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« 決定論とデイヴィドソンの行為者因果性<心は実在するか7> | トップページ | 思考実験に対する状況の解釈と言語の限界についての考察 »

2013年6月16日 (日)

第22回大阪哲学道場7/21レジュメ

↓は、7/21(日)大阪哲学道場の参考テキストです。

できれば、「探究」を読んできてもらいたいのですが、なかなか読みにくい本ですから、平凡社黒田亘著「ウィトゲンシュタインセレクション」の3・4章でも十分OKです。それもしんどいという方は、下記からテキストをダウンロードして事前に読んでもらえれば助かります。当日同じものを配布しますし、すぐに読める内容ですから、それも必須ではありません。

第22回大哲テキスト 「後期ウィトゲンシュタイン・私的言語は意味を持ちえるか」

また当日の会で、参加者に以下の3つの質問をしたいと思っています。

①語の意味を決定させるには、どうすればいいか。

②足し算の答えは無限に確定しているか。

③私的言語は意味を持ち得るか

できれば、それぞれに意見をもらえればうれしいです。

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コメント

工藤さん、こんばんは。コメントありがとうございます。
7月の大哲の発表のためのテキスト抜粋を読んでもらって、それにコメントをつけていただけると、もう「プレ発表」してるようで、とても嬉しいですし、助かります。
そこで、できれば質問させてもらいたいのです。実際の発表でも道場の皆さんに聞きたいと考えていることです。よろしくおつきあいください。
質問1「語の意味BedeutungとSinnは確定し得るか」
質問2「他者の痛みを感じることはできるか」
質問3「私的言語は意味を持ち得るか」
の3問です。それぞれ、「a,できる」「b,できない」「c,何れの立場にでもなり得る」「d,どちらでもない」「e,分からない」の5択で、出来れば解説もしてもらえると嬉しいです。無理な注文付けでごめんなさい。
>「言語習得と相互的な私秘性の成立が不可分かつ同時的であることは…デイヴィドソンの議論などを我々が承認しているという事実に示されている。」
という発言からは、僕には、私的言語の私秘性を認めておられるようにも、断罪しているようにも読めてしまってはっきり分かりません。よろしくお願いします。

工藤さん、回答ありがとうございます。
1と2の問いではL.W.に賛同し、3の問いでは一部反対という感じですね。
3については、「(あ)すでに公共言語を習得した人は彼専用の新語を創案して使用することができるので私的言語は有意味と言える。(い)しかし、己を主体として世界内部に位置付けるような言語が私的であることはできず、この意味での私的言語は無意味である」という理解でいいでしょうか。

大哲の発表では、L.W.に賛成されても反対されても、僕はその論敵になって論を深めるような会にしたいと思っています。そこでここでも、論に反対して戦う練習をさせてもらってもいいですか。

(あ)についてL.W.の立場から、「公共言語を習得した人であっても彼だけのための新語を創案するというのは、その語を使うたびに新たにその語を定義しなおさねばならないことであって、結局その語の同一性は担保されず、そのたびに新たな新語を作り出している儀式をしているのに過ぎない」ということを「探究」で説いていますが、私的言語が有意味なのだったらその同一性はどう担保されるのでしょうか。

(い)について永井の立場から、「私が感じているのは『痛み』か『くすぐったさ』かを決定しうる権威を持つのは私であって共同体ではない」と捉えるとすると、私的言語の使い手として私に特権があるもは疑いえないのではないでしょうか。

真逆の2つの反論ですが、どちらも間違っていますか。よろしくお願いします。

工藤さん、早い回答で感激です。ありがとうございます。
再反論させてもらいます。よろしくお願いします。2つの立場で全然一貫性のない反論になりますが、笑わないでください。

反論3、(い)己を主体として世界内部に位置付けるような言語が私的であることはできず、この意味での私的言語は無意味である。…とする論に反対します。
世界を言語化するにはその対象を自分なりに知覚していないと本当に理解したとは言えません。それゆえ、世界を有意味に理解するためには私が私なりに知覚する内容を有意味だとし、私が私なりに理解する言語を有意味だとすることが必要なのではないでしょうか。だから、世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思われます。

反論4、
>>クリプキの所見によれば―僕はそれを正しいと考えるわけですが―ウィトゲンシュタインは【永井均氏が主張しているような客観的言語】を否定する為に【件の問題なく可能な私的言語】を事例として用いるという誤りを犯した、と。
>>ここで同一性の担保が疑問視されているのは【永井均氏が主張しているような客観的言語】ということになります。
…について反対します。
工藤さんの回答は、要約すれば、「新語を創設するための同一性の問題は、公共的言語についての問題ではなく、客観的言語の問題であるので、それ以外の私的言語については同一性は問題にならない」とおっしゃっているように解釈しました。しかしこの回答では、客観的言語の問題という新たな問題のフレームを設定しそこに問題を押し込もうとしているだけで、もともとの「私的言語はどう同一性が担保され得るのか」に答えられているとは思えません。
それとも、ここで問題にされている「公共言語を習得した人が創案し得る彼専用の新語」というのは、
―入江幸男が「ウィトゲンシュタインが私的言語というのは、公共的に通用している言語ではなくて、ある人が新しく作った言語であり、独自の文法や語彙を持つものである。それに対して、個人言語というのは、ある人が全く一人で日本語で日記を書いているときのような言語である。ウィトゲンシュタインは、私的言語を不可能であると考えているが、個人言語は可能であると考えている。」と言うときの―
「個人言語」なのではないでしょうか。
そうであるなら、先の回答は理解できますが、「私的言語」の意味が共有できてなかったことになりますね。

工藤さん、ていねいな回答ありがとうございます。
おかげで、この問題に対して、いくつかの論の組み立てができてきました。

(あ)「すでに公共言語を習得した人は彼専用の新語を創案して使用することができるので私的言語は有意味と言える。」という認識に対して、その同一性はどう担保されるのかという疑問を上げてきました。
ここで、この認識が、「a.問題なく可能な私的言語」を私的言語の一部としてそれが可能であるとしてきたことによるものであることが分かりました。
しかし、この「問題なく可能な私的言語」なるものは、以下の「探究」の私的言語の定義づけにより、ここでは私的言語の範疇から外したいと思います。

私的言語とは 「誰かが自分だけの内的体験――自分の感じ、気分などを――自分だけの用途のために書き付けたり口に出したりできるような言語を考えることができるだろうか。――さて、我々は自分たちのふつうの言語でできないのか?〔もちろんできる。〕――だが、私の考えていることはそういうことではない。そのような言語に含まれる言葉はそれを話している者だけが知り得ること、つまり直接的で私的なその者の感覚を指し示すはずなのである。それゆえ他人はこの言語を理解することができない」(探究243)

よって、この言葉づかいによると「私的言語は無意味である」に落ち着くことになります。だから、(あ)に関する反論はなくなります。

次に、(い)に対する反論ですが、「世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思わる」という論点でもよく分からないところがありますが、この点での反論はここまでにして、あとは自分で、さらに勉強して理解していきたいと思います。

もう一つお礼を言って終わらせる前に質問させてもらいたいのですが、よろしいでしょうか。
以下のエイヤーの指摘する論点についてどう反論されますか。

A.J.エイヤー 「ウィトゲンシュタインは、列車の発車時刻の記憶を確かめるのに、時刻表の記憶を思い浮かべるだけでなく実際の時刻表と見比べて確かめねばならないとしている。しかし、もし自分の感覚が信用できないのであれば、時刻表と見比べたとしても依然として記憶を確証することはできない。他人に問い合わせることもできるだろうが、その場合も他人の返事を正しく同定させられなければならない。私が強調したいのは、この確認作業には終わりがないからこそ、どこかの段階で終止符を打たなければ系列全体が無意味になってしまうということである。そして、このことは、あらゆる同定が結局は感覚に依存していることを示している。私が同定すべきものは何であれ、つまり、対象、出来事、イメージ、記号のいずれであれ、私が頼れるのは自分の記憶と現在の感覚だけである。記憶と感覚が相互に確認される程度に違いがあるだけなのである」(「ウィトゲンシュタイン」邦訳p.126)

つまり、こうです。
反論5、私的言語において語を同定しようとするのも、言語ゲームにおいて語を同定しようとするのも、或いは三角測量において語を同定しようとするのも結局は「私の感覚」に依存する以外ないのであるから、言語ゲームも三角測量も私的言語も五十歩百歩であろう。言語ゲームや三角測量で語の意味が同定できるとするなら私的言語における語の同定も有意味とすべきである―ということです。
この論はどこまで本当だと思われますか。よろしくお願いします。

工藤さん、こんにちは。
論戦のお相手をしてくださる方がいるというのは有難いことですね。相手の方から新たな情報や視点を貰える以上に、自分自身で考えるときにも新たな視点が膨らんでいきます。感謝いたしております。

でも、
昨日の反論5に対するお答えは、「短絡的主張」という抽象的な印象評価と、「意味の故郷は言語ゲームだから」という論点先取による言い切りでしかなく、やや説得力に欠けたような印象を受けました。でも、これは、僕の質問が話を性急に進めたせいだろうと思います。
そこで、反論5に補足をして、再度、質問させてもらいたいと思います。よろしければもう一度お答えください。

反論5補足、「しくい」としか言いようのない感覚が起こった。この私的言語「しくい」は有意味であるかを考える。いろいろ調べてみて、しくいときには血圧が上がることが分かったとする。そこで、「血圧が上がっている」状態を「しくい」と呼ぶと定義しなおしてしまうことにする。これなら公共的な確かめができるので、もはや私的言語ではない。ところで、「しくい」を同定するために、「血圧上昇」という情報を用いている。ところが「この「血圧上昇」は突き詰めれば私の私的感覚によって同定される。だから、「しくい」という私的感覚を同定するために、「血圧上昇」という私的感覚を用いることになっていると言える。それならば、そんな面倒な手続きを踏まないでも、最初から「しくい」という私的感覚だけでも十分なのではないか。確かに血圧上昇という証拠があればその言明の確かさは高まるだろうが、それも結局、五十歩百歩の確かさである。血圧上昇によって確かめられた「しくい」が有意味だというのであれば、私的感覚のみによって確認された「しくい」も有意味だとすべきである。
よって、私的言語「しくい」は有意味である。

工藤さん、
分からないから教えてほしいという一面はもちろんないことはないですが、様々な論の組み立てをていねいに考えてみたいというのが、質問反論の、僕の意図です。ですので、今回の論議においても僕の立場がコロコロと変わっています。そのために、誤解させてしまったかもしれません。

まず、僕は「私的言語」はL.W.の言葉づかいのまま、原理的に他者に理解不可能なことばを指したいと考えています。ですので、「a.問題なく可能な私的言語」にはあまり興味がありません。反論5で「しくい」を用いたのは不用意だったかもしれませんが、単純に他者に対して理解不可能な「私的言語」として論を立てているつもりで言っています。それに対して、それが私的言語ではないというとおっしゃるところが僕の興味ですが、肝心のその部分は、「a.問題なく可能な私的言語」なのだから、「a.問題なく可能な私的言語」なのだという論立てにしかなっていないようなので、やや残念に思っています。
でも、おおよそのところで、おっしゃっていることは理解できたと思います。(80%くらいかな)
おかげさまで、発表するときの論戦の良い練習ができました。

どうもありがとうございました。

工藤さん、こんばんは。
僕は、円滑なコミュニケーションが苦手で、ついつい言いすぎてしまったり言い足りなかったりしてトラブルになってしまいます。一昨日もバス停でたばこを吸っていた青年に文句を言ってケンカになりかけてしまいました。ここのコメントのやり取りでも、言葉足らずだったり言い過ぎたりしてしまったりしていたり、これからしたりしてしまうかもしれませんが、どうぞ、大きな心で見てやってください。

もし、時間がおありなら、もう少しお付き合いいただければありがたいです。

以下の「確認反論3」と「確認反論5」に対していずれも、その下の「確認①②③」がその否定的回答の論拠になるという理解でいいですよね。

>確認反論3、世界を言語化するにはその対象を自分なりに知覚していないと本当に理解したとは言えません。それゆえ、世界を有意味に理解するためには私が私なりに知覚する内容を有意味だとし、私が私なりに理解する言語を有意味だとすることが必要なのではないでしょうか。だから、世界を開闢させる時点から言語が私秘性を持つのは必至だと思われます。
>確認反論5補足、「しくい」という私的感覚を同定するために、「血圧上昇」という私的感覚を用いることになっていると言える。それならば、そんな面倒な手続きを踏まないでも、最初から「しくい」という私的感覚だけでも十分なのではないか。確かに血圧上昇という証拠があればその言明の確かさは高まるだろうが、それも結局、五十歩百歩の確かさである。血圧上昇によって確かめられた「しくい」が有意味だというのであれば、私的感覚のみによって確認された「しくい」も有意味だとすべきである。
よって、私的言語「しくい」は有意味である。

>確認回答
①主体「この私~他の・各々の私・我々」概念と自己意識の不可分性
②主体概念~自己意識の内発的生成―例えば【或る赤ん坊が一切の言語的交流なしに独力で私的言語?をつくり出す】等―の不可能性
③公共言語の習得と相互的な私秘性の成立は不可分かつ同時的であること
を極めて説得的に論証していると思います。

以上確認おわり。

ここまでのところで非常に重要な指摘があったと思います。いくつかのはっきりした否定論拠になっていると思います。ただ、僕は答えを出すことよりも、そのための論立てを考えることに興味を持っています。そこで細かい部分ですが、もう少し考えたいことがあります。
反論5についてですが、よろしくお願いします。


(A)或る天才児が一切の言語的交流なしに独力で私的言語をつくり出せると(無理矢理に仮定)した場合
と、
(B)或る一般成人が公的な言語ゲームの中で公的言語を持ち得る(という一般的事実の)場合
とを考えます。疑問は「(A)の言語が無意味なのであれば、(B)の言語も無意味になるのではないか」です。(B)にしても結局は自分の私的感覚のみをよりどころにしているのだからです。
というところが、反論5のもう一つの問題箇所だと思います。

つまらない疑問でしょうか。

工藤さん、失礼していました。完全に思い込んで勘違いをしていました。工藤さんは、(ウィトゲンシュタイのいう意味での)私的言語は認めないけれど、言語の私秘性は認められるのですね。ついつい自分と同様で、私的言語とともに言語の私秘性も認めない立場なのだと思い込んでいました。
それなら、逆に色々聞きたいことがあります。
質問を重ねて良いでしょうか。

質問6、例えば「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった」などという状況が神の視点から見て分かるということは、あり得るのでしょうか。

つまらない、ではなく、的外れ、・・・・そのとおりだと思います。分かりやすかったです。しかし、その無意味に思える混乱の中に何かしらの発見ができないか、も少し自分で考えてみます。

僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった・・・・について、例えば、それが、脳内物質の働きを分析してわかる、ということはあり得ますよね。そこには、公的な同一性の基準があるので有意味だと言えると思います。
でも、そんな基準がなかったら、課題文はナンセンスですよね。しかし、言語の私秘性を認めるということは、そこに意味を持ち得させるということではないのでしょうか。

痛みと赤さで伝わるかと思ったのですが、難しいみたいですぬ。誤解を解く努力をするよりも、話を変えてしまいます。

『私の痛み』という語で捕まえられる内容は、原理的に公的な言語ゲームに乗る対象としての『私の痛み』でしかあり得ないですよね。しかし、言語の私秘性を認めるのであれば、言語ゲームに乗らない[『私的なこの痛み』なるもの](矛盾した表現しかできません。ナンセンスな事柄ですから。)、この[私的な痛み]を『私の痛み』という語で捕まえ得ると考えるということでしょうか。

相互的な言語の私秘性を認められているということから、その論旨を、僕とのギャップを掴みたいと思って質問しています。
続けます。

では、相互的な言語の私秘性を認められているのだとしても、内的なものも、未来も、その他も、何も僕らには隠されていないとする立場だということですか。
それならちょっとがっかりです。僕自身の立場との違いがなくなってくるからです。

「「内的なものは我々には隠されている」――未来は我々に隠されている――しかし天文学者が日食を計算するときそのように考えるか。はっきりした原因で苦痛に身をよじっている人を見れば、私はその人の感じていることがそれでも私に隠されている、などとは考えない。」(L.W.「探究」Ⅺ)

前記は上が元ネタです。

「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった・・・・について、例えば、それが、脳内物質の働きを分析してわかる、ということはあり得ますよね。」
他の内容では僕が読み違えして僕が間違っているのでしょう。でも、「痛み―赤色」の話は普通の日常生活の未来空想小説として普通に想像できる話です。これについては、どう考えても工藤さんの勘違いではないですか。再考してください。

例えば、脳内の神経回路の全てをリサーチし、全ての電圧と化学物質の変化と流動をリサーチする。そこで、一般的に「痛み」を感じるときの反応パターンと、「赤色」を感じるときの反応パターンとがあることが分かったとする。そしてこのとき、僕の反応パターンと彼の反応パターンが逆転していることが分かったとする。この状況について、「僕の『痛み』は彼の『赤色』である」と表現するような言語ゲームは可能ではありますよね。

これが可能であるのに対して、「神の視点」で「本当に」、僕と彼の私的感覚が逆転しているということが分かり得ると、工藤さんがお考えになるかを質問したかったのですが、この間のやり取りで、すでに、答えは分かりました。「ノー」ですね。

もとい。イエスでもノーでもない意味での、ノー。「有」でも「無」でもな意味での「空」。みたいなノーですよね。

「歯の或る虫食い状態で、普通、歯痛と呼ばれるものを伴わない状態を『無意識歯痛』と呼び、そのような場合、歯痛があるがそれを知らないという表現を使うのがむしろ実際的だということも考えられる」
「方程式x(の2乗)=-1は、解±√-1を持つ。だが、この式は解を持たないと言われた時代があった。それと似た話で、『直線は円につねに交わる。或る場合は実数点で、また或る場合は虚数点で』と言うことも『直線は円と交わるか、交わらないでその交差がα離れている』と言うこともできる。この二つの陳述は正確に同じ意味である」(青色本)

工藤さん、ありがとうございます。
ご指摘の通り、僕の理解はかなりあやふやです。そこで、いったん整理しておきたいと思います。

エイヤーに主張に関して次のような反論をし、回答をいただきました。これをなぞって、改めて質問させてもらいます。


僕からの反論反論5「私的言語において語を同定しようとするのも、言語ゲームにおいて語を同定しようとするのも、或いは三角測量において語を同定しようとするのも結局は「私の感覚」に依存する以外ないのであるから、言語ゲームも三角測量も私的言語も五十歩百歩であろう。言語ゲームや三角測量で語の意味が同定できるとするなら私的言語における語の同定も有意味とすべきである―ということです。この論はどこまで本当だと思われますか。よろしくお願いします。」
に対する回答をまとめるとこうでしたよね。
工藤さんの回答回答 「「我々の言語的な営みは【五感の恒常性や記憶の安定性といった自然的基盤に支えられて】成立している」という指摘は正しいのですが、そこから短絡的な主張を引き出してくるのは感心しません。「痛み」は[痛み]ではありませんし、意味の故郷は言語ゲームなのですから。
数日前から内観的に近似した感覚が何回も起こるようになった(殴打→痛覚の如き外的脈絡なしに)ので、それに名前「しくい」を与えて識別しているのだ! ―永井均氏の主張に反して、これは既に公共的言語を習得した持続的個人が新たに生じてきた内的感覚に私的命名を為すという思考実験に過ぎない―永井均氏の思考実験の胡乱さについて。 内観的に近似した感覚を識別・同定することは、それに私的名前を与えることに先行するのではないか。 我々は通常、外的脈絡を観察したり・名前を指標にすることによって内的感覚を識別・同定してはいない。
【永井均氏の思考実験に登場する「しくい」はa.問題なく可能な私的言語に過ぎないし、「しくい」が成立し得ることはb.永井均氏の言う客観的言語―例えば、或る赤ん坊が一切の言語的交流なしに独力でつくり出す私的言語?etc―の可能性を含意・担保しない】というのが僕の見解だったわけですから、先の反論??は(横山さんの主張に反して)実際には同意でしかなかった、ということになりますね。
(既述の通り)ここで重要なのは、a.問題なく可能な私的言語(或る個人が専ら自分独りが使用する為に創案した言葉なのだが、その使用法を彼が教えてくれれば我々にも理解出来るような言葉)とb.不可能な私的言語(永井均氏の言う【客観的言語】のようなもの)の差異を精確に理解すること、でしょう。」

反論5に対する回答終わり

ここで、改めて質問します。
「「しくい」がa.問題なく可能な私的言語であるということは【件の思考実験で描出されている状況を我々が理解し得ることに示されている】というのが僕の見解だったわけですが。という工藤さんの言について、これは、永井均氏の思考実験に登場する「しくい」についても、僕の反論5補足(「しくい」としか言いようのない感覚が起こった)の「しくい」についても、それがa.問題なく可能な私的言語であるということを示されたものでしたが(そして、これは、L.W.による言葉づかいでは「私的言語」に当たらないというものだと思いますが)、その論拠がいかなるものであるかが、ここでの論立ての主要な問題だと思います。工藤さんは、「しくい」がa.問題なく可能な私的言語であるということの論拠はどういうものだとお考えですか。
また、どういった内容のものだとウィトゲンシュタインの言う意味での私的言語にあたる言葉で質問の設定が可能でしょうか。それとも、このような哲学的検討は不可能でしょうか。

工藤さん、

7月のウィトゲンシュタイについての発表での論戦の練習をさせてもらおうとして、いろいろな立場から、茶々を入れさせてもらいましたが、完敗ですね。論戦にもなりませんでしたね。僕の考えているネタは以上で終わりです。

相手をしてくださってありがとうございました。

もし、他にも、ウィトゲンシュタイの私的言語の関連で、論戦のネタになりそうなものをご存知でしたら教えてください。

感謝

論戦ごっこをするんだったら、用意した土俵に乗ってもらわなくちゃ話にならない。どうやって乗ってもらえる土俵を作って、論戦ごっこにまで辿り着くか。これが、最大の課題だね。
土俵に乗ってもらえないんじゃつまらない。

テーマの性格上、どうしても語られる内容が、文法に正しく乗れるか乗れないかのぎりぎりのところを突きたく、そこが、論戦ごっこの土俵になる。だから、言葉の意味があやふやになってしまいやすく、互いに思い込んだまま誤解に誤解を重ねることになってしまう。土俵ごと崩れてしまうことを、どうやって防ぐか。面倒でも言葉のはしはしにこだわって、互いの意図を確かめていくしかないね。個性的で独特の言葉づかいをする人ともそうでない人とも。

特に私的言語周辺について。

或る痛みの場所を想像し、それを手の痛みから腕の痛みと別の痛みの場所に移動させていく、という想像は可能である。他人の痛みを自分の痛みとして想像するのとは違い、自分の痛みを想像するのだから容易い。
その想像の先、他者の腹に自分の痛みがあるという状況を考えることも可能だ。さらに昨日まで赤色だった場所が痛みを持つという想像も可能だ。この状況について「僕は赤色の感覚が痛みの感覚に変わってしまった」と表現するのも妥当だろう。
だって、他者の感覚を自分の感覚に置き換えたわけではなく、自分の痛みを自分で感じているのだから。

では、「私の痛みは彼の赤色だった」はどうか。
これが他者の感覚を自分で感じるという意味の表現なのであれば、そんな言明はナンセンスだ。
しかし、脳内物質の測定による科学的言明なのであれば(哲学的言明ではない)、これははっきり有意味である。哲学的には自分の痛みを自分で感じているという段階をはみ出していないのだから。


では、哲学的に他者の痛みを知るナンセンスと、科学的に他者の痛みを知る有意味な言明とには、はっきりとした境界があるのだろうか。

工藤さん、ていねいで分かりやすい回答ありがとうございます。僕にも分かるような語彙を選んでくださっているようで、たいへん助かります。
ご指摘の、他者の痛みを「知る」と「感じる」の語の混乱。確かにそうですね。他者の痛みを「感じる」という哲学的ナンセンス性と他者の痛みを「知る」という科学的言明の有意味性の違いははっきりしていて、その差を追う面白みは薄いですね。

ただ、他者の身体や電信柱に痛みを感じたり、痛みと赤色が逆転したりする可能性については、異論があります。
取り敢えず、
自分の身体から離れた場所が痛む可能性について、再考してみます。

自分の身体が痛むときをどう判断するか。「痛い」という語を覚え初めた子どもが、「どこの場所が痛むのか」を知るには、その場を見たり触ったりして、状況を調べる必要がある。爪先にトゲが刺さっているのが見えて、そのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みの感覚が激しくなるのなら、「爪先が痛い」のだと判断すべきだ。必ずしもトゲが刺さっている場所と自分の脳が神経で繋がっているのを確かめる必要はない。
だから、同様に電信柱にトゲが刺さっていてそのトゲをぐりぐり動かそうとすると余計に痛みが激しくなる場合、そしてそれが繰り返し起こる場合、「電信柱が痛む」という判断をするのは妥当である。

世界を開闢させ世界を認識し記述する第一人称としての「私」と、認識され記述される対象としての「私」との区別を、しているつもりなのですが、変でしょうか。

何処が痛むのかを考える問題について、あるラインから外は文法的な分析の問題と捉えるべきだと工藤さんが主張されるのを否定しようという気はさらさらありません。でも、これを科学的帰納の問題とすることが不可能だというのは変だと思うのです。
電信柱に刺さったトゲをぐりぐり動かすと痛みを感じる。何度繰り返してもぐりぐりすると痛い。このような状況は想定可能ですよね。この状況について「電信柱に痛みを感じる」という表現を当てることが妥当かどうかが問題になっているわけですよね。
文法的な分析の問題だとして、有意味な命題ではないと、頭っから排除することも勿論可能だとは思います。
でも、極端にへんてこな世界で言語の限界を考えるのも哲学の1つの楽しみであり、これを科学的帰納の問題とすることで言語の限界にアタックするのは哲学的遊戯として許されると思います。

例えば双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると姉の右腕が赤く腫れてきて姉の表情が険しくなり、姉の口が「痛い」と声を発する。この場合、姉が姉の身体に痛みを感じているのだから問題ないですよね。
次に、双子の妹の右腕に刺さったトゲをぐりぐりすると、姉の右腕は何ともないが、姉の表情は険しくなり、姉の口が「痛い」という声を発する。この状況を「姉が妹の身体に痛みを感じる」という言明で表す。この表現が適切であるかどうかは分かりませんが、可能だと言えると思います。少なくとも話は通じるでしょう。妹の身体に起こった原因によって、姉の振舞いが変化する状況が、一定期間続いてきたのなら「姉は妹の身体に痛みを感じる」という表現を許すだけの帰納的推測条件が揃ったと見なしても良いのではないでしょうか。
この状況は、妹の身体が電信柱になったところで変わりません。帰納的推測を許すだけの条件が揃っていれば「電信柱に痛みを感じる」も、科学的有意味発言になるはずです。科学とは帰納的推測のための論理に他ならないのですから。

痛みに関する発言で、言語ゲームの射程範囲ぎりぎりの問題だからといっても、文法的な分析問題にしなければならないとは限らないでしょう。

いかがでしょうか。

くだんの想定と仰るのは「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった」の方ですか、「電信柱に痛みを感じる」の方ですか。

昨夜から今日の異常事態ということを考えられ、「場所」「赤色」「視野」などの語の関係を問われているので、まず、
「昨日まで赤色だった場所が痛みを持つ」の状況を考えれば良いでしょうか。
イメージとしてはこんな感じです。赤色に見えるはずの場所、例えば郵便ポスト、こいつを見ると昨日までトゲが刺さったときに感じるような感覚が起こる。なぜそんなことが起こるか原因がわからないならそんなことは起こらない・・・なんてことはないので、原因究明には余り意味はないと思うのですが、例えば、マッドサイエンティストが僕の痛みの神経回路と赤色の神経回路を逆繋ぎしてしまったのかもしれません。「視野」「視覚」「想像表象」「痛覚」「神経発火」については僕の使っている語彙でないので分かりません。
「僕にとっての『痛み』は彼にとっての『赤色』だった」や「電信柱に痛みを感じる」は昨日から今日の異常事態ではなく、毎日の日常の様子という想定です。
ごめんなさい。期待されてる答え方ではないですね。これで回答になったでしょうか。

僕からも質問させて頂きます。
「[事物]の在り方に反する」とは、科学的常識に反するという意味なのでしょうか。その意味するところを教えてください。

例えば、「僕の『痛み』は彼の『赤色』だった」について、言います。これは、僕と彼それぞれの脳内の状態(神経繊維の一般状態とその発火内容、その他化学的、電気的状態についての総合的でデータ化可能な情報)を調べたときに、僕が「痛い」と言って「痛み」という公的言語を表出するときの脳内状態と、彼が「赤色が見える」と言って「赤色」という公的言語を表出するときの脳内状態に同定可能な類似性があるということです。
僕にとっての公的言語でいう「痛覚」が現れているという状況で、
彼にとっての公的言語でいう「視野」の中に、公的言語でいう「赤色」の、公的言語でいう「視覚」が、公的言語でいう「表象」として現れているという状況です。
答えになっていないかも知れないですが、工藤さん指定の語彙を使うよう努力してみました。


さて、質問です。文の意味を考えるときに、その文が真か偽かを問えるような文を「有意味」と言い、問えないような文を「無意味」と言い、文として成立していない擬似文を「ナンセンス」と言う・・・という「論考」の語使用に倣って、僕は「有意味」「無意味」「ナンセンス」という語を使っているのですが、その用法で表す場合、「猫と呼んできた動物が空を飛び回り、火炎を出す」は有意味、無意味、ナンセンスのどれになるとお考えですか。

追記、

上の件の発生メカニズムについては、まったくの謎なのです。現代科学の理論からは説明不可能です。

工藤さんのいう「ナンセンス」は「明らかに偽だ」くらいの意味合いなのですね。だから、「[事物]の在り方に反するナンセンスな文」というのは「アプリオリに偽と判別されるべき有意味文」くらいの意味合いですね。
また、「思考実験が成立不可能」は「思考実験を考えること自体が不可能或いは無意義だ」と言っているのではなく、「思考実験の内容は偽にしかならない」と言うような意味合いですね。だから、「事物の在り方に即して考える限り、この思考実験は成立不可能」は「この思考実験の内容はアプリオリに偽だ」を、意味するものなのではないですか。
そうだとすると納得できるのですが、いかがでしょうか。

誤読にお叱りを受けるでしょうが、僕は「事物の在り方に即して考える限りこの思考実験は成立不可能」は「アポステリオリな何らかの理由においてこの思考実験そのものを考えることが不可能或いは無意義」と読んでいました。


そのような意図でしたので、つまり、思考実験の内容が真か偽かではなく、思考実験そのものが考えられるか考えられないかについて、考えていましたので、
それが真であるためにはどのような原因のメカニズムが考えられるかという点は重要ではないと、僕が考えたのも理解していただけるでしょうか。

そうなると、かの思考実験の状況を語彙立てて表現し直すのは必要なくなるのかもしれませんが、取り敢えず、お答えしたいと思います


「僕の『痛み』は彼の『赤色』だった」について、
この発言は、僕と彼それぞれの脳内状態の科学的検査結果として設定したものです。
ですから、これについて、外的対象、視野、視覚印象などの語を用いて表現すると次のようになると思います。

○僕が「外的対象に対して痛覚を覚え、痛覚印象を持った」という公的な発言によって表現するところの「僕の痛み」については、「僕の脳内状態の科学的検査結果のデータ」を、その意味として位置付ける。
彼が「外的対象に対して視野の中に赤い色覚印象を持った」という公的な発言によって表現するところの「彼の痛み」については、「彼の脳内状態の科学的検査結果のデータ」をその意味として位置付ける。
そして、この2つのデータに同定可能な類似性があることを「僕の『痛み』は彼の『赤色』だった」という文の真偽の基準とする

として、この文を捉えています。

工藤さんからは、まだ違うと言われるでしょうが、僕の意図からすると、こういう表現になります。

宜しくお願いします。

もとい

彼が「外的対象に対して視野の中に赤い色覚印象を持った」という公的な発言によって表現するところの「彼の赤色」については、彼の脳内状態の科学的検査結果のデータとして位置付ける。

でした。

工藤さんが僕に分からせようとかなり苦労して下さっているのは伝わってきます。
僕も理解しようとかなり頑張っています。
でも、工藤さんの言葉が何を意味しているのか、さっぱり分かりません。
ご質問に対しても僕なりにずいぶん誠実に考えて丁寧に答えたつもりです。
工藤さんのナンセンスが何を指しているのか、なぜ現象のメカニズムが不明のままではダメなのか、なぜ僕の言う「有意味・無意味・ナンセンス」の言葉使いに問題を当てはめて考えてはダメなのか。
答えろと言われても、もうかなり頑張って答えましたと言うしかないです。

困っています。

閑話休題

村に二人だけいる理髪師。片方の頭はきれいに整い、もう片方はガタガタ。腕が良いのはどっち。
二人だけのコメントの出し合い。片方は自分は理解が悪く、コミュニケーションが苦手だと言い、もう片方は相手の理解が悪く、コミュニケーションが下手だと言う。コミュニケーション力があるのはどっち。

ちょっと失礼な物言いにかちんと来ています。

哲学論議を楽しみたいとは思っていますが、その際に馬鹿にされても良いとは、これっぽっちも考えおりません。

失礼な物言いにかちんと来ています。

とまで申し上げても、それに対して僕の問題としか捉えられていない発言には逆に理解に苦しみます。
僕が謙譲して、僕の読解力の無さをのべたり、コミュニケーションの下手さを述べたりしたことを、その言葉通りに受け取られて、それを元に蔑むような物言いを、自身が為されていることに、どうぞ気づいてもらいたいです。
非常に残念な思いです。

それは僕が決めることではない!?

それでは、「謝罪すべきであるか」「反省すべきであるか」も、自分が決めることではないとお考えですか。
誰か客観的は判断をしてくれる人がいないと、自分の悪かったところを考えたり、発言したりしてもしかたないと?

それとも、悪かったとは思っていないことを、遠回しに表現されているのでしょうか。

謝罪が貰いたいと思っておりました。
謝っていただいてすっきりいたしました。
こちらこそいやな思いをおかけしました。

すごく興味深いブログです。
ゆっくり時間をかけて読んでいきたいと思います。
ご紹介ありがとうございます。

>そろそろ問いに解答を与えてみましょうか?

はい、工藤さんの回答を楽しみにしています。
よろしくご教授おねがいします。

ここのコメント欄がいっぱいになってきたので、新しいページに返事を書きました。

そちらをご覧ください

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-0113.html

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