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« 第22回大阪哲学道場7/21レジュメ | トップページ | 「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ »

2013年6月30日 (日)

思考実験に対する状況の解釈と言語の限界についての考察

工藤氏とコメント欄で私的感覚に関する思考実験についての討論をしているが、コメント欄がいっぱいになってきたので、ここで新しいページを作る。

工藤さんは、僕に蠅とり壺からの脱出口を教えようとしてくれているんですよね。でも、残念ながら、「そこ」が蠅とり壺の「外」であることが分かったとしても、それは僕にとっての脱出口にはならないのです。
僕にとっては、在り得ないこと起こり得ないことをナンセンスの外へ捨てるための、現実的解釈に耐える理解方法を求めているわけではなく、言語ゲームの射程内と射程外のぎりぎりの限界についてを考察したいと思っているからです。

具体的にその違いを①永井と②僕と③朝永振一郎の思考実験を使って述べます。

 

①NYC三者の痛みの思考実験

まず、永井の「誤診」p204の思考実験はこうであった。「CNYの三人の人間について、Cの手が損傷を被ったとき、Nの口からうめき声が上がり「私は痛い」と発語される。そしてこのとき実際に痛いのはYだった」という状況だ。
工藤さんは、この状況を「起こり得る想定として理解」するために、「Cが机に左手をぶつけたとき、何故かCは痛くなかった(僕にとってはよくあること、即ち経験的事実である)が、それと同じタイミングで近くにいたNが呻き声を上げ(これは普通に【起こり得る】ことだろう)、それと同じタイミングで近くにいたYは何故か突発的に発狂したが本人はそのことに気付いておらず「自分が突如としてなぜかCの身体に痛みを感じ、なぜかNの口からうめき声を発した(永井均『誤診』205頁)」と思い込んでいる(これは普通ではないが【起こり得る】だろう)という想定へ。」としている。

なるほど、このような解釈を与えれば「その状況の理解」の一助になるだろう。しかし、ここで求めているのが「状況の理解」ではなく「言語の限界についての考察とその理解」なのだとすれば、この解釈では解決にはならない。

因みに、永井の思考実験について、僕の興味は「なぜYはYの体をYの体として認識しえたのか」にある。永井はそこで「「ゲームの規則によって泣いたり顔をしかめたりする人だ」という主張の反例となりうる」と言っているが僕はこれが間違いだと思っている。しかし、それを追及するのは、論がそれてしまうのでここでは止めておく。

いずれにしても、ここで問題にしたいのは「ゲームの規則と限界」についてであって、「状況の現実的理解」ではないということだ。

 

②双子の痛みの思考実験

次に、僕の提案した思考実験では「双子の妹に刺さったトゲをぐりぐりすると姉の表情が険しくなり姉の口が痛いと言う」という状況だった。
工藤さんはこれにも「あり得る想定として理解」するための解釈をつけている。つまり、「妹は痛みに堪えながらポーカーフェイスを装っており、姉の方は痛いふりをして『痛い』と発語したのだ」などと解釈する。このような解釈はその状況の常識的な理解のための一助となる。しかし、言語の限界の理解のためには、やはり解決策にはならない。
そこで、工藤さんは「想像表象と戯れる」意味と称して現実的解釈を飛び出した解釈についても語る。
それによれば、「とにかく、一人の人物が他人の身体に自分の痛さを感じているとすれば、そのような想像は「想像表象と戯れる」中で浮遊している不明瞭で断片的な想定はまともな哲学的吟味に耐えるものではありませんし、何より事物の在り方に反しています」ということである。

しかし、ここで読み取れるのは状況の解釈から外れる想定に対して、それを否定する「意志」でしかない。残念ながら言語の限界を探る手助けとなるものは無い。「想像表象と戯れる中で浮遊している不明瞭な断片的な想念」が否定されるのであれば、それが何故なのかという点が、僕の求めているものであり、蠅とり壺の脱出口への道標となるものであるのに、「何故の答え」が「事物の在り方に反する」としか語られないからだ。「事物の在り方に反する」のは何故かをさらに問うならば、「常識に照らし合わせて」だとか「明らかに」だとかの、あいまいな答えしか無いのではないか。何故、状況の理解から外れる想定は否定されるのか、その理由こそが求めているところなのに、その追求をそっくり飛び越えて、「否定されるべきだ」という「答え」に直行していることが問題なのだ。蠅に「出口への道順」を示すのではなく、それをすっ飛ばして「外」だけを示しているのすぎないのだ。

 

③「光子の裁判」

そこで、上の2つのような「あり得ない」想定ではなく、「あり得る」想定で、しかし抜本的なパラダイムシフトが要求されるような状況を考えよう。
物理学者朝永振一郎の「光子の裁判」は波野光子なる被告のアリバイの有意味性について検察と弁護人が論争するという小品である。(講談社学術文庫「鏡の中の物理学」)
光子は「門のところにいた時には、室内にいなかった」と主張し、また「室内に入るときには2つの窓を同時に通った」と主張する。
それに対して検察は次のように主張する。「被告は2つの窓の両方をいっしょに通ったと予審においても一度ならずも主張していたが、ここでまたそれを言い張ろうとするのか。被告ははっきりとした不可分の一個体であって、いまだかつて被告が同時に2つの異なる場所にいたなどという奇妙な状況にお目にかかったものはない。しかもこのことは被告自身がすでに認めたことである。なぜなら被告はさきほど門衛のところにいたから室内にはいなかったと主張してアリバイを主張したではないか。被告が主張するように2つの窓の両方をいっしょに通ることができるくらいなら、被告は門のところと室内の両方にいっしょにいることもできた筈である」
これに対して弁護人は次のように述べ、検察の思い込みの間違いを指摘する。「被告がAのところにいたならばBのところにいない。この主張は確かに検証された事実である。すなわち、Aに被告がいるという現場が押さえられたときに、被告が同時にBにおいて押さえられたことがいまだかつて一度もないという事実が、この主張の正しさを実証するのである。したがって被告がアリバイを主張することは正しいことである。しかし、この重要な原則はそれが実際に検証された範囲内でのみ妥当するのであって、これを不当に広範囲に適応することは許されない。」として、光子の粒子性と波動性の両立というパラダイム転換を求めるのである。

検察にとって、弁護人の話はとうてい受け入れがたい、反常識であり、「明らかに事物の在り方に反する」ものであったろう。しかし、これは現代物理学からすると「あり得る」話なのである。検察は常識に反して、明らかに事物の在り方に反するものを受け入れねばならないのである。
だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

それのみが、蠅を救う手立てなのだ。

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コメント

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>僕にとっては、在り得ないこと起こり得ないことをナンセンスの外へ捨てるための、現実的解釈に耐える理解方法を求めているわけではなく、言語ゲームの射程内と射程外のぎりぎりの限界についてを考察したいと思っているからです。
>なるほど、このような解釈を与えれば「その状況の理解」の一助になるだろう。しかし、ここで求めているのが「状況の理解」ではなく「言語の限界についての考察とその理解」なのだとすれば、この解釈では解決にはならない。
>しかし、ここで読み取れるのは状況の解釈から外れる想定に対して、それを否定する「意志」でしかない。残念ながら言語の限界を探る手助けとなるものは無い。

オカシイですね。これも完全に誤り、というか横山さんの思い込みではないかと。既述

個人的な印象ですが、(横山さんに限らず)ウィトゲンシュタインの後期哲学に触れた人の多くは【ウィトゲンシュタインの哲学的営為における思考実験の目的と意義】を誤解しているように見えます。手段としての思考実験に拘泥した挙句、本来の目的は完全に見失われている―とでも言いましょうか。
「私が他人の身体に痛みを感じることは可能である」―これは【文法的注釈】として受け取られるべき「挿画」に過ぎないのです。重要なのは「挿画」ではなく、それが【示すもの】なのですから。
(上で論じた 幾何学的不可能性/論理的不可能性/[事物]の在り方に反しているが故にナンセンスな思考 の差異、形而上学的様相/認識論的様相/思考様相 の差異、【想像出来る】という語の異なる二つ―「想像出来る=想像表象と戯れる」 『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』―の文法を踏まえつつ、以下の質問について考えてみてください)

の通り、(一連の遣り取りの中で)僕は事実的探究と文法的探究を混同しないように「示唆してきた」つもりなのですが・・・お解り頂けなかったとすれば、非常に残念です。

>本来の目的は完全に見失われている―とでも言いましょうか。

言語の限界を探りたいというのが、僕の「手段としての思考実験」の目的です。
工藤さんにとっての「本来の目的」はもっと別の何かなのですか。

(とりあえず、以下、再録しておきます)

①事実的探究(ex. [事物]に即した概念を構成すること)
②文法的探究(ex. 我々の概念構成の在り方を精査する。哲学的似非問題を解消する)
③幾何学的構成
④算術的構成
⑤数学的探究という名の錯誤(ex. 微積分学や集合論における論理・算術・幾何学の混同から生じた擬似問題)

ご参考になれば幸甚です。

>言語の限界を探りたいというのが、僕の「手段としての思考実験」の目的です。
工藤さんにとっての「本来の目的」はもっと別の何かなのですか。

別の何か?? ―だから、それが誤読なのですよ。哲学は文法的探究―我々の概念構成の在り方を示すこと―であり、思考実験はその為の方便(の一つ)に過ぎません。

光子の裁判の検察は、自分が事実的判断をすべきであるのか、文法的判断をすべきであるのか、をいかにして判断するのでしょうか。

(件の論点について。大分前のツイートですが、以下、纏めてみました)

ところで、もう一つ言いたいことがある。それは【ウィトゲンシュタインの哲学的営為における思考実験の意義と永井均氏の言説におけるそれとの差異】についてだ。
先程引用したウィトゲンシュタインの発言「他人の痛みを感じることは不可能だと主張する人は、それによって、ある人が他の人の身体に痛みを感じることが【できる】ことを否定したいわけではない、と私は言った-略-それらは、一見したところでは違いがないように見えるかもしれないが、じつは【その文法に違いがある】のだ」にも示されている通り、ウィトゲンシュタインにとって思考実験とは【特定の文法的差異を浮き彫りにすることで哲学的似非問題を生み出している文法的混乱を解消する手法】に過ぎない。
翻って、永井均氏の言説における思考実験は【哲学的似非問題をつくり出すために利用されている】ように見える。
例えば、主体・客体用法の「私」は感覚や感情を持つ身体的存在者だが、様相的文脈における一人称の用法を駆使した思考実験によって、「私」は身体や自己意識との関係が偶然的な形而上学的存在に仕立て上げられるわけである。
つまり、永井均氏の思考実験では、身体や自己意識との連関を破壊された「一人称」が、平叙文(一人称の客体用法等)においては区別されていた現実性概念と短絡的に結び付けられているのだ。

(件の論点について。大分前のツイートですが、以下、纏めてみました)

明らかにウィトゲンシュタインは、独我論者の表現形式は我々の通常の表現法が覆い隠している或る重要な【哲学的真理】を照らし出している、と考えているように見える(クリプキ)

―前後の文脈を見る限り、ここで示唆されている【哲学的真理】は、永井均『誤診』136頁の問い―なぜ「つねにルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインである」ではなく「つねに私である」と言いたいのか―に対する解答と一致するように思われる。
例えば「私は今左肩が痛い」というような一人称の心理的言明を為す際に、自分の身体や振る舞いを観察する必要はないだろう。この意味で、一人称の心理的言明は自分の身体に関する知識と独立である。
同様に、「私は昨日蕎麦を食べたことを憶えている」というような一人称の記憶言明を為す際に、自分の身体を調べてそれが昨日と同じ身体だと確信する必要はない。つまり、記憶に基づいて為される自分の過去についての言明は、自分の現在の身体と過去のそれとの【関係】についての知識に基づいてはいないのである。
実際には、自分の記憶に基づかなければ、身体の同一性に関する判断が真であるということは知りえないし、それに関する身体的な基準(時空的連続性)を適用することも出来なくなるであろう。従って【この種の言明】について言えば、身体的な用語で自己を記述出来なければならないということは「私」という語を使用し得るための条件ではないのだ。【この種の言明】における「私」という語は身体的記述の省略形ではないのだから。
永井均氏の主張に反して、他人の身体に私が痛みを感じることは【可能である】とか「痛みを感じ、または見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、『私は痛みを感じる』における『私』という語は或る特定の身体を指示してはいない、ということだけである。その『私』を或る特定の身体の記述で置き換えることは出来ないのだから」というウィトゲンシュタインの発言は、このことを【比喩的に】述べたものに過ぎない(永井均氏の主張に反して)。
この辺の事情については、『哲学探究』404・405節も参照して頂きたい。
畢竟、この議論のポイントは【私と身体の概念上の区別を実在的な区別に短絡させてはならない http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564】ということであって、それこそがクリプキの言う【哲学的真理】の核心であったと考えられるのである。
事柄に即して考える限り、氏は「ウィトゲンシュタインのこの画期的な洞察(永井均『誤診』240頁)」を捉え損なっていると言わざるを得ない。

言うまでもない?と思いますが、【哲学的真理=我々の概念構成の在り方】でしょう。

>「想像表象と戯れる中で浮遊している不明瞭な断片的な想念」が否定されるのであれば、それが何故なのかという点が、僕の求めているものであり、蠅とり壺の脱出口への道標となるものであるのに、「何故の答え」が「事物の在り方に反する」としか語られないからだ。「事物の在り方に反する」のは何故かをさらに問うならば、「常識に照らし合わせて」だとか「明らかに」だとかの、あいまいな答えしか無いのではないか。何故、状況の理解から外れる想定は否定されるのか、その理由こそが求めているところなのに、その追求をそっくり飛び越えて、「否定されるべきだ」という「答え」に直行していることが問題なのだ。蠅に「出口への道順」を示すのではなく、それをすっ飛ばして「外」だけを示しているのすぎないのだ。

これもオカシイですね。率直に行って、何故(僕の論述に対する)このような解釈が出てくるのか、理解に苦しみます。既に述べた

(上で論じた 幾何学的不可能性/論理的不可能性/[事物]の在り方に反しているが故にナンセンスな思考 の差異、形而上学的様相/認識論的様相/思考様相 の差異、【想像出来る】という語の異なる二つ―「想像出来る=想像表象と戯れる」 『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』―の文法を踏まえつつ、以下の質問について考えてみてください)

ように、(一連の遣り取りの中で)僕は形而上学的様相「あり得る・あり得ない」/認識論的様相「知り得る・知り得ない」/思考様相「考え得る・考え得ない」及び「想像出来る=想像表象と戯れる」/『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』の文法的差異と、それらの混同によって哲学的似非問題が生じる構造を示してきた筈ですが。
忌憚なく言わせて頂ければ、これらの論点に関して、横山さんは―僕が指摘するまでは―完全に無自覚だったように見えます。

「他者の身体に痛みを感じる」「光子は2地点を同時に通る」検察は両方を事物の在り方に反するとしてしまう。
この2つの違いを見極める術はあるのか?

とはいえ、以下の論述

>なるほど、このような解釈を与えれば「その状況の理解」の一助になるだろう。しかし、ここで求めているのが「状況の理解」ではなく「言語の限界についての考察とその理解」なのだとすれば、この解釈では解決にはならない。

などを読む限り、これまで僕が論じてきたことを本当に理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いと言わざるを得ません。
何度でも繰り返しますが、僕は【件の思考実験で語られている状況を①『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』の意味で理解しようとするならば】と言っておいた筈です。前回の記事で僕が出題した問題

「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」
「翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る」
「猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る」
*上に挙げた文の違いが解りますか?

とその解答について再考してみてください。「言語の限界について考察とその理解」とは【当に後期ウィトや僕が示してみせたようなこと】なのであって、無批判で無自覚な想像の垂れ流しではないのです。例えば、以下の論述

>何故、状況の理解から外れる想定は否定されるのか、その理由こそが求めているところなのに、

などを読む限り、僕には横山さんがご自分の問いを誤解しているとしか思えません。

>でも、極端にへんてこな世界で言語の限界を考えるのも哲学の1つの楽しみであり、これを科学的帰納の問題とすることで言語の限界にアタックするのは哲学的遊戯として許されると思います。

何度でも繰り返しますが・・・①文法的探究(ex. 我々の概念構成の在り方を精査しつつ哲学的似非問題を解消する)と②事実的探究(ex. [事物]に即した概念を構成する)を混同しない方が良いと思います。既述の通り、我々の概念構成の在り方を見極めることは浅薄で胡乱な想像に振り回されることではありません。

不平を唱えることは何故無意味なのか?
不平を唱えるとは問いを発して答えの来るまで待つということだ。しかし、その成立過程において自分自身に答えていないような問いは決して答えられることはない。
問いを発する者と答える者との間には如何なる隔たりもない―克服すべき如何なる隔たりも。それゆえ<問うて待つ>ことは無意味なのだ。―カフカ『日記』

>光子の裁判の検察は、自分が事実的判断をすべきであるのか、文法的判断をすべきであるのか、をいかにして判断するのでしょうか。
>「他者の身体に痛みを感じる」「光子は2地点を同時に通る」検察は両方を事物の在り方に反するとしてしまう。
この2つの違いを見極める術はあるのか?

まあまあ、そうあせらずに。物事には順番というものがあるのです。
先取り的に言っておくと、量子論=無知の避難所に便乗して哲学的妄想を垂れ流すことが「言語の限界についての考察とその理解」に繋がる保証はありませんし、これまでに何度か提出してきた質問

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の相互関係はどういったものなのでしょうか?
例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。
②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムはどういったものなのでしょうか?
私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。
③昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか?

に対するご回答も未だ頂いておりませんが。

さて、では、先取りついでに幾つかの論点を洗い直していきましょうか。

>検察にとって、弁護人の話はとうてい受け入れがたい、反常識であり、「明らかに事物の在り方に反する」ものであったろう。しかし、これは現代物理学からすると「あり得る」話なのである。検察は常識に反して、明らかに事物の在り方に反するものを受け入れねばならないのである。

ここで重要なのは【これは現代物理学からすると「あり得る」話なのである】のところでしょう。既に述べた

「なぜそんなことが起こるか【②原因がわからない】なら【①そんなことは起こらない・・・なんてことはない】ので」―もうお解り?だと思いますが、件の浅薄で胡乱な主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異のみに依拠して提出されています。
以前お話した永井均氏の主張「①物が当然なくなることがあり得ないということは②いつ誰が証明したのか?」と構造が同じですよね。言うまでもないことですが、「なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはない」から【そういうことが起こる】を導出することは出来ません(況してや【そういうことが起こる】という文を真にする[出来事]を導出することなど不可能です)。

ように、「Pであり得る」から「Pである」況してや「Pである」を真/偽にする[事実]を導出することは出来ません。従って、「明らかに事物の在り方に反するものを受け入れねばならない」ことにはならないのです。付言しますと、量子論が[事物]に即した概念体系であるか否かは未だ係争中の問題ですし、ミクロの話をマクロのそれに短絡させることも出来ない―【朝永氏の思考実験③「光子の裁判」に反して】―のですから。

>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

これらの思考実験?? ―僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは以下の論述

>そこで、上の2つのような「あり得ない」想定ではなく、「あり得る」想定で、しかし抜本的なパラダイムシフトが要求されるような状況を考えよう。

で①NYC三者の痛みの思考実験及び②双子の痛みの思考実験と③「光子の裁判」を区別していた筈ですが・・・それがここでは【何の断りもなく】一括りにされてしまっています。これが不注意によるものなのかどうか僕には判りませんが・・・極めて遺憾と言わざるを得ません。

>明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、

事物の在り方に反している?? ―既に述べた

付言しますと、量子論が[事物]に即した概念体系であるか否かは未だ係争中の問題ですし、ミクロの話をマクロのそれに短絡させることも出来ない―【朝永氏の思考実験③「光子の裁判」に反して】―のですから。

ように、ミクロとマクロを一緒くたにした上で、それを「事物の在り方」の一言で片付けられても・・・。
ところで、先般の思考実験もそうでしたが、横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。(失礼ながら)僕に言わせれば「文法的混乱」でしかないものを「言語の限界についての考察」と混同しているように見えますし、横山さんが以下のスローガン

>それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

を体現されているとは到底思えません。
忌憚なく言わせて頂ければ、【ていねいに見ていくこと】の重要性を強調し・実践してきたのは、寧ろ僕の方でしょう。

>何故、状況の理解から外れる想定は否定されるのか、その理由こそが求めているところなのに、その追求をそっくり飛び越えて、「否定されるべきだ」という「答え」に直行していることが問題なのだ。蠅に「出口への道順」を示すのではなく、それをすっ飛ばして「外」だけを示しているのすぎないのだ。


お言葉を返すようで恐縮ですが・・・僕の質問

>例えば、マッドサイエンティストが僕の痛みの神経回路と赤色の神経回路を逆繋ぎしてしまったのかもしれません。

赤色の神経回路??―外的対象(の表面)と日光の関係、光反射と我々人間の視覚系との関係、視覚印象と想像表象の差異etc【これらの問題を全てスルーした挙句】赤色の神経回路??などという代物を持ち出されても・・・。

に対するご回答は未だ頂けておりません。


>それのみが、蠅を救う手立てなのだ。

Easier said than done. 【出来ねば無意味】ですし、「私は言語の限界を見極めるのだ!」と強弁しても、実際は【文法的混乱に陥っているだけ】かもしれません。
少なくとも、横山さんの論述から「蠅を救う手立て」を発見することは出来ないでしょう。

不平を唱えることは何故無意味なのか?
不平を唱えるとは問いを発して答えの来るまで待つということだ。しかし、その成立過程において自分自身に答えていないような問いは決して答えられることはない。
問いを発する者と答える者との間には如何なる隔たりもない―克服すべき如何なる隔たりも。それゆえ<問うて待つ>ことは無意味なのだ。―カフカ『日記』

ご参考になれば幸甚です。

補足しますと、

>因みに、永井の思考実験について、僕の興味は「なぜYはYの体をYの体として認識しえたのか」にある。永井はそこで「「ゲームの規則によって泣いたり顔をしかめたりする人だ」という主張の反例となりうる」と言っているが僕はこれが間違いだと思っている。しかし、それを追及するのは、論がそれてしまうのでここでは止めておく。

それを追及するのは、論がそれてしまうのでここでは止めておく? ―しかしながら、こういう所を精査することこそ【哲学すること】なのでは? 既に述べた

ところで、先般の思考実験もそうでしたが、横山さんはご自身の想像を記述するだけで、ご自身が言うところの「言語の限界についての考察とその理解」については何も言っていない―と僕は思います。

ように、件の追及が為されない限り、蠅を救う手立て云々を語る資格はないと思います。

とりあえず、永井氏の思考実験に関する横山さんの分析をお聞かせ願えませんか?
(因みに、僕の分析は半年ほど前にツイート済です。横山さんがお読みになられたかどうかは判りませんが・・・)

話が多岐に渡ってきましたから、少しずつ答えていきますね。

確かに事実的探究と文法的探究を混同しないように示唆されてきましたが、僕の理解と工藤さんの意図はずれてるかもしれません。
「事物の在り方に反する」思考の否定は、どちらに分類されますか。僕は文法的探究であるべきだとおもうのですが、工藤さんは違うんじゃないですか。

こんにちは、工藤です。家を出る前に、もう一つ質問を付け加えさせてください。

>しかし、ここで求めているのが「状況の理解」ではなく「言語の限界についての考察とその理解」なのだとすれば、
>いずれにしても、ここで問題にしたいのは「ゲームの規則と限界」についてであって、「状況の現実的理解」ではないということだ。

(上の発言を読むにつけ、僕の論述を理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)僕の疑問は【ここで「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?】ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

>「事物の在り方に反する」思考の否定は、どちらに分類されますか。僕は文法的探究であるべきだとおもうのですが、工藤さんは違うんじゃないですか。

(上の発言を読むにつけ、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)横山さんは[事物(言葉~概念に回収不可能なもの)]と「事物(言葉~概念)」を混同していますね。例えば、我々が「チョモランマ」と呼ぶ[事物]と「チョモランマ(言葉~概念)」の差異について考えてみてください。既に述べた

当然ながら、我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っているのではありません。経験的探究を積み重ねつつ、[事物]に即した知識(概念)を獲得してきたわけです。

ように、我々は経験的探究を積み重ねながら[事物]に即した知識(概念)を獲得してきた―「発見する」とは何の謂か?―わけですが、これを文法的考察に【短絡させる】のはオカシイと思いますね。

(とりあえず、以下、再録しておきます)

>工藤さんのいう「ナンセンス」は「明らかに偽だ」くらいの意味合いなのですね。だから、「[事物]の在り方に反するナンセンスな文」というのは「アプリオリに偽と判別されるべき有意味文」くらいの意味合いですね。

これも完全な誤解ですね。忌憚なく言わせて頂ければ、僕には横山さんが意図的に誤読しているとしか思えません。全く理解し難い程の誤読です。
(とりあえず、【横山さんが言うところ??の『論考』の枠組】で僕の論述を解釈するのは止めて頂きたいのですが・・・)
当然ながら、我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っているのではありません。経験的探究を積み重ねつつ、[事物]に即した知識(概念)を獲得してきたわけです。
何度でも繰り返しますが、件の文脈におけるナンセンス=[事物]の在り方に反しているが故に不可能、とお考え下さい。そして、既に述べた

①我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である。
②翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
③猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
*上に挙げた文の違いが解りますか?

ように、「Pはあり得る」と「Pは想像し得る」の文法は全く違います。とはいえ、ここでは寧ろ②と③の違いが重要でしょう。
先ず、③は無問題(=ナンセンスではない)ですね。想像上の存在が想像の中で何をしようが、【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】OKですから。
さて、問題は②です。おそらく、これを読む人は【意味内容が不明瞭な文】だと考える筈ですが、それでも幾つかの解釈を与えることは出来るでしょう。以下、例示してみます。
a.ここで言われている『想像出来る』が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【肯定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は[事物]の在り方に反する事柄=ナンセンスを肯定していることになるわけですから、この『想像出来る』も又ナンセンスです。仮に件の文を本気で主張する人がいるとすれば、それは【唯単に彼が[事物]の在り方に関する自らの無知・錯誤を自覚出来ていない】というだけの話です。
b.ここで言われている「想像出来る」が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【明確な否定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は③【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】を含意していることになります。つまり、この場合、猫が空を飛んだり両目から火炎を出したり出来ないことは【承知の上で】そのような【イメージを思い描いている】わけです。従って、b.は③の舌足らずな表現と考えるのが妥当でしょう。
(ここで【想像出来る】という語の異なる二つの文法、即ち「想像出来る=想像表象と戯れる」と『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を混同しないように注意してください)

以上の論述から判断しますと、横山さんはa.に該当すると思われます。

以上の論述を踏まえた上で、以下の質問

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の相互関係はどういったものなのでしょうか?
例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。

②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムはどういったものなのでしょうか?
私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。

③昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか?

④とりあえず、永井氏の思考実験に関する横山さんの分析をお聞かせ願えますでしょうか? 因みに、僕の分析は半年ほど前にツイート済です。横山さんがお読みになられたかどうかは判りませんが・・・。

⑤一連の思考実験において、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?】ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

にお答え頂けますか。

分かりました。順番にお答えしていきます。お待たせしていますが、もう少しお待ちください。


事物の在り方に反する存在の否定は事実的探究という理解でいいですか。それなら、アポステリオリな内容によってそれが事物の在り方に反すると判断されるのですから、それが事物の在り方に反するか否かは、判断材料の内容によって異なることになりますね。つまり、事物の在り方に反する理由は、議論の対象になるという理解でいいですか。

1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。
4については僕もとても興味があるところです。頑張ってお答えします。もう少しお待ちください。
5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>事物の在り方に反する存在の否定は事実的探究という理解でいいですか。それなら、アポステリオリな内容によってそれが事物の在り方に反すると判断されるのですから、それが事物の在り方に反するか否かは、判断材料の内容によって異なることになりますね。つまり、事物の在り方に反する理由は、議論の対象になるという理解でいいですか。

何度でも繰り返しますが・・・既に述べた

>「[事物]の在り方に反する」とは、科学的常識に反するという意味なのでしょうか。

必ずしもそうとは言えません。とはいえ、「水がH2Oではないと【判明することもあり得る】のではないか?」とか「物が何の原因もなしに突然消失することも【あり得る】のではないか? それが【あり得ない】ことを自然科学は【証明した】のか?」といった問いはナンセンスだと思いますが(これについては既に縷言したので割愛させて頂きます)。
当然ながら、(信頼に足るという意味で)十分に確立された自然科学によって発見・開示された知識―[事物]の在り方に即した概念(ex. 医学、分子生物学、神経生理学etc)―を否定する際には、(論拠だけではなく)相応の証拠を提示する必要があります。

ように、或る問いが(信頼に足るという意味で)十分に確立された自然科学によって発見・開示された知識―[事物]の在り方に即した概念(ex. 医学、分子生物学、神経生理学etc)―に対する否定を含んでいる場合、挙証責任は問いを提出する者に帰せられることになります。

>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。

(件の論点について。前回の記事に投稿したコメントを再録しておきます)

>爪先にトゲが刺さっているのが見えて、そのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みの感覚が激しくなるのなら、「爪先が痛い」のだと判断すべきだ。必ずしもトゲが刺さっている場所と自分の脳が神経で繋がっているのを確かめる必要はない。

はい。既に述べた

例えば「私は今左肩が痛い」というような一人称の心理的言明を為す際に、自分の身体や振る舞いを観察する必要はないだろう。この意味で、一人称の心理的言明は自分の身体に関する知識と独立である。

ように、通常は【我々が一人称の心理的言明を為すときに自分の身体や振る舞いを観察することはないし、その必要もない】わけですから。
とはいえ、この【文法的事実】から以下の想定

>だから、同様に電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合、そしてそれが繰り返し起こる場合、「電信柱が痛む」という判断をするのは妥当である。

を導出することは―【件の想定は[事物]の在り方に反している】という理由で―出来ません。繰り返しますが、「私が他人の身体に私が痛みを感じることは可能である」や「痛みを感じ、または見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、『私は痛みを感じる』における『私』という語は或る特定の身体を指示してはいない、ということだけである。その『私』を或る特定の身体の記述で置き換えることは出来ないのだから」といったウィトゲンシュタインの発言は【一人称代名詞の使用に関する文法的注釈】であって、【今現に存在している身体的存在者―つまり固有名で指示されるような事物=人間である我々―に関する形而上学的主張ではない】のです。
(既述の通り)或る人物が突然発狂して「私はこの電信柱に痛みを感じている!」と【思い込んでいる】ケースは【あり得る】でしょうが、「人間(有機体)が電信柱(無機物)に自分の痛みを感じる」という文は明瞭な意味を全く持っていない―②[事物]の在り方に反しているが故に無意味である―ように思われます。
何度でも繰り返しますが・・・①文法的混乱に由来するナンセンス(ex. 私は君の痛みを感じるetc)と②[事物]の在り方に反しているという意味でのナンセンス―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」といった主張のことですが―は全く別物です。

(件の論点について。前回の記事に投稿したコメントを再録しておきます)

>また、「思考実験が成立不可能」は「思考実験を考えること自体が不可能或いは無意義だ」と言っているのではなく、「思考実験の内容は偽にしかならない」と言うような意味合いですね。だから、「事物の在り方に即して考える限り、この思考実験は成立不可能」は「この思考実験の内容はアプリオリに偽だ」を、意味するものなのではないですか。
そうだとすると納得できるのですが、いかがでしょうか。


前回の投稿

(ここで【想像出来る】という語の異なる二つの文法、即ち「想像出来る=想像表象と戯れる」と『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を混同しないように注意してください)

を再読してください。

>誤読にお叱りを受けるでしょうが、僕は「事物の在り方に即して考える限りこの思考実験は成立不可能」は「アポステリオリな何らかの理由においてこの思考実験そのものを考えることが不可能或いは無意義」と読んでいました。

オカシイですね。この思考実験そのものを考えることが不可能或いは無意義??―【①思考不可能性(ex. 四角い円、生起したことが生起しなかったこと-は-可能だetc)】と【②思考内容が[事物]の在り方に反しているが故に無意義(=ナンセンス)であること】は全く違います。従って、以下のご返答??

>そのような意図でしたので、つまり、思考実験の内容が真か偽かではなく、思考実験そのものが考えられるか考えられないかについて、考えていましたので、
それが真であるためにはどのような原因のメカニズムが考えられるかという点は重要ではないと、僕が考えたのも理解していただけるでしょうか。

は抑も回答の体を成していないわけです。何度でも繰り返しますが、抑も机上の問題「思考実験そのものが【考えられるか考えられないか】」は幾何学的(ex. 四角い円)或は論理的(ex. 生起したことが生起しなかったこと-は-不可能である)不可能性に関する問いではなく、【件の】思考実験で語られている【事様】は【あり得るか否か】という問題だった筈です。既に述べた

事柄([事物]の在り方)に即して考える限り、【件の思考実験は成立不可能】と言わざるを得ません。

ように、【或る思考が成立し得るか否か】とはそういうことに他なりません。
(ここで僕が前回の投稿で論じたa.とb.の違いについて考えてみてください)
ですから、以下のご回答??

>そうなると、かの思考実験の状況を語彙立てて表現し直すのは必要なくなるのかもしれませんが、取り敢えず、お答えしたいと思います。

も先のご返答??と同様に回答の体を成していないわけです。

>工藤さんのナンセンスが何を指しているのか、なぜ現象のメカニズムが不明のままではダメなのか、なぜ僕の言う「有意味・無意味・ナンセンス」の言葉使いに問題を当てはめて考えてはダメなのか。
答えろと言われても、もうかなり頑張って答えましたと言うしかないです。

なぜ【①現象のメカニズム】が【②不明のままではダメなのか】??―何度でも繰り返しますが・・・件の浅薄で胡乱な主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異のみに依拠して提出されています。既に述べた

「なぜそんなことが起こるか【②原因がわからない】なら【①そんなことは起こらない・・・なんてことはない】ので」―もうお解り?だと思いますが、件の浅薄で胡乱な主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異のみに依拠して提出されています。
以前お話した永井均氏の主張「①物が当然なくなることがあり得ないということは②いつ誰が証明したのか?」と構造が同じですよね。言うまでもないことですが、「なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはない」から【そういうことが起こる】を導出することは出来ません(況してや【そういうことが起こる】という文を真にする[出来事]を導出することなど不可能です)。
問題は【件の思考実験において】②それが生じた原因を特定し得るか否か(認識論的様相)ではなく①抑もそのような事柄―精確に言えば、それを形づくっている事象連関―が成立し得るか否か(形而上学的様相)なのです。

ように、問題は【件の思考実験】で主張されている事柄を形づくっているメカニズム(=事象連関の内実)が【①成立し得る(形而上学的様相)か否か】であって、件のメカニズムを【②我々が実際に発見・特定したかしないか(認識論的様相)】ではないのです。

(先述した通り)僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言していた筈ですし、これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方は『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても
を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。

お解り頂けたでしょうか?

以上の論述を踏まえた上で、以下の質問

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の相互関係はどういったものなのでしょうか?
例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。

②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムはどういったものなのでしょうか?
私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。

③昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか?

④とりあえず、永井氏の思考実験に関する横山さんの分析をお聞かせ願えますでしょうか? 因みに、僕の分析は半年ほど前にツイート済です。横山さんがお読みになられたかどうかは判りませんが・・・。

⑤一連の思考実験において、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?、ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

にお答え頂けますか。

どうしても「理解出来ない」ということであれば、①②③はスルーして頂いて構いません。とはいえ、これらの質問に対する応接は、不明瞭で胡乱な想像と真率な文法的探究の差異を顕にしてしまうようです。

>既に述べたように、或る問いが(信頼に足るという意味で)十分に確立された自然科学によって発見・開示された知識―[事物]の在り方に即した概念(ex. 医学、分子生物学、神経生理学etc)―に対する否定を含んでいる場合、挙証責任は問いを提出する者に帰せられることになります。

という工藤さんのお答えから察するに、「事物の在り方に反する存在の否定は事実的探究であって、事物の在り方に反する理由は、議論の対象になる」という理解でいいですよね。

ならば、「事物の在り方に反するか否か」は科学的仮説とその検証によって、実証的に判断されるべき問題であって、哲学が頼るべき拠り所ではないのではないでしょうか。

つまり、事物の在り方に反していることによって、或る思考実験が不可能であることを判断するのは、科学の仕事であって哲学の仕事ではないんじゃないでしょうか。

>ならば、「事物の在り方に反するか否か」は科学的仮説とその検証によって、実証的に判断されるべき問題であって、哲学が頼るべき拠り所ではないのではないでしょうか。

哲学者の目の前には-略-問題を科学と同じ遣り方で問答しようとする誘惑に抗し難いのである-略-ここで私は言いたい。それが何であれ、何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは、断じて我々の仕事ではない、と。哲学は事実として、純粋に記述的【である】のだ。―ウィトゲンシュタイン

哲学は全てを専ら提示するのであり、何も説明せず・推論しない。汎ゆる事が公然とそこにあるから、説明すべき事は何もないのである。抑も我々は隠れているものに関心を持たない。人は又、およそ新発見や新発明のなされる【前に】可能であるものを「哲学」と呼ぶことが出来よう。―ウィトゲンシュタイン

否。何故ならば、哲学の課題は、新しい理想的言語を作り出すことではなく、我々の言語、既にある言語の使い方を明らかにすることにあるのだから。哲学の目的は、あれこれの特殊な誤解を取り除くことであって、本当の理解をはじめて提供するといったようなことではないのだ。―ウィトゲンシュタイン

不平を唱えることは何故無意味なのか?
不平を唱えるとは問いを発して答えの来るまで待つということだ。しかし、その成立過程において自分自身に答えていないような問いは決して答えられることはない。
問いを発する者と答える者との間には如何なる隔たりもない―克服すべき如何なる隔たりも。それゆえ<問うて待つ>ことは無意味なのだ。―カフカ

ご参考になれば幸甚です。

>つまり、事物の在り方に反していることによって、或る思考実験が不可能であることを判断するのは、科学の仕事であって哲学の仕事ではないんじゃないでしょうか。

(上の発言を読むにつけ、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)既に述べた

個人的な印象ですが、(横山さんに限らず)ウィトゲンシュタインの後期哲学に触れた人の多くは【ウィトゲンシュタインの哲学的営為における思考実験の目的と意義】を誤解しているように見えます。手段としての思考実験に拘泥した挙句、本来の目的は完全に見失われている―とでも言いましょうか。
「私が他人の身体に痛みを感じることは可能である」―これは【文法的注釈】として受け取られるべき「挿画」に過ぎないのです。重要なのは「挿画」ではなく、それが【示すもの】なのですから。
哲学は文法的探究―我々の概念構成の在り方を示すこと―であり、思考実験はその為の方便(の一つ)に過ぎません。

ように、或る思考実験の内実を明晰化することによって我々の概念構成の在り方を示すことは【哲学の領分】では(様々な不可能性の内実を明晰化することも又然り)。

(件の論点について。以下、再録しておきます)

>1と2と3のご質問については、すでに回答した、「回答の体をなしていない」と評されたものが、僕の理解の精一杯です。それ以上については求められましても、現段階でご質問の意味が分かりません。問い方をかえて説明してください。

(上のご発言を読む限り、これまで僕が論じてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)オカシイですね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんは前回の記事

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

で【先般の思考実験について真偽を問うことが出来る】と明言されていた筈ですが・・・。
従って、どうして以下の如き質問

>5については「有意味性」という言葉の捉え方が僕と工藤さんで違うと思うので、言い方をかえて確かめさせてください。「状況の有意味性」というのは「状況の実体のメカニズムについての理解」というような意味だと考えていいですか。

が出てくるのか、僕には理解し難いわけです。
これまで横山さんがお書きになったものから判断する限り、(先般の思考実験における)横山さんの問い方が『Pはあり得る(形而上学的様相)』に対する肯定を含んでいたと思います。繰り返しますが、そうであるからこそ、以下の如き主張

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、

が為されたわけでしょう。
ここで(先日ご紹介した)しんいさんのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?no=685
と『論考』の意味論に依拠した?横山さんの問い方を比べてみると、お二人の問い方とその違いが明瞭になるかもしれませんね。例えば、(詳細は先に貼付したURLをお読みください)僕としんいさんの遣り取り


こんばんは、工藤です。先程拝読しました。それではコメントをいくつか。

>“正しい―誤っている”という性急な答えを出すのではなく、それを検討するうえで出てくるであろう副産物にも「面白い」ものが出てくるのではと思ってしまいました。 工藤さまからすると、知的誠実さに欠ける態度なのかもしれませんが。

いいえ、そんなことはないと思いますよ。何故なら、しんい様は以下の事柄

>“身体に属さない痛み・身体を欠いた意志的運動・身体から発せられるのではない声”という概念が、仮に虚構にしか過ぎないにしても

を弁えていらっしゃいますし、永井均氏のような【論証抜きの形而上学的主張】―「存在し得る」とすら言えない<何か>が「存在する」と主張すること―をしているわけでもありませんから。
とはいえ、ここで真に重要な事は、「特定の身体及びその身体の体験と連関を有すること」が記憶という概念の本質(成立条件)を成しているように、「特定の身体に属していること」は痛み・意志的運動・声といった概念の本質(成立条件)を成している―ということなのです。従って、そのことを

>それも一面真理だと思います。最初のころおっしゃられた記憶もまたそうですよね。

「一面真理」と言うことは【出来ない】―件の概念が自壊してしまうという意味で―のです。


が示すように、しんいさん(と僕)の問い方は「思考実験で語られている状況が『あり得る』かどうかはともかく、想像されたような状況下で【我々の言語使用はどういうものになる】だろうか?」というものでした。これは【語の適用とその変化についての問い】であって、横山さんの問い方

>さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。
>だから、これらの思考実験で問題にすべきことは、明らかに事物の在り方に反していると思われるときに、それを理由にして否定してしまうことではなく、それを「あり得る」と無理やりにでも仮定した場合に、具体的にどのようなパラダイムシフトが必要になるのか、どのようにして言語が限界づけられ、言語の限界が乗り越えられてしまうのかを、ていねいに見ていくことだと思う。

とは全く別物なのです。

お解り頂けたでしょうか?

以上の論述を踏まえた上で、(①②③は保留しておきましょう)次の質問

④とりあえず、永井氏の思考実験に関する横山さんの分析をお聞かせ願えますでしょうか? 因みに、僕の分析は半年ほど前にツイート済です。横山さんがお読みになられたかどうかは判りませんが・・・。

⑤一連の思考実験において、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」を峻別することは出来るのか?、ということ。
別の言い方をすれば、「状況の理解」―精確に言い直せば、件の思考実験で語られている状況の有意味性―と独立・無関係?な「言語の限界についての考察とその理解」或は「ゲームの規則と限界」とは如何なるものか?、ということですね。

にお答え頂けますか。

新しく「「誤診」の思考実験がダメだけどダメじゃないわけ」
のページをアップしました。

4と5の回答になっていたら良いのですが。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html

こんばんは、工藤です。今から拝読致します。コメントは後ほど。

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