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2013年3月 2日 (土)

神を知っていると言ってはダメなわけ・雨盲と神盲

総合文目くそ鼻くそ論に反論する

「神は存在する。神の存在がありありと感じられるから明らかだ」は分析文である…という考え方がある。この文は、結局「神が存在することは間違いないのだから神は存在するのだ」ということしか言っていないとも言えるので、トートロジーだと見做せるからだ。
しかし、それなら、「雨が降っている。空から雨が落ちるのがありありと見えるのだから明らかだ」という文も分析文だと言えるのじゃないか。結局、「雨が降っていることは間違いないのだから雨は降っているのだ」ということしか言っていないからだ。

クワインによると、あらゆる総合文と分析文は明確に線引きして分別することができないのだから、「神が存在する」も「雨が降っている」もともに分析文でもあり総合文でもある。だから、「雨が降っている」が総合文として有意味だと言えるのなら、「神が存在する」だって十分有意味だと言えるはずだ。もちろん、その分析文っぽさ、総合文っぽさに軽重の差はある。しかし、所詮、五十歩百歩、目くそ鼻くそなのである。

…というのが前節の主張であった。しかし、これは本当だろうか。本節ではこれに自分で反論してみたい。

 

雨盲

「雨が降っている」は分析文でもあり、総合文でもあるとした。つまり、この文が無意味だとも有意味だとも解釈できるということだが、これは他者との言語のやり取りが無くても言えるのだろうか、ということを考えてみる。

例えば、私以外の誰も「雨」を見たり感じたりすることができず「雨」がどんなものか分からないとする。世界中で私一人が雨を感じることができるのだ。いくら私が「雨が降っている」と言っても信じてくれない。いや、信じないというより何を言っているのか理解してくれない。そういう状況を考えてみる。

この場面で、「雨が降っている」はどの程度有意味かを考えたい。これはどこまで世界の事実についての記述であるのかを、である。 他者と言葉のやり取りができないからといっても、もちろん世界に雨が降っていれば私はそれを見て、世界の事実として「雨が降っている」と言うことができるはずだ。
しかし、他者が雨を知らないのなら他者と「雨」についての言語ゲームを行うことはできない。私が「雨が降っている」と言っても、誰も「雨」の意味が分からない。「雨ってのは水滴がたくさん落ちてくること」と説明しても、「水滴」も「水」も分かってくれない。水が分からないなら生きていられないじゃないかと言われるだろうが、この際それらの問題は無視する。「上から」や「落ちてくる」など、「雨」に関する言葉は何も他者と共有できない。そういう、私以外の世界中のみんなが「雨盲」であるような状況を想定するのだ。

このような状況で、「私は雨を知っている」と言えないわけを2つでレベルで考えてみよう。
第1は、「知っている」と語ることが他者とのゲームになり得ないレベルでの問題である。
私は実際に世界に雨が降っているのが見えるのだから、「雨が降っている」と言う。すると他者はそんな私を何とか理解しようとして、「君は雨が降っていると信じているのだね」と尋ねてくるかも知れない。それでも私は「信じているんじゃなくて、知ってるんだ。雨は疑いようのない事実なんだ。」と言わざるを得ない。たとえそう言ったからって、他者は私の言うことを理解できない。他者ができることはかろうじて「雨が降っていると私が信じている」というレベルの内容でしかない。これがこの状況で「雨を知っている」と言えない1つめのわけである。
第2は、他者が理解できない「雨」を語るのは私的言語であり、自分でも理解できないのではないかというレベルの問題である。
私には確かに水が見えてありありと雨が感じられるのだから、確実に「雨」の意味を捉えている。「雨が降っているかどうか」の見極めを間違えることはない。でも、他者との「雨」についての言語交流が無いなかで、「雨」の意味、「水」の意味はぼやけていくのではないか。私は、私の雨に関する記憶と、今降っている雨を比べようとする一人遊びをしているに過ぎないのではないか、という疑問が起こる。
この疑問はもっともである。しかし、私は、「雨」がどのような場面でどのような使われ方をすべき言葉なのかをすでに知っていて、意味を獲得している。そのうえで、その理解に基づいて「雨」を語っているのだ。だから、もし、その「雨」に触れたり見たりできるような人類が再出現してきたなら、私はその新人類と「雨」について語り合うことができる。つまり、わたしは「雨」について必ずしも私的言語を使っているわけではない、と言える。
第2のレベルの問題では、「雨」についてはかろうじてクリアできて、ダメだとはならないのである。
だから、「雨盲」の人々に囲まれた状況で他者と語り合うには、雨の存在そのものについての語りではなく、「雨を信じる」という自分の認識についての語りが許されるに過ぎないのだが、独り言で言うにはかろうじてその意味を掴まえていられる、とも言えるのだ。

 

ヘンピオ盲

では、「ヘンピオ」について、「ヘンピオ」を見ることも感じることも出来ない「ヘンピオ盲」の人々に囲まれている状況で、「私はヘンピオを知っている」と言えないわけを考えよう。因みに、「ヘンピオ」とは、我が娘が2歳の時に考え出した言葉で誰も意味を知らない(当人も分からないと言っている)モノである。
この場合、「私がヘンピオの存在を知っている」と語ることが何の意味を持たないのは明白である。だって、私はヘンピオが何であるのかを知らないのだから、それを見ることも感じることも出来るわけがない。「ヘンピオが存在する」という語音列が何を意味するものであるのか、誰も確認することができない。単に「私はヘンピオを知っている」という音声を発する儀式をしているに過ぎないからである。「ヘンピオ」は「知っている」も「信じている」も、独り言でも言えないのだ。

 

神盲

ならば、「神」について、「神」を見ることも感じることも出来ない「神盲」の人々に囲まれている状況で、「私は神を知っている」はどこまで言えるのだろうか。私は「神」が見えて、ありありと感じられるのであるが、私以外の誰も神を存在に触れることも見ることも感じることも出来ないのである。
まず、第1は、「知っている」と語ることが他者とのゲームになり得ないレベルでの問題である。
私は実際に世界に神の存在が見えているのだから、「神が存在している」と言う。すると他者はそんな私を何とか理解しようとして、「君は神の存在を信じているのだね」と尋ねてくるかも知れない。それでも私は「信じているんじゃなくて、知ってるんだ。神は疑いようのない事実なんだ。」と言わざるを得ない。たとえ、そう言ったからって、他者は私の言うことを理解できない。他者ができることはかろうじて「神の存在を私が信じている」というレベルの内容でしかない。やはり、「神盲」の囲まれた状況では「神の存在を知っている」は有意義な言語ゲームを為しえないのである。
第2の、他者が理解できない「神」を語るのは私的言語であり、自分でも理解できないのではないかというレベルの問題ではどうか。
私には確かに神が見えてありありと神が感じられるのだから、確実に「神」の意味を捉えている。「神がそこに居るかどうか」の見極めを間違えることはない。でも、他者との「神」についての言語交流が無かったなかで、「神」の意味はぼやけていくのではないか。私は、私の神に関する記憶と、今感じられる神の存在を比べようとする一人遊びをしているに過ぎないのではないか、という疑問が起こる。
この疑問について、「雨」の場合では、私は、「雨」がどのような場面でどのような使われ方をすべき言葉なのかをすでに知っていて、意味を獲得していた。だから、「雨」は私的言語だとは言えず、「雨」が見えるような新人類が出現してきたなら「雨」について語り合うことも可能になると、考えられた。
しかし、「神」の場合では、私は「神」がどのような場面でどのような使われ方をすべき言葉なのかをすでに知っているとは言いがたい。なぜなら、私は、今そこに存在し見える「神」(と名づけた存在)と、昨日彼の場所に存在し見えていた「神」(と名づけた存在)とが同一であると判断するためのモノサシをまだ持っていないからである。私は確かに「神」が見えていると言いたくなるような気分を持っているのだが、昨日も確かに「神」が見えていると言いたくなるような気分を持っていたのだが、それが同じ「神」であるかどうかを決めるためのルール設定が原理的に、私にはできないのである。「神盲」の中で育ち言語を獲得した私にとっては、「神」は私的言語でしかないのである。
しかし、それでも、私は「神」が存在していると感じられる。「神」の存在をありありと見ることができるのだ。そうだろうか、この条件提示の表現にはすでに矛盾が含まれている。私は「神」の存在をありありと感じていると言うことは、「神」が私的言語である以上、もう言えないのではないか。私にできることは「私は神の存在を信じている」という自分の認識についての語りが許されるに過ぎないのではないだろうか。「神」なる対象は、独り言で言うにもその意味を掴まえることはできず、まさに盲目的に信じる以外ないのだろう。

 

量的な差か質的な差か

「雨」は、「雨盲」の人類の中で、それ自体を「知っている」と独り言でなら言える。他者と語るには「信じている」と言わねばならない。
「ヘンピオ」は独り言でもその存在を語ることはできない。「知っている」も「信じている」も言えない。
「神」は、「神盲」の人類の中で、他者に語るにも独り言でも、それ自体を「知っている」とは言えないが、「信じている」とは言える。
というように、言語ゲームの対象になるかならないかのあやふやな、宙ぶらりんの存在が「神」なのではないかと、僕は思う。

つまり、「雨」が、雨盲の中で言語ゲームを行うべきフィールドがなくても、ゲームの仕方がすでに存在している総合文であると言えるのに対して、「神」は、神盲の中で言語ゲームを行うべきフィールドがないだけでなく、ゲームの仕方自体がまだないという意味で、総合文ではないと言えるのだ。
「雨」と「神」の差は、目くそ鼻くそという程度問題の、量的な差の問題なのではなく、本質的な差の問題なのである。

以上が、「目くそ鼻くそ論」への反論だが、どうだろうか。量的な差なのか、本質的な差なのか、どちらの方が説得力があっただろうか。どちらも不十分な論説になってしまった。
まだまだ思索が足りないぞ。くそ。

思いつき言々

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コメント

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>量的な差なのか、本質的な差なのか、どちらの方が説得力があっただろうか。どちらも不十分な論説になってしまった。

いや、方向性は間違っていないと思いますよ。例えば、
①「知っている」と「信じている」の文法的差異やそれらの混同から生じる哲学的似非問題に着目すること。
②神の存在を巡る言明を一人称現在の感覚言明との類比によって理解すること。雨は我々が共に内属する[事物世界]において生起する自然現象であり、それ故「知覚したり、それについて報告したり・語り合ったりする」ことが出来ます。一人称の感覚言明について言えば、現に我々は【各人が自身の痛みを持つという(相互的な私秘性を巡る)言語ゲームをしてしまっている】ように思われます。付言すると、このゲームは我々の原初的態度(cf.ウィト「魂に対する態度」)+【三角測量】によって成立したと考えられます。
③件の問題を【神の存在/不在を巡る言語ゲームの成立/不成立】という観点から捉えること。
等々。

まだまだ書き足りないこともありますが、今日はこの辺で。

工藤さん、コメントありがとうございます。

肯定してもらえてうれしいですぅ。
量的な差が質的な差に変わっていく例として、水の沸騰と蒸発も考えました。微視的には沸騰と蒸発は単に量の差でしかないですが、巨視的にみると相転移を起こしている。「神」と「雨」も微視的にみると量の差しかないのですが、巨視的にみると質的な差になっているのではないかと考えています。でもまだ、これは、まとまっていません。神の問題はいったんこの辺りで棚上げして、またアンスコムとデイヴィドソンに話を戻したいと思います。

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