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2013年3月22日 (金)

決定論とデイヴィドソンの行為者因果性<心は実在するか7>

行為論と決定論は両立できるか

アンスコムの反因果説とデイヴィドソンの因果説の対立は、端的に言うと、行為論と決定論が両立できるとするか否かの対立である。アンスコムら反因果説派が行為論と決定論が両立しないとするのに対し、デイヴィドソンら因果説派は両立させることができるとする。
元々、反因果説派が「心は行為の原因になり得ない」と考えた大きな根拠は次のようなものだった。すなわち、もし人間の意志が行為の原因なのであれば、その意志の原因になるべき前段の意志がさらに必要になり、その前段の意志を起こすためにはその原因になる前々段の意志が必要になる。というように原因を無限に遡っていかなくてはならなくなってしまう。そして、どこまで遡っても遡り終えることはかなわず、結局その行為を始めることができないままになる。原因の根源を人間の意志に置くことはできないのだ。だから、心は行為の原因になり得ないと。
このパラドクスを解消するために、反因果説派は「意志」によって心の働きを捉えようとするのを止め、行為を後から振り返って合理化し、記述し直す「意図」というものによって心を捉えることにした。そして、行為の理由は行為の原因にはなり得ないとした。

これに対してデイヴィドソンは意義を唱える。反因果説派の言うように、心が行為の原因になり得ないのならば、私が「UFOを食べたい」と思ってもその思いによって体を動かし実際にUFOを食べることができないことになってしまう。反因果説は行為が自由にできるものであることを認めてくれないのだ。このことだけからでも、反因果説による行為論が正しいとは思えない。

行為者因果性

そこでデイヴィドソンは「行為者因果性」という新しい「原因-結果」関係に関するアイデアを持ってきて、反論する。

そもそも、理由が関係性に関する人為的な分析であるのに対し、原因という概念は、行為を人為から離れた客観的な関係として捉えるものであって、行為者の視点を持つものではなかった。そこに行為の視点を持ち込んだのが「行為者因果性」である。
反因果説派による因果性の捉え方では、例えば、「UFOが食べたい」という思いがあったとしても、その思いを拾うことができるのは行為の再記述による理由づけだけで、因果性ではない。因果性の観点で言えば、「UFOが食べたい」と思ってUFOを食べた場合でも、「UFOを欲する状況を作るニューロンやシナプスの物理的状態の推移があって、その神経系などからなんらかの化学・電気信号が伝わって腕の筋肉系が運動したのだ」などというような、物理法則的な関係性が示されるに過ぎない。心の意志や意図を因果性の話のテーブルに乗せることができなかったのだ。
このメンタルな行為論とフィジカルな因果論の相容れなさに対し、デイヴィドソンはどう対処したのか。
前節までで見てきたように、UFOか一平ちゃんのどちらを食べるかが、物理法則によって(或いは神の意志によって)決定していたとしても、そのどちらを食べるかは「自分で」選ぶことができ、選んだ方を食べることができる、というのが「行為者性」であったが、デイヴィドソンは、この「行為者性」をそのまま、因果論に当てはめたのである。
つまり、UFOか一平ちゃんのどちらを食べるかが、物理法則によって(或いは神の意志によって)決定していたとしても、その一方を「自分で」選んで食べたいと思ったなら、それを原因にして、実際に食べるという結果を得ることができる、というように考えるのである。これが「行為者因果性」である。

決定論との対峙

アンスコムの行為論とどう違うのであろうか。アンスコムの行為論では、決定論と直接関わらないで済むように、行為を記述しなおして理由付けすることで、因果関係とは関係のないテーブルでの話にした。アンスコムの行為論は決定論を排除しているようで、決定論が正しいのなら行動は意志によって決められないという「非両立論」でしかない。決定論と対峙することなく、仕方なく因果性の土俵で勝負せず決定論から逃げてきたと言うこともできるだろう。
では、デイヴィドソンの行為論では、決定論と対峙しているのか。物理法則によってすべての物理的因果が決定していたとしても、それとは関係のない「行為者因果性」なるものをでっち上げて対立をするりとかわしているのだから、対峙しているとは言いがたいかもしれない。しかし、因果の意味を問い直し新しい概念によって因果性を再建していこうとしていることには違いない。
UFOか一平ちゃんかのどちらが食べたいか迷う。そのとき、脳内がその思いに対応した物理的状態になる。そして、その物理的状態から物理法則にのっとって、脳内はUFOの方が食べたい気持ちになることに対応するような物理的状態に変異する。さらにその物理的状態から物理法則にのっとって、UFOを食べるような仕草をするような物理的命令信号が脳内から腕の筋肉に送られる。完全に決定論が正しかったとして、100%物理的法則に従って、この一連の運動が必然的に脳や腕で起こったとする。それでも、「行為者因果性」ならば因果性は問えるのである。決定論が正しかったなら、その決められた運命から逃れることができないので、自由がなくなるという自由の捉え方を「選択可能性」と言ったのに対し、決定論が正しかったとしても、UFOが食べたくなったらUFOが食べられるのだという自由の捉え方を「行為者性自由」と言った。同様に、決定論が正しかったなら、その決められた運命から逃れられず、因果性とは違うステージで話をするしかないと考えたのが「反因果説」だったのに対し、決定論が正しかったとしても、UFOが食べたくなったからUFOを食べたのだと捉えられるとするのが、「行為者因果性」なのである。

自由と因果

「因果性とは、空間的に隣接した場所で時間的に連続して二つの出来事が伴って起こるときにこの二つの間に人間が想像するような結合関係である」とヒュームは言う。元々、一般的に言われる物理的な原因でさえ、人間が勝手に想像した結合なのである。だから、心と体の結合関係を人間の都合ででっち上げて悪いわけがない。物理的な因果関係によって人間の運動が説明しやすくなるのであれば、物理的因果関係は有用であり、有意味である。同様に、行為者因果性によって人間の行為が説明しやすくなるのであれば、行為者性因果関係は有用であり、有意味であるのだ。

ただし、デイヴィドソンの因果説は、反因果説と同じく、「行為に関係するのは意志ではなく意図である」とするものである。デイヴィドソン説でも、意図は行為の再記述であり、後から行為を振り返って評価し直したものである。だから、「物理的脳状態によって人間の行動が決定されてしまうのであれば、そこに人間の自由意志が入り込む隙はない」とする先のパラドクスに対しても、「意志」は入り込めないが、「意図」は再記述して得られるとする点では、反因果説と同様である。しかし、反因果説とはっきりと違うのは、「物理的脳状態によって行動が決定されてしまうのであっても、自らの意図によって自由に行動することができるのだ」と胸を張って言える点では大いに異なる。行為に対する因果関係を物理的で肉体的なフィジカルの側から捉え、意志と行為の因果関係のパラドクスから逃れるために、心を再記述して捉える意図から心を考えようとしたのがアンスコムら反因果説派。それに対して、心的なメンタルの側から行為を捉え、意図と行為が行為者性因果的関係を持ち得ると考えることによって、意志と行為との因果関係のパラドクスを解消したのが、デイヴィドソンら因果説派。それによって自ら為そうとすることを為し得るのだと記述できるようになった
デイヴィドソンの因果説は人間の自由を真正面から謳うために必要な行為論なのである。

そして、この因果関係の捉え方を心身の構造に適応させて組み立てて考えたのが非法則的一元論と呼ばれるアイデアになるのだが、これについては、次節以降で見て行きたい。

つづく

 

<心は実在するか>

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コメント

言語は存在しないとか言ったらしいデヴィドソンって良くないですか?

amazonのΘさんの書評

意味が世界の側にあるという事実は、心における第一人称の特権を怪しくするのではないかという疑問が浮かんでくる。しかし、この疑問をデイヴィドソンは否定する。デイヴィドソンは、主観が占めている心の中心という概念そのものを否定する。そうすることで、第一人称の特権を確保する。確かに意味は心の外にあるのだが、第一人称はその意味を決めるための経験をすべて知っている。一方、第三人称はその経験を極めて部分的に、及び推測にもとづいて、知るしかない。ここに第一人称の特権が現れるのだ。

「私」の居場所を少しだけ残してくれたような気がしました。

taatooさん、こんばんは。

「主観的、間主観的、客観的 」に対する書評ですね。面白いところを見つけてきますね。
この本は工藤さんから「三角測量」を薦められたので、図書館で借りて読みましたが、全然読み込めてませんでしたね。
スワンプマンの話が「意味が世界の側にあるという事実は、心における第一人称の特権を怪しくするのではないかという疑問を否定する」という話として読めるのですね。

とても興味深いです。
「三角測量」についても、今読んでいるデリダとの関連がありそうに思っていて、デリダを攻略したらもう一度読みたいと思っていました。
ぜひ、taatooさんも読んでみてください。感想を教えてくださいっ。

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