。話の内容から、話し手は確かにYのようだ。「僕はテレパシーでちょくせつ君の心に話しかけているんだ」とYは言う。馬鹿にするなとK氏は思い、その場を立ち去ろうとしたがどこへ行っても、その声は追いかけてくる。K氏は有り得そうな原因を考えてみた。夢を見ているんじゃないだろうか。違うこんなリアリティーのある夢など見たことが無い。僕の気が変になったのではないか。その可能性はあるかも。何か物理トリックを使っているのではないか。ある物理機器を使って音波や電磁波を送って聴覚にちょくせつ音波を届けるような話が「ガリレオ」でやっていたぞ。それかも知れない。「そんなんじゃないって、ホントにテレパシーを送っているんだよ。どうしたら信じてくれるんだ」Yの声はまだ続いて聞こえる。
「では、まず、①僕だけの気が変になったんじゃないってことを示してもらうために、僕以外の大勢にテレパシーを送れるか。それから②録音とかでなくその場でちょくせつ話していることをはっきりさせたい。そこで、僕の言う問題にすぐに答えられるか。③Yがどこかの陰で隠れてこそこそ変な行動をしていないことをはっきりさせたい。また僕の近くに居られては声自体が届いてしまうかもしれない。そこで君を、あらゆる電波音波放射線などを通さない完全防備室に入れ、監視者の監視の下に監禁しその様子を死角のない映像でも撮らしてもらう。その上で、僕自身もあらゆる電波音波放射線などを通さない完全防備室に入り、その中から君にある質問をする。そして君にその答えを僕とその他の大勢の人にテレパシーで送ってもらう。どうだい、できるかい?」とK氏は声に出さずに言った。
「それができれば、僕がテレパシーで話をしていることをホントだと認めてくれるのか」とY氏の声。「それができれば認めよう」とK氏の心の声。「ではやってみよう」とY。
Kは東京の、あらゆる波動を通さない壁で仕切られた個室に入り、Yは、K指定の監視者の監視の下で、あらゆる波動を通さない壁で仕切られたブラジルの個室に入った。Yの様子は映像で撮られ死角なくすべてKに明らかになっている。逆にKの様子をYが知る術は無い、はずだ。Kの部屋にはYを映すディスプレイのほかに、室外の人々を映すディスプレイや一般のテレビも置かれてある。その状況でKが心の中でつぶやく「Yよ、100、99、98と大きい方から順に小さくしていって100から0まで数をゆっくりと数えよ」と。
Yはそれが聞こえたのかにこりと笑ってカメラに視線を向けた。「100」「99」「98」ゆっくりとYの数を読む声が聞こえてくる。Kの部屋の外では人々が「何か聞こえない?」
「数字が聞こえる」などと言い合っている。「95」「94」「93」Yの声は続く。テレビ放送が「世界中のあらゆる場所であらゆる人に数字の逆唱が聞こえているらしい」と報道している。「5」「4」「3」「2」「1」「0」世界中が大騒ぎになったが、結局その声が聞こえただけでそれ以上の異常はみられなかったので、騒ぎは3日で沈静化した。
「どうだい。ホントだと認めてくれるかい。この世界中の大騒ぎが「僕からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ」であったと認めてくれるかい」とYの声。「ホントだったんだね。まだ半信半疑の部分もあるんだけど、とりあえずホントだと認めるよ。」「『とりあえず』で充分さ。世界の科学的法則の全ては『とりあえず』の仮説だからね。これから、この僕の声と付き合い続けてくれればどんどん確信になっていくはずさ。」
終わり。
つまり、【ホントに】でさえゲームの中の言葉遣いでしかありえないのだから、そのような言語ゲームの具体的な例が示せれば、「“Y氏”からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ」を示せると考えています。以上、質問3への回答です。

4.件の状況において『Y氏が“フォンノイマン”の霊と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠とは何か?

たとえば、フォンノイマン本人しか知りえない秘密のお宝の場所を聞き出してきて、それが本当にその場所に見つかるかというようなテストが100回連続して成功すれば【ホント】であると認める・・・などという基準です。基本的に3と同様です。フォンノイマンの霊と【ホントに】交信している証拠として何を見せれば納得できるのかということを、Yと第三者で話し合い、ゲームのルール設定をします。そしてYの示す証拠が二人で決めた基準に達していれば、その相手は【ホントに】交信していることを認めるというゲームが成り立ちます。ここで、言語ゲームのルールを恣意的に二人だけで決められないと言うなかれ。アインシュタインが空間のねじれの計算の仕方を考えた時、空間のねじれという言葉の意味を数学的に定義しきめたのは、アインシュタインとヒルベルトの二人だけでした。そして二人だけで使っているときにその言葉はすでに有意味でした。新しい状況が発生したり新しい発見があったりしたときにそれを表現するためには新しい言語ゲームが必要です。いちいち社会の承認がなくても二人居ればゲーム設定は可能です。(僕はひとりでも可能だと考えていますがここの議論ではそこまで踏み込まなくてもいいでしょう。たぶん工藤さんは否定されるでしょうね。)ただし、その新しいルール設定の基盤にも人間としての習性は依然として残っています。岩盤だと思えていたルール基盤の上っ張りが、状況の変化や新発見によって砕けて、その下のさらに固い岩盤が現れたのでそこに新しいルールを乗っけたということです。

以上質問4までの回答です。ぜひとも、この回答のどこがどのようにダメで、どのように考えたらいいのかを、具体的に、噛み砕いて、前向きにポジティブに(できれば否定文ではなく肯定文で)、指摘してください。ここまでの延々の話し合いにもかかわらず当方本当に何も理解できておりませんので、そのおつもりでお答えください。

「僕のいわゆる胡乱な思考実験が概念的にダメだとする判断は、クワス算が正しい足し算ではないという判断のように、日常の言語ゲームから外れているような規則解釈がその言語理解から除外できるという判断だと考えてもいいのでしょうか」についても併せてお願いします。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>僕のいわゆる胡乱な思考実験が「概念的にダメなので」あり「事物のあり方に反するナンセンス」であると工藤さんがおっしゃっている


「概念的にダメなので」あり「事物のあり方に反するナンセンス」である?? ―オカシイですね。(横山さんが「概念的にダメ」という表現で何を考えておられるのかは別にしても)既に何度も述べた

①文法的混乱に由来するナンセンス(ex. 私は君の痛みを感じるetc)と②[事物]の在り方に反しているという意味でのナンセンス―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」といった主張のことですが―は全く別物です。

ように、僕は①と②を区別しています。とはいえ、(これも既に何度となく述べたことですが)我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】概念的探究を遂行するなどという事は不可能でしょう。何故ならば
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC
我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っていたわけではなく、実験―誤解は無いと信じますが、ここで言う実験は「思考実験」ではありません―等の経験的探究を通して[事物]に即した概念を練り上げてきたわけですし、これらのアポステリオリに獲得された概念群は我々の文法に分かち難く編み込まれているのですから。
付言しますと、件の論点については、クワイン(分析的/総合的を峻別し得るという考えの胡乱さを示した)とクリプキ(分析判断とアプリオリ性の差異を示した)の議論も参考になると思います。

(件の論点について。以下、クリプキ『名指しと必然性』138~141頁からの引用です)

カントは分析判断と総合判断の区別を導入している箇所でこう述べている。「全ての分析判断は矛盾律に完全に依存しており、それに実質的内容を供給する概念が経験的であろうとなかろうと、本性上アプリオリな認識である。-略-全ての分析判断はアプリオリであり、たとえ『金は黄色い金属である』の例のように、概念が経験的である時でさえそうなのである。というのも、このことを知る為に、私は黄色い金属という金についての私の概念以上の如何なる経験も必要としないからである。実際それは当に金の概念であり、それ以上調べなくても、それを分析するだけで事は足りる」と。-略-
「実際それは当に金の概念であり」は、ここでカントが恰も[金]は単に「黄色い金属」を【意味する】だけだ、と言っているように聞こえる。仮に彼がそう言っているのなら、甚だ奇妙なことであり、それ故それは彼が言っていることではない、としておこう。少なくともカントは、金が黄色い金属だということが金の概念の【一部】である、とは考えている。我々はこのことをアプリオリに知っており、それが経験的に偽であるような【発見】は凡そ出来ない、と彼は考えるのである。-略-我々が金という言葉の【意味】を変えて、金を黄鉄鉱(金によく似た外観をした黄色い金属)から区別する【何か他の規準を付加したからではない】―そう言うのは正しくないと私には思われる。つまり、我々は我々が最初に金を同定した標識に加えて、一定の性質が金について真であることを【発見した】のである。とすれば、金に特徴的であって黄鉄鉱については真ではないこれらの性質によって、黄鉄鉱は実際には金でないことが示されるのである。―クリプキ


既に示唆した通り、横山さんが想像する状況(ex.人間が電信柱や天竜川に痛みを感じるetc)の大半は[事物]の在り方を考慮せずには【その有意味性】を担保出来ないものです。とはいえ、ここで我々が問題にすべきなのは【アプリオリな(という言い方が適切であるか否かはともかく)概念分析によって】解消出来る想定?(ex.思考実験の再々記述・決定版etc)なのですが。

>また、「不明瞭で胡乱な想像の垂れ流しと「分析的に可能」はイコールではありません」とおっしゃるのは、「僕のいわゆる胡乱な思考実験の内容が分析的に不可能だ」という意味ではないですよね。でも文脈的にはそうなのかなあ。それとも「僕のいわゆる胡乱な思考実験は分析的に可能とは限らない」ということでしょうか。でも「可能とは限らない」ってことは「不可能とも限らない」ってことだし「不可能とは限らない」のなら「可能性はある」ってことだし。結局、これもどういう意味なのかさっぱり分からないです。


ところで、坂田正幸さんはご存知ですか? 思想傾向はともかく、横山さんによく似た人です。まあ、僕の話を僕の意図した通りにスンナリ理解してくれる人もいるわけですし・・・ご自分で勝手に言葉を並べて「分からない」と言うのは如何なものか、と。
既に述べた


>「常識に反するからその思考はナンセンス」という理解で不充分なら、「世界中の最先端の知識に照らして反するからその思考はナンセンス」と言い替えましょう。
しかし、そう言い替えても思考実験の内容をあり得ないと切り捨てる理由にはならないと思います。物理的にあり得るかどうかに関わらず文法的にあり得るのなら思考実験の対象にして、何がダメなのでしょう。

【概念的に】不可能なのですよ。我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っていたわけではなく、経験的探究を積み重ねる中で[事物]に即した概念を獲得してきました。そして、件の概念群は我々の文法に編み込まれています。従って、既に示唆した

⑤一連の思考実験において、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?、ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

通り、我々の文法から【事物に関する概念を全てとっぱらった上で】文法的考察を遂行するなどという事は不可能なのです。「猫」「見る」「喋る」「聴く」etcについても然り。


ように、横山さんの思考実験?―不明瞭で胡乱な想像の垂れ流しに過ぎず、凡そ思考と呼べる代物ではないと思いますが―のいくつかは【概念的に不可能=横山さんの言う分析的に不可能】です。そして、当にそのことを示したのが、以下の対話


Y氏とK氏は銀座を散歩しながら話をしている。
Y氏「ここは銀座一丁目―さっき『ホテルモントレラ・スールギンザ』を通り過ぎたのを覚えている―だよね。まあ、それはともかく・・・君には黙っていたけど、十分くらい前かな、いきなり左手が痛くなったんだよ。でも、その左手は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、モスクワ在住の大工ウラジミール・ソコロフ氏の左手だったんだ。そのとき彼はカナヅチで自分の左手を叩いたんだよ。そして、そのとき僕は「痛い!」と叫んでしまったんだけど、その叫び声を出した口は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくて、リオデジャネイロ在住の大学生フランシスコ・アイマール君の口だったんだ。そのとき彼は友人とフットサルをしていたんだが、別に誰かに蹴られたりしたわけじゃない。それで、そのとき僕にはエジプトの?スフィンクスらしきものが見えていたんだけど、それを見ていた眼は"今の僕"―君から見れば、Y氏ということになるけど―じゃなくてフランスからの旅行者フランソワ・ジダン氏の両眼だったんだ。どうだろう、この話・・・君は信じてくれるかい?」

K氏「ふうん、そんな事が本当に起こったのなら凄い話だね。だけど、そんな事が『あり得る』かどうか、或は僕が君の話を『信じる』かどうか以前に、抑も(僕も含めて)第三者が君の話に意味を見い出せるかどうか甚だ疑問だな。というか、実際は君自身も自分の言っていることがよく解っていないんじゃないか。君が冗談かホラを言っている(それともオツムがやられてしまったのか・・・)なら話は別だが。じゃあ、とりあえず、幾つか質問させてもらうよ。
①今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故かつて(十分くらい前に)自分が今君が話してくれたような状況にあったことを【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えている】からだ」と答えても何にもならないよね。例えば(通常)或る人が「僕は東京タワーを【見ている】のだ」と主張する場合、彼以外の第三者がその主張の真偽をチェック出来る。彼の視線が東京タワーに向いているか、彼が見ているのは東京タワーではなく東京タワーの写真なのかどうか、彼が自分の想像表象と[実物]の―彼や第三者が視認し得る―東京タワーを取り違えていないかどうか等々。もし第三者によるチェックが【原理的に】不可能であるとすれば、その事柄については「それが生起したこと」と「それが生起したと或る人が【思い込んでいる】こと」を区別出来ないんじゃないかな。だから、そんな代物はゲームの指手にはならないし、なり得ないよね。
②(質問①に関連して)今の君―僕から見れば、Y氏ということになるけど―は何故ソコロフ、アイマール、ジダン各氏の個人情報とそのとき彼らが置かれていた状況を【知っている】のか?
この問いに対して「今の僕がそれを【覚えているから】だ」とか「かつて(十分くらい前)の僕がそれらの状況を【見ていた】からだ」と答えても何にもならないよね。仮に或る人が「僕は昨日東京タワーを見たのを覚えている」と主張したとしても、それが記憶違いだった―覚えていると【思い込んでいた】が実際は違っていた―ということも『あり得る』わけだし、君の言う状況が【原理的に】第三者によるチェックを受け付けないものであるなら、さっきと同じ話になる。そして、【本当に】【そのとき】君がそれらの状況を【見ていた】のだとすれば、君の言う?ジダン氏の視線と君の言う?スフィンクスらしきものとの関係と【そのとき】銀座を闊歩していたY氏なる身体との繋がりに加えて、それら全てと今の君―僕から見れば、Y氏なる身体的存在者なのだが―との関係(言うまでもなく【それら一連の記憶】も含めて)は、第三者によるチェックが「可能な」ものでなければならない。記憶と思い込みの違いは別にしても、そうでなければ又さっきと同じ話になってしまうからね。
要するに、こういうことかな。或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】を前提・含意している、と。別の言い方をすれば、或る人が公共的に観察可能な或る状況を「見る」ことは、彼が公共的に観察可能な【一つの身体】であり・かつ【彼=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること】と文法的に不可分である、ということ。まあ、他にもツッコミたい所はあるんだけど・・・そんなことより鮨でも食べに行かないか? せっかく銀座まで来たんだから」

Y氏「そうしよう。小腹も空いてきたことだし。この辺で良い店でも知ってるのかい?」

K氏「『次郎』にでも行こうか。君のおごりで」


なのですが。

お解り頂けたでしょうか。

>「僕のいわゆる胡乱な思考実験が概念的にダメだとする判断は、クワス算が正しい足し算ではないという判断のように、日常の言語ゲームから外れているような規則解釈がその言語理解から除外できるという判断だと考えてもいいのでしょうか」についても併せてお願いします。


端的に言えば、横山さんの想像は【我々が理解し得る経験の可能性の条件を満たしていない】ということですね。件の論点については既に示唆した

>もしかして、「『見る』という行為を語るためにはどんな時でも『身体』が必要だ」というのは原理的な主張なのだと、工藤さんは言われるでしょうか。

これも完全な誤読ですね。ご存知だと思いますが、僕が【原理的】という言葉を使ったのは「第三者のチェックが~」の所です(因みに、件の言葉は【絶対に】くらいの意味で使っています)。翻って、僕の主張の眼目は、(私秘的な想像表象等ではなく)公共的に観察可能な或る状況を「見る」という【概念の本質】には以下の事柄
①「見る」者が公共的に観察可能な【一つの身体】であること
②「見る」者=身体が件の状況に対して視線を向け得る場所に居ること
③視線は「見る」者=身体上の或る点から向けられていること
が組み込まれている―ということでした。従って、(既述の通り)先般の思考実験で想像されているような事柄に対して「見る」という概念は適用出来ないのです。

つもりですが。

>クワス算が正しい足し算ではないという判断のように、日常の言語ゲームから外れているような規則解釈がその言語理解から除外できるという判断

上の文章を読む限り、横山さんがクリプキの議論を理解しておられるのかどうか・・・。
とりあえず、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』191~192頁を再読してください。

我々は、我々自身の生活形式とは別の生活形式を、想像出来るであろうか。-略-
勿論我々は、クワス関数を【定義】し、その為の記号を導入し、そして、その値を計算する為の固有な規則に従うことが出来る。-略-我々には理解不可能ではないか、と思われるのは、如何にして知的な人間が、我々がプラス関数について受けたのと同じ訓練を受け、しかもなお、その関数をクワス風に把握することが【あり得る】のか、ということなのである。仮にそのような可能性が、我々にとって【実際に完全に理解可能である】とすれば、我々にとってはプラス関数を我々がしているように適用することは不可避的なのだろうか。否。ところが、このことの不可避性が、ウィトゲンシュタインの問題についての彼自身の解決の核心部分なのである。―クリプキ

>近代的遠近法では「空間の或る1点の視点からパースベクティブに広がる視野」を絵画にします。でも、僕は今実際に、空間的に離れた複数の地点から開けている視野を感じています。両目で見ていますから。「三つ目が通る」の写楽君は3点から開けている視野を持っているのでしょうし、妖怪百目は体中の無数の視点から視野が開けているのだと思われます。
>一方、視点の位置は、目がある場所で判断するという場合もあるでしょうが、自分の視野の中でその大元を辿っていって(視野の中に見えている指を始点に近づけていって)見つけるという場合もあるでしょう。(青色本)この後者の場合だと目の形をしたものが必ずしも視点になっているとは限りません。複数の視点がある場合にこの視点の場所が1m以上離れてはならないという原則が原理的に存在するとは思えません。この視点の個数が100個以上あってはならないという原則が原理的に存在するとも思えません。


先ず、「複数の視点がある場合にこの視点の場所が1m以上離れてはならないという原則」とか「視点の個数が100個以上あってはならないという原則」というのは【僕の主張ではない】ので何とも言いようがありません。【時空的連続体の一部分から開けているのではない】視点或は視野の【ようなもの】とは何か?―というのが僕の質問だったのですから。従って、以下の論述?

>この視点をあらゆる空間に無数にあるものと想定して、それら無数の地点からあらゆる無数の視野が開けているという「妖怪目無し」を考えることは出来ます。この妖怪目無しの視点視野が質問のそれに当たると思います。

は全く回答になっておりません。当初の想定では、時空的連続体【ではない】何かが『見る(=視覚の如きものを持つ)』と主張されていたのですから。
付言しますと、横山さんの言う「無数の地点からあらゆる無数の視野が開けている」状況?は僕には全く理解不可能です(イメージすら出来ません)。
とりあえず、僕だけじゃなくて、他の人(ex. まともな哲学者and哲学に頭をやられていない人)にも聞いてみてはどうでしょう。

>妖怪目無しは無数の視点を持っているので、もはや、Aの視点とその直近のBの視点には断絶はなく連続的につながっています。一点一点の個別的な視点ではなく連続的にのっぺりした視点的なものになってしまっているという意味で「視点ですらない」と表現しました。Aからの視野とその直近のBからの視野も連続的です。これが無数に連なっているわけですから、一般的な2次元的な視野が個別的にあるわけではなく、多次元的な視野がのっぺりと重なり合ったものになってしまっているという意味で「視野のごときものすら欠いた映像」と表現しました。


全く分かりません。ただ言葉を並べているだけでは?
とりあえず、僕だけじゃなくて、他の人(ex. まともな哲学者and哲学に頭をやられていない人)にも聞いてみた方が良いと思います。
既に示唆した

この問いに対して「今の僕がそれを【覚えているから】だ」とか「かつて(十分くらい前)の僕がそれらの状況を【見ていた】からだ」と答えても何にもならないよね。仮に或る人が「僕は昨日東京タワーを見たのを覚えている」と主張したとしても、それが記憶違いだった―覚えていると【思い込んでいた】が実際は違っていた―ということも『あり得る』わけだし、君の言う状況が【原理的に】第三者によるチェックを受け付けないものであるなら、さっきと同じ話になる。

通り、仮に横山さんの言う「妖怪目無し」なる時空的連続体【ではない】何か?が「体中の無数の視点から視野が開けている」とするならば、以下の事柄(だけではない)
①時空的連続体【ではない】体・視点・視野とは何か
②時空的連続体【ではない】何か=妖怪目無し?が時空的連続体【ではない】体に付いた無数の視点から開けた視野で事物=時空的連続体を『見る』とは如何なることか
③時空的連続体【ではない】何か?が時空間に存在し・事物=時空的連続体を『見ている』ことを時空的連続体である第三者(ex.人間)は如何にして【知り得る】のか
が理解可能=有意味でなければならないと思われます。


>「私」という基本的な語でさえ言語ゲームの実践の中でしか、その意味を考えることはできないものなのである。


仰る通りだと思いますが、(永井氏の思考実験に対する批判は別にしても)横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。(失礼ながら)僕に言わせれば「文法的混乱」でしかないものを「言語の限界についての考察」と混同しているように見えますし、横山さんが以下のスローガン

>それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

を体現されているとは到底思えません。

>「それができれば、僕がテレパシーで話をしていることをホントだと認めてくれるのか」とY氏の声。「それができれば認めよう」とK氏の心の声。「ではやってみよう」とY。
Kは東京の、あらゆる波動を通さない壁で仕切られた個室に入り、Yは、K指定の監視者の監視の下で、あらゆる波動を通さない壁で仕切られたブラジルの個室に入った。Yの様子は映像で撮られ死角なくすべてKに明らかになっている。逆にKの様子をYが知る術は無い、はずだ。Kの部屋にはYを映すディスプレイのほかに、室外の人々を映すディスプレイや一般のテレビも置かれてある。その状況でKが心の中でつぶやく「Yよ、100、99、98と大きい方から順に小さくしていって100から0まで数をゆっくりと数えよ」と。
Yはそれが聞こえたのかにこりと笑ってカメラに視線を向けた。「100」「99」「98」ゆっくりとYの数を読む声が聞こえてくる。Kの部屋の外では人々が「何か聞こえない?」
「数字が聞こえる」などと言い合っている。「95」「94」「93」Yの声は続く。テレビ放送が「世界中のあらゆる場所であらゆる人に数字の逆唱が聞こえているらしい」と報道している。「5」「4」「3」「2」「1」「0」世界中が大騒ぎになったが、結局その声が聞こえただけでそれ以上の異常はみられなかったので、騒ぎは3日で沈静化した。
「どうだい。ホントだと認めてくれるかい。この世界中の大騒ぎが「僕からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ」であったと認めてくれるかい」とYの声。「ホントだったんだね。まだ半信半疑の部分もあるんだけど、とりあえずホントだと認めるよ。」「『とりあえず』で充分さ。世界の科学的法則の全ては『とりあえず』の仮説だからね。これから、この僕の声と付き合い続けてくれればどんどん確信になっていくはずさ。」


何度でも繰り返しますが、「状況Pがあり得るかどうかはともかく、ここで『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを第三者が確証し得るデータ』が得られたと【仮定して】みよう。【そうすれば】状況Pが成立する【ことになる】のだ」は詭弁に過ぎません。
ところで、件の想定を厳密に―SF的想像の垂れ流しではなく、我々が理解し得る経験の可能性の条件として―考察するならば、①横山さんが想像する(したい)状況②K氏独りが発狂しているケース③集団狂気のケースが区別出来ないと思われます。というか、経験の可能性の条件として考えた場合、②か③のどちらかでしか【あり得ない】のでは。しかも、件の想定では、Y氏は時空的連続体【ではない】何か?だった筈なのに、「Yの様子は映像で撮られ死角なくすべてKに明らかになっている」「Yを映すディスプレイ」という描写が・・・全く不可解と言わざるを得ません。

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"Y氏"からのテレパシーであることを【知っている】のでしょうか? 何を根拠に【他ならぬ】"Y氏"からのテレパシー【である】と判断したのか。何がそのことを【確証し得る】のか。

>アインシュタインが空間のねじれの計算の仕方を考えた時、空間のねじれという言葉の意味を数学的に定義しきめたのは、アインシュタインとヒルベルトの二人だけでした。そして二人だけで使っているときにその言葉はすでに有意味でした。新しい状況が発生したり新しい発見があったりしたときにそれを表現するためには新しい言語ゲームが必要です。いちいち社会の承認がなくても二人居ればゲーム設定は可能です。(僕はひとりでも可能だと考えていますがここの議論ではそこまで踏み込まなくてもいいでしょう。たぶん工藤さんは否定されるでしょうね。)


【独りで言葉遊びをする】のは無問題ではないかと(僕は否定しませんが)。
例えば、輪廻転生や魂の永生や地獄の業火を語る言語ゲームも存在するわけですから、横山さんのゲームが理解可能なのか単なるナンセンスなのか―僕だけじゃなくて、他の人(ex. まともな哲学者and哲学に頭をやられていない人)にも聞いてみた方が良いと思いますよ。とはいえ、ここでアインシュタインを持ち出すのは如何なものか、と。


>たとえば、フォンノイマン本人しか知りえない秘密のお宝の場所を聞き出してきて、それが本当にその場所に見つかるかというようなテストが100回連続して成功すれば【ホント】であると認める・・・などという基準です。基本的に3と同様です。


全く回答になっていませんね。
抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマン"からのテレパシーであることを【知っている】のでしょうか?
何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマン"からのテレパシー【である】と判断したのか?
何がそのことを【確証し得る】のか?


>フォンノイマンの霊と【ホントに】交信している証拠として何を見せれば納得できるのかということを、Yと第三者で話し合い、ゲームのルール設定をします。そしてYの示す証拠が二人で決めた基準に達していれば、その相手は【ホントに】交信していることを認めるというゲームが成り立ちます。ここで、言語ゲームのルールを恣意的に二人だけで決められないと言うなかれ。


別に何人で言葉遊びをしようが言葉遊びそれ自体は無問題でしょう。
例えば、輪廻転生や魂の永生や地獄の業火を語る言語ゲームも存在するわけですから、横山さんのゲームが理解可能なのか単なるナンセンスなのか―僕だけじゃなくて、他の人(ex. まともな哲学者and哲学に頭をやられていない人)にも聞いてみてはどうですか。
とはいえ、「複数の人々が【ホントに】交信していると【認め合う】こと」と「"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマン"からのテレパシー【である】こと」は別の事柄です。
抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマン"からのテレパシーであることを【知っている】のでしょうか?
何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマン"からのテレパシー【である】と判断したのか?
何がそのことを【確証し得る】のか?

時空的連続体の一部分から開けている【のではない】視点或は視野のようなもの、とは何か?
そのような視点或は視野のようなものすら欠いた映像の如きもの、とは何か?

件の状況において、『"Y氏"からのテレパシーを【ホントに】受信していることを示すデータ』とは何か?

件の状況において、『Y氏が"フォン・ノイマンの霊"と【ホントに】交信していることを示す第三者が確証し得る根拠』とは何か?

抑も彼らは何故"それ"が【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】ことを【知っている】のか?

何を根拠に【他ならぬ】"フォン・ノイマンの霊"からのテレパシー【である】と判断したのか?

何がそのことを【確証し得る】のか?

コメント欄がいっぱいになってきましたので、次ページに移ります。

こんばんは、工藤です。移動の件、了解致しました。

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