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« 決定論とデイヴィドソンの行為者因果性<心は実在するか7> | トップページ | 思考実験に対する状況の解釈と言語の限界についての考察 »

2013年6月16日 (日)

第22回大阪哲学道場7/21レジュメ

↓は、7/21(日)大阪哲学道場の参考テキストです。

できれば、「探究」を読んできてもらいたいのですが、なかなか読みにくい本ですから、平凡社黒田亘著「ウィトゲンシュタインセレクション」の3・4章でも十分OKです。それもしんどいという方は、下記からテキストをダウンロードして事前に読んでもらえれば助かります。当日同じものを配布しますし、すぐに読める内容ですから、それも必須ではありません。

第22回大哲テキスト 「後期ウィトゲンシュタイン・私的言語は意味を持ちえるか」

また当日の会で、参加者に以下の3つの質問をしたいと思っています。

①語の意味を決定させるには、どうすればいいか。

②足し算の答えは無限に確定しているか。

③私的言語は意味を持ち得るか

できれば、それぞれに意見をもらえればうれしいです。

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コメント

ご無沙汰しております。今し方拝読致しました。コメントをいくつか。

先ず、私的言語の可能性に関する永井均氏の論述について。
(詳しくは以下の拙論
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323256024
を読んで頂きたいのですが)永井均氏は『私・今・そして神』第3章で、公共的言語と客観的言語の区別を提示しつつ、私的言語相互のカテゴリー的連関の把握こそが客観的言語成立の要件であると論じています。とはいえ、そこで展開されているのは【既に公共的言語を習得した持続的個人(つまり我々)が突然生じてきた複数の新たな内的感覚に私的命名を行うという思考実験】に過ぎないし、件の私的言語の可能性が「私的言語の力によって【はじめて】おのれを持続的主体として客観的世界の内部に位置づけ(『私・今・そして神』197頁)」ることを含意していないのは明らかでしょう。
事柄に即して考える限り、氏の言う客観的言語は不可能と言わざるを得ません。
因みに、永井均『私・今・そして神』第3章の思考実験【しくい】の元ネタは、クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』とシューメイカー『自己知と自己同一性』でしょうね。
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346048810348322816
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049119250415616
つまり、公共言語が成立して【はじめて】私的言語の可能性が担保されるわけです。

次に、「言語成立の条件としての私的言語」という考えについて。
(永井均氏の見解に反して)寧ろ、このように言うべきではないでしょうか。
言語習得と相互的な私秘性の成立が不可分かつ同時的であることは、三角測量を巡るデイヴィッドソンの議論、或は「既に言語を習得した人物は彼専用の新語を創案して使用することが出来る」ということを我々が承認しているという事実に【示されている】と。

まだまだ書き足りないこともありますが、今日はこの辺で。

工藤さん、こんばんは。コメントありがとうございます。
7月の大哲の発表のためのテキスト抜粋を読んでもらって、それにコメントをつけていただけると、もう「プレ発表」してるようで、とても嬉しいですし、助かります。
そこで、できれば質問させてもらいたいのです。実際の発表でも道場の皆さんに聞きたいと考えていることです。よろしくおつきあいください。
質問1「語の意味BedeutungとSinnは確定し得るか」
質問2「他者の痛みを感じることはできるか」
質問3「私的言語は意味を持ち得るか」
の3問です。それぞれ、「a,できる」「b,できない」「c,何れの立場にでもなり得る」「d,どちらでもない」「e,分からない」の5択で、出来れば解説もしてもらえると嬉しいです。無理な注文付けでごめんなさい。
>「言語習得と相互的な私秘性の成立が不可分かつ同時的であることは…デイヴィドソンの議論などを我々が承認しているという事実に示されている。」
という発言からは、僕には、私的言語の私秘性を認めておられるようにも、断罪しているようにも読めてしまってはっきり分かりません。よろしくお願いします。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>「言語習得と相互的な私秘性の成立が不可分かつ同時的であることは…デイヴィドソンの議論などを我々が承認しているという事実に示されている。」
という発言からは、僕には、私的言語の私秘性を認めておられるようにも、断罪しているようにも読めてしまってはっきり分かりません。よろしくお願いします。

既述の通り、【件の意味での】私的言語―既に公共言語を習得した人物は彼専用の新語を創案して使用することが出来る―は問題なく可能ですし、現に我々は相互的な私秘性という概念を適用しています。
翻って、ウィトゲンシュタインが不可能と考えた私的言語は【永井均氏の言う客観的言語】―その力によって【はじめて】おのれを持続的主体として客観的世界の内部に位置付けるような私的言語―でしょう。

とりあえず、永井氏のネタ元
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/343715512422903809
を参照してみてください。

質問1「語の意味BedeutungとSinnは確定し得るか」
後期ウィトは件のフレーゲ的区別が我々の言語使用に対する的外れな(誤った)単純化に他ならないことを示した、とは言えないでしょうか。

質問2「他者の痛みを感じることはできるか」
文法的に不可能。
では、シャム双生児のケースはどうか?―当人たちが【決めれば】よいのでは。
(権利問題と事実問題を混同する勿れ)

質問3「私的言語は意味を持ち得るか」
我々は「既に公共言語を習得した人物は彼専用の新語を創案して使用することが出来る」ということを承認しているのではないでしょうか。そうであるならば、【件の意味での】私的言語は文句なく有意味です。

工藤さん、回答ありがとうございます。
1と2の問いではL.W.に賛同し、3の問いでは一部反対という感じですね。
3については、「(あ)すでに公共言語を習得した人は彼専用の新語を創案して使用することができるので私的言語は有意味と言える。(い)しかし、己を主体として世界内部に位置付けるような言語が私的であることはできず、この意味での私的言語は無意味である」という理解でいいでしょうか。

大哲の発表では、L.W.に賛成されても反対されても、僕はその論敵になって論を深めるような会にしたいと思っています。そこでここでも、論に反対して戦う練習をさせてもらってもいいですか。

(あ)についてL.W.の立場から、「公共言語を習得した人であっても彼だけのための新語を創案するというのは、その語を使うたびに新たにその語を定義しなおさねばならないことであって、結局その語の同一性は担保されず、そのたびに新たな新語を作り出している儀式をしているのに過ぎない」ということを「探究」で説いていますが、私的言語が有意味なのだったらその同一性はどう担保されるのでしょうか。

(い)について永井の立場から、「私が感じているのは『痛み』か『くすぐったさ』かを決定しうる権威を持つのは私であって共同体ではない」と捉えるとすると、私的言語の使い手として私に特権があるもは疑いえないのではないでしょうか。

真逆の2つの反論ですが、どちらも間違っていますか。よろしくお願いします。

こんにちは、工藤です。では、ご質問について。

>(い)について永井の立場から、「私が感じているのは『痛み』か『くすぐったさ』かを決定しうる権威を持つのは私であって共同体ではない」と捉えるとすると、私的言語の使い手として私に特権があるもは疑いえないのではないでしょうか。

当に件の特権性こそが(あ)の正しさを証明しています。繰り返しますが、我々は「既に公共言語を習得した人物は彼専用の新語を創案して使用することが出来る」ということを承認している、わけですから。そして(既述の通り)このこと―既に公共言語を習得した我々は相互的な私秘性を承認している―は(い)に対する反論にはなり得ません。

>(あ)についてL.W.の立場から、「公共言語を習得した人であっても彼だけのための新語を創案するというのは、その語を使うたびに新たにその語を定義しなおさねばならないことであって、結局その語の同一性は担保されず、そのたびに新たな新語を作り出している儀式をしているのに過ぎない」ということを「探究」で説いていますが

クリプキの所見によれば―僕はそれを正しいと考えるわけですが―ウィトゲンシュタインは【永井均氏が主張しているような客観的言語】を否定する為に【件の問題なく可能な私的言語】を事例として用いるという誤りを犯した、と。従って、

>私的言語が有意味なのだったらその同一性はどう担保されるのでしょうか

ここで同一性の担保が疑問視されているのは【永井均氏が主張しているような客観的言語】ということになります。

この論点については以下のツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049351820386305
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049537909080065
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049626715090944
も併せてお読みください。

ご参考になれば幸甚です。

工藤さん、早い回答で感激です。ありがとうございます。
再反論させてもらいます。よろしくお願いします。2つの立場で全然一貫性のない反論になりますが、笑わないでください。

反論3、(い)己を主体として世界内部に位置付けるような言語が私的であることはできず、この意味での私的言語は無意味である。…とする論に反対します。
世界を言語化するにはその対象を自分なりに知覚していないと本当に理解したとは言えません。それゆえ、世界を有意味に理解するためには私が私なりに知覚する内容を有意味だとし、私が私なりに理解する言語を有意味だとすることが必要なのではないでしょうか。だから、世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思われます。

反論4、
>>クリプキの所見によれば―僕はそれを正しいと考えるわけですが―ウィトゲンシュタインは【永井均氏が主張しているような客観的言語】を否定する為に【件の問題なく可能な私的言語】を事例として用いるという誤りを犯した、と。
>>ここで同一性の担保が疑問視されているのは【永井均氏が主張しているような客観的言語】ということになります。
…について反対します。
工藤さんの回答は、要約すれば、「新語を創設するための同一性の問題は、公共的言語についての問題ではなく、客観的言語の問題であるので、それ以外の私的言語については同一性は問題にならない」とおっしゃっているように解釈しました。しかしこの回答では、客観的言語の問題という新たな問題のフレームを設定しそこに問題を押し込もうとしているだけで、もともとの「私的言語はどう同一性が担保され得るのか」に答えられているとは思えません。
それとも、ここで問題にされている「公共言語を習得した人が創案し得る彼専用の新語」というのは、
―入江幸男が「ウィトゲンシュタインが私的言語というのは、公共的に通用している言語ではなくて、ある人が新しく作った言語であり、独自の文法や語彙を持つものである。それに対して、個人言語というのは、ある人が全く一人で日本語で日記を書いているときのような言語である。ウィトゲンシュタインは、私的言語を不可能であると考えているが、個人言語は可能であると考えている。」と言うときの―
「個人言語」なのではないでしょうか。
そうであるなら、先の回答は理解できますが、「私的言語」の意味が共有できてなかったことになりますね。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、ご質問について。

>世界を言語化するにはその対象を自分なりに知覚していないと本当に理解したとは言えません。それゆえ、世界を有意味に理解するためには私が私なりに知覚する内容を有意味だとし、私が私なりに理解する言語を有意味だとすることが必要なのではないでしょうか。だから、世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思われます。

繰り返しますが、上で言われているのは【相互的な私秘性】です。
(既に述べたように)三角測量を巡るデイヴィッドソンの議論、或はクリプキ『ウィトゲンシュタインと他人の心』は、以下の事柄
①主体「この私~他の・各々の私・我々」概念と自己意識の不可分性
②主体概念~自己意識の内発的生成―例えば【或る赤ん坊が一切の言語的交流なしに独力で私的言語?をつくり出す】等―の不可能性
③公共言語の習得と相互的な私秘性の成立は不可分かつ同時的であること
を極めて説得的に論証していると思います。
この論点については以下のツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/342563821912727553
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/342563981325656064
も併せてお読みください。

>しかしこの回答では、客観的言語の問題という新たな問題のフレームを設定しそこに問題を押し込もうとしているだけで、もともとの「私的言語はどう同一性が担保され得るのか」に答えられているとは思えません。

前回の投稿に添付したツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049351820386305
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049537909080065
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049626715090944
を再読して頂ければ、件の問いがナンセンスであることはお解り頂けると思うのですが。
付言しますと、ここで二つの―共にナンセンスな―問い「公共言語に属する語『痛い』『寒い』『苦い』etcの同一性は如何にして担保されるのか?」「今の私と昨日の私・一時間前の私・一分前の私・一秒前の私etcが同じ私であることは如何にして担保されるのか?」を比べてみるのも有益かもしれません。

>それとも、ここで問題にされている「公共言語を習得した人が創案し得る彼専用の新語」というのは、
―入江幸男が「ウィトゲンシュタインが私的言語というのは、公共的に通用している言語ではなくて、ある人が新しく作った言語であり、独自の文法や語彙を持つものである。それに対して、個人言語というのは、ある人が全く一人で日本語で日記を書いているときのような言語である。ウィトゲンシュタインは、私的言語を不可能であると考えているが、個人言語は可能であると考えている。」と言うときの―
「個人言語」なのではないでしょうか。

入江氏の分類は色々な意味で不精確だと思いますが・・・(既述の通り)ポイントは、a.問題なく可能な私的言語(或る個人が専ら自分独りが使用する為に創案した言葉なのだが、その使用法を彼が教えてくれれば我々にも理解出来るような言葉)とb.不可能な私的言語(永井均氏の言う【客観的言語】のようなもの)の差異を精確に理解すること、でしょうね。

ご参考になれば幸甚です。

工藤さん、ていねいな回答ありがとうございます。
おかげで、この問題に対して、いくつかの論の組み立てができてきました。

(あ)「すでに公共言語を習得した人は彼専用の新語を創案して使用することができるので私的言語は有意味と言える。」という認識に対して、その同一性はどう担保されるのかという疑問を上げてきました。
ここで、この認識が、「a.問題なく可能な私的言語」を私的言語の一部としてそれが可能であるとしてきたことによるものであることが分かりました。
しかし、この「問題なく可能な私的言語」なるものは、以下の「探究」の私的言語の定義づけにより、ここでは私的言語の範疇から外したいと思います。

私的言語とは 「誰かが自分だけの内的体験――自分の感じ、気分などを――自分だけの用途のために書き付けたり口に出したりできるような言語を考えることができるだろうか。――さて、我々は自分たちのふつうの言語でできないのか?〔もちろんできる。〕――だが、私の考えていることはそういうことではない。そのような言語に含まれる言葉はそれを話している者だけが知り得ること、つまり直接的で私的なその者の感覚を指し示すはずなのである。それゆえ他人はこの言語を理解することができない」(探究243)

よって、この言葉づかいによると「私的言語は無意味である」に落ち着くことになります。だから、(あ)に関する反論はなくなります。

次に、(い)に対する反論ですが、「世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思わる」という論点でもよく分からないところがありますが、この点での反論はここまでにして、あとは自分で、さらに勉強して理解していきたいと思います。

もう一つお礼を言って終わらせる前に質問させてもらいたいのですが、よろしいでしょうか。
以下のエイヤーの指摘する論点についてどう反論されますか。

A.J.エイヤー 「ウィトゲンシュタインは、列車の発車時刻の記憶を確かめるのに、時刻表の記憶を思い浮かべるだけでなく実際の時刻表と見比べて確かめねばならないとしている。しかし、もし自分の感覚が信用できないのであれば、時刻表と見比べたとしても依然として記憶を確証することはできない。他人に問い合わせることもできるだろうが、その場合も他人の返事を正しく同定させられなければならない。私が強調したいのは、この確認作業には終わりがないからこそ、どこかの段階で終止符を打たなければ系列全体が無意味になってしまうということである。そして、このことは、あらゆる同定が結局は感覚に依存していることを示している。私が同定すべきものは何であれ、つまり、対象、出来事、イメージ、記号のいずれであれ、私が頼れるのは自分の記憶と現在の感覚だけである。記憶と感覚が相互に確認される程度に違いがあるだけなのである」(「ウィトゲンシュタイン」邦訳p.126)

つまり、こうです。
反論5、私的言語において語を同定しようとするのも、言語ゲームにおいて語を同定しようとするのも、或いは三角測量において語を同定しようとするのも結局は「私の感覚」に依存する以外ないのであるから、言語ゲームも三角測量も私的言語も五十歩百歩であろう。言語ゲームや三角測量で語の意味が同定できるとするなら私的言語における語の同定も有意味とすべきである―ということです。
この論はどこまで本当だと思われますか。よろしくお願いします。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>そのような言語に含まれる言葉はそれを話している者だけが知り得ること、つまり直接的で私的なその者の感覚を指し示すはずなのである。それゆえ他人はこの言語を理解することができない

(既に述べたように)これはウィトゲンシュタインが不可能と考えた私的言語=永井均氏の言う【客観的言語】―例えば【或る赤ん坊が一切の言語的交流なしに独力で私的言語?をつくり出す】等―ですね。

>(い)に対する反論ですが、「世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思わる」という論点でもよく分からないところがありますが

"僕"なら「[工藤庄平なる身体から開けた生~言語]は指示・伝達・並列不可能である」と発語するでしょう。とはいえ、我々が伝達し合えるのは[工藤庄平なる身体から開けた生~言語]は指示・伝達・並列不可能である【という文字や発語】に過ぎないわけですが。*これは文法的注釈です

>このことは、あらゆる同定が結局は感覚に依存していることを示している。私が同定すべきものは何であれ、つまり、対象、出来事、イメージ、記号のいずれであれ、私が頼れるのは自分の記憶と現在の感覚だけである。記憶と感覚が相互に確認される程度に違いがあるだけなのである

「我々の言語的な営みは【五感の恒常性や記憶の安定性といった自然的基盤に支えられて】成立している」という指摘は正しいのですが、そこから短絡的な主張を引き出してくるのは感心しません。「痛み」は[痛み]ではありませんし、意味の故郷は言語ゲームなのですから。

工藤さん、こんにちは。
論戦のお相手をしてくださる方がいるというのは有難いことですね。相手の方から新たな情報や視点を貰える以上に、自分自身で考えるときにも新たな視点が膨らんでいきます。感謝いたしております。

でも、
昨日の反論5に対するお答えは、「短絡的主張」という抽象的な印象評価と、「意味の故郷は言語ゲームだから」という論点先取による言い切りでしかなく、やや説得力に欠けたような印象を受けました。でも、これは、僕の質問が話を性急に進めたせいだろうと思います。
そこで、反論5に補足をして、再度、質問させてもらいたいと思います。よろしければもう一度お答えください。

反論5補足、「しくい」としか言いようのない感覚が起こった。この私的言語「しくい」は有意味であるかを考える。いろいろ調べてみて、しくいときには血圧が上がることが分かったとする。そこで、「血圧が上がっている」状態を「しくい」と呼ぶと定義しなおしてしまうことにする。これなら公共的な確かめができるので、もはや私的言語ではない。ところで、「しくい」を同定するために、「血圧上昇」という情報を用いている。ところが「この「血圧上昇」は突き詰めれば私の私的感覚によって同定される。だから、「しくい」という私的感覚を同定するために、「血圧上昇」という私的感覚を用いることになっていると言える。それならば、そんな面倒な手続きを踏まないでも、最初から「しくい」という私的感覚だけでも十分なのではないか。確かに血圧上昇という証拠があればその言明の確かさは高まるだろうが、それも結局、五十歩百歩の確かさである。血圧上昇によって確かめられた「しくい」が有意味だというのであれば、私的感覚のみによって確認された「しくい」も有意味だとすべきである。
よって、私的言語「しくい」は有意味である。

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>昨日の反論5に対するお答えは、「短絡的主張」という抽象的な印象評価と、「意味の故郷は言語ゲームだから」という論点先取による言い切りでしかなく、やや説得力に欠けたような印象を受けました。

これは単純に読解力の問題ではないかと。そして、既に先人が示したことを繰り返し述べるのは僕の本意ではありません。
後期ウィトゲンシュタイン、クリプキ、デイヴィッドソン、そして僕の論述を精確に理解出来れば、件の問いがナンセンスであることはお解り頂けると思うのですが。
率直に言って、以下の反論??

>それならば、そんな面倒な手続きを踏まないでも、最初から「しくい」という私的感覚だけでも十分なのではないか。確かに血圧上昇という証拠があればその言明の確かさは高まるだろうが、それも結局、五十歩百歩の確かさである。血圧上昇によって確かめられた「しくい」が有意味だというのであれば、私的感覚のみによって確認された「しくい」も有意味だとすべきである。
よって、私的言語「しくい」は有意味である。

を読む限り、横山さんが問題の核心を捉え損なっていると見做さざるを得ないのです。
先ず、僕は「しくい」がb.不可能な私的言語であると主張したことは一度もありません。というより寧ろ、全く逆の話をしてきた筈ですが・・・
僕が前々回の投稿に添付したツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049351820386305
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049537909080065
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049626715090944
を再々読してみてください。
繰り返しますが、【永井均氏の思考実験に登場する「しくい」はa.問題なく可能な私的言語に過ぎないし、「しくい」が成立し得ることはb.永井均氏の言う客観的言語―例えば、或る赤ん坊が一切の言語的交流なしに独力でつくり出す私的言語?etc―の可能性を含意・担保しない】というのが僕の見解だったわけですから、先の反論??は(横山さんの主張に反して)実際には同意でしかなかった、ということになりますね。

(既述の通り)ここで重要なのは、a.問題なく可能な私的言語(或る個人が専ら自分独りが使用する為に創案した言葉なのだが、その使用法を彼が教えてくれれば我々にも理解出来るような言葉)とb.不可能な私的言語(永井均氏の言う【客観的言語】のようなもの)の差異を精確に理解すること、でしょう。

補足しますと、既述の通り、エイヤーの主張はb.不可能な私的言語を巡る永井均氏の論述とは独立・無関係ですし、b.不可能な私的言語の成立可能性を含意・担保するものでもありません。
我々の言語的な営みが【五感の恒常性や記憶の安定性といった自然的基盤の上に】成立していることは強調されて然るべきだとは思いますが。

工藤さん、
分からないから教えてほしいという一面はもちろんないことはないですが、様々な論の組み立てをていねいに考えてみたいというのが、質問反論の、僕の意図です。ですので、今回の論議においても僕の立場がコロコロと変わっています。そのために、誤解させてしまったかもしれません。

まず、僕は「私的言語」はL.W.の言葉づかいのまま、原理的に他者に理解不可能なことばを指したいと考えています。ですので、「a.問題なく可能な私的言語」にはあまり興味がありません。反論5で「しくい」を用いたのは不用意だったかもしれませんが、単純に他者に対して理解不可能な「私的言語」として論を立てているつもりで言っています。それに対して、それが私的言語ではないというとおっしゃるところが僕の興味ですが、肝心のその部分は、「a.問題なく可能な私的言語」なのだから、「a.問題なく可能な私的言語」なのだという論立てにしかなっていないようなので、やや残念に思っています。
でも、おおよそのところで、おっしゃっていることは理解できたと思います。(80%くらいかな)
おかげさまで、発表するときの論戦の良い練習ができました。

どうもありがとうございました。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>肝心のその部分は、「a.問題なく可能な私的言語」なのだから、「a.問題なく可能な私的言語」なのだという論立てにしかなっていないようなので、やや残念に思っています。

(既述の通り)「しくい」がa.問題なく可能な私的言語であるということは【件の思考実験で描出されている状況を我々が理解し得ることに示されている】というのが僕の見解だったわけですが。

>僕は「私的言語」はL.W.の言葉づかいのまま、原理的に他者に理解不可能なことばを指したいと考えています。ですので、「a.問題なく可能な私的言語」にはあまり興味がありません。反論5で「しくい」を用いたのは不用意だったかもしれませんが、単純に他者に対して理解不可能な「私的言語」として論を立てているつもりで言っています。それに対して、それが私的言語ではないというとおっしゃるところが僕の興味です

「それが私的言語ではない」というより、僕は【抑もそれは言語と呼べるような代物ではない】と考えています(おそらくウィトゲンシュタインも)。
この論点については以下のツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/347341231258484736
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/347341301714391040
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/347342794513342465
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/347342874452574210
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/347343881874059264
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/347343926358843392
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/347344323035164672
をお読みください。
先ず、[痛み]は「痛み(言語~概念)」ではありません。次に、抑も言語習得以前の赤ん坊が[痛み]に私的名前を付けること【によって】自分自身に対して「今自分が痛みを感じていること」を伝えるなどということがあり得るのか、ということですね。

我々が伝達し合えるのは[痛み]とか「痛み(言語~概念)」【という文字や発語】だけなのですから。*この文を読む人が自得する他ないのですが

ご参考になれば幸甚です。

工藤さん、こんばんは。
僕は、円滑なコミュニケーションが苦手で、ついつい言いすぎてしまったり言い足りなかったりしてトラブルになってしまいます。一昨日もバス停でたばこを吸っていた青年に文句を言ってケンカになりかけてしまいました。ここのコメントのやり取りでも、言葉足らずだったり言い過ぎたりしてしまったりしていたり、これからしたりしてしまうかもしれませんが、どうぞ、大きな心で見てやってください。

もし、時間がおありなら、もう少しお付き合いいただければありがたいです。

以下の「確認反論3」と「確認反論5」に対していずれも、その下の「確認①②③」がその否定的回答の論拠になるという理解でいいですよね。

>確認反論3、世界を言語化するにはその対象を自分なりに知覚していないと本当に理解したとは言えません。それゆえ、世界を有意味に理解するためには私が私なりに知覚する内容を有意味だとし、私が私なりに理解する言語を有意味だとすることが必要なのではないでしょうか。だから、世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思われます。
>確認反論5補足、「しくい」という私的感覚を同定するために、「血圧上昇」という私的感覚を用いることになっていると言える。それならば、そんな面倒な手続きを踏まないでも、最初から「しくい」という私的感覚だけでも十分なのではないか。確かに血圧上昇という証拠があればその言明の確かさは高まるだろうが、それも結局、五十歩百歩の確かさである。血圧上昇によって確かめられた「しくい」が有意味だというのであれば、私的感覚のみによって確認された「しくい」も有意味だとすべきである。
よって、私的言語「しくい」は有意味である。

>確認回答
①主体「この私~他の・各々の私・我々」概念と自己意識の不可分性
②主体概念~自己意識の内発的生成―例えば【或る赤ん坊が一切の言語的交流なしに独力で私的言語?をつくり出す】等―の不可能性
③公共言語の習得と相互的な私秘性の成立は不可分かつ同時的であること
を極めて説得的に論証していると思います。

以上確認おわり。

ここまでのところで非常に重要な指摘があったと思います。いくつかのはっきりした否定論拠になっていると思います。ただ、僕は答えを出すことよりも、そのための論立てを考えることに興味を持っています。そこで細かい部分ですが、もう少し考えたいことがあります。
反論5についてですが、よろしくお願いします。


(A)或る天才児が一切の言語的交流なしに独力で私的言語をつくり出せると(無理矢理に仮定)した場合
と、
(B)或る一般成人が公的な言語ゲームの中で公的言語を持ち得る(という一般的事実の)場合
とを考えます。疑問は「(A)の言語が無意味なのであれば、(B)の言語も無意味になるのではないか」です。(B)にしても結局は自分の私的感覚のみをよりどころにしているのだからです。
というところが、反論5のもう一つの問題箇所だと思います。

つまらない疑問でしょうか。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、ご質問について。

>以下の「確認反論3」と「確認反論5」に対していずれも、その下の「確認①②③」がその否定的回答の論拠になるという理解でいいですよね。

【否定的】回答・【否定】論拠と言う表現に引っ掛かりを感じますね。失礼ながら、僕の言わんとしたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いと言わざるを得ません。

>世界を言語化するにはその対象を自分なりに知覚していないと本当に理解したとは言えません。それゆえ、世界を有意味に理解するためには私が私なりに知覚する内容を有意味だとし、私が私なりに理解する言語を有意味だとすることが必要なのではないでしょうか。だから、世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思われます。

既に述べたように、引用した論述が示していることは③公共言語の習得と相互的な私秘性の成立は不可分かつ同時的である に他ならないのですから、これを【否定的】回答・【否定】論拠と言うのはオカシイと思いませんか? 何度でも繰り返しますが、僕が否定しているのは【永井均氏の言う客観的言語=b.抑も言語として存立不可能な代物(哲学者の妄想)】であって、件の私秘性ではありません。

>「しくい」という私的感覚を同定するために、「血圧上昇」という私的感覚を用いることになっていると言える。

これもオカシイですね。「しくい」という私的感覚を【同定するため】に「血圧上昇」という私的感覚を用いることになっている?? 抑も「しくい」の思考実験に血圧上昇感(頭に血が登る感覚でしょうか?)は出てきませんし、しくさ―仮にそのような感覚が存在するとして―と痛みと血圧上昇感は各々独自の感覚でしょう。従って、

>最初から「しくい」という私的感覚だけでも十分

であることは言うまでもありません。あと、もう一つ気になる論述があるのですが・・・

>確かに血圧上昇という証拠があればその言明の確かさは高まるだろうが

オカシイですね。血圧上昇という【証拠】・その言明の【確かさは高まる】という表現と文脈から察するに、ここで語られているのは【第三者も確認し得る血圧測定】ですよね。僕の記憶に間違いがなければ、横山さんはその前々のセンテンスで「血圧上昇」という【私的感覚】を問題にしていた筈ですが・・・。言うまでもなく、血圧上昇感(頭に血が登る感覚でしょうか?)と血圧測定は全く別の事柄です。従って、以下の論述

>血圧上昇によって確かめられた「しくい」が有意味だというのであれば

はナンセンスと言う他ありません。既述の通り、「しくさ」なる私的感覚だけで十分なのですから。
(僕が前々々回の投稿に添付したツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049351820386305
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049537909080065
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049626715090944
を再々々読してみてください)

>よって、私的言語「しくい」は有意味である。

(既に述べたように)「しくい」がa.問題なく可能な私的言語であるということは【件の思考実験で描出されている状況を我々が理解し得ることに示されている】というのが僕の見解だったわけです。

工藤さん、失礼していました。完全に思い込んで勘違いをしていました。工藤さんは、(ウィトゲンシュタイのいう意味での)私的言語は認めないけれど、言語の私秘性は認められるのですね。ついつい自分と同様で、私的言語とともに言語の私秘性も認めない立場なのだと思い込んでいました。
それなら、逆に色々聞きたいことがあります。
質問を重ねて良いでしょうか。

質問6、例えば「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった」などという状況が神の視点から見て分かるということは、あり得るのでしょうか。

>(A)或る天才児が一切の言語的交流なしに独力で私的言語をつくり出せると(無理矢理に仮定)した場合
と、
(B)或る一般成人が公的な言語ゲームの中で公的言語を持ち得る(という一般的事実の)場合
とを考えます。疑問は「(A)の言語が無意味なのであれば、(B)の言語も無意味になるのではないか」です。(B)にしても結局は自分の私的感覚のみをよりどころにしているのだからです。
というところが、反論5のもう一つの問題箇所だと思います。
つまらない疑問でしょうか。

つまらない、ではなく、的外れな問いなのですよ。【現に】(A)の【想定はナンセンス】で(B)の言語が【有意味である】というのが我々の現実です。横山さんが何を思い考えようが、【現に】(B)の言語は無意味ではありません。これが我々の現実です。
(以前僕が話したこと―言葉の意味と歴史性の問題―を覚えていますか?)
何度でも繰り返しますが、我々の言語的な営みが【五感の恒常性や記憶の安定性といった自然的基盤の上に】成立しているという事実は、(A)の不可能性や横山さんの疑問?とは無関係なのです。付言しますと、これまでに件の事実が公共言語を壊滅に追いやったことはないと思います。

ご参考になれば幸甚です。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>(ウィトゲンシュタイのいう意味での)私的言語は認めないけれど

精確には【ウィトゲンシュタインが成立不可能と考えた私的言語なる代物】でしょうね。

>例えば「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった」などという状況が神の視点から見て分かるということは、あり得るのでしょうか。

これも的外れ(=ナンセンス=哲学的)な問いですね・・・とはいえ、問いの意味を明確にして頂けない限り、応えられませんね。

つまらない、ではなく、的外れ、・・・・そのとおりだと思います。分かりやすかったです。しかし、その無意味に思える混乱の中に何かしらの発見ができないか、も少し自分で考えてみます。

僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった・・・・について、例えば、それが、脳内物質の働きを分析してわかる、ということはあり得ますよね。そこには、公的な同一性の基準があるので有意味だと言えると思います。
でも、そんな基準がなかったら、課題文はナンセンスですよね。しかし、言語の私秘性を認めるということは、そこに意味を持ち得させるということではないのでしょうか。

逆転スペクトル、哲学的ゾンビ、水槽の中の脳、悪霊の懐疑etc哲学的似非問題の源泉とも言える①形而上学的様相②認識論的様相③思考可能性の文法的差異については、以下のツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346242156752691200
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/340257673264119808
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/340267137492996096
をお読みください。
①形而上学的様相の自存性と[存在]論的差異―"僕"なら[工藤庄平なる身体から開けた生]の唯独性と発語してみますが―から仮構された哲学的似非問題ですね。

>僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった・・・・について、例えば、それが、脳内物質の働きを分析してわかる、ということはあり得ますよね。

これもオカシイですね。以前、二次元意味論なるペテンに誑かされた人が言っていた話「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)ことも【あり得る】のだ!」を思い出しました。仮に横山さんの主張が正しいとするならば、我々が鼻で物を見たり、耳で匂いを嗅いだり、眼で音を聴くことも【あり得る】ことになってしまいますね。私見ですが、このような考えは本体と現れの関係に対する錯誤から生まれたものだと思います。

念の為に言っておきますと、これは第三者がチェック可能な規準は成立し得るか云々以前の(つまり[事物]の在り方に関わる)問題なのですが・・・

補足します。

本体と現れの関係に対する錯誤

本体と現れの関係及び[事物]に対する錯誤

痛みと赤さで伝わるかと思ったのですが、難しいみたいですぬ。誤解を解く努力をするよりも、話を変えてしまいます。

『私の痛み』という語で捕まえられる内容は、原理的に公的な言語ゲームに乗る対象としての『私の痛み』でしかあり得ないですよね。しかし、言語の私秘性を認めるのであれば、言語ゲームに乗らない[『私的なこの痛み』なるもの](矛盾した表現しかできません。ナンセンスな事柄ですから。)、この[私的な痛み]を『私の痛み』という語で捕まえ得ると考えるということでしょうか。

おはようございます、工藤です。では、コメントをいくつか。

>痛みと赤さで伝わるかと思ったのですが、難しいみたいですぬ。誤解を解く努力をするよりも、話を変えてしまいます。

横山さんはご自分の提出された思考実験(状況設定)が成立し得ない―即ちナンセンスである―ことに未だ気付いておられないようです。僕が前回の投稿で言ったこと

念の為に言っておきますと、これは第三者がチェック可能な規準は成立し得るか云々以前の(つまり[事物]の在り方に関わる)問題なのですが・・

を思い出してください。
(例えば「我々が『猫』と呼んでいる動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すこと」は不可能です。何故ならば、[事物]の在り方に反しているから)

率直に言って、以下の論述?

>『私の痛み』という語で捕まえられる内容は、原理的に公的な言語ゲームに乗る対象としての『私の痛み』でしかあり得ないですよね。しかし、言語の私秘性を認めるのであれば、言語ゲームに乗らない[『私的なこの痛み』なるもの](矛盾した表現しかできません。ナンセンスな事柄ですから。)、この[私的な痛み]を『私の痛み』という語で捕まえ得ると考えるということでしょうか。

を読む限り、これまで僕が書いてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いと言わざるを得ません。
(僕が前々々々回の投稿に添付したツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049351820386305
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049537909080065
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346049626715090944
を再々々々読してみてください)
【しかし、言語の私秘性を認めるのであれば】という表現に違和感を覚えますね。
ここで重要なことは、【現に】我々が「相互的な私秘性=我々一人一人が各々の感覚・感情・体験etc即ち心を持っている、という観念」を【生きてしまっている】ということなのです。何故ならば(既述の通り)③公共言語の習得と相互的な私秘性の成立は不可分かつ同時的なのですから。要するに、相互的な私秘性は特定の個人―ここでは横山さん―の恣意的な態度決定【しかし、言語の私秘性を認めるのであれば】とは無関係である、ということですね。
繰り返しますが、)「しくい」がa.問題なく可能な私的言語であるということは【件の思考実験で描出されている状況を我々が理解し得ることに示されている】というのが僕の見解だったわけです。

付言しますと、以下の論述

>この[私的な痛み]を『私の痛み』という語で捕まえ得ると考える

もオカシイですね。とりわけ【語で捕まえ得る】の件が・・・

もし彼が感覚言語一般を習得したと見做し得る諸規準をクリアするならば、そのとき我々は「或る新しいタイプの感覚(ex. しくさ)を同定した」という彼の主張を―件の感覚に我々が観察可能なものが全く付随していなくとも―尊重するということは、感覚に関する言語ゲームの原初的部分なのである。
―クリプキ『ウィトゲンシュタインと他人の心』

お解り頂けたでしょうか?

ご参考になれば幸甚です。

相互的な言語の私秘性を認められているということから、その論旨を、僕とのギャップを掴みたいと思って質問しています。
続けます。

では、相互的な言語の私秘性を認められているのだとしても、内的なものも、未来も、その他も、何も僕らには隠されていないとする立場だということですか。
それならちょっとがっかりです。僕自身の立場との違いがなくなってくるからです。

>では、相互的な言語の私秘性を認められているのだとしても、内的なものも、未来も、その他も、何も僕らには隠されていないとする立場だということですか。
それならちょっとがっかりです。僕自身の立場との違いがなくなってくるからです。

(これまで僕が書いてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)以前にもお話した筈ですが、僕は或る特定の―とりわけ錯誤に満ち満ちた―思想的立場ではなくて事柄それ自体(とその探究)に興味があるのです。
内的なものも、未来も、その他も、何も僕らには隠されていない??―誰の主張ですか、少なくとも僕ではありませんが。

[存在]論的断絶を自得して頂く為にこれまで僕が語ってきたことは・・・何だったのでしょうか・・・?

端的な事実=[存在]論的差異と言語(概念)の故郷=言語ゲームの差異については、以下のツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/342563821912727553
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/342563981325656064
をお読みください。

ご参考になれば幸甚です。

補足しますが、

【もし彼が感覚言語一般を習得したと見做し得る諸規準をクリアするならば】、そのとき我々は「或る新しいタイプの感覚(ex. しくさ)を同定した」という彼の【主張】を―件の感覚に【我々が観察可能なものが全く付随していなくとも】―【尊重する】ということは、感覚に関する【言語ゲームの原初的部分】なのである。
―クリプキ『ウィトゲンシュタインと他人の心』

上の引用文に示された見解は「内的なものも、未来も、その他も、何も僕らには隠されていないとする(思想的)立場」とは無関係でしょう。

「「内的なものは我々には隠されている」――未来は我々に隠されている――しかし天文学者が日食を計算するときそのように考えるか。はっきりした原因で苦痛に身をよじっている人を見れば、私はその人の感じていることがそれでも私に隠されている、などとは考えない。」(L.W.「探究」Ⅺ)

前記は上が元ネタです。

「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった・・・・について、例えば、それが、脳内物質の働きを分析してわかる、ということはあり得ますよね。」
他の内容では僕が読み違えして僕が間違っているのでしょう。でも、「痛み―赤色」の話は普通の日常生活の未来空想小説として普通に想像できる話です。これについては、どう考えても工藤さんの勘違いではないですか。再考してください。

例えば、脳内の神経回路の全てをリサーチし、全ての電圧と化学物質の変化と流動をリサーチする。そこで、一般的に「痛み」を感じるときの反応パターンと、「赤色」を感じるときの反応パターンとがあることが分かったとする。そしてこのとき、僕の反応パターンと彼の反応パターンが逆転していることが分かったとする。この状況について、「僕の『痛み』は彼の『赤色』である」と表現するような言語ゲームは可能ではありますよね。

これが可能であるのに対して、「神の視点」で「本当に」、僕と彼の私的感覚が逆転しているということが分かり得ると、工藤さんがお考えになるかを質問したかったのですが、この間のやり取りで、すでに、答えは分かりました。「ノー」ですね。

もとい。イエスでもノーでもない意味での、ノー。「有」でも「無」でもな意味での「空」。みたいなノーですよね。

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>「「内的なものは我々には隠されている」――未来は我々に隠されている――しかし天文学者が日食を計算するときそのように考えるか。【はっきりした原因で苦痛に身をよじっている人を見れば】、私はその人の感じていることがそれでも私に隠されている、などとは考えない。」(L.W.「探究」Ⅺ)

無論、ウィトゲンシュタインに同意します。
【はっきりした原因で苦痛に身をよじっている人を見れば】―ここで「人間の身体は、人間の魂の最良の像である(『探究』)」という表現に込められた深慮を看取しなければなりません。

>他の内容では僕が読み違えして僕が間違っているのでしょう。でも、「痛み―赤色」の話は普通の日常生活の未来空想小説として普通に想像できる話です。これについては、どう考えても工藤さんの勘違いではないですか。

「しかし、私はそういう事例を想像出来るのだ!」 ―君はそれについて【言葉を吐き散らす】ことは出来る。だが、そのことは、君がそれについて徹底的に考え抜いたことを示してはいない。―ウィトゲンシュタイン

「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」
「翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る」
「猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る」
*上に挙げた文の違いが解りますか?

>例えば、脳内の神経回路の全てをリサーチし、全ての電圧と化学物質の変化と流動をリサーチする。そこで、一般的に「痛み」を感じるときの反応パターンと、「赤色」を感じるときの反応パターンとがあることが分かったとする。そしてこのとき、僕の反応パターンと彼の反応パターンが逆転していることが分かったとする。

既述の通り、この状況設定そのものが不可能なのですよ。[事物]の在り方に反しているわけですから。そういう意味(=[事物]の在り方に反している)では、件の状況設定は「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」という主張と五十歩百歩でしょうね。

>これが可能であるのに対して、「神の視点」で「本当に」、僕と彼の私的感覚が逆転しているということが分かり得ると、工藤さんがお考えになるかを質問したかったのですが、この間のやり取りで、すでに、答えは分かりました。「ノー」ですね。

(上のコメントを読む限り、これまで僕が書いてきたことを理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)老婆心から言わせて頂ければ、Yes or No で物を考えない方が―とりわけ【哲学すること】においては―良いと思います。
哲学に必要なのは【虚心坦懐に事柄を見ること・事柄に即して考えること】であって、浅薄で胡乱な想像ではありません。

>「神の視点」で「本当に」

何度でも繰り返しますが・・・
逆転スペクトル、哲学的ゾンビ、水槽の中の脳、悪霊の懐疑etc哲学的似非問題の源泉とも言える①形而上学的様相②認識論的様相③思考可能性の文法的差異については、以下のツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/346242156752691200
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/340257673264119808
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/340267137492996096
をお読みください。
①形而上学的様相の自存性と[存在]論的差異―"僕"なら[工藤庄平なる身体から開けた生]の唯独性と発語してみますが―に依拠しつつ仮構された哲学的似非問題ですね。

>もとい。イエスでもノーでもない意味での、ノー。「有」でも「無」でもな意味での「空」。みたいなノーですよね。

僕としては「空無」と言ってみたいですね。①形而上学的様相の自存性と[存在]論的差異―"僕"なら[工藤庄平なる身体から開けた生]の唯独性と発語してみますが―に依拠しつつ仮構された哲学的似非問題。そして、①形而上学的様相の自存性に依拠しつつ捏ね上げられた極楽浄土、地獄、霊魂、輪廻転生、神、身体や自己意識との関係が偶然的な<私>etc・・・

ご参考になれば幸甚です。

「歯の或る虫食い状態で、普通、歯痛と呼ばれるものを伴わない状態を『無意識歯痛』と呼び、そのような場合、歯痛があるがそれを知らないという表現を使うのがむしろ実際的だということも考えられる」
「方程式x(の2乗)=-1は、解±√-1を持つ。だが、この式は解を持たないと言われた時代があった。それと似た話で、『直線は円につねに交わる。或る場合は実数点で、また或る場合は虚数点で』と言うことも『直線は円と交わるか、交わらないでその交差がα離れている』と言うこともできる。この二つの陳述は正確に同じ意味である」(青色本)

私は【或る文脈の中で】語が意味する所を知っているのだ。

とはいえ、件の新しい表現「無意識的歯痛」は、我々の規約を貫徹することを困難にするような挿絵や比喩を誘発することによって、我々に道を誤らせるのである。

このような場合、「『無意識的』『知る』等々の語が【この】ケースではどう使われているか、そして他のケースではどう使われているかを見てみよう」と言うことで事柄を明瞭にすることが出来る。―ウィトゲンシュタイン『青色本』

補足しますと、

①事実的探究(ex. [事物]に即した概念を構成すること)
②文法的探究(ex. 我々の概念構成の在り方を精査する。哲学的似非問題を解消する)
③幾何学的構成
④算術的構成
⑤数学的探究という名の錯誤(ex. 微積分学や集合論における論理・算術・幾何学の混同から生じた擬似問題)

ご参考になれば幸甚です。

工藤さん、ありがとうございます。
ご指摘の通り、僕の理解はかなりあやふやです。そこで、いったん整理しておきたいと思います。

エイヤーに主張に関して次のような反論をし、回答をいただきました。これをなぞって、改めて質問させてもらいます。


僕からの反論反論5「私的言語において語を同定しようとするのも、言語ゲームにおいて語を同定しようとするのも、或いは三角測量において語を同定しようとするのも結局は「私の感覚」に依存する以外ないのであるから、言語ゲームも三角測量も私的言語も五十歩百歩であろう。言語ゲームや三角測量で語の意味が同定できるとするなら私的言語における語の同定も有意味とすべきである―ということです。この論はどこまで本当だと思われますか。よろしくお願いします。」
に対する回答をまとめるとこうでしたよね。
工藤さんの回答回答 「「我々の言語的な営みは【五感の恒常性や記憶の安定性といった自然的基盤に支えられて】成立している」という指摘は正しいのですが、そこから短絡的な主張を引き出してくるのは感心しません。「痛み」は[痛み]ではありませんし、意味の故郷は言語ゲームなのですから。
数日前から内観的に近似した感覚が何回も起こるようになった(殴打→痛覚の如き外的脈絡なしに)ので、それに名前「しくい」を与えて識別しているのだ! ―永井均氏の主張に反して、これは既に公共的言語を習得した持続的個人が新たに生じてきた内的感覚に私的命名を為すという思考実験に過ぎない―永井均氏の思考実験の胡乱さについて。 内観的に近似した感覚を識別・同定することは、それに私的名前を与えることに先行するのではないか。 我々は通常、外的脈絡を観察したり・名前を指標にすることによって内的感覚を識別・同定してはいない。
【永井均氏の思考実験に登場する「しくい」はa.問題なく可能な私的言語に過ぎないし、「しくい」が成立し得ることはb.永井均氏の言う客観的言語―例えば、或る赤ん坊が一切の言語的交流なしに独力でつくり出す私的言語?etc―の可能性を含意・担保しない】というのが僕の見解だったわけですから、先の反論??は(横山さんの主張に反して)実際には同意でしかなかった、ということになりますね。
(既述の通り)ここで重要なのは、a.問題なく可能な私的言語(或る個人が専ら自分独りが使用する為に創案した言葉なのだが、その使用法を彼が教えてくれれば我々にも理解出来るような言葉)とb.不可能な私的言語(永井均氏の言う【客観的言語】のようなもの)の差異を精確に理解すること、でしょう。」

反論5に対する回答終わり

ここで、改めて質問します。
「「しくい」がa.問題なく可能な私的言語であるということは【件の思考実験で描出されている状況を我々が理解し得ることに示されている】というのが僕の見解だったわけですが。という工藤さんの言について、これは、永井均氏の思考実験に登場する「しくい」についても、僕の反論5補足(「しくい」としか言いようのない感覚が起こった)の「しくい」についても、それがa.問題なく可能な私的言語であるということを示されたものでしたが(そして、これは、L.W.による言葉づかいでは「私的言語」に当たらないというものだと思いますが)、その論拠がいかなるものであるかが、ここでの論立ての主要な問題だと思います。工藤さんは、「しくい」がa.問題なく可能な私的言語であるということの論拠はどういうものだとお考えですか。
また、どういった内容のものだとウィトゲンシュタインの言う意味での私的言語にあたる言葉で質問の設定が可能でしょうか。それとも、このような哲学的検討は不可能でしょうか。

>工藤さんは、「しくい」がa.問題なく可能な私的言語であるということの論拠はどういうものだとお考えですか。

何度でも繰り返しますが、【論拠=件の思考実験で描出されている状況を我々が理解し得ること】です。

>また、どういった内容のものだとウィトゲンシュタインの言う意味での私的言語にあたる言葉で質問の設定が可能でしょうか。それとも、このような哲学的検討は不可能でしょうか。

我々はここで、哲学的考察に特徴的な、注目すべき一現象に直面する。困難なのは解決を見出すことではなく、解決の前段階に過ぎぬように見えるものを解決として承認することである―と言えるのではないか。「我々は既に言うべきことは全て言った。―そこから導かれる何かではなく、それが当に解決なのだ!」
この現象は、期待すべからざる所で我々が説明を期待する、ということに関連していると思う。実際には、我々の考察において既述の配列を適切に行う限り、記述が即ち困難の解決なのである。もし我々がそこに留まり、それを越え出ようとしないならば。
ここで困難なのは【立ち止まる】ということである。―ウィトゲンシュタイン『断片』

全てが記述されたときに、まだ何か言おうとする強烈な誘惑がここにある。―この衝動は何処から来るのか。如何なる類比、如何なる誤解がそれを生み出すのか。
―ウィトゲンシュタイン『断片』

ご参考になれば幸甚です。

工藤さん、

7月のウィトゲンシュタイについての発表での論戦の練習をさせてもらおうとして、いろいろな立場から、茶々を入れさせてもらいましたが、完敗ですね。論戦にもなりませんでしたね。僕の考えているネタは以上で終わりです。

相手をしてくださってありがとうございました。

もし、他にも、ウィトゲンシュタイの私的言語の関連で、論戦のネタになりそうなものをご存知でしたら教えてください。

感謝

論戦ごっこをするんだったら、用意した土俵に乗ってもらわなくちゃ話にならない。どうやって乗ってもらえる土俵を作って、論戦ごっこにまで辿り着くか。これが、最大の課題だね。
土俵に乗ってもらえないんじゃつまらない。

テーマの性格上、どうしても語られる内容が、文法に正しく乗れるか乗れないかのぎりぎりのところを突きたく、そこが、論戦ごっこの土俵になる。だから、言葉の意味があやふやになってしまいやすく、互いに思い込んだまま誤解に誤解を重ねることになってしまう。土俵ごと崩れてしまうことを、どうやって防ぐか。面倒でも言葉のはしはしにこだわって、互いの意図を確かめていくしかないね。個性的で独特の言葉づかいをする人ともそうでない人とも。

特に私的言語周辺について。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、ご質問にお答えします。

>もし、他にも、ウィトゲンシュタイの私的言語の関連で、論戦のネタになりそうなものをご存知でしたら教えてください。

個人的には、私的言語を巡る哲学的問題は解消済―後期ウィトゲンシュタイン~クリプキ~デイヴィッドソンの議論を参照してください―と考えておりますので、新味のあるネタ=土俵=議論の叩き台を提供することは出来ません。

僕のネタで良ければ・・・
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52323779.html#comments
ご参考になれば幸甚です。

或る痛みの場所を想像し、それを手の痛みから腕の痛みと別の痛みの場所に移動させていく、という想像は可能である。他人の痛みを自分の痛みとして想像するのとは違い、自分の痛みを想像するのだから容易い。
その想像の先、他者の腹に自分の痛みがあるという状況を考えることも可能だ。さらに昨日まで赤色だった場所が痛みを持つという想像も可能だ。この状況について「僕は赤色の感覚が痛みの感覚に変わってしまった」と表現するのも妥当だろう。
だって、他者の感覚を自分の感覚に置き換えたわけではなく、自分の痛みを自分で感じているのだから。

では、「私の痛みは彼の赤色だった」はどうか。
これが他者の感覚を自分で感じるという意味の表現なのであれば、そんな言明はナンセンスだ。
しかし、脳内物質の測定による科学的言明なのであれば(哲学的言明ではない)、これははっきり有意味である。哲学的には自分の痛みを自分で感じているという段階をはみ出していないのだから。


では、哲学的に他者の痛みを知るナンセンスと、科学的に他者の痛みを知る有意味な言明とには、はっきりとした境界があるのだろうか。

私は他人が考えていることを「知る」ことは出来るが、自分が考えていることを「知る」ことは出来ない。「私は君が何を考えているのか知っている」と言うのは正しいが、「私は自分が何を考えているのか知っている」というのは誤りである。
(哲学の全雲塊が文法の一滴へと凝縮する)―ウィトゲンシュタイン

私は他人が痛みを感じていることを「知る」ことは出来るが、他人の痛みを「感じる」ことは出来ない。「私は君が痛みを感じていることを知っている」と言うのは正しいが、「私は君が感じている痛みを感じる」というのは―比喩的な用法(君の苦しみに共感するetc)を除いて―誤りである。
(哲学の全雲塊が文法の一滴へと凝縮する)

一人称の心理的言明の特殊性に関する文法的考察ですね。

>その想像の先、他者の腹に自分の痛みがあるという状況を考えることも可能だ。

ご存じの通り、ここで語られている可能性「考えることも可能だ」は【文法的可能性】です。哲学者は屡々【文法的可能性と事実問題を混同してしまう】のですが、ここで目下の議論に関連する事例を挙げておきます。大分前にツイートしたものの再録ですが。


明らかにウィトゲンシュタインは、独我論者の表現形式は我々の通常の表現法が覆い隠している或る重要な【哲学的真理】を照らし出している、と考えているように見える(クリプキ)

―前後の文脈を見る限り、ここで示唆されている【哲学的真理】は、永井均『誤診』136頁の問い―なぜ「つねにルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインである」ではなく「つねに私である」と言いたいのか―に対する解答と一致するように思われる。
例えば「私は今左肩が痛い」というような一人称の心理的言明を為す際に、自分の身体や振る舞いを観察する必要はないだろう。この意味で、一人称の心理的言明は自分の身体に関する知識と独立である。
同様に、「私は昨日蕎麦を食べたことを憶えている」というような一人称の記憶言明を為す際に、自分の身体を調べてそれが昨日と同じ身体だと確信する必要はない。つまり、記憶に基づいて為される自分の過去についての言明は、自分の現在の身体と過去のそれとの【関係】についての知識に基づいてはいないのである。
実際には、自分の記憶に基づかなければ、身体の同一性に関する判断が真であるということは知りえないし、それに関する身体的な基準(時空的連続性)を適用することも出来なくなるであろう。従って【この種の言明】について言えば、身体的な用語で自己を記述出来なければならないということは「私」という語を使用し得るための条件ではないのだ。【この種の言明】における「私」という語は身体的記述の省略形ではないのだから。
永井均氏の主張に反して、他人の身体に私が痛みを感じることは【可能である】とか「痛みを感じ、または見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、『私は痛みを感じる』における『私』という語は或る特定の身体を指示してはいない、ということだけである。その『私』を或る特定の身体の記述で置き換えることは出来ないのだから」というウィトゲンシュタインの発言は、このことを【比喩的に】述べたものに過ぎない(永井均氏の主張に反して)。
この辺の事情については、『哲学探究』404・405節も参照して頂きたい。
畢竟、この議論のポイントは【私と身体の概念上の区別を実在的な区別に短絡させてはならない】ということであって、それこそがクリプキの言う【哲学的真理】の核心であったと考えられるのである。
事柄に即して考える限り、氏は「ウィトゲンシュタインのこの画期的な洞察(永井均『誤診』240頁)」を捉え損なっていると言わざるを得ない。

>では、哲学的に他者の痛みを「知る」ナンセンスと、科学的に他者の痛みを『知る』有意味な言明とには、はっきりとした境界があるのだろうか。

文脈から推察しますと、はじめの「知る」―哲学的に他者の痛みを「知る」ナンセンス―と後の『知る』―科学的に他者の痛みを『知る』有意味な言明―の文法は全く違いますね。
件の文脈において、「知る」は「感じる」と同じ意味―私が他人の痛みを感じる、という【文法的混乱に由来するナンセンス】―で使われています。
他方、『知る』は自然科学的なアプローチによって或る人物の身体に痛みが生起しているか否かを『知る』―我々が【視認し得る】現象(ex. 横山さんの神経繊維に生じた発火現象)と視認・伝達・並列不可能な痛覚(ex. 横山さんの身体に生起する痛み)が、或る一つの[出来事]に関する互いに還元不可能な二つの属性(視覚で捉えられる事象/痛覚)であることを『知る』こと―という意味で使われているように見えます。

(前回の続きです)
とはいえ、以下の論述

>では、「私の痛みは彼の赤色だった」はどうか。
これが他者の感覚を自分で感じるという意味の表現なのであれば、そんな言明はナンセンスだ。
しかし、【脳内物質の測定による科学的言明】なのであれば(哲学的言明ではない)、これははっきり有意味である。哲学的には自分の痛みを自分で感じているという段階をはみ出していないのだから。

はどうでしょうか。

既述の通り、①文法的混乱に由来するナンセンス(ex. 私は君の痛みを感じるetc)と②[事物]の在り方に反しているという意味でのナンセンス―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」といった主張のことですが―は全く別物です。

ところで、「私が他人の身体に痛みを感じることは【可能】である」というウィトゲンシュタインの発言は【一人称代名詞の用法から導出された文法的可能性に関する注釈】だったわけですから、ここで我々は[事物]の在り方に関わる問い「工藤庄平は横山信幸の身体や電信柱や天竜川etcに痛みを感じることは【可能】か?」を提出してみましょう。
件の問いを通して、我々の文法と[事物]の在り方を架橋する幾つかの事柄が示される筈ですから。

>その想像の先、他者の腹に自分の痛みがあるという状況を考えることも可能だ。

先ず、"僕"は[工藤庄平なる身体から開けた生]以外の何者でもありません。そして、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]以外の人々が知覚する工藤庄平という名の人物です。"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]は、ウィトゲンシュタインの発言「私が他人の身体に痛みを感じることは【可能】である」に登場する「私=一人称代名詞」ではないのです。従って、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]と工藤庄平なる人物を切り離すことは出来ません。
さて、では、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]が電信柱や天竜川に痛みを感じることは可能でしょうか? 否。工藤庄平の神経系を無機物であり・抑も神経系を持たない電信柱や天竜川に接続するのはナンセンスでしょう。"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]が発狂して「僕は電信柱や天竜川に痛みを感じている!」と【思い込んでいる】状況は【あり得る】かもしれませんが、これは最初の想定とは違います。
では、工藤庄平の神経系を横山信幸のそれと繋げてみるのは? どうでしょうね。これに類する実験に関して僕は何も知らないので、前にお話したシャム双生児を例にして考えてみましょうか。
既に述べた

では、シャム双生児のケースはどうか?―当人たちが【決めれば】よいのでは。
(権利問題と事実問題を混同する勿れ)

ように、或る意味これは【約定の問題】だと思われます。勿論、両者の身体が繋がっている部分とそうでない部分に刺激を与えつつ両者の神経発火を観測したり―「どうだい、君たち。この繋がっている部分は痛いかね?」「はい」「痛くないです」等々―することで[事物]に関する知識を得ることも出来るとは思いますが。

>さらに昨日まで赤色だった場所が痛みを持つという想像も可能だ。この状況について「僕は赤色の感覚が痛みの感覚に変わってしまった」と表現するのも妥当だろう。
だって、他者の感覚を自分の感覚に置き換えたわけではなく、自分の痛みを自分で感じているのだから。

既述の通り、"僕"は[工藤庄平なる身体から開けた生]以外の何者でもありませんので、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]の視点から考えてみます。
昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか? オカシイと思いませんか。

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の関係はどうなっているのか? 例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。
②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムとはどのようなものであろうか? 私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。

まだまだ書き足りないこともありますが、今日はこの辺で。

工藤さん、ていねいで分かりやすい回答ありがとうございます。僕にも分かるような語彙を選んでくださっているようで、たいへん助かります。
ご指摘の、他者の痛みを「知る」と「感じる」の語の混乱。確かにそうですね。他者の痛みを「感じる」という哲学的ナンセンス性と他者の痛みを「知る」という科学的言明の有意味性の違いははっきりしていて、その差を追う面白みは薄いですね。

ただ、他者の身体や電信柱に痛みを感じたり、痛みと赤色が逆転したりする可能性については、異論があります。
取り敢えず、
自分の身体から離れた場所が痛む可能性について、再考してみます。

自分の身体が痛むときをどう判断するか。「痛い」という語を覚え初めた子どもが、「どこの場所が痛むのか」を知るには、その場を見たり触ったりして、状況を調べる必要がある。爪先にトゲが刺さっているのが見えて、そのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みの感覚が激しくなるのなら、「爪先が痛い」のだと判断すべきだ。必ずしもトゲが刺さっている場所と自分の脳が神経で繋がっているのを確かめる必要はない。
だから、同様に電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合、そしてそれが繰り返し起こる場合、「電信柱が痛む」という判断をするのは妥当である。

世界を開闢させ世界を認識し記述する第一人称としての「私」と、認識され記述される対象としての「私」との区別を、しているつもりなのですが、変でしょうか。

>爪先にトゲが刺さっているのが見えて、そのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みの感覚が激しくなるのなら、「爪先が痛い」のだと判断すべきだ。必ずしもトゲが刺さっている場所と自分の脳が神経で繋がっているのを確かめる必要はない。

はい。既に述べた

例えば「私は今左肩が痛い」というような一人称の心理的言明を為す際に、自分の身体や振る舞いを観察する必要はないだろう。この意味で、一人称の心理的言明は自分の身体に関する知識と独立である。

ように、通常は【我々が一人称の心理的言明を為すときに自分の身体や振る舞いを観察することはないし、その必要もない】わけですから。
とはいえ、この【文法的事実】から以下の想定

>だから、同様に電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合、そしてそれが繰り返し起こる場合、「電信柱が痛む」という判断をするのは妥当である。

を導出することは―【件の想定は[事物]の在り方に反している】という理由で―出来ません。繰り返しますが、「私が他人の身体に私が痛みを感じることは可能である」や「痛みを感じ、または見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、『私は痛みを感じる』における『私』という語は或る特定の身体を指示してはいない、ということだけである。その『私』を或る特定の身体の記述で置き換えることは出来ないのだから」といったウィトゲンシュタインの発言は【一人称代名詞の使用に関する文法的注釈】であって、【今現に存在している身体的存在者―つまり固有名で指示されるような事物=人間である我々―に関する形而上学的主張ではない】のです。
(既述の通り)或る人物が突然発狂して「私はこの電信柱に痛みを感じている!」と【思い込んでいる】ケースは【あり得る】でしょうが、「人間(有機体)が電信柱(無機物)に自分の痛みを感じる」という文は明瞭な意味を全く持っていない―②[事物]の在り方に反しているが故に無意味である―ように思われます。
何度でも繰り返しますが・・・①文法的混乱に由来するナンセンス(ex. 私は君の痛みを感じるetc)と②[事物]の在り方に反しているという意味でのナンセンス―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」といった主張のことですが―は全く別物です。

個人的な印象ですが、(横山さんに限らず)ウィトゲンシュタインの後期哲学に触れた人の多くは【ウィトゲンシュタインの哲学的営為における思考実験の目的と意義】を誤解しているように見えます。手段としての思考実験に拘泥した挙句、本来の目的は完全に見失われている―とでも言いましょうか。
「私が他人の身体に痛みを感じることは可能である」―これは【文法的注釈】として受け取られるべき「挿画」に過ぎないのです。重要なのは「挿画」ではなく、それが【示すもの】なのですから。


哲学における君の目的は何か。蠅に蠅取壺からの抜け道を教えること。
―ウィトゲンシュタイン

何処が痛むのかを考える問題について、あるラインから外は文法的な分析の問題と捉えるべきだと工藤さんが主張されるのを否定しようという気はさらさらありません。でも、これを科学的帰納の問題とすることが不可能だというのは変だと思うのです。
電信柱に刺さったトゲをぐりぐり動かすと痛みを感じる。何度繰り返してもぐりぐりすると痛い。このような状況は想定可能ですよね。この状況について「電信柱に痛みを感じる」という表現を当てることが妥当かどうかが問題になっているわけですよね。
文法的な分析の問題だとして、有意味な命題ではないと、頭っから排除することも勿論可能だとは思います。
でも、極端にへんてこな世界で言語の限界を考えるのも哲学の1つの楽しみであり、これを科学的帰納の問題とすることで言語の限界にアタックするのは哲学的遊戯として許されると思います。

例えば双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると姉の右腕が赤く腫れてきて姉の表情が険しくなり、姉の口が「痛い」と声を発する。この場合、姉が姉の身体に痛みを感じているのだから問題ないですよね。
次に、双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると、姉の右腕は何ともないが、姉の表情は険しくなり、姉の口が「痛い」という声を発する。この状況を「姉が妹の身体に痛みを感じる」という言明で表す。この表現が適切であるかどうかは分かりませんが、可能だと言えると思います。少なくとも話は通じるでしょう。妹の身体に起こった原因によって、姉の振舞いが変化する状況が、一定期間続いてきたのなら「姉は妹の身体に痛みを感じる」という表現を許すだけの帰納的推測条件が揃ったと見なしても良いのではないでしょうか。
この状況は、妹の身体が電信柱になったところで変わりません。帰納的推測を許すだけの条件が揃っていれば「電信柱に痛みを感じる」も、科学的有意味発言になるはずです。科学とは帰納的推測のための論理に他ならないのですから。

痛みに関する発言で、言語ゲームの射程範囲ぎりぎりの問題だからといっても、文法的な分析問題にしなければならないとは限らないでしょう。

いかがでしょうか。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>何処が痛むのかを考える問題について、あるラインから外は文法的な分析の問題と捉えるべきだと工藤さんが主張されるのを否定しようという気はさらさらありません。でも、これを科学的帰納の問題とすることが不可能だというのは変だと思うのです。

オカシイですね、まるでアベコベ、完全な誤読です。これを科学的帰納の問題とすることが不可能?? 誰がそんなことを言ったのですか? 以下の論述?然り。

>電信柱に刺さったトゲをぐりぐり動かすと痛みを感じる。何度繰り返してもぐりぐりすると痛い。このような状況は想定可能ですよね。この状況について「電信柱に痛みを感じる」という表現を当てることが妥当かどうかが問題になっているわけですよね。
文法的な分析の問題だとして、有意味な命題ではないと、頭っから排除することも勿論可能だとは思います。

これはどう考えても横山さんの読解力の問題と言わざるを得ませんね。以下引用しますが、

>工藤さん、失礼していました。完全に思い込んで勘違いをしていました。工藤さんは、(ウィトゲンシュタイのいう意味での)私的言語は認めないけれど、言語の私秘性は認められるのですね。ついつい自分と同様で、私的言語とともに言語の私秘性も認めない立場なのだと思い込んでいました。

思い込みで物を言うのは感心しません。既に述べた

ところで、「私が他人の身体に痛みを感じることは【可能】である」というウィトゲンシュタインの発言は【一人称代名詞の用法から導出された文法的可能性に関する注釈】だったわけですから-略-
「私が他人の身体に私が痛みを感じることは可能である」や「痛みを感じ、または見、または考えるものは心的性格のものである、というこの命題の核心はただ、『私は痛みを感じる』における『私』という語は或る特定の身体を指示してはいない、ということだけである。その『私』を或る特定の身体の記述で置き換えることは出来ないのだから」といったウィトゲンシュタインの発言は【一人称代名詞の使用に関する文法的注釈】であって、【今現に存在している身体的存在者―つまり固有名で指示されるような事物=人間である我々―に関する形而上学的主張ではない】のです。
(既述の通り)或る人物が突然発狂して「私はこの電信柱に痛みを感じている!」と【思い込んでいる】ケースは【あり得る】でしょうが、「人間(有機体)が電信柱(無機物)に自分の痛みを感じる」という文は明瞭な意味を全く持っていない―②[事物]の在り方に反しているが故に無意味である―ように思われます。
何度でも繰り返しますが・・・①文法的混乱に由来するナンセンス(ex. 私は君の痛みを感じるetc)と②[事物]の在り方に反しているという意味でのナンセンス―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」といった主張のことですが―は全く別物です。

ように、僕は以下の想定

>だから、同様に電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合、そしてそれが繰り返し起こる場合、「電信柱が痛む」という判断をするのは妥当である。

が②[事物]の在り方に反しているという理由でナンセンス(即ち不可能)と言ったのであって、これと①文法的混乱―私は君の痛みを感じるetc―に由来するナンセンス(不可能性)は区別していた筈ですが・・・。翻って、僕が文法問題と言ったのは【一人称の心理的言明の文法的特殊性から生じた似非問題】―例えば「私が君の痛みを感じることは可能である」や「私が君の身体に痛みを感じることは可能である」等々―です。

お解り頂けたでしょうか?

>でも、極端にへんてこな世界で言語の限界を考えるのも哲学の1つの楽しみであり、これを科学的帰納の問題とすることで言語の限界にアタックするのは哲学的遊戯として許されると思います。

何度でも繰り返しますが、①文法的探究(ex. 我々の概念構成の在り方を精査しつつ哲学的似非問題を解消する)と②事実的探究(ex. [事物]に即した概念を構成する)を混同しない方が良いと思います。付言しますと、我々の概念構成の在り方を見極めることは浅薄で胡乱な想像に振り回されることではありません。

>痛みに関する発言で、言語ゲームの射程範囲ぎりぎりの問題だからといっても、文法的な分析問題にしなければならないとは限らないでしょう。

再び繰り返しますが、誰がそんなことを言ったのですか?? とりあえず、僕の投稿を再読してください。

>例えば双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると姉の右腕が赤く腫れてきて姉の表情が険しくなり、姉の口が「痛い」と声を発する。この場合、姉が姉の身体に痛みを感じているのだから問題ないですよね。
次に、双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると、姉の右腕は何ともないが、姉の表情は険しくなり、姉の口が「痛い」という声を発する。この状況を「姉が妹の身体に痛みを感じる」という言明で表す。この表現が適切であるかどうかは分かりませんが、可能だと言えると思います。少なくとも話は通じるでしょう。妹の身体に起こった原因によって、姉の振舞いが変化する状況が、一定期間続いてきたのなら「姉は妹の身体に痛みを感じる」という表現を許すだけの帰納的推測条件が揃ったと見なしても良いのではないでしょうか。
この状況は、妹の身体が電信柱になったところで変わりません。帰納的推測を許すだけの条件が揃っていれば「電信柱に痛みを感じる」も、科学的有意味発言になるはずです。科学とは帰納的推測のための論理に他ならないのですから。

何度でも繰り返しますが、問題は「話は通じる」「帰納的推測条件が揃ったと見なしても良い」云々【の手前に】あります。それがクリアーされない限り、件の思考実験は「話は通じる」「帰納的推測条件が揃ったと見なしても良い」云々を問うことすら出来ない―要するに【思考実験そのものが成立し得ない】―というのが(ここでの)問題だった筈なのですが。つまり、②我々が[事物]に即した概念を構成し得ているか否か、別の角度から言えば、②我々が[事物]の在り方に反しているという意味でナンセンスな思考―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」等々―に陥っていないか、を見極めるということ。

お解り頂けたでしょうか。

とりあえず、以下の問い

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の相互関係はどういったものなのでしょうか?
例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。

②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムはどういったものなのでしょうか?
私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。

にお答え頂けますか。

くだんの想定と仰るのは「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった」の方ですか、「電信柱に痛みを感じる」の方ですか。

両方ですね。

昨夜から今日の異常事態ということを考えられ、「場所」「赤色」「視野」などの語の関係を問われているので、まず、
「昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ」の状況を考えれば良いでしょうか。
イメージとしてはこんな感じです。赤色に見えるはずの場所、例えば郵便ポスト、こいつを見ると昨日までトゲが刺さったときに感じるような感覚が起こる。なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはないので、原因究明には余り意味はないと思うのですが、例えば、マッドサイエンティストが僕の痛みの神経回路と赤色の神経回路を逆繋ぎしてしまったのかもしれません。「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」については僕の使っている語彙でないので分かりません。
「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった」や「電信柱に痛みを感じる」は昨日から今日の異常事態ではなく、毎日の日常の様子という想定です。
ごめんなさい。期待されてる答え方ではないですね。これで回答になったでしょうか。

僕からも質問させて頂きます。
「[事物]の在り方に反する」とは、科学的常識に反するという意味なのでしょうか。その意味するところを教えてください。

>「[事物]の在り方に反する」とは、科学的常識に反するという意味なのでしょうか。

必ずしもそうとは言えません。とはいえ、「水がH2Oではないと【判明することもあり得る】のではないか?」とか「物が何の原因もなしに突然消失することも【あり得る】のではないか? それが【あり得ない】ことを自然科学は【証明した】のか?」といった問いはナンセンスだと思いますが(これについては既に縷言したので割愛させて頂きます)。
当然ながら、(信頼に足るという意味で)十分に確立された自然科学によって発見・開示された知識―[事物]の在り方に即した概念(ex. 医学、分子生物学、神経生理学etc)―を否定する際には、(論拠だけではなく)相応の証拠を提示する必要があります。証拠及び説明の提示は否定者の責務なのですから。

>昨夜から今日の異常事態ということを考えられ、「場所」「赤色」「視野」などの語の関係を問われているので、まず、
「昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ」の状況を考えれば良いでしょうか。
イメージとしてはこんな感じです。赤色に見えるはずの場所、例えば郵便ポスト、こいつを見ると昨日までトゲが刺さったときに感じるような感覚が起こる。なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはないので、原因究明には余り意味はないと思うのですが、例えば、マッドサイエンティストが僕の痛みの神経回路と赤色の神経回路を逆繋ぎしてしまったのかもしれません。「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」については僕の使っている語彙でないので分かりません。
「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった」や「電信柱に痛みを感じる」は昨日から今日の異常事態ではなく、毎日の日常の様子という想定です。
ごめんなさい。期待されてる答え方ではないですね。これで回答になったでしょうか。

ご承知の通り、

>ごめんなさい。期待されてる答え方ではないですね。

全く答えになっていませんね。あと、以下の質問

昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか? オカシイと思いませんか。

に対するご回答も未だ頂いておりませんし。

>「昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ」の状況を考えれば良いでしょうか。
イメージとしてはこんな感じです。赤色に見えるはずの場所、例えば郵便ポスト、こいつを見ると昨日までトゲが刺さったときに感じるような感覚が起こる。なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはないので、

「なぜそんなことが起こるか【②原因がわからない】なら【①そんなことは起こらない・・・なんてことはない】ので」―もうお解り?だと思いますが、件の浅薄で胡乱な主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異のみに依拠して提出されています。
以前お話した永井均氏の主張「①物が当然なくなることがあり得ないということは②いつ誰が証明したのか?」と構造が同じですよね。言うまでもないことですが、「なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはない」から【そういうことが起こる】を導出することは出来ません(況してや【そういうことが起こる】という文を真にする[出来事]を導出することなど不可能です)。

>②原因究明には余り意味はないと思うのですが、

既述の通り、問題は【件の思考実験において】②それが生じた原因を特定し得るか否か(認識論的様相)ではなく①抑もそのような事柄―精確に言えば、それを形づくっている事象連関―が成立し得るか否か(形而上学的様相)なのです。従って、

>例えば、マッドサイエンティストが僕の痛みの神経回路と赤色の神経回路を逆繋ぎしてしまったのかもしれません。

①抑も上の文で語られているようなことが成立し得るのか否かが問われなければならないわけです。念の為に言っておくと、ここでの問題は【我々が[事物]の在り方に反しているという意味でナンセンスな思考―例えば「Fe=鉄原子の結合体が無色透明な液体で・飲むことが出来る・100℃以上で気化し0℃以下で固体になる(つまり水のような)こともあり得る」や「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である」等々―に陥っていないかを見極める】ということに他なりません。ですから、以下のご返答?

>「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」については僕の使っている語彙でないので分かりません。

は極めて無責任であり、知的誠実さに欠ける態度と言わざるを得ません。例えば、件の思考実験で語られている「赤色」が「想像表象」なのか、それとも「視覚」によって捉えられているのか、はたまた単なる「妄想」に過ぎないのか・・・は極めて重要な―件の思考実験の成立(不)可能性(①形而上学的様相)に関わるという意味で―問題だと思われます。「僕の使っている語彙ではない」から「分からない」で済まされる話ではないのです。

ご参考になれば幸甚です。

因みに記号①②の使い方ですが、各投稿ごとに指示する事柄が違います。
くれぐれも混同なさらぬよう、ご注意ください。

とりあえず、今一度、以下の質問

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の相互関係はどういったものなのでしょうか?
例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。

②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムはどういったものなのでしょうか?
私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。

③昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか?

にお答え頂けますか。

例えば、「僕の『痛み』は彼の『赤色』だった」について、言います。これは、僕と彼それぞれの脳内の状態(神経繊維の一般状態とその発火内容、その他化学的、電気的状態についての総合的でデータ化可能な情報)を調べたときに、僕が「痛い」と言って「痛み」という公的言語を表出するときの脳内状態と、彼が「赤色が見える」と言って「赤色」という公的言語を表出するときの脳内状態に同定可能な類似性があるということです。
僕にとっての公的言語でいう「痛覚」が現れているという状況で、
彼にとっての公的言語でいう「視野」の中に、公的言語でいう「赤色」の、公的言語でいう「視覚」が、公的言語でいう「表象」として現れているという状況です。
答えになっていないかも知れないですが、工藤さん指定の語彙を使うよう努力してみました。


さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

追記、

上の件の発生メカニズムについては、まったくの謎なのです。現代科学の理論からは説明不可能です。

おはようございます、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>僕にとっての公的言語でいう「痛覚」が現れているという状況で、
彼にとっての公的言語でいう「視野」の中に、公的言語でいう「赤色」の、公的言語でいう「視覚」が、公的言語でいう「表象」として現れているという状況です。
答えになっていないかも知れないですが、工藤さん指定の語彙を使うよう努力してみました。

仰る通り、全く答えになっていませんね。率直に言いまして、何処から手をつけたら良いのやら・・・以下の件

>彼にとっての公的言語でいう「視野」の中に、公的言語でいう「赤色」の、公的言語でいう「視覚」が、公的言語でいう「表象」として現れているという状況です。

オカシイですね。何らかの①外的対象を視認する場合、(言うまでもなく眼は対象に対して見開かれています)②視野の中に③視覚印象が生じています。翻って、④想像表象は【意識的に変化させる】ことが出来ますし、たとえ眼を閉じていたとしても"それ"を「見る」ことが出来ます。
(ここで①外的対象を視認する―このとき通常は②視野の中に③視覚印象が生じるわけですが―場合の『見る』と④想像表象について言われる「見る」を混同しないように注意してください。③視覚印象の『赤色』と④想像表象の「赤色」然り)
ですから、横山さんのご回答??は抑も回答の体を成していないわけです。
事柄に即して考える限り、件の思考実験は成立不可能と言わざるを得ません。

>例えば、マッドサイエンティストが僕の痛みの神経回路と赤色の神経回路を逆繋ぎしてしまったのかもしれません。

赤色の神経回路??―外的対象(の表面)と日光の関係、光反射と我々人間の視覚系との関係、視覚印象と想像表象の差異etcこれらの問題を全てスルーした挙句、赤色の神経回路??などという代物を持ち出されても・・・。

>上の件の発生メカニズムについては、まったくの謎なのです。現代科学の理論からは説明不可能です。

自然科学を云々する以前の問題ですね。
事柄([事物]の在り方)に即して考える限り、件の思考実験は成立不可能と言わざるを得ません。

>文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、

これもオカシイですね。仮に横山さんの主張が正しいとするならば、【様相文は全て「無意味」ということになってしまう】筈です。例えば、様相文「バラク・オバマが存在しないこともあり得た」は―ライプニッツ、或は様相論理学者etcの妄説に反して―真でも偽でもありません。猶、この論点については、ブログ
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20130426/1366976607
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20130404/1365083150
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323256140
で詳説しております。ポイントは、a.或る文・言明が論理的に無矛盾である・矛盾していることとb.或る文・言明が真/偽であることの差異ですね。

>「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

今の文脈で言えば、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は偽なる文でしょう。例えば「猫を無重力の部屋で宙に浮かせたり、猫の両眼にチャッカマンを取り付けて火炎を出させる」と件の文は違いますから。
何度でも繰り返しますが・・・「我々が猫と呼び習わしてきた動物が鳥のように空を飛び回り、両目から火炎を出すことはあり得る」は[事物]の在り方に反しているという意味でナンセンスなのです。

ご参考になれば幸甚です。

以上の論述を踏まえた上で、再度、以下の質問

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の相互関係はどういったものなのでしょうか?
例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。

②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムはどういったものなのでしょうか?
私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。

③昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか?

にお答え頂けますか。

工藤さんのいう「ナンセンス」は「明らかに偽だ」くらいの意味合いなのですね。だから、「[事物]の在り方に反するナンセンスな文」というのは「アプリオリに偽と判別されるべき有意味文」くらいの意味合いですね。
また、「思考実験が成立不可能」は「思考実験を考えること自体が不可能或いは無意義だ」と言っているのではなく、「思考実験の内容は偽にしかならない」と言うような意味合いですね。だから、「事物の在り方に即して考える限り、この思考実験は成立不可能」は「この思考実験の内容はアプリオリに偽だ」を、意味するものなのではないですか。
そうだとすると納得できるのですが、いかがでしょうか。

誤読にお叱りを受けるでしょうが、僕は「事物の在り方に即して考える限りこの思考実験は成立不可能」は「アポステリオリな何らかの理由においてこの思考実験そのものを考えることが不可能或いは無意義」と読んでいました。


そのような意図でしたので、つまり、思考実験の内容が真か偽かではなく、思考実験そのものが考えられるか考えられないかについて、考えていましたので、
それが真であるためにはどのような原因のメカニズムが考えられるかという点は重要ではないと、僕が考えたのも理解していただけるでしょうか。

そうなると、かの思考実験の状況を語彙立てて表現し直すのは必要なくなるのかもしれませんが、取り敢えず、お答えしたいと思います


「僕の『痛み』は彼の『赤色』だった」について、
この発言は、僕と彼それぞれの脳内状態の科学的検査結果として設定したものです。
ですから、これについて、外的対象、視野、視覚印象などの語を用いて表現すると次のようになると思います。

○僕が「外的対象に対して痛覚を覚え、痛覚印象を持った」という公的な発言によって表現するところの「僕の痛み」については、「僕の脳内状態の科学的検査結果のデータ」を、その意味として位置付ける。
彼が「外的対象に対して視野の中に赤い色覚印象を持った」という公的な発言によって表現するところの「彼の痛み」については、「彼の脳内状態の科学的検査結果のデータ」をその意味として位置付ける。
そして、この2つのデータに同定可能な類似性があることを「僕の『痛み』は彼の『赤色』だった」という文の真偽の基準とする

として、この文を捉えています。

工藤さんからは、まだ違うと言われるでしょうが、僕の意図からすると、こういう表現になります。

宜しくお願いします。

もとい

彼が「外的対象に対して視野の中に赤い色覚印象を持った」という公的な発言によって表現するところの「彼の赤色」については、彼の脳内状態の科学的検査結果のデータとして位置付ける。

でした。

>工藤さんのいう「ナンセンス」は「明らかに偽だ」くらいの意味合いなのですね。だから、「[事物]の在り方に反するナンセンスな文」というのは「アプリオリに偽と判別されるべき有意味文」くらいの意味合いですね。

これも完全な誤解ですね。忌憚なく言わせて頂ければ、僕には横山さんが意図的に誤読しているとしか思えません。全く理解し難い程の誤読です。
(とりあえず、【横山さんが言うところ??の『論考』の枠組】で僕の論述を解釈するのは止めて頂きたいのですが・・・)
当然ながら、我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っているのではありません。経験的探究を積み重ねつつ、[事物]に即した知識(概念)を獲得してきたわけです。
何度でも繰り返しますが、件の文脈におけるナンセンス=[事物]の在り方に反しているが故に不可能、とお考え下さい。そして、既に述べた

①我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である。
②翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
③猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
*上に挙げた文の違いが解りますか?

ように、「Pはあり得る」と「Pは想像し得る」の文法は全く違います。とはいえ、ここでは寧ろ②と③の違いが重要でしょう。
先ず、③は無問題(=ナンセンスではない)ですね。想像上の存在が想像の中で何をしようが、【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】OKですから。
さて、問題は②です。おそらく、これを読む人は【意味内容が不明瞭な文】だと考える筈ですが、それでも幾つかの解釈を与えることは出来るでしょう。以下、例示してみます。
a.ここで言われている『想像出来る』が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【肯定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は[事物]の在り方に反する事柄=ナンセンスを肯定していることになるわけですから、この『想像出来る』も又ナンセンスです。仮に件の文を本気で主張する人がいるとすれば、それは【唯単に彼が[事物]の在り方に関する自らの無知・錯誤を自覚出来ていない】というだけの話です。
b.ここで言われている「想像出来る」が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【明確な否定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は③【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】を含意していることになります。つまり、この場合、猫が空を飛んだり両目から火炎を出したり出来ないことは【承知の上で】そのような【イメージを思い描いている】わけです。従って、b.は③の舌足らずな表現と考えるのが妥当でしょう。
(ここで【想像出来る】という語の異なる二つの文法、即ち「想像出来る=想像表象と戯れる」と『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を混同しないように注意してください)

以上の論述から判断しますと、横山さんはa.に該当すると思われます。

>また、「思考実験が成立不可能」は「思考実験を考えること自体が不可能或いは無意義だ」と言っているのではなく、「思考実験の内容は偽にしかならない」と言うような意味合いですね。だから、「事物の在り方に即して考える限り、この思考実験は成立不可能」は「この思考実験の内容はアプリオリに偽だ」を、意味するものなのではないですか。
そうだとすると納得できるのですが、いかがでしょうか。


前回の投稿

(ここで【想像出来る】という語の異なる二つの文法、即ち「想像出来る=想像表象と戯れる」と『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を混同しないように注意してください)

を再読してください。

>誤読にお叱りを受けるでしょうが、僕は「事物の在り方に即して考える限りこの思考実験は成立不可能」は「アポステリオリな何らかの理由においてこの思考実験そのものを考えることが不可能或いは無意義」と読んでいました。

オカシイですね。この思考実験そのものを考えることが不可能或いは無意義??―【①思考不可能性(ex. 四角い円、生起したことが生起しなかったこと-は-可能だetc)】と【②思考内容が[事物]の在り方に反しているが故に無意義(=ナンセンス)であること】は全く違います。従って、以下のご返答??

>そのような意図でしたので、つまり、思考実験の内容が真か偽かではなく、思考実験そのものが考えられるか考えられないかについて、考えていましたので、
それが真であるためにはどのような原因のメカニズムが考えられるかという点は重要ではないと、僕が考えたのも理解していただけるでしょうか。

は抑も回答の体を成していないわけです。何度でも繰り返しますが、抑も机上の問題「思考実験そのものが【考えられるか考えられないか】」は幾何学的(ex. 四角い円)或は論理的(ex. 生起したことが生起しなかったこと-は-不可能である)不可能性に関する問いではなく、【件の】思考実験で語られている【事様】は【あり得るか否か】という問題だった筈です。既に述べた

事柄([事物]の在り方)に即して考える限り、【件の思考実験は成立不可能】と言わざるを得ません。

ように、【或る思考が成立し得るか否か】とはそういうことに他なりません。
(ここで僕が前回の投稿で論じたa.とb.の違いについて考えてみてください)
ですから、以下のご回答??

>そうなると、かの思考実験の状況を語彙立てて表現し直すのは必要なくなるのかもしれませんが、取り敢えず、お答えしたいと思います。

も先のご返答??と同様に回答の体を成していないわけです。

お解り頂けたでしょうか?

>「僕の『痛み』は彼の『赤色』だった」について、
この発言は、僕と彼それぞれの脳内状態の科学的検査結果として設定したものです。
ですから、これについて、外的対象、視野、視覚印象などの語を用いて表現すると次のようになると思います。

○僕が「外的対象に対して痛覚を覚え、痛覚印象を持った」という公的な発言によって表現するところの「僕の痛み」については、「僕の脳内状態の科学的検査結果のデータ」を、その意味として位置付ける。
彼が「外的対象に対して視野の中に赤い色覚印象を持った」という公的な発言によって表現するところの「彼の痛み」については、「彼の脳内状態の科学的検査結果のデータ」をその意味として位置付ける。
そして、この2つのデータに同定可能な類似性があることを「僕の『痛み』は彼の『赤色』だった」という文の真偽の基準とする

として、この文を捉えています。

工藤さんからは、まだ違うと言われるでしょうが、僕の意図からすると、こういう表現になります。


仰る通り、全く答えになっていませんね。ここで語られている科学的検査・そのデーターなる代物の内実、両者と彼の発語の関係etc・・・これら全ては【横山さんの不明瞭で胡乱な「想像出来る=想像表象と戯れる」の中で浮遊している断片的思考】に過ぎず、まともな哲学的吟味に耐えるものではありません。
付言しますと、これまでに何度か提出してきた質問に対するご回答も未だ頂いておりませんし。

以上の論述を踏まえた上で、再々度、以下の質問

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の相互関係はどういったものなのでしょうか?
例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。

②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムはどういったものなのでしょうか?
私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。

③昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか?

にお答え頂けますか。

工藤さんが僕に分からせようとかなり苦労して下さっているのは伝わってきます。
僕も理解しようとかなり頑張っています。
でも、工藤さんの言葉が何を意味しているのか、さっぱり分かりません。
ご質問に対しても僕なりにずいぶん誠実に考えて丁寧に答えたつもりです。
工藤さんのナンセンスが何を指しているのか、なぜ現象のメカニズムが不明のままではダメなのか、なぜ僕の言う「有意味・無意味・ナンセンス」の言葉使いに問題を当てはめて考えてはダメなのか。
答えろと言われても、もうかなり頑張って答えましたと言うしかないです。

困っています。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>工藤さんが僕に分からせようとかなり苦労して下さっているのは伝わってきます。
僕も理解しようとかなり頑張っています。
でも、工藤さんの言葉が何を意味しているのか、さっぱり分かりません。

既述の通り、これは単に読解力の問題でしょうね。その傍証として、以下のコメント

>工藤さん、ていねいで分かりやすい回答ありがとうございます。僕にも分かるような語彙を選んでくださっているようで、たいへん助かります。

を挙げておきましょうか(本当に理解して頂けたのかどうか・・・甚だ心許無いのですが、そのことは別にしても)。
他人の生活や資質を云々するのは本意ではありませんが、例えば、下記のエピソード

>僕は、円滑なコミュニケーションが苦手で、ついつい言いすぎてしまったり言い足りなかったりしてトラブルになってしまいます。一昨日もバス停でたばこを吸っていた青年に文句を言ってケンカになりかけてしまいました。ここのコメントのやり取りでも、言葉足らずだったり言い過ぎたりしてしまったりしていたり、これからしたりしてしまうかもしれませんが、どうぞ、大きな心で見てやってください。

や一連の遣り取りにおける(理解し難い程の)誤読の数々

>工藤さん、失礼していました。完全に思い込んで勘違いをしていました。工藤さんは、(ウィトゲンシュタイのいう意味での)私的言語は認めないけれど、言語の私秘性は認められるのですね。ついつい自分と同様で、私的言語とともに言語の私秘性も認めない立場なのだと思い込んでいました。

を見るにつけ、そう判断せざるを得ないのです。以前、別の記事にもコメントした

(とりあえず、【横山さんが言うところ??の『論考』の枠組】で僕の論述を解釈するのは止めて頂きたいのですが・・・)

筈ですが、『論考』の言語観―例えば、横山さんの言う「有意味・無意味・ナンセンス」然り―は、原著者も認めているように、【我々の言語(概念)的な思考を表現するには極めて不十分なもの】です。我々に必要なのは【事柄そのものに語らせる・事柄そのものを示すこと】であって、誤りを抱えた思想体系ではないのですから。

>工藤さんのナンセンスが何を指しているのか、なぜ現象のメカニズムが不明のままではダメなのか、なぜ僕の言う「有意味・無意味・ナンセンス」の言葉使いに問題を当てはめて考えてはダメなのか。
答えろと言われても、もうかなり頑張って答えましたと言うしかないです。

(同じ論述を繰り返し読む行為と読解力は独立の事柄でしょうが、そのことは別にしても)とりあえず、これまでの論述を再読してください。
なぜ【①現象のメカニズム】が【②不明のままではダメなのか】??―何度でも繰り返しますが・・・件の浅薄で胡乱な主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異のみに依拠して提出されています。既述

「なぜそんなことが起こるか【②原因がわからない】なら【①そんなことは起こらない・・・なんてことはない】ので」―もうお解り?だと思いますが、件の浅薄で胡乱な主張は①形而上学的様相と②認識論的様相の文法的差異のみに依拠して提出されています。
以前お話した永井均氏の主張「①物が当然なくなることがあり得ないということは②いつ誰が証明したのか?」と構造が同じですよね。言うまでもないことですが、「なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはない」から【そういうことが起こる】を導出することは出来ません(況してや【そういうことが起こる】という文を真にする[出来事]を導出することなど不可能です)。
問題は【件の思考実験において】②それが生じた原因を特定し得るか否か(認識論的様相)ではなく①抑もそのような事柄―精確に言えば、それを形づくっている事象連関―が成立し得るか否か(形而上学的様相)なのです。

の通り、問題は【件の思考実験】で主張されている事柄を形づくっているメカニズム(=事象連関の内実)が【①成立し得る(形而上学的様相)か否か】であって、件のメカニズムを【②我々が実際に発見・特定したかしないか(認識論的様相)】ではないのです。

お解り頂けたでしょうか。

(以下、再録です)

当然ながら、我々は[事物]の在り方をアプリオリに知っているのではありません。経験的探究を積み重ねつつ、[事物]に即した知識(概念)を獲得してきたわけです。
何度でも繰り返しますが、件の文脈におけるナンセンス=[事物]の在り方に反しているが故に不可能、とお考え下さい。そして、既に述べた

①我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が鳥の如く空を飛び回り、両眼から火炎を出すことは可能である。
②翼の生えた猫が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
③猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を想像出来る。
*上に挙げた文の違いが解りますか?

ように、「Pはあり得る」と「Pは想像し得る」の文法は全く違います。とはいえ、ここでは寧ろ②と③の違いが重要でしょう。
先ず、③は無問題(=ナンセンスではない)ですね。想像上の存在が想像の中で何をしようが、【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】OKですから。
さて、問題は②です。おそらく、これを読む人は【意味内容が不明瞭な文】だと考える筈ですが、それでも幾つかの解釈を与えることは出来るでしょう。以下、例示してみます。
a.ここで言われている『想像出来る』が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【肯定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は[事物]の在り方に反する事柄=ナンセンスを肯定していることになるわけですから、この『想像出来る』も又ナンセンスです。仮に件の文を本気で主張する人がいるとすれば、それは【唯単に彼が[事物]の在り方に関する自らの無知・錯誤を自覚出来ていない】というだけの話です。
b.ここで言われている「想像出来る」が、「我々が『猫』と呼び習わしてきた動物が翼を使って空中を飛び回り、両眼から火炎を出すことも【あり得る】筈だ」に対する【明確な否定を含んでいる】場合。この解釈によれば、件の文は③【それが想像に過ぎないということが弁えられてさえいれば】を含意していることになります。つまり、この場合、猫が空を飛んだり両目から火炎を出したり出来ないことは【承知の上で】そのような【イメージを思い描いている】わけです。従って、b.は③の舌足らずな表現と考えるのが妥当でしょう。
(ここで【想像出来る】という語の異なる二つの文法、即ち「想像出来る=想像表象と戯れる」と『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を混同しないように注意してください)
以上の論述から判断しますと、横山さんはa.に該当すると思われます。


【①思考不可能性(ex. 四角い円、生起したことが生起しなかったこと-は-可能だetc)】と【②思考内容が[事物]の在り方に反しているが故に無意義(=ナンセンス)であること】は全く違います。従って、以下のご返答??

>そのような意図でしたので、つまり、思考実験の内容が真か偽かではなく、思考実験そのものが考えられるか考えられないかについて、考えていましたので、
それが真であるためにはどのような原因のメカニズムが考えられるかという点は重要ではないと、僕が考えたのも理解していただけるでしょうか。

は抑も回答の体を成していないわけです。何度でも繰り返しますが、抑も机上の問題「思考実験そのものが【考えられるか考えられないか】」は幾何学的(ex. 四角い円)或は論理的(ex. 生起したことが生起しなかったこと-は-不可能である)不可能性に関する問いではなく、【件の】思考実験で語られている【事様】は【あり得るか否か】という問題だった筈です。既に述べた

事柄([事物]の在り方)に即して考える限り、【件の思考実験は成立不可能】と言わざるを得ません。

ように、【或る思考が成立し得るか否か】とはそういうことに他なりません。
(ここで僕が前回の投稿で論じたa.とb.の違いについて考えてみてください)
ですから、以下のご回答??

>そうなると、かの思考実験の状況を語彙立てて表現し直すのは必要なくなるのかもしれませんが、取り敢えず、お答えしたいと思います。

も先のご返答??と同様に回答の体を成していないわけです。


ここで語られている科学的検査・そのデーターなる代物の内実、両者と彼の発語の関係etc・・・これら全ては【横山さんの不明瞭で胡乱な「想像出来る=想像表象と戯れる」の中で浮遊している断片的思考】に過ぎず、まともな哲学的吟味に耐えるものではありません。

(上で論じた 幾何学的不可能性/論理的不可能性/[事物]の在り方に反しているが故にナンセンスな思考 の差異、形而上学的様相/認識論的様相/思考様相 の差異、【想像出来る】という語の異なる二つ―「想像出来る=想像表象と戯れる」 『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』―の文法を踏まえつつ、以下の質問について考えてみてください)

①件の想定において、「場所」「赤色」「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」の相互関係はどういったものなのでしょうか?
例えば、神経の通っていない場所に痛みを感じるというのは―幻肢痛のケースを除けば―明らかにオカシイですよね。因みに、幻肢痛のメカニズムについては[事物]に即した有力な説明が提出されているようです(ex. ラマチャンドランetc)。

②件の想定において、(昨夜から今日の間に起こったであろう)この異常事態の発生メカニズムはどういったものなのでしょうか?
私見では、抑もそのような現象は[事物]の在り方に反しており、端的に不可能だと思われます。

③昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ?? ―オカシイですね。例えば、件の想定で、白い壁に赤色ライトを当てたり・赤い塗料を吹きかけたりすると突然その(赤くなった)場所が痛くなるわけですか? そして、その(赤くなった)場所に黒い塗料を吹きかけたり・赤色ライトを消灯したりすると痛みが消える、と?
それとも、昨日まで赤く見えていたもの―郵便ポスト、トマト、赤いクレヨンetc―に痛みを感じるようになったと?
では、はじめと後の状況の差異は何に起因しているのでしょうか?

ご参考になれば幸甚です。

閑話休題

村に二人だけいる理髪師。片方の頭はきれいに整い、もう片方はガタガタ。腕が良いのはどっち。
二人だけのコメントの出し合い。片方は自分は理解が悪く、コミュニケーションが苦手だと言い、もう片方は相手の理解が悪く、コミュニケーションが下手だと言う。コミュニケーション力があるのはどっち。

ちょっと失礼な物言いにかちんと来ています。

おはようございます、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>村に二人だけいる理髪師。片方の頭はきれいに整い、もう片方はガタガタ。腕が良いのはどっち。

言うまでもないことですが、理髪師の評価(≠技術)とは「一定数の集団=整髪に行った村民たち」の真率な意見から割り出されるものです。Kに対してはK以外の人々、Yに対してはY以外の人々、云々。(件のアナロジーが適切であるか否かは別にしても)理髪師が自分で自分の髪を整えたのか、それとも別の理髪師に整髪してもらったのかは、理髪師の評価(≠技術)とは無関係でしょう。

>二人だけのコメントの出し合い。片方は自分は理解が悪く、コミュニケーションが苦手だと言い、もう片方は相手の理解が悪く、コミュニケーションが下手だと言う。コミュニケーション力があるのはどっち。

ここでは「力(=能力)」という語が決定的に曖昧なのですよ。何度でも繰り返しますが、読解力或はコミュニケーション能力の評価とは「一定数の集団=過去に交流を持った人々」の真率な意見から割り出されるものです。例えば、或る人物がバス停でたばこを吸っていた青年に文句を言って喧嘩沙汰になったとしても、そのこと(=件の事象)だけで彼のコミュニケーション能力を云々することは出来ません。とはいえ、以下のコメント

>僕は、円滑なコミュニケーションが苦手で、ついつい言いすぎてしまったり言い足りなかったりしてトラブルになってしまいます。

を読むにつけ・・・まあ、後は言わないでおきましょう。

森岡正博さんのブログから拾ってきました。
http://www.lifestudies.org/jp/witt.html
【哲学すること】の苛烈さ、とでも言いましょうか。
かつてトーマス・マンは「世慣れした、手堅い銀行員のような輩に『小説』が書けるものか!」と喝破したそうですが。

さて、では、そろそろ以下の問い

>ご質問に対しても僕なりにずいぶん誠実に考えて丁寧に答えたつもりです。
工藤さんのナンセンスが何を指しているのか、なぜ現象のメカニズムが不明のままではダメなのか、なぜ僕の言う「有意味・無意味・ナンセンス」の言葉使いに問題を当てはめて考えてはダメなのか。
答えろと言われても、もうかなり頑張って答えましたと言うしかないです。

に解答を与えてみましょうか? それとも、もう少し後にした方が宜しいでしょうか。

補足しますと、

①定義すれば、語の意味は確定させられるか。
この問い方では【場合による】としか言えません。「1+1=134 と定義しよう」や「菅直人は米国大統領である、と定義しよう」はナンセンス―算術の在り方や歴史的に確立された制度に反している、という理由で―でしょうが。

②他者の痛みを想像することはできるか
既述の通り、ここには[存在]論的断絶が横たわっています。とはいえ、我々が他人に対して「"彼"の痛み」を帰属させることは【我々の原初的態度の一部】であって、推論を通してはじめて基礎付けられる(正当化される)ような事柄ではありません。

③私的言語は意味を持ち得るか
既述の通り、a.可能な私的言語ならば無問題でしょう。

ご参考になれば幸甚です。

痛みに悶えている他人に対する我々の態度は、彼に対する我々の同情とかそれに類する態度によって【彼の心に対する態度である】ということが明らかにされるのである。
―クリプキ『ウィトゲンシュタインと他人の心』

(前々々回のコメントに修正を加えました)

さて、では、そろそろ僕の質問

>ご質問に対しても僕なりにずいぶん誠実に考えて丁寧に答えたつもりです。
工藤さんのナンセンスが何を指しているのか、なぜ現象のメカニズムが不明のままではダメなのか、なぜ僕の言う「有意味・無意味・ナンセンス」の言葉使いに問題を当てはめて考えてはダメなのか。
答えろと言われても、もうかなり頑張って答えましたと言うしかないです。

に解答を与えてみましょうか? それとも、もう少し後にした方が宜しいでしょうか。

哲学論議を楽しみたいとは思っていますが、その際に馬鹿にされても良いとは、これっぽっちも考えおりません。

失礼な物言いにかちんと来ています。

とまで申し上げても、それに対して僕の問題としか捉えられていない発言には逆に理解に苦しみます。
僕が謙譲して、僕の読解力の無さをのべたり、コミュニケーションの下手さを述べたりしたことを、その言葉通りに受け取られて、それを元に蔑むような物言いを、自身が為されていることに、どうぞ気づいてもらいたいです。
非常に残念な思いです。

>それに対して僕の問題としか捉えられていない発言には逆に理解に苦しみます。

「私に非はない!」と言った覚えはありませんし、【コミュニケーションという点においては】寧ろ僕の側に問題があったのでしょうが、それは僕が決めることではないので何も言わなかった、ということです。僕から見ると、横山さんが「思惟すること」を舐めているように感じられたので、敢て直截的な物言いをした―ということはあるかもしれませんね。

>僕が謙譲して、僕の読解力の無さをのべたり、コミュニケーションの下手さを述べたりしたことを、その言葉通りに受け取られて、それを元に蔑むような物言いを、自身が為されていることに、どうぞ気づいてもらいたいです。

既述の通り、読解力或はコミュニケーション能力の評価とは「一定数の集団=過去に交流を持った人々」の真率な意見から割り出されるものに他なりません。そして―失礼な物言いだとは思いますが―読解力がない云々は"僕"の偽らざる感想ですから、その評価は甘受すべきでしょう。現に知人のK君やT氏やFさん・・・は僕の話を僕の意図した通りに理解してくれます。「俺は読解力がある!」と【自分独りで思って】いても、それを【決める】のは他人ですから。

哲学の話に戻りますが・・・【言葉の意味は"自分"以外の人が決める】という視点から我々の言語活動を眺めてみてはどうでしょう。当に件の事実こそが「自らの思考を語ること」を誘発するのだ、と。

それは僕が決めることではない!?

それでは、「謝罪すべきであるか」「反省すべきであるか」も、自分が決めることではないとお考えですか。
誰か客観的は判断をしてくれる人がいないと、自分の悪かったところを考えたり、発言したりしてもしかたないと?

それとも、悪かったとは思っていないことを、遠回しに表現されているのでしょうか。

>それでは、「謝罪すべきであるか」「反省すべきであるか」も、自分が決めることではないとお考えですか。
誰か客観的は判断をしてくれる人がいないと、自分の悪かったところを考えたり、発言したりしてもしかたないと?

誰がそんなことを言ったのでしょうか? 既に述べた

【コミュニケーションという点においては】寧ろ僕の側に問題があったのでしょうが、それは僕が決めることではない

ように、僕は【コミュニケーションという点においては】僕の側に問題があったと認めていますが、それ以外のことは何も言っておりません。ですから、以下の如き

>それとも、悪かったとは思っていないことを、遠回しに表現されているのでしょうか。

は邪推というものでしょう。

横山さんが僕の発言で気分を害されたことについては、申し訳なく思っております。

これは僕の見解に過ぎないので受け入れて頂かなくても結構ですが・・・思惟することは【出来得る限り厳格かつ厳密であらねばならない】と思うのです。
別の角度から言えば、無批判で無自覚な想像の垂れ流しであってはならない、ということですが。

謝罪が貰いたいと思っておりました。
謝っていただいてすっきりいたしました。
こちらこそいやな思いをおかけしました。

思慮を欠いた発言でご迷惑をおかけしました。

ところで、こちらのブログ
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/blog-entry-546.html
を読まれたことは?

しんいちゅうじさんという方のブログなのですが、少し前に永井均氏の言う累進構造や或る種の思考実験が孕む問題について論じ合いました。

ご参考になれば幸甚です。

すごく興味深いブログです。
ゆっくり時間をかけて読んでいきたいと思います。
ご紹介ありがとうございます。

>そろそろ問いに解答を与えてみましょうか?

はい、工藤さんの回答を楽しみにしています。
よろしくご教授おねがいします。

こんにちは、工藤です。では、ご質問にお答えします。と、その前にお尋ねしたいことが・・・永井均『ウィトゲンシュタインの誤診』はお読みになられましたか?
実は、本書204~206頁に出てくる奇態な思考実験と件の問題には密接な繋がりがあるのです。とりあえず、以下のツイート
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/349823611982462977
https://twitter.com/nineteen_jacob/status/349823674066550784
をお読みください。
さて、既に述べた

(上で論じた 幾何学的不可能性/論理的不可能性/[事物]の在り方に反しているが故にナンセンスな思考 の差異、形而上学的様相/認識論的様相/思考様相 の差異、【想像出来る】という語の異なる二つ―「想像出来る=想像表象と戯れる」 『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』―の文法を踏まえつつ、以下の質問について考えてみてください)

ように、「想像出来る=想像表象と戯れる」と『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』は―字面は同じですが―全く別の事柄(文法)です。では、これを念頭に置いた上で、以下の思考実験

>その想像の先、他者の腹に自分の痛みがあるという状況を考えることも可能だ。さらに昨日まで赤色だった場所が痛みを持つという想像も可能だ。この状況について「僕は赤色の感覚が痛みの感覚に変わってしまった」と表現するのも妥当だろう。
だって、他者の感覚を自分の感覚に置き換えたわけではなく、自分の痛みを自分で感じているのだから。
>イメージとしてはこんな感じです。赤色に見えるはずの場所、例えば郵便ポスト、こいつを見ると昨日までトゲが刺さったときに感じるような感覚が起こる。
>次に、双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると、姉の右腕は何ともないが、姉の表情は険しくなり、姉の口が「痛い」という声を発する。

を検討してみると・・・どういうことになるでしょうか。
端的に言って、以下のようになると思われます。

>次に、双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると、姉の右腕は何ともないが、姉の表情は険しくなり、姉の口が「痛い」という声を発する。

先ず、件の状況を【①『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』の
意味で】考えてみます。すると、この状況は「おそらく妹は痛みに堪えながらポーカーフェイスを装っており、姉の方は痛いふりをして『痛い』と発語したのだ」と解釈されることになるでしょう。基より、これが【①における解釈】の全てではありません。他に「おそらく妹は痛みに堪えながらポーカーフェイスを装っており、【頭のおかしい】姉は妹の身体に"自分の"痛みが生じていると【思い込んでいる】のだ」という解釈もあると思います。
何れにせよ、ここで留意すべきことは、"僕"=[工藤庄平なる身体から開けた生]や横山さんがこの姉妹(=概念的構成物)ではない、ということです。
では、次に【②「想像出来る=想像表象と戯れる」の意味で】考えてみます。すると、この状況は「抑もそのような状況が存立し得るのかどうか定かではない(=形而上学的様相)のだが、とにかく一人の人物が他人の身体に"自分の"痛みを【感じている】のだ。彼女たちは【頭がおかしい】わけではないし、とにかく【私はそのような情景を思い浮かべることが出来る】のだ!」と解釈されることになります。
しかしながら、このような想像―「想像出来る=想像表象と戯れる」の中で浮遊している不明瞭で断片的な想念―は、まともな哲学的吟味に耐えるものではありませんし、何より[事物]の在り方に反しています。「私は、猫と鷹を足したような容姿を持つ架空の生命体が空を飛び回り、両目から火炎を出す有様を【②想像出来る】のだ」が「猫と鷹を足したような容姿を持つ謎の有機体が空を飛び回り、両目から火炎を出すことは【①あり得る】筈だ」を含意しないように、②「想像出来る=想像表象と戯れる」から③『想像出来る=あり得る(形而上学的様相)を肯定する』を導出することは出来ません。

残りの思考実験

>その想像の先、他者の腹に自分の痛みがあるという状況を考えることも可能だ。さらに昨日まで赤色だった場所が痛みを持つという想像も可能だ。この状況について「僕は赤色の感覚が痛みの感覚に変わってしまった」と表現するのも妥当だろう。
だって、他者の感覚を自分の感覚に置き換えたわけではなく、自分の痛みを自分で感じているのだから。
>イメージとしてはこんな感じです。赤色に見えるはずの場所、例えば郵便ポスト、こいつを見ると昨日までトゲが刺さったときに感じるような感覚が起こる。

については・・・どうでしょう、ご自分で考えてみますか?

ご参考になれば幸甚です。

ここのコメント欄がいっぱいになってきたので、新しいページに返事を書きました。

そちらをご覧ください

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-0113.html

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。そちらの方にコメントさせて頂きます。

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