フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ | トップページ | 語の意味とは何か<「哲学探究」をまとめました上1> »

2013年7月23日 (火)

2013/7/21大阪哲学道場発表メモ

2013/7/21の第22回大阪哲学道場「後期ウィトゲンシュタイン・私的言語は意味を持ち得るか」の発表メモです。きちんと意味の通る文章にもしたいと思っていますが、とりあえずメモだけアップします。

 

後期ウィトゲンシュタイン「哲学探求」7/21発表レジュメ

· 「語の意味とは何か」

 語の意味とは何か・・・「語の意味は確定できるか」

· ミル

一般名:内包指定・それがどんなものかを表す)

(固有名:外延指定・それが何であるかを表す)

(ア) ペガサスは存在しない:ある固有の対象があってそれは存在しない

(イ) 明けの明星=宵の明星:金星=金星

という普通に意味の通る文が無意味になる。

· ラッセル(論理的固有名「あれ・それ・これ」だけが外延を指定する。その他の名はそれがどんなものかを表す)

· LW

Ø 名は定義できない:子は名づけるということがどういうことか分からない。(大人も)

Ø 語を理解している:語に対して正しい振舞いをすること

Ø 「これがNだ」と問い答えるゲームのなかでのみ名は外延的意味を持つ

∴ 「あれ、それ、これ」が固有名というのは間違い

Ø 「哲学的問題は言語が仕事を休んでいる時に発生する」
言語の仕事とはゲームの中の一手となること。ゲームから外れてその意味を問おうとしてしまうところに哲学的混乱の擬似問題が発生する。

Ø 「赤」=赤を名指す・・・ゲームの駒を用意しただけ 
語の使用:チェス駒がゲームの中に位置づいて初めてチェス駒になるように、語は使用されて初めて語になる。

Ø 家族的類似性:外延全部に共通なものがなくても一つに語になり得る。

Ø 基準と徴候の差はあいまい
基準:語の同一性を計るための定義的なめやす
徴候:語の同一性を計るための傾向性によるめやす
フレーゲ「明確な境界が決まっていなければ領域と呼べない」

Ø 意味がぼやけていても有意味

² ぼやけた長方形からはっきりした長方形を描く。

² ぼやけた「良い」からはっきりした振舞いを対応させる

Ø N」:「某所で見た」・「何某の姿をしている」・「何某のことを為し」・「社会では『N』という名で通っていた」・などなど・・・・・・この一つが偽なら「N」でなくなるのか。

Ø 言語ゲーム:言語の機能的な振舞いとそのやり取り

Ø 言語活動をゲームとして捉え、言葉の意味を外延や内包ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきである。

 規則のパラドクスについて・・・「足し算の答えは無限に決まっているか」

· ルイスキャロルのパラドクス

前提①:A

②:AZ

③:①②→Z

④:①②③→Z

・・・・

· 道標・表・数列のパラドクス

· クワス

xyxyx57,y57のとき)

xy5x57or y57のとき)

Ø 足し算とは何か:2つの数を合わせたもの。では、合わせるとは何か?
規則を共有するには結局、具体例を有限個提示して「以下同様」と後は任せてしまう以外にない。

· 筆算すればいいじゃん。実際に合わせて数えればいいじゃん。クワス的にはそれでも「ひっ算」「実際に合わせて」の意味解釈が変わってしまうので答えは5にしかならない。

· 解釈説と実践説

² 盲目的に規則に従う=生活様式の一致=一つに実践
解釈をせずに実践していたら、たまたま一致した場合その人とは言葉が通じる。
訓練によって実践が一致するように教育される

² しかし、解釈してしまった場合、どちらの解釈が正しいということは言えない。たまたま生活が一致していたり、訓練によって矯正されたりするばあいに、マジョリティーはプラスが正しくクワスが間違っているという。しかし、原理的にプラスが正しいと解釈すべき確かな基準があるわけではない。

 私的言語について・・・「私的言語は意味を持ちえるか」

· 私的言語とは「自分だけの内的体験を言語化したもの。他者には原理的に理解できない」

Ø 地球最後の男の独り言は私的言語ではない。

Ø その言語が一般言語に翻訳できるなら私的言語ではない。(火星で一人きりで育った子どもが天才で、一人で言語を発明した場合でも)

· 痛みを表出しない子は「痛い」という言葉を持ちえない

Ø 痛がる振舞いを通して「痛い」は意味を持ちえる。

○ 私的言語は意味を持ちえるか

· ハンプティダンプティの指摘 
語の主は語り手。何を語りたいかを知っているのは本人である。

語り手が何を言いたいのかはっきりさせたいなら、語り手に聞くのがいちばん手っ取り早い。

· 永井の指摘
私が実際に感じている「これ」があってはじめて世界が立ち上がるような根源的に私的な出来事「これ」がある。たとえば「これA」は私がずっと「痛み」と呼んできた感覚である。だから、これは「痛み」と呼ぶべきものである。このときこの「痛み」は根源的に私的な言語である。
もともと公共言語として教えられた「痛み」だが「実際に痛むこの感覚のクオリア」を示す私的言語として転じることによって言語は完成する。

ハンプティ・永井への反論

Ø 何を言いたいか自分でもはっきりさせられていないような内容まで、語り手は語の主だとは言えない。どこまではっきりさせられているかは、ゲームの中でどこまで語が働いているかによって決まる。無尽蔵に語り手が主権を持っているわけではない。

Ø 同一性基準が担保されない語は意味を持ちえない。痛がる→「痛い」

私的感覚A

私的感覚B

私的感覚C

A、B、Cそれぞれを「痛み」と呼ぶたび・・・同一性の基準を作り続けていく。盲目的に規則に従っているのではなく、むやみに規則を作っているだけ。

根源的な規則性の崩壊・・・「痛い」はその都度、同一性基準をでっち上げていることになる

· 私が感じている私的な痛みを「痛み」と呼ぶとき、私的な痛みのクオリアは、言語の「痛み」に成り下がる。しかし、私的クオリアはある。・・・というのも、間違い。言語化されていない「もともとの痛みのクオリア」など幻想である。それは痛みでも感覚でもなんでもない、ただの「空」でしかない。

 

 · エイヤーの指摘

Ø 根源的な規則性の崩壊は振舞いにも適応されるのではないか

私的感覚A ふるまいA

私的感覚B ふるまいB

私的感覚C ふるまいC

A、B、Cそれぞれを「痛み」と呼ぶたび

*私的感覚について・・・同一性基準を作り続けている

*ふるまいについても・・・同様に同一性基準を作り続けているのではないか

 エイヤーへの反論①・・・・・同一性基準を他者に求める(僕はリアリティを感じない)

私的感覚A ふるまいA

私的感覚B ふるまいB

私的感覚C ふるまいC

A、B、Cそれぞれを「痛み」と呼ぶたび

*私的感覚に対して・・・同一性基準を作り続けている  

※振る舞いに対して・・・ゲームが成立してくれていることを確認してくれる他者の視点がある

 エイヤーへの反論②・・・・・・同一性基準を自分の人間的習性に求める(僕はこれに説得力を感じる)

私的感覚A ふるまいA

私的感覚B ふるまいB

私的感覚C ふるまいC

A、B、Cそれぞれを「痛み」と呼ぶたび

*私的感覚に対して・・・生活がなく、体の反応が無いのなら恣意的に規則を作っていることになる。もし体の反応があるのなら盲目的にある規則に従っていることになる

※振る舞いに対して・・・人間の習性によって同一性基準がすでにできている

○ 「M氏とN氏、本当は二人のどっちが強い痛みを感じているか」という問い。
 
神の視点での「本当」なんていう基準は無い。意味のない擬似問題である。

でも、「M氏とN氏、ペインビジョン的には二人のどっちが強い痛みを感じているか」という問いなら、答えられる。

· 新しい基準による新しいゲームは、いつでも始められる。新しい基準を導入して、それまでの規則が壊れても、結局、新しい規則には盲目的に従わないといけない。盲目的に従うような、規則のレベルがないと、ゲーム自体が成立しない。

· 神の視点での本当に正当な規則なんて存在しない。しかし、偏見に満ちた人間という存在として、「なぜか、そーなっている」のだからとして、反応し実践し盲目的にひとつの規則に従うことで、ある意味正しい規則が生まれる。・・・・・・後付け的に言語が通じる。正しい言語規則ができる。

 LWは行動主義者か

 方法論的行動主義:唯一観察できる心的現象は行動だけなのだから心的状態を語るには行動を見る以外ない。

 論理的行動主義:心的状態に関する言動はその人の行動に関する言動とぴったり同じ意味を持っている。

Ø ある行動主義のカップルがベッドをともにした後、「君はすごく楽しんだ。僕はどうだろう」

Ø 心的状態は存在する。しかし、それは文法の成り立ちから原理的に行動によってしか語ることができない。他者が分からないだけでなく、自分自身でもわからない。人間の振舞い以外が虚構なのではなく、文法を外れるものが虚構なのだ。

 

« 「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ | トップページ | 語の意味とは何か<「哲学探究」をまとめました上1> »

コメント

工藤さん、
工藤さんのご質問への答えとも関連しているのですが、一つ質問させてください。
工藤さんは、輪廻転生や魂の永生や地獄の業火が理解不可能であったりナンセンスであったりすると考えておられるようにおもえたのですが、それらがその他の、「まともな人々の認めるまともな話」と峻別できる基準とは何なのでしょう。しょせん常識的判断とか科学的判断でしかないのじゃないでしょうか。工藤さんはそんな、常識や科学的基準から外れるなどという理由で、哲学的思考実験の内容をナンセンスか否かに峻別すべきとお考えなのでしょうか。それとも、常識的判断や科学的判断でない基準があるのでしょうか。あるのなら具体的に教えてください。

工藤さんからのご質問には、工藤さんがまったく回答にはなってないと評されるだろう回答しかできないでしょうが、それでも僕なりに考えてお答えしたいと思っています。しばらくお待ちください。

質問ばかりが続いて申し訳ないのですが、もう少し質問させてください。自分である程度整理した上で僕の「回答らしきもの」を作っていきたいと考えています。お付きあいください。

工藤さんは、「死=経験不可能な出来事」と考えておられるが故に、死後の事柄を経験の可能性の条件として考察するためには形而上学的様相の自在性を問う必要がある、とのことでしたが、よくわかりませんでした。
工藤さんのおっしゃっているのは、工藤さんは「死」を「経験不可能な出来事」として定義的に前提しているのだから「死後の事柄」なるものは矛盾だと捉える以外ないのだ・・・という意味だと理解してもいいでしょうか。

もっと深い意味があるのなら、噛み砕いて説明してもらえるとありがたいです。

工藤さん、お久し振りです。
回答ありがとうございます。
えっと、どんな話をしていて現状の討論の重点は何でしたっけ。すみません。久しぶりで忘れてしまってました。ちょっと自分なりに思い出して整理してから返事しますね。少し待ってください。

工藤さん、

たいへん申し訳ないのですが、僕は長文のコピペを読むのが苦手で、また苦痛でもあります。ですから、コピペ文章はほとんど読んでいません。ご了承ください。よろしくお願いします。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 2013/7/21大阪哲学道場発表メモ:

« 「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ | トップページ | 語の意味とは何か<「哲学探究」をまとめました上1> »