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2013年2月13日 (水)

アンスコムの反因果説<心は実在するか5>

G.E.M.アンスコム

前節で、意志が原因となって身体の運動が為されるという考え「意志行為説」のダメなわけを考えた。行為と行為でないものを区別するのに、人間の意志が行動の原因となり得るか否かという観点、つまり、その運動の起こるメカニズムの観点から答えようとしたがうまくいかなかった。
そこで、アンスコムは行為を意味の観点から捉え直そうとした。本節ではこのチャレンジを見ていきたい。

Anscombe
G.E.M.アンスコム(1919〜2001年)はウィトゲンシュタインの女弟子で「哲学探究」などウィトゲンシュタインの遺稿の編集・英訳をした。著書「インテンション(意図)」で現代行為論を興したと言われる。
彼女の行為論を乱暴にまとめるとすれば、次のようなものになるだろう。
[「なぜそれを為したか」に肯定的に答え得るような現象が行為である。そして、意図は行為の理由であって、原因ではない。]
この内容を順に一つずつ見ていこう

 

行為とは何か

まず、前節に続いて「行為と行為でない単なる自然現象の違いは何か」という問題について考える。
「なぜそれを為したか」という問いに答えることによってその現象を記述しなおして確かめ、もしそこに意図が関わっていたならその現象を「行為」として捉えることにしようと、アンスコムは考えた。

たとえば、「家の電灯のスイッチを入れ」、「灯りを点し」、「泥棒に対して家人の帰宅を知らせる」という一連の現象があったとしよう。この3つの記述の内容は同じ行動である。しかし、その記述の仕方によって、それが「意図的な行為」であるか否かが変わるのかという点を考えてみる。このとき、「私」は灯りを点そうと思って、この現象を起こしたとする。
そして、ここで、「なぜ」と問うてみる。

「なぜスイッチを入れたのか」と問われたなら、「私」は「灯りを点そうと思ったからだ」と答える。この答え方から、「スイッチを入れた」と記述される現象は「灯りを点そう」という意図をもって為されたのだから「行為」であると、言える。

しかし、「なぜ泥棒に帰宅を知らせたのか」と問われたなら、「その意図は無かったが、灯りを点そうとしたら結果的に泥棒に帰宅を知らせたことになったのだ」と答えるだろう。だから、ここには意図は無い。ただし、「泥棒に家人の帰宅を知らせた」と記述される現象は、「電灯のスイッチを入れた」や「灯りを点した」と記述される現象と同一の行動である。だから、これらを同一の「行為」としてとらえる必要がある。
つまり、「スイッチを入れた」と記述される現象や「灯りを点した」と記述される現象は「意図的な行為」であるのに対して、「泥棒に在宅を知らせた」と記述される現象は「意図せざる行為」であることになるのだ。「行為」であるか否かというレベルの観点では同一の行動はどちらの記述でも同じ「行為」なのだが、その意図があったか否かというレベルの観点で言うと記述の仕方によって違うものになるのだ。

「なぜそれを為したか」という問いに肯定的に答え得る現象はどれも「行為」として捉えられるのだが、その中には、「意図せざる行為」という一見矛盾に思えるものも含まれる。含まれるが、しかし、これは矛盾でも何でもなく、まさしく意図的な行為と意図せざる行為とがあるのだ。

 

理由と原因

では、この「意図」という心の働きが行為の原因になっているのではないと主張されるのはなぜか。
これについても、アンスコムは「なぜ」という問いによって、理由と原因を分けて分析しようとする。

彼女の言う「理由」とは、人間の実践的な意味に関連する「行動のわけ」であり、「なぜそれを為したのか」という問いの答えになるものである。
一方、「原因」とは、自然法則的秩序について説明する「行動のわけ」であり、「なぜそうなったか」という問いの答えになるものである。
(この説明では実は、「為した」「なった」に意図の有無が既に含まれているので、このことから意図の意味を考えようとすると、説明が循環することになってしまう。アンスコムの「インテンション」ではもっと具体的に区分けしてしつこい説明があるが、ここでは大きく省略する。)

たとえば、「彼はなぜ共和党に投票したのか」は人間の生き方の実践的意味を問題にする「理由の問い」であり、一方「なぜ雪が降ったのか」は人間の生き方とは関係のない自然法則を問題にする「原因の問い」である。
ただし、この理由と原因の二つはいつもこれほど簡単に線引きして区分けすることができるとは限らない。「なぜ彼は手を挙げたのか」という問いを見せられただけでは、理由を問うているのか原因を問うているのかはっきり分からない。「タクシーを止めようとしたのだ」と答えるならば理由を表し、「大音響にびっくりして腕が上がったのだ」と答えるならば原因を表すことになる。

しかし、理由と原因をはっきり区分けすることが難しいとしても、この二つはまったく別のものであり、同じ一つの土俵上で考えるべきものではない、というのがアンスコムの主張である。「『なぜ』という問いによって理由の分別ができる」ということにおいて、単にその見分け方が問いによって示されるというだけが問題なのではない。理由にとって、「後から問われるからこそ生じる見え方がある」という一面、「後付け」的な価値が本質なのである。

3つの再記述

このことを示すために、アンスコムは理由をつけられた意図行為をさらに時間軸によって3つに分類する。

(a)過去の出来事(過去視向型の動機)
「なぜ殺したのか」という問いに対して「兄を殺された復讐だ」と答える時、これは「兄が殺された」という過去の出来事を「復讐すべきもの」と捉え直し、自分なりの理解において記述し直しているものだ。自分なりに解釈し直すことで自分の人生を生きるための実践的な動機を生み出すものとなっている。

(b)現在の出来事(当の行為を解釈する)
「なぜ怒っているのか」という問いに対して「不当に扱われたからだ」と答える時、これは何らかの具体的な出来事を「不当な扱い」と捉え直している。(a)の場合と同様に自分の行為を再記述することで行為の動機を生み出すものとなっている。

(c)未来の出来事(未来視向型の動機)
「なぜそれを為そうとするのか」という問いに対して「○○になるように」「○○がないように」と答える時、これも未来に自分が為す出来事についての意図がそのまま動機となっている。未来の出来事に関することではあるが、自分の意図について自ら振り返ることによって予想される出来事を自分なりに記述し捉えているのであり、構造としては結局(a)の場合と同様なのである。

原因は、ある「出来事そのもの」を実体の対象として捉え、そこにいかなる法則が当てはまるかを問題にする。一方、理由は、「出来事がいかに見えるか・出来事がいかに記述されるか」を対象と捉え、そこにどのような生き方で関わるかという実践的な対処法を当てはめるかという視点を問題にするのである。原因は出来事そのものに対峙し、理由は、出来事に対する後付けの「記述」に対峙する。
そして、意図は行為の理由になることはあっても、原因になることはない。なぜなら、「意図」とは人間がどのような生き方を実践するかを後付けで記述したものに他ならないからである。

 

心は行為の原因ではない

それでも、無理に「心が意図したことが原因になるのだ」と主張しようとすれば、前節「意志行為論のダメなわけ」で見た無限後退に陥ってしまう。「彼を殺そう」と思ったからその思考が自然法則的因果の心的原因となって「殺した」のだと主張すれば、その「彼を殺そう」と思った思考自体が行為として捉えられなければならなくなり、その原因が求められることになる。「彼を殺そうと思おうと思う」ことが求められるのだ。そして、この後退は次々と続き「彼を殺そうと思おうと思おうと思おうと・・・」という原因探しの果て、結局「彼を殺そう」と思うことができなくなってしまう。
つまり、「なぜ」に対して意図で答えられる理由は、自然法則的因果の原因ではあり得ない。

だから、心は行為の原因にはなり得ないのだ。

これが、アンスコムの行為の反因果説である。この論理は頑強で、覆ることは決してないように見えるし、この主張に明確に賛同する哲学者は多い。しかし、デイヴィドソンはこれに対して、意図こそが原因にならなければならないと主張する。実は僕もデイヴィドソン派である。次節以降では、デイヴィドソンがどうやって反因果説を覆すのか、その行為論の展開を見ていきたい。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

こんばんは。
アンスコムを読んだことがないので、よくわかりませんが、要約や引用から考えてみると、アンスコムはなんだかエレアのゼノンのようなもので、連続して動く物体の運動を点で区切って論理建てようとする詐術とよく似ていると思います。アキレスは亀に追いつけないとか飛んでいる矢は実は飛んでいないとかああいう類の議論のための議論のような気がします。英米哲学の論理分析のこの平板さは、到底ニーチェやフロイトやユングが到達した深層心理学の業績を否定できるものではありません。心はやはり大きな謎ですが、論理分析によって捉えられるものではなく、夢や文学やイメージや神話やそう言った現象を通して明らかになってくるあるものだと思います。

呼戯人さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。

アンスコムの説に対して僕は全面的に賛成するものでもないのですが、アンスコムの説く意図と理由の関係や反因果説は、心と身体の二元論が抱える困難を解決する意味で大きな意義のあるものだと思っています。その言が詐術に聞こえたとしたら、ひとえに僕の理解不足と作文力のなさのせいだと思います。

心の分析についても、論理哲学からのアプローチと精神分析のアプローチではまったく次元の違うものなので、論理哲学による心の分析の成果は精神分析の成果には及ばないと言われればその通りなのですが、まったく違ったものとして大きな成果を上げていると思いますし、僕が生きていくうえで僕の知りたいことのヒントになっている点でいうと、精神分析に引けを取るものでもありません。単に僕の私観ですが。

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