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2013年3月12日 (火)

デイヴィドソンの因果説<心は実在するか6>

デイヴィドソンの行為の因果説

 

ウィトゲンシュタイン、ライル、アンスコム等によって「行為と理由は、原因と結果で説明できるような関係(因果関係)ではあり得ない」とされてきた、20世紀哲学主流の「行為の反因果説」に対して、D.デイヴィドソンは「行為の理由は原因でなければならない」と言って、アリストテレスから脈々と続いてきた「行為の因果説」を擁護しなおした。本節では、この、デイヴィドソンの因果説がどんなものかを見ていく。

Davidson
Donald Davidson

 

行為を理由づける2条件

 

デイヴィドソンによると行為を理由づけるための条件は次の2点である。

条件1.「dと記述された行為Aを行為者が為すときの主たる理由がRであるのは、必ず以下の場合である。理由Rは、ある性質をもった行為に対する「肯定的態度」と、dと記述されたAがその性質を持っているという「信念」から成っている。」

条件2.「行為の主たる理由は、その行為の原因である。」

「行為の理由は「肯定的態度」と「信念」から成り」(条件1)、そして「その理由は原因なのだ」(条件2)というのがデイヴィドソンの主張である。

 

 

理由とは肯定的態度と信念の組合せ

 

理由とは「したい」という態度と「そーすればできる」という信念を併せたものだというのだ。

例を挙げて考えてみよう。

「カップ麺に湯を注ぐ」(d)という記述で示された行為Aを行為者が為すときの主たる理由Rは、「カップ麺を食べる」という行為に対する「肯定的態度」と、「「カップ麺に湯を注ぐ」という行為Aをすることによってカップ麺が食べられるようになる」という「信念」から成る。
 
つまり、「食べたい」という態度と、「湯を注げば食べられるようになる」という信念を併せたものが、「カップ麺に湯を注ぐ」の理由だというわけである。

たとえば、「1缶のペンキを飲みたい」という無茶苦茶な願望が不意に湧き起こったとしてもこれも肯定的態度と考える。「そのペンキ缶に口付けることによって、1缶のペンキを飲むことができる」という信念と併せて、「ペンキ缶に口付ける」の理由になるのである。

また、たとえば、自動車の運転手が「左折の合図を出したい」という肯定的態度が湧き起こり、「交差点の手前で手を挙げれば左折の合図をすることができる」という信念を持っているのなら、この態度と信念が合わさって手を挙げた理由そのものになるというのである。

 

 

理由が原因でもあると考えないといけないわけ

 

この、デイヴィドソンによる「理由」の捉え方自体には、それほど変なところは見当たらない。アンスコムの理由の捉え方と比べてもそれほど違ったものには思えない。しかし、この、「態度」と「信念」の組合せが理由だとする捉え方をすると、行為の因果説が要請されるのだ。

こういうことだ。

「左折の合図を出したい」という肯定的態度を実際に持っていて、「交差点の手前で手を挙げれば左折の合図ができる」という信念も実際に持っていたとする。そして、この時そのまま手を挙げたのなら、この態度と信念が手を挙げた理由になる。しかし、この時たまたま大きな音にびっくりして思わず手を挙げてしまったとする。それなら、手を挙げた理由を、「左折の合図を出したい」という肯定的態度と「手を挙げると合図できる」という信念であるとするのは、おかしいことになってしまう。
 
だから、この態度と信念が手を挙げた理由であるとするためには、「左折の合図を出したい」という肯定的態度と「手を挙げると合図できる」という信念があって、それが原因になって「手を挙げた」という結果が生まれたという因果関係があることが必要なのである。

だから、条件2は「行為の主たる理由は、その行為の原因である」なのである。

 

どうだろう、なんだか胡散臭い説明に思えないだろうか。僕もこの説明をはじめに読んだときには、アンスコムと言葉づかいが違うだけであって、別にどうでもいいことなのに理屈をこねて、理由を原因と同じものにしてしまっただけだと感じた。「屁理屈」をこねているだけなのではないかと。

でも、そうではない。アンスコムとデイヴィドソンは行為に対する向き合い方が違っていて、これは、選択可能性自由と行為者性自由との違いにも対応するものであるような本質的な違いであると考えている。そして、僕はデイヴィドソンの方が正しいと思っているのだが、それについては、次節に回したい。

 

 

つづく

 

<心は実在するか>

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