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2013年7月27日 (土)

語の意味とは何か<「哲学探究」をまとめました上1>

Wittgenstein1
ウィトゲンシュタイン(1889~1951)
の哲学はその生涯を通して語の意味を問い続けたものだったとも言える。前期の「論理哲学論考」では、写像理論における世界の「像」が語の意味であるとしていた。写像理論の下に、私の言語によって語と世界の像は1対1対応しており、語の意味を完全に確定させて理解することができるものであった。それは、私の言語が私の世界を成立させているという意味で独我論的言語観とも言えるものだった。これに対して、後期の「哲学探究」においては、語の使用が語の意味だとされた。他者に理解され得ないような語はその意味を自分自身でも理解することができない。それゆえ、語の意味は私だけの言語や私だけの感覚のみによって決定させることはできない。だから、その使用の中での語の働き方を見るしかないのだとする考えである。例えば、「赤」という語の意味を「私にとっての『赤い』見えのクオリア」として捉えようとしても、その「『赤い』見えのクオリア」自体について他者との共通理解を得ることはできない。そして、それは他者と共通理解を得られないだけではなく、自分自身でも掴めないようなものでしかないのだ。だから、私がその語をどう解釈するかを問題にすべきなのではなく、その語をどう使うかを問題にすべきだ。これが後期ウィトゲンシュタインによる意味論の視点である。
本節からは、後期ウィトゲンシュタインが「哲学探究」で説いたこれらの問題について、①語の意味とは何か、②規則のパラドクスと意味の確定不能性について、③私的言語は意味を持ちえるか、の3つの視点で追及していきたい。そして、本ブログの「探究を探求する」で考えたことを整理し、さらなる探求を目指したい。

 

ミルの一般名と固有名

まず、ウィトゲンシュタイン以前の意味論を見ていこう。
Mill_2
J.S.ミル(1806~1873)
は、一般名の意味が内包指定でそれがどんな性質なのかを示すものであるとし、固有名の意味が外延指定でそれがどの個体なのかを示すものであるとした。例えば「これは何?」と問われたときに「犬」と答えるのが一般名で、「ポチ」と答えるのが固有名。「おっさん」「惑星」「バンパイヤ」「ユニコーン」が一般名で、「松本人志」「地球」「ドラキュラ」「ペガサス」が固有名。「バンパイヤ」は吸血鬼一般を指し、「ドラキュラ」は吸血鬼であるただ一人のその伯爵を指す。「ユニコーン」は空想の一角獣の種を指し、「ペガサス」は一頭だけいる空想の有翼獣のその一頭だけを指すのだそうだ。
この分類で、語の意味とは内包と外延であり、一般名は内包だけを、固有名は外延だけを意味する。ずいぶんすっきりとした分類で分かりやすい。
しかし、この分類は問題がある。「ペガサスは存在しない」「明けの明星と宵の明星は同じものである」という普通に意味の通る文がナンセンスや無意味になってしまうのだ。ペガサスは固有名で一頭の有翼獣を指しているのだから、「ペガサスが存在する」は「その一頭の有翼獣についてそれが存在する」を意味するとしてその内容が了解できる。(論理式∃p)しかし、「ペガサスは存在しない」は「その一頭の有翼獣についてそれが存在しない」を意味することになるのだが、それが存在しないのだから、その「その一頭の有翼獣」が一体何を指しているのか文の意味が宙に浮いてしまう。言い換えると「一頭だけ存在している空想の有翼獣のその一頭が存在しない」という訳の分からない内容しか表現していないことになる。論理式で書くと¬∃pだが、存在∃に否定¬は原理的に付けられないのだ。「ペガサス」の意味が外延のみだとすると、「ペガサスは存在しない」という普通に意味の通る文を、文のような形を持ってはいるがナンセンスでしかない擬似文だと捉えなければならなくなってしまう。
「明けの明星と宵の明星は同じものである」も本来ふつうに意味が通るふつうの文である。明け方東の空にひときわ輝くあの星と暮れ方西の空にひときわ輝くあの星が実は同じ天体だと言っているのであって、文意もしごく明瞭である。しかし「明けの明星」「宵の明星」がどちらも太陽系の第2番目のその惑星を外延として指定するだけの意味しか持っていないのなら、その文の意味するところは「金星と金星は同じものである」というトートロジー文でしかないことになってしまう。当たり前すぎて何の意味も持たない無意味文に成り下がってしまうのだ。
これは変だ。
一般に固有名と言われている語も、外延を指示するだけではなく、内包を指示する役割を持っていると考えなければならないようだ。「明けの明星」の意味は、金星と呼ばれるその惑星そのものを外延的に指す役割だけではなく、「明け方東の空にひときわ明るく輝く天体である」という性質を内包的に指す役割も持っているというように固有名も内包的意味を持っていると捉えなければならないのだ。

 

ラッセルの論理的固有名

Russell_2
そこで、バートランド・ラッセル(1872~1970)は、語の内包と外延の働きを厳密に突き詰めようとして、「論理的固有名」なるものを考案した。(因みにミルはラッセルの名付け親なのだそうだ。固有名の意味を問おうとした二人が自身の固有名を授け貰ったというのは何か象徴的な気がする)
ラッセルは「固有名」が外延を指示する機能を持つための3条件を挙げている。「①指示対象がアプリオリに存在する ②特定の対象を名指すことのみがその機能である ③固有名を使う者はその対象を見知っていなければならない」の3つである。この捉え方でいくと例えば「ペガサス」は実在しないのだからその語の意味とは性質を表すものでしかありえない。だから「ペガサス」は固有名ではない。「松本人志」その人は実在するが、その意味は「ダウンタウンのボケであり、映画監督であり、1963年尼崎の生まれで、松本明子と譲一の第3子であり、妻凛の夫であり、女児の父であり、松っちゃんと呼ばれている人であり・・・」という内包をも示してもいるので、「固有名」として捉えないで「一般名」の一種と捉えるべきである。というのだ。その語が一つしかないもの一人しかいないものを指示していたとしても、そのものの内包的意味(性質)で、その対象を特定するような働きをしているのならばその語は「一般名」の一つとして捉えるべきだと考えたのだ。そして、この方向に厳密に考えると、「あれ」「それ」「これ」といった直示的な表現以外は「固有名」だと言えないことになる。このような捉え方をした固有名を「論理的固有名」と呼ぶ。
ラッセルのこの断定的な固有名の分類分けは無茶苦茶だとも言えるかもしれないが、このように突っ走ってしまった気持ちも分かる気がする。
しかし、ウィトゲンシュタインはこの考え方に異を唱える。

 

語の意味とは語の使用

ウィトゲンシュタインは意味を使用上の機能だと考えた。そうして、意味の意味を根本的に捉え直そうと試みた。

一つの言語を考えてみよう。その言語は、建築家Aとその助手Bとの間の意思疎通である。…石材には台石、柱石、板石、梁石がある。BはAが必要とする順番で石材を渡さなくてはならない。このため二人は「台石」「柱石」「板石」「梁石」という語から成る一つの言語を使用する。Aはこれらの語を叫ぶ。Bはそれらの叫びに応じて、石材を持っていく。これを完全に原初的な言語と考えよ。(「探究」第2節)
2節で述べた言語がAとBの全言語であり、したがって、一民族の全言語であると想像することができよう。子ども達は、そのような活動を行い、そのような語を用い、そのようにして他人の言葉に反応するよう教育される。訓練ということの一つの重要部分は教える者が諸対象を指差して、子どもの注意をそれらの物へ向け、それとともに何か語を発することから成り立つ。(これを私は「直示的説明」とか「定義」とか名付けない。子どもはまだ名づけるということがどういうことなのか問うことができないからである。私はこれを「語の直示的教示」と呼ぶ)(「探究」第6節)

子どもは語の意味を定義によって知ることができないと、ウィトゲンシュタインは言う。ある大人がある石を指差して「これが台石だ」と言ってきたとして、突然そのように定義づけされたとしても、その言動によってその対象が「定義されたのだ」と解釈せねばならない必然性が、子どもにはない。そもそも定義って何なのか名づけるとはどういうことなのか子どもには分からない。しかし、定義の意味が分からなくても、「台石」と言われたときに台石を持っていけば褒められる、というやりとりに参加することはできる。そして、この、語に対する正しい振舞いができるか否かを、語の理解の基準として考えるべきだとウィトゲンシュタインは主張する。「台石」が何を指示しているか知っていなくても「台石」ゲームには参加できる。そしてそのゲームがうまく回るような反応を示せた時点で「台石ゲーム」内での「台石」の意味は理解できたとしてよいと言うのである。言語に対する機能的な振舞いとそのやり取りであるような活動「言語ゲーム」があるときに、そのゲームにおける機能が語の意味だと捉えるべきなのである。

語の意味とは、言語内のおけるその使用である。(「探究」第43節)

それならば、語の定義的な意味など無くなるのかと言えば、そうではない。ただし、これも言語ゲームの中で考えるべきものになるのだ。つまり「これは何か」「これはNだ」と問い答えるゲームの中でのみ語は定義的な意味を持ち得る。語の意味はまず定義的に定まっていてその上で言語ゲームに適応されるのではなく、言語ゲームの中での語の使用され方があってその上で定義も為されるのである。もし無理やりに語の意味を定義によって決めてしまおうとしても、その語がまだ何にも働いていないのだったら、その語は語として成立していないのである。
チェスの駒はナイトの形に削られたりボードに並べられたりしただけでは駒とは言えない。チェスのゲームの中で使われてはじめてチェスの駒としての意味を持ちえるのだ。同様に語もゲームに関係なく定義されただけでは語ではない。使用されてはじめて語になるのだ。
このように考えると、ラッセルの示した論理的固有名は本末が転倒した問題だと思われる。

「これ」という語…「それ」という語は何を指しているのか。混乱を引き起こしたくないなら、これらの語が何かを名指していると言わない方がよい。かつて、これこそが本来的な名であると言われたのである。…けれども、名にとって特徴的なのはまさにそれが直示的な「それがNである」によって説明されるということである。しかし、我々は「それを<これ>という」とか「これを<これ>という」とかといった説明をするだろうか?このことは名指すことの一つの神秘として把握することに関係している。名指すことは一つの語と一つの対象の奇妙な結合に見える。哲学者が名と名指されるものとの関係そのものを取り出そうとして、眼前の対象を見つめつつ、或る対象をくり返し、また「これ」という語をくり返すとき、或る奇妙な結合が実際に生じてくる。なぜなら、哲学的問題は言語が仕事を休んでいるときに発生するからである。(「探究」第38節)

「あれ」「それ」「これ」が固有名だと言ってゲームを考えようとするなら、「あれをあれと言う」「これをこれと言う」などという無意味なゲームをうち立てなければならなくなる。言語の仕事はゲームの中の一手となることであるのに、論理的固有名では、言語が言語ゲームから外れてしまって、本質的に意味を持ち得ない場面で意味を考えようとしている擬似問題を発生させているだけなのだと考えられる。

 

意味が確定していないと無意味か

フレーゲは概念の領域を比較して、明確な境界が決まっていなければ人は領域と呼ぶことはできないと、言う。その意味するところは、おそらく、それでは我々は何も始めることができないということである。しかし、「どこかその辺に立っていろ」と言うことは無意味であろうか。(「探究」第71節)

言語ゲームの中での語の使用とその働きが意味であると捉える場合、どうしてもその意味を厳密に決定してしまうことができない。でも、語の意味は、厳密にきっちりと定義化することができなくても、無意味ではないのだ。ゲームの中できちんと働いてさえいればそれだけで有意味なのである。

初等的な混同を避けるために2つの言葉を導入しよう。「○○であることはどうして分かるのか」この問いに「基準」をもって答える場合と、「徴候」をもって答える場合がある。或る種のバクテリアによる炎症が医学的にはアンギーナと呼ばれているとして、具体的症例にあたって「この男がアンギーナに罹っているという理由は何か」と尋ねるとき、「かくかくのバクテリアを彼の血液に見つけたからだ」と答えるのが、「基準」つまりアンギーナの定義的基準と呼べるものを与えている。一方、「彼ののどが炎症を起こしている」と答えるのがアンギーナの徴候を与えている。…しかし、実際には、どの現象が定義的基準で、どの現象が徴候なのか尋ねられると、大抵の場合、その場その場で勝手に決めて答えるほかはないだろう。(「青色本」ちくま文庫版p.59)

「基準」は語の同一性を計るための定義的めやすで、「徴候」は語の同一性を計るための傾向性によるめやすなのであるが、この二つは実際の生活の中で厳密に区分けされて使い分けられていることはまずない。基準なのか徴候なのかはその場その場で勝手に決められている。

ゲームという出来事を考えてみよ。盤ゲーム、カード、球戯、競技など。何がこれらの共通するものか。「何かが共通していなくては、それらを<ゲーム>とは言わない」などと言ってはならない。なぜなら、それらすべてに共通なものは見えなくても、それらの類似性、関連性、全系列が見えるからである。(「探究」第66節)
私は、このような類似性を「家族的類似性」という言葉による以外にうまく特徴付けることができない。家族の構成員の間に成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩き方、気質、なども同じように重なり合い、交差しあっているからである。だから私は<ゲーム>が一家族を形成していると言おう。(「探究」第67節)

ある語についてのある性質Aがその語の指示する対象の集合のうちの一部分をカバーし、また別の性質Bが指示対象の集合のうちの別のある部分を、性質Cがまた別の部分をカバーする。AとBとCは重なりあいながら、全体で、ある言葉の指示対象の集合全体をカバーする。何かの語が指し示す対象をすべて集めてきたときに、その対象の集合全体を貫く性質は必ずしも必要ではない。全体を貫く性質がなくっても一つの語になりえるのだ。
さらに言うなら、もともと語の意味を確定させるなどということが無理なのである。

私が「Nは死んだ」と言うとするとき、「N」という名の意味については、おそらく次のような事情があり得よう。私の信じるところでは或る人間が生きていて、その人を私は①某所で見たことがあり、その人は②何某の姿をしており、③何某のことをなし、④社会ではこの「N」という名で通っていた、等々。――「N」という名で私が何を了解しているかと問われれば、私は、これらの全てや、或いはそのいくつかを挙げ、異なった状況の下では異なったものを枚挙するであろう。すると、「N」に関する私の定義は「これら全てに該当する人」ということになろう。ところが、今そのうちのどれかが偽であることが判明されたらどうか。私にとって枝葉末節と見えることだけが偽と判明された場合にも、私は「Nは死んだ」が偽になると宣言する用意をしなければならないのだろうか。だが、枝葉末節か否かの境界はどこにあるのだろうか。(「探究」第79節)

たとえば、松本人志を松本人志として識別するための基準にはどんなものがあるか。「松本人志という名を持ち」「ダウンタウンのボケであり」「映画監督であり」「1963年尼崎の生まれで」「松本明子と譲一の第3子であり」「妻凛の夫であり」「女児の父であり」「松っちゃんと呼ばれている人であり」「昨日、きつねうどんを食べた人であり」・・・と無数の基準が考えられる。これらの基準のうちにはあまり重要でない基準も多い。たとえば昨日食べたのがたぬきそばであって、「昨日、きつねうどんを食べた人である」が偽であったとしても大した違いはなく、その人が松本人志でなくなることはないだろう。では、どこまでの基準が偽になればその人が松本人志と断定することができなくなるのか。それは多くの場合あらかじめ決まっているものではない。その場その場での言語ゲームによって基準が徴候になったり、徴候が基準になったりしてしまうので、確固とした基準を確定させることはできないのだ。我々は松本人志という語を固定させることなく使っているのだ。語の意味を固定させようとしても、ゲームのルール自体が確定しないのだから、元々そんな決まった基準など存在し得ないのだ。
語は外延としても内包としても確定しない意味しか持たないが、それでも言語ゲームのやり取りの中で語は使えるものとなり、その使用上の機能が意味となって意味を持つのである。

 

語が好き勝手な意味を持ち始めるのじゃないか

しかしそれなら、語の外延や内包が固定されず、言語ゲームのルールとともにころころと変わってしまうというのであれば、語の、使用の機能としての意味もころころ変わったり好き勝手に決められたりしてしまうことにはならないのか。言語ゲームはゲームに参加する人間によって構築されるのだから、言語ゲームのルールはその参加者によって恣意的にどんなものにでもすることができるのではないのか。もし、恣意的にどんなものにでもすることができるのなら、語の意味(外延も内包も使用の機能としての意味も)もどんなものにでも変えられることになってしまうではないか。
これについて次節次々節で、規則のパラドクスと私的言語の問題とともに考えたい。

 

つづく

「哲学探究」をまとめました

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コメント

ラッセルの論理的固有名が本末転倒であるというお考えについて質問です。

ラッセルの「内包的意味をたくさん獲得するにつれて、固有になっていくものは一般名の仲間にしよう。そんで固有名は"こそあど"だけにしよう」というのは、本末転倒というか、アリなのではないでしょうか?

それについて

>「あれ」「それ」「これ」が固有名だと言ってゲームを考えようとするなら、「あれをあれと言う」「これをこれと言う」などという無意味なゲームをうち立てなければならなくなる。

と仰られていますけれど、これが無意味なのは、『今の私たちにとっては』何を意味しているか分からないから。ですよね。

しかし、"こそあど"を、『ほぼ同じ時空を共有してる者同士』との間で成立する言語ゲームだと考えれば、それは無意味ではなくなると思います。

だから、
>論理的固有名では、言語が言語ゲームから外れてしまって
なんていうこともないのかな、って思います。

あと、上とはちょっと別のお話しですが、定義の仕方(駒の動き方)について。

ウィトゲンシュタインは「チェスのゲームで定義される」と言っているんですよね。一方のラッセルは「(ルールブックに書いてある)動き方で定義される」と言っているんであって、「ナイトの形に削ることで定義される」とは言ってないんじゃないかな、と思います。
定義の派生の仕方としては、どちらもアリなのかなって思います。

SHIROさん、このコメントも面白い視点ですね。ありがとうございます。
難しくて、ちゃんとした回答になっていないかも知れませんが、かんべんしてくださいね。

ラッセルの論理的固有名は面白い思索だと思いますし、僕も好きです。でも、それは、状況に依存して指示するだけの代名詞であって、それを何かを名指していると言って固有名だとしたり、それをもって名指しの問題の本質が分析されたとしたりすることには、無理があるとおもいます。
そのような意味で批判したつもりでしたので、決して、使えない語だと言っているわけではありません。

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