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2013年7月29日 (月)

規則のパラドクスとその回避法<「哲学探究」をまとめました上2>

語の意味するものが外延であっても内包であっても、語の意味は確定されなかった。それなら、語の意味が使用上の語の機能であったとしても、それは確定されえないのではないか。語の意味を計るということは某かの規則を解釈することに他ならない。だから、もしすべての規則がどのようにでも解釈可能であるのなら、語は原理的にどのような意味にでもなり得てしまう。そしてそのために、語はその意味と価値を失ってしまう。そんなことがあるだろうか。しかし、「規則のパラドクス」は、いかなる規則も正当な唯一の解釈を確定させることができないということを導く。果たして語は意味を持ちえるのだろうか。でも、あらゆる規則が正しい解釈を持たないなんてことが本当なのだろうか。そこで、本節ではこの「規則のパラドクス」がどこまで信用できるのかを考える。

 

規則のパラドクス1・道標のパラドクス

或る規則が道標のようにそこに立っている。いかなる意味でそれに従わなくてはならないのかが、その指している方向にせよ、反対の方向にせよ、どこかに書いてあるのだろうか。(「探究」第85節)

道標に書かれてある→印をみて、「右へ行け」という意味だとなぜ分かるのだろう。「右へ行け」という意味なのだとはっきりさせるために、→印の下に(→へ行け)を書き加えて「右へ行け」を示す印であることを説明しようとしても事態は好転しない。どこまでも、(→へ行け)が「右へ行け」を示す印であることを説明する説明書きがさらに必要になることになってしまう。

 

規則のパラドクス2・表のパラドクス

表を読むためにさまざまな方法が導入されたと考えよ。或るときには下の左図に従い、別の時には下の右図のように、或いはもっと別の図式に従うといった方法である。こうした図式は表を用いるための規則として表に添付されるわけである。このとき我々は、このような規則を説明するためにさらに多くの規則を考えることができないだろうか。(「探究」第86節)

Photo_2     Photo

表の左欄の説明がその右側にあるという規則を示すために「→印」を書き加えることが必要なら、「→印が、表の左欄の説明がその右側にあるという規則を示す記号であるという規則」を示す説明書きが必要になり、同様にどこまでも説明書きの説明書きが必要になってしまう。そして結局どうやっても、規則を完全に指定することができないことになってしまう。

 

規則のパラドクス3・ルイスキャロルのパラドクス

ルイスキャロルは「亀がアキレスに言ったこと」という小品で、一つの結論を導くためには無限の前提が必要であることを説いた。以下要約。

アキレス「次の2つの前提からZが導出できることを認めるね。
前提①:A、前提②:A→Z、結論:Z」
亀「前提①と前提②があればZが導けることにするという前提を付け加えてくれるかい」
アキレス「これでいいか。
前提①:A、前提②:A→Z、③:①②→Z、結論:Z 
前提からZが導出できることを認めるね。」
亀「前提①②③があればZが導けることにするという前提を付け加えてくれるかい」
アキレス「これでいいか。
前提①:A、前提②:A→Z、③:①②→Z、④:①②③→Z、結論:Z 
前提からZが導出できることを認めるね。」

・・・・

亀はZを認めるには無限の前提が必要だと主張する。アキレスは無限の前提を書き並べないと亀を納得させられないのだろうか。

 

規則のパラドクス4・数列のパラドクス

(0から1000までの範囲で2xという数列を正しく言えるようになった生徒とその先生との会話にて)生徒に対して1000以上の数列(+2)を書き続けさせると、彼は、1000、1004、1008、1012と書く。先生「よく見てごらん。何をやっているんだ。つまり、きみは2を足していかなければいけないんだよ。よく見てごらん」しかし少年はそれが理解できない。少年「でも、これでいいんじゃないですか。僕はこうしろと言われたと思ったんです」或いは「でも、僕は同じようにやってるんです」このとき、「でも、君は<+2>が分からないのか」と言い、説明をくり返しても役に立たない。この人間はごく自然にあの命令を我々の説明にもとづいて「1000までは2を、2000までは4を、3000までは6を加えていけ」という命令を我々が理解するように、理解してしまうのだ。(「探究」第185節)

この先生が正しくて、生徒が間違っていると判別するための原理的な理由は、実はない。もし神が判断するのだとしても、<+2>ということが1000、1002、1004、と続けることを意味するのか、1000、1004、1008と続けることを意味するのか、どちらかが正しいと決定できるだけの基準がないのだ。規則を共有するには結局、有限個の具体例を提示して後は「以下同様」と任せてしまう以外にない。先生と生徒が1000までで、具体的に<+2>の数列を確かめたあと、「以下同様にやっていけ」と言われた生徒が「1000、1004、1008・・・」と続けたとしても、それが生徒にとっての「同様」であるのならそれを間違いだとする「原理的な」理由は何もないのである。「同じように」と繰り返しても仕方がない。彼は「同じように」やっているのだ。「+2を繰り返すのだ」と言っても仕方がない。彼は彼のやり方で「+2」を繰り返しているのだ。「1000の次は1002、1004と続くのだ」と言えばそこまでは、数列の「答え」が共有できるだろう。しかし、1004の次からどう続けるのが正当なのかを、やはり先生と生徒で共有できるとは限らないのだ。

 

規則のパラドクス5・クワス

私は過去に57より小さな数での加法しかしなかったとする。そこで懐疑論者が、私が「プラス+」で表しているのは、下に示すような関数「クワス♀」ではないかと主張する。さて、私はどうやってこの懐疑論者に対して、私がこれまで「プラス」という言葉で意味していたのは「クワス」ではないということを説明することができるのか。(ソール・クリプキ「ウィトゲンシュタインのパラドックス」)

Quus_2

ここまで連ねた5つのパラドクスは、どれも、あらゆる規則が一つの解釈だけに絞られることはなく、どのような解釈をも許してしまうことを示す。クワス算も同様のパラドクスを示す。足し算とはどんな計算なのかを共有しようとするとき、どうすればいいだろうか。反具体物のおはじきを持ってきて、「数」を「合わせる」ことを示せばいいのだろうか。それとも筆算の仕方と手順を示せばいいだろうか。しかし、いずれにせよ、規則を共有するには結局、有限個の具体例を提示して後は「以下同様」と任せてしまう以外にない。おはじきを持ってきたとしても、筆算をするにしても、具体的に2+5の仕方を示したり、13+24の仕方を示したりして、やり方の例を示しながら「これが足すということ」「これが合わせるということ」を伝えようとするしかない。そして、充分に例を示した後で「後は同じようにやる」と言って相手にどう解釈するかの判断をあずけてしまう他ないのだ。そして、どう解釈しようと、どの解釈が正当な正しい判断であるという基準はあり得ず、どう解釈しようとそれが正当は解釈ではないと判断されるような「間違い」には原理的にはならないのだ。クワス人は57より小さな数では足し算として普通にプラス計算をする。57より大きな数でも足し算をしなければどこまででも「正しく」数え上げられる。ところが57以上の数を足し合わせようとすると、答えが「5」になると足し算を解釈してしまう。おはじきを使って具体的に合わせて数えても同じだ。68+57をするのに68個と57個のおはじきを用意して「足し合わせて数える」の作業をして確かめても、彼にとっては「68も57も57以上だから5だけ残して数え、他を排除すること」が「足し合わせて数える」ということの意味なのである。筆算で確かめても同じ。68+57の筆算をするとき、68も57も57以上だから、一の位の8+7は5になり、十の位は空位になって何も書かない。だから、筆算をしても68+57=5。「なぜ57以上でも同じような手順で計算しないのか」と質しても無駄だ。彼は初めから「ずっと同じように」クワス算をしてきたのであって、プラス人のほうが57以上になっても答えを5にしないような不思議な規則を導入しているように感じるのである。
それなら、足し算の答えは無限に決まっているというのは幻想なのだろうか。ある意味では幻想だと言えるかもしれない。クワス算が正しいのなら、あらゆる足し算の答えはどんな数にもなり得てしまうではないか。どんな答えでも、それが間違っていると言うことが、できなくなる。確かに、あらゆるものを公平公正に見ることができる神の視点によって、足し算を考えた場合に、あらゆる可能な解釈のどれが正当な足し算かを決める基準は存在しないのだから、すべてが公平に正しく、それゆえ、足し算という規則には何の意味もなくなる。だって、どんな答えでも計算として認められるのなら、それはもう規則とは言えないし、何か価値がある行為になるわけがない。
この規則のパラドクスは恐ろしく破壊的なパラドクスで、あらゆる規則があらゆる解釈を許してしまうことを示す。それゆえ、このパラドクスは言語活動を含めあらゆる規則解釈の意味をなくしてしまうのだ。規則のパラドクスは決してまやかしではない、本当に信用できる爆弾なのだ。

 

語の解釈説と実践説

しかし、このパラドクスは変だ。
僕たちにんげんはちゃんと計算をし、その計算をもとに商売をし、建築をし、科学的知識を広げている。ちゃんとした正当な足し算というものが確かに存在しているはずだ。僕たちは意味を持ってちゃんと言語活動をし、理解し合えている。ちゃんとした正当な語の意味というものがあるはずなのである。
そして一方、にんげんは日常生活でいとも簡単にこのパラドクスを乗り越えている。何も悩むことなく正しい計算の答えを導出し、何も悩むことなく仕事場で重要な約束を取り交わしている。人はどうやってこのパラドクスを乗り越えているのだろうか。パラドクスの爆弾はどこへ行ったのだろうか。

それは、こういう訳である。

われわれのパラドクスは或る規則がいかなる行動の仕方も決定できないということ、なぜなら、どのような行動の仕方もその規則と一致させることができるから、ということであった。それは、どのような行動の仕方も規則と矛盾させることができるということであった。だから、ここには一致も矛盾も存在しないであろうと考えられる。ここに誤解があるということは、我々がこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行っているという事実のうちにすでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで我々を少なくとも一瞬のあいだ安心させてくれるかのように。言い換えれば、このことによって、我々は解釈ではなく、応用の場合場合に応じ、我々が「規則に従う」と呼び「規則に叛く」と呼ぶことがらのうちにおのずから現れてくるような、規則の把握が存在することを示すのである。それゆえ、規則に従うそれぞれの行動は解釈である、と言いたくなる傾向が生ずる。しかし、規則の或る表現を別の或る表現で置き換えたもののみを「解釈」と呼ぶべきであろう。(「探究」第201節)
それゆえ、規則に従うということは一つの実践である。(「探究」第202節)

パラドクスの回避法の一つは、解釈をしないで実践するということである。解釈をしてしまうと、「規則のパラドクスの爆弾」が爆発してしまう。そこで、解釈をせず、言語ゲームの中で語に対応するような行動をすることで、規則に従っているか叛いているかを判断しようと言うのである。規則を解釈して把握しようとする立場が「規則の解釈説」と呼ばれるのに対して、規則を実践として把握しようとする立場は「規則の実践説」と呼ばれる。足し算の実践を一致させていくことで「正しい答え」を決められるようにし「正しさ」を共有できるものにする。規則の実践説によると、解釈は必ずしも必要ではないのである。
→印が書かれている道標の意味を子どもに教えたいなら、それを解釈させるのではなく、子どもの手を取って右へ誘導すればいいのだ。そうやって訓練することで、規則を解釈せずに、規則への従い方を学ばせそのまま実践させるようにすることができる。
表の読み方を子どもに教えたいなら、それを解釈させるのではなく、表の右欄が左欄の説明だと読むように、子どもに、理由なく教え込めばいい。そうやって読み方を訓練することで、規則を解釈せずに、規則への従い方を学ばせそのまま実践させるようにすることができる。
アキレスが亀に、結論Zの導出を納得させたいのなら、無限の前提を置く前に、こう言えばいい。「次の2つの前提からZが導出できることにしよう。前提①:A、前提②:A→Z、結論:Z、これを僕は提案するが、君は受け入れるかい。」亀がこの提案を受け入れれば、規則への従い方を二人で共有でき、二人のゲームは成り立つ。そして、亀が受け入れないなら、ゲームは成り立たない。それ以上は無理強いするか、諦めるしかない。
ここまでの3つのパラドクスに対しては実践説を実行することで乗り越えられる。
しかし、<+2>の数列とクワスについては、この実践説だけでは乗り越えられない。
<+2>の数列では、有限な具体例を示せばその範囲で実践の仕方を子どもと共有することができる。足し算では、有限な具体例を示せばその範囲で実践の仕方を子どもと共有することができる。しかし、無限の具体例を示すことはできないのだから有限の例示の後で「後は以下同様に」と言って子どもに任せるしかない。そして、その以下同様は如何様にでも解釈可能なのである。その勝手気ままな解釈を訓練で手懐けることはできない。無限の数列の並びや足し算の、正当な答えを決定させることは、実践説だけではダメなようだ。

 

語の、にんげんの偏見による解釈説

そこで、もう一つのパラドクスの回避法が必要である。

「どのようにして私は規則に従うことができるのか」これが原因に関する問いでないとしたら、それは私が規則に従ってそう行動したことの正当化の関する問いである。私が根拠づけの委細を尽くしたのであれば、固い岩盤に達しているのであり、私の鋤は反り返ってしまう。(「探究」第217節)

この217節から下の解釈をするのは深読みと言われるかもしれないが、パラドクスの回避法のもう一つは、にんげんがにんげんの習性に従って偏った視点でしか見られないことを認めることであると思われる。
「あらゆるものを公平公正に見ることができる神の視点によって規則を考えた場合には、あらゆる可能な解釈のどれが正当な規則解釈かを決める基準は存在しない」のであって、「偏見に満ちたにんげんが偏った視点で規則を考えた場合には、彼にとっての一つの正当な解釈が存在し得る」のである。神の公平すぎる視点だからパラドクスになるのであって、にんげんはついつい偏った目で足し算を見るからプラス算のみが正当で正しい足し算に見えてしまうのである。神の完全な視点であれば無限の足し算の正当な無限の答えなどあるはずがないのだが、にんげんは生まれもった習性で足し算を捉えてしまうため、無限の足し算の正当な無限の答えを制定してしまえるのである。神ならば、規則を解釈するための規則を導入し、その規則を解釈するための規則を導入し・・・と無限の規則を導入したとしても、一つの規則解釈には辿りつくことができない。しかし、にんげんは理由なくその解釈をするという習性をもってしまっているのだ。人が根拠づけの委細を尽くしたのであれば、その解釈は固い岩盤に達しているのであり、その人の鋤は反り返ってしまうのである。

こうして、われわれは言語を使うことが許されるようになっているわけなのだが、規則のパラドクスによって、言語の意味はその語自体の解釈によって確定させられないことが明らかにされた。そして、そのパラドクスの解消のためには語の使用の実践が必要であると考えられる。それなら、実践のない言語ならその言葉は意味がもてるのか、他者に対して使われることなく、原理的に他者が理解することのない「私的言語」は意味を持ちえるのだろうか。次節ではこの私的言語の有用性について考えながら、語の意味とはいかなるものであるのかについて、考察を深めたい。

つづく

「哲学探究」をまとめました

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コメント

薦められてクリプキの「名指しと必然性」を再読している。今回は図書館のではなく、自分で買って腰を据えて読んでいる。再読してみると「ああ、そういうことが書かれていたのか」と改めて発見することも多い。図書館のは古い初版本だったので、再販用の新しい前書きを初めて読めたのも収穫だった。
しかし、「固定指示子」というアイデアには承服しかねるものがある。論点先取の部分があるので議論がどうもスカスカに感じる。

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