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2013年2月24日 (日)

神が存在すると言っても良いわけ

ウラサキさんと工藤さんからのご指摘を受けて、前節の「あらゆる記述は必ず盲信である」を書き換えました。

A「神が存在することは明らかである。五感とその他の感覚によってありありと感じることができる」という言明と、B「雨が降ってきたことは明らかである。空から水滴が落ちているのが見えるから間違いない」という言明は、どちらもその正当化の根拠をさらに疑い、問い続けることができる。問い続けることができるのだけれどもそれにどこまでも答えていくことはできないので、Aも、Bも、どこかで「明らかに存在するのだ」とか「明らかに水滴が落ちてきているのだ」などといって理由なしに主張しなければならない地点に辿り着いてしまう。

だから、このことから、
「十分な正当化根拠がある言明のクラスと、正当化根拠に欠ける言明のクラスを明確に区分けし、境界を引くことができる」と考えるのはドグマである、と言える。

それゆえ、
「神が存在する」や「神が存在しない」などという発言をすべきではないと、単純に考えてはならない。これらの発言が否定されるなら「雨が降ってきた」のような発言も同様の理屈で言えなくなってしまうからだ。そして、「雨が降ってきた」という発言を意味あるものだと認めるのなら、「神が存在する」も意味ある発言だと認めないわけにはいかないからだ。

たしかに、「雨が降ってきた」と「神が存在する」の両者はその文の価値や正当性に、軽重の差がある。差はあるが、所詮五十歩百歩、目くそ鼻くそなのである。

「雨が降ってきた」という発言をすることが可能である事態の方が不可能である事態より、便利であったり生活が豊かたあったりするのなら、どんどん使うべきだろう。
同様に「神が存在する」や「神が存在しない」などと言える事態である方が人生が豊かになるのなら、これは発言に値する言明だとすべきなのだ。

ただし、そうは言っても、A「神が存在する」もC「神が存在しない」も盲信であることには違いなく、Aを語る人とCを語る人の言語ゲームが、「神」の存在について絡み合うはずはない。

つづく

思いつき言々

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コメント

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>「神が存在することは明らかである。五感とその他の感覚によってありありと感じることができる」という言明

(正当化云々以前の問題として)この言明の内実が致命的に不明瞭です。

>「雨が降ってきたことは明らかである。空から水滴が落ちているのが見えるから間違いない」という言明は、その正当化の根拠をさらに疑い、問い続けることができる。

先ず①或る言明の正当化の根拠を問い続けること②或る言明の真偽を確認すること③或る言明が真/偽であること を混同してはいけないと思います。付言しますと、実際に[雨が降っている]ときに「私は雨が降っているのかどうか確信が持てない。何故なら私は『雨が降っている』という言明の正当化の根拠を疑い続けることが出来るからだ云々」と【本気で】言う人がいたとすれば、その人は「雨が降っている」という言葉の意味(使い方)を全然知らないか・単に悪ふざけをしているか・似非問題に誑かされているかのいずれかでしょう。

>「神が存在する」や「神が存在しない」などという発言をすべきではないと、単純に考えてはならない。これらの発言が否定されるなら「雨が降ってきた」のような発言も同様の理屈で言えなくなってしまうからだ。

もう一度①「神が存在する/しない」という文・言明と「雨が降ってきた」という文・言明の差異②[事物世界]に生起する[出来事]と「雨が降ってきた」という文・言明の差異について考えてみてください。

工藤さん、コメントありがとうございます。
おっしゃること大変よくわかります。実は僕も正直に言うと、工藤さんの考えに賛成なのです。
たまたま、宗教擁護の立場での意見を考える機会がありましたので、このブログに載せたのです。
ただ、上の主張を信じている訳ではないですが、ある程度正しいとは思っています。

「神」と「雨」についての発言には、価値や正当性の重軽の違いがあることは認めるものですが、「盲信」や「悪ふざけに見えるほどの理解の悪さ」を持つ人にとっての「神」や「雨」などの語の意味の正当性についてどこまでが正当だと単純に線引きできるものではない・・・という主張は正しいと思うのです。
重軽はあるが、所詮五十歩百歩、目くそ鼻くそだと。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>たまたま、宗教擁護の立場での意見を考える機会がありましたので、このブログに載せたのです。

了解致しました。とはいえ、

>重軽はあるが、所詮五十歩百歩、目くそ鼻くそだと。

この見解は承服し難いですね。上で示唆しておいたつもりですが、①客観的事実②認識③思考の(文法的)差異を理解出来ない(と見做された)存在者に合理的思考を帰属させることは出来ません。そして、仮に明確な境界が存在しなかったとしても、それを「所詮五十歩百歩、目くそ鼻くそだ」と言うのは誤りだと思われます。

工藤さん、それあそーですよね。

では、今度は自分で自分に反論してみたいと思います。次節で「神を知っていると言っちゃあダメ」みたいな話にチャレンジします。少し待っていてください。

では「神が存在する/しない」という文・言明を巡る哲学的似非問題について。
先ず、神の存在を確信している人はおそらく①神(自存的存在)②神の存在/不在を巡る我々の言説(言語ゲーム)③神の存在に関する【自らの】信念を区別している筈です。ここで注目すべきは①と③の関係でしょう。例えば、
「パウロは神の存在を信じていた」という文が真であっても、③そのことから①神(自存的存在)を導出することは出来ません。また、
「始皇帝は仙丹を探していた」という文が真であっても、そのことから仙丹(客観的事実)を導出することは出来ません。
要するに、件の似非問題は「Pを信じる」や「Pを探す」といった表現の文法―所謂「命題的(志向的)態度」―に対する誤解から生じたのではないか、ということです。

上の本文の文面を少し付けたして、文脈の弱かったところを補強しました。ご了承ください。

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