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« 第22回大阪哲学道場7/21レジュメ | トップページ | 「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ »

2013年6月30日 (日)

思考実験に対する状況の解釈と言語の限界についての考察

工藤氏とコメント欄で私的感覚に関する思考実験についての討論をしているが、コメント欄がいっぱいになってきたので、ここで新しいページを作る。

工藤さんは、僕に蠅とり壺からの脱出口を教えようとしてくれているんですよね。でも、残念ながら、「そこ」が蠅とり壺の「外」であることが分かったとしても、それは僕にとっての脱出口にはならないのです。
僕にとっては、在り得ないこと起こり得ないことをナンセンスの外へ捨てるための、現実的解釈に耐える理解方法を求めているわけではなく、言語ゲームの射程内と射程外のぎりぎりの限界についてを考察したいと思っているからです。

具体的にその違いを①永井と②僕と③朝永振一郎の思考実験を使って述べます。

 

①NYC三者の痛みの思考実験

まず、永井の「誤診」p204の思考実験はこうであった。「CNYの三人の人間について、Cの手が損傷を被ったとき、Nの口からうめき声が上がり「私は痛い」と発語される。そしてこのとき実際に痛いのはYだった」という状況だ。
工藤さんは、この状況を「起こり得る想定として理解」するために、「Cが机に左手をぶつけたとき、何故かCは痛くなかった(僕にとってはよくあること、即ち経験的事実である)が、それと同じタイミングで近くにいたNが呻き声を上げ(これは普通に【起こり得る】ことだろう)、それと同じタイミングで近くにいたYは何故か突発的に発狂したが本人はそのことに気付いておらず「自分が突如としてなぜかCの身体に痛みを感じ、なぜかNの口からうめき声を発した(永井均『誤診』205頁)」と思い込んでいる(これは普通ではないが【起こり得る】だろう)という想定へ。」としている。

なるほど、このような解釈を与えれば「その状況の理解」の一助になるだろう。しかし、ここで求めているのが「状況の理解」ではなく「言語の限界についての考察とその理解」なのだとすれば、この解釈では解決にはならない。

因みに、永井の思考実験について、僕の興味は「なぜYはYの体をYの体として認識しえたのか」にある。永井はそこで「「ゲームの規則によって泣いたり顔をしかめたりする人だ」という主張の反例となりうる」と言っているが僕はこれが間違いだと思っている。しかし、それを追及するのは、論がそれてしまうのでここでは止めておく。

いずれにしても、ここで問題にしたいのは「ゲームの規則と限界」についてであって、「状況の現実的理解」ではないということだ。

 

②双子の痛みの思考実験

次に、僕の提案した思考実験では「双子の妹に刺さったトゲをぐりぐりすると姉の表情が険しくなり姉の口が痛いと言う」という状況だった。
工藤さんはこれにも「あり得る想定として理解」するための解釈をつけている。つまり、「妹は痛みに堪えながらポーカーフェイスを装っており、姉の方は痛いふりをして『痛い』と発語したのだ」などと解釈する。このような解釈はその状況の常識的な理解のための一助となる。しかし、言語の限界の理解のためには、やはり解決策にはならない。
そこで、工藤さんは「想像表象と戯れる」意味と称して現実的解釈を飛び出した解釈についても語る。
それによれば、「とにかく、一人の人物が他人の身体に自分の痛さを感じているとすれば、そのような想像は「想像表象と戯れる」中で浮遊している不明瞭で断片的な想定はまともな哲学的吟味に耐えるものではありませんし、何より事物の在り方に反しています」ということである。

しかし、ここで読み取れるのは状況の解釈から外れる想定に対して、それを否定する「意志」でしかない。残念ながら言語の限界を探る手助けとなるものは無い。「想像表象と戯れる中で浮遊している不明瞭な断片的な想念」が否定されるのであれば、それが何故なのかという点が、僕の求めているものであり、蠅とり壺の脱出口への道標となるものであるのに、「何故の答え」が「事物の在り方に反する」としか語られないからだ。「事物の在り方に反する」のは何故かをさらに問うならば、「常識に照らし合わせて」だとか「明らかに」だとかの、あいまいな答えしか無いのではないか。何故、状況の理解から外れる想定は否定されるのか、その理由こそが求めているところなのに、その追求をそっくり飛び越えて、「否定されるべきだ」という「答え」に直行していることが問題なのだ。蠅に「出口への道順」を示すのではなく、それをすっ飛ばして「外」だけを示しているのすぎないのだ。

 

③「光子の裁判」

そこで、上の2つのような「あり得ない」想定ではなく、「あり得る」想定で、しかし抜本的なパラダイムシフトが要求されるような状況を考えよう。
物理学者朝永振一郎の「光子の裁判」は波野光子なる被告のアリバイの有意味性について検察と弁護人が論争するという小品である。(講談社学術文庫「鏡の中の物理学」)
光子は「門のところにいた時には、室内にいなかった」と主張し、また「室内に入るときには2つの窓を同時に通った」と主張する。
それに対して検察は次のように主張する。「被告は2つの窓の両方をいっしょに通ったと予審においても一度ならずも主張していたが、ここでまたそれを言い張ろうとするのか。被告ははっきりとした不可分の一個体であって、いまだかつて被告が同時に2つの異なる場所にいたなどという奇妙な状況にお目にかかったものはない。しかもこのことは被告自身がすでに認めたことである。なぜなら被告はさきほど門衛のところにいたから室内にはいなかったと主張してアリバイを主張したではないか。被告が主張するように2つの窓の両方をいっしょに通ることができるくらいなら、被告は門のところと室内の両方にいっしょにいることもできた筈である」
これに対して弁護人は次のように述べ、検察の思い込みの間違いを指摘する。「被告がAのところにいたならばBのところにいない。この主張は確かに検証された事実である。すなわち、Aに被告がいるという現場が押さえられたときに、被告が同時にBにおいて押さえられたことがいまだかつて一度もないという事実が、この主張の正しさを実証するのである。したがって被告がアリバイを主張することは正しいことである。しかし、この重要な原則はそれが実際に検証された範囲内でのみ妥当するのであって、これを不当に広範囲に適応することは許されない。」として、光子の粒子性と波動性の両立というパラダイム転換を求めるのである。

検察にとって、弁護人の話はとうてい受け入れがたい、反常識であり、「明らかに事物の在り方に反する」ものであったろう。しかし、これは現代物理学からすると「あり得る」話なのである。検察は常識に反して、明らかに事物の在り方に反するものを受け入れねばならないのである。
だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

それのみが、蠅を救う手立てなのだ。

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コメント

>本来の目的は完全に見失われている―とでも言いましょうか。

言語の限界を探りたいというのが、僕の「手段としての思考実験」の目的です。
工藤さんにとっての「本来の目的」はもっと別の何かなのですか。

光子の裁判の検察は、自分が事実的判断をすべきであるのか、文法的判断をすべきであるのか、をいかにして判断するのでしょうか。

「他者の身体に痛みを感じる」「光子は2地点を同時に通る」検察は両方を事物の在り方に反するとしてしまう。
この2つの違いを見極める術はあるのか?

話が多岐に渡ってきましたから、少しずつ答えていきますね。

確かに事実的探究と文法的探究を混同しないように示唆されてきましたが、僕の理解と工藤さんの意図はずれてるかもしれません。
「事物の在り方に反する」思考の否定は、どちらに分類されますか。僕は文法的探究であるべきだとおもうのですが、工藤さんは違うんじゃないですか。

分かりました。順番にお答えしていきます。お待たせしていますが、もう少しお待ちください。


事物の在り方に反する存在の否定は事実的探究という理解でいいですか。それなら、アポステリオリな内容によってそれが事物の在り方に反すると判断されるのですから、それが事物の在り方に反するか否かは、判断材料の内容によって異なることになりますね。つまり、事物の在り方に反する理由は、議論の対象になるという理解でいいですか。

1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。
4については僕もとても興味があるところです。頑張ってお答えします。もう少しお待ちください。
5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

>既に述べたように、或る問いが(信頼に足るという意味で)十分に確立された自然科学によって発見・開示された知識―[事物]の在り方に即した概念(ex. 医学、分子生物学、神経生理学etc)―に対する否定を含んでいる場合、挙証責任は問いを提出する者に帰せられることになります。

という工藤さんのお答えから察するに、「事物の在り方に反する存在の否定は事実的探究であって、事物の在り方に反する理由は、議論の対象になる」という理解でいいですよね。

ならば、「事物の在り方に反するか否か」は科学的仮説とその検証によって、実証的に判断されるべき問題であって、哲学が頼るべき拠り所ではないのではないでしょうか。

つまり、事物の在り方に反していることによって、或る思考実験が不可能であることを判断するのは、科学の仕事であって哲学の仕事ではないんじゃないでしょうか。

新しく「「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ」
のページをアップしました。

4と5の回答になっていたら良いのですが。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html

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