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2012年12月18日 (火)

行為者性自由と決定論は両立する<心は実在するか2>

自由とは選択可能性のことか

前節で、選択可能性としての自由と決定論とが両立しないということが証明されてしまったことを伝えた。人が自由であるには決定論を否定する以外ないのだろうか。しかし、運命を否定するだけの力が人間にあるわけがない。それなら人は、自由が認められないことを受け入れなければならないということなのだろうか。

そうだとしたら、道徳的責任はどうなるのだろうか。決定論が正しかったとして、かつ、人に選択可能性という自由がなかったのだとしたら、人は道徳的責任を持たないことになるのだろうか。
自分が何を為したとしてもそれは初めっから運命で決まっていたのだとしたら、そのことを自分の責任にされても困るような気がする。
しかし、本当にそうだろうか。確かに運命を自分の責任にされても困るが、それだけで道徳的責任のすべてを無意味だとしてしまっていいのだろうか。実際に、道徳的責任が誰にもないとするような社会など考えられるだろうか、それは人間が人間としての営みを捨ててしまうことにもつながる恐ろしいアイデアとも考えられるのではないだろうか。

「決定論が正しければ、選択可能性としての自由は無い。」 ― このことは、完全に正しい証明であった。でもそこから「自由意志があり得ない」というところに論が飛躍してしまってはいけないのだ。
ならば、我々が自由という概念を使おうとするには、道は2つしかない。(1)「決定論」を否定して、リバタリアニズムを主張するリバタリアンになるか、(2)「自由とは選択可能性である」を否定して両立論者になるか、である。しかし、(1)の「決定論」は、それ自体が正しいか正しくないか人間には決定しえない、真偽の語りえない到達不可能な「お話」であるのだから、原理的に肯定することも否定することも許されない。物理学者が統一理論に到達したとしても、果たしてそれがどこまで厳密な未来予測を可能にするものなのかは、帰納的に確かめられるものでしかないのだから、物理法則は永遠に分析文にはなり得ないからだ。

だとすると、(2)の「自由とは選択可能性である」を否定するしかない。
前節で、「自由」の意味を「他の行為も為し得た可能性があること」あるいは「仮に他の行為をしようと思えば他の行為をすることができた」として考えてきた。

これを、
「私がその行為をしようと思ったから、その行為をすることができた」
として考え直してはどうか。

「他の行為をしようと思えば他の行為をすることができた」という文を単に否定しただけのもののようでもあるが、その意味は大きく変わる。
前節でインワーゲンが考えた「自由」が「選択可能性」だったのに対し、今回考えたいのは「私が為した行為だ」という「行為者性」がポイントになっている。「自由」とは「他の誰でもない私がそうしようと思って為した行為である」という意味に重点を置いて考えるべきだと思うのだ。

 

選択可能性と道徳的責任

これを、具体的に考えるための良い設定をフランクファート(1929-)という哲学者が提示しているので紹介する。フランクファートは「選択可能性と道徳的責任」という論文で決定論が正しいのなら道徳的責任がなくなると考えるべきかについてていねいに考えている。その中で出てくるお話だ。

ブラック(以下B)がジョーンズ(以下J)に、或る悪行Xをさせたいということにする。BはJにその行為をさせるために様々な効果的手段を用いようと考えているが、必要でないときにまで何かをしようとはしない。Jが自分で何をするか決めるときまで、Bは待つ。そして、Jがしようとする行為がXであればBは何もしない。(Bはそういうことに関して卓越した判断者なのだ。)もし、JがXと別の行為を決意しようとしていることが明らかになれば、Bはあらゆる手段を用いて確実にJがXを決意し実行するようにする。Jがもともとの好みや傾向がどんなものであれ、Bは自分の思い通りにさせてしまう。 

こんなお話であった。Jに道徳的責任があるか否かを順に考えてみよう。
Jが、その悪行Xを止められる可能性はなかった。だから、その意味でJには選択可能性はなかった。そこから、Jが道徳的責任がないと考えるべきだろうか。…というと、そんなことはない。
まず、Jが自ら望んでXを為した場合。そのとき、BはJに対して何の働きかけもしていないのだから、Bの存在は、Jに対する道徳的責任の有無とは無関係になる。だから、Jは、状況として選択可能性はなかったのだとしても道徳的責任はあるとすべきだ。
次に、Jが自ら望まず、無理にXを行為させられた場合。このときには、その行為の責任はBにあるのであって、Jは道徳的責任に問われることはないはずだ。

 

行為者性にこそ自由がある

このことから、Jは選択可能性がなくても道徳的責任があるとすべき場合があることが分かる。道徳的責任が、すなわち自由のすべての判断基準になることはないだろう。しかし、一つの基準になることは間違いないだろう。
単純に選択可能性だけが自由ではないのであり、行為者性にこそ自由の意味の重点が置かれるべきだと、僕は考えている。

Jは自分で為そうと考えてXを行ったのであれば、Xを行為する上において自由であったのであり、そのうえで、それだからこそ、JはXに責任を持つのである。

以上で、僕の考えている自由についての考えを一通り出すことができた。しかし、まだ何かすっきりしない部分が残っているように思える。他にも紹介したい2,3のトピックもあるので次節でも自由について考えて、さらに深められるようにしたい。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

私は「固い決定論者」です。

>「私がその行為をしようと思ったから、その行為をすることができた」
>行為者性にこそ自由がある

行為者の(行為をしようという)思いは既に予め決定しています。
その結果としての行動も既に予め決定しています。
ですので、行為者性により自由を救うことはできません。
「思い」自体が既に決定されているのです。(決定論)

行為者性を有効にするためには自由意志の肯定が必要です。
つまり、その時点での思いの任意性を肯定することが必要です。
この条件は自由意志の肯定そのものです。

横山さんに意見するわけではなく、フランクファートさんへの意見ということで、どうかお許しくださいませ。笑

Bの選択はJの選択ありきで、完全に対応するとのこと。
ということは、Bには選択可能性はもちろん、行為者性もないことになりますよね。

すると、Jに対して行為者性としての責任を問うために設定したBですが、【今度はそのBに対して責任を問えなくなってしまう】わけです。
たとえBが、「JにXをやらせる」を選択しても、それでも、Bには選択可能性はもちろん、行為者性も存在しません。
あるのはJの選択に完全な対応しただけだから許してねという免罪符です。

結論を申しますと、フランクファートさんの例では、「Jに選択可能性のかわりに行為者性を持たせれば責任を問えるぞ」という主張の他方で、「Bには責任を問えないけどね」を含意してしまい、イタチごっこで免罪符を発行し続けるだけになってしまうのではないでしょうか?

--

それとも、私のここまでの意見は、Bの選択肢を誤解しているのでしょうか?

すなわち、Bの選択肢は「JにXをやらせるorやらせない」という選択肢ではなく、「Jの選択に完全に対応するor対応しない」という選択肢だと解釈すべきなのでしょうか?

しかしそのように解釈すると、Bに選択可能性が生まれてしまいますから、「選択可能性がなくても責任を問えるぞ」という主張がおかしな話になってしまいますもんね。。(@_@)

SHIROさん、コメントありがとうございます。
でも、ご質問の意図が僕にはつかめてないかもしれません。

上の話の設定では、Bは結局他への働きかけはなにもしていません。もしJがXを行わなかったら強権発動してJに無理強いするところでしたが、設定場面ではそうはなってません。なので、そのときのXを実際に為した責任が問われるかどうかは責任をどう捉えるかによるものとなってしまって、ややこしい話になりそうです。それにこのBは決定論の神が擬人化したものだと考えてこそ、決定論対自由の論点での責任論を問うものに繋がるように僕には思えます。ですから、Bの責任をJの責任と同等に問えるもののように捉える必要はないように思えます。

また、さらに、Bに選択可能性が生まれてしまっても、なんか問題なく「Jの選択可能性がなくても責任を問えるぞ」という主張はできるように思えます。

という風に感じてしまって、SHIROさんが齟齬だとされているところが僕には全く齟齬に見えないのです。もしかすると、上のような小手先の議論ではなくて、「責任とは何ぞや」「超越とは何ぞや」というところまで突っ込んださらに本質的な問いが要求されるようなところの話にしなくちゃいけないのですかね。

寝ぼけいてたとしか思えません。墓があったら入りたいです。新幹線で大阪まで行って謝りたいレベルです。笑

クラス替えなどご多忙の折でしょうに、へんてこりんな意見に対応させてしまって、本っ当---に申し訳ございません。。

SHIROさん、お陰でずいぶん久しぶりに自分の自由論を読む機会を得られました。分かりにくさが目立って何が問いたいところなのかよく分からない文章なので、様々な読まれ方をしてしまっても仕方ないと思いました。
読み間違えでもコメントしてもらえると気づかされることが多いのでありがたいです。これに懲りずまた書き込んでください。

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