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2013年2月22日 (金)

あらゆる記述は必ず盲信である

1.言語ゲームは宗教

 

無条件に肯定しなければならないような絶対的な何某かの事柄が存在する…とするような立場を、宗教と呼ぶとする。

一方、言語ゲームが機能するためには言語以前のルール設定を共有し無条件に肯定することが必要である。

だから、言語ゲームは宗教である。

ゆえに、言語ゲームを必然とする立場をとるなら宗教も必然である。

 

 

2.あらゆる記述は分析文を源泉としている

 

たとえば、「雨が降っている」この記述は総合文である。しかし、これが真であることを確かめる方法はどこまででも遡ることができてしまい、それが真であることを無条件に肯定する地点に辿りつくことはできない。真であることを確かめる方法、それについて確かめる方法、それにについてさらに確かめる方法、…とどこまでも後退していったとしても、その確かめは終わらない。どこかで諦めて、そこを底だと決めてしまわないといけないのだ。そして、結局「雨が降っていると認めることにしたのだから、雨が降っているのだ」という宣言文になってしまう。どんな総合文もその真偽の源泉を辿れば最後には「そーなっているのだから、そーなのだ」という分析文の姿が現れてくるのだ。

しかし、「雨が降っている」の真偽の源泉に辿りつくまで疑ろうとする人はそー居ない。普通の人は空から水が落ちてきたのが見えたなら、それで「雨が降っている」という記述を真と認めえる。それで言語ゲームが成立する。でも、もし、「空から水が落ちてきたからって、どーしてそれで雨が降っていると確かめられるのか」と尋ねてくる人がいたとしたら、その人とは「雨が降っている」ということを語り合う言語ゲームはできない。ただ、「私は雨が降っていることを信じている」「信じてない」と言い合うゲームができるだけだ。

総合文の真偽を確かめていく遡上をどこかで諦めて、勝手な思い込みの分析文を宣言しあうゲームを行うことにするか。記述文そのものを語るのではなく、記述文に対する自分の態度について「そー信じている」ということを語り合うゲームを行うことにするか、どちらかをする以外ないのだ。

 

どこかの時点で記述の真偽を確かめるのをやめて、それが真だと決めてしまう以外ないのだから、結局、記述は宗教のようなものなのである。あらゆる記述は必ず盲信なのだ。

つづく

思いつきの言々

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コメント

工藤さん、コメントありがとうございます。

僕の書きようか悪かったのですが、あらゆる言説が盲信的記述と同じく無価値だと言いたかった訳ではなく、それらは地続きの違いでしかないと言いたかったのです。程度問題の差だと。
ですから、
価値ある言説があることを否定するものでは、もちろんありません。

私はこのページが好きです。言語ゲームは宗教だ。横山さんもここで言いきっておられたのですね。科学も宗教であるというレベルの話ではあるとは思いますが。以前より哲学も思想的なものや認識論的なもの、あるいは経験論的なものは宗教で、存在論的なものや形而上学的なものこそが、哲学であると思っていました。ただ、全ての言説が盲信なら、存在論や形而上学でさえ、宗教(仮説)であるという話になりそうです。異邦人さんの話に近いように思います。仮説だらけの世界が目の前に広がっている。そして、その世界も仮説という話。全ての経験・認識(仮説)が、唯物論(仮説)の中に包摂されるというような。究極の独我論が唯物論と一瞬交錯したようにも見えましたが、錯覚ですかね。

taatooさん、コメントありがとうございます。

>異邦人さんの話に近いように思います。究極の独我論が唯物論と一瞬交錯したようにも見えました。

認識論言語論的世界が立ち上がる中で、仮説としての世界が「実在」するようになっていき、独我論的世界が実在論的世界に反転する。taatooさんのおっしゃる解釈はそういうことでしょうか。僕もこの解釈が整合性のある世界観としてかなり有効だと思います。でも、異邦人さんは認識論と言語論に頼らない唯物論を考えていらっしゃるようですから、上の解釈は否定されるでしょうが。

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