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2013年2月12日 (火)

意志行為説がダメなわけ<心は実在するか4>

心は体を動かすか

「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ」とPENTAX社がCMで言っている。「身体」という存在とは別に「心」という存在があり、心の働きによって身体は活動することができる。・・・という心身二元論が、一般的な心と身体の捉え方だろう。しかしそれはどこまで本当なのだろうか。

この、「身体は心の働きによって動くのか」という問題について、アンスコムとデイヴィドソンは人間の行為と意図をふり返って記述することにより分析しようとする。そしてこの二人は、この問いへ向かって同じ登頂経路を辿りながらまったく反対の結論に到達する。つまり、アンスコムは、心が人間の身体を動かす原因になることはありえないとし、「行為の反因果説」と呼ばれるものを説く。これに対し、デイヴィドソンは、心こそが身体を動かす原因と考えるべきだとし、「行為の因果説」と呼ばれるものを説く。

ここからは、この二人の違いを見ていくことで、心と身体の関係への理解を深めたい。

 

行為とは何か・意志行為説

まず、「行為」とは何を意味するものかということを考えることから始めよう。
「行為と行為でないものはどのように区別できるか」という問いに対する一つの回答案として「意志行為説」というものがある。
「意志が原因で生じる運動が行為である」とするものだ。
人間の行為には、「何かをしようとする心の状態」があってその結果としてその行動が為される…というメカニズムの工程がある。この工程がある行動を行為と呼ぶ、と言うのだ。

ウィトゲンシュタインは
<「私が腕を上げるという事実」−「私の腕が上がるという事実」=「意志」>
という引き算の答え、差が「意志」であるとしたが、「意志という心の状態」と「私の腕が上がるという事実」が別物として存在するかということには、否定的であった。

この「意志」という状態が存在し、行為の原因となることを、G.ライルは「機械の中の幽霊」という比喩を用いて否定する。身体という名の機械の中に心という名の幽霊を入れ込むような想定は不要である。人間は単に人間であって、身体と心に分離されるべきものではない。…と言うのだ。
実際、腕を上げるときに、腕を上げようとする心の状態が本当に必要なのだろうか。腕を上げようなどと、一々考えなくても腕を上げられるようなことは、日常にふつうにあるのではないだろうか。
「少年は高飛込みをするという意志作用をどの瞬間に経験したのであろうか。それは彼が梯子に足をかけたときであろうか。或いは最初の深呼吸をしたときであろうか。『1,2,3,−飛込め』と数え終え、しかしまだ飛込んではいないときであろうか。それとも跳躍するほんの一瞬前であろうか。これらの問いに対するその少年自身の答えはどのようなものであろうか。」(ライル「心の概念」)
そんな、意志作用の瞬間は実際には存在する必要はないのだ。

もし、人間が何事かの行為を行うために何某かの心の状態になることが本当に必要であるのなら、何かをしようと思う心の状態に、まず自分自身を持っていくことも自分の行為であるはずだ。それなら、さらにそれを為そうとする意志が、一つ前に必要なことになる。そして、これが行為であるためには、これを為そうとすることも必要な工程になってしまう。
意志行為説が正しいのなら、意志を意志するための意志なるものが次々と必要になり、無限後退に陥ってしまう。

だから、意志行為説はダメなのだ。

そこでアンスコムは、行為をその行動メカニズムから考えるのではなく、意味の観点から考えることにしたのだが、それは次節で見ることにしよう。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

こんばんは。
私の内省によれば、意志はあると言いたい。行為は無意識的な反射や自動行為もあると思うが、一方で意志的に思考しその上で行為をなすという段階があると思います。例えば、私は詩を書きますが、これはいくらかの美的効果を狙って、意志と思考を使った意識的に書きます。頭を掻いたり尻を掻いたりする無意識的行動とは違っています。アンスコムの本は読んでいないのですが、ドイツの近代哲学はその全体が意志の哲学になっています。その極限がニーチェの力意志の説ですが、英米の分析哲学はライプニッツからカント・ヘーゲルを経てニーチェへ至るこの流れの全体をどのように評価するのでしょうか?

呼戯人さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。とてもうれしいです。

ライルは、「意志作用という現象があって行為という現象がそれに続く」という考えを排除しました。僕も確かに「意志作用が一つの現象か」と問われればそれに同意するのは難しいように思います。もともとウィトゲンシュタインの哲学にはドイツ哲学などへの批判精神があるとおもいますが、意志の実在論に対する批判も「探究」の中で示されています。ライルの「心の概念」もこれに沿った哲学だと思います。この流れの中でアンスコムは意志willを問うのではなく、意図intentionを問うことで、行為の再記述によって問えるものが心の本質だと考ました。意志の存在を無意味としたり勘違いだとしたりしている点で、この流れはニーチェなどが問うた哲学を真っ向から否定するものだと言えると思います。
これから、僕は、デイヴィドソンがアンスコムに対して因果説を展開し非法則的一元論を説いたことについて考えたいと思っていますが、デイヴィドソンもだからといってニーチェなどの意志論を認めるものではないような気がします。その点についても考えてみたいと思います。

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