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2012年12月24日 (月)

運命からの自由を問うてはダメなわけ<心は実在するか3>

運命が決まってるなら頑張っても無意味か?

僕)決定論が正しいのだったら未来はすでに決まっているのだから、僕が何をどうがんばっても同じなんだよね。努力は無意味になっちゃうんじゃないかな。

妻)それは違うよ。いくら決定論が正しかったとしても、努力したら絶対何かの形で報われるよ。だって、どんなに細かに運命が決まっていたって、お湯を入れるとカップ麺は食べられるようになるし、入れなかったら食べられるようにはならないもん。

僕)お湯を入れたらカップ麺が食べられるようになるのは、そうだね。でも、僕がそのお湯を入れるかどうかが、実は最初から決まっているというのが決定論だろう。確かに努力すると報われるのかもしれないけど、その努力をするかどうかも決まってしまっているんだ。それなら、努力しようとすること自体が無意味なのじゃないかな。

妻)違うよ。努力しようとすれば、その結果として当然その人は努力するのだし、努力すれば当然それは報われるのよ。カップ麺にお湯を入れようとすればお湯は入るの。食べようとすることが無駄なわけないじゃん。

僕)無駄とは言ってないよ。無意味と言ってるの。その、カップ麺を食べたいと思うかどうかってことも、もともと決まっているんだから、僕が自分でそうしようと思うことなど何も意味はないのさ。いや、もちろん、カップ麺を食べたいと思ってしまったならそれはカップ麺を食べようとすることにつながるよ。でも、その食べたいって気持ちを持とうとしようとすることをしようとする・・・みたいに自分の気持ちをどこまでも遡っていかないといけなくなるし、どこまで遡ったとしても、それは初めっから決まっていることなんだから、自分で選んではいないんだよ。だから、僕が何かを決めようとしても無意味なんだよ。初めから決まってるんだから、努力する道を自分で選ぼうとしても無意味なんだよ。

妻)そんなことないよ。食べたいものがあって、それが食べられるんだったら、そのカップ麺を食べようとするかどうかがどんな昔から決まっていたとしても、そんなことに関係なくハッピーになれるよ。食べようとすることをさらにしようとする必要ななんてなくて、ただ食べようとしたらいいの。それだけですごく大きな意味があるの。ぜんぜん無意味じゃないよ。あなた、本を読むのが好きでしょ。主人公に感情移入するでしょ。主人公を応援するでしょ。がんばれって思うでしょ。でも、どの本も読む前からその巻末までのストーリーは決まっているよ。ストーリーが全部決まっているからって、応援することが無意味だと思わないでしょ。決まっているストーリーでもどきどきわくわくするでしょ。そのどきどきわくわくは本物でしょ。それならちゃんと意味あるじゃん。それに、小説だったら主人公が塩ラーメン食べても自分が本当においしく感じるわけじゃないけど。本当の人生だったら、塩ラーメンのおいしさを本当に味わえるんだよ。人生はおいしかったり、苦しかったり、ハッピーだったり、悲しかったり、本当にする。がんばったら、それだけ本当に幸福を味わえるだから、がんばる意味あるじゃん。初めっから運命が決まっているだけで、がんばるのが損だとか無意味だとか思うのは、馬鹿な勘違いだよ。

僕)損だとは言ってないよ。確かに人生そのものは無意味ではないかもしれない。でも、僕が人生を決定することはできないのだとしたら、運命を変えようとすることは無意味だよ。違うかい。

妻)運命を変えようとすることが無意味って?だから馬鹿だっていうの。運命を変えようとするなんてことに意味があるわけないじゃん。だって、もともとの運命ってものがどんなものかっていう神様の描いた設定図なんかは、私たち人間に知れるわけないんだから、そのどんなものか分からないようなものを変えることなんか出来るわけないし、もともと、それを変えようとするっていう文が何か意味を持っているはずがないじゃん。それは無意味って言うよりナンセンスよ。

 

運命が決まっていてもUFOか一平ちゃんか選んだ方を食べられる

妻)あなたが言いたいのは、決定論が正しければ、自分で何をするのか選べないということでしょ。自分で選ぶ自由がないっていうこと。

僕)そうだよ。決定論が正しいってことは、自分で何をするかを自分で選べないってことだし、他の行為をすることができないということを意味していると言いたいんだ。このことは、インワーゲンが証明してるよ。

妻)微妙な言葉づかいの問題なんだけど、それが間違っているのよ。インワーゲンが証明したのは、決定論が正しければ物理法則によって決定された行為から外れることができないということ。あなたが言ってるのは自分で選ぶ自由がないってこと。

僕)同じじゃん。

妻)「他の行為を為す可能性があること」が「自分で選ぶ自由」と同じ言葉だというのなら同じよ。あなたと同じように、この2つが同じだと考えてる哲学者も多いわ。「非両立論」っていう考え方ね。でも、私は同じだとは思えない。だって、「自分で選べる」って言うのはUFOにするか一平ちゃんにするかを、自分で考えてそうしようと思った方にお湯を入れられるってことだから意味がはっきりしてるけど、「他の行為を為す可能性があること」って言うのは何と比べて「他」なのか全然意味が分からないもの。インワーゲンは結局何も意味のないことしか証明してないんじゃないかと思うの。

僕)そんなことないよ。インワーゲンの証明は完全に論理的で、完璧な分析だよ。

妻)そうよ。完全に論理的よ。でもだから、逆に意味がないのよ。インワーゲンの証明は結局、物理法則によってすべての未来予測ができるなら未来は物理法則によって決まる、というトートロジーでしかないのよ。完全な論理文で、完全な分析文だということは、つまりトートロジーで無意味な文でしかないということ。そこから、自由意志について何か意味のあることを言おうとすると無意味からナンセンスになってしまうってこと。
そして非両立論者はその、UFOか一平ちゃんかを選べるという、意味のある普通の自由と、「他の行為を為す可能性があること」なんていう意味の分からない自由を一緒にしてしまって勘違いしているのだと思うの。UFOか一平ちゃんの好きな方を選ぶ自由は、この自分がする行為だということに注目して「行為者性」と言い、「他の行為を為す可能性があること」という意味のよく分からない自由を「選択可能性」って言うんだったね。あなたも、この2つを混同してしまって混乱してる状態なんじゃないかな。

 

無理矢理させられる行動は自由か 催眠術でさせられる行動は自由か 神にさせられる行動は自由か

妻)たとえばね、3つのケースを考えてみて。
1つめは、手足を縛られて無理やりに嫌なことをさせられるような状況。この状況では、確かに他の行為を為す可能性はないから「選択可能性」はないと言ってもいいね。そして、自分でこうしようと思ったことをすることもできないから「行為者性」もないとも言えるよね。このときはがんばっても無駄だと思っても仕方ないし、正しいかも知れない。
2つめは、サールが「マインド」で紹介してた催眠のケース。催眠状態の被験者が「あなたは催眠が解けた後で『ドイツ』という単語を聞くと窓を開けます」と言われる。そして被験者は「ドイツ」と聞くや否や、「ひどく暑いですね。新鮮な空気を入れましょう」と言って窓を開けた。このとき、被験者は自分の行動が完全に自由と思い込んだままであった…という話だった。催眠をかけられて知らぬ間に催眠術師の思い通りに行動させられているという状況。この状況では、被験者は窓を開けるという行為以外をする可能性がないのだから、「選択可能性」はないと言ってもいいね。でも、自分で窓を開けようと思って、思った通り窓を開けることができるんだから「行為者性」はあると言えるでしょう。いくら、人の思い通りに行動しているんだとしても、自分の思った通りに行動できるのだから、UFOが食べたいと思えばUFOが食べられるのだし、がんばればがんばるだけ幸せになれるのよ。このとき、未来が決まっているのだから、がんばっても仕方ないなどと考えてしまうのは、選択可能性と行為者性を区別して考えられていないための混乱なの。あなたが、「決定論が正しいのだったら未来はすでに決まっているのだから、何をどうがんばっても同じで、努力は無意味になっちゃうんじゃないか」なんて考えるのは、そういう混乱。
3つめのケースは、神様が人の運命を決めていて人はそれを知らないのだけれど決められた通りに必ず行為するという状況。この場合は2つめの状況とほとんど変わらないのだけれど、少し違うよね。選択可能性があるかないかについては、神様の視点から言うと無いんだけど、人間の視点から言うとあるとも無いともどっちとも言えない。言えないだけじゃなくてそんな選択可能性なんてものはナンセンスでしかない。だって、人間には神の決めたことなんて知りえないのだから、「神の決めた行為とは違う行為をする可能性」などという言葉に意味があるわけないもの。あなたの混乱は、この、決定論を神様の視点で肯定した上で決定論における選択可能性というナンセンスな概念を本当の自由だと考えてしまった混乱なのよ。

Photo_8

選択可能性自由はナンセンス 行為者性自由こそが自由

妻)まとみてみるね。「行為者性」は決定論が正しくても正しくなくてもそのことには関係なく,、自分で自分の行動を選んで自分の人生を生きていくことができるという自由の捉え方だよね。行為者性は決定論と関係ないものだから独立してると言ってもいいよね。だから行為者性と決定論は両立することができて、両立論と呼ばれる。両方が支えあって立っているんじゃなくて、互いに関係がないんだよね。だから、「やわらかい決定論」なんて言い方は私は変だと思うわ。自由は自由であって、決定論は関係ないんだから、いくらやわらかいと言っても行為者性が決定論になるわけないもん。
これに対して、「選択可能性」は決定論が正しいかどうかに左右される。選択可能性と決定論は互いに相手を排除しあう。だから、両立することができなくて非両立論になっちゃう。そして、もし、決定論と選択可能性を一緒に考えようとすると、「(私が知らない)神様の決めた行為とは違う、別の行為をすること」なんていう訳のわからない自由もどきが現れてきてナンセンスな考えに陥ってしまうことになるんだ。そしてその混乱に陥っちゃってあなたみたいに「がんばっても無意味」などと馬鹿なことを言う人が出てくる。
「神様が決めた運命から自分がしたいと思うことを独立させることができるか」なんていう問いは初めから何の意味もない馬鹿でナンセンスな疑似問題なの。自分のしたいと思ったことを為したことがそのまま自分で選んだ人生そのものなのだから、それで十分なの。

分かった?分かったら、いつまでもぐずぐず言ってないで、じゃんけんに負けた人が夕飯を作る。メニューはあなたがしようと思う通りにしていいから。

僕)どうも、まだすっきりしないよ。ゆっくり時間をかけてもう一回考えてみないといけないみたい。けど、少なくとも今は料理をがんばった方がいいことは確かだね。UFOか一平ちゃんかどっちがいい?

 

自由についてはここで一段落。次は心身問題について、選択可能性自由に関連する「意志」と行為者性自由に関連する「意図」とを考える。

つづく

<心は実在するか>

大阪哲学同好会に来ませんか

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コメント

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
私も英米系の哲学を勉強しようかと思います。
論理学は中々私の頭ではついていけないのですが、
でも本を読むときはつい哲学の本になります。
因果なものです。

呼戯人さん、
おめでとうございます。こちらこそよろしくお願いします。
僕は英米系ばかりで、ヨーロッパ系の方は全然読んでいないので、そちらも読みたいとも思うのですが、ウィトゲンシュタイン周辺のものばかりで読みたいものがまだまだありますので、なかなか広がりません。とりあえず、心身問題と志向性についてを読んでから後期ウィトゲンシュタインについてをブログにまとめてしまいたいと思っています。あとできれば様相論理についても進みたいと思っています。

私も最近「僕」と同じようなことを考えてしまい困っていたので非常に面白く読ませて頂きました。理系なこともあって決定論はどうしても否定できません。実際、上のカップ麺の話であっても対象が自分ではなく、他人であれば決定論的な考え方で納得できてしまうのです。カップ麺の話で言えばこんな感じです。

話を単純化するために考察の対象を人が二つのカップ麺を目にした時点から、どちらかを選択する(あるいはどちらも選ばないでその場を去る)までの間を考えます。例えば、Aさんは子供の頃からUFOが好きだった、なのでAさんの脳内でその好みに基づいた化学反応が起こり、UFOを選んだ。Aさんは自分で選んだと思っているでしょうが、実は決定論的に物事は起こっているのです。

しかし、自分自身の場合はこれでは納得がいかないのです。どちらを選ぶかはもう決まっているのだと考えるとどちらにしようか考えるのが空しくなってきます。でもこうやって空しくなることも決まっていると考えると更に空しくなります。UFOを選べばUFOを食べられるし、どちらも選ばなければがお腹が空くだけ、ということを知っているにも関わらず選択の自由が私にはないのです。

「妻」の説明は辻褄を合わせているだけのように感じます。「でも実際は物理法則に従って物事は進んでいるんでしょ。」という悪魔の囁きに対する反論ができない(敢えてしない)のではないでしょうか。

このような空しさから何とか抜け出したいのですが、これを読んでみたら等のアドバイスが頂ければ幸いです。

餅太郎さん、ようこそいらっしゃいました。コメントありがとうございます。
「僕」と「妻」が考えたことをまっすぐに捉えてもらえて、思索に利用してもらえてとてもうれしいです。

「妻」の言い分、「非両立論者はその、UFOか一平ちゃんかを選べるという、意味のある普通の自由と、「他の行為を為す可能性があること」なんていう意味の分からない自由を一緒にしてしまって勘違いしている」と言うのは、確かに辻褄を合わせているだけとも考えられますが、しかしなかなかこれが本質的な問題点を突いているとも言えると思います。
「選択可能性」が「神の視点で捉えた「運命」から逃れ得る自由」ということを意味するのであれば、その神の予言を破ることができたときに、その「自由」は手に入れられるのでしょうか。しかし、もし本当に眼前に自称「神さま」が現れて「あなたはUFOを食べるでしょう」と言ったからって、そんな予言はやすやすと破れるし、その実際にUFOを食べなかったという現実を運命として知り得ていた「メタ神様」も簡単に想定できます。そして、そのメタ神様の予言だってやすやすと破り得て、「メタメタ神様」も考えられ、「メタメタメタ…(無限に続く)…メタ神様」だって想定しようとすれば想定できてしまいます。ところがこの想定はどこまで有意味かというとほとんどナンセンスなのではないでしょうか。「選択可能性」は「自由」を語っているように見えて、言語の射程と超えたナンセンスを語ろうとしている儀式に過ぎないのではないかと思うのです。

いかが思われるでしょうか。
この方面の文献に詳しいわけではないのですが、僕が最もリアリティーを感じるのはデイヴィドソン「行為と出来事」で、これをお勧めします。平凡社ライブラリー「大森荘蔵セレクション」の中に「決定論の論理と自由」という論文があり予言破りについても書かれています。アイデアとしてはやや曖昧なところもありますが、面白かったです。

私は「固い決定論者」です。

>運命が決まってるなら頑張っても無意味か?

運命が決まっているということは、ある時点で頑張るか否かも既に決まっていることを意味します。
ですのでこの問い自体あまり意味のある問いにはなりません。
もし、ある時点で頑張るか否か選べるとしたらそれは自由意志を肯定していることになり、そもそも決定論ではなくなります。

視点を変えて述べてみます。
人間の行動のベースには本能があります。
その本能は我々に「この世界で生存していくこと」「子孫を残すこと」「より良く生きること」を命じています。
特に人間の場合「より良く生きること」を本能は求めています。
この要請に応えるために我々は、家族を大事にし、他の人々との関係を大事にし、社会との関係を良好に保ち、また、社会の中で生存競争に身を投じる等々の行動を行っています。
ですので、運命が決まっていたとしても、頑張るのは止めよう、という結論には恐らくならないだろうと思います。(如何でしょうか?)

>僕)そうだよ。決定論が正しいってことは、自分で何をするかを自分で選べないってことだし、他の行為をすることができないということを意味している

(決定論では)「自分で何をするかを自分で選べない」というのはよくある誤解です。
決定論でも自分で何をするかは自分で選べます。自分でUFOでも一平ちゃんでも選ぶことができます。
ただ、ある時点で「何を選ぼうと思うか、結果として何を選ぶか」が決まっているというだけです。

ある唯物論者さん、真っ当なご指摘ありがとうございます。行為に対する自由という点でおっしゃる通りだと思います。

ただ、(自分の文章に後から解説を加えなければならないというのは自分の筆力の無さを露呈していてカッコ悪いのですが、少し解説します。)上の本文で、横山の考えを述べているのは「妻」で、その仮想論敵が「僕」です。ある唯物論者さんは「僕」の勘違いを指摘してくださっていますが、「妻」の勘違いに対する指摘であったらよりありがたかったです。

ある唯物論者さんの言われていることと「妻」の言っていることはそれほどずれていないと思いますが、違いがあるとすれば、ある唯物論者さんが「運命が決定している」とお考えなのに対して、横山は「運命が決定しているか否かを問うことは無意味」と考えているということだと思います。

ある唯物論者さんは、「或る正しい物理法則があるゆえに、世界の運命は決定している」という論の組み立てをされていますが、僕にはこれは無謀な登頂経路だと思えてなりません。
因果律さえその正当性は帰納的にしか導出できません。当然あらゆる物理法則も我々人間には帰納的に接近できるだけです。ところが、固い決定論を目指そうとするなら帰納的に正当な物理法則では役に立ちません。演繹的に正当な物理法則が必要なはずです。そして、演繹的に正当な物理法則があるとすることは、神でない我々には論点先取をしないと無理な話である。だから、決定論につながるような決定的物理法則の存在を問うことは無意味なのではないかと、横山には思えるのです。

横山信幸さん。

<「妻」と「僕」の役割について>
仰るとおり「妻」と「僕」の役割を勘違いしていました。
ただ「妻」の発言は「行為者性の自由」を前提としているように感じています。
別にコメントしましたとおり「行為者性の自由」に私は否定的です。

<物理法則と決定論について>

<前提1>この世界の全ての現象(物理現象)は一定の法則に従っている。
<前提2>この世界に実在するのは物質のみである。
私はこの二つの前提を基に考えています。
この前提からは必然的に決定論が導かれます。
「帰納的に正当な物理法則」や「演繹的に正当な物理法則」は一切前提としていません。
もちろん、神の視点も必要としません。
(注)<前提1>の一定の法則とは物理法則と呼ばれているものです。

二つの前提は直感であり仮定であり証明ではありません。
ですので、これらの前提は将来いつでも棄却される可能性があります。
これらの前提が棄却されるのは下記のような場合です。
<場合1>如何なる法則にも従わない現象が発見された。
<場合2>物質以外の実在の存在が証明された。
<場合3>物質が実在でないことが証明された。
<場合4>実在論が間違いであることが証明された。
もちろん、私はこのような事態が将来起こることは無い、とは思っています(が?)。

私は、ある仮定がこの世界を整合的に過不足なく説明可能であると判断できる場合、その仮定を真実として受け入れます。
唯物論はそのような仮定であり、真実として受け入れています。
如何なる絶対的な法則も、神の視点も前提としていません。
これは直感であり仮定であり、将来いつでも棄却される可能性を持っています。

ある唯物論者さん、こんばんは。

お考えはある程度分かりました。
一つ疑問なのは、前提1と決定論は同値なのではないかということです。前提2は不要な気がしました。

横山信幸さん。

仰るとおり決定論を導きだけであれば<前提2>は不要でしたね。
実は、自由意志の否定も導き出すつもりだったのですが書き漏らしてしまいました。
また前提の表現も変えたほうが良いように感じましたので、別バージョンの表現を書いてみます。
<前提1>物質のみが実在である。(唯物論)
<前提2>物質は一定の法則にしたがって運動している。(物理法則)
これに伴い棄却条件の一つも書き換えておきます。
<場合1>如何なる法則にも従わない物質の運動が発見された。

二つの前提から必然的に決定論と自由意志の否定が導かれます。
自由意志を否定した決定論ですので「固い決定論」ということになります。

<私の主張の背景>
私の主張の背景にある考え方について述べてみたいと思います。

私の主張に限らず、およそあらゆる主張は仮説であると考えます。
絶対的意味での真実について語り得るのは「神」のみです。
人間は絶対的意味での真実について語り得ません。
人間が語りえるのは仮説のみです。
こうした仮説の中から私が真実として受け入れる場合の判断基準の最も重要な条件は「整合性」です。
特に私は自然科学との整合性を重視しています。

ここで述べたことは前回の補足に過ぎませんので、お返事は無用かと?

ある唯物論者さん、ていねいな回答ありがとうございます。

僕はこのブログの次の展開として、チャーマーズによる以下の論「唯物論に対する反論」を取り上げ、それにさらに反論をしようと考えています。

〈唯物論に対する反論〉チャーマーズ
1.われわれの世界には、意識体験がある。
2.物理的にわれわれの世界と同一でありながら、われわれの世界の意識に関する肯定的な事実が成り立たない、論理的に可能な世界が存在する。
3.したがって、意識に関する事実は、物理的事実とは別の、われわれの世界に関する事実である。
4.ゆえに、唯物論は偽である。
以上


僕はブログ次節(または次々節)で、〈1の、われわれの世界には意識体験がある〉が言語論的に否定されるがゆえに存在論的にも否定されるのだということを示したいと考えています。

ある唯物論者さんは、どのように否定されますか?

横山信幸さん。お付き合い有り難うございます。

久しぶりにWikipediaでチャーマーズやその関連記事を読み返してみました。

>〈唯物論に対する反論〉チャーマーズ
端的に言えば、命題2が誤っています。
物理的に同一世界であれば意識に関する内容が異なることはあり得ません。
意識に関する内容は物理的状態に完全に依存しています。
ですのでチャーマーズの唯物論批判は全く失敗しています。

<哲学的ゾンビについて>
哲学的ゾンビは存在できません。存在不可能です。
哲学的ゾンビは空想上でしか存在できません。
人間の心は原理上かならず機能的意識と現象的意識を持ちます。
機能的意識のみを持ち現象的意識を持たない人間(哲学的ゾンビ)は有り得ません。

<ハード・プロブレムについて>
チャーマーズもチャーマーズの批判者たちも、誰もハード・プロブレムの意味を把握していません。
ですので、どの議論も空回りしていますし、的を外した議論に終始しています。
先ずハード・プロブレムの意味を把握しない限り有効な議論は無理と言えます。
(「意識のハード・プロブレム」という問題の存在を明らかにしたのはチャーマーズの大きな功績です。)

ある唯物論者(異邦人)さま

はじめまして、工藤と申します。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>哲学的ゾンビは存在できません。存在不可能です。
哲学的ゾンビは空想上でしか存在できません。
人間の心は原理上かならず機能的意識と現象的意識を持ちます。
機能的意識のみを持ち現象的意識を持たない人間(哲学的ゾンビ)は有り得ません。


哲学的ゾンビなる代物は、他者概念における不可分で相補的な二つの内容的規定
①指示・伝達・並列不可能な一人称的視点を生きる主体としての他者
②認知可能なデータを提供する客体としての他者
と形而上学的様相の自立性(詳細はhttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/2013721-a380.htmlのコメント欄をご参照ください)が結び付くことによって生じた概念的構成物に過ぎません。
例えば、「識別不可能とはいえ、他人は①指示・伝達・並列不可能な一人称的生を欠いた ②認知可能なデータを提供するだけのゾンビであり得る!」という想像的思考について考えてみてください。言うまでもないと思いますが、識別不可能→認識論的様相、ゾンビであり得る→形而上学的様相ですね。
付言しますと、我々が存在論的に断絶している(詳細はhttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/22k721-7eae.htmlのコメント欄をご参照ください)という前言語的な[事実]が哲学的ゾンビなる想定に或る種のもっともらしさ(の見かけ)を与えているのでしょうが。

横山信幸さん。(補足です)
;
私は存在論の問題に認識論や言語論で答えようとするのは間違っていると考えています。
それは認識や言語とは独立した実在があると考えているからです。
認識や言語を超えた実在について考えていく、というのが私の存在論に対するスタンスです。

>チャーマーズもチャーマーズの批判者たちも、誰もハード・プロブレムの意味を把握していません。
ですので、どの議論も空回りしていますし、的を外した議論に終始しています。
先ずハード・プロブレムの意味を把握しない限り有効な議論は無理と言えます。


仰る通りだと思います。然らば、ハード・プロブレムの真の意味とは何か。

視野について考えてみてください。
"僕"の視野―精確に言えば、[工藤庄平なる身体から開けた視野]―は指示・伝達・並列不可能です。
"僕"―精確に言えば、[工藤庄平なる身体から開けた生]―は[工藤庄平なる身体から開けた視野]が捉える指示・並列可能な諸対象―石や猫や永井均氏etc―と指示・伝達・並列不可能な[工藤庄平なる身体から開けた視野]を区別出来ます。
とはいえ、我々が伝達し合えるのは、[工藤庄平なる身体から開けた生]とか[工藤庄平なる身体から開けた視野]といった【文字や発語】に過ぎません。別の言い方をすれば、[工藤庄平なる身体から開けた生]は言語ゲームに顕現し得ない、ということです。
我々が伝達し合えるのは、[工藤庄平なる身体から開けた生]は言語ゲームに顕現し得ない、という【文字や発語】に過ぎないのですから。

言い方を変えてみましょう。
[固有名を与えられた身体から開けた視野]が捉える指示・並列可能な諸対象―石や猫や工藤庄平氏etc―と指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた視野]の差異を"君"―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―は理解しているのではないか?
もしそうであるならば、ここには言語ゲームに現れない[世界の構造に関する事実]が存在している筈です。我々が伝達し合えるのは、[固有名を与えられた身体から開けた視野]とか[固有名を与えられた身体から開けた生]【といった文字や発語】に過ぎないのですから。

ハード・プロブレムの真の意味は【語ることも示すことも出来ない[生]と存在論的断絶を「自得する」こと】なのでしょう。

ある唯物論者(異邦人)さま

>私は存在論の問題に認識論や言語論で答えようとするのは間違っていると考えています。
それは認識や言語とは独立した実在があると考えているからです。

仰る通りだと思います―[固有名を与えられた身体から開けた生]然り―が、

>認識や言語を超えた実在について考えていく、というのが私の存在論に対するスタンスです。

認識や言語を超えた実在【について考えていく】とはどういうことでしょう?

工藤庄平さん。コメント有り難うございます。

リンクで示された別ページのコメントを読ませていただきました。
ただ、量がかなり多いので差し当たりざっと飛ばし読みです。
内容が難しすぎるのと考え方の相違が大きすぎるので読み込むのは容易ではありません。
ですので、的外れな点も多いかと思いますが、取りあえず現時点の理解で、返事させていただきます。

<哲学的ゾンビについて>
「哲学的ゾンビ」そのものではなくその元になっている概念「クオリア」「現象的意識」について述べてみます。
「クオリア」や「現象的意識」は脳内の状態として客観的に存在しています。
決して認識問題や言語論的問題ではありません。
認識問題や言語論的問題とは無関係な客観的事象です。
「クオリア」や「現象的意識」の意味を把握すればそのことが解ります。
「クオリア」や「現象的意識」を認識問題や言語論的問題として捉えようとするのは的外れです。

この返事は最初のコメントに対する返事です。
この返事を書いている途中で他のコメントをいただいていることに気付きました。
多数のコメント有り難うございます。
順次返事を差し上げたいと思います。(順不同になるかもしれません)

工藤庄平さん。
;
>認識や言語を超えた実在【について考えていく】とはどういうことでしょう?
私は「物質のみが実在である(唯物論)」を前提(仮説)として、この世界の全てを整合的に過不足なく説明可能であるのかを問います。
この問いに対して、私は「然り」と判断しています。
ですので、その仮説を私は真実として受け入れています。
この世界に関するある言明(仮説)がこの世界を整合的に過不足無く説明可能であると判断した場合、その言明(仮説)を真実として受け入れる、というのが私の考え方(スタンス)です。

同ページの横山信幸さんに対する私の下記のコメントも合わせてご参照いただければ幸いです。
・2013/9/22 棄却可能性に関する記述
・2013/9/23 <私の主張の背景>の記述

工藤庄平さん。
;
>ハード・プロブレムの真の意味は【語ることも示すことも出来ない[生]と存在論的断絶を「自得する」こと】なのでしょう。
そうではありません。
「ハード・プロブレムの真の意味」というのは「クオリア」や「現象的意識」の真の意味を客観的に知ることです。
「ハード・プロブレムの真の意味」は客観的に語ることも示すこともできます。

ある唯物論者(異邦人)さま

ご返信ありがとうございます。ご質問にお答え致します。


>「ハード・プロブレムの真の意味」というのは「クオリア」や「現象的意識」の真の意味を客観的に知ることです。
「ハード・プロブレムの真の意味」は客観的に語ることも示すこともできます。

そういうことなら仰る通りだと思います。「ハード・プロブレムの真の意味」というフレーズで僕が考えていたことと異邦人さまがお考えになっていたことに乖離が生じていたようですね。

(上のコメントの続きです)
しかしながら、ハード・プロブレムなる哲学的擬似問題を背後から駆動しているのは(哲学的ゾンビに関するコメントでも言及した筈ですが)我々が存在論的に断絶しているという前言語的で・かつ言語ゲームに現れない[事実]なのでは。
当然ながら、存在論的断絶や[工藤庄平なる身体から開けた生]は客観的に示すことも語ることも出来ません。

ある唯物論者(異邦人)さま

>私は「物質のみが実在である(唯物論)」を前提(仮説)として、この世界の全てを整合的に過不足なく説明可能であるのかを問います。
この問いに対して、私は「然り」と判断しています。
ですので、その仮説を私は真実として受け入れています。
この世界に関するある言明(仮説)がこの世界を整合的に過不足無く説明可能であると判断した場合、その言明(仮説)を真実として受け入れる、というのが私の考え方(スタンス)です。

チャーチランド的ですね。
確かに、
①一人称の心理的言明「私は左足が痛い」「私はウキウキしている」等々を含む心的な記述・他人に対する心的な説明の一群(体系)

②第三者も視認し得る客観的事象に関する神経科学的記述「工藤庄平のC繊維が発火している」「工藤庄平の前頭葉の神経発火をモニタリングしてみよう」等々を含む物的な説明の一群(体系)
が相互に還元不可能な在り方をしているからといって、①心的な記述が【実際に】使用される【状況】について②物的な説明を与えることが不可能であることにはなりません。
とはいえ、言うまでもなく、
①と②の間に概念的な連関を「設定する」―捏造する?―こと

①と②の本質的な連関を―仮にそのようなものが存在するとして―「発見する」こと
は別の事柄です。
異邦人さまの仰る「説明」が十全なものである為には、それが「発見する」ことに支えられている必要がありますね。

工藤庄平さん。
;
>しかしながら、ハード・プロブレムなる哲学的擬似問題を
ハード・プロブレムは決して哲学的擬似問題などではありません。
擬似問題だとお考えになっているところに誤解があります。
ハード・プロブレムは客観的な問題であり客観的に解くことのできる問題です。

>我々が存在論的に断絶しているという前言語的で・かつ言語ゲームに現れない[事実]なのでは。
ハード・プロブレムは脳の中がブラックボックスであることに由来しています。
従ってそれは認識できない、言語化できない現象が元になっていることは確かです。
しかし、認識できない、言語化できない現象からどのようにハード・プロブレムが生まれてくるのかは客観的に記述可能です。
それは決して「前言語的で・かつ言語ゲームに現れない」というような表現で捉えることのできる事柄などではありません。
工藤庄平さんは言語論的問題としてこの問題を捉えようとなされているように感じますが、この問題は決して言語論的な問題などではなく客観的に解くべき問題であるものと考えます。
認識論や言語論や言語ゲームといった事柄はこの問題と無関係であると考えます。

>当然ながら、存在論的断絶や[工藤庄平なる身体から開けた生]は客観的に示すことも語ることも出来ません。
唯物論では、存在論的断絶(他者との断絶)も[工藤庄平なる身体から開けた生]も何れも客観的出来事です。
客観的に語ることのできる事象です。

お互いの立場が大きく異なるので平行線のままになりそうな気がしています。
(議論に於いてはよくある事態ですので特に気にはしませんが)
私の立場(唯物論)を下記に明らかにしておきます。

<私の立場(唯物論)>
この世界の全ては物質が物理法則に従って運動することにより生み出されています。
自然世界はもとより精神世界も物質が生み出しています。
この世界の全ての現象は客観的現象です。
主観、心的世界、クオリア、現象的意識、感情等の心的現象も全て客観的現象の一部です。
この世界に私秘的現象は存在しません。(注1)
存在論的断絶(他者との断絶)も存在しません。(注1)
ですので、全ての現象は客観的に記述可能です。
例えば、ハード・プロブレムはもちろん、その他の心的現象も客観的に記述可能です。

唯物論的世界では言語論は全く無効です。
全てが客観的に記述可能である世界では言語論は全く無効です。
言語論が有効になるのは、他者との断絶が存在する世界の場合だけでしょう。

(注1)
あくまで原理上の話です。現実上は存在すると考えてかまいません。
とは言え、存在論は原理上の話をする場ですので、ここでは原理上で語る必要があります。

ある唯物論者さん、こんばんは。
回答ありがとうございます。

ある唯物論者さんの言われる
>「存在論の問題に認識論や言語論で答えようとするのは間違っている」
>「認識や言語とは独立した実在がある」
>「認識や言語を超えた実在」

というのは、カントが揶揄した「先験的(超越論的)実在論」にあたるような気がします。(と言って現代の哲学者の多くはある唯物論者さんの立場であるのでしょうけど。)
カントは、「先験的実在論」は経験によらずに「実在」をとらえてしまうので結局は経験的観念論に陥ってしまうと説いています。僕が以前「実在論がダメなわけ」のページで考えた、「あらゆるものとまったく相互作用のない『ニューニュートリノ』なる物質があればそれは存在し得るか」というパラドクスはこの問いを具体的に考えたものです。

ある唯物論さんはこの「ニューニュトリノ」は実在し得ると思いますか。

工藤さんとのやり取りで忙しいようでしたら、お返事はなくても結構です。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

先ず、横山さんのコメントについて。
「カントの超越論的観念論がダメなわけ」を極めて説得的に論証した著作として(既に読了しておられるかもしれませんが)ストローソン『意味の限界』を挙げておきます。


次に、異邦人さまのコメントについて。
>お互いの立場が大きく異なるので平行線のままになりそうな気がしています。
(議論に於いてはよくある事態ですので特に気にはしませんが)

(コメントを拝読した限り)そうかもしれませんね。とはいえ、いくつかの誤解は解消しておきたいと思います。

>ハード・プロブレムは決して哲学的擬似問題などではありません。
擬似問題だとお考えになっているところに誤解があります。
ハード・プロブレムは客観的な問題であり客観的に解くことのできる問題です。

ですから、ハード・プロブレムを↓以下のように理解する(殆どの論者が採用する解釈)

>ハード・プロブレムは脳の中がブラックボックスであることに由来しています。
従ってそれは認識できない、言語化できない現象が元になっていることは確かです。
しかし、認識できない、言語化できない現象からどのようにハード・プロブレムが生まれてくるのかは客観的に記述可能です。

ならば、それは(哲学ではなく)自然科学の問題でしょう。言うまでもないことですが、この問題に対して机上の概念分析で【解答を与える】ことは出来ません。
従って、↓以下の見解

>工藤庄平さんは言語論的問題としてこの問題を捉えようとなされているように感じますが、

は(僕の言葉が足りなかったのかもしれませんが)誤解です。

>唯物論では、存在論的断絶(他者との断絶)も[工藤庄平なる身体から開けた生]も何れも客観的出来事です。
客観的に語ることのできる事象です。

オカシイですね。既に示唆した通り、[工藤庄平なる身体から開けた生]は[工藤庄平なる身体から開けた生]という【文字や発語】―異邦人さまが今ご覧になっている?もの―ではありません。
ところで、異邦人さまのご主張を伺っておりますと、異邦人さまは(お認めになるか否かはともかく)或る種の言語主義にコミットしておられるように見えるのですが・・・

工藤庄平さん。
;
>チャーチランド的ですね。
私の唯物論は消去主義ではありませんのでチャーチランドとは異なります。
私の唯物論では心的現象を物理的現象に還元可能です。
全ての心的現象を物理的現象として記述可能です。
心的現象を消去するようなことは一切していません。

<(他者の)心的現象と(神経科学的記述等による)客観的事象の関係>
心的現象は全て物理的現象に還元可能です。
もし、客観的データによる心的現象の記述を求めるのであれば、神経科学的記述等により客観的データを得る方法のみでは、データとして全く不足しています。
この方法で心的現象を記述することは不可能です。
心的現象を客観的に記述可能であるのは、あくまで原理上の話で現実上の人間技ではとても無理な話です。
我々が求めるべきは「心的現象を客観的に記述すること」ではありません。
我々が求めるべきは「心的現象がなぜ物理的現象であるのか」ということの意味合いを求めることです。
その意味合いが何であるのかを私の唯物論は明らかにすることができます。

>異邦人さまの仰る「説明」が十全なものである為には、それが「発見する」ことに支えられている必要がありますね。
私が示そうとしているのは心的現象が物理的現象に還元可能であること、心的現象とは如何なる物理現象であるかを示すことです。
それを示すことは可能です。
それは心的現象と物理的現象の関係、その意味合いを示すことで行われます。
もし「発見する」という語で表現されているのが「心的現象を物理的現象に還元すること」を意味しているのであれば、それは私の唯物論では既に明らかになっています。

ある唯物論者(異邦人)さま

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>私の唯物論は消去主義ではありませんのでチャーチランドとは異なります。
私の唯物論では心的現象を物理的現象に還元可能です。
全ての心的現象を物理的現象として記述可能です。
心的現象を消去するようなことは一切していません。

僕はチャーチランド【的】と書いたわけですが。主義思想(個人的に嫌悪感をそそられる言葉です)の内容というより、精神(曖昧な物言いだとは思いますが)に近いものを感じたのです。

>我々が求めるべきは「心的現象を客観的に記述すること」ではありません。
我々が求めるべきは「心的現象がなぜ物理的現象であるのか」ということの意味合いを求めることです。

言うもでもないと思いますが、通常心的(と見做されている)現象―痛み・悲しみ・怒り・苦悩・不安etc―と心的(と見做されている)現象の【記述】―「私は左肩が痛い」「彼は怒っているように見える」「私は苦悩している」etc―はイコールではありません。
物的(と見做されている)現象―核分裂・神経発火・降雨・地震etc―と物的(と見做されている)現象の【記述】―「激しい雨が降っている」「静岡で震度4の地震があった」etc―についても然り。
付言しますと、心的(と見做されている)現象には、
①物的(と見做されている)現象との本質的な連関が既に「発見され」ている―例えば、痛み=或る身体的存在者が持つ視認不可能な感覚と神経発火=痛みを感じている人もそれ以外の人も視認可能な事象の関係―もの

②物的(と見做されている)現象と本質的な連関を持つのかどうか定かではない―例えば、アザンデ族の呪術・丑の刻参り・天罰を信じること・改悛することetc―もの
があると思われますが、異邦人さまの思想的立場において②は如何にして物理的現象に還元されるのでしょうか?

(念の為に補足しておきます)
前回のコメントにおける異邦人さまへの質問とは【異なる問い】として、①今の社会で通常心的(と見做されている)現象の【記述】―「私は左肩が痛い」「彼は怒っているように見える」「私は苦悩している」etc―と②今の社会で通常物的(と見做されている)現象の【記述】―「激しい雨が降っている」「地震が起きた」「雷が落ちた」etc―をどちらか一方に還元出来るのか否か? を挙げておきます。
お気づきの方もおられると思いますが、今日では通常物的(と見做されている)現象を或る種の心的現象と【理解し・かつ記述して】いた時代もありましたし、そのような地域は今猶存在しています。例えば、「ゼウスが雷を落とした」「彼が急死したのは神の逆鱗に触れたからだ」等々。
因みに、僕は①と②は相互に還元不可能だと考えていますが。

横山信幸さん。

>というのは、カントが揶揄した「先験的(超越論的)実在論」にあたるような気がします。

私の唯物論では経験を超えた実在(=絶対的意味の実在=神の視点で見た実在)を前提とはしていませんので「先験的(超越論的)実在論」とは異なります。
私の唯物論における物質の実在はあくまで仮説でしかありません。
その仮説が、この世界の全てを整合的に過不足なく説明可能である、と判断したのでそれを真実として受け入れているだけです。
その真実は(真実という呼び名を与えているとは言え)あくまで仮説にしか過ぎません。
それは絶対的意味での真実とは別物です。

>ある唯物論さんはこの「ニューニュトリノ」は実在し得ると思いますか。

如何なる相互作用もしないものは存在でも実在でもありません。
それは単に無です。
直接的にであれ間接的にであれ何らかの方法で認識可能であるもののみ実在の資格があります。

工藤庄平さん。
;
>ならば、それは(哲学ではなく)自然科学の問題でしょう。
違います。純然たる哲学問題です。
ハード・プロブレムがどこからどのように生まれてくるのか、それを明らかにするのがこの問題の最大の要点です。
そしてそれは客観的に記述可能です。それはそれが何であるのか、その意味を明らかにすることを意味します。
ハード・プロブレムが何であるのかを明らかにすることはとても重要なことです。
多数の哲学者が追い求めてきた問題だと思います。重要でないハズがありません。

>言うまでもないことですが、この問題に対して机上の概念分析で【解答を与える】ことは出来ません。
なぜそう仰られるのか分かりませんが、ハード・プロブレムの正体は私の唯物論では明らかになっています。
それはつまり、クオリアや現象的意識の意味(正体)が明らかになっているということです。

>オカシイですね。既に示唆した通り、[工藤庄平なる身体から開けた生]は[工藤庄平なる身体から開けた生]という【文字や発語】―異邦人さまが今ご覧になっている?もの―ではありません。

仰ることを承知の上で前回のコメントを書いたつもりです。
[工藤庄平なる身体から開けた生]というのは何らかの現象であるはずですよネ?
いや如何なる現象でもない、というなら別として、もしそうであるならば、前回のコメントどおり客観的現象であり客観的出来事であることになります。
何故なら、全ての現象は客観的現象である、という唯物論の結論から必然的に導き出されます。

>ところで、異邦人さまのご主張を伺っておりますと、異邦人さまは(お認めになるか否かはともかく)或る種の言語主義にコミットしておられるように見えるのですが・・・
どのような言語主義をお考えなのでしょうか?
私の唯物論のベースは自然科学ですが、その関係でしょうか?

ある唯物論者(異邦人)さま

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


オカシイですね。異邦人さまは↓ハード・プロブレムの一般的解釈に対する僕の見解

言うまでもないことですが、この問題に対して机上の概念分析で【解答を与える】ことは出来ません。

に対して↓以下のように

>なぜそう仰られるのか分かりませんが、ハード・プロブレムの正体は私の唯物論では明らかになっています。
それはつまり、クオリアや現象的意識の意味(正体)が明らかになっているということです。
>純然たる哲学問題です。ハード・プロブレムがどこからどのように生まれてくるのか、それを明らかにするのがこの問題の最大の要点です。

返答されていますが、そのことと↓以下のご見解

>この問題は決して言語論的な問題などではなく客観的に解くべき問題であるものと考えます。認識論や言語論や言語ゲームといった事柄はこの問題と無関係であると考えます。

はどのように関係しているのでしょうか?
畢竟、異邦人さまのご主張を総括すると、(異邦人さまの解する)ハード・プロブレムとは【認識論や言語論や言語ゲームといった事柄とは無関係であり、かつ客観的に解く真正の哲学的問題である】ということになりますね。
「机上の概念分析で【解答を与える】ことは不可能」という僕の見解に対する↓ご返答

>なぜそう仰られるのか分かりませんが、ハード・プロブレムの正体は私の唯物論では明らかになっています。

から推察する限り、異邦人さまの仰る「客観的に解く=異邦人さまの唯物論に基づく概念分析のみによって(問題を【解消する】のではなく)解答を提示することが出来る」ということでしょうか?

ある唯物論者(異邦人)さま


とりあえず、↓以下の二つの質問

①ハード・プロブレムとは【認識論や言語論や言語ゲームといった事柄とは無関係であり、かつ客観的に解くべき真正の哲学的問題である】という主張における「客観的に解く」ことの内実

②心的(と見做されている)現象には、
a. 物的(と見做されている)現象との本質的な連関が既に「発見され」ている―例えば、痛み=或る身体的存在者が持つ視認不可能な感覚と神経発火=痛みを感じている人もそれ以外の人も視認可能な事象の関係―もの

b. 物的(と見做されている)現象と本質的な連関を持つのかどうか定かではない―例えば、アザンデ族の呪術・丑の刻参り・天罰を信じること・改悛することetc―もの
があると思われますが、異邦人さまの思想的立場においてb. は如何にして物理的現象に還元されるのでしょうか?

にお答え頂けますでしょうか。

ある唯物論者さん、回答ありがとうございます。
僕のいい加減な質問にも丁寧に答えていただいて嬉しく思います。
工藤さんのコメントと重なって色々質問してしまっているので、大変だったら此方は後回しにしてもらっても無回答のままでも全く構いませんので、無理しないでゆっくりして下さいね。

では、質問です。ある唯物論者さんの唯物論は自然科学をベースとした仮説であって絶対的で先見的な実在論ではないということですね。しかし、言語論や認識論とは無関係であると。そこで、疑問となるのは、そこで立ち上げる科学的理論づけは、誰の認識によって、また誰の言語によって、為されるのでしょうか。経験に裏打ちされた理論であれば必ず誰かの認識によるもので、誰かの言語によるものでなければならないはずです。言語論や認識論とは関わらないということはその辺りの問題は無視できるということなのでしょうか。

横山信幸さん。(前回の補足です。)

<カントの実在論批判の失敗>
「実在論は全て絶対的実在を前提としている」と思い込んでしまったのがカントの失敗の原因です。

<カントの純理の失敗>
絶対的真実を前提として出発したのが失敗の原因です。
その結果、観念論に走らざるを得ず失敗しました。
カントの前提とした絶対的真実は「神の存在」「魂の永遠性」「自由意志の存在」の3点です。
私はこれらを「形而上学の三種の神器」と呼んでいます。
これらは何れも誤った前提です。
これらを前提とすれば存在論は必ず失敗せざるを得ません。
「魂の永遠性」と「自由意志の存在」は我々の知っているこの世界には見出せないことをカントは知っていました。
そして、その責任を押し付ける役目を与えられたのが「物自体」です。
この得体の知れない「物自体」は「魂の永遠性」と「自由意志の存在」という取り扱いに困るものを隠蔽するのに好都合でした。
「物自体」に責任を押し付けることでカントは「魂の永遠性」と「自由意志の存在」を確保したのです。

工藤庄平さん。
;
このコメントは工藤庄平さんよりいただいた一連のコメントに対する返答です。
特定のコメントに対する返答ではありません。

ハード・プロブレムの意味(解答)を示します。
ただ単純化するため「クオリア」を例として示します。

<クオリアとは何か>
ごく単純化した例で意味(解答)を示します。
今、机の上にリンゴと箱が置かれているものとします。
箱の中には何らかの動物が入れられているものとします。
どんな動物が入っているのかは外からは見えません。
動物は箱の中で動き回っているのでその気配で何らかの動物が入っていることは分かります。
机の上のリンゴはそれが何であるかは誰にでも分かります。
それは誰にもはっきり見えているので、それがリンゴであることは誰の目にも明らかだからです。
それに対し箱の中の動物が何であるのかは誰にも分かりません。
(一応、入れた人はこの場に居ないことにしておきます。)
しかし気配はするので何らかの動物が入っていることは分かります。
箱の中の動物の正体が分からないので、取り合えず「おチビちゃん」と呼ぶことにしておきます。
さて「おチビちゃん」が指し示すものは何でしょうか。
それこそが「クオリア」です。
「クオリア」とは正体は見えないが気配は感じるような対象を表す概念です。
「クオリア」の指し示す対象は「正体の見えない何か」ですが、「クオリア」という概念自体は客観的に明確に定義できる概念です。
このように「クオリア」は認識論、言語論、解釈問題等とは無縁な概念です。
「現象的意識」「ハード・プロブレム」も同様です。

<後日談>
ここで入れた人が戻ってきて箱の中に入っているのは「子犬のポチ」であることを明かしたことにしましょう。
ここで「子犬のポチ」が指し示すものは何でしょうか?
それはもちろん、具体的な「子犬のポチ」を指し示しています。
「おチビちゃん」が指し示すのが「クオリア」であるのに対し、「子犬のポチ」が指し示すのは具体的な対象です。

<心の中の2つのブラックボックス>

*** 1.認識対象としての私 ***
これは我々が内観を通して知る自分の心の中です。
他人にとってはブラックボックスですが、自分にとってはブラックボックスではありません。

*** 2.認識主体としての私 ***
デカルトのコギトです。
内観に拠っても知ることのできない真のブラックボックスです。
自分自身でさえ知ることのできない真の闇です。
「ハード・プロブレム」はここから生まれます。

工藤庄平さん。(補足です)
;
「クオリア」について簡略化して述べましたが、簡略化のために内観の場面を外的な場面に置き換えて説明しています。
簡略化した説明と、簡略化していない本来の意味との関係についての記述がもれていました。
「クオリア」は本来、内観の場面で生じる事象です。
簡略化した説明では外的な存在を対象として述べましたが、それを、内観の場面に置き換え、内観内の現象に置き換えて理解する必要があります。
「箱の中」は「コギトの内」に置き換えて理解する必要があります。
「クオリア」は内観の場面で生じる事象であるので、他人が認識することはできません。

このコメントは自分の考え方を明らかにする為に書いています。
特定のコメントに対する返答ではありません。

<原理レベルと現実レベル>
主張を述べる際、原理レベルで述べている場合と現実レベルで述べている場合があります。
存在論は原理を求める学問ですので原理レベルで述べる場合も少なくありません。
しかしまた、一般の議論では現実レベルで議論されるのが普通です。
ですので、存在論で議論する際は原理レベルと現実レベルを行ったり来たりしながら主張を述べることになります。
そのため一見主張が(矛盾している訳ではないにも拘らず)矛盾しているように見える場合があります。

例えば、ある場面で「死者を生き返らせることは不可能である」と述べ、別の場面で「死者を生き返らせることは可能である」と述べた場合。
一見矛盾しているように見えますが、前提としているレベルが異なるだけでどちらの主張も正しい場合があります。
もし現実レベルで述べたのであれば、「死者を生き返らせることは不可能である」は正しい主張です。
もし原理レベルで述べたのであれば、「死者を生き返らせることは可能である」は(唯物論の下では)正しい主張です。
何故なら(唯物論の下では)人間も純物質的存在であるので、死者の身体の原子・分子を組み替えて生き返らせることが可能であるからです。
(もちろん、それはあくまで原理上の話です。現実上は当然全く無理です。)

以上、ご了解いただければ幸いです。

P.S.
「コギト」は究極の「クオリア」である。
「コギト」はその存在が明らかであるにも拘らず、その正体を知ることは決してできない。
「コギト」は「不可知の存在」であり「語り得ぬ存在」である。

工藤庄平さん。
;
<コメント1>2013年9月25日 (水) 01時22分
<コメント2>2013年9月25日 (水) 02時04分
#チャーチランドの件は了解しました。#

今回のコメント2件に関連して、
以前のコメント、心的現象と神経科学的記述による客観的データとの関連に関するコメントを改めて読み返してみました。
結果として2つの問題点があることを感じました。
・<問題1>還元という語の用い方が異なっている。
・<問題2>存在論の問題か疑問である。

<問題1>還元という語の用い方が異なっている。
私が還元という語を用いる場合、それは唯物論の還元問題を指しています。
唯物論と言えば還元問題、還元問題と言えば唯物論、というぐらい還元問題は唯物論の最もポピュラーな問題です。
それに対し、工藤庄平さんの還元と言う語の用い方は「心的現象と物的現象との対応関係」と言う意味で用いているように思います。
こうした用い方は私の用い方とは異なっています。
このことが議論の噛み合わない原因になっているように思います。

<問題2>存在論の問題か疑問である。
もし「心的現象と物的現象との対応関係」を問題とするのであれば、それは存在論の問題ではなく、生物学、大脳生理学等の分野の問題であるものと考えます。
(この事については今回のコメント2件も同様です。)

ここ(このブログ)での私の守備範囲は存在論の範囲としています。
ですので今回のコメント2件に関しては返答を控えさせていただきます。
悪しからずご了承をお願い致します。

コメント2の後半には信仰に関する内容も含まれているように思います。
これも私の守備範囲外であり返答を控えさせていただきます。

工藤庄平さん。(>2013年9月25日 (水) 03時26分)
;
> 畢竟、異邦人さまのご主張を総括すると、(異邦人さまの解する)ハード・プロブレムとは【認識論や言語論や言語ゲームといった事柄とは無関係であり、かつ客観的に解く真正の哲学的問題である】ということになりますね。

仰るとおり、そのとおり考えております。

>から推察する限り、異邦人さまの仰る「客観的に解く=異邦人さまの唯物論に基づく概念分析のみによって(問題を【解消する】のではなく)解答を提示することが出来る」ということでしょうか?

仰るとおりです。

工藤庄平さん。(>2013年9月25日 (水) 03時34分)
;
>①「客観的に解く」ことの内実
私の下記のコメントをご参照願います。
 1)2013年9月25日 (水) 14時45分
 2)2013年9月25日 (水) 16時47分
 3)2013年9月25日 (水) 20時02分

>② b. は如何にして物理的現象に還元されるのでしょうか?
この問題は存在論の問題ではないものと考えています。
私の守備範囲外の問題であり、返答を控えさせていただきます。

このコメントはクオリアに関する補足です。

<コギト(認識主体としての私)>
コギトは心の本体です。心そのものです。
不可知の存在です。
自分自身でさえ知ることのできない真のブラックボックスです。
コギト内部では様々な処理が行われています。
その処理結果は随時内観に対して報告が行われています。

<内観(認識対象としての私)>
内観は自分の知っている心の中です。
しかしこの心の中は真の心の中ではありません。
真の心の中はコギトの内にあります。
内観はコギトの処理結果の報告を受け取る場です。
内観は顕在意識の場です。

<「痛みのクオリア」について>
例えば、電柱にぶつかってしまった場合を考えてみます。
コギト内部では状況を把握する処理と対応行動を決定する処理が行われます。
その結果、この状況は好ましくない状況であることがコギトから内観に対して報告されます。
また、この状況に対して取るべき行動がコギトから内観に対して指示されます。
これと並行して、コギトから反射神経系に対しても行動の指示が出されます。
内観の関わる意識的行動と反射神経系の関わる無意識的行動の調整が行われて実際の行動が行われます。

内観はコギトから「この状況は好ましくない状況であること」の報告を受け取りますが、何故そう判断したのかの詳細は報告されません。
内観はコギトから様々な報告を受け取りますが、それは結果報告のみで結果が導かれた経緯については報告されません。

内観にとってコギトからの報告は、ある状況が存在していることは明らかにしてくれますが、その状況の詳細は明らかにしてくれません。
その状況の詳細は不明(正体は不明)のままです。
であるので内観はこの状況を「痛み」という表現で概念化します。
これが「痛みのクオリア」の真の意味です。
我々の認識機構は対象が正体不明であっても正体不明のまま概念化する能力を持っています。

内観にはコギトから様々な報告が随時なされていますが、それは結果報告のみで詳細は報告されません。
従って、内観内部は常に「クオリア」に満ち溢れていることになります。

ある唯物論者さん
たくさんの投稿ありがとうございます。
興味深く拝見しています。
一つ教えてください。「コギトが究極のクオリア」なる表現がありましたが、別に、コギトがそのままクオリアと同じものになりえるということではないですよね。

ある唯物論者(異邦人)さま

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

先ず、僕の質問①「客観的に解く」ことの内実に対するご返答について。
忌憚なく言わせて頂ければ、唯物論的な世界解釈とクオリアなる代物に関する(極めて一般的な)テーゼを羅列しただけのように見えました。個々の問題―それが擬似問題であるか否かは別にしても―に対する具体的な解答、或は異邦人さまの仰る【私の】唯物論―当にその【私の】独自性は全く提示されていないと思います。

続いて、a. 認識対象としての私=我々が内観を通して知る自分の心の中 と b. 認識主体としての私=デカルトのコギト=内観に拠っても知ることのできない真のブラックボックス=自分自身でさえ知ることのできない真の闇 について。
これも(心の哲学で論じられてきた)極くありふれた考え方の一つに過ぎません。
「内観を通して【知る】自分の心」という表現が孕む問題とb. なる代物をデカルトの言う「コギト」と同一視する?ことへの疑問は今は措くとして、次のような言い方では駄目なのでしょうか。工藤庄平の意識―精確に言えば、[工藤庄平なる身体から開けた生]―は工藤庄平の意識には決して顕現しない[現実=諸事物のネットワーク]から生じている、と。
付言しますと、「我々の[生]は我々のあずかり知らぬ[現実=諸事物のネットワーク]から生じている」という僕の世界理解は↓異邦人さまの仰る【内観に指示を与えるコギト】というミスティッシュな存在者

>例えば、電柱にぶつかってしまった場合を考えてみます。コギト内部では状況を把握する処理と対応行動を決定する処理が行われます。その結果、この状況は好ましくない状況であることがコギトから内観に対して報告されます。また、この状況に対して取るべき行動がコギトから内観に対して指示されます。これと並行して、コギトから反射神経系に対しても行動の指示が出されます。

を前提していません。

ある唯物論者(異邦人)さま

では、僕の質問②に対するご返答について。

>ここ(このブログ)での私の守備範囲は存在論の範囲としています。ですので今回のコメント2件に関しては返答を控えさせていただきます。悪しからずご了承をお願い致します。コメント2の後半には信仰に関する内容も含まれているように思います。これも私の守備範囲外であり返答を控えさせていただきます。

オカシイですね。以前のコメントで異邦人さまは↓以下のように

>私は「物質のみが実在である(唯物論)」を前提(仮説)として、この世界の全てを整合的に過不足なく説明可能であるのかを問います。この問いに対して、私は「然り」と判断しています。ですので、その仮説を私は真実として受け入れています。
>私の唯物論では心的現象を物理的現象に還元可能です。全ての心的現象を物理的現象として記述可能です。
>私が示そうとしているのは心的現象が物理的現象に還元可能であること、心的現象とは如何なる物理現象であるかを示すことです。それを示すことは可能です。それは心的現象と物理的現象の関係、その意味合いを示すことで行われます。

仰っていた筈ですが。【この世界の全て】に宗教・倫理・呪術etcは含まれない、と?

横山信幸さん。(>2013年9月25日 (水) 07時55分)

>では、質問です。ある唯物論者さんの唯物論は自然科学をベースとした仮説であって絶対的で先見的な実在論ではないということですね。

ご質問の直接の返答にはならないかもしれませんが、自分の考え方を述べてみます。
(依然述べたことと重複する部分も多いかもしれません。)

およそあらゆる主張は如何なる主張と言えども全て仮説であると考えます。
この事態に対してどのように考えるかは人それぞれです。
正しいこと、真実など存在しない、全ては無意味だ!、と叫んで背を向けることも可能です。
しかし、ほとんどの人はそのような考え方は取らないものと思います。
私もそのような考え方は取りません。
そうであるならば、何らかの判断基準を設けて、それに照らして、仮説の海の中から正しいと思うもの、真実であると思うものを選び取っていくしかありません。
私の判断基準は下記のとおりです。
この世界について「整合的に過不足なく説明可能な仮説」であることです。
私はこの判断基準を満たす仮説は唯物論のみであると判断しています。

>しかし、言語論や認識論とは無関係であると。
例えば、下記の問題を考えて見ます。
 <問い1>3+5は幾らか?
 <問い2>赤と青の絵の具を等量づつ混ぜた場合、何色になるか?
 <問い3>アキレスと亀が100m競争した場合どちらが勝つか?(ハンデなし!)
この問いに答えるのに、言語論が必要でしょうか?
この問いに答えるのに、認識論が必要でしょうか?
この問いに答えるのにほとんどの人は言語論も認識論も使用しないハズです。
それは何故でしょうか?
それはこの問題群が広範な共通認識の成立している領域の問題であるからです。

一般的に言って、広範な共通認識の成り立っている領域の問題の場合、その問題について考えるのに言語論や認識論は必要としません。
言語論や認識論が有効になるのは共通認識の成り立ちにくい領域の問題の場合、主観性の強く現れる領域の問題の場合等であろうと思います。

私の唯物論世界は全ての現象が客観的現象のみです。
広範な共通認識の成り立っている領域の概念のみを使用して語り得る世界です。
言語論、認識論、解釈問題の入り込む余地はありません。

>そこで、疑問となるのは、そこで立ち上げる科学的理論づけは、誰の認識によって、また誰の言語によって、為されるのでしょうか。

我々の現実世界で起こっているとおりのことです。
我々(主に科学者)の自然探求によって科学的理論づけが行われ、我々によって認識されます。
そして我々が現に使用している言語によってそれは為なされます。
我々の言語は広範な共通認識を概念群として構成したものです。
この言語を使用し広範な共通認識の成り立っている領域で問われる問題に対しては、改めて言語論や認識論を持ち出して論じる必要などありません。

横山信幸さん。(>2013年9月26日 (木) 10時34分)

> 一つ教えてください。「コギトが究極のクオリア」なる表現がありましたが、別に、コギトがそのままクオリアと同じものになりえるということではないですよね。

クオリアは無数に有ります。
「痛みのクオリア」「赤さのクオリア」「丸さのクオリア」
「明るさのクオリア」「甘さのクオリア」等々...
「コギト」もそうした「クオリア」のひとつです。
(内観に現れる事象のうち)「存在は明らかであるが正体は不明であるもの」を表す概念が「クオリア」です。
「コギト」はその存在は明らかですが、その正体は不可知です。
ですので当然「コギト」も「クオリア」の一つであることになります。

ある唯物論者さん、こんばんは。

「コギト」も「クオリア」の一つだということであり、また、「コギト」は「私の認識主体」でもあるということですね。
で、「クオリア」は認識される客体ですよね。
では、ある唯物論者さんの言われている「コギト」という語は、「主体」という意味として使われたり、「クオリアとしての客体」という意味として使われたりするってことでしょうか。
それとも、「主体」であると同時に「客体」であるような次元の存在を意味したものなのでしょうか。
もし、「主体」と「客体」が分化されず、その差が曖昧なままの分析であったとすれば、さらに分化して考えることはできますか。

工藤庄平さん。(>2013年9月26日 (木) 14時04分)
;
私の一連の記述は一般通念を述べている箇所もあれば独自の主張を述べている箇所もあります。

一般通念を述べている箇所に対して、
「(極めて一般的な)テーゼを羅列しただけ」
「【私の】独自性は全く提示されていない」
「極くありふれた考え方の一つに過ぎません」
とか評価されても困ります。
「その通りですが、それが何か?」とでも応えるしかありません。

<「クオリア」の意味>
「クオリア」の真の意味を明らかにしたのは、私の唯物論の最大の成果の一つであるものと自負しております。
私の知る限りどの文献を読んでも異口同音に「クオリアは哲学最大の難問のひとつでありいまだ解けていない問題である」と書かれています。
「クオリア」の真の意味を明らかにしたことが「取るに足りないどうでもよい事」などではないことを確信しております。

>「我々の[生]は我々のあずかり知らぬ[現実=諸事物のネットワーク]から生じている」

私の主張は「この世界の全ては物質が物理法則に従って運動することにより生み出している」です。
また「物質運動の因果系列のネットワークがこの世界の全てを生み出している」とも表現できます。
この主張は工藤庄平さんの上記主張と表現が異なるだけで同一内容を表しているものと思います。
同一内容をそれぞれ別の視点で記述しただけであると考えます。
恐らく相違は「この世界を客観的に記述可能な世界と考えるか否か」の点だけなのであろうと思いますが?

>「【内観に指示を与えるコギト】というミスティッシュな存在者」~「を前提していません。」

前提としている/いないは別として、心の導きに従って行動していることは間違いない事実だと思いますが?
(コギトは心そのもの(心の本体)ですから)

工藤庄平さん。(>2013年9月26日 (木) 14時17分)
;
>仰っていた筈ですが。【この世界の全て】に宗教・倫理・呪術etcは含まれない、と?

問い方の問題です。
例えばある物理学者が「人間の身体は素粒子よりできている」と述べたものとします。
それに対し「では人間の身体はどのように素粒子からできているのか、具体的に示してほしい」と問われたものとします。
この問い方は物理学に対する妥当な問い方でしょうか?
そうではないと思います。
物理学の役目は原理を示すことであって、人間の身体の具体的な構成法を示すことにはありません。
この問い方は物理学の範囲を超える問い方であり妥当な問い方ではありません。

工藤庄平さんの「心的現象と物的現象と還元に関する一連の問い」も同様に存在論の範囲を超える問い方であるものと考えます。
存在論の役目は原理を示すことであって、心的現象と物的現象の具体的な対応関係を示すことにはないものと思います。

横山信幸さん。(>2013年9月26日 (木) 21時10分)

>また、「コギト」は「私の認識主体」でもあるということですね。
「コギト」の表現として「私の認識主体」というのは少々違和感があります。
「認識主体としての私」「認識主体である私」「認識主体であるところの私」等の表現が好ましいものと思います。

>で、「クオリア」は認識される客体ですよね。
「クオリア」は(内観に現れる事象のうち)「存在は明らかであるが正体は不明であるもの」を表す抽象概念です。
抽象概念に対して客体と言う用語を使うのは少々違和感があります。
(そういう用語法もあるような気もしますが、私はいまひとつスッキリしません。)

>では、ある唯物論者さんの言われている「コギト」という語は、「主体」という意味として使われたり、「クオリアとしての客体」という意味として使われたりするってことでしょうか。

「クオリアとしての客体」と言う表現は違和感がありますね。
「客体としてのクオリア」と言う表現なら違和感はないのですが。
「コギト」に対して「客体」と言う用語を使うのも上記で述べたとおり違和感を感じます。
表現に違和感があり、ご質問の意図を把握できかねております。

>それとも、「主体」であると同時に「客体」であるような次元の存在を意味したものなのでしょうか。
>もし、「主体」と「客体」が分化されず、その差が曖昧なままの分析であったとすれば、さらに分化して考えることはできますか。

ん~、ご質問の意図が把握できません。
通常、ある事物は主体にもなれば客体にもなります。
主体であると同時に客体である場合もあります。
(どうも的外れな返答になってしまっているような気がしてます?)

今回は全般的にご質問の意図を把握できていないような気がしています。m(__)m

ある唯物論者さん、こんばんは。

曖昧なイメージを自分で整理できていないまま言葉にしてしまうから、不明瞭な質問になってしまいます。どうも失礼していますが、どうぞ呆れないでお付き合いください。
少し聞き方を変えます。それでも、意味が掴みづらかったら、無理して回答してもらわなくても結構ですから、どうぞうっちゃっておいて下さい。

ある唯物論者さんの「コギト」には「主体としての側面」と「客体としての側面」がありますか。あるなら、それは分化して考えられますか。考えられるなら「クオリア」はいずれの「コギト」に当てはまりますか。

工藤庄平さん。(補足です)
;
工藤庄平さんと私の主張の共通性を浮かび上がらせる形で私の主張を述べてみます。

「我々は我々のあずかり知らぬ因果のネットワークの中で我々の生を生きている。」
これは私の主張の別表現です。

私はこの世界を「客観的に記述可能で決定論的な世界である」と考えています。
恐らくこの点で工藤庄平さんの考え方と異なっているのであろう、と推測しています。

横山信幸さん。(>2013年9月27日 (金) 00時28分)

>ある唯物論者さんの「コギト」には「主体としての側面」と「客体としての側面」がありますか。あるなら、それは分化して考えられますか。考えられるなら「クオリア」はいずれの「コギト」に当てはまりますか。

「コギト」に限らず、何であれ、ある対象は視点により主体となったり客体となったり両方になったりします。
それはさておき「主体、客体、分化」という表現で何を問おうとされているのか、いまひとつ意図が把握できません。
問い方が抽象的過ぎるのかもしれません。
もう少し具体的な問題設定をし、具体的な状況をイメージできるような問い方をされれば、或いは私にも問題の意図を把握できるかもしれません。
恐らく、横山信幸さんが問題とされている問題領域があるが、その一部のみを抜き出してここでご質問されているのではないだろうか、という気がしています。
そのため外部の者(私)には問題の意図の把握がし辛くなっているのではないか、と推測しているところです。

<コギトについて(補足)>
「コギト」とは自分自身です。
「コギト」とは「我思う、故に我あり」の「我」です。
「コギト」は不可知であり、語り得ぬ何かです。
「コギト」は世界を認識しますが、それ自身は決して認識されません。
「コギト」は心の闇の中に住んでいます。誰もその姿を知ることはできません。
「コギト」は最も身近な存在でありながら、その正体は全く不明です。

「コギト」が不可知な存在であることについて、知っている人は知っているのですが、知らない人は全く知りません。
「コギト」が不可知な存在であることを述べると、知らない人からは下記のような返答が返ってきます。
「コギトは自分自身なのだから知っているのは当たり前だ」
これは誤った理解です。
自分が知っているのは「認識対象としての私」であって「コギト(認識主体としての私)」ではありません。

ある唯物論者さん、こんばんは。

コギトの分化についてもう少しだけ、粘って質問します。でも、やはり意味が取れないようなら、無理に回答してもらわなくても結構です。

【分化】均質のものが異質のものに分かれること。(広辞苑)
たとえば、日本語での「ん」の音は英語や韓国語では「n」であったり「m」であったり「ng」であったりします。日本語だけしか知らなかった人が英語や韓国語を知って「ん」を「n」や「m」や「ng」に分けて捉えることができるようになったとき、これを「音識が分化した」と言います。

それから、僕はウィトゲンシュタイン大好きで、ついウィトゲンシュタインの言葉づかいが一般的な用法だと思い込んでしまって迷惑をかけることが多いです。ご免なさいね。それで、先の「主体」は「論考」の「思考し表象する主体は存在しない。主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」というのをイメージしたものです。
それで、ある唯物論者さんの言われるコギトが「認識する主体の私」であるとすれば、それはウィトゲンシュタインの主体にかなり近いものではないのかと思ったのです。それは世界の内部には存在し得ない「コギト」、客体と切り離された完全な主体です。
でも、そのコギトがクオリアであったりもするということですので、ある唯物論者さんの言われている「コギト」は主体であるだけでなく客体としても捉えられているのだろうと考えたのです。

それで、僕がそう考えたように、ある唯物論者さんの「コギト」も主体と客体とに分化できるのではないかと思って、さらにその分化はコギトを深く捉えるためには必至なのではないかと思い、質問したのです。

ある唯物論者さん、質問に対して答えていただいているのに、きちんと拝読しないまま再質問してしまいました。失礼しました。パソコンがなくて古いケータイでコメントを読んでいましたので、すごく不具合なことになってしまいました。ご免なさい。

横山信幸さん。(>2013年9月27日 (金) 23時00分)

「分化」と言う語についてご説明いただきましたが、それは私が以前から理解していた内容と同じです。
ですので、今回の問題は「分化」と言う言葉の意味の問題ではありません。

>ウィトゲンシュタイン「思考し表象する主体は存在しない。主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」

ウィトゲンシュタインのこの記述は「コギト(認識主体)が不可知である」こと、の別表現になっています。
この記述を読めば、ウィトゲンシュタインが「コギトの不可知性」を完全に理解していたことが解ります。
「コギトの不可知性」を理解している人は理解していると言う最もよい例であると言えます。
この「コギトの不可知性」は理解していない人には容易に理解し難い概念であるのかも知れません。

>ある唯物論者さんの「コギト」も主体と客体とに分化できるのではないかと思って、

少なくとも私の用語法では、分化と言う語は主体や客体と言う語に対して適用(使用)すべき語ではありません。
ですので上記ご質問も私には(用語法として)違和感を感じます。

ある唯物論者さん、
わかりました。あきらめます。
「コギトを主体と客体とに分化する」というこれだけのことをきちんと説明できない表現力の無さを悲しんでいます。

### お詫びと訂正 ###

大事な点で大きな勘違いをしてしまいました。
「コギト」は究極の「クオリア」である、と言う表現は不適切な表現でした。
お詫びして訂正させていただきます。

(訂正前)「コギト」は究極の「クオリア」である
(訂正後)「コギト」は究極の「現象的意識」である

「現象的意識」とは(内観に現れる事象のうち)
「存在は明らかであるが正体は不明であるもの」を表します。

この「現象的意識」の内、五感に関連して表れる意識が「クオリア」です。
「現象的意識」が心的現象全般であるのに対し、「クオリア」はその一部です。
「クオリア」は「現象的意識」の一部です。

「クオリア」と「現象的意識」が頭の中でごっちゃになっていました。
その為「クオリア」に関して不適切な表現をしてしまいました。

皆さんに深くお詫び申し上げます。

ある唯物論者さん、細かなところまで用語の用法には気を使わねばならないのですね。勉強になります。

前質問に関連していますが、新たな質問を聞いてください。

ウィトゲンシュタインの「主体は存在しない」という発言は「コギト」の不可知性の別表現であり、「コギト」は究極の「現象的意識」であり、「現象的意識」の存在は明らかである。ということでしたが、

では、「コギト」は世界に存在しているのですか。

このコメントは「決定論」に関する補足です。

私はこの世界について「客観的に記述可能で決定論的な世界である」と考えています。

ここではここで使用している「決定論」という語の意味について説明します。
この「決定論」と言う語は従来の「決定論(古典的決定論)」を、(量子力学の)不確定性原理を考慮して現代風に書き改めた「決定論(現代的決定論)」を指します。
(この「現代的決定論」は「確率的決定論」と表記する場合もあります。)

これに伴い「(古典版)ラプラスの悪魔」に代えて「(現代版)ラプラスの悪魔」を登場させます。
「(現代版)ラプラスの悪魔」は全世界を表す波動方程式を瞬時に把握します。
そして、全世界の未来を表す波動方程式を瞬時に計算します。
それにより未来世界の状態を確率分布として瞬時に明らかにできます。
未来世界が核戦争で滅びる確率は何%か、環境悪化で滅びる確率は何%か、核戦争や環境悪化が回避されて人類の生き延びる確率は何%か、全人類が平和世界を確立し平和に暮らしている確率は何%か、等々を正確に計算できます。
未来世界は確率的にどのような世界になるのかを瞬時に明らかにできます。

「世界が決定論的である」ということの実質的意味は、この世界の現象が物理法則のみに従って起こっている、ということと同じです。
そしてこのことは「実在は物質のみである」ということと同じです。
もし仮に物質以外の実在、例えば霊魂というようなものが存在する場合を考えてみます。
その場合、この世界の現象は物理法則のみには従わず霊魂の影響も受けることになります。
その結果「世界は決定論的」ではなくなってしまいます。
「世界が決定論的である」という主張は、このような(物質以外の存在である)霊魂のようなものは実在しないという、ということの主張でもあります。

横山信幸さん。(>2013年9月28日 (土) 10時47分)

>ウィトゲンシュタインの「主体は存在しない」という発言は「コギト」の不可知性の別表現であり、
>では、「コギト」は世界に存在しているのですか。

「コギト」は自分自身ですから当然世界に存在しています。
ウィトゲンシュタインもそのことを十分承知の上で「主体は存在しない」と表現しているものと思います。
「コギト」が何であるのかは全く認識できません。
「コギト」は正体不明の存在です。
「コギト」は真のブラックボックスです。
こうした「コギト」の不可知性をウィトゲンシュタインは自分流の表現法で「主体は存在しない」と述べているのだと思います。
「主体は存在しない」との記述は「不可知性」を強調するために採られた表現法であるものと思います。

横山信幸さん。(補足です)

前回のウィトゲンシュタインに関する返答に表現不足を感じましたので補足させていただきます。
「コギト(主体=自分自身)」がこの世界に存在していることは前回どおりで間違いありません。
しかし「コギト(主体)」の認識する世界の中に「コギト(主体)」は存在しません。
何故なら「コギト(主体)」は認識することの不可能な存在だからです。
「コギト」は世界を認識しますが、それ自身は決して認識されません。
ウィトゲンシュタインの「主体は存在しない」という記述は、
「コギト(主体)」の認識する世界の中に「コギト(主体)」は存在しない、
という事態を正確に言い当てた表現であると言えます。

ある唯物論者さん、こんばんは。

「コギトは存在するけれども、コギトが認識する世界の中にコギトは存在しない」
ということは、

つまり、
ある唯物論者さんの「世界」にはコギトが存在するレベルの世界とコギトが存在しないレベルの世界とがあるのですね。
そして、「主体は存在しない」とするウィトゲンシュタインの「主体」は2番目の話でしかないと理解していいですね。
この2番目の世界のレベルは、単に「お話」の中の話でしかないと僕には思えます。そして、そうだとすると、ウィトゲンシュタインの主張をかなり矮小化してしまうので、ある唯物論者さんの「主体観」は偏っている部分があるかもしれないと思えました。
如何でしょうか。

p.s.
二つの世界の存在を「認めて」しまうなら、1番目の世界を認識する主体を想定しなければならなくなってしまい、無限後退に陥ってしまうのではないでしょうか。

このコメントはクオリアに関する補足です。

<「クオリア」の生まれる条件>
(内観の場面で)下記の3つの条件がそろった場合「クオリア」は生まれます。

1.認識できない対象がある。(正体不明の対象)
2.その対象の存在は明らかである。
3.我々は正体不明の対象を正体不明のまま概念化する能力がある。

(但し「クオリア」は五感に対応する意識に付随して生まれます)

このような条件で生まれますので、脳内のニューロンの発火現象を調べるというような自然科学的方法で「クオリア」を捉えることは不可能です。
何故なら、条件3の概念化能力は心の高度な働きであり自然科学的方法で単純に解析できるような対象などではないからです。

横山信幸さん。(>2013年9月28日 (土) 21時19分)

>ある唯物論者さんの「世界」にはコギトが存在するレベルの世界とコギトが存在しないレベルの世界とがあるのですね。

そういうことではありません。
2つのレベルの世界が存在する、というような話ではありません。
「コギト」は自分自身ですから、この世界に存在するのは明白です。
「コギト」は見ることのできない(=不可知な)存在です。
我々は世界を認識しますが、「コギト(主体)」を認識することはできません。
このことをウィトゲンシュタインは「主体は存在しない」と表現しているわけです。
「主体は存在しない」というのは、「我々の認識する世界の中に(その認識内容として)主体は存在しない」という意味です。
「実際に存在しない」と言っているのではなく「認識内容として存在しない」といういう意味で言っているのです。
「コギト(主体)」が実際に存在しているのは明白ですが、「我々の認識する世界の中に(その認識内容として)コギト(主体)が存在しない」というのもこれまた明白です。
「主体は存在しない」というのはそのことを言っているのです。
「コギト(主体)」は認識できない存在であるので「認識内容として」存在することができないのです。

ある唯物論者さん、回答ありがとうございます。

「われわれの認識する世界の中に認識内容としてコギト2は存在しない」けれども、そのコギト2とはまた別にコギト1が存在する。という理解でいいですよね。

そこで、同じような質問になってしまいますが、少しこだわらせてください。

このコギト1が認識され得ないものなのであるのなら、それが存在すると言い得る根拠が無いことになってしまうのではないのか。また、存在しているのが明らかなのであれば、それはすでに認識対象になっているのではないか、という疑問です。

横山信幸さん。(>2013年9月28日 (土) 23時42分)

>「われわれの認識する世界の中に認識内容としてコギト2は存在しない」けれども、そのコギト2とはまた別にコギト1が存在する。という理解でいいですよね。

違います。コギト1とコギト2というように分けて考えるような問題ではありません。
「コギト(主体)」は存在はするが認識されない存在です。
言い換えると、
「コギト(主体)は見えないものとして存在する」
「コギト(主体)は見えるものとしては存在しない」
と表現できます。
ウィトゲンシュタインが「主体は存在しない」と言っているのは、
「(コギト)主体は(見えるものとしては)存在しない」という意味で言っているのです。
つまり、ウィトゲンシュタインは単に「主体は見えない」と言っているに過ぎません。
別に難しいことを言っている訳ではありません。
極々当たり前のことを述べているに過ぎません。

>このコギト1が認識され得ないものなのであるのなら、それが存在すると言い得る根拠が無いことになってしまうのではないのか。また、存在しているのが明らかなのであれば、それはすでに認識対象になっているのではないか、という疑問です。

通常、対象はそれが認識されることによってその存在が知られます。
しかし「コギト」は認識されることによってその存在が知られる訳ではありません。
「コギト」は認識することのできない存在です。
デカルトが述べている通り、「コギト」は「我思う、故に我あり」の「我思う」によってその存在が知られるのです。
このように、「コギト」はその存在の知られ方が特殊であるのです。
「コギト」は認識されることによってその存在が知られるのではなく、「我思う」という当にそのことによってその存在が知られるのです。

ある唯物論者さん、お早うございます。

ウィトゲンシュタインが「主体が存在しない」と言ったのは、主体が認識不能であるということ以上にもっと積極的な意味があると僕は思いますし、恐らく、「主体は如何なる意味でも存在すると言ってはいけない」とする捉え方の方が一般的だと思います。でも、一般的だから正しいということも言えませんし、異邦人さんの「コギト(主体)観」は分かりました。ていねいな回答ありがとうございました。

横山信幸さん。(>2013年9月29日 (日) 09時49分)

横山信幸さんがウィトゲンシュタインに関して仰っていることはその通りであるのかもしれません。
ただ、私はウィトゲンシュタインの著作を読んでいないのでそのあたりの事情は判りません。
私は竹田青嗣等の哲学入門書でウィトゲンシュタインを知るのみです。
横山信幸さんが今回引用された箇所が「コギトの不可知性」について述べたものであることを感じましたので、その点に関してお返事を差し上げた次第です。

横山信幸さん。(コギトに関する補足です)

「コギト」は認識不可能な存在です。
だからこそ、デカルトの「我思う、故に我あり」は大きな意義を持つのです。
もし仮に、「コギト」が(他の対象と同じように)普通に認識可能な対象であるのならば、「我思う、故に我あり」という表現は何の価値もない表現であることになってしまいます。

(お返事は無用です)

異邦人さま

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>工藤庄平さんの「心的現象と物的現象と還元に関する一連の問い」も同様に存在論の範囲を超える問い方であるものと考えます。

いや、別に【僕の】問いではありませんよ。このような問いとそれを提出している人々が存在している、という話です。

>存在論の役目は原理を示すことであって、心的現象と物的現象の具体的な対応関係を示すことにはないものと思います。

「痛み」を例にしてみましょうか。先ず、
①[工藤庄平なる身体に生起する痛み]=工藤庄平が持つ視認不可能な事象

②[工藤庄平なる身体に生起する神経発火]=工藤庄平もそれ以外の人も視認可能な事象
の【関係】は「②が①を生み出す・引き起こすetc」或は「「①が②を生み出す・引き起こすetc」【である】という主張が謬見に過ぎないことは明白だと思います。まあ、①と②は存在論的には一つの事象だが属性は異なる=認識論的には還元不可能な在り方をしている、とは言えるかもしれませんが。
さて、ところで、【仮に】①が心的現象・②は物的現象【である】とすれば、その根拠は何でしょうか?

ありのままの経験から、私たちは先に見たような(的外れな)説明を得た。そのような(的外れな)考察においては、「心的」「物的」という【哲学の伝統的なジャーゴン】に影響されないわけにはいかないのだ。この伝統的なジャーゴンは、心的現象と物的現象が相互に排除し合うことを当然の前提としている。件の前提は解決不可能な様々な問題を生み出し、そこから(的外れな)無数の本が作り出されてきた。心的なものが実在し、それが物理的なものへと還元出来ないと考える人々は、自らを二元論者だと見倣そうとする。しかし、他の人々にとって、物的なものへと還元出来ない心的な要素を認めることは、実のところ科学的な世界観を諦めることのように思える。だから、そうした人々は心的なものの実在を認めない。彼らは心的なものはすっかり物的なものに還元出来るか、或は完全に消去出来ると考える。この人たちは自らを唯物論者と考えたがる。私に言わせれば、どちらも同じ誤りを犯している。
私は【これらのジャーゴンと前提を克服する】つもりだ。また、それを通して従来の問題を解決もしくは解消したいと思う。-略-数世紀に渡る知識の進歩にも関わらず、心身問題は今なお現代哲学において主要な問題であり続けている。後述するように、この問題にはかなり明白で包括的な哲学的解決があると私は考えている。しかし、予め言っておかなければならないが、デカルトの問題には手近な解決があるという私の主張は【多くの(愚鈍な?)同業者―ひょっとしたら殆どの同業者―の受け入れるところではない】だろう。
―ジョン・サール『マインド』
*括弧内の科白は(補足)として読んで頂きたい。

(近年の)サールの見解は(幾つかの論点を除けば)至極真っ当なものです。
まだ読まれていない方には一読をお勧めします。

異邦人さま

蛇足ながら一言。
ウィトゲンシュタインの言う形而上学的―寧ろ「超越論的」と言うべきでしょうが―主体は世界そのもの【である】が故に世界内の一存在者として顕現することはあり得ません。従って、これと異邦人さまが仰る「不可知のコギト」は無関係だと思います。
(*『論考』の誤りについては既に縷言したので割愛させて頂きます)

工藤庄平さん。
;
>>工藤庄平 | 2013年10月 2日 (水) 23時07分

「痛み」が生じる過程で脳の中で様々な処理が行われます。
その処理の過程で神経発火の現象が起こります。
例えば電柱にぶつかってしまった場合、それに対応する処理が脳の中で行われます。
その過程で神経発火の現象が起こります。
脳で行われる様々な処理を内観が認識する時点で「痛み」というクオリアが生まれます。
神経発火自体は脳で処理が行われていることを示す現象であり、「痛み」の原因とは言えません。
「痛み」の原因といえば電柱にぶつかって体にダメージを受けたこと、ということになります。

>さて、ところで、【仮に】①が心的現象・②は物的現象【である】とすれば、その根拠は何でしょうか?

ご質問の意図を把握できません。m(__)m
;
>>工藤庄平 | 2013年10月 2日 (水) 23時40分
>彼らは心的なものはすっかり物的なものに還元出来るか、

ジョン・サールは「心的なものは物的なものに還元出来ない」と思い込んでいるようですが、それは間違った思い込みに過ぎません。
「心的なものは物的なものに還元可能」です。(私はそう考えています。)
この引用部分を読む限り、ジョン・サールの唯物論理解は今ひとつですね。

>>工藤庄平 | 2013年10月 3日 (木) 00時15分

ウィトゲンシュタインに関しては工藤庄平さんの仰るとおりであるのかもしれません。
私は「コギトの不可知性」の問題であると感じたのでそのつもりでコメントしたのですが不適切であったのかもしれません。
私はウィトゲンシュタインの著作を読んでいませんのでその辺りは判断できません。

異邦人さま


こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>例えば電柱にぶつかってしまった場合、それに対応する処理が脳の中で行われます。その過程で神経発火の現象が起こります。脳で行われる様々な処理を内観が認識する時点で「痛み」というクオリアが生まれます。

横山さんのご指摘にもあったように、①脳内で行われる様々な処理=不可知のコギト(認識主体としての私)が為す様々な処理を②内観が認識する=「痛み」というクオリアが生まれる―という図式は承服しかねます。ここで我々の意識が異邦人さまの仰るような在り方―不可知のコギトとその伝令を認識する内観から成る二重構造―をしているという根拠は何でしょうか。
翻って、僕なら↓以下のように考えます。異邦人さまと同じく「痛み」を例にすると、
①工藤庄平の身体で行われている様々な処理=未だメカニズムの内実は解明されていないけれども工藤庄平もそれ以外の人も視認可能な事象

②[工藤庄平なる身体に生起する痛み]=工藤庄平のみが感じる視認不可能な事象
の関係は、認識論的には還元不可能な在り方をしているが、存在論的には一つの事象である、と。

>神経発火自体は脳で処理が行われていることを示す現象であり、「痛み」の原因とは言えません。 「痛み」の原因といえば電柱にぶつかって体にダメージを受けたこと、ということになります。

はい、当然そうなりますね。既述の通り、①[工藤庄平なる身体に生起する痛み]=工藤庄平が持つ視認不可能な事象と②[工藤庄平なる身体に生起する神経発火]=工藤庄平もそれ以外の人も視認可能な事象との【関係】は「②が①を生み出す・引き起こすetc」或は「①が②を生み出す・引き起こすetc」【である】という主張が謬見に過ぎないことは明白ですから。

>ジョン・サールは「心的なものは物的なものに還元出来ない」と思い込んでいるようですが、それは間違った思い込みに過ぎません。「心的なものは物的なものに還元可能」です。(私はそう考えています。)この引用部分を読む限り、ジョン・サールの唯物論理解は今ひとつですね。

「還元」の意味が違うんですよね。とりあえず、『マインド』を精読してみてください。

殆ど全ての人々は或る事象を心的なもの「と見倣している」が、別の事象は物的なもの「と見做している」ように見える。
とはいえ、抑も或る事象が心的なもの『である』か物的なもの『である』かを峻別する【明瞭な基準】を我々は【実際に】持っているのだろうか?

否。

ありのままの経験から、私たちは先に見たような(的外れな)説明を得た。そのような(的外れな)考察においては、「心的」「物的」という【哲学の伝統的なジャーゴン】に影響されないわけにはいかないのだ。この伝統的なジャーゴンは、心的現象と物的現象が相互に排除し合うことを当然の前提としている。件の前提は解決不可能な様々な問題を生み出し、そこから(的外れな)無数の本が作り出されてきた。
私は【これらのジャーゴンと前提を克服する】つもりだ。また、それを通して従来の問題を解決もしくは解消したいと思う。
数世紀に渡る知識の進歩にも関わらず、心身問題は今なお現代哲学において主要な問題であり続けている。後述するように、この問題にはかなり明白で包括的な哲学的解決があると私は考えている。しかし、予め言っておかなければならないが、デカルトの問題には手近な解決があるという私の主張は【多くの(愚鈍な?)同業者―ひょっとしたら殆どの同業者―の受け入れるところではない】だろう。
―ジョン・サール『マインド』

工藤庄平さん。
;
>>工藤庄平 | 2013年10月 4日 (金) 03時38分
>不可知のコギトとその伝令を認識する内観から成る二重構造―をしているという根拠は何でしょうか。

例えば、目の前にリンゴがありそれを認識している場面を考えてみます。
(取り合えず、五感の内視覚のみに限定して考えます。)
先ず視覚がリンゴの情報を視覚データとして捉えます。
視覚データは神経パルスの束です。
この神経パルスの束から最終的にリンゴのイメージが形成されそれが我々の顕在的認識になります。
神経パルスの束からリンゴのイメージが形成されるまでの間に何が起きているのか、それが問題です。

(私は「脳の働き=心の働き」と考えていますので以下その前提で述べます。)
脳の中(心の中)では神経パルスの束からリンゴのイメージを形成する処理が行われます。
脳の中(心の中)では無数の工程を通して高度な情報処理が行われます。
こうした高度な情報処理の結果最終的にリンゴの3次元イメージが形成されます。
恐らく脳の中(心の中)では下記の様な処理が行われていることでしょう。

1)今得た視覚データと過去の時系列的データを組み合わせて対象の全体像を形成します。
2)左右の視覚データの視差を基に全体像の立体化を行います。
3)対象の背後や中身等見えない部分を推測し補完します。

大雑把にはこのようなことですが、もっとかなり高度な処理が行われているハズです。
以上が神経パルスの束からリンゴのイメージが形成される過程です。
脳の中(心の中)=「心の本体(コギト)の中」でこのような処理が行われてリンゴのイメージが形成され、それが内観に届けられた時点で我々の顕在的認識となります。

我々はこれらの脳の中(心の中)で行われている処理を認識できるでしょうか?
もちろんできません。
我々にできるのは内観に届けられたリンゴのイメージを認識できるのみです。
我々は脳の中(心の中)=「心の本体(コギト)の中」で行われている(高度で複雑な)処理を認識できません。
我々が認識できるのはその結果のみです。

そうであるからこそデカルトの「我思う、故に我あり」は大きな意義を持つのです。
もし「コギト」が普通に認識可能な対象であるのならば、「我思う、故に我あり」という言葉には何の価値もありません。

>「還元」の意味が違うんですよね。とりあえず、『マインド』を精読してみてください。
>>工藤庄平 | 2013年10月 4日 (金) 03時58分

取り合えず、Wikipediaと心の哲学まとめWikiでジョン・サールを調べてみました。

ジョン・サールは「心的なものを物的なものに還元する」という問題は擬似問題であると考えているようですね。
私は擬似問題などではなく純然たる哲学問題であり客観的に答えることのできる問題であると考えています。
ですのでジョン・サールの主張には賛同できません。
私は(上記で調べた範囲では)ジョン・サールをあまり高く評価できませんが、それでも、観念論哲学に較べればかなり高く評価できます。
ジョン・サールは実在論寄りの哲学者であり、その点で親しみを感じます。
ついでに言いますと、私が親しみを感じる哲学者はデカルトとスピノザです。
それは、何れも実在論寄りの哲学者であるからです。

差し当たり『マインド』を精読する余裕がありません。
そのうち余裕ができ気が向けば読んでみようかなとは思っています。

異邦人さん、こんにちは。

ご意見を拝見していると、僕にはサールが異邦人さんにかなり近いように思えました。

サール「マインド」邦訳P169
「唯物論者も私も「意識とは脳過程に過ぎない」と言う。
だが、唯物論者が意図しているのは、質的主観的一人称的非現実的で触れ合って感じあう現象としての還元不可能な現実は存在しないということだ。あるのはただ、三人称的客観的な現象だけである。
しかし、私が意図したのは、質的主観的一人称的非現実で触れ合って感じあう現象としての還元不可能な意識とは正確に、脳内で進行している過程であるということだ。
二元論者も私も「意識は三人称的な神経生物学の過程には還元できない」と言う。
しかし、二元論者はこれを、意識とは通常の物理的な世界の一部ではなく、それとは別の何かだという意味で述べている。
私の意図は、意識とは因果的に還元できるが存在論的に還元できない、ということだ。
意識は通常の物理的世界の一部であり、それとは別の何かではない。」

引用終わり

このサールの「意識の生物学的自然主義」という立場は、意識は生物学的自然法則に因果的に還元できるとしながら、同時に、物心に対する通常の意識概念を捉えなおして自然法則に還元できないような意識概念の存在も認めようとするので、唯物論でも性質二元論でもない別の立場として、「概念二元論」と呼ばれることもあります。

どうでしょう。異邦人さんに似ているように思えたのですが。違いますか。

横山信幸さん。(>2013年10月 5日 (土) 12時52分)

仰るとおり、サールの「生物学的自然主義」は唯物論にかなり近い考え方だと思います。
ですので私の唯物論ともかなり近い距離にあると言えますね。
端的に言えば、
私とサールの主張の共通点については賛同でき(大部分はそうです)、
相違点については賛同できない(それほど多くはないと思います)、
ということになります。

具体的には、「還元問題が擬似問題である」と考えている点、「意識は存在論的に還元できない」と考えている点、等が賛同できない点です。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>ご意見を拝見していると、僕にはサールが異邦人さんにかなり近いように思えました。
>ですので私の唯物論ともかなり近い距離にあると言えますね。

僕もそう思います。係争中の?論点を除けば、僕と異邦人さまとサールの見解は大略一致していますね。

>このサールの「意識の生物学的自然主義」という立場は、意識は生物学的自然法則に因果的に還元できるとしながら、同時に、物心に対する通常の意識概念を捉えなおして自然法則に還元できないような意識概念の存在も認めようとするので、唯物論でも性質二元論でもない別の立場として、「概念二元論」と呼ばれることもあります。

簡明で的確な要約ですね。サールの哲学的企図の一つは【心的現象/物的現象という錯誤に満ち満ちた区分】―言ってみれば、古代人が落雷を神の仕業と考えていたようなものです―を排して、【一人称の存在論/三人称の存在論という事物世界の在り方に即した区分】を据えることでした。

>具体的には、「還元問題が擬似問題である」と考えている点、「意識は存在論的に還元できない」と考えている点、等が賛同できない点です。

「還元」「存在論」の意味が違うんですよね。とりあえず、『マインド』をお読みください。

異邦人さま

>我々はこれらの脳の中(心の中)で行われている処理を認識できるでしょうか?
もちろんできません。我々にできるのは内観に届けられたリンゴのイメージを認識できるのみです。

【内観】に届けられた【リンゴのイメージ】を【認識】する?? ―オカシイですね。
我々は①リンゴそれ自体②リンゴを知覚すること・知覚対象としてのリンゴ③リンゴの知覚表象④(眼を閉じたりして)リンゴをイメージすること・リンゴの想像表象を区別していると思いますが、実在論者である筈の異邦人さまが上記の如き図式を信捧しているというのは、僕には理解しかねます。

>我々は脳の中(心の中)=「心の本体(コギト)の中」で行われている(高度で複雑な)処理を認識できません。我々が認識できるのはその結果のみです。

スピノザ的ですね。仰りたいことはよく解るのですが、それを「内観」「伝達」「認識」といったタームで図式化するのは如何なものか、と。

確かに、我々の[生]は、我々のあずかり知らぬメカニズム=[諸事物のネットワーク]から生じていると思います。とはいえ、我々のあずかり知らぬメカニズム=[諸事物のネットワーク]を「不可知のコギト」と考える―更に言えば、意識の二重構造も又然り―ことは眼目を欠いているのではないでしょうか。

異邦人さん、工藤さん、お早うございます。

> 僕もそう思います。係争中の?論点を除けば、僕と異邦人さまとサールの見解は大略一致していますね。

そうですか。工藤さんも、サールの近傍にいるのですか。では、反サールはここでは僕だけかも知れないですね。
(異邦人さんは一緒にするなとお怒りになるでしょうか。)

僕がサールの見解で最も納得がいかないのは、人間などとは材質や構成の違う脳神経が意識を持ち得ないとしているところです。僕には行き過ぎた仮説に思えるのですが、お二方はどう思われますか。

(参考)私見「心とは何か」について

脳は純粋機械であり情報処理機械です。
「心」とは脳で行われる情報処理(の総体)のことです。
「心」とは情報処理という働きのことです。
「心」は働きとしての存在であり実在としての存在ではありません。
実在は物質のみです。「心」は実在ではありません。
「心」は存在しますが実在ではありません。
「心」は情報処理という純粋な物理的現象です。
「心」は常に脳と一体です。
脳を離れて「心」は存在しません。

生命は生存機械(自己保存機械)です。
代謝機能により生存を実現しています。
動物(人間)の場合は代謝機能に加えて情報処理機能と運動機能により生存を実現しています。
この生存機能の一翼を担う情報処理機能を「心」と定義します。
生存機能と直接関わりのない情報処理は「心」に含めません。
ですので通常のコンピュータの情報処理は「心」に含めません。
動物(人間)は全て「心」を持ちます。
人間を頂点として様々なレベルの心が存在します。
ロボットに生存機能(自己保存機能)を与えればそのロボットは「心」を持つことになります。
つまり「心」を持ったロボットを造ることが可能です。

もちろん人間レベルの「心」を持ったロボットを造ることは(原理上は)可能でも(現実上は)不可能です。

工藤庄平さん。
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>>工藤庄平 | 2013年10月 5日 (土) 23時17分
>「還元」「存在論」の意味が違うんですよね。とりあえず、『マインド』をお読みください。

仰るとおりかも知れません。ただ今のところ余裕がありません。m(__)m

>>工藤庄平 | 2013年10月 5日 (土) 23時48分
>【内観】に届けられた【リンゴのイメージ】を【認識】する??

多少、表現が拙かったかも知れません。
【内観】に届けられた【リンゴのイメージ】が我々の顕在的な認識となる。
という表現ではいかがでしょうか?ダメでしょうか?

>スピノザ的ですね。仰りたいことはよく解るのですが、それを「内観」「伝達」「認識」といったタームで図式化するのは如何なものか、と。

私の脳(心)モデルでは適正な図式であると考えています。

>>工藤庄平 | 2013年10月 5日 (土) 23時57分

私の「我々のあずかり知らぬ因果のネットワーク」という表現は、
この世界は無数の素粒子でできているので、その運動を(現実上)人間技で解析するのは不可能である、ということを表しています。
ラプラスの悪魔を登場させれば(原理上は)客観的に解析可能となります。

「不可知のコギト」というのは我々が我々の脳(心)の内で行われている処理を実際上認識不可能である、という事実を表しています。

ですのでこの二つの問題はレベルの異なる全く別の問題です。

意識の二重構造は明白な事実であると考えています。

横山信幸さん。(>2013年10月 6日 (日) 06時24分)

>人間などとは材質や構成の違う脳神経が意識を持ち得ない

意識があるとは脳の情報処理機構が動作している状態を指します。
ですので純物質的存在である脳も当然、意識を持ち得ます。
私の「(参考)私見「心とは何か」について」をご参照願います。

異邦人さん、

すみません。勘違いしていました。異邦人さんの唯物論では意識は完全に物理作用そのものなのでしたね。
「因果的機能的記述に絡まないような」意識やクオリアは端的に無いのですね。

「われわれは自分に(説明が絡まないような)意識体験があると判断しているのではなく、それを知っているのだ」とチャーマーズは言ってますが、これも単なる勘違いでしかないと考えるわけですよね

横山信幸さん。(>2013年10月 7日 (月) 09時11分)

仰るとおり、その点についてはチャーマーズの理解不足であるものと考えています。

異邦人さま

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>私の「我々のあずかり知らぬ因果のネットワーク」という表現は、
この世界は無数の素粒子でできているので、その運動を(現実上)人間技で解析するのは不可能である、ということを表しています。ラプラスの悪魔を登場させれば(原理上は)客観的に解析可能となります。
「不可知のコギト」というのは我々が我々の脳(心)の内で行われている処理を実際上認識不可能である、という事実を表しています。
ですのでこの二つの問題はレベルの異なる全く別の問題です。

当然、そうですね。

>意識の二重構造は明白な事実であると考えています。

僕としては「異邦人さまはそうお考えになるのですね」と言うよりないのです。
とはいえ、台風や日本海や銀河系etcと同様、異邦人さまの脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―は[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しています。
ところで、異邦人さまの仰る【知覚】の図式―我々の【知覚】は【各自の脳内】で生み出された【イメージ】を【各自の内観】が受け取ることによって成立している―は異邦人さまの思想的立場とは裏腹に、極めて観念論的かつ独我論的なものです。異邦人さまは現象学に対して↓以下の如き疑義

>現象学での「他我」「間主観性」というのは何でしょうか?
外なる存在を排して(エポケー)していますから、「他我」というのは自分と独立して存在する他者のことではありません。「間主観性」というのも自分と独立して存在する他者との間の共通認識といったようなものではありません。
何れも自分の内観の内の出来事に過ぎません。
現象学の読者も「自分と独立して存在する他者」ではなくあくまで自分の内観の内に現れる「他我」であることになります。
全ては自分の内観の内の出来事に過ぎません。
自分の内観のうちに「他我」が居り、その「他我」との間で「間主観性」が成立します。
どこまで行っても自分の内観の内の話であり「独我論」から抜け出せません。
現象学は独我論から出発して独我論を超え出ることを目指しているようですが、それが成功しているとはとても思えません。

を呈しておられましたが、件の【構造】はご自身の図式に対しても当てはまるのではないでしょうか。仮に異邦人さまの仰る【知覚】の図式が正しいとすれば、我々は【各自】が【自分だけに】与えられた【イメージ】を「見ている」ことになりますが、これは「見る」という語の文法にそぐわないし、何より知覚と想像表象の差異を無視してしまっているように見えます。異邦人さまの図式において、想像表象はどのように位置付けられるのでしょうか。
(異邦人さまのご見解に反して)当然ながら、我々は事物世界において我々と共在する存在者―例えば、リンゴ―を「知覚する」「見ている」のであって、知覚印象を「知覚する」「見ている」のではありません。リンゴは食べられるけど、リンゴの知覚印象は食べられないのですから。

話を戻しますと、脳内処理のプロセスに固執する異邦人さまの【自閉的な図式】は、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。

存在論的に断絶した[生]を含み込んで在る[現実=諸事物のネットワークの総体]・・・

横山さん

>僕がサールの見解で最も納得がいかないのは、人間などとは材質や構成の違う脳神経が意識を持ち得ないとしているところです。

「C繊維の発火と痛みの関係は偶然的である」というクリプキの謬見について言えば、①視認可能だが、視認されることとは独立・無関係に存在する事象と②視認不可能な感覚それ自体である事象の認識論的な区別を存在論的な区別に短絡することは出来ません。要するに、両者の関係は偶然的でも必然的でも因果的でもない、ということです。

>僕には行き過ぎた仮説に思えるのですが、お二方はどう思われますか。

想像の垂れ流しや思考実験(概念構成)で[事物]に即した概念を構成することは出来ません。

工藤さん、こんばんは。
回答ありがとうございます。でも、僕には難しくてよく分かりませんでした。

視認不可能な感覚自体が他者にあるか否かという問いは、意味がない。ということだと理解すればいいのでしょうか。それとも、ロボットに意識があるか否かを問うことが無意味だということでしょうか。

それとも、また違う解釈をすべきですか。

横山さん

>視認不可能な感覚自体が他者にあるか否かという問いは、意味がない。ということだと理解すればいいのでしょうか。それとも、ロボットに意識があるか否かを問うことが無意味だということでしょうか。

全然違います。既に縷言したと思いますが・・・
①[工藤庄平なる身体において生起する神経発火]~視認可能だが、視認されることとは独立・無関係に存在する事象

②[工藤庄平なる身体において生起する痛み]~視認不可能な感覚それ自体である事象
の関係は偶然的でも必然的でも因果的でも随伴現象的でもありません。

認識論的な区別は存在論的なそれを含意しない、ということですね。

工藤庄平さん。(>2013年10月 8日 (火) 14時20分)
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<「心(意識)の二重構造」について>

(繰り返しになりますが)リンゴを見て認識している場面を考えます。
<構造1>不可知な心
リンゴの視覚データ(神経パルスの束)からリンゴのイメージが形成される過程を我々は認識することが出来ません。これが「不可知な心」です。
<構造2>顕在意識の場としての心(内観)
内観がリンゴのイメージを受け取りそれが我々の顕在的な認識となります。これが「顕在意識の場としての心(内観)」です。

これが「心(意識)の二重構造」ということですが、明白な事実ではないでしょうか?
少なくとも私はこれを明白な事実であると考えています。

>[固有名を与えられた身体から開けた生]―は[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しています。

工藤庄平さんのこの概念(主張)は(その概念自体を生み出している背景である)「不可知な心の本体」を組み入れて再構築するのでなければ、十全な概念(主張)にはなり得ないものと、私には思えます。

>異邦人さまの図式において、想像表象はどのように位置付けられるのでしょうか。

実在の対象(リンゴ)であれば、それを対象としてリンゴのイメージが生成されます。
想像表象であれば、記憶内の素材を組み合わせてイメージが生成されます。
何れの場合もそのイメージが我々の顕在的な認識になります。

> (異邦人さまのご見解に反して)当然ながら、我々は事物世界において我々と共在する存在者―例えば、リンゴ―を「知覚する」「見ている」のであって、知覚印象を「知覚する」「見ている」のではありません。リンゴは食べられるけど、リンゴの知覚印象は食べられないのですから。

(ここは単純に私の表現が拙かっただけだと思いますが)
知覚印象(リンゴのイメージ)が我々の顕在的な認識になっていることは「明白な事実である」と考えます。
リンゴの知覚印象を食べるというような話はしていないつもりです。

>存在論的に断絶した[生]を含み込んで在る[現実=諸事物のネットワークの総体]・・・

「存在論的に断絶した(我と他者の)[生]を含み込んで在る・・・」云々は、表現が変わっているだけで、私の「我々は我々のあずかり知らぬ因果のネットワークの中で我々の生を生きている」という表現と同一内容であるようにしか思われません。

工藤さん、ありがとうございます。
言葉の表面上の意味をなぞることはできるのですが、それが、「サールがシリコン製脳組織に意識を認めないことをどう評価するか」への回答として、どう解釈するかになるとやはり分かりません。でも、もう少し自分で考えてみます。

異邦人さん、お早うございます。
基本的な疑問を質問させてください。

「不可知な心」が厳密に認識不可能であり、かつそれが存在しているのなら、唯物論からはみ出てしまうものがあることになってしまい、某かの二元論になってしまうのではないですか。つまり、「不可知な心」が厳密に認識不可能ということはそれがわれわれと物理的な因果関係をもたない、物理的な系から外れた存在であることを意味しているのではないか、という疑問です。
不可知な心なるものは存在しないと考えればいいのでしょうか。

工藤さん、

「認識論的な区別は存在論的なそれを含意しない」というのは、「C線維に関する物理的事象と感覚に関する現象的事象が区別して認識できるからと言って、それが別のものとして存在するとは限らない」という意味ですよね。
それで、この両者の関係が偶然的でも必然的でも因果的でも随伴現象的でもないということは、独立の関係にあるということでしょうか。そして、感覚に関する現象的事象が物理的事象と完全に独立であって、別個に存在する対象なのだとしたら、それはその独立性ゆえにもはや「それを自分の痛みだとする根拠」を失ってしまうことになる。だから、それが独立であるなら現象的事象は対象として存在しないことを意味するとすべきだと考えました。
それゆえ、工藤さんの言われていることは、C線維に関する物理的事象と感覚に関する現象的事象は同じ一つの対象の異なる側面であるということだと解釈しました。
どうでしょう。ここまで合っているでしょうか。

で、それで、これが、「サールの、シリコン製の脳は意識を持たないとする意見を、どう評価するか」とどう関わるかという点になるとやはりさっぱり分かりません。

横山信幸さん。(>2013年10月 9日 (水) 07時28分)

>「不可知な心」が厳密に認識不可能であり、かつそれが存在しているのなら、唯物論からはみ出てしまうものがあることになってしまい、

我々の脳(心)では膨大な量の高度な情報処理が常時行われています。
しかし我々はその内容を全く認識することができません。
これが心(認識主体としての私=コギト)が不可知である、ということの意味です。

我々が認識できるのは情報処理の結果作成されたイメージのみです。
情報処理の結果作成されたイメージが内観に届けられ、それが我々の認識になります。
この内観(認識対象としての私)が我々の通常認識する我々の心の内です。

コギトは現実上認識不可能ですが、その存在は自明です。
しかし、原理レベルではこの世界は全て客観的に認識可能であり客観的に記述可能です。(例えば、ラプラスの悪魔を考える)
ですので唯物論からはみ出してしまうような心配は全くありません。

>不可知な心なるものは存在しないと考えればいいのでしょうか。

コギトは現実上認識不可能ですが、その存在は自明です。
何故ならコギトは自分自身なのですから。
コギトは現実上認識不可能ですが「我思う」によってその存在を確認できます。
物理的な系から外れるようなことは全くありません。
現実上認識不可能でも存在しているものは幾らでも有ります。
現実上認識不可能でも原理上認識可能なものは幾らでも有ります。

このコメントは「不可知のコギト」に関する補足です。

(先ず前置きです)
我々の脳(心)の主要な目的は環境を認識しそれに適正に対応する行動を決定することです。
それは脳(心)が生存機能の一翼として存在していることによります。
脳(心)は一応は外的環境を認識できれば十分でありそれで生存機能を果たすことが可能です。
必ずしも脳(心)自身の内部で行われている処理を認識できる必要はありません。
しかしながら、我々の脳(心)には僅かながら自分自身を認識できる機能が備わっています。
それが内観(自己認識能力)です。
それは、不可知の心本体で処理された結果イメージを受け取ることで成立しています。
内観は不可知の心本体で処理されている内容を全く認識できません。
内観で認識されるのはその処理結果のイメージのみです。
内観で認識されるのはごく限定的です。心本体の内容ではありません。

(ここからが本論です)
心の本体が不可知であるのなら、心内部を認識できる機能を付け加えて自分自身で自分自身の脳(心)内部を完全に認識できるようにすることを考えます。
これが実現すれば我々は自分自身で自分自身の脳(心)内部を完全に認識できるようになります。
新しい機能を付け加える前の元の脳(心)を「A脳(心)」と表記することにします。
新しく付け加える脳(心)部分を「B脳(心)」と表記することにします。
「B脳(心)」を追加することにより元の脳(心)「A脳(心)」で行われていた心本体内部で行われていた処理を完全に認識できるようになります。

例えば、リンゴの視覚データ(神経パルスの束)からリンゴのイメージが形成されるまでの処理の詳細を完全に認識可能になります。
心本体内部で行われる高度で複雑な情報処理の様子を詳細に認識できるようになります。
リンゴに関するクオリアが生成される過程の詳細も完全に認識できるようになります。
その他様々な心的内容の生じる詳細も完全に認識できるようになります。

これで我々は自分自身の心本体内部で行われる処理を完全に認識できるようになりました。
さて「なりました」と述べましたが本当にそうでしょうか?
違いますよね!!
「A脳(心)」は完全に認識できるようになりましたが「B脳(心)」はまだ認識可能にはなっていません。
「B脳(心)」を完全に認識可能にするためには新たに「C脳(こころ)」を追加する必要があります。
以下同様に「D脳(心)」「E脳(心)」「F脳(心)」・・・と次々に付け加えていくことが必要になってきます。
どこまで行っても完全にはなりません。
完全に自分自身の心本体内部を認識できるような脳(心)を作り上げることは不可能です。
我々の脳(心)には必ず自分自身で認識不可能な部分が残ってしまいます。

<私の唯物論の主張>

「心」は純粋な物理的現象です。
「クオリア」は純粋な物理的現象です。
「現象的意識」は純粋な物理的現象です。
あらゆる「心的現象」は全て純粋な物理的現象です。
この世界のあらゆる現象は全て物理的現象です。
物理的現象でない現象はこの世界に存在しません。

<私の唯物論の主張>(補足)

全ての現象は物理的現象である、というだけであれば他の唯物論と特に変わりはありません。
では既存の唯物論と私の唯物論の違いはどこにあるのか、ということになります。

既存の唯物論では心的現象を無視したり消去したりすることによってその理論の一貫性を保とうとしています。
機能主義や行動主義では心的現象を無視しています。
消去主義では心的現象を消去しています。
既存の唯物論では心的現象を正面から取り上げてその解明を行っている理論は見当たりません。

私の唯物論では心的現象を無視したり消去したりしません。
私の唯物論では心的現象に正面から取り組みその解明を行っています。
その点が既存の唯物論との大きな違いです。

私の唯物論は(唯物論以外の存在論)観念論等を批判対象としています。
それのみならず、既存の唯物論も批判対象になっています。

異邦人さん、こんばんは。

よく分からないので質問します。

僕の理解では心の哲学において意識の問題とは現象的意識に関してを中心に問うているように思います。
意識を、物理事象と因果的機能的に絡み合わない「現象的意識」と、絡み合える「機能的意識」に分けた場合の現象的意識です。ですので、消去主義も「機能的意識」を消去させようとしているのではなく、「現象的意識」を消去させて考えようとしている立場だと、僕は理解しています。
しかし、異邦人さんは一貫して、意識を機能的作用として捉えられていますよね。だから、異邦人さんが問題にされている意識は「機能的意識」だけだと理解しています。そのため、いわゆる「現象的意識」を異邦人さんは無視したり消去したりしているのと同じ立場になっているように見えます。

しかし、異邦人さんの唯物論は心的現象を消去したり無視したりしないとおっしゃっています。
上の視点で言うと、異邦人さんは「意識」という語の用法を一般的なものからずらすことで消去したり無視したりしないようにしただけで、「現象的意識」と正面から向き合っていないのではないかと僕は疑っているのです。結局、消去主義や無視と同じことをされているように見えるのです。

僕の理解不足でしょうか。

異邦人さん、こんばんは。
もう一つ質問させてください。

A脳を観察するB脳の話について、どうしても認識できない部分が残ってしまうという話なら、下のように考えても同じですよね。
すなわち、A脳が自分自身を観察認識する。しかし、A脳は対象を観察認識するのに1マイクロ秒かかってしまう。そのため、A脳が認識できるのは恒に1マイクロ秒前のA脳であって、厳密に自分自身ではない。それゆえ、脳は自分自身を観察することができない。どうでしょう。違う話にしてしまっているでしょうか。
しかし、これが同じ話なら少し変なことになります。
A脳が認識できないのは現在の自分自身だけではありません。りんごだって、ミカンだって、あらゆる対象は1マイクロ秒前のものしか認識できません。それなら、自分自身だけを特別視して「不可知のコギト」などと言う必然性や必要性がなくなってしまうのではないでしょうか。

横山信幸さん。

私が現象的意識と呼んでいるのは現象的意識のことであり機能的意識のことではありません。
私は機能的意識を一切問題にしていません。
私が問題としているのは一貫して現象的意識のほうです。

>意識を、物理事象と因果的機能的に絡み合わない「現象的意識」と、絡み合える「機能的意識」に分けた場合の現象的意識です。

既存の哲学者は(既存の唯物論者も含め)、「現象的意識」を「物理事象と因果的機能的に絡み合わない意識」と捉えていますが、私は「現象的意識」を純粋な物理的現象であると捉えています。
果たして「現象的意識」が純粋な物理的現象であるのか否か、それが問題の焦点であるわけです。
既存の哲学者は何れも「現象的意識」が物理的現象なんかであるハズがない、と強く思い込んでいます。
私は当にその思い込みに異論を唱えているわけです。
この点が私の主張のひとつの焦点です。

私の唯物論では現象的意識も含め全ての心的現象を物理的現象に還元します。
その還元は可能であり還元方法を提示することも出来ます。
心的現象を無視したり消去したりせずその全てを物理的現象に還元します。

>A脳を観察するB脳の話について、どうしても認識できない部分が残ってしまう

「1マイクロ秒」云々という話とは無関係です。
再度、目の前のリンゴを認識している場面を考えます。
目で視覚データ(神経パルスの束)が発生し脳(心)内で情報処理されてリンゴの3次元イメージが生成されます。
そのリンゴの3次元イメージが我々の認識するリンゴのイメージになります。

目の前のリンゴを見れば横山信幸さんの心にはリンゴのイメージが浮かぶハズですよね?
そのリンゴのイメージは心の中で視覚データ(神経パルスの束)を元に様々な情報処理を行うことにより生成されています。
横山信幸さんは「心の中で視覚データ(神経パルスの束)を元にどのような処理を経てリンゴのイメージが生成されているか」解りますか?
その処理は簡単な処理ではありません。かなり高度な情報処理を必要とします。
横山信幸さんはその詳細を認識できますか?如何ですか?

我々の脳(心)は我々の見えないところで様々な処理を行っています。
我々の認識を可能にしている仕組み、
我々の思考を可能にしている仕組み、
我々の意思決定を可能にしている仕組み、
我々の感情を生成し制御している仕組み、
これらの仕組みは我々の目の届かないところで行われ我々を支えています。
我々の脳(心)は我々の目の届かない高度な仕組みで動いているのです。
コギトの中は我々の目の届かない高度な情報処理システムになっています。
コギトの中は我々の目の届かない広大な精神世界が広がっています。

異邦人さん、早速の回答ありがとうございます。

現象的意識という語の意味についてもう一度教えてください。
僕は下のようにそれを定義しようとしています。
> >意識を、物理事象と因果的機能的に絡み合わない「現象的意識」と、絡み合える「機能的意識」に分けた場合の現象的意識です。
> ;

そして、異邦人さんはそれを確かめられた上で次のように仰る。

> 私が現象的意識と呼んでいるのは現象的意識のことであり機能的意識のことではありません。
> 私は機能的意識を一切問題にしていません。
> 私が問題としているのは一貫して現象的意識のほうです。
> ;

ところが上記2点を押さえた上で、異邦人さんは、
「現象的意識は物理現象に還元できる」
と、はっきりと主張されています。
これは、単純に矛盾です。
「現象的意識は物理事象と因果的機能的に絡み合わない」かつ「現象的意識は物理現象に還元できる」と主張しているのですから。

だから、異邦人さんは「現象的意識」を「意識を、物理事象と因果的機能的に絡み合わない「現象的意識」と、絡み合える「機能的意識」に分けた場合の現象的意識」と位置付けないで違う意味で使われていることは明らかだと思います。

異邦人さんの「現象的意識」は如何なるものを考えていらっしゃるのか定義か何かしてくださいませんか。

横山信幸さん。

>「現象的意識は物理事象と因果的機能的に絡み合わない」かつ「現象的意識は物理現象に還元できる」と主張しているのですから。

「現象的意識は物理事象と因果的機能的に絡み合わない」と主張しているのは既存の哲学者であり私ではありません。
私は一貫して「現象的意識は物理現象に還元できる」と主張しています。

>異邦人さんの「現象的意識」は如何なるものを考えていらっしゃるのか定義か何かしてくださいませんか。

私の下記のクオリアに関する一連のコメントをご参照下さい。
クオリアを現象的意識に読み替えて下さい。
現象的意識のうち五感に関わるものがクオリアです。

<コメント1> 2013年9月25日 (水) 14時45分
<コメント2> 2013年9月25日 (水) 16時47分
<コメント3> 2013年9月26日 (木) 09時12分
<コメント4> 2013年9月28日 (土) 23時06分

このコメントは「心の二重構造」に関する補足です。

「心の二重構造」は多くの哲学者に知られた一般性の高い概念である、ものと認識しています。
もちろん私独自の主張ではありません。
「心の二重構造」を認識していない哲学者も多少はいるかもしれませんが多くの哲学者は認識しているものと推測しています。

「心の哲学まとめWiki」の関連記事を紹介しておきます。
>意識の超難問->心理学的分析の項目
>ウィリアム・ジェイムズの「二重構造」の記事

<認識主体としての私>(注1)
主体たる自己、知っている自己、私( I )、主格の私( I )

<認識対象としての私>(注1)
目的とする自己、知られている自分、私( me )、目的格の私( me )

>渡辺恒夫の自我体験の記事

<認識主体としての私>(注1)
意識する自分(私2)

<認識対象としての私>(注1)
意識される自分(私1)

(注1)<認識主体としての私><認識対象としての私>は
私(ある唯物論者(異邦人))の補足です。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。

>「心の二重構造」は多くの哲学者に知られた一般性の高い概念である、ものと認識しています。もちろん私独自の主張ではありません。 「心の二重構造」を認識していない哲学者も多少はいるかもしれませんが多くの哲学者は認識しているものと推測しています。

言うまでもないと思いますが、或る見解が多くの哲学者に知られていることと件の見解の真偽性は独立・無関係でしょう。忌憚なく言わせて頂ければ、僕の知る限り、真っ当な(=見識ある)哲学者で「心の二重構造」を信奉している人はいません。
とりあえず、W・ジェイムズの謬見を解消した著作として、シドニー・シューメイカー『自己知と自己同一性』を挙げておきます。

異邦人さま


>既存の哲学者は(既存の唯物論者も含め)、「現象的意識」を「物理事象と因果的機能的に絡み合わない意識」と捉えていますが、私は「現象的意識」を純粋な物理的現象であると捉えています。果たして「現象的意識」が純粋な物理的現象であるのか否か、それが問題の焦点であるわけです。既存の哲学者は何れも「現象的意識」が物理的現象なんかであるハズがない、と強く思い込んでいます。


私が意図したのは、質的・主観的・一人称的-略-意識とは、精確に、脳内で進行している過程であるということだ。-略-私の意図は、意識とは因果的に還元出来るが存在論的には還元出来ない、ということだ。意識は通常の物理的世界の一部であり、それとは別の何かではない。―ジョン・サール『マインド』

横山さん


>人間などとは材質や構成の違う脳神経が意識を持ち得ない


既に示唆した通り、これが【事実=[事物の在り方]に関する問い】であるならば、思考実験(概念構成)によって解答を与えることは出来ません。


>「認識論的な区別は存在論的なそれを含意しない」というのは、「C線維に関する物理的事象と感覚に関する現象的事象が区別して認識できるからと言って、それが別のものとして存在するとは限らない」という意味ですよね。
それで、この両者の関係が偶然的でも必然的でも因果的でも随伴現象的でもないということは、独立の関係にあるということでしょうか。そして、感覚に関する現象的事象が物理的事象と完全に独立であって、別個に存在する対象なのだとしたら、それはその独立性ゆえにもはや「それを自分の痛みだとする根拠」を失ってしまうことになる。だから、それが独立であるなら現象的事象は対象として存在しないことを意味するとすべきだと考えました。
それゆえ、工藤さんの言われていることは、C線維に関する物理的事象と感覚に関する現象的事象は同じ一つの対象の異なる側面であるということだと解釈しました。
どうでしょう。ここまで合っているでしょうか。


「七割」ですね。ポイントは、
①[工藤庄平なる身体において生起する神経発火]~視認可能だが、視認されることとは独立・無関係に存在する事象

②[工藤庄平なる身体において生起する痛み]~視認不可能な感覚それ自体である事象
の認識論的差異・区別は概念(文法)的なものではない、ということ。
心的(と見做されている)現象の【記述】と物的(と見做されている)現象の【記述】との概念(文法)的差異・区別を件の認識論的差異・区別と混同しないようにしてください。

異邦人さま


>工藤庄平さんのこの概念(主張)は(その概念自体を生み出している背景である)「不可知な心の本体」を組み入れて再構築するのでなければ、十全な概念(主張)にはなり得ないものと、私には思えます。


繰り返しますが、脳内処理のプロセスに固執する異邦人さまの【自閉的な図式】は、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。
付言しますと、[現実=諸事物のネットワークの総体]に即した概念を構成すべきは自然科学者であって、(概念的探究を旨とする)哲学者ではないと思います。

異邦人さま


>知覚印象(リンゴのイメージ)が我々の顕在的な認識になっていることは「明白な事実である」と考えます。リンゴの知覚印象を食べるというような話はしていないつもりです。


既述の通り、我々は①リンゴそれ自体②リンゴを知覚すること・知覚対象としてのリンゴ③リンゴの知覚印象④(眼を閉じたりして)リンゴをイメージすること・リンゴの想像表象を区別している筈ですが・・・リンゴの知覚印象を「知覚する」「見ている」というのはオカシイと思いませんか?
仮に異邦人さまの仰る「知覚」の図式が正しいとするならば、我々は事物世界において我々と共在するリンゴ―触れたり、投げたり、食べることが出来るリンゴ―ではなくて、“各自”が“自分だけ”に与えられた“イメージ”を「知覚する」「見ている」ことになりますね。この場合、【我々】は【我々】が【同一のリンゴ】を「知覚する」「見ている」ことを如何にして知るのでしょうか?

工藤さん、おはようございます。回答ありがとうございます。

>>人間などとは材質や構成の違う脳神経が意識を持ち得ない
>既に示唆した通り、これが【事実に関する問い】であるならば、思考実験(概念構成)によって解答を与えることは出来ません。

同感です。それが【事実に関する問い】であるならば、「人間と構成を異にする脳が意識を持ち得るか」という問いは概念構成の編成や転換によって解答を求めるべき問いではないと思います。そして同様に、それが【事実に関する問い】であるならば、「人間一般の脳が意識を持ち得るか」という問いも概念構成の編成や転換によって解答を求めるべき問題ではないと考えるべきだと思います。

一方、サールが、「意識とは、精確に、脳内で進行している過程である」「意識とは因果的に還元出来る」「(意識は)存在論的には還元出来ない」としているのは、【事実に関する問い】なのでしょうか。サールが図っているのは「概念構成の編成や転換」であって【事実に関する問い】ではないと捉えるべきだと、僕には思えるのですが、僕の読み間違い、勘違いでしょうか。

横山さん


>このサールの「意識の生物学的自然主義」という立場は、意識は生物学的自然法則に因果的に還元できるとしながら、同時に、物心に対する通常の意識概念を捉えなおして自然法則に還元できないような意識概念の存在も認めようとするので、唯物論でも性質二元論でもない別の立場として、「概念二元論」と呼ばれることもあります。
>サールが図っているのは「概念構成の編成や転換」であって【事実に関する問い】ではないと捉えるべきだと、僕には思えるのですが、僕の読み間違い、勘違いでしょうか。


既述の通り、サールの哲学的企図の一つは、心的現象/物的現象という【事物世界の在り方にそぐわない区分】―例えば、「雷はゼウスの怒りである」等々―を排して、一人称の存在論/三人称の存在論という【事物世界の在り方に即した区分】を据えることでした。要するに、[現実=諸事物のネットワーク]に即した概念編成と「恣意的で根拠を欠いた概念編成」を混同してはならない、ということです。


或る問題の歴史とそれに関する伝統的な思考を意識的に忘れること。そして、その問題について我々が知る限りの事実(*当然ながら【文法的事実】も含む)を述べるように務めること。これが哲学における私の遣り方である。―ジョン・サール『マインド』

自然科学が開示した知見を吟味しつつ、哲学的似非問題の源泉たる概念的混乱を解きほぐしていくこと。これが哲学における僕の遣り方です。

工藤庄平さん。
;
>>工藤庄平 | 2013年10月13日 (日) 01時57分
>シドニー・シューメイカー『自己知と自己同一性』を挙げておきます。

しんいちゅうじさんのブログで上記に関する記事をざっと流し読みしてみました。
もちろん記事では『自己知と自己同一性』の一部しか引用されていません。
その範囲で感想を述べてみます。

シューメイカーは全て内観の範囲で問題を考えており「心の二重構造」については全く認識していないようです。
ですので少なくとも「心の二重構造」に対する批判には全くなっていません。

>>工藤庄平 | 2013年10月13日 (日) 02時06分

ジョン・サール『マインド』の引用部分については「存在論的には還元出来ない」と述べている部分を除けばその通り同意できます。

>>工藤庄平 | 2013年10月13日 (日) 02時45分
>[固有名を与えられた身体から開けた生]

「開けた生」という場合の「生を開く」ことを可能にしているのは何であるのか、を私は問題にしています。
それは脳(心)の高度な情報処理能力に拠るものである、と私は考えます。
脳(心)の高度な情報処理能力に拠り我々には高いポテンシャルが与えられ言語を駆使すること、抽象概念を駆使することを可能にしています。
さらには認識することや思考することを可能にしています。
こうした高度な情報処理は我々の認識の届かない場所で行われています。
「生を開く」ことを可能にしているのはこうした脳(心)の高いポテンシャルに負っています。
そうであるので「生を開く」ことを可能にしているこうした背景を組み込んで概念化するのでなければ十全な概念にはなり得ない、と私は思います。

>>工藤庄平 | 2013年10月13日 (日) 03時23分

<リンゴの認識について>
「実在のリンゴを対象として心に現象としてのリンゴが生まれそれが我々の認識するリンゴになっている」というごく常識的な話をしているつもりです。
>リンゴの知覚印象を「知覚する」「見ている」というのは・・・
というようなことに結びつくような話はしていないつもりです。
もしそう見えるとすればそれは私の表現力不足なのでしょう。

<リンゴ認識場面の図式>
(図式)実在のリンゴ>光(媒体)>視覚>視覚データ(神経パルスの束)>高度な情報処理>現象としてのリンゴ>我々の認識するリンゴ

この図式の内「高度な情報処理」の部分は我々の認識不可能な部分です。

工藤庄平さん。
;
<「心の二重構造」について>

工藤庄平さんは「心の二重構造」を否定されているようですが、ということは、
ご自身の心の内は全て余さず認識できている、とお考えなのでしょうか?
私は「そのようなことはあり得ない」と考えますが?

おはようございます、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>シューメイカーは全て内観の範囲で問題を考えており「心の二重構造」については全く認識していないようです。ですので少なくとも「心の二重構造」に対する批判には全くなっていません。


「心の二重構造」なる代物が虚構に過ぎない―詳細は『自己知と自己同一性』をお読みください―ことを示した人物がシューメーカーだったのですから、「(件の構造を)全く認識していない」という主張は彼の議論に対する批判には全くなっていないわけです。


>ジョン・サール『マインド』の引用部分については「存在論的には還元出来ない」と述べている部分を除けばその通り同意できます。


「還元」の意味が違うんですよね。とりあえず、『マインド』をお読みください。


>「開けた生」という場合の「生を開く」ことを可能にしているのは何であるのか、を私は問題にしています。それは脳(心)の高度な情報処理能力に拠るものである、と私は考えます。


既述の通り、(脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。
繰り返しますが、(脳を含めた)身体は異邦人さまの仰るような【自閉的な・閉じた情報処理系】ではなく、[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成する[固有名を与えられた身体から開けた生]なのですから。

異邦人さま


>工藤庄平さんは「心の二重構造」を否定されているようですが、ということは、
ご自身の心の内は全て余さず認識できている、とお考えなのでしょうか?


既に縷言したと思いますが・・・僕は①[工藤庄平なる身体において生起する神経発火]~視認可能だが、視認されることとは独立・無関係に存在する事象を「痛み」とは【呼ばない】し、②[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]~視認可能だが、そのメカニズムの内実は未だに解明されていない事象を「心」とは【呼ばない】のです。
ところで、サールの哲学的企図の一つは、心的現象/物的現象という【事物世界の在り方にそぐわない区分】―例えば、「雷はゼウスの怒りである」等々―を排して、一人称の存在論/三人称の存在論という【事物世界の在り方に即した区分】を据えることでした。

異邦人さま


><リンゴ認識場面の図式>
(図式)実在のリンゴ>光(媒体)>視覚>視覚データ(神経パルスの束)>高度な情報処理>現象としてのリンゴ>我々の認識するリンゴ
この図式の内「高度な情報処理」の部分は我々の認識不可能な部分です。


↓適切な図式に書き直せば、
【リンゴ知覚の図式】                
事物世界の内に存在するリンゴ(客観的個物)の表面>光>工藤庄平の身体から開
                                    >工藤庄平の身体におけるけた視野が捉えるリンゴ(客観的個物)~リンゴの知覚印象(私秘的)が生じる
物理的プロセス(視認可能だが、そのメカニズムの内実は未解明であるような事象)


【暗闇における触覚の図式】
事物世界の内に存在する客観的個物の表面>工藤庄平の皮膚>工藤庄平の触覚が
                                        >工藤庄平の身体に捉える客観的個物~客観的個物の触覚印象(私秘的)が生じる
おける物理的プロセス(視認可能だが、そのメカニズムの内実は未解明である事象)

工藤庄平さん。(>2013年10月14日 (月) 09時24分)
;
今のところ余裕がありませんのでシューメイカーとサールに関しては保留とさせて下さい。m(__)m

<[固有名を与えられた身体から開けた生]について>
[固有名を与えられた身体から開けた生]に関する工藤庄平さんの一連の記述(表現)は私の下記の表現に全て含まれているものと考えます。
「我々は我々のあずかり知らぬ因果のネットワークの中で我々の生を生きている」
私の表現に含まれ工藤庄平さんの表現に欠けているのは「生を開くことを可能にしている背景」に関する記述であると考えます。

<リンゴ認識場面の図式(抜粋)>
(入力)視覚データ(神経パルスの束)...0.1%
(処理)高度で膨大な情報処理    ...99.8%
(出力)現象としてのリンゴ       ...0.1%

右端の%は心の内の処理量を私の感覚で数値化したものです。
もちろん定量的な数値ではありません。
我々が知りえるのは(入力)+(出力)の0.2%のみです。
(処理)の99.8%は自分自身で認識できない心の内の処理です。
我々は自分自身の心の内を殆んど知ることが出来ません。
自分自身の心の内について我々が知りえるのはホンの僅かであり心全体に較べれば氷山の一角にしか過ぎません。

<「心の二重構造」について>
心が二重構造を成している、というのは言い換えれば、自分自身の心の内に自分自身でさえ知り得ない部分がある、と主張することと同じです。
逆に、心の二重構造を否定する、ということは言い換えれば、自分自身の心の内は全て余すところなく認識可能である、と主張することと同じです。
それは例えば、上記<リンゴ認識場面の図式(抜粋)>の(処理)の部分も認識可能である、と主張していることになります。
本当にそれは可能なのでしょうか?私は不可能だと思いますが?

工藤庄平さん。
;
私の直前のコメントが工藤庄平さんのコメントと入れ違いになってしまいました。
申し訳ございません。

>>工藤庄平 | 2013年10月14日 (月) 09時52分
>>工藤庄平 | 2013年10月14日 (月) 10時56分

私は「心」=「脳の働き」と考えております。
それに対し工藤庄平さんは「心」と「脳の働き」を別物とお考えになっているように感じました。
もし仮にそうだとしますと、工藤庄平さんが「心」と「脳の働き」の関係をどのように考えておられるのか気になるところです。
如何でしょうか?

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>私の表現に含まれ工藤庄平さんの表現に欠けているのは「生を開くことを可能にしている背景」に関する記述であると考えます。
>私は「心」=「脳の働き」と考えております。それに対し工藤庄平さんは「心」と「脳の働き」を別物とお考えになっているように感じました。もし仮にそうだとしますと、工藤庄平さんが「心」と「脳の働き」の関係をどのように考えておられるのか気になるところです。


既述の通り、(脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。
繰り返しますが、(脳を含めた)身体は異邦人さまの仰るような【自閉的な・閉じた情報処理系】ではなく、[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成する[固有名を与えられた身体から開けた生]なのですから。


>逆に、心の二重構造を否定する、ということは言い換えれば、自分自身の心の内は全て余すところなく認識可能である、と主張することと同じです。それは例えば、上記<リンゴ認識場面の図式(抜粋)>の(処理)の部分も認識可能である、と主張していることになります。


全く違います。既述の通り、僕は[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]~既に確立された幾つかの手段・方法で【視認(=知覚)可能】だが、そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは困難である】ような事象を「心」とは【呼ばない】のです。

異邦人さま


<リンゴ認識場面の図式(抜粋)>
(入力)視覚データ(神経パルスの束)...0.1%
(処理)高度で膨大な情報処理    ...99.8%
(出力)現象としてのリンゴ       ...0.1%
右端の%は心の内の処理量を私の感覚で数値化したものです。
もちろん定量的な数値ではありません。
我々が知りえるのは(入力)+(出力)の0.2%のみです。
(処理)の99.8%は自分自身で認識できない心の内の処理です。


「右端の%は心の内の処理量を私の感覚で数値化した」?? ―オカシイですね。
僕としては「あなたはそう感じると【仰る】わけですね」と言う他ないのです。

>今のところ余裕がありませんのでシューメイカーとサールに関しては保留とさせて下さい。m(__)m

(読んでもいない著作に対して)憶測で物を言うのは如何なものか、と。

工藤庄平さん。(サールと存在論的還元について)
;
下記のブログ2件で「マインド-心の哲学」の記述を見つけました。

<参考1>somamiti(ブログ)>断片集>[読書]マインド
<参考2>機械仕掛けのこころ(ブログ)>マインド-心の哲学>四章「意識1 意識と心身問題」

サールは「存在論的還元はできない」と主張していますが、それは誤りであると私は考えます。
私は「存在論的還元は可能である」と考えます。


異邦人さま


>サールは「存在論的還元はできない」と主張していますが、それは誤りであると私は考えます。私は「存在論的還元は可能である」と考えます。


何度でも繰り返しますが・・・異邦人さまはサールの言う「存在論的に還元不可能」ということの内実を理解していらっしゃらないのだと思います。
先ず、原典(サール『マインド』)をお読みください。

異邦人さん、工藤さん、こんばんは。

僕はシューメイカーは読んだことがないのでその議論に参加できませんが、サールについてはブログ本文で今のチャーマーズの次に取り組もうと考えています。サールのアイデアについて僕の理解をまとめて、批判的な見方をすることにも挑戦したいと考えています。
暫く待っていただければ、討論のネタになるようなレポートを出すようにしますので、利用してもらえるとありがたく思います。
「マインド」を読むかどうかを議論するのは最早、哲学の内容からずれてきてるかもしれませんので、サールを読む読まないは少し措いておくということでどうでしょう。。

工藤庄平さん。(>2013年10月14日 (月) 17時48分)

リンゴを見て認識する場合、我々はリンゴのイメージを認識として得るわけですが、誰でもそれを当然のこととして考え特にそれ以上気にはしません。
しかし脳(心)の内では視覚データ(神経パルスの束)からリンゴのイメージ(現象としてのリンゴ)を生成するために気の遠くなるような膨大な処理が行われています。
ニュ-ロネットワークよりなる脳の仕組みは恐ろしく複雑です。
視覚データ(神経パルスの束)からリンゴのイメージ(現象としてのリンゴ)を生成するための処理は人智を全て合わせても遥かに及ばないほど複雑です。
(だからこそ人間並みの認識能力を持つロボットを容易に造れないわけです。)

我々の脳(心)は常時我々の見えないところで膨大な処理を行い我々の認識、思考、意思決定を背後で支えています。

>そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは困難である】ような事象を「心」とは【呼ばない】のです。

工藤庄平さんの主張には「認識主体としての私」が完全に抜け落ちているものと思います。
『「心」とは【呼ばない】』という形で心の最も重要な中心的部分を無視することで世界(存在)を見失っているように感じます。

横山信幸さん。(>2013年10月14日 (月) 23時24分)

サールのレポートに期待しています。

異邦人さま


>工藤庄平さんの主張には「認識主体としての私」が完全に抜け落ちているものと思います。 『「心」とは【呼ばない】』という形で心の最も重要な中心的部分を無視することで世界(存在)を見失っているように感じます。


「心の最も重要な中心的部分を無視する」?? ―オカシイですね。
何度でも繰り返しますが・・・ジョン・サールの哲学的企図の一つは、心的現象/物的現象という【事物世界の在り方にそぐわない区分】―例えば、「雷はゼウスの怒りである」等々―を排して、一人称の存在論/三人称の存在論という【事物世界の在り方に即した区分】を据えることでした。既に述べたように、僕は[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]~既に確立された幾つかの手段・方法で【視認(=知覚)可能】だが、そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは困難である】ような事象を「心」とは【呼ばない】わけですが、これは心/物という旧来の―事物世界の在り方にそぐわない―区分法を廃棄したからに過ぎません。
(*「~である・でない」と【~と呼ぶ・呼ばない】の文法的差異に注意してください)
言うまでもないと思いますが、[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]~既に確立された幾つかの手段・方法で【視認(=知覚)可能】だが、そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは困難である】ような事象に対して旧来の―事物世界の在り方にそぐわない―区分法(心/物)を適用しないことは、件の事象を無視・否定することを些かも含意しておりません。
畢竟、旧来の区分法(心/物)に囚われている限り、全ては泥沼ということです。

異邦人さま


>リンゴを見て認識する場合、我々はリンゴのイメージを認識として得るわけですが、誰でもそれを当然のこととして考え特にそれ以上気にはしません。


既に示唆した通り、「リンゴのイメージを認識として得る」という【言い方】は言葉の誤用です。「イメージ」「認識」「知覚印象」といった語の文法について再考してみてください。
↓適切な図式に書き直せば、
【リンゴ知覚の図式】                
事物世界の内に存在するリンゴ(客観的個物)の表面>光>工藤庄平の身体から開
                                    >工藤庄平の身体におけるけた視野が捉えるリンゴ(客観的個物)~リンゴの知覚印象(私秘的)が生じる
物理的プロセス(視認可能だが、そのメカニズムの内実は未解明であるような事象)


>我々の脳(心)は常時我々の見えないところで膨大な処理を行い我々の認識、思考、意思決定を背後で支えています。


何度でも繰り返しますが・・・我々の認識や思考や行為etcは[現実=諸事物のネットワークの総体]において生成しています。
従って、(脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。
既述の通り、(脳を含めた)身体は異邦人さまの仰るような【自閉的な・閉じた情報処理系】ではなく、[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成する[固有名を与えられた身体から開けた生]なのですから。

異邦人さま


><リンゴ認識場面の図式(抜粋)>
(入力)視覚データ(神経パルスの束)...0.1%
(処理)高度で膨大な情報処理    ...99.8%
(出力)現象としてのリンゴ       ...0.1%
右端の%は心の内の処理量を私の感覚で数値化したものです。
もちろん定量的な数値ではありません。
我々が知りえるのは(入力)+(出力)の0.2%のみです。
(処理)の99.8%は自分自身で認識できない心の内の処理です。


「右端の%は心の内の処理量を私の感覚で数値化した」?? ―オカシイですね。
僕としては「あなたはそう感じると【仰る】わけですね」と言う他ありません。

殆ど全ての人々について、彼らは或る事象を心的なものと見倣しているが、別の事象は物的なものと見做しているように見える。それは不問の前提として飲み込まれ連綿と受け継がれてきた世界の見方―区分法である。
とはいえ、抑も或る事象が心的なもの『である』か物的なもの『である』かを峻別する【明瞭かつ真正な基準】を我々は【実際に】持っているのだろうか?
(*『~である』と「~と呼ぶ」の文法的差異に注意してください)


―否。


数世紀に渡る知識の進歩にも関わらず、心身問題は今なお現代哲学において主要な問題であり続けている。後述するように、この問題にはかなり明白で包括的な哲学的解決があると私は考えている。しかし、予め言っておかなければならないが、デカルトの問題には手近な解決があるという私の主張は【多くの(愚鈍な?)同業者―ひょっとしたら殆どの同業者―の受け入れるところではない】だろう。
―ジョン・サール『マインド』

工藤庄平さん。
;
>>工藤庄平 | 2013年10月15日 (火) 11時59分
>そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは困難である】ような事象を「心」とは【呼ばない】わけですが、これは心/物という旧来の―事物世界の在り方にそぐわない―区分法を廃棄したからに過ぎません。

心/物という区分は一般に使われている区分であり、有用な区分であると考えます。
我々が求めるべきは「心と物が如何なる関係にあるのか」を究明することであるハズです。
この有用な区分を廃棄しては心/物の本質を見失うことになってしまいます。
あるいは「心と物が如何なる関係にあるのか」を解明した上で区分を廃棄する、ということであればあり得る話かもしれませんが、工藤庄平さんのお話はそういうことでもなさそうですし。

>畢竟、旧来の区分法(心/物)に囚われている限り、全ては泥沼ということです。

私には有用な従来の区分法を廃棄することのほうが泥沼に陥る道に通じていると思います。

>>工藤庄平 | 2013年10月15日 (火) 12時17分
>既に示唆した通り、「リンゴのイメージを認識として得る」という【言い方】は言葉の誤用です。

もし仮に文法的に不十分だとしても、意図は十分に伝わるし意図が誤解される可能性は殆どない表現であると思います。
文法学者でもない私としては十分な表現であると思います。

>[固有名を与えられた身体から開けた生]・・・

「我々は我々のあずかり知らぬ因果のネットワークの中で我々の生を生きている」
上記表現で私が既に述べたことの繰り返しになりますのでこれ以上の言及は控えたいと思います。

>>工藤庄平 | 2013年10月15日 (火) 12時18分
<リンゴ認識場面の図式(抜粋)>の%表示について

「我々は自分自身の心の内容を殆ど知り得ない、知りえるのは氷山の一角に過ぎない」
という主張を強調するために%表示を用いました。
意図を明確に伝えるために有用な表現であるものと考えます。

>>工藤庄平 | 2013年10月15日 (火) 12時44分
>それは不問の前提として飲み込まれ連綿と受け継がれてきた世界の見方―区分法である。

既に述べたとおり有用な区分法であるものと考えます。

>この問題にはかなり明白で包括的な哲学的解決があると私は考えている。

私も「かなり明白で包括的な哲学的解決がある」と考えていますが、しかしサールの解決法は誤った解決法であると思います。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>心/物という区分は一般に使われている区分であり、有用な区分であると考えます。我々が求めるべきは「心と物が如何なる関係にあるのか」を究明することであるハズです。この有用な区分を廃棄しては心/物の本質を見失うことになってしまいます。


既に縷言したと思いますが・・・①通常心的と見做されている現象―痛み・悲しみ・怒り・苦悩・不安etc―は②心的と見做されている現象の【記述】―「私は左肩が痛い」「彼は怒っているように見える」「私は苦悩している」etc―とイコールではありません。③通常物的と見做されている現象―核分裂・神経発火・降雨・地震etc―と④物的と見做されている現象の【記述】―「激しい雨が降っている」「静岡で震度4の地震があった」etc―についても然り。
忌憚なく言わせて頂ければ、「私は心と物が如何なる関係にあるのかを究明するのだ!」と主張する人の多くは自らの探究?の性質―自分が①と③の認識論的(或は事物的)関係を問うているのか、それとも②と④の文法的関係、はたまた②と③・①と④の関係を問題にしているのか―について無自覚なようです。
そして、誤解は無い?と信じますが、僕は「我々は心や物という【言葉を使う】のを止めるべきだ!」とか「我々が痛みや苦悩を心的なもの【と呼ぶ】のは事物の在り方に反している!」といった酔狂な主張をしているわけではありません。


殆ど全ての人々について、彼らは或る事象を心的なものと見倣しているが、別の事象は物的なものと見做しているように見える。それは不問の前提として飲み込まれ連綿と受け継がれてきた世界の見方―区分法である。
とはいえ、抑も或る事象が心的なもの『である』か物的なもの『である』かを峻別する【明瞭かつ真正な基準】を我々は【実際に】持っているのだろうか?
(*『~である』と「~と呼ぶ」の文法的差異に注意してください)

異邦人さま


>私も「かなり明白で包括的な哲学的解決がある」と考えていますが、しかしサールの解決法は誤った解決法であると思います。


僕としては「あなたはそう【思う】のですね」と言う他ありません。
何度でも繰り返しますが・・・異邦人さまはサールの言う「存在論的に還元不可能」ということの内実を理解していらっしゃらないのだと思います。
とはいえ、


>今のところ余裕がありませんのでシューメイカーとサールに関しては保留とさせて下さい。m(__)m


(読んでもいない著作に対して)憶測で物を言うのは如何なものか、と。

異邦人さま


>私には有用な従来の区分法を廃棄することのほうが泥沼に陥る道に通じていると思います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A
中世ヨーロッパにおいては【或る人物が魔女『である』か否かを区別する有用な方法】として「水検査」なる代物が採用されていたそうです。
(*『~である』と「~と呼ぶ」の文法的差異に注意してください)


殆ど全ての人々について、彼らは或る事象を心的なものと見倣しているが、別の事象は物的なものと見做しているように見える。それは不問の前提として飲み込まれ連綿と受け継がれてきた世界の見方―区分法である。
とはいえ、抑も或る事象が心的なもの『である』か物的なもの『である』かを峻別する【明瞭かつ真正な基準】を我々は【実際に】持っているのだろうか?

工藤庄平さん。
;
そろそろ無限ループに入ってしまっているようです。
一時休戦とさせて下さい。
新しいコメントを頂ければ対応させていただきます。(^^;;;

異邦人さま


>新しいコメントを頂ければ対応させていただきます。(^^;;;


失礼ながら、全く同じ言葉をお返し致します、と言う他ありません。

異邦人さん、お早うございます。

工藤さんとのたくさんのやり取りの中で、異邦人さんの唯物論がどんなものかかなり説明してくださいましたが、僕には普通の唯物論との違いがよく分かりません。
たとえば、本ブログの「唯物論と機能主義がダメなわけ」で挙げた、1クオリア説、2メアリーの部屋、3中国語の部屋、4中国人民の唯物論批判にたいしてどう反論なさいますか。

全部にまとめて答えるのは大変でしょうから、一つを選んで答えてくださっても結構です。よろしくお願いします

横山信幸さん。(>2013年10月16日 (水) 06時54分)

>僕には普通の唯物論との違いがよく分かりません。

私の唯物論と既存の唯物論の主な相違点は下記2点です。

<相違点1>あらゆる心的現象を物理的現象に還元している。

心を物理的現象に還元しています。
クオリアや現象的意識を含むあらゆる心的現象を物理的現象に還元しています。
あらゆる心的現象を無視したり消去したりせずに全てを物理的現象に還元しています。
あらゆる心的現象を擬似問題や錯覚として片付けるようなことをせず全てを物理的現象として捉えています。

<相違点2>仮説より出発「整合的で過不足なき説明可能性」で構築

先験的実在を前提とせず「この世界は物質のみよりなる」を前提(仮説)とし「整合的で過不足なき説明可能性」により唯物論を構築しています。
自然科学も仮説ですが「整合的で過不足なき説明可能性」により理論構築を行っています。
私の唯物論もそれに倣っています。
私の唯物論は自然科学と完全な整合性があります。

「整合的で過不足なき説明可能性」により構築された理論は恣意性を許さない強さと高いリアリティがあります。
それは真実と呼ぶに相応しいものであると考えます。
こうした思いをこめて私はそれを真実と呼びます。(可能的真実)
真実と呼ぶとは言えあくまで仮説であり絶対的意味の真実ではありません。

<その他の相違点>

明確な決定論であること、明確な自由意志否定論であること、です。

>本ブログの「唯物論と機能主義がダメなわけ」で挙げた、1クオリア説、2メアリーの部屋、3中国語の部屋、4中国人民の唯物論批判にたいしてどう反論なさいますか。

別途コメントさせて頂きます。

横山信幸さん。(>2013年10月16日 (水) 06時54分)

>>本ブログの「唯物論と機能主義がダメなわけ」で挙げた、1クオリア説、2メアリーの部屋、3中国語の部屋、4中国人民の唯物論批判にたいしてどう反論なさいますか。

>「1.クオリアの存在」チャーマーズ、サール、・・・

機能主義はクオリアや現象的意識を無視している、という点は同意です。
クオリアや現象的意識が現実に存在する、という点は同意です。
クオリアや現象的意識を標準的な物理的現象に還元できない、と考えている点では間違いであると考えます。
(サールの存在論的還元不可能性は多少雰囲気が違うかもしれません。)

>「2.逆転スペクトル」チャーマーズ、・・・

人間の遺伝子は99%程度共通であり恐らく脳の構造も99%程度同じでありましょう。
ですので逆転スペクトルのような状況は現実上は起こり得ないでしょう。
それでも論理上は逆転スペクトルを考えることは出来ます。
もしある人のクオリアが逆転しているとすれば、それはその人の脳の構造が普通の人と異なっていることを意味します。
もし脳の構造が同一であればクオリアが逆転することはあり得ません。
どのようなクオリアを持つのかは脳の構造に完全に依存します。
従って逆転スペクトルを持ち出しても唯物論の批判にはなりません。

>「3.哲学ゾンビ」チャーマーズ、・・・

端的に言って「哲学ゾンビ」は存在不可能です。
人間と同様の脳構造を持てばクオリアや現象的意識は必然的に発生します。
同一の身体構造を持つ人間同士であれば、片方がクオリアや現象的意識を持ち、もう片方が持たないということはあり得ません。

>「4.現象判断のパラドクス」チャーマーズ、・・・

「(3)意識は物理的なものに論理的に付随していない。」
これが誤りです。意識は完全に物理的なものです。

>「5.メアリーの部屋」フランク・ジャクソン

メアリーが白黒の部屋から解放された場合、彼女は新しいことを学びます。
そのことは彼女がすべての物理情報を持っていなかったことを意味します。
すべての物理情報を持つためには「不可知なコギト内部」についての物理情報も持つ必要があります。それは不可能です。
彼女がすべての物理情報を持っていなかったことは明らかです。
従って唯物論の批判にはなっていません。

>「7.中国語の部屋」ジョン・サール

「中国語の部屋」は中国語を理解しています。
理解するということは質問に的確に答えられる能力を意味します。
我々の脳も質問を記憶と突合せて機械的に適正な解答を生成しています。
「中国語の部屋」と何も変わりません。
従って唯物論の批判にはなっていません。

>「8.中国人民」ネド・ブロック

もし中国人民が全体として情報処理システムを構成できているとすれば、
そこには意識が存在します。

* 但し、中国人民が全体として生存システムを構成しており *
* 情報システムがその生存システムの一翼を成していること *
* が条件です。                     *
* 生存機能と結びつかない情報処理システムでは意識を定義 *
* できませんので。                   *

単純にはそういうことですが、恐らくネド・ブロックは「意識がある」という表現で「意識があることを認識できている状態」を念頭に置いているのだろうと思います。
その場合は複雑にはなりますが「中国人民」に「意識がある」ということには変わりがありません。
従って唯物論の批判にはなっていません。

横山信幸さん。(志向性について)

人間(動物)は生存機械です。
目覚めている限り、生存のために常に環境(自分自身を含む)に注意を向けています。
それが「志向性」です。
生存機械である限り「志向性」は必然です。

異邦人さん、回答ありがとうございます。

異邦人さんの唯物論では、現象的意識が全て物理的事象として還元できるのですよね。だったら、「物理的事実ではないような現象的意識なんてものは無い」とされますか。
因みに僕の立場は、今日アップしたページに詳しく書きましたが、「物理的事実ではないような現象的意識はナンセンスだから、有るとも無いとも言えない」です。

工藤庄平さん。(「心の二重構造」に関しての確認)
;
工藤庄平さんと私の主張の違いがどの点にあるのか検討し直している所です。
下記の点に関して確認させて頂けませんか?

<確認点1>脳内で行われている処理の認識に関して

「我々は自分自身の脳内で行われている処理を殆ど知り得ない」と私は考えています。
例えば、視覚データ(神経パルスの束)からリンゴのイメージ(現象としてのリンゴ)が生成される処理を我々は自分自身で認識することが出来ない、と私は考えています。
この点に関して工藤庄平さんはご同意頂けるのでしょうか?
それともご同意頂けないのでしょうか?

<確認点2>脳内で行われている処理と「心」の関係

上記のような脳内で行われている処理を「心」とは呼ばないけれども、<確認点1>については同意できる、というのが工藤庄平さんの主張であると理解して宜しいでしょうか?
それとも違いますでしょうか?

横山信幸さん。(>2013年10月16日 (水) 23時33分)

>「物理的事実ではないような現象的意識なんてものは無い」とされますか。

そのように考えています。

>クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ<心は実在するか13>

現象的意識と機能的意識は完全に分かれます。(図1のみ正解)
現象的意識も因果的意識であり、因果的でない意識は存在しません。

ですので現象的意識と機能的意識の重なった状態を想定するのは間違いであるものと考えます。
非因果的な現象的意識を想定することも間違いであるものと考えます。
また存在論に言語論を持ち込むことも私は間違いであると考えます。
当該記事がチャーマーズの妥当な批判になり得ているとは私には思えません。

異邦人さま


>「我々は自分自身の脳内で行われている処理を殆ど知り得ない」と私は考えています。例えば、視覚データ(神経パルスの束)からリンゴのイメージ(現象としてのリンゴ)が生成される処理を我々は自分自身で認識することが出来ない、と私は考えています。


異邦人さまは「知り得ない」「自分自身で認識することが出来ない」という表現で「(例えば)人は自分が意志することを意志することは出来ない」に類することを仰りたいのでしょうか? 仮にそうだとすれば、それはナンセンス以外の何物でもないと思います。
既に縷言したと思いますが・・・工藤庄平がリンゴを見ているときに[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]は既に確立された幾つかの手段・方法で【工藤本人も第三者も視認(=知覚)可能】ですが、そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは極めて困難である】ような事象です。

異邦人さん、お早うございます。
回答ありがとうございます。

存在論に言語論を持ち込むのが間違いだとしたら、ウィトゲンシュタインの哲学はほぼ間違いになってしまいます。昨日の僕のページももちろん全部ダメです。しかし、ある程度の成果が得られる可能性は否定できないように思われるのですが、異邦人さんが否定される根拠は何かあるのでしょうか。

それから、単純な勘違いだと思いますが、図1では全ての現象的意識が機能性を持たないことになりますから、ダメですよね。

また、非機能的な現象的意識の存在を否定し現象的意識は全て物理的事実だとするのですから、異邦人さんの唯物論はかなりまっとうで一般的な唯物論に思えました。異邦人さんの言われるユニークさがどこにあるのか、どうも掴めません。

工藤庄平さん。(>2013年10月17日 (木) 04時37分)
;
お返事有り難うございます。
工藤庄平さんの用語は私には難しすぎて容易に真意を把握できずに居ります。
これが私の限界なのだと思います。

横山信幸さん。(>2013年10月17日 (木) 09時00分)

<存在論に言語論を持ち込むことに否定的である理由>
私はこの世界を客観的に記述すべきでありそれが可能であると考えています。
言語論はそれに反すると判断しているため否定的であるのです。

>それから、単純な勘違いだと思いますが、図1では全ての現象的意識が機能性を持たないことになりますから、ダメですよね。

チャーマーズは図2で考えているのかもしれませんが、私は図1が正しいと思っています。

>異邦人さんの言われるユニークさがどこにあるのか、どうも掴めません。

私の唯物論も唯物論である以上既存の唯物論と大きく重なる部分があります。
特に大きく違う点は下記2点であると考えています。
(相違点1)心の物理的イメージを明確に示している。
(相違点2)心的現象の物理的現象への還元法を明確に示している。

<私の主張について>

このブログで私の様々な主張を述べさせて頂いていますが、それはあくまで私の主張であり、皆さんにそれを押し付けるつもりは毛頭ありません。
色々な方の意見を伺い自分の参考にするために議論に参加させて頂いております。
私の主張を気にすることなく、皆さんは皆さんご自身の主張を貫かれるのがベストであろうかと愚考致します。

異邦人さん

> チャーマーズは図2で考えているのかもしれませんが、私は図1が正しいと思っています。

図1では、現象的意識が完全に機能を持たないことになってしまいますから、ダメなんじゃないですか。異邦人さんの言われるように現象的意識がかならず物理的事実であるのなら、現象的意識は全て機能を持たないといけないことになりますから、逆に、機能性意識に重なって内含されないとダメだと思いますが。

図2ももちろんダメです。
図3の「反省的意識」が異邦人さんの言われる「現象的意識」に当たると考えると、意識が完全に物理的事実であると言えることになって、整合していると思います。

違いますか。僕の図の描き方が分かりにくくて、混乱させてしまいましたね。

横山信幸さん。(>2013年10月17日 (木) 13時03分)

現象的意識は内観の内でその正体が認識不可能な意識です。
機能的意識は内観の内でその正体が認識可能な意識です。
二つは明確に異なりますので重なることはあり得ません。
正解は図1のみです。

<現象的意識とは何か>

不可知のコギトの中で起きている現象であり、内観からは認識不可能な現象です。
気配は常にあるため内観から見てその存在は明らかです。

認識不可能であるがその存在は明らかであるもの、それが現象的意識です。

機能的意識は内観の内でその正体が認識可能な現象です。

横山信幸さん。(現象的意識と機能的意識に関する補足)

リンゴを認識している場面で現象的意識と機能的意識を具体的に示してみます。
我々が認識しているリンゴのイメージ、リンゴの色等が機能的意識です。
我々の内観に明確にその内容が捉えられるのが機能的意識です。
それに対し、現象的意識は不可知のコギト内で起こっている現象であり認識することは不可能です。
しかし不可知のコギトからは随時機能的意識の元になるイメージが届けられるためその背後にあるものの気配を内観は常に感じています。
この認識できないが気配があるので存在は明らかであるものが現象的意識です。

仮に今回は特別にコギトの内を観察できたものとしてみましょう。
恐らくそこに見えるのはリンゴのイメージとは似ても似つかない、神経パルス群が走り回っている姿でありましょう。
現象的意識の正体は「神経パルス群が走り回っている姿」でありましょう。
この「神経パルス群が走り回っている姿」が内観に届けられた時点でリンゴのイメージとなり機能的意識となるのでありましょう。

異邦人さん、こんばんは。

機能的意識の意味について、用語の混乱があったように思います。

僕のレポートでは、機能的意識を因果性や機能性を有する意識と位置付けていました。何らかの意識が物理的事実であるならば、それは他の物理的事実と相互に作用し合うゆえに必ず某かの機能を持つことになります。そのため、物理的事実であるような意識は必然的に上の定義の意味での機能的意識でなければなりません。

異邦人さんは僕のレポートの「機能的意識」を違う意味に捉えて読まれていたので、現象的意識が物理的事実でありながら機能的意識ではないと仰っていたのではないですか。

しかし、図123は僕のレポートの僕の用語の意味使いの中での表現ですから、異なる用語の使い方で図1が正しいとか図2が間違っているなどと言うのは意味がないと思います。

論が噛み合わない原因がそのあたりだと考えたのですが、どうでしょう。

横山信幸さん。(>2013年10月17日 (木) 19時26分)

仰るとおり用語法がお互いに異なっているのかもしれませんね。
私は現象的意識と機能的意識を内観に於いて認識可能か否か、という観点で区分しています。
因果性や機能性を基に区分する事は考えていません。
この辺りはお互いの捉え方の相違ということになるのかもしれません。
横山信幸さんは横山信幸さんの捉え方で進まれれば宜しいかと思います。

異邦人さん、こんばんは。

では、異邦人さんは、僕が「現象的意識」と呼ぶ、内観において質感を体験する意識の存在は認められますか。認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか。
また、僕が「機能的意識」と呼ぶ、物理的事実と因果的に機能的に関係する意識の存在を認められますか。認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか。

横山信幸さん。(>2013年10月18日 (金) 18時10分)

私はもとより現象的意識と機能的意識の存在を認めています。
現象的意識と機能的意識は何れも物理的事実と因果的に機能的に関係する意識である、と考えています。

再度、リンゴを認識している場面で考えます。
リンゴの形、大きさ、色・・・等の我々が明確に認識できているのが機能的意識です。
それに対し、リンゴの形の感じ、大きさの感じ、赤さの感じ・・・等の質感が現象的意識です。
機能的意識が明確なイメージを持つのに対し、現象的意識は機能的意識の周りにふわふわ漂っているような不確かな何かです。
現象的意識は必ず機能的意識に付随して現れます。
現象的意識と機能的意識はどちらか一方のみが現れることはありません。
必ず両方一緒に現れます。

カメラでそのリンゴを写したとしましょう。
そのカメラに写っているのが機能的意識に相当します。
それに対し、現象的意識に相当するものはカメラには全く写っていません。
そのことから解るとおり現象的意識と機能的意識は全く別物です。
決して重なることはありません。

機能的意識は内観で明確に認識されるイメージです。
現象的意識は気配は感じるが内観で認識不可能な何かです。

現象的意識と機能的意識は何れも純粋な物理的現象です。

異邦人さん、回答ありがとうございます。

でも、重ねて回答をいただいている割には僕の理解ははかどりません。次の僕の推論のどこが間違っているのでしょうか。

1.物理的事象とは、他の物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である。
2.僕の質問「僕が「機能的意識」と呼ぶ、物理的事実と因果的に機能的に関係する意識の存在を認められますか。認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか」に対する回答なのだから、以下の異邦人さんの言う「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」であるはずだ。
3.「現象的意識と機能的意識は決して重なることはありません」ということだから、現象的意識であり、かつ、機能的意識であるような意識は無いはずだ。
4.「現象的意識と機能的意識は何れも純粋な物理的現象です」
5.ゆえに、現象的意識は、物理的事実と因果的機能的に関係する意識ではなく、他の物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である。
6.したがって、異邦人さんの唯物論は矛盾を孕む。

いかがでしょう。僕としては、(1)僕と異邦人さんの「物理的事象」の捉え方が違うのか、それとも、(2)さっきの回答が、異邦人さんの考えている「機能的意識」の説明であって、僕の「機能的意識」がどう位置づくかという質問の回答ではなかったのか、それとも、(3)異邦人さんの「AとBが重ならない」という言葉が「∀x(Ax⊃¬Bx)」(すべてのAはBでない)を差していないのか、それとも本当に、(4)異邦人さんの唯物論が矛盾を孕んでいるのか、のいずれかではないかと考えています。

横山信幸さん。(>2013年10月18日 (金) 22時01分)

どの点にお互いの理解の齟齬の原因があるのかまだ把握できていません。
「物理的事実と因果的機能的に関係する」という用語の用法の違いなのかという気もしますがハッキリしません。

> 5.ゆえに、現象的意識は、物理的事実と因果的機能的に関係する意識ではなく、他の物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である。

何故、この命題が導かれたのか理解できていません。
「他の物理的事実」という語で何をお考えであるのかも理解できていません。

再度リンゴを認識している場面で私の考えを述べてみます。
◆実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ

「イメージ生成処理」は内観で認識できない脳(心)内部の働きです。
純粋な物理的現象です。現象的意識の対象です。
「現象のリンゴ」は内観の内に明確に現れる認識です。
この認識が機能的意識です。

現象的意識は内観から見えない場所で起こる現象を対象として生じる意識です。
機能的意識は内観に明確に現れる意識です。
どちらも物理的現象です。重なることの無い別々の意識です。
私はどちらも「物理的事実と因果的機能的に関係する」意識であると考えています。

異邦人さん、こんばんは。

「他の物理的事実」は「現実世界の物理的事実」という意味合いで使ったのですが、無くても意味は通りますし、混乱の元になるかもしれませんから、「他の」を省きます。それから、推論5を、3の文に他の文を代入しただけの形に言い換えました。
やや、理屈っぽい文になりましたが、誤解されにくい形になったと思います。これで、考えてもらえますか。


1.物理的事象とは、物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である。
2.僕の質問に対する回答なのだから、以下の異邦人さんの言う「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」であるはずだ。
3.「現象的意識と機能的意識は決して重なることはありません」ということだから、現象的意識であり、かつ、機能的意識であるような意識は無いはずだ。
4.「現象的意識と機能的意識は何れも純粋な物理的現象です」
5.ゆえに、純粋に、物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である意識であり、かつ、物理的事実と因果的機能的に関係する意識であるような意識は、無い。
> 6.したがって、異邦人さんの唯物論は矛盾を孕む。


よろしくお願いします。

横山信幸さん。(>2013年10月18日 (金) 23時55分)

質問に対する直接の返答ではありませんが、お互いのすれ違いの原因が見えてきたような気がします。
下記がすれ違いの原因だと思うのですが如何でしょうか?

◆実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ

リンゴに関する機能的意識は「実在のリンゴ」を対象として生じます。
リンゴに関する現象的意識は「イメージ生成処理」を対象として生じます。

私は「実在のリンゴ」と「イメージ生成処理」を何れも「物理的事実」と捉えている。
横山信幸さんは「実在のリンゴ」のみを「物理的事実」と捉えている。

こう理解するとお互いのすれ違いの原因を説明できるような気がしますが、如何でしょうか?

>私は「実在のリンゴ」と「イメージ生成処理」を何れも「物理的事実」と捉えている。
横山信幸さんは「実在のリンゴ」のみを「物理的事実」と捉えている。
こう理解するとお互いのすれ違いの原因を説明できるような気がしますが、如何でしょうか?


横槍を入れるようで恐縮ですが、全然違うと思いますよ。

異邦人さま


>工藤庄平さんの用語は私には難しすぎて容易に真意を把握できずに居ります。
これが私の限界なのだと思います。


「工藤庄平さんの用語」?? ―オカシイですね。僕は「語の日常的な用法」を逸脱しないように配慮したつもりでしたが。では伺いますが、↓以下の拙文

工藤庄平がリンゴを見ているときに[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]は既に確立された幾つかの手段・方法で【工藤本人も第三者も視認(=知覚)可能】ですが、そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは極めて困難である】ような事象です。

における「工藤庄平特有の用語」とは何でしょうか?
お言葉を返すようですが、僕には↓「イメージ」「内観」「認識」「気配」といった語


>リンゴを見て認識する場合、我々はリンゴのイメージを認識として得るわけですが、誰でもそれを当然のこととして考え特にそれ以上気にはしません。
>「イメージ生成処理」は内観で認識できない脳(心)内部の働きです。純粋な物理的現象です。現象的意識の対象です。
「現象のリンゴ」は内観の内に明確に現れる認識です。この認識が機能的意識です。
>しかし不可知のコギトからは随時機能的意識の元になるイメージが届けられるためその背後にあるものの気配を内観は常に感じています。この認識できないが気配があるので存在は明らかであるものが現象的意識です。


の異邦人さま独特の使用法が①言葉の誤用と②人間の知覚等に関する事実誤認に由来しているとしか思えないのです。

異邦人さま


>しかし不可知のコギトからは随時機能的意識の元になるイメージが届けられるためその背後にあるものの気配を内観は常に感じています。この認識できないが気配があるので存在は明らかであるものが現象的意識です。


率直に申し上げますと、僕は異邦人さまの仰る「気配」なるものを感じたことは唯の一度もありませんし、おそらくこの先もそうでしょう。

①[工藤庄平なる身体において生起する神経発火]~視認可能だが、視認されることとは独立・無関係に存在する事象

②[工藤庄平なる身体において生起する痛み]~視認不可能な感覚それ自体である事象
の認識論的差異・区別に関するヒントを幾つか例示してみましょうか。


【今現に】僕は[左肩の痛み]を感じているのですが・・・僕は【今現に】生じているであろう[工藤庄平の身体における神経発火]を「左肩の痛み」とは【呼ばない】し、[工藤庄平の身体における神経発火]を左肩の痛み『である』とは見做さないのです。
(*「~と呼ぶ・呼ばない」と『~である・ではない』の文法的差異に注意してください)


もうお解り?だと思いますが、上の例と同様に、僕は[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]~既に確立された幾つかの手段・方法で【工藤本人も第三者も視認(=知覚)可能】だが、そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは極めて困難である】ような事象を「心」とは【呼ばない】し、[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]を心『である』とは見做さないのです。

【リンゴ知覚の図式】                
事物世界の内に存在するリンゴ(客観的個物)の表面>光>②工藤庄平の身体から
                                    >①工藤庄平の身体におけ
開けた視野が捉えるリンゴ(客観的個物)~リンゴの知覚印象(私秘的)が生じる
る物理的プロセス(工藤本人も第三者も視認可能だが、そのメカニズムの内実は未解明であるような事象)


僕は②を「リンゴを知覚する」と【呼ぶ】のです。

異邦人さん、

「物理的」という語の捉え方が違うかもしれないのですね。
僕は「物理的事実」とは、原理的には観察実験によって検証可能な対象であることが必要条件だと考えていますが、異邦人さんは違うと理解してもいいのでしょうか。

工藤庄平さん。
;
>>工藤庄平 | 2013年10月19日 (土) 03時14分
>[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]は既に確立された幾つかの手段・方法で【工藤本人も第三者も視認(=知覚)可能】ですが、

脳科学等の方法によって認識可能な部分もある(微々たるものですが)、という事でしょうね。(A)

>そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは極めて困難である】ような事象です。

例えば「イメージ生成処理」のように殆ど解明不可能な事象もある、ということでしょうね。(B)
この(A)+(B)は私のリンゴ認識図式と特に違いがあるようには思えません。何か違いがあるのでしょうか?

>の異邦人さま独特の使用法が①言葉の誤用と②人間の知覚等に関する事実誤認に由来しているとしか思えないのです。

文法上正確でない部分はあるかも知れませんが意図が誤解されるほどのことであるとは思われません。
事実誤認は無いつもりです。

>>工藤庄平 | 2013年10月19日 (土) 03時24分
> 率直に申し上げますと、僕は異邦人さまの仰る「気配」なるものを感じたことは唯の一度もありませんし、おそらくこの先もそうでしょう。

「気配」は無意識に感じるものであり顕在意識になることはありません。
コギトから内観へは常時情報が流れていますので、我々の脳(心)がその「気配」を感じないことはあり得ません。
例えば山肌から湧き水が湧き出している場合、誰でも背後にある水脈の気配を感じるハズです。

>>工藤庄平 | 2013年10月19日 (土) 03時49分
> 【今現に】僕は[左肩の痛み]を感じているのですが・・・
>僕は【今現に】生じているであろう[工藤庄平の身体における神経発火]を「左肩の痛み」とは【呼ばない】し、

わたしもそれをそう呼びません。同意です。(C)

>[工藤庄平の身体における神経発火]を左肩の痛み『である』とは見做さないのです。

わたしもそれをそう見做しません。同意です。(D)

>もうお解り?だと思いますが、

残念ながら何がどう問題だと仰っているのか把握できません。

>上の例と同様に、僕は[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]~既に確立された幾つかの手段・方法で【工藤本人も第三者も視認(=知覚)可能】だが、

脳科学等の方法によって認識可能な部分もある(微々たるものですが)、という事でしょうね。(A)

>そのメカニズムの内実を【解明(=認識)し尽くすことは極めて困難である】ような事象を「心」とは【呼ばない】し、

例えば「イメージ生成処理」のように殆ど解明不可能な事象もある、ということでしょうね。(B)
「そのような事象を「心」とは【呼ばない】」けれども脳内においてそのような事象が存在することはお認めになるわけですね?

>[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]を心『である』とは見做さないのです。

「それを心『である』とは見做さない」けれども脳内でそのような物理的プロセスが生起していることはお認めになるわけですね?

>>工藤庄平 | 2013年10月19日 (土) 04時04分
(以下一部語順を並び替えさせて頂きました。不都合があればご指摘ください)
>【リンゴ知覚の図式】                
> 事物世界の内に存在するリンゴ(客観的個物)の表面>光>
>②工藤庄平の身体から開けた視野が捉えるリンゴ(客観的個物)~リンゴの知覚印象(私秘的)が生じる

「実在のリンゴ」を対象として「現象のリンゴ」が生じる、という事でしょうね。(E)

>①工藤庄平の身体における物理的プロセス(工藤本人も第三者も視認可能だが、そのメカニズムの内実は未解明であるような事象)

例えば「イメージ生成処理」のように殆ど解明不可能な事象もある、ということでしょうね。(B)

>僕は②を「リンゴを知覚する」と【呼ぶ】のです。

私も「現象としてのリンゴ」(私秘的)が知覚になる、と考えていますので同意です。

工藤庄平さんと私の主張の相違がどのような点にあるのか把握できません。m(__)m

横山信幸さん。(>2013年10月19日 (土) 10時04分)

> 僕は「物理的事実」とは、原理的には観察実験によって検証可能な対象であることが必要条件だと考えていますが、

私も同様に考えています。違いはありません。
「イメージ生成処理」も「現象的意識」も「原理的には」観察実験によって検証可能な対象です。
しかし「原理的には」可能でも「現実上」不可能な対象はいくらでもあります。
「イメージ生成処理」も「現象的意識」も「現実上」は観察実験によって検証不可能な対象です。

異邦人さま


>工藤庄平さんと私の主張の相違がどのような点にあるのか把握できません。


↓横山さんも指摘しておられた

>僕のレポートでは、機能的意識を因果性や機能性を有する意識と位置付けていました。何らかの意識が物理的事実であるならば、それは他の物理的事実と相互に作用し合うゆえに必ず某かの機能を持つことになります。そのため、物理的事実であるような意識は必然的に上の定義の意味での機能的意識でなければなりません。
異邦人さんは僕のレポートの「機能的意識」を違う意味に捉えて読まれていたので、現象的意識が物理的事実でありながら機能的意識ではないと仰っていたのではないですか。しかし、図123は僕のレポートの僕の用語の意味使いの中での表現ですから、異なる用語の使い方で図1が正しいとか図2が間違っているなどと言うのは意味がないと思います。論が噛み合わない原因がそのあたりだと考えたのですが、どうでしょう。

と思いますが、異邦人さまは他人の論述を文脈に即した形で理解しようと努めるのではなく、それを逐一ご自分の特異な用語法に【改訳】した上で見当外れな解釈を与えているように見えます。一言で言えば、「他人の見解を理解した上で批判する」というより「ご自分の思想を反芻することに終始している」ように思われます。
そして、老婆心ながら、↓以下の如きお考え

>仰るとおり用語法がお互いに異なっているのかもしれませんね。私は現象的意識と機能的意識を内観に於いて認識可能か否か、という観点で区分しています。因果性や機能性を基に区分する事は考えていません。この辺りはお互いの捉え方の相違ということになるのかもしれません。
横山信幸さんは横山信幸さんの捉え方で進まれれば宜しいかと思います。

では発展的な議論など望むべくもない―と考えるのは僕だけ?でしょうか。

異邦人さま


>脳科学等の方法によって認識可能な部分もある(微々たるものですが)、という事でしょうね。(A)


僕は【視認(=知覚)可能】と書いたわけですが・・・お気付きになられたかどうか分かりませんが、僕は【視認(=知覚)可能】と【解明(=認識)可能】を区別して使っています。その理由は、「認識」という公共語に対して異邦人さまがご自身独特の・互いに相容れない(=相互に還元不可能な)複数の用法を与えつつ、それらを全く無頓着にごたまぜにしていることを異邦人さまに気付いて頂きたかったからなのですが・・・


>例えば「イメージ生成処理」のように殆ど解明不可能な事象もある、ということでしょうね。


既に縷言したと思いますが・・・我々はリンゴ(事物世界に内属する客観的個物)を「見ている」「知覚している」のであって、リンゴの知覚印象(各人にとって私秘的なもの)を「見ている」「知覚している」のではありません。知覚印象と想像表象は別物です。


>(B)この(A)+(B)は私のリンゴ認識図式と特に違いがあるようには思えません。何か違いがあるのでしょうか?


既述の通り、異邦人さまは他人の論述を文脈に即した形で理解しようと努めるのではなく、それを逐一ご自分の特異な用語法に【改訳】した上で見当外れな解釈を与えているように見えます。一言で言えば、「他人の見解を理解した上で批判する」というより「ご自分の思想を反芻することに終始している」ということですね。

異邦人さま


>「そのような事象を「心」とは【呼ばない】」けれども脳内においてそのような事象が存在することはお認めになるわけですね?


当然でしょう。
とはいえ、こういうご質問が出てくること自体、異邦人さまが僕の見解を捉え損ねている―例えば、「~と呼ぶ・呼ばない」と『~である・ではない』の文法的差異然り―ことを示しているのではないでしょうか。

異邦人さま


>私も「現象としてのリンゴ」(私秘的)が知覚になる、と考えていますので同意です。


既に示唆した通り、我々はリンゴ(事物世界に内属する客観的個物)を「見ている」「知覚している」のであって、リンゴの知覚印象(各人にとって私秘的なもの)を「見ている」「知覚している」のではありません。リンゴ(客観的個物)、リンゴの知覚印象、リンゴの想像表象を混同しないでください。

工藤庄平さん。(>2013年10月19日 (土) 13時19分)
;
私は互いの主張の相違がどのような点にあるのか把握に努めているつもりですが、中々十分とは参りません。
お互いの背景が異なりますから一朝一夕には成し遂げられないことであるのでしょう。
そうであるとは言えこうして議論を続けることは大いに有意義なことであると思います。
少なくとも私はこちらで議論に参加させて頂くことで自分の思索を深める上で大変参考になっています。
お互いはお互いの主張を参考にしながらそれぞれ自分自身の道を進むのがベストであろうと思います。

異邦人さま


>お互いはお互いの主張を参考にしながらそれぞれ自分自身の道を進むのがベストであろうと思います。


忌憚なく言わせて頂ければ、異邦人さまのご主張は僕の参考にはならないのです。

>横山信幸さんは横山信幸さんの捉え方で進まれれば宜しいかと思います。
>お互いはお互いの主張を参考にしながらそれぞれ自分自身の道を進むのがベストであろうと思います。


このようなお考えに立脚している限り、発展的な議論など望むべくもない―と考えるのは僕だけ?でしょうか。

工藤さん、

>異邦人さま 忌憚なく言わせて頂ければ、異邦人さまのご主張は僕の参考にはならないのです。

言い過ぎではないでしょうか。蔑みの発言に見えないような言い方を心がけてほしいと思います。

横山さん


>言い過ぎではないでしょうか。蔑みの発言に見えないような言い方を心がけてほしいと思います。


そうかもしれませんが・・・思惟することは生中な事ではないのです。
それだけは理解して頂きたいと思います。

異邦人さま


>「気配」は無意識に感じるものであり顕在意識になることはありません。
コギトから内観へは常時情報が流れていますので、我々の脳(心)がその「気配」を感じないことはあり得ません。例えば山肌から湧き水が湧き出している場合、誰でも背後にある水脈の気配を感じるハズです。


率直に申し上げて、異邦人さまの仰る「気配」と湧水の気配とのアナロジーは成立しないと思います。水の湧出や殺気を「感じる」というのは理解出来ますが、コギト云々は異邦人さまのご想像としか思えませんし、僕は件の「気配」なるものを感じたことは唯の一度も無いのです。

異邦人さん、質問を続けさせてください。


> > 僕は「物理的事実」とは、原理的には観察実験によって検証可能な対象であることが必要条件だと考えていますが、
> ;
> 私も同様に考えています。違いはありません。

それなら、物理的事実はかならず因果性機能性を有するはずですよね。これは認められますか。

これが認められるなら、「物理的事実」の解釈が異邦人さんと僕とで多少異なっていても、「異邦人さんの唯物論の矛盾を導出する推論」はそのままの展開ができてしまって、異邦人さんの唯物論の矛盾が結論づけられてしまいます。どこが間違っているか、ほかに思いつくことはありませんか。

工藤庄平さん。
;
>>工藤庄平 | 2013年10月19日 (土) 13時48分
>僕は【視認(=知覚)可能】と書いたわけですが・・・お気付きになられたかどうか分かりませんが、僕は【視認(=知覚)可能】と【解明(=認識)可能】を区別して使っています。

【視認(=知覚)可能】と【解明(=認識)可能】をどのように使い分けていらっしゃるのでしょうか?
その使い分けがここで議論している内容とどのように関わっているのでしょうか?

>既に縷言したと思いますが・・・我々はリンゴ(事物世界に内属する客観的個物)を「見ている」「知覚している」のであって、リンゴの知覚印象(各人にとって私秘的なもの)を「見ている」「知覚している」のではありません。知覚印象と想像表象は別物です。

「私も「現象としてのリンゴ」(私秘的)が知覚になる・・・」
私は上記のように述べました。
「リンゴの知覚印象を「見ている」「知覚している」」とは述べていないハズですが?

>>工藤庄平 | 2013年10月19日 (土) 14時03分
>既に示唆した通り、我々はリンゴ(事物世界に内属する客観的個物)を「見ている」「知覚している」のであって、リンゴの知覚印象(各人にとって私秘的なもの)を「見ている」「知覚している」のではありません。

「私も「現象としてのリンゴ」(私秘的)が知覚になる・・・」
私は上記のように述べました。
「リンゴの知覚印象を「見ている」「知覚している」」とは述べていないハズですが?

>>工藤庄平 | 2013年10月19日 (土) 14時54分
>僕は件の「気配」なるものを感じたことは唯の一度も無いのです。

そのことを否定していません。
「顕在意識になることはありません」と述べたとおりであり、感じたことは無いハズです。

横山信幸さん。(>2013年10月19日 (土) 15時51分)

横山信幸さんはある意識が「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である」ならば、それは機能的意識であるハズだ、という前提でお考えになっているように感じました。
もしそうだとしますとその前提が誤っている、と私は考えます。
その前提を外せば私の唯物論が矛盾することは無いものと思います。

私は現象的意識も機能的意識も何れも「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である」と考えています。
現象的意識と機能的意識は認識対象が異なりますので重なることはありません。
(例:「イメージ生成処理」対「実在のリンゴ」)

現象的意識は(原理上は)「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である」のですが、(現実上は)「物理的事実と因果的機能的に関係し得ない事象である」と見做す事が出来ます。
(原理上で)現象的意識が問題になることはありません。
現象的意識が問題となるのは(現実上の)場合のみですので、通常「物理的事実と因果的機能的に関係し得ない事象である」と見做してかまいません。
それであれば、横山信幸さんの論理でも矛盾が生じることはありません。
「クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ<心は実在するか13>」の記事は全て(現実上で)展開されている論理であると思いますので、それで問題は生じません。

異邦人さん

>横山信幸さんはある意識が「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である」ならば、それは機能的意識であるハズだ、という前提でお考えになっているように感じました。もしそうだとしますとその前提が誤っている、と私は考えます。その前提を外せば私の唯物論が矛盾することは無いものと思います。

ということから下の推論をもう一度見直します。

1.物理的事象とは、物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である。
2.僕の質問「僕が「機能的意識」と呼ぶ、物理的事実と因果的に機能的に関係する意識の存在を認められますか。認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか」に対する回答なのだから、以下の異邦人さんの言う「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」であるはずだ。
3.「現象的意識と機能的意識は決して重なることはありません」ということだから、現象的意識であり、かつ、機能的意識であるような意識は無いはずだ。
4.「現象的意識と機能的意識は何れも純粋な物理的現象です」
5.ゆえに、純粋に、物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である意識であり、かつ、物理的事実と因果的機能的に関係する意識であるような意識は、無い。
6.したがって、異邦人さんの唯物論は矛盾を孕む。

の推論のうちの2が、間違いということですね。つまり、
僕の質問「僕が「機能的意識」と呼ぶ、物理的事実と因果的に機能的に関係する意識の存在を認められますか。認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか」に対する回答であったのに、以下の異邦人さんの言う「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」ではなかった。
ということになってしまいます。

ですから、もう一度、質問の時点に戻る必要が出てきてしまいますね。

質問 僕が「機能的意識」と呼ぶ、「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」の存在を認められますか。認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか。
別に呼び名は「機能的意識」でも何でもいいのですが、「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」は現象的意識を含み、重なると考えていいですか。

横山信幸さん。(>2013年10月19日 (土) 20時46分)

>質問 僕が「機能的意識」と呼ぶ、「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」の存在を認められますか。

先ず私は度々述べたように、「機能的意識」と「現象的意識」の存在を認めています。
同様に「機能的意識」と「現象的意識」が何れも「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である」ことも認めています。
このことから当然上記質問の答えはYESとなります。
また、「機能的意識」が例えば「実在のリンゴ」を対象として生じ、「現象的意識」が例えば「イメージ生成処理」を対象として生じることも述べてきました。
それ故「機能的意識」と「現象的意識」は対象が異なり重なることは無い、ことも述べてきました。

このような私の主張から何故下記のような命題が導かれるのか理解できません。
> 5.ゆえに、純粋に、物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である意識であり、かつ、物理的事実と因果的機能的に関係する意識であるような意識は、無い。

異邦人さん、おはようございます。

>のような私の主張から何故下記のような命題が導かれるのか理解できません。

そりゃそーです。推論5は推論1~4を受けての結論ですが、推論2において
「2.僕の質問「僕が「機能的意識」と呼ぶ、物理的事実と因果的に機能的に関係する意識の存在を認められますか。認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか」に対する回答なのだから、以下の異邦人さんの言う「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」であるはずだ。」
と謳っているのですから、異邦人さんの「機能的意識」と言われる物のことは扱っていないからです。

すでに、
「僕の質問「僕が「機能的意識」と呼ぶ、物理的事実と因果的に機能的に関係する意識の存在を認められますか。認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか」に対する回答であったのに、以下の異邦人さんの言う「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」ではなかった。」
ということは明らかになったと思います。

そこで質問は、
質問 僕が「機能的意識」と呼ぶ、「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」の存在を認められるとすれば異邦人さんの唯物論の中でどのように位置付きますか。
別に呼び名は「機能的意識」でも何でもいいのですが、「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」は現象的意識を含み、重なると考えていいですか。

が残っていますので、回答よろしくお願いします。

横山信幸さん。(>2013年10月20日 (日) 06時01分)

どうも失礼しました。
初めて横山信幸さんの仰る意味が解りました。(^^;;;
横山信幸さんの定義する「機能的意識」(は私の定義するそれとは異なるけれども)の存在を認めるか否か、というご質問であるわけですね?
それでしたら答えは明確に「NO」です。
「現象的意識」と重なるような「機能的意識」の存在は認められません。

異邦人さん

大変申し訳ありません。

>それ故「機能的意識」と「現象的意識」は対象が異なり重なることは無い、ことも述べてきました。

のコメント文を読み漏らしておりました。きちんと回答してくださっていたのに失礼しました。
しかし、「機能的意識」の語が異邦人さんの用語の「機能的意識」になっているために上の推論から論をずらされているので、推論5がおかしいと感じられるのだと思います。

推論5は、推論1~4の単純な項の代入のみによって導出されたものですから、推論5が間違いだというのであれば、推論1~4のどこかに間違いがあるはずです。
僕にはそのうちの推論2が間違いだということはもはや明らかに思えています。「異邦人さんの言う「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」であるはずだ」は、「機能的意識であること」と「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識であること」は完全に同値で互いに必要十分条件になっていることを意味していますが。異邦人さんは、「機能的意識であること」を「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識であること」の十分条件だとしかとらえてらっしゃらないからです。そうでなければ、

>「機能的意識」と「現象的意識」は対象が異なり重なることは無い

と言うことはありえないので、間違いないのではないかと考えています

異邦人さん、重ねてすみません。

コメントが入れ違えになって、不要なコメントを入れてしましました、無視してください。

異邦人さん、

ご依頼のコメント削除は帰宅しないとできないので、夜まで待ってください。
質問を続けさせてもらいます。

異邦人さんと僕の用語の違いは「重なる」にもあると思います。

> 「現象的意識」と重なるような「機能的意識」の存在は認められません。

とのことでしたが、僕の「重なる」のりかいでは重なることが必然だからです。以下に示します。

前提1.「機能的意識」と「現象的意識」が何れも「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象である。
前提2.僕の定義・「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」である

3.ゆえに、「現象的意識」は「機能的意識」に含まれる。「現象的意識であること」は「機能的意識であること」の必要条件である。

従って

> 「現象的意識」と重なるような「機能的意識」の存在は認められません。

には成り得ない。
というのが僕の「重なる」の理解です。
異邦人さんの「Aと重なるBがある」とは「AがBの必要条件、または十分条件だ」という意味以外のものに捉えられているのじゃないですか。

横山信幸さん。(>2013年10月20日 (日) 13時25分)

私の唯物論では「機能的意識」と「現象的意識」は何れも「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象」です。
ですので「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象」である意識には「機能的意識」と「現象的意識」の両方があります。
「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象」であるというだけでは「機能的意識」であるのか「現象的意識」であるのか判別できません。
「機能的意識」は「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象」ですが逆は真とは限りません。
「物理的事実と因果的機能的に関係し得る事象」である意識は「機能的意識」である場合もあれば「現象的意識」である場合もあります。
「機能的意識」と「現象的意識」を分けるのは対象の違いにあります。
「機能的意識」と「現象的意識」は対象が違いますので重なることはありません。

従って、前提1と前提2から結論3は導けません。

> 異邦人さんの「Aと重なるBがある」とは「AがBの必要条件、または十分条件だ」という意味以外のものに捉えられているのじゃないですか。

横山信幸さんと同じ意味で使用しているつもりです。

異邦人さん、

異邦人さんの仰っていることは、下の内容の提案に見えました。つまり、

僕の定義・「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係する意識」である

にご自分の「機能的意識」の意味を近づけようと努力されてはいるが

異邦人さんの妥協点・「機能的意識」とは「物理的事実と因果的に機能的に関係し」、かつ、現象的意識ではない、意識である

という意味でしか捉えられないので、機能的意識の意味をそのように再定義することにしましょう

という提案をされたように解釈しました。それでいいのでしょうか。

異邦人さん、

「クオリアとゾンビ」のページ本文の定義によって、現象的意識が物理的事実と因果的機能的に関係するのであれば、現象的意識は機能的意識でもあることになります。だから、図1は間違いになります。

また、機能的意識の意味を「物理的事実と因果的機能的に関係し、かつ,現象的意識ではない意識」とするなら、現象的意識と機能的意識はかさなりません。しかし、図1の機能的意識とは意味が違ってしまうので、図1が正しいということに意味がなくなってしまいます。

何れにせよ図1が正しいことは言えません。

よろしいでしょうか。

横山信幸さん。

>>横山信幸 | 2013年10月20日 (日) 17時16分
>という意味でしか捉えられないので、機能的意識の意味をそのように再定義することにしましょう
という提案をされたように解釈しました。それでいいのでしょうか。

いえ、そういうことではありません。
結局の所、横山信幸さんと私の考える用語(機能的意識と現象的意識)の定義が異なっているためにすれ違いが起こっていると思います。
前回のコメントでは、横山信幸さんと私の考える用語の定義が異なっていることを説明しようとしました。
横山信幸さんの用語の定義では機能的意識と現象的意識が重なることがありますが、私の用語の定義では重なることはありません。

>>横山信幸 | 2013年10月20日 (日) 17時38分
>何れにせよ図1が正しいことは言えません。

上で述べましたとおり、横山信幸さんの用語の定義では図1は誤りとなり、私の用語の定義では図1のみが正しいことになります。
このように議論のすれ違いはお互いの用語定義が異なっていることから引き起こされています。

<チャーマーズの自然主義的二元論>

チャーマーズは図2で考えているはずだ、というように横山信幸さんは捉えているようですが、私は違うと思います。
チャーマーズは(私と同様)図1で考えており図1以外の図は考えていないと思います。
チャーマーズは図1で考えた上で現象的意識を新しい自然法則として既存の自然法則に加えることでこの世界の全てを自然主義的に説明可能にすることを目指しているのだと思います。
それがチャーマーズの提唱する自然主義的二元論の意味である、と私は理解しています。
ですので横山信幸さんの機能的意識と現象的意識の重なりを想定してのチャーマーズ批判は的を外しているものと思います。

異邦人さん、

ふつう、図1か2か3かのどれが正しくてどれが間違っているかの話をするときは、図の意味解釈の仕方を共有したうえで行います。そうでないと議論の意味がありません。その意味解釈を変えて図1が正しいと主張されることの意味が分かりません。

ふつうは図の提案者が提出した図の意味解釈にそって、どんな図が良いかという議論をすることになります。意味解釈によってもちろん図の意味は変わります。ある人が提案者の提示した図と違う図こそが正しいのだと主張するのと、同時に、図の意味解釈を提案者のものから変えることを主張するというのは非生産的だと思いませんか。異邦人さんはこの両方をなさっています。これにどんな意味や意図があるのか全く分かりません。効果的で建設的な話にはなりにくいやり方だと思います

また、チャーマーズが図1を考えていたか図2を考えていたかという話も、意味解釈を変えてどれが正しいか考えることに何の意味があるのでしょうか。意味解釈を変えるだけじゃ中身の議論にはならないじゃないですか。

そして、
ちなみに、
僕のチャーマーズ批判は図3においてチャーマーズが非機能的な現象的意識の存在を考えていたことに対する批判が論旨ですから、図1か図2かチャーマーズがどちらで考えていたとしても、機能的意識という語の意味をどうずらしたとしてもあまり関係無いと思います。

異邦人さん、

>チャーマーズは(私と同様)図1で考えており図1以外の図は考えていないと思います。

チャーマーズはどこかでそのようなことを書いていましたか。「意識する心」ですか。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>その使い分けがここで議論している内容とどのように関わっているのでしょうか?


オカシイですね。「認識」という公共語に対して異邦人さまがご自身独特の・互いに相容れない(=相互に還元不可能な)複数の用法を与えつつ、それらを全く無頓着にごたまぜにしていることを異邦人さまに気付いて頂く為に・・・と申し上げた筈ですが。


>【視認(=知覚)可能】と【解明(=認識)可能】をどのように使い分けていらっしゃるのでしょうか?


「知覚する」と「解明する」の違いがお解りにならない、と? 困りましたね。
誰かがMRIで脳腫瘍の画像を「知覚する」ことは脳腫瘍の発生メカニズム等を「解明する」こととイコールではないですよね?


>「私も「現象としてのリンゴ」(私秘的)が知覚になる・・・」
私は上記のように述べました。
「リンゴの知覚印象を「見ている」「知覚している」」とは述べていないハズですが?


あれれ、オカシイですね。異邦人さまは僕の論述「②工藤庄平の身体から開けた視野が捉えるリンゴ(客観的個物)~リンゴの知覚印象(私秘的)が生じる」に対して↓以下

>「実在のリンゴ」を対象として「現象のリンゴ」が生じる、という事でしょうね。
>工藤庄平さんと私の主張の相違がどのような点にあるのか把握できません。
>私のリンゴ認識図式と特に違いがあるようには思えません。何か違いがあるのでしょうか?

のように仰っていますね。異邦人さまがご自身の見解と僕の論述との間に差異を見い出せないのであれば、何故↓以下の如き

「リンゴの知覚印象を「見ている」「知覚している」」とは述べていないハズですが?

ご返答が出てくるのでしょうか? 僕には異邦人さまが詭弁を弄しておられるとしか思えません。そして、↓横山さんも指摘しておられた

>>僕のレポートでは、機能的意識を因果性や機能性を有する意識と位置付けていました。何らかの意識が物理的事実であるならば、それは他の物理的事実と相互に作用し合うゆえに必ず某かの機能を持つことになります。そのため、物理的事実であるような意識は必然的に上の定義の意味での機能的意識でなければなりません。
異邦人さんは僕のレポートの「機能的意識」を違う意味に捉えて読まれていたので、現象的意識が物理的事実でありながら機能的意識ではないと仰っていたのではないですか。しかし、図123は僕のレポートの僕の用語の意味使いの中での表現ですから、異なる用語の使い方で図1が正しいとか図2が間違っているなどと言うのは意味がないと思います。論が噛み合わない原因がそのあたりだと考えたのですが、どうでしょう。

と思いますが、異邦人さまは他人の論述を文脈に即した形で理解しようと努めるのではなく、それを逐一ご自分の特異な用語法に【改訳】した上で見当外れな解釈を与えているように見えます。要するに、「他人の見解を理解した上で批判する」というより「ご自分の思想を反芻することに終始している」ということですね。


哲学的議論は政治家の答弁や主義思想の押し売りではないのです。

異邦人さま


>「私も「現象としてのリンゴ」(私秘的)が知覚になる・・・」
私は上記のように述べました。


【私も】「現象としてのリンゴ」(私秘的)が【知覚になる】?? ―オカシイですね。【私も】【知覚になる】とは何の謂でしょうか? 僕は「我々はリンゴ(客観的個物)を知覚するのであって、各自にとって私秘的なもの―例えば、リンゴの知覚印象―を知覚するのではない」と申し上げた筈ですが。↓横山さんのご指摘

>ふつう、図1か2か3かのどれが正しくてどれが間違っているかの話をするときは、図の意味解釈の仕方を共有したうえで行います。そうでないと議論の意味がありません。その意味解釈を変えて図1が正しいと主張されることの意味が分かりません。
ふつうは図の提案者が提出した図の意味解釈にそって、どんな図が良いかという議論をすることになります。意味解釈によってもちろん図の意味は変わります。ある人が提案者の提示した図と違う図こそが正しいのだと主張するのと、同時に、図の意味解釈を提案者のものから変えることを主張するというのは非生産的だと思いませんか。異邦人さんはこの両方をなさっています。これにどんな意味や意図があるのか全く分かりません。効果的で建設的な話にはなりにくいやり方だと思います
また、チャーマーズが図1を考えていたか図2を考えていたかという話も、意味解釈を変えてどれが正しいか考えることに何の意味があるのでしょうか。意味解釈を変えるだけじゃ中身の議論にはならないじゃないですか。

を噛み締めて頂きたいと思います。

さて、話を戻しますと、我々は①リンゴそれ自体②リンゴを知覚すること~知覚対象としてのリンゴ③リンゴの知覚印象④(眼を閉じたりして)リンゴを想像すること~リンゴの想像表象を区別している筈です。
仮に異邦人さまの仰る「知覚」の図式が正しいとするならば、我々は事物世界において我々と共在するリンゴ―触れたり、投げたり、食べることが出来るリンゴ―を「知覚する」のではなくて、“各自”に与えられた“私秘的なイメージ”が【知覚になる】わけですね。この場合、我々は“我々”が“同一のリンゴ(客観的個物)”を「知覚している」ことを如何にして「知る」のでしょうか?

↓異邦人さまのご主張


>「イメージ生成処理」は内観で認識できない脳(心)内部の働きです。純粋な物理的現象です。現象的意識の対象です。「現象のリンゴ」は内観の内に明確に現れる認識です。この認識が機能的意識です。
>しかし不可知のコギトからは随時機能的意識の元になるイメージが届けられるためその背後にあるものの気配を内観は常に感じています。この認識できないが気配があるので存在は明らかであるものが現象的意識です。
>「気配」は無意識に感じるものであり顕在意識になることはありません。
コギトから内観へは常時情報が流れていますので、我々の脳(心)がその「気配」を感じないことはあり得ません。例えば山肌から湧き水が湧き出している場合、誰でも背後にある水脈の気配を感じるハズです。


に対して、僕は↓以下のように

率直に申し上げて、異邦人さまの仰る「気配」と湧水の気配とのアナロジーは成立しないと思います。水の湧出や殺気を「感じる」というのは理解出来ますが、コギト云々は異邦人さまのご想像としか思えませんし、僕は件の「気配」なるものを感じたことは唯の一度も無いのです。

にお答えしました。それに対する異邦人さまのご返答?は↓以下の通り


>そのことを否定していません。
「顕在意識になることはありません」と述べたとおりであり、感じたことは無いハズです。


です。 僕には異邦人さまが詭弁を弄しておられるとしか思えないのですが?

異邦人さま


とりあえず、異邦人さまのご主張を↓纏めさせて頂きました。


①不可知のコギトからは随時機能的意識の元になるイメージが届けられるためその背後にあるものの気配を内観は常に感じている。この認識できないが気配があるので存在は明らかであるものが現象的意識である。
②「気配」は無意識に感じるものであり顕在意識になることはない。とはいえ、コギトから内観へは常時情報が流れていますので、我々の脳(心)がその「気配」を感じないことはあり得ない。
③(工藤の返答に対して)「顕在意識になることはありません」と述べたとおりであり、その「気配」を感じたことは無いハズだ。


②と③は明らかに矛盾していますね。件の「気配」を感じないことはあり得ないし、感じたことは無いハズだ?? ―オカシイと思いませんか。

>現象的意識は不可知のコギト内で起こっている現象であり認識することは不可能です。しかし不可知のコギトからは随時機能的意識の元になるイメージが届けられるためその背後にあるものの気配を内観は常に感じています。
この認識できないが気配があるので存在は明らかであるものが現象的意識です。
仮に今回は特別にコギトの内を観察できたものとしてみましょう。
恐らくそこに見えるのはリンゴのイメージとは似ても似つかない、神経パルス群が走り回っている姿でありましょう。
現象的意識の正体は「神経パルス群が走り回っている姿」でありましょう。


認識不可能な脳内処理のプロセス=現象的意識ということですね?
では、件のご主張と↓以下のご主張

>リンゴの形、大きさ、色・・・等の我々が明確に認識できているのが機能的意識です。それに対し、リンゴの形の感じ、大きさの感じ、赤さの感じ・・・等の質感が現象的意識です。

の関係はどうなっているのでしょうか?
リンゴの形や大きさや赤さの感じetcの質感=現象的意識と認識不可能な脳内処理のプロセス=現象的意識との関係―ということですが。

異邦人さま


>現象的意識と機能的意識は認識対象が異なりますので重なることはありません。
(例:「イメージ生成処理」対「実在のリンゴ」)
>「機能的意識」が例えば「実在のリンゴ」を対象として生じ、「現象的意識」が例えば「イメージ生成処理」を対象として生じることも述べてきました。
それ故「機能的意識」と「現象的意識」は対象が異なり重なることは無い、ことも述べてきました。
>「イメージ生成処理」は内観で認識できない脳(心)内部の働きです。
純粋な物理的現象です。現象的意識の対象です。


あれれ、オカシイですね。イメージ生成処理=脳内処理=純粋な物理的現象=現象的意識の対象であって、現象的意識ではない、と?
では、先のご主張と↓以下のご主張

>現象的意識の正体は「神経パルス群が走り回っている姿」でありましょう。

との関係はどうなっているのでしょうか? 僕には異邦人さまが詭弁を弄しておられるとしか思えないのですが。
異邦人さまは「現象的意識」を①リンゴの形や大きさや赤さの感じetcの【質感】とも②認識不可能な【脳内処理】とも③脳内処理を認識対象として生じる【存在】とも仰る。
率直に申し上げて、一連のご主張は支離滅裂なものと言わざるを得ません。
脳内処理を認識対象として生じる?? ―脳内処理を「認識」する現象的意識なる代物が存在する、ということでしょうか?
要するに、「認識対象として生じる」ということの内実が全く不明瞭なのですよ。

異邦人さま


>「気配」は無意識に感じるものであり顕在意識になることはありません。
コギトから内観へは常時情報が流れていますので、我々の脳(心)がその「気配」を感じないことはあり得ません。


【無意識に感じるもの】である「気配」とは何でしょうか?
「気配」「不可知のコギト」etc・・・そのような代物が実在していることを如何にして【確証する】のか理解し難いわけです。
当然ながら、この場合、「私はそれを感じるのだ!」とか「私がそう思うからだ!」は根拠になりません。

横山信幸さん。
>>横山信幸 | 2013年10月20日 (日) 21時21分

今回の議論は「機能的意識」と「現象的意識」という語の定義(意味解釈)が問題になっているものと思います。
そしてその結果として、「機能的意識」と「現象的意識」は重なる部分があるか否か、という点が問題になっています。
この問題に対する意見がお互いに異なっているために議論のすれ違いを生んでいます。
これは図1~3の意味解釈がどうのこうのという以前の問題です。

議論のひとつの目的はお互いの主張を確認し、その相違がどのような点にあるのか、確認することにあるものと考えます。
今回の議論はその目的を達し得たのではないでしょうか?

>>横山信幸 | 2013年10月20日 (日) 21時42分
>チャーマーズはどこかでそのようなことを書いていましたか。「意識する心」ですか。

チャーマーズの著作は読んでいません。
私のチャーマーズに関する知識はWikipedia等ネット検索で得た範囲のものです。
「意識する心」等のチャーマーズの著作で「機能的意識」と「現象的意識」が重なりもあることを確かに述べているということであれば、それ以上私にどうこう申し上げる資格はございません。

工藤庄平さん。
>>工藤庄平 | 2013年10月20日 (日) 22時18分
>オカシイですね。「認識」という公共語に対して異邦人さまがご自身独特の・互いに相容れない(=相互に還元不可能な)複数の用法を与えつつ、それらを全く無頓着にごたまぜにしていることを異邦人さまに気付いて頂く為に・・・と申し上げた筈ですが。

残念ながら気付くことができません。
不出来な生徒でスミマセン。

> 誰かがMRIで脳腫瘍の画像を「知覚する」ことは脳腫瘍の発生メカニズム等を「解明する」こととイコールではないですよね?

それは解りますが、それが今回の議論とどのように繋がっているのでしょうか?

>ご返答が出てくるのでしょうか? 僕には異邦人さまが詭弁を弄しておられるとしか思えません。

残念ながら何がどう詭弁だと仰っているのか把握できません。

> 哲学的議論は政治家の答弁や主義思想の押し売りではないのです。

全く同意です。(^^;;;
;
>>工藤庄平 | 2013年10月20日 (日) 22時58分
>僕は「我々はリンゴ(客観的個物)を知覚するのであって、各自にとって私秘的なもの―例えば、リンゴの知覚印象―を知覚するのではない」と申し上げた筈ですが。

私も「各自にとって私秘的なもの―例えば、リンゴの知覚印象―を知覚するのではない」には同意しています。何が問題なのでしょうか?

>“各自”に与えられた“私秘的なイメージ”が【知覚になる】わけですね。

その通りです。それが実在のリンゴを認識することの意味ですから。
実在のリンゴを対象として現象としてのリンゴが心内に生じそれが我々の知覚になります。
それが実在のリンゴを認識することの意味であるわけです。

>>工藤庄平 | 2013年10月20日 (日) 23時23分
>僕には異邦人さまが詭弁を弄しておられるとしか思えないのですが?

そう思っているのですね、と申し上げるしかありません。

>>工藤庄平 | 2013年10月20日 (日) 23時40分
>件の「気配」を感じないことはあり得ないし、感じたことは無いハズだ?? ―オカシイと思いませんか。

「(無意識的に)感じないことはあり得ないし、(顕在意識として)感じたことは無いハズだ」
何も矛盾はありません。
脳(心)が認識している事象のうち顕在意識になるのはごく一部に過ぎません。
大部分は無意識のままです。

>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 00時23分
>の関係はどうなっているのでしょうか?
リンゴの形や大きさや赤さの感じetcの質感=現象的意識と認識不可能な脳内処理のプロセス=現象的意識との関係―ということですが。

現象的意識は「認識不可能な脳内処理のプロセス」を対象として生じます。
認識不可能な対象であるため質感という不明瞭なイメージで概念化されます。

>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 01時01分
>イメージ生成処理=脳内処理=純粋な物理的現象=現象的意識の対象であって、現象的意識ではない、と?

(リンゴの)イメージ生成処理は一つの物理的現象であり、(リンゴに関する)現象的意識は別の物理的現象です。
それぞれ別の物理的現象です。

> 要するに、「認識対象として生じる」ということの内実が全く不明瞭なのですよ。

実在のリンゴを対象として機能的意識が生じ、イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
別の言い方をすれば、実在のリンゴを直接の対象として機能的意識が生じ、実在のリンゴを間接の対象として現象的意識が生じます。
機能的意識も現象的意識も実在のリンゴを対象として生じます。
直接の対象としているのか間接の対象としているのか、の違いがあります。

>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 01時18分
> 「気配」「不可知のコギト」etc・・・そのような代物が実在していることを如何にして【確証する】のか理解し難いわけです。

私の唯物論では「心=脳の働き」です。
我々が脳の働きを殆ど認識できていないのは自明なことです。
工藤庄平さんも「イメージ生成処理」を認識できていないことはお認めなのではありませんか?
「イメージ生成処理」は高度で膨大な情報処理です。
我々が認識できるハズがありません。自明なことです。
「コギトが不可知である」というのは「脳内の処理には自分自身で認識不可能な部分がある」ということと同値です。
脳内で起こる「気配」は顕在意識に上らない場合もあります。
湧き水の水脈に関する気配であれば通常顕在意識に上ります。
もちろん、湧き水の水脈に関する気配であっても無意識に止まる場合があることは言うまでもありません。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>私も「各自にとって私秘的なもの―例えば、リンゴの知覚印象―を知覚するのではない」には同意しています。何が問題なのでしょうか?
>実在のリンゴを対象として現象としてのリンゴが心内に生じそれが我々の知覚になります。それが実在のリンゴを認識することの意味であるわけです。


先ず、異邦人さまの図式で「知覚する」と「知覚になる」の違いはどのように位置付けられているのでしょうか?
異邦人さまは①我々は実在のリンゴ―事物世界の中に存在する客観的個物―を「知覚する」とも②実在のリンゴを対象として【現象としてのリンゴが心内に生じ】それが我々の「知覚になる」とも仰る。
既に示唆した筈ですが・・・「知覚」という公共語に対して異邦人さまが個人的な主義思想に基づく複数の用法を与えた上で、それらを全く無頓着にごたまぜにしていることに気付いて頂きたいのです。

次に、【現象としてのリンゴが心内に生じ】というご主張について。用語の確認ですが、現象としてのリンゴ=リンゴの知覚印象ということで宜しいですね?
さて、では、異邦人さまの仰る【心内】とは何を指しているのでしょうか? 視野でしょうか、脳内処理でしょうか。言うまでもなく、脳内処理と実在のリンゴは別物ですよね。
ところで、異邦人さまは↓「痛み」に関する僕の論述

僕は【今現に】生じているであろう[工藤庄平の身体における神経発火]を「左肩の痛み」とは【呼ばない】し、[工藤庄平の身体における神経発火]を左肩の痛み『である』とは見做さないのです。

に対して↓以下の如く

>わたしもそれをそう呼びません。同意です。(C)
>わたしもそれをそう見做しません。同意です。(D)

お答えになりました。では、件のご見解を―「痛み」ではなく―「知覚」に敷衍してみましょう。実在のリンゴ(客観的個物)は工藤庄平の身体から開けた視野(並列不可能・私秘的)の中ではなく、[事物世界]の中に存在しています。とはいえ、工藤庄平の視野は[事物世界]に向けて開けているのですから、工藤庄平が持つリンゴの知覚印象(並列不可能・私秘的)は[事物世界]の中に存在するリンゴ(客観的個物)についてのそれ『である』わけです。

さて、再度お伺いします。異邦人さまの仰る【心内】とは何を指しているのでしょうか?

異邦人さん、こんにちは。

> 議論のひとつの目的はお互いの主張を確認し、その相違がどのような点にあるのか、確認することにあるものと考えます。今回の議論はその目的を達し得たのではないでしょうか?

そうでしょうか。
僕には無駄に議論が混乱してしまっただけに思えますし、理解が進んだとは考えにくいです。

たとえば、異邦人さんの言われる通りの意味で「機能的意識」を再定義するとします。そのとき、僕の図1の「機能的意識」のところは「物理的事実と因果的機能的に関係する意識、かつ、現象的意識ではない意識」と書き変えないと元の意味からずれてしまうことになります。しかし、そんな「かつ、現象的意識ではない意識」として定義づけられたものが、現象的意識と完全に区分けされている図で表されたところで何の内容があるでしょう。トートロジーで無内容の図でしかないですよね。

そのように、僕が理解できている異邦人さんの主張は、残念ながら今のところ無内容なものです。

異邦人さんは内容の主張と同時に定義の変更の主張をされたので自分では意味のある主張をされているつもりで実は無意味な内容にしかなっていなかったのかも知れません。
何れにせよ、異邦人さんが図1以外には成り得ないと言われたり、現象的意識が因果的機能的に物理的事実でありながら、機能的意識ではないと主張されたりすることは、異邦人さんの定義とセットでは、何の意味も持たないとしか考えにくいです。


異邦人さんが指摘されるとおり、定義の問題は本質的な問題ではありません。
しかし、その本質的でないはずの問題のために本論が無内容になっているようにしか見えず、どーでもいーことのために、互いの理解が進まないとすれば残念なことです。

そして、異邦人さんは僕たちの語の定義がちがうのは互いの問題のように考えられているようですが、今回の論議は、僕の提出したテキストについて話し合っているのですから、特別な提案がない限りはテキストの定義に従うのが一般的なルールではないでしょうか。テキストの定義の変更した方が適切だとお考えのときはそう提案してください。
今後もずっと議論の良き仲間になっていただきたいと願っておりますから、この点は切に理解を望みます。


ところで、僕が察するところ、異邦人さんが主張されているのは、例えば次のようなことではないのですか。

「意識状態は脳状態に因果的に還元できる。しかし、意識状態は脳状態に構造的消去的には還元できない」(サール著作から)

全然、異邦人さんの主張とは違うかもしれませんが、「現象的意識が因果的機能的に物理的事実でありながら、機能的意識ではない」と主張されることから連想されるものに、このようなものもあります。サールのような表現であれば、無内容とは思いません。

この議論は、今の言葉の使われ方では僕には理解できないと思いますので、これ以上は不毛かもしれませんね。

工藤さんが指摘されているようにサールにヒントがあるのかも知れません。

異邦人さま


>私の唯物論では「心=脳の働き」です。
我々が脳の働きを殆ど認識できていないのは自明なことです。
工藤庄平さんも「イメージ生成処理」を認識できていないことはお認めなのではありませんか?


何度でも繰り返しますが・・・「認識」という公共語に対して異邦人さまが互いに相容れない(=相互に還元不可能な)複数の用法を与えた上で、それらを全く無頓着にごたまぜにしていることに気付いて頂きたいのです。
例えば、全く異なる複数の文法―「知覚する」と「解明する」等―に対して「認識する」という一語をあてがうことは様々な哲学的似非問題の発生要因になります。


>「イメージ生成処理」は高度で膨大な情報処理です。
我々が認識できるハズがありません。自明なことです。


誰かが特殊な装置で脳内の神経パルスの画像を「認識する(=知覚する)」ことは脳内の物理的プロセスのメカニズムを「認識する(=解明する)」こととイコールではないですよね?

異邦人さま


>実在のリンゴを対象として機能的意識が生じ、イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。別の言い方をすれば、実在のリンゴを直接の対象として機能的意識が生じ、実在のリンゴを間接の対象として現象的意識が生じます。
機能的意識も現象的意識も実在のリンゴを対象として生じます。
直接の対象としているのか間接の対象としているのか、の違いがあります。


あれれ、オカシイですね。それでは【目を閉じて黙想している】ときは【何を対象として現象的意識が生じる】のでしょうか?


>「気配」は無意識に感じるものであり顕在意識になることはありません。
コギトから内観へは常時情報が流れていますので、我々の脳(心)がその「気配」を感じないことはあり得ません。例えば山肌から湧き水が湧き出している場合、誰でも背後にある水脈の気配を感じるハズです。
>「顕在意識になることはありません」と述べたとおりであり、感じたことは無いハズです。
>「(無意識的に)感じないことはあり得ないし、(顕在意識として)感じたことは無いハズだ」
何も矛盾はありません。脳(心)が認識している事象のうち顕在意識になるのはごく一部に過ぎません。大部分は無意識のままです。
>脳内で起こる「気配」は顕在意識に上らない場合もあります。
湧き水の水脈に関する気配であれば通常顕在意識に上ります。
もちろん、湧き水の水脈に関する気配であっても無意識に止まる場合があることは言うまでもありません。


我々の脳(心)が【認識】している事象?? ―件の文脈で「認識」とは如何なる事柄を指しているのでしょうか?
既に縷言したと思いますが・・・「認識」という公共語に対して異邦人さまが個人的な主義思想に基づく・互いに相容れない(=相互に還元不可能な)複数の用法を与えた上で、それらを全く無頓着にごたまぜにしていることに気付いて頂きたいのです。
さて、再度お伺いします。我々の脳(心)が件の「気配」なる代物を【無意識に感じている】こと・それが【顕在意識に現れないこともある】ことを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?
当然ながら、この場合、「極く稀に私(異邦人さま)の顕在意識がそれを感じるからだ!」とか「私(異邦人さま)がそう考えるからだ!」は根拠になりません。
抑も【無意識に感じる】ということの内実が全く不明瞭なのですよ。
僕には異邦人さまが詭弁を弄しておられるとしか思えないのですが。
(* 既述の通り、異邦人さまの仰る「気配」と湧水の気配とのアナロジーは成立しないと思います。水の湧出や殺気等を「感じる」というならともかく、件の「気配」等は全く理解出来ません)

異邦人さん、

さっきのコメントに補足を付け加えます。

図1の話のところで僕は、異邦人さんの定義を受け入れて「物理的事実と因果的機能的に関係する意識、かつ、現象的意識ではない意識」を「機能的意識」と再定義すると言いましたが、そんなものを機能的意識と呼ぼうなどと言った覚えはないと反論されるかもしれないと考えましたので、先に、補足しておきます。

機能的意識の意味を異邦人さんの意図に合わせるギリギリのラインのひとつが上の定義になると思います。というのは、内観がどうだとか、気配がどうだとかというような言葉で再定義することになると、図1が、元々の意味を保てなくなってしまうからです。そうなると、同一の図1に対して二人が話をすることができなくなり、全く別の図について二人が関係のない全く別の話をすることしかできなくなってしまうからです。
ですから、同一の図について、同じテーマで話をするためには上の定義のラインまでしか、異邦人さんの意図に沿うことができないわけです。

不必要な補足だったかも知れません。

失礼しました。

横山信幸さん。(>2013年10月21日 (月) 15時26分)

お互いの用語定義に根本的な違いがあることに気付かないまま議論に入ってしまったためにすれ違いに終わってしまいました。
気付くのに長い時間が掛かりましたが、こうやって気付くことができましたのでそれはそれで意義のあったことだと思っています。
議論では良くあることですので私は特に気にしません。
気付いたという事は大きな理解の進展であるものと思います。

>しかし、そんな「かつ、現象的意識ではない意識」として定義づけられたものが、現象的意識と完全に区分けされている図で表されたところで何の内容があるでしょう。トートロジーで無内容の図でしかないですよね。

現象的意識と機能的意識の区分けは私の定義では認識対象の違いによります。
ですので「トートロジー」にはなりません。
「物理的事実と因果的機能的に関係する意識」というのは私の定義では現象的意識と機能的意識を区分けする条件にはなりません。

>そして、異邦人さんは僕たちの語の定義がちがうのは互いの問題のように考えられているようですが、今回の論議は、僕の提出したテキストについて話し合っているのですから、特別な提案がない限りはテキストの定義に従うのが一般的なルールではないでしょうか。

今回はお互いの用語定義の違いに気付かないまま議論に入ってしまったのですが...では、気付いた今はどうなのかといいますと...
その場合は、先ずテキストの用語定義が妥当であるのか否かから議論に入るのが筋道であるものと考えます。
テキストの用語定義に異論が無い場合はそのまま進めることが出来ますが、異論がある場合はそのまま進めるのには無理があります。
テキストの用語定義に異論がある場合の議論と異論が無い場合の議論では議論のあり方が違ってきます。
どちらの方向の議論にも対応されればベストであろうかと思います。

>テキストの定義の変更した方が適切だとお考えのときはそう提案してください。

変更は特に求めませんが、定義に異論がある場合と無い場合を考慮されたほうが良いのではないかと思っています。

>「意識状態は脳状態に因果的に還元できる。しかし、意識状態は脳状態に構造的消去的には還元できない」(サール著作から)

これまで繰り返し述べましたように、私は因果的にも構造的にも還元できる、と考えています。消去は考えていません。

工藤庄平さん。
>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 15時08分
>先ず、異邦人さまの図式で「知覚する」と「知覚になる」の違いはどのように位置付けられているのでしょうか?

大雑把に言えば「実在のリンゴを知覚する」=「現象としてのリンゴが知覚になる」というように考えています。

>それらを全く無頓着にごたまぜにしていることに気付いて頂きたいのです。

残念ながら何が問題と仰っているのか理解できません。
何がどう違っているのか具体的にご説明頂けない限り永遠に気付かないかもしれません。

>現象としてのリンゴ=リンゴの知覚印象ということで宜しいですね

そのように考えています。

>さて、では、異邦人さまの仰る【心内】とは何を指しているのでしょうか?


一義的には「認識主体としての私の内」+「認識対象としての私の内」です。
我々の認識している心の内のみを対象としている場合は「認識対象としての私の内」のみを指します。
ここで「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
細かいことを言いますと「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。

>さて、再度お伺いします。異邦人さまの仰る【心内】とは何を指しているのでしょうか?

【心内】については上で述べましたが、それ以上の説明をお求めなのでしょうか?

>>2013年10月21日 (月) 15時26分
>それらを全く無頓着にごたまぜにしていることに気付いて頂きたいのです。

もしそうお感じなのであれば具体的にご指摘頂けませんでしょうか?

>誰かが特殊な装置で脳内の神経パルスの画像を「認識する(=知覚する)」ことは脳内の物理的プロセスのメカニズムを「認識する(=解明する)」こととイコールではないですよね?

もちろんイコールではありません。
例えば文字の形を認識することと文字の意味を認識することとはイコールではありません。

>>2013年10月21日 (月) 15時34分
>あれれ、オカシイですね。それでは【目を閉じて黙想している】ときは【何を対象として現象的意識が生じる】のでしょうか?

当然記憶内容を対象として生じることになります。
何か問題がありますでしょうか?

>我々の脳(心)が【認識】している事象?? ―件の文脈で「認識」とは如何なる事柄を指しているのでしょうか?

どの文脈を指しているのでしょうか?

>それらを全く無頓着にごたまぜにしていることに気付いて頂きたいのです。

もしそうお感じなのであれば具体的にご指摘頂けませんでしょうか?

>さて、再度お伺いします。我々の脳(心)が件の「気配」なる代物を【無意識に感じている】こと・それが【顕在意識に現れないこともある】ことを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?

コギトから内観へは常時情報が流れているのですから我々の心がそれに気付かないハズはありません。
その情報の流れが顕在意識になっていないことも明白な事実です。
ですからその情報の流れが顕在意識にならない形で気付かれていることは明らかです。

> 抑も【無意識に感じる】ということの内実が全く不明瞭なのですよ。

上で述べたとおりです。

異邦人さま


>残念ながら何が問題と仰っているのか理解できません。
何がどう違っているのか具体的にご説明頂けない限り永遠に気付かないかもしれません。
>もしそうお感じなのであれば具体的にご指摘頂けませんでしょうか?


あれれ、オカシイですね。「知覚する」「見る」という語の日常的な用法がお解りにならない、と。僕は具体例(リンゴ等)を挙げてご説明した筈ですが。

ところで、これは僕からの提案ですが、異邦人さまのご主張が正鵠を射たものであるのか、それとも単なる個人的な空想に過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さま


>【心内】については上で述べましたが、それ以上の説明をお求めなのでしょうか?


これもオカシイですね。↑件の文章は↓僕の質問

さて、再度お伺いします。異邦人さまの仰る【心内】とは何を指しているのでしょうか?

に対するご返答?なのでしょうが、当然ながら、僕は↑上の質問をした時点では【心内】に関する異邦人さまのご説明?を読んでおりません。ですから、↓先のご返答?

>【心内】については上で述べましたが、それ以上の説明をお求めなのでしょうか?

は全く不可解と言わざるを得ないのです。
ご説明?の内容について言えば、論証を欠いた主義思想の押し売りにしか見えませんし、僕としては「あなたはそうお考えになるのですね」と言う他ありません。

ところで、これは僕からの提案ですが、異邦人さまのご主張が正鵠を射たものであるのか、それとも単なる個人的な空想に過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さま


>コギトから内観へは常時情報が流れているのですから我々の心がそれに気付かないハズはありません。
その情報の流れが顕在意識になっていないことも明白な事実です。
ですからその情報の流れが顕在意識にならない形で気付かれていることは明らかです。


コギトから内観へは常時情報が流れている??
我々の心がそれに気付かないハズはありません??
その情報の流れが顕在意識になっていないことも明白な事実??
【ですから】その情報の流れが顕在意識にならない形で気付かれていることは明らか??
↑一連の記述において、【ですから】は全く実質を持っていません。異邦人さまのご主張は論証でもなければ・(経験的探究を通して発見された)事実に関する知見でもなく、単なる個人的実感或は空想の表明に過ぎないのではないでしょうか。
何度でも繰り返しますが、我々の脳(心)が件の「気配」なる代物を【無意識に感じている】こと・それが【顕在意識に現れないこともある】ことを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?
当然ながら、この場合、「極く稀に私(異邦人さま)の顕在意識がそれを感じるからだ!」とか「私(異邦人さま)がそう考えるからだ!」は根拠になりません。
(* 既述の通り、異邦人さまの仰る「気配」と湧水の気配とのアナロジーは成立しないと思います。水の湧出や殺気等を「感じる」というならともかく、件の「気配」等は全く理解出来ません)

ところで、これは僕からの提案ですが、【無意識に感じる】ということに関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるナンセンスに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さま


↓僕の質問

あれれ、オカシイですね。それでは【目を閉じて黙想している】ときは【何を対象として現象的意識が生じる】のでしょうか?

に対して、異邦人さまは↓以下のように

当然記憶内容を対象として生じることになります。
何か問題がありますでしょうか?

ご返答されましたが、抑も【記憶内容を対象として現象的意識が生じる】とは具体的にどういうことなのでしょうか?
例えば、リンゴ(客観的個物)を「認識する(=知覚する)」ことと記憶内容(心的な事柄)を「対象として生じる(=?)」ことの差異を具体的にご説明して頂けますか?

異邦人さん、

>議論では良くあることですので私は特に気にしません。

これは困ります。特に気にしてもらいたいです。

>今回はお互いの用語定義の違いに気付かないまま議論に入ってしまったのですが

と用語定義に気付かなかったのがお互いの問題のように書かれていますが、僕のレポートで図3が正しいとしているのに対して、異邦人さんが「図1が正しい」とコメントされたことからこの議論が始まっています。このなかで、定義の違いに気付かなければならない問題が僕にもあったとお考えですか。僕は「機能的意識」の意味について、ブログ本文で、下のようにかなり丁寧に説明したつもりです。

>チャーマーズは、心的概念を二つに分けて考えている。この二つの違いは、因果的で機能的な働きがあるか否かである。心が原因になって外的に何らかの結果を生じたのであれば、その心は因果的で機能的だと言える。この機能的な働きを有する心の側面は、外的な機能面から分析する心理学の視点での心の捉え方でもあるので、チャーマーズは「心理学的」と表現している。しかし他の箇所では「機能的」と表現していてどちらも心の同じ側面を指しているようだ。この機能的側面を「心」や「アクセス意識」という哲学者もいて、色々な表現がされているようだが、本ブログでは「機能的意識」という表現を使うことにする。

それを異邦人さんは、「現象的意識が物理的事実と因果的機能的関係を持ちながら、機能的意識とは重ならない」という驚くべき主張をされ、僕のレポートで適切だとした図3ではなく、図1が適切なのだと主張された。
そして、

>気付いたという事は大きな理解の進展であるものと思います。

と言って違いに気付いたと仰る今でも、まだ、下のように言われるということは、僕がレポートで図1が間違いで図3が正しいと主張した内容とは全く違うテーマについて語っておられることに気付いておられないということなのではないですか。

>現象的意識と機能的意識の区分けは私の定義では認識対象の違いによります。
ですので「トートロジー」にはなりません。

もし気づいたうえで、これを言われているのであれば、僕がレポートで僕の定義において図1が間違いで図3が正しいと主張していることを完全に無視して、ご自身の定義で全く違うご自身のテーマについて語っておられるということにも気づいているということでしょうから、かなり、失礼な話になると思います。異邦人さんは僕のレポートに対して僕の思考に感想を言うような書きぶりで、それとは無関係で、それとは全くテーマの違うご自身の思考をお書きになられていたということなのです。

これを気にされないのでは困ります。
少なくとも、テキストをきちんと読もうとするようには意識してもらいたいですし、
互いに同じ土俵で議論するためにも、同じ定義での言葉づかいを求めようとする姿勢を心がけてもらいたいです。

異邦人さま


>「(無意識的に)感じないことはあり得ないし、(顕在意識として)感じたことは無いハズだ」
何も矛盾はありません。脳(心)が認識している事象のうち顕在意識になるのはごく一部に過ぎません。大部分は無意識のままです。


脳(心)が【認識】している事象?? ―ここで異邦人さまの仰る「認識」とは如何なる事態を指しているのでしょうか?
脳(心)が「認識している(=知覚している)」事象ということでしょうか? しかし、脳(心)が知覚するという考えは不十分というかミスリーディングですね。既に縷言したと思いますが、我々の認識や思考や行為etcは[現実=諸事物のネットワークの総体]において生成しています。
従って、(脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。
既述の通り、(脳を含めた)身体は異邦人さまの仰るような【自閉的な・閉じた情報処理系】ではなく、[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成する[固有名を与えられた身体から開けた生]なのですから。

異邦人さま


>「(無意識的に)感じないことはあり得ないし、(顕在意識として)感じたことは無いハズだ」
何も矛盾はありません。脳(心)が認識している事象のうち顕在意識になるのはごく一部に過ぎません。大部分は無意識のままです。


脳(心)が【認識】している事象?? ―ここで異邦人さまの仰る「認識」とは如何なる事態を指しているのでしょうか?
脳(心)が「認識している(=知覚している)」事象ということでしょうか? しかし、(脳を含めた)身体は事物を「認識する(=知覚する)」だけでなく、痛みや喜びを「感じる」し、明日の朝飯を何にするか「考える」し、「想像表象と戯れ」たりするわけです。異邦人さまはこれら―「認識する(=知覚する)」 「感じる」 「考える」 「想像表象と戯れる」等―全てを【認識する】の一語で片付けるおつもりなのでしょうか?

ところで、これは僕からの提案ですが、脳(心)が【認識】している事象?に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるナンセンスに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

工藤庄平さん。
>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 21時06分
>あれれ、オカシイですね。「知覚する」「見る」という語の日常的な用法がお解りにならない、と。僕は具体例(リンゴ等)を挙げてご説明した筈ですが。

どの具体例でしょうか?

>ところで、これは僕からの提案ですが、異邦人さまのご主張が正鵠を射たものであるのか、それとも単なる個人的な空想に過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

機会があれば提案に従うつもりです。(^^;;;

>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 21時24分
>【心内】に関する異邦人さまのご説明?を読んでおりません。

もちろんお読みになった後でそれ以上の説明が必要か否かを問い合わせている訳ですが。

>ところで、これは僕からの提案ですが、異邦人さまのご主張が正鵠を射たものであるのか、それとも単なる個人的な空想に過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

機会があれば提案に従うつもりです。(^^;;;

>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 21時46分
>何度でも繰り返しますが、我々の脳(心)が件の「気配」なる代物を【無意識に感じている】こと・それが【顕在意識に現れないこともある】ことを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?

コギトから内観へは常時情報が流れています。
我々の心(内観)は情報を受け取っている当事者なのですから当然ながらその情報の流れがあることは知っています(気付いています)。
そのことは自明です。
そしてその情報の流れが顕在意識になっていないことも明白な事実です。
何が問題なのでしょうか?

>ところで、これは僕からの提案ですが、【無意識に感じる】ということに関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるナンセンスに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

機会があれば提案に従うつもりです。(^^;;;

>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 21時56分
>ご返答されましたが、抑も【記憶内容を対象として現象的意識が生じる】とは具体的にどういうことなのでしょうか?
例えば、リンゴ(客観的個物)を「認識する(=知覚する)」ことと記憶内容(心的な事柄)を「対象として生じる(=?)」ことの差異を具体的にご説明して頂けますか?

(客観的個物の場合)
実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。

横山信幸さん。(>2013年10月21日 (月) 21時57分)

>本ブログでは「機能的意識」という表現を使うことにする。

チャーマーズのこの「機能的意識」の定義は私も同意であり異論はありません。

>それを異邦人さんは、「現象的意識が物理的事実と因果的機能的関係を持ちながら、機能的意識とは重ならない」という驚くべき主張をされ、僕のレポートで適切だとした図3ではなく、図1が適切なのだと主張された。

私の唯物論では(原理的には)全ての現象が物理的現象です。
ですので機能的意識であろうが現象的意識であろうが(原理的には)全て物理的現象であることになります。
つまり全て「物理的事実と因果的機能的に関係する意識」である事になります。
このことはあくまで「原理レベル」での話です。

「現実レベル」では現象的意識を「物理的事実と因果的機能的に関係しない意識」であると見做して問題ありません。
チャーマーズは「現実レベル」で考えているハズですから、それであれば私の(現実レベルの)主張と相違はありません。
また、それであれば横山信幸さんの主張とも大きな相違は無いハズです。

「原理レベル」で述べるのか「現実レベル」で述べるのかで内容が大きく異なって見える場合があります。その点にご留意をお願いします。

「原理レベル」と「現実レベル」でどのように異なるのか例を挙げます。

「原理レベル」
(命題1)死人を生き返らせることは出来ない。 (偽)
(命題2)死人を生き返らせることは可能である。(真)
「現実レベル」
(命題1)死人を生き返らせることは出来ない。 (真)
(命題2)死人を生き返らせることは可能である。(偽)

異邦人さま


>リンゴの形、大きさ、色・・・等の我々が明確に認識できているのが機能的意識です。それに対し、リンゴの形の感じ、大きさの感じ、赤さの感じ・・・等の質感が現象的意識です。


オカシイですね。僕がリンゴを「見ている」「知覚している」とき、【形・大きさ・色etc と区別され得るような】形の感じ・大きさの感じ・赤さの感じetc の【質感】などという代物を感じたりはしません。おそらく多くの人々―クオリアの哲学?に頭をやられた人々は除外させて頂きます―もそうでしょうね。少なくとも僕の周辺で件の【質感】を感じると言う人は皆無です。
ところで、異邦人さまの思想においては、「痛み」や「喜び」等についても機能的意識と現象的意識の差異・区別が存在しているのでしょうか?

異邦人さま


>コギトから内観へは常時情報が流れているのですから我々の心がそれに気付かないハズはありません。
その情報の流れが顕在意識になっていないことも明白な事実です。
ですからその情報の流れが顕在意識にならない形で気付かれていることは明らかです。
>コギトから内観へは常時情報が流れています。
我々の心(内観)は情報を受け取っている当事者なのですから当然ながらその情報の流れがあることは知っています(気付いています)。
そのことは自明です。
そしてその情報の流れが顕在意識になっていないことも明白な事実です。
何が問題なのでしょうか?


そのことは自明です?? ―何が自明なのか全く理解不能です。
既述の通り、異邦人さまのご主張は論証でもなければ・(経験的探究を通して発見された)事実に関する知見でもなく、単なる個人的実感或は空想の表明に過ぎません。
何度でも繰り返しますが、我々の脳(心)が件の「気配」なる代物を【無意識に感じている】こと・それが【顕在意識に現れないこともある】ことを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?
当然ながら、この場合、「極く稀に私(異邦人さま)の顕在意識がそれを感じるからだ!」とか「私(異邦人さま)がそう考えるからだ!」は根拠になりません。
(* 既述の通り、異邦人さまの仰る「気配」と湧水の気配とのアナロジーは成立しないと思います。水の湧出や殺気等を「感じる」というならともかく、件の「気配」等は全く理解出来ません)

ところで、これは僕からの提案ですが、【無意識に感じる】ということに関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるナンセンスに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さま


>一義的には「認識主体としての私の内」+「認識対象としての私の内」です。
我々の認識している心の内のみを対象としている場合は「認識対象としての私の内」のみを指します。
ここで「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
細かいことを言いますと「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。


例えば、[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]は既に確立された幾つかの手段・方法で【工藤庄平本人や第三者が「認識する(=知覚する)」ことも出来る】でしょう。しかし、[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]を認識対象として工藤庄平の現象的意識が生じる―というのはご説明して頂かなければ理解不可能です。何故ならば、【脳内処理を認識対象として現象的意識が生じる】ということの内実が全く不明瞭だからです。

ところで、これは僕からの提案ですが、【脳内処理を認識対象として現象的意識が生じる】に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるナンセンスに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

工藤庄平さん。
>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 22時10分
>脳(心)が【認識】している事象?? ―ここで異邦人さまの仰る「認識」とは如何なる事態を指しているのでしょうか?

脳(心)の中では常時情報処理が行われています。
様々な工程を通して情報処理が行われています。
各工程では「入力-処理-出力」という形で処理が進行しています。
ここで「入力を処理している状態」を(入力を)「認識」していると表現しました。

> 従って、(脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。

繰り返し述べましたとおり、工藤庄平さんの主張は私の下記の命題に全て含まれています。
「我々は我々のあずかり知らぬ因果のネットワークの中で我々の生を生きている」
この私の命題には工藤庄平さんの主張に欠けている最重要な背景も含まれています。

>既述の通り、(脳を含めた)身体は異邦人さまの仰るような【自閉的な・閉じた情報処理系】ではなく、

私はそれが【自閉的な・閉じた情報処理系】であるとは考えていませんし、そう主張したことは一度もありません。
どこで私がそう主張したと仰るのでしょうか?

>>工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 22時31分
> 脳(心)が【認識】している事象?? ―ここで異邦人さまの仰る「認識」とは如何なる事態を指しているのでしょうか?

上のほうで述べました。

>ところで、これは僕からの提案ですが、脳(心)が【認識】している事象?に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるナンセンスに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

機会があれば提案に従うつもりです。(^^;;;

異邦人さま


>脳(心)の中では常時情報処理が行われています。
様々な工程を通して情報処理が行われています。
各工程では「入力-処理-出力」という形で処理が進行しています。
ここで「入力を処理している状態」を(入力を)「認識」していると表現しました。
>「我々は我々のあずかり知らぬ因果のネットワークの中で我々の生を生きている」
この私の命題には工藤庄平さんの主張に欠けている最重要な背景も含まれています。
>私はそれが【自閉的な・閉じた情報処理系】であるとは考えていませんし、そう主張したことは一度もありません。どこで私がそう主張したと仰るのでしょうか?


あれれ、オカシイですね。異邦人さまのご主張は脳内処理の話が殆どですし、異邦人さまによれば、脳=心なのですよね。(脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。
既述の通り、(脳を含めた)身体は異邦人さまの仰るような【自閉的な・閉じた情報処理系】ではなく、[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成する[固有名を与えられた身体から開けた生]なのですから。

ところで、これは僕からの提案ですが、身体と事物世界の相互交流に関する異邦人さまのご主張と僕の見解のどちらが事柄に即しているのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さま


>脳(心)の中では常時情報処理が行われています。
様々な工程を通して情報処理が行われています。
各工程では「入力-処理-出力」という形で処理が進行しています。
ここで「入力を処理している状態」を(入力を)「認識」していると表現しました。


半世紀くらい前の脳科学の入門書を摘み食いしてきたような記述ですね。しかし、いくらなんでも普通「入力」を【認識】とは言わないでしょう。率直に申し上げて、何故最初から「入力」とお書きにならなかったのか理解に苦しみます。
ですが、まあ、この件に関しては了解致しました。

異邦人さま


前回のコメントについて。
言うまでもないと思いますが、「この件に関しては了解致しました」は「異邦人さまのご主張を承認します」を含意しておりません。
念の為。

異邦人さま


>一義的には「認識主体としての私の内」+「認識対象としての私の内」です。
我々の認識している心の内のみを対象としている場合は「認識対象としての私の内」のみを指します。
ここで「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
細かいことを言いますと「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。


とりあえず、異邦人さまのご主張を↓纏めさせて頂きました。

①「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
②「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。
③「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し

あれれ、①②③は明らかに矛盾していますね。「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私の内」と言う場合はその部分集合を指し、「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指す?? ―オカシイと思いませんか。

異邦人さん、

話し合いのルールについて、メタ哲学の立場から提案したコメントに対しても、やはりご自身の哲学論の説明を回答なされる。


異邦人さんが横山の提案を理解されていないのか、横山をバカにしているのか、どちらかに思われます。

異邦人さん、

> 「現実レベル」では現象的意識を「物理的事実と因果的機能的に関係しない意識」であると見做して問題ありません。

見なして問題ない?どういう意味で言われているのか、微妙な言い方ですね。

現象的意識を「物理的事実と因果的機能的に関係しない意識」である
とするのかしないのかはっきりしないということですか?
原理的にではなく現実的なレベルの話でも、
現象的意識を「物理的事実と因果的機能的に関係しない意識」である
としてしまうと、自分の現象的意識について発言することも叶わなくなってしまいます。

僕が指摘しているように、異邦人さんの唯物論は矛盾を抱えていて、その矛盾ゆえはっきりさせられない部分があるのじゃないかと、疑っております。

<「現象的意識」とは何か>

私の唯物論に於ける「現象的意識」の意味について述べます。
この世界は物質のみよりなります。(物質のみが実在)
この世界のあらゆる現象は物理的現象です。
心的現象(クオリアや現象的意識等)も全て物理的現象です。

「心」は「脳の働き(情報処理の総体)」です。
「心」も完全に物理的現象です。

では「現象的意識」は如何なる物理的現象であるのか、それが問題です。
以下リンゴを認識している場面で(視覚に限って)考えます。
リンゴが明確なイメージとして認識されます。
この明確なイメージの認識が機能的意識です。
この明確なイメージに付属して現れる質感(不明瞭な何か)が「現象的意識」です。
「現象的意識」は言語化できない/概念化できない不明瞭な何かです。

リンゴをカメラで写してみましょう。
カメラに写るリンゴには機能的意識に相当する像はありますが現象的意識に相当する像は全く写っていません。
このことから機能的意識が実在のリンゴそのものを直接の対象として生じているのに対し、現象的意識は実在のリンゴそのものを直接の対象として生じている訳ではない事が解ります。
では何を対象として現象的意識が生じているのか、それが問題になります。
リンゴ認識図式を辿ればそれはイメージ生成処理以外にあり得ないことが解ります。
イメージ生成処理では膨大で高度な情報処理が無数の工程に分かれて実行されています。
このイメージ生成処理により明確にイメージ化された結果が機能的意識になります。
明確にイメージ化されるのは膨大な中間生成物のうち極一部(最終結果)のみです。
殆どの中間生成物は明確にイメージ化されません。
この明確にイメージ化されない中間生成物の一部が内観により概念化されたのが「現象的意識」であると推定できます。
内観が概念化の対象とした(明確にイメージ化されない)中間生成物の一部を今回「気配」と表現しました。
このように「気配」は内観がその存在を認識しているが明確なイメージを持たない何かです。
通常の意味で認識できるような対象ではありません。

(私の唯物論では)「現象的意識」はこのように状況証拠より論理的推定で導き出したものです。
この論理的推定結果は「整合的で過不足なき説明可能性」の条件満たしているものと判断しています。
ですのでその論理的推定結果を真実として受け入れています。

工藤庄平さん。
>>2013年10月22日 (火) 00時38分
>あれれ、オカシイですね。異邦人さまのご主張は脳内処理の話が殆どですし、

唯物論の解明すべき問題は「心や心的現象は如何なる物理的現象であるのか」です。
ですので当然「脳(心)」に関する話が中心になります。

>(脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、

「身体と事物世界の相互交流」を問題とするのは存在論の役目でも唯物論の役目でもありません。
それを問題とするのに適した分野で議論なさるべきではないでしょうか?

>脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、

「我々は我々のあずかり知らぬ因果のネットワークの中で我々の生を生きている」
この私の命題を見れば「脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそう」というのは全く的外れであることが明らかです。

>脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。

どうも分野違いの議論に終始しているようにしか見えません。

>ところで、これは僕からの提案ですが、身体と事物世界の相互交流に関する異邦人さまのご主張と僕の見解のどちらが事柄に即しているのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

機会があれば提案に従うつもりです。(^^;;;

>>2013年10月22日 (火) 02時24分
>あれれ、①②③は明らかに矛盾していますね。「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私の内」と言う場合はその部分集合を指し、「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指す?? ―オカシイと思いませんか。

私の主張を無理やり矛盾するように並び替えて批判されても答えようがありません。

異邦人さん、こんにちは。

> この明確なイメージに付属して現れる質感(不明瞭な何か)が「現象的意識」です。
> 「現象的意識」は言語化できない/概念化できない不明瞭な何かです。

もし、仰るとおりなのであれば、なぜ、その現象的意識が物理的事実と因果的機能的に関係すると言えるのか。
また、その因果的機能的な関係とは如何なるものか。

この疑問に答えて説明できるのであれば、異邦人さんの現象的意識は言語化可能な何かでしかないはずであり、
説明できないのであれば、異邦人さんの現象的意識は物理的事実と因果的機能的に関係するとは断言できないはずです。


いかがでしょうか。

異邦人さんの唯物論は、もう随分前の議論の段階から矛盾している、或いは、無意味であることが明らかになっているのではないでしょうか。

改訂すべき箇所を探す作業に移られた方が賢明かもしれないです。

横山信幸さん。
>>横山信幸 | 2013年10月22日 (火) 06時24分

私は現象的意識と機能的意識が重なることは無いと考えておりますので、重なりがあることを前提とした議論には参加できません。
ただそれだけです。それ以上でもそれ以下でもありません。

>>横山信幸 | 2013年10月22日 (火) 07時29分

チャーマーズは現象的意識を「物理的事実と因果的機能的に関係しない意識」であると考えていると思います。
そしてそれは「原理レベル」でそうであると考えているのだと思います。
それに対し私は「原理レベル」では現象的意識は「物理的事実と因果的機能的に関係する意識」であると考えています。
その点で私はチャーマーズと主張を異にしています。

「現実レベル」で考えるなら現象的意識は認識不可能な何かを対象として生じていますので「物理的事実と因果的機能的に関係する意識」であることは確認する術がありません。
結果として「物理的事実と因果的機能的に関係しない意識」であると見做されてしまいますし現実上はそう見做すしかありません。
いくら原理上は「関係する意識」であると主張しても現実上は確認する術がありません。

>それを異邦人さんは、「現象的意識が物理的事実と因果的機能的関係を持ちながら、機能的意識とは重ならない」という驚くべき主張をされ

この横山信幸さんの発言を呼んで横山信幸さんが(私の言う)「現実レベル」で現象的意識を捉えていることを感じました。
この「現実レベル」での捉え方は私の「原理レベル」の捉え方とは一致しないことになります。
殆どの哲学者は(私の言う)「現実レベル」で現象的意識を捉えていますので、横山信幸さんもこの捉え方で進まれる限り既存の哲学者の議論とすれ違うことはありません。
私は「原理レベル」ではどうしても横山信幸さんと(既存の哲学者とも)すれ違うことになります。
これは唯物論の本質に関わるすれ違いであると考えています。

横山信幸さん。(>2013年10月22日 (火) 13時39分)

私の唯物論では原理的にはあらゆる現象が物理的現象です。
あらゆる現象が客観的に記述可能です。
現象的意識も客観的に記述できる物理的現象です。
ですので原理的には現象的意識も物理的事実と因果的機能的に関係する現象として客観的に記述可能です。

現象的意識が(原理上は)「物理的事実と因果的機能的に関係する意識」であることは、「原理的にはあらゆる現象が物理的現象であること」と「(現象的意識を含む)あらゆる現象が客観的に記述可能であること」から必然的に導かれます。
ですので現象的意識は原理上は完全に言語化可能です。
この世界のあらゆる現象は原理上は全て言語化可能です。

しかし現実上は現象的意識は認識不可能な何かを対象として生じる意識です。
ですので現実上は現象的意識は言語化できず概念化できません。

ラプラスの悪魔を登場させれば現象的意識を言語化し概念化することが出来ます。

異邦人さん、

二つの疑問、

1.なぜ現象的意識がある、と分かるのですか。それが「気配」であろうがなにであろうが、分かる根拠があるのなら某かの機能があるのだから分からないはずではないかという疑問。

2.なぜ現象的意識が物理的事実と言えるのかという疑問。
物理的事実は現実的レベルでも検証可能でなければならないと、横山は考えますが、異邦人さんは現実的レベルで検証不可能でも物理的事実と呼べる可能性があるとお考えなのですね。
しかし、検証事実なしにそれが物理的事実だとなぜわかるのでしょう。
単に「物理的事実」と呼ぶことにしようと決めたからそう呼んでいることと変わらないのじゃないですか。
それは「物理的事実」という名の分析的事実なのではないですか。

横山信幸さん。(>2013年10月22日 (火) 15時10分)

>1.なぜ現象的意識がある、と分かるのですか。

現象的意識は直感に与えられるので、端的に直感で知ることが出来ます。
認識云々という以前の問題です。
例えばリンゴを見れば形の感じ、大きさの感じ、赤さの感じ等を端的に知ることが出来ます。

>2.なぜ現象的意識が物理的事実と言えるのかという疑問。

私の唯物論では原理的に全ての現象が物理的現象であり物理的事実です。
全ての現象は原理的に物理的事実ですが現実レベルで検証不可能な物理的事実はいくらでもあります。

異邦人さん、質問を続けさせてください。

2つの質問。

1.現象的意識の存在が、直感によって端的に分かるのであれば、それによって現象的意識の存在を物理空間に向かって語ることはできますか。

2.例えばヒッグス粒子の存在はそれが発見される以前から、物理的事実だと考えられていました。それは、現実的にまだ検証可能なことが実証されていなくても、原理的に検証可能だと考えられていたからです。
現象的意識も物理的事実であるのなら、現実的には検証可能性が実証されていなくても、原理的には検証可能だと考えていいということですか。

横山信幸さん。(>2013年10月22日 (火) 18時47分)

>1.現象的意識の存在が、直感によって端的に分かるのであれば、それによって現象的意識の存在を物理空間に向かって語ることはできますか。

「物理空間に向かって語る」という言葉が初めて触れる表現であるのであるいは間違っているかもしれませんが「物理的現象として語る」という意味に捉えました。
その理解を前提としてお答えいたします。
現実上は無理ですが原理上は可能です。
しかし恐らく直感が原理レベルの把握まで可能になることは考えられません。
その意味では直感によっては「物理的現象として語る」ことは永遠に不可能であろうと思います。
原理上は可能なのですから、直感ということではなく自然科学的方法によってということであれば、遥か遠い将来に実現する可能性はあると考えます。

>現象的意識も物理的事実であるのなら、現実的には検証可能性が実証されていなくても、原理的には検証可能だと考えていいということですか。

そのように考えています。原理上は検証可能と考えています。
原理上は可能なのですから、遥か遠い将来高度に自然科学が発達し脳(心)の詳細な分析が可能になったのであれば、実際に検証可能になる可能性はある、と考えています。

異邦人さん、

質問を重ねさせてもらいます。

二つの疑問。

1.異邦人さん自身の現象的意識は存在しますか。

2.存在するとすれば、それは、直感から直接的経験的にわかるのですか。まだ未発見だったヒッグス粒子のように非直接的非経験的な推測から分かるのですか。

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>「我々は我々のあずかり知らぬ因果のネットワークの中で我々の生を生きている」
この私の命題を見れば「脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそう」というのは全く的外れであることが明らかです。


何度でも繰り返しますが・・・異邦人さまのご主張は脳内処理の話が殆どですし、異邦人さまによれば、脳=心なのですよね。
(脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。
既述の通り、(脳を含めた)身体は異邦人さまの仰るような【自閉的な・閉じた情報処理系】ではなく、[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成する[固有名を与えられた身体から開けた生]なのですから。

ところで、これは僕からの提案ですが、身体と事物世界の相互交流に関する異邦人さまのご主張と僕の見解のどちらが事柄に即しているのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さま


>私の主張を無理やり矛盾するように並び替えて批判されても答えようがありません。


無理やり矛盾するように並び変えて?? ―あれれ、嘘つきは泥棒の始まり、ですよ。
僕は↓異邦人さまのご主張

>一義的には「認識主体としての私の内」+「認識対象としての私の内」です。
我々の認識している心の内のみを対象としている場合は「認識対象としての私の内」のみを指します。
ここで「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
細かいことを言いますと「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。

をそのまま再録しただけですが?
異邦人さまによれば、「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私の内」と言う場合はその部分集合を指す?? ―オカシイと思いませんか。一連のご主張は明らかに矛盾しています。
そういえば、横山さんも↓似たような話

異邦人さんの唯物論は、もう随分前の議論の段階から矛盾している、或いは、無意味であることが明らかになっているのではないでしょうか。
改訂すべき箇所を探す作業に移られた方が賢明かもしれないです。

をしていましたね。

ところで、これは僕からの提案ですが、一連のご主張が筋の通ったものであるのかどうか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さま


↓僕の質問

あれれ、オカシイですね。それでは【目を閉じて黙想している】ときは【何を対象として現象的意識が生じる】のでしょうか?

に対して、異邦人さまは↓以下のように

当然記憶内容を対象として生じることになります。
何か問題がありますでしょうか?

ご返答されましたが、抑も【記憶内容を対象として現象的意識が生じる】とは具体的にどういうことなのでしょうか?
例えば、リンゴ(客観的個物)を「認識する(=知覚する)」ことと記憶内容(心的な事柄)を「対象として生じる(=?)」ことの差異を具体的にご説明して頂けますか?

異邦人さま


>リンゴの形、大きさ、色・・・等の我々が明確に認識できているのが機能的意識です。それに対し、リンゴの形の感じ、大きさの感じ、赤さの感じ・・・等の質感が現象的意識です。


オカシイですね。僕がリンゴを「見ている」「知覚している」とき、【形・大きさ・色etc と区別され得るような】形の感じ・大きさの感じ・赤さの感じetc の【質感】などという代物を感じたりはしません。おそらく多くの人々―クオリアの哲学?に頭をやられた人々は除外させて頂きます―もそうでしょうね。少なくとも僕の周辺で件の【質感】を感じると言う人は皆無です。
ところで、異邦人さまの思想においては、「痛み」や「喜び」等についても機能的意識と現象的意識の差異・区別が存在しているのでしょうか?

異邦人さま


>一義的には「認識主体としての私の内」+「認識対象としての私の内」です。
我々の認識している心の内のみを対象としている場合は「認識対象としての私の内」のみを指します。
ここで「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
細かいことを言いますと「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。


例えば、[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]は既に確立された幾つかの手段・方法で【工藤庄平本人や第三者が「認識する(=知覚する)」ことも出来る】でしょう。しかし、[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]を認識対象として工藤庄平の現象的意識が生じる―というのはご説明して頂かなければ理解不可能です。何故ならば、【脳内処理を認識対象として現象的意識が生じる】ということの内実が全く不明瞭だからです。


>脳(心)の中では常時情報処理が行われています。
様々な工程を通して情報処理が行われています。
各工程では「入力-処理-出力」という形で処理が進行しています。
ここで「入力を処理している状態」を(入力を)「認識」していると表現しました。


半世紀くらい前の脳科学の入門書を摘み食いしてきたような記述ですね。しかし、いくらなんでも普通「入力」を【認識】とは言わないでしょう。率直に申し上げて、何故最初から「入力」とお書きにならなかったのか理解に苦しみます。
既に縷言したと思いますが・・・今現に僕(工藤庄平)が左肩の痛みを感じているときの
①[工藤庄平なる身体に生起する痛み]と②[工藤庄平なる身体の神経発火]の関係(=認識論的差異・区別)は異邦人さまの仰る「入力-処理-出力」ではありません。
猶、①と②の認識論的差異・区別については↓以下のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82300192
をご参照ください。横山さんには理解して頂けたようです。

異邦人さま


>リンゴをカメラで写してみましょう。
カメラに写るリンゴには機能的意識に相当する像はありますが現象的意識に相当する像は全く写っていません。
このことから機能的意識が実在のリンゴそのものを直接の対象として生じているのに対し、現象的意識は実在のリンゴそのものを直接の対象として生じている訳ではない事が解ります。


このことから?? ―オカシイですね。何を論拠に「このことから」「解ります」なのでしょうか? 一連のご主張を読む限り、異邦人さまの仰る機能的意識・現象的意識なる代物とカメラ撮影のアナロジーが成立するのかどうか全く分かりません。

ところで、これは僕からの提案ですが、【脳内処理を認識対象として現象的意識が生じる】に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

横山信幸さん。(>2013年10月22日 (火) 21時48分)

>1.異邦人さん自身の現象的意識は存在しますか。

もちろんリンゴの丸さの感じや赤さの感じを直感しますが?(^^;;;

>2.存在するとすれば、それは、直感から直接的経験的にわかるのですか。

もちろん直感でわかります?(^^;;;

工藤庄平さん。
>>工藤庄平 | 2013年10月22日 (火) 22時23分
>異邦人さまのご主張は脳内処理の話が殆どですし

前回説明しましたが?

> (脳を含めた)身体と事物世界の相互交流を軽視し、

前回説明しましたが?

>脳内処理のプロセスに我々の[生]を還元し尽くそうとする試みは、我々の[生]―精確に言えば、[固有名を与えられた身体から開けた生]―が[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成しているという事実を捉え損なっていると思います。台風や日本海や銀河系etcと同様、各人の脳内で生起している様々な処理も又[現実=諸事物のネットワークの総体]の一部に過ぎません。

存在論の話題ではありませんね?

>(脳を含めた)身体は異邦人さまの仰るような【自閉的な・閉じた情報処理系】ではなく、

前回説明しましたが?

>[現実=諸事物のネットワークの総体]に開かれ・侵食され・含み込まれつつ在るという相互交流において生成する[固有名を与えられた身体から開けた生]なのですから。

存在論の話題ではありませんね?

>ところで、これは僕からの提案ですが、身体と事物世界の相互交流に関する異邦人さまのご主張と僕の見解のどちらが事柄に即しているのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

機会があれば提案に従うつもりです。(^^;;;

>>工藤庄平 | 2013年10月22日 (火) 22時44分
>そのまま再録しただけですが?

全く再録になっていません。

>ところで、これは僕からの提案ですが、一連のご主張が筋の通ったものであるのかどうか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

機会があれば提案に従うつもりです。(^^;;;

>>工藤庄平 | 2013年10月22日 (火) 22時56分
> 例えば、リンゴ(客観的個物)を「認識する(=知覚する)」ことと記憶内容(心的な事柄)を「対象として生じる(=?)」ことの差異を具体的にご説明して頂けますか?

以前に返答済みです。「工藤庄平 | 2013年10月21日 (月) 21時56分」

>>工藤庄平 | 2013年10月22日 (火) 22時57分
>異邦人さまの思想においては、「痛み」や「喜び」等についても機能的意識と現象的意識の差異・区別が存在しているのでしょうか?

もちろん存在しています。

>>工藤庄平 | 2013年10月22日 (火) 23時14分
>しかし、[工藤庄平の脳内において生起する物理的プロセス]を認識対象として工藤庄平の現象的意識が生じる―というのはご説明して頂かなければ理解不可能です。何故ならば、【脳内処理を認識対象として現象的意識が生じる】ということの内実が全く不明瞭だからです。

私のコメント<「現象的意識」とは何か>をご参照下さい。

>半世紀くらい前の脳科学の入門書を摘み食いしてきたような記述ですね。しかし、いくらなんでも普通「入力」を【認識】とは言わないでしょう。率直に申し上げて、何故最初から「入力」とお書きにならなかったのか理解に苦しみます。

私のコメント<「現象的意識」とは何か>をご参照下さい。
「気配」について表現し直しています。

> 既に縷言したと思いますが・・・今現に僕(工藤庄平)が左肩の痛みを感じているときの①[工藤庄平なる身体に生起する痛み]と②[工藤庄平なる身体の神経発火]の関係(=認識論的差異・区別)は異邦人さまの仰る「入力-処理-出力」ではありません。

その通りですが、何か問題でもありますでしょうか?

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>前回説明しましたが?


僕からの提案ですが、異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。


>存在論の話題ではありませんね?


あれれ、オカシイですね。畢竟、異邦人さまのお話は①(机上の概念分析ではなく)自然科学によって解明されるべき事実問題に対する②異邦人さまの個人的実感・空想に基づく形而上学的主張に尽きている―と思うのですが。
とはいえ、事物世界の在り方に関する問いは事実問題であって、机上の概念分析のみによって解明することは不可能でしょう。

とりあえず、「痛み」や「喜び」等における機能的意識と現象的意識の差異・区別がどのようなものであるのか具体的に説明して頂けますか。

異邦人さま


>私のコメント<「現象的意識」とは何か>をご参照下さい。「気配」について表現し直しています。
>この明確にイメージ化されない中間生成物の一部が内観により概念化されたのが「現象的意識」であると推定できます。内観が概念化の対象とした(明確にイメージ化されない)中間生成物の一部を今回「気配」と表現しました。
このように「気配」は内観がその存在を認識しているが明確なイメージを持たない何かです。通常の意味で認識できるような対象ではありません。


あれれ、オカシイですね。件の「気配」を我々の脳(心)が【無意識に感じる】という以前のご主張は撤回されたわけですね?
さて、しかし、異邦人さまの用語で言う「内観」「概念化」「中間生成物」「イメージ」「認識」の内実が全く不明瞭なので何とも言いようがありません。
既に縷言した筈ですが、異邦人さまのご主張は論証でもなければ・(経験的探究を通して発見された)事実に関する知見でもなく、単なる個人的実感或は空想の表明に過ぎないと思います。
ところで、異邦人さまの仰る「内観」なる代物が件の「気配」なる代物を認識していることを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?
当然ながら、この場合、「私(異邦人さま)の内観がそれを感じるからだ!」とか「私(異邦人さま)がそう考えるからだ!」は根拠になりません。
(* 既述の通り、異邦人さまの仰る「気配」と湧水の気配とのアナロジーは成立しないと思います。水の湧出や殺気等を「感じる」というならともかく、件の「気配」等は全く理解出来ません)

ところで、これは僕からの提案ですが、異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さま


>全く再録になっていません。


あれれ、嘘の上塗りですか? 既に申し上げた筈ですが、論拠を欠いた個人的実感・空想・信念を並べ立てたり、誰の目にも明らかな詭弁を弄したりすることは哲学的議論を冒涜するものでしかないと思います。
何度でも繰り返しますが、僕は↓異邦人さまのご主張

>一義的には「認識主体としての私の内」+「認識対象としての私の内」です。
我々の認識している心の内のみを対象としている場合は「認識対象としての私の内」のみを指します。
ここで「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
細かいことを言いますと「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。

をコピペしただけです。
異邦人さまによれば、「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私の内」と言う場合はその部分集合を指す?? ―オカシイと思いませんか。一連のご主張は明らかに矛盾しています。
そういえば、横山さんも↓似たような話

異邦人さんの唯物論は、もう随分前の議論の段階から矛盾している、或いは、無意味であることが明らかになっているのではないでしょうか。
改訂すべき箇所を探す作業に移られた方が賢明かもしれないです。

をしていましたね。

ところで、これは僕からの提案ですが、一連のご主張が筋の通ったものであるのかどうか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

工藤さん

すでに不要な心配であったなら容赦してもらいたいのですが、
工藤さんの「ところで、これは僕からの提案ですが、」の一連のフレーズはあまりに繰り返されて、建設的な提案というよりただの嫌味に見えてしまうかもしれない表現になっていると思われます。

意見の相違や不理解があったとしても、相手を蔑んでいるように取られかねない表現は慎むよう心がけましょう。

失礼ながら少し心配になりましたのて忠言させていただきます。


自分自身にも言い聞かせ心に止めておきたいと思います。
異邦人さんもよろしくお願いします。

異邦人さん、

2つの矛盾。

1.現象的意識は言語化不可能である。
かつ、
異邦人さんがご自身の現象的意識の存在を言葉で語っている。

2.現象的意識は現実的に検証不可能である。
かつ、
異邦人さんが現実的にご自身の現象的意識を検証している。

2つの矛盾より、現象的意識が言語化不可能で現実的に検証不可能であるとは言えない。つまり、現象的意識が現実的に機能を持たないとは言えない。

いかがでしょうか。

工藤庄平さん。
>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 01時04分
>僕からの提案ですが、異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

お互いそうしたほうが良さそうですね。

>あれれ、オカシイですね。畢竟、異邦人さまのお話は①(机上の概念分析ではなく)自然科学によって解明されるべき事実問題に対する②異邦人さまの個人的実感・空想に基づく形而上学的主張に尽きている―と思うのですが。

工藤庄平さんはそうお考えなのですね。

>とりあえず、「痛み」や「喜び」等における機能的意識と現象的意識の差異・区別がどのようなものであるのか具体的に説明して頂けますか。

例えば電柱にぶつかった場合ですと、ダメージの具合、ダメージの自分に与える影響の判断、対応行動の決定等の認識が機能的意識であり、痛みそのものが現象的意識である、大雑把には考えています。
喜びの場合、喜び元になった事柄、それが自分に与える影響の判断、周りの評価等の認識が機能的認識であり、喜びという感情そのものが現象的意識である、と大雑把には考えています。

>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 01時25分
>あれれ、オカシイですね。件の「気配」を我々の脳(心)が【無意識に感じる】という以前のご主張は撤回されたわけですね?

内観が完全にイメージ化されていない部分を概念化している処理を前回は【無意識に感じる】と表現しただけです。
完全にイメージ化されていない部分が「入力」であり、それを概念化するのが「処理」です。
同じ事柄を表現を変えて述べているだけです。

>ところで、異邦人さまの仰る「内観」なる代物が件の「気配」なる代物を認識していることを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?

我々が現象的意識を感じているという事実と、そしてそれが言語化できない何かであるという事実からです。

>ところで、これは僕からの提案ですが、異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

お互いそうしたほうが良さそうですね。

>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 01時40分
>をコピペしただけです。

私のコメントをコピペした部分はコピペになっていますが、工藤庄平さんが纏められた部分は全くコピペになっていません。

>ところで、これは僕からの提案ですが、一連のご主張が筋の通ったものであるのかどうか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

お互いそうしたほうが良さそうですね。

横山信幸さん。(>2013年10月23日 (水) 07時21分)

>1.現象的意識は言語化不可能である。
かつ、 異邦人さんがご自身の現象的意識の存在を言葉で語っている。

現象的意識の存在を言語化することと現象的意識そのものを言語化することとは全く別の事柄です。
現象的意識の存在を言語化することは出来ますが現象的意識そのものを言語化することはできません。
どこにも矛盾はありません。
例えば、リンゴの丸さの感じや赤さの感じが存在することは言語化できますが、リンゴの丸さの感じや赤さの感じを言語化することは出来ません。

>2.現象的意識は現実的に検証不可能である。
かつ、 異邦人さんが現実的にご自身の現象的意識を検証している。

現象的意識の存在を検証することと現象的意識そのものを検証することとは全く別の事柄です。
現象的意識の存在を検証することは出来ますが現象的意識そのものを検証することはできません。
どこにも矛盾はありません。

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>私のコメントをコピペした部分はコピペになっていますが、工藤庄平さんが纏められた部分は全くコピペになっていません。


工藤庄平さんが纏められた部分?? ―オカシイですね、また嘘の上塗りですか?
何度でも繰り返しますが・・・論拠を欠いた個人的実感・空想・信念を並べ立てたり、誰の目にも明らかな詭弁を弄したりすることは哲学的議論を冒涜するものでしかないと思います。
既述の通り、僕は↓異邦人さまのご主張

>一義的には「認識主体としての私の内」+「認識対象としての私の内」です。
我々の認識している心の内のみを対象としている場合は「認識対象としての私の内」のみを指します。
ここで「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
細かいことを言いますと「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。

をコピペしただけです。
異邦人さまによれば、「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私の内」と言う場合はその部分集合を指す?? ―オカシイと思いませんか。一連のご主張は明らかに矛盾しています。
そういえば、横山さんも↓似たような話

異邦人さんの唯物論は、もう随分前の議論の段階から矛盾している、或いは、無意味であることが明らかになっているのではないでしょうか。
改訂すべき箇所を探す作業に移られた方が賢明かもしれないです。

をしていましたね。

ご自身の主張が筋の通ったものであるのかどうか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

異邦人さん

「現象的意識そのもの」という新しい用語が出てきましたのでまた、質問を繰り返されてください。

1.現象的意識そのものは言語化不可能であるということですが、現象的意識そのものは存在しますか。
2.存在するとすればそれがなぜわかるのでしょうか。
存在しないとすれば、異邦人さんは現象的意識そのものについてなぜ何を語っておられるのでしょうか。

異邦人さま


>現象的意識の存在を言語化することと現象的意識そのものを言語化することとは全く別の事柄です。
現象的意識の存在を言語化することは出来ますが現象的意識そのものを言語化することはできません。
どこにも矛盾はありません。
例えば、リンゴの丸さの感じや赤さの感じが存在することは言語化できますが、リンゴの丸さの感じや赤さの感じを言語化することは出来ません。


↑件のご主張を僕が正しいと考える方向に解釈すれば、[固有名を与えられた身体から開けた生]や[現実=諸事物のネットワークの総体]を言語活動―誰かが[固有名を与えられた身体から開けた生]や[現実=諸事物のネットワークの総体]が存在すると【考え】たり、[固有名を与えられた身体から開けた生]や[現実=諸事物のネットワークの総体]という【語を発する】こと―に還元することは出来ない、となるわけですが。

異邦人さま


>リンゴをカメラで写してみましょう。
カメラに写るリンゴには機能的意識に相当する像はありますが現象的意識に相当する像は全く写っていません。
このことから機能的意識が実在のリンゴそのものを直接の対象として生じているのに対し、現象的意識は実在のリンゴそのものを直接の対象として生じている訳ではない事が解ります。


このことから?? ―オカシイですね。何を論拠に「このことから」「解ります」なのでしょうか? 一連のご主張を読む限り、異邦人さまの仰る機能的意識・現象的意識なる代物とカメラ撮影のアナロジーが成立するのかどうか全く分かりません。

【脳内処理を認識対象として現象的意識が生じる】に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・様々な分野の人間に判定してもらった方が良いと思いますよ。

異邦人さま


>内観が完全にイメージ化されていない部分を概念化している処理を前回は【無意識に感じる】と表現しただけです。
完全にイメージ化されていない部分が「入力」であり、それを概念化するのが「処理」です。
同じ事柄を表現を変えて述べているだけです。


そうでしたか。件の「気配」を我々の脳(心)が【無意識に感じる】という以前のご主張は撤回していないということですね?
とはいえ、異邦人さまの用語法「無意識に感じる」「内観」「概念化」「中間生成物」「イメージ」「認識」に対する具体的な説明が全く無いという現状では、異邦人さまの仰る【同じ事柄】イコールご自身の実感・空想・信念と見做さざるを得ません。異邦人さまのご主張は論証でもなければ・(経験的探究を通して発見された)事実に関する知見でもなく、単なる個人的実感或は空想の表明に過ぎないのではないでしょうか。
例えば、異邦人さまの仰る「内観」なる代物が件の「気配」なる代物を認識していることを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?
当然ながら、この場合、「私(異邦人さま)の内観がそれを感じるからだ!」とか「私(異邦人さま)がそう考えるからだ!」は根拠になりません。
(* 既述の通り、異邦人さまの仰る「気配」と湧水の気配とのアナロジーは成立しないと思います。水の湧出や殺気等を「感じる」というならともかく、件の「気配」等は全く理解出来ません)

【無意識に感じるもの】である「気配」に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・様々な分野の人間に判定してもらった方が良いと思いますよ。

工藤庄平さん。
>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 10時50分
>をコピペしただけです。

前回返答済みです。

>ご自身の主張が筋の通ったものであるのかどうか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

以前に返答済みです。

>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 11時26分
>↑件のご主張を僕が正しいと考える方向に解釈すれば、[固有名を与えられた身体から開けた生]や[現実=諸事物のネットワークの総体]を言語活動―誰かが[固有名を与えられた身体から開けた生]や[現実=諸事物のネットワークの総体]が存在すると【考え】たり、[固有名を与えられた身体から開けた生]や[現実=諸事物のネットワークの総体]という【語を発する】こと―に還元することは出来ない、となるわけですが。

存在論の話題とは思えません。

>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 11時40分
>【脳内処理を認識対象として現象的意識が生じる】に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・様々な分野の人間に判定してもらった方が良いと思いますよ。

以前に返答済みです。

>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 12時01分
>例えば、異邦人さまの仰る「内観」なる代物が件の「気配」なる代物を認識していることを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?

以前に返答済みです。

>【無意識に感じるもの】である「気配」に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、それとも単なるトンデモに過ぎないのか・・・様々な分野の人間に判定してもらった方が良いと思いますよ。

以前に返答済みです。

横山信幸さん。(>横山信幸 | 2013年10月23日 (水) 11時03分)

>「現象的意識そのもの」という新しい用語が出てきましたのでまた、質問を繰り返されてください。

「現象的意識そのもの」とは「現象的意識」のことです。
「現象的意識の存在」と「現象的意識」について語る場合、「現象的意識の存在」について語ることとの違いを強調するため「そのもの」という表現を付け加えています。

>1.現象的意識そのものは言語化不可能であるということですが、現象的意識そのものは存在しますか。
2.存在するとすればそれがなぜわかるのでしょうか。
;
直感によってです。(^^;;;

下記のチャーマーズの主張と同じ意味でです。
「明らかにわれわれは自分に意識体験があると判断しているだけでない。意識体験があると知っているのだ。」チャーマーズ

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>以前に返答済みです。


具体的なご説明は提出出来ないとお認めになったわけですね。わかりました。

とはいえ、論拠を欠いた個人的実感・空想・信念を並べ立てたり、誰の目にも明らかな詭弁を弄したりすることは哲学的議論を冒涜するものでしかないと思います。
とりあえず、↓コピペの件

>一義的には「認識主体としての私の内」+「認識対象としての私の内」です。
我々の認識している心の内のみを対象としている場合は「認識対象としての私の内」のみを指します。
ここで「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指します。
細かいことを言いますと「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し「私の内」と言う場合はその部分集合を指します。

を挙げておきましょうか。
異邦人さまによれば、「私の内」とは脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私」と言う場合は脳内で行われる情報処理の総体を指し、「私の内」と言う場合はその部分集合を指す?? ―オカシイと思いませんか。一連のご主張は明らかに矛盾しています。
そういえば、横山さんも↓似たような話

異邦人さんの唯物論は、もう随分前の議論の段階から矛盾している、或いは、無意味であることが明らかになっているのではないでしょうか。
改訂すべき箇所を探す作業に移られた方が賢明かもしれないです。

をしていましたね。

ご自身の主張が筋の通ったものであるのかどうか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

僕は討論の軸が共有できなかったりイメージが共有できなかったりして、話が進まず堂々巡りになると、ついイライラしてしまったり否定的な感情を持ったりします。それはよくあることですし悪いことではないと思います。
しかし、そのために哲学的思索以外の内容を否定するような言動や表現をしてしまうのは良くないと考えています。


話が進まず堂々巡りになったときには同じ議論であるがゆえに以前と同じ意見の文章を繰り返してしまいがちになりますが、まったく同じ文章を繰り返すのは相手をバカにしたり哲学以外の内容を否定したりしているような雰囲気を作ってしまうこともあります。

だから、堂々巡りの議論になっても以前と違う表現を工夫するように心がけることを提案したいと思います。いちいち面倒かもしれませんが、少しでも議論を建設的にするために役立つと思いますので、よろしくお願いします。

>哲学的思索以外の内容を否定するような言動や表現をしてしまうのは良くないと考えています。


哲学的思索【以外】の内容を否定する?? ―論拠無き個人的信念・空想の押し売りや誰の目にも明白な詭弁を並べ立てることは哲学的思索の名に値しないと思いますが・・・

異邦人さま


>内観が完全にイメージ化されていない部分を概念化している処理を前回は【無意識に感じる】と表現しただけです。
完全にイメージ化されていない部分が「入力」であり、それを概念化するのが「処理」です。
同じ事柄を表現を変えて述べているだけです。
>直感によってです。
下記のチャーマーズの主張と同じ意味でです。
「明らかにわれわれは自分に意識体験があると判断しているだけでない。意識体験があると知っているのだ。」チャーマーズ


あれれ、オカシイですね。異邦人さまはご自身の実感・空想・信念(と見做さざるを得ません)である「気配」「現象的意識」について①我々の脳(心)が【無意識に感じる】とも②【直感】によって知るとも仰る。加えて、チャーマーズの原書を読んでいないにも関わらず、②はチャーマーズの主張と同じであると仰る。
しかしながら、②自らの意識体験を「知る」ことは―例えば、「私は痛みを感じている」という文とその文を真にする[固有名を与えられた身体において生起する痛み]の差異を理解し得る【人格】↓即ち、再帰的な自己了解を為し得る反省的主体・意識
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79813863
を前提していますね。付言しますと、横山さんも↓同じ見解
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comments
に至ったようですが。
従って、異邦人さまの仰る②【直感】によって知る は【反省的主体・意識を前提していなければならない】ことになります。このことと①我々の脳(心)が【無意識に感じる】というご主張は矛盾しているのではないでしょうか?

しかも、異邦人さまの用語法「無意識に感じる」「内観」「概念化」「中間生成物」「イメージ」「認識」に対する具体的な説明が全く無いという現状では、異邦人さまの仰る【同じ事柄】イコールご自身の実感・空想・信念と見做さざるを得ません。異邦人さまのご主張は論証でもなければ・(経験的探究を通して発見された)事実に関する知見でもなく、単なる個人的実感或は空想の表明に過ぎないのではないでしょうか。
例えば、異邦人さまの仰る「内観」なる代物が件の「気配」なる代物を認識していることを何故異邦人さまは「知っている」のでしょうか?
当然ながら、この場合、「私(異邦人さま)の内観がそれを感じるからだ!」とか「私(異邦人さま)がそう考えるからだ!」は根拠になりません。
(* 既述の通り、異邦人さまの仰る「気配」と湧水の気配とのアナロジーは成立しないと思います。水の湧出や殺気等を「感じる」というならともかく、件の「気配」等は全く理解出来ません)


【無意識に感じるもの】である「気配」「現象的意識」に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、単なる支離滅裂なのか・・・僕以外の人々に検証してもらうことをお勧めします。

異邦人さん、

かなり議論が広がってきて面白いです。ありがとうございます。

1.直感によって現象的意識があることが分かり、その存在については言語化できるが内容については言語化できないということでいいですか。

2.そうだとすると、現象的意識そのものに関する直感は内容がないと考えていいですか。

3.また、現象的意識の直感は現象的意識からの物理的因果で生じるのですか。

異邦人さま


>現象的意識は内観の内でその正体が認識不可能な意識です。機能的意識は内観の内でその正体が認識可能な意識です。
二つは明確に異なりますので重なることはあり得ません。
>機能的意識は内観で明確に認識されるイメージです。現象的意識は気配は感じるが内観で認識不可能な何かです。
>リンゴの形、大きさ、色・・・等の我々が明確に認識できているのが機能的意識です。それに対し、リンゴの形の感じ、大きさの感じ、赤さの感じ・・・等の質感が現象的意識です。
>もちろんリンゴの丸さの感じや赤さの感じを直感しますが?
>例えば、リンゴの丸さの感じや赤さの感じが存在することは言語化できますが、リンゴの丸さの感じや赤さの感じを言語化することは出来ません。


オカシイですね。例えば、僕がリンゴを見ている(知覚している)とき、【形・大きさ・色etc と区別され得るような】形の感じ・大きさの感じ・赤さの感じetc の【質感】などという代物を感じたりはしません。おそらく多くの人々―クオリアの哲学?に頭をやられた人々は除外させて頂きます―もそうだと思います。少なくとも僕の周辺で異邦人さまの仰るような【質感】を感じると言う人は皆無でした。【今現に】君がリンゴを見ていなくても、君は「このリンゴは表面がデコボコしていて小ぶりで赤みが強い」という文を使用出来るのではないか?という話であれば何の問題もなく同意出来るのですが・・・
とはいえ、↓過去のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/11-8d5c.html#comment-81902567
で示唆しておいた通り、我々は痛覚等の【内的感覚】或は苦悩や歓喜等の【感情】については①「左肩が痛い」「私は嬉しい」という文と②その文を真にする[固有名を与えられた身体において生起する痛み][固有名を与えられた身体において生起する歓喜]の差異を理解しているし、①と②の差異を理解していることと今現に[固有名を与えられた身体において生起している痛み]等との差異も【体感し得る】筈ですね。そして、既に論じたように、①と②の区別を理解し得るのは【人格=再帰的な自己了解を為し得る反省的主体・意識】なのでした。
以上、これまで述べてきたことからの必然的帰結として、「現象的意識と機能的意識は明確に異なるので重なることはあり得ない」という異邦人さまのご主張は矛盾していることになります。念の為?に↓前回のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82606478
と併せてお読みください。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82427481
付言しますと、「明確に区別され得る現象的意識と機能的意識が存在する」という謬見の源泉は(サールの表現を借りて言えば)一人称の存在論と三人称の存在論の文法的関係に対する誤解、でしょうね。例えば、チャーマーズは一人称の存在論と三人称の存在論の文法的差異を論拠にして(物理的なものに付随しない・非機能的な)現象的意識なる代物の実在性を主張するわけですが、実際に彼がしていることは予め規定しておいたトートロジーの確認作業―もし物理的なものに付随しない・非機能的な現象的意識が存在するならば、それは物理的なものに付随していない!―に過ぎません。チャーマーズの失敗は彼の言う現象的意識・機能的意識が文法的虚構でしかないことを明白に示していると思います。異邦人さまのご主張も又然り。

工藤庄平さん。
>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 13時16分
>コピペの件

以前の返答をお読み頂けたでしょうか?

>ご自身の主張が筋の通ったものであるのかどうか・・・僕以外の人々にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

以前に返答済みです。

>>工藤庄平 | 2013年10月23日 (水) 14時17分
>【無意識に感じるもの】である「気配」「現象的意識」に関する異邦人さまのご説明?が十全なものであるのか、単なる支離滅裂なのか・・・僕以外の人々に検証してもらうことをお勧めします。

以前に返答済みです。

横山信幸さん。(>2013年10月23日 (水) 14時59分)

>1.直感によって現象的意識があることが分かり、その存在については言語化できるが内容については言語化できないということでいいですか。

そのように考えています。

>2.そうだとすると、現象的意識そのものに関する直感は内容がないと考えていいですか。

「内容がない」という言葉の意味が問題ですが...
「対象が認識できない」という意味でしたら「YES」です。
「(認識できない)その対象が存在しない」という意味でしたら「NO」です。

>3.また、現象的意識の直感は現象的意識からの物理的因果で生じるのですか。

現象的意識の直感は「認識できない何か」を対象として生じます。
(原理上は物理的因果で生じますが現実上は検証不可能です)
「現象的意識から」という表現には当たらないと考えます。
現象的意識は直感の結果として認識されます。


異邦人さま


>内観が完全にイメージ化されていない部分を概念化している処理を前回は【無意識に感じる】と表現しただけです。
完全にイメージ化されていない部分が「入力」であり、それを概念化するのが「処理」です。
同じ事柄を表現を変えて述べているだけです。
>直感によってです。
下記のチャーマーズの主張と同じ意味でです。
「明らかにわれわれは自分に意識体験があると判断しているだけでない。意識体験があると知っているのだ。」チャーマーズ
>現象的意識の直感は「認識できない何か」を対象として生じます。
現象的意識は直感の結果として認識されます。


あれれ、オカシイですね。異邦人さまはご自身の実感・空想・信念(と見做さざるを得ません)である「気配」「現象的意識」について①我々の脳(心)が【無意識に感じる】とも②【直感】によって知るとも仰る。加えて、チャーマーズの原書を読んでいないにも関わらず、②はチャーマーズの主張と同じであると仰る。
しかしながら、②自らの意識体験を「知る」ことは―例えば、「私は痛みを感じている」という文とその文を真にする[固有名を与えられた身体において生起する痛み]の差異を理解し得る【人格】↓即ち、再帰的な自己了解を為し得る反省的主体・意識
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79813863
を前提していますね。付言しますと、横山さんも↓同じ見解
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comments
に至ったようですが。
従って、異邦人さまの仰る②【直感】によって知る は【反省的主体・意識を前提していなければならない】ことになります。このことと①我々の脳(心)が【無意識に感じる】というご主張は矛盾しているのではないでしょうか?

異邦人さま


>現象的意識は内観の内でその正体が認識不可能な意識です。機能的意識は内観の内でその正体が認識可能な意識です。
二つは明確に異なりますので重なることはあり得ません。
>機能的意識は内観で明確に認識されるイメージです。現象的意識は気配は感じるが内観で認識不可能な何かです。
>リンゴの形、大きさ、色・・・等の我々が明確に認識できているのが機能的意識です。それに対し、リンゴの形の感じ、大きさの感じ、赤さの感じ・・・等の質感が現象的意識です。
>もちろんリンゴの丸さの感じや赤さの感じを直感しますが?
>例えば、リンゴの丸さの感じや赤さの感じが存在することは言語化できますが、リンゴの丸さの感じや赤さの感じを言語化することは出来ません。


オカシイですね。例えば、僕がリンゴを見ている(知覚している)とき、【形・大きさ・色etc と区別され得るような】形の感じ・大きさの感じ・赤さの感じetc の【質感】などという代物を感じたりはしません。おそらく多くの人々―クオリアの哲学?に頭をやられた人々は除外させて頂きます―もそうだと思います。少なくとも僕の周辺で異邦人さまの仰るような【質感】を感じると言う人は皆無でした。【今現に】君がリンゴを見ていなくても、君は「このリンゴは表面がデコボコしていて小ぶりで赤みが強い」という文を使用出来るのではないか?という話であれば何の問題もなく同意出来るのですが・・・
とはいえ、↓過去のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/11-8d5c.html#comment-81902567
で示唆しておいた通り、我々は痛覚等の【内的感覚】或は苦悩や歓喜等の【感情】については①「左肩が痛い」「私は嬉しい」という文と②その文を真にする[固有名を与えられた身体において生起する痛み][固有名を与えられた身体において生起する歓喜]の差異を理解しているし、①と②の差異を理解していることと今現に[固有名を与えられた身体において生起している痛み]等との差異も【体感し得る】筈ですね。そして、既に論じたように、①と②の区別を理解し得るのは【人格=再帰的な自己了解を為し得る反省的主体・意識】なのでした。
以上、これまで述べてきたことからの必然的帰結として、「現象的意識と機能的意識は明確に異なるので重なることはあり得ない」という異邦人さまのご主張は矛盾していることになります。念の為?に↓前回のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82606478
と併せてお読みください。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82427481
付言しますと、「明確に区別され得る現象的意識と機能的意識が存在する」という謬見の源泉は(サールの表現を借りて言えば)一人称の存在論と三人称の存在論の文法的関係に対する誤解、でしょうね。例えば、チャーマーズは一人称の存在論と三人称の存在論の文法的差異を論拠にして(物理的なものに付随しない・非機能的な)現象的意識なる代物の実在性を主張するわけですが、実際に彼がしていることは予め規定しておいたトートロジーの確認作業―もし物理的なものに付随しない・非機能的な現象的意識が存在するならば、それは物理的なものに付随していない!―に過ぎません。チャーマーズの失敗は彼の言う現象的意識・機能的意識が文法的虚構でしかないことを明白に示していると思います。異邦人さまのご主張も又然り。

異邦人さま


>現象的意識の直感は「認識できない何か」を対象として生じます。
(原理上は物理的因果で生じますが現実上は検証不可能です)
「現象的意識から」という表現には当たらないと考えます。
現象的意識は直感の結果として認識されます。


どうも異邦人さまの用語法は掴みどころが無くて閉口しますね。異邦人さまは①現象的意識の直感は「認識できない何か」を対象として生じ②現象的意識は直感の結果として認識される、と仰る。
では、お伺いしますが、②の「認識される」とは(異邦人さまの仰る)直感の結果として【現象的意識が生じる】ということなのでしょうか? 或は現象的意識なる代物を「認識する」何らかの存在を前提しているのでしょうか?
あと、①の「認識できない何か」とは何でしょうか? 「認識できない何か」以外の(出来得る限り具体的な)表現で言い換えて頂ければ有難いのですが。

異邦人さん

現象的意識があるという表現が何らかの意味を持っているのであれば、現象的意識に欠ける現象的意識ゾンビという存在が原理的には可能にならなければならないと思いますが、異邦人さんの唯物論では現象的意識ゾンビの存在を許しますか。

異邦人さん、

も一つ質問させてください。

異邦人さんの唯物論が唯物論であって現象的意識が物理事象であるというのは、物理的実体を原因として結果的に現象的意識が生じるというこでしょうか。そして、現象的意識が現実的に物理事象の原因として働かないというこでしょうか。
勝手にイメージしてみました。

工藤庄平さん。
;
>少なくとも僕の周辺で異邦人さまの仰るような【質感】を感じると言う人は皆無でした。

そういう方は何名ぐらいいらっしゃいますでしょうか?
認識や思考を可能にしている背景などない、と主張している方は何名ぐらいいらっしゃいますでしょうか?

そういう方は「哲学的ゾンビ」である可能性が高いと思います。
実在の「哲学的ゾンビ」は大変貴重です。(^^;;;

横山信幸さん。
>>横山信幸 | 2013年10月23日 (水) 21時19分
>現象的意識があるという表現が何らかの意味を持っているのであれば、現象的意識に欠ける現象的意識ゾンビという存在が原理的には可能にならなければならないと思いますが、異邦人さんの唯物論では現象的意識ゾンビの存在を許しますか。

現象的意識ゾンビははじめて見る表現であるので「哲学的ゾンビ」と語と同じ意味であろうと見做してお答えします。
現象的意識は脳(心)の働きに認識できない部分があることから生じます。
我々の脳(心)の働きは原理的に認識できない部分(大部分ですが)が存在します。
ですので現象的意識が生じるのは必然で(少なくとも私の唯物論では)「哲学的ゾンビ」が存在することはあり得ません。
2名の脳の構造が完全に同じ場合、片方に現象的意識があればもう片方に現象的意識が無い事はあり得ません。
人間のDNAは99%程度共通であることが解っています。
人間同士は脳の構造も99%程度共通であることが推定できます。
ですので「哲学的ゾンビ」は存在しない、存在できないと推定できます。

>>横山信幸 | 2013年10月23日 (水) 22時04分
>物理的実体を原因として結果的に現象的意識が生じるというこでしょうか。

私の唯物論では現象的意識を含め全ての現象が物理的現象です。
現象的意識も物理的対象を原因として生じます。
横山信幸さんのご質問の意図がこの意味であれば答えは「YES」です。

>現象的意識が現実的に物理事象の原因として働かないというこでしょうか。

現象的意識は(機能的意識も)認識結果であり原因ではありません。

異邦人さん、回答ありがとうございます。
も一つ質問させてください。

「原理的に可能でも現実的に不可能」というときには一般的に2つの意味があると思います。
1.沼に雷が落ちた拍子に化学反応が起きて偶然人間の身体が出来ることは確率的に有り得ないが、原理的には可能です。大量のサンプルがあればそうなる可能性がある。一つはこのパターンです。
2.気体定数が別の数値だったという想定も原理的には可能だけれども、現実には違う数値である。大量のサンプルがあってもそうなる可能性はない。もう1つのパターンがこれです。

現象的意識が物理的事象の原因になることが、原理的に可能でも現実的に不可能だとされるのは、どちらの意味でしょうか。

こんにちは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>そういう方は何名ぐらいいらっしゃいますでしょうか?
認識や思考を可能にしている背景などない、と主張している方は何名ぐらいいらっしゃいますでしょうか?


認識や思考を可能にしている背景などない?? ―オカシイですね、誰がそんなことを主張したのでしょうか? 僕は【形・大きさ・色etc と区別され得るような】形の感じ・大きさの感じ・赤さの感じetc の質感などという代物を感じたりはしない―と申し上げた筈ですが。付言しますと、僕(工藤)の知覚や思考を可能にしているのは[工藤庄平なる身体から開けた生]とそれを含み込んで在る[現実=事物世界]でしょうね。

既に縷言したと思いますが、異邦人さまは他人の論述を文脈に即した形で理解しようと努めるのではなく、それを逐一ご自分の特異な用語法に【改訳】した上で見当外れな解釈を押し付けています。一言で言えば、「他人の見解を理解した上で批判する」というより「ご自分の思想を反芻することに終始している」ということですね。

既述の通り、僕がリンゴを見ている(知覚している)とき、【形・大きさ・色etc と区別され得るような】形の感じ・大きさの感じ・赤さの感じetc の【質感】などという代物を感じたりはしません。おそらく多くの人々―クオリアの哲学?に頭をやられた人々は除外させて頂きます―もそうだと思います。少なくとも僕の周辺で異邦人さまの仰るような【質感】を感じると言う人は皆無でした。【今現に】君がリンゴを見ていなくても、君は「このリンゴは表面がデコボコしていて小ぶりで赤みが強い」という文を使用出来るのではないか?という話であれば何の問題もなく同意出来るのですが・・・
とはいえ、↓過去のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/11-8d5c.html#comment-81902567
で示唆しておいた通り、我々は痛覚等の【内的感覚】或は苦悩や歓喜等の【感情】については①「左肩が痛い」「私は嬉しい」という文と②その文を真にする[固有名を与えられた身体において生起する痛み][固有名を与えられた身体において生起する歓喜]の差異を理解しているし、①と②の差異を理解していることと今現に[固有名を与えられた身体において生起している痛み]等との差異も【体感し得る】筈ですね。そして、既に論じたように、①と②の区別を理解し得るのは【人格=再帰的な自己了解を為し得る反省的主体・意識】なのでした。
以上、これまで述べてきたことからの必然的帰結として、「現象的意識と機能的意識は明確に異なるので重なることはあり得ない」という異邦人さまのご主張は矛盾していることになります。念の為?に↓前回のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82606478
と併せてお読みください。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82427481
付言しますと、「明確に区別され得る現象的意識と機能的意識が存在する」という謬見の源泉は(サールの表現を借りて言えば)一人称の存在論と三人称の存在論の文法的関係に対する誤解、でしょうね。例えば、チャーマーズは一人称の存在論と三人称の存在論の文法的差異を論拠にして(物理的なものに付随しない・非機能的な)現象的意識なる代物の実在性を主張するわけですが、実際に彼がしていることは予め規定しておいたトートロジーの確認作業―もし物理的なものに付随しない・非機能的な現象的意識が存在するならば、それは物理的なものに付随していない!―に過ぎません。チャーマーズの失敗は彼の言う現象的意識・機能的意識が文法的虚構でしかないことを明白に示していると思います。異邦人さまのご主張も又然り。

異邦人さま


>内観が完全にイメージ化されていない部分を概念化している処理を前回は【無意識に感じる】と表現しただけです。
完全にイメージ化されていない部分が「入力」であり、それを概念化するのが「処理」です。
同じ事柄を表現を変えて述べているだけです。
>直感によってです。
下記のチャーマーズの主張と同じ意味でです。
「明らかにわれわれは自分に意識体験があると判断しているだけでない。意識体験があると知っているのだ。」チャーマーズ
>現象的意識の直感は「認識できない何か」を対象として生じます。
現象的意識は直感の結果として認識されます。


あれれ、オカシイですね。異邦人さまはご自身の実感・空想・信念(と見做さざるを得ません)である「気配」「現象的意識」について①我々の脳(心)が【無意識に感じる】とも②【直感】によって知るとも仰る。加えて、チャーマーズの原書を読んでいないにも関わらず、②はチャーマーズの主張と同じであると仰る。
しかしながら、②自らの意識体験を「知る」ことは―例えば、「私は痛みを感じている」という文とその文を真にする[固有名を与えられた身体において生起する痛み]の差異を理解し得る【人格】↓即ち、再帰的な自己了解を為し得る反省的主体・意識
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-fa43.html#comment-79813863
を前提していますね。付言しますと、横山さんも↓同じ見解
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comments
に至ったようですが。
従って、異邦人さまの仰る②【直感】によって知る は【反省的主体・意識を前提していなければならない】ことになります。このことと①我々の脳(心)が【無意識に感じる】というご主張は矛盾しているのではないでしょうか?

異邦人さま


ところで、↓先日の質問
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82613880
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82613441
に対するご返答を頂いておりません。


>現象的意識の直感は「認識できない何か」を対象として生じます。
(原理上は物理的因果で生じますが現実上は検証不可能です)
「現象的意識から」という表現には当たらないと考えます。
現象的意識は直感の結果として認識されます。


どうも異邦人さまの用語法は掴みどころが無くて閉口しますね。異邦人さまは①現象的意識の直感は「認識できない何か」を対象として生じ②現象的意識は直感の結果として認識される、と仰る。
では、お伺いしますが、②の「認識される」とは(異邦人さまの仰る)直感の結果として【現象的意識が生じる】ということなのでしょうか? 或は現象的意識なる代物を「認識する」何らかの存在を前提しているのでしょうか?
あと、①の「認識できない何か」とは何でしょうか? 「認識できない何か」以外の(出来得る限り具体的な)表現で言い換えて頂ければ有難いのですが。

横山信幸さん。(>2013年10月24日 (木) 09時55分)

>現象的意識が物理的事象の原因になることが、

現象的意識は(機能的意識も)認識結果であり原因ではありません。

>原理的に可能でも現実的に不可能だとされるのは、どちらの意味でしょうか。

横山信幸さんの挙げられたどちらの例とも違います。
今回の「原理的に可能でも現実的に不可能」ということの意味は、対象が複雑すぎて現在の人間技では解析や検証が不可能という意味です。
遥か遠い将来高度に自然科学が発達し脳(心)の詳細な分析が可能になれば、解析や検証が実際に出来るようになるという意味です。
脳(心)は完全に物理的対象であるので自然科学が十分に発達すれば自然科学的方法により解析や検証ができるようになる可能性があります。

工藤庄平さん。
;
1.既に返答済みの事項
2.存在論以外の話題
3.単なる見解の相違である事項
4.その他ケースバイケース

上記に該当する事項については返答を控えさせて頂きます。

工藤庄平さんのコメントには存在論以外の話題が多すぎるように感じます。
素晴らしい理論であるのかもしれませんが、この部屋で話題にするのには相応しくないと思います。

異邦人さん、

回答してもらってもしてもらっても、なかなか理解が追い付かず新たな疑問が出てきます。
しつこいようですが、お付き合いください。

2つの質問。

1.現象的意識は物理的対象を原因として生じる。しかし、現象的意識は原因にはならない。
ということは、異邦人さんの唯物論はゾンビを認めないタイプの一種のエピフェノメナリズムだと考えていいですか。

2.現象的意識が現実的に検証不可能だとされるのは、現象的意識の解析すべき内容や検証すべき内容が複雑過ぎて解析検証することができないということだと考えていいですか。
もし、そうだとすると現象的意識には内容が無いはずだったことと齟齬が出てきます。この点をどう解釈すればいいのか教えてください。

横山信幸さん。(>2013年10月24日 (木) 19時40分)

>1.現象的意識は物理的対象を原因として生じる。しかし、現象的意識は原因にはならない。
ということは、異邦人さんの唯物論はゾンビを認めないタイプの一種のエピフェノメナリズムだと考えていいですか。

エピフェノメナリズムは二元論(実体二元論や属性二元論等)に於ける心身問題の立場の一つです。
唯物論にはそのような問題は存在しません。
唯物論では物質的なものと心的なものがどのように相互作用するのかという問題は原理的に存在しません。

>2.現象的意識が現実的に検証不可能だとされるのは、現象的意識の解析すべき内容や検証すべき内容が複雑過ぎて解析検証することができないということだと考えていいですか。

その通りです。

>もし、そうだとすると現象的意識には内容が無いはずだったことと齟齬が出てきます。この点をどう解釈すればいいのか教えてください。

前回は下記のようにお答えしました。
「内容がない」という言葉の意味が問題ですが...
「対象が認識できない」という意味でしたら「YES」です。
「(認識できない)その対象が存在しない」という意味でしたら「NO」です。

(現実上)「対象が認識できない」という意味でしたら齟齬は生じません。
「(認識できない)その対象が存在しない」という意味でしたら答えは「NO」ですからこれもやはり齟齬は生じません。

異邦人さま


>1.既に返答済みの事項
2.存在論以外の話題
3.単なる見解の相違である事項
4.その他ケースバイケース
上記に該当する事項については返答を控えさせて頂きます。
工藤庄平さんのコメントには存在論以外の話題が多すぎるように感じます。
素晴らしい理論であるのかもしれませんが、この部屋で話題にするのには相応しくないと思います。


この部屋で話題にするのは相応しくない?? ―あれれ、オカシイですね。
お言葉を返すようですが、異邦人さまは抑も哲学的議論の何たるかを全く理解しておられないと思います。↓横山さんも指摘していた
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82574779
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82566129
筈ですが、異邦人さまは他人の論述を文脈に即した形で理解しようと努めるのではなく、それを逐一ご自分の特異な用語法に【改訳】した上で見当外れな解釈を押し付けています。一言で言えば、「他人の見解を理解した上で批判する」というより「ご自分の思想を反芻することに終始している」ということですね。
何度でも繰り返しますが・・・哲学的議論は論拠無き個人的信念・空想の押し売りや誰の目にも明白な詭弁を並べ立てることではありません。

異邦人さま


>1.既に返答済みの事項
2.存在論以外の話題
3.単なる見解の相違である事項
4.その他ケースバイケース
上記に該当する事項については返答を控えさせて頂きます。


既に返答済みの事項?? ―オカシイですね。異邦人さまの返答?が筋の通ったものであるのか↓所謂「音の風」に過ぎない
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82636269
のか・・・この部屋以外の人間にも聞いてみた方が良いと思いますよ。

とりあえず、異邦人さまの用語法における「存在論」がどういうものであるのかご説明して頂けないでしょうか?

とはいえ・・・用語法の話は別にしても、↓以下の質問
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82613880
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82613441
に答えられない理論?など単なる空論・ナンセンスでしかないと思いますが。

異邦人さま


>(客観的個物の場合)
実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。


あれれ、オカシイですね。異邦人さまは①我々が事物を「知覚する」ケースと②我々が「思い出す」「想起する」ケースをパラレルに扱っておられるようですが、
①リンゴ(客観的個物)~リンゴの知覚印象(各自にとって私秘的なものだが、客観的個物と不可分な関係を有する)

②リンゴの記憶表象(各自にとって私秘的なもの)
を【対象】として扱うのは不適切だと思いませんか? リンゴ(客観的個物)が知覚の「対象」であると言うならともかく、リンゴの知覚印象とか記憶表象或は異邦人さまの仰るイメージ生成処理とか想起処理なる代物が「対象」であるというのは意味が解りません。


>(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。


↑異邦人さまの表記法―記憶のリンゴ?から想起処理?そして現象のリンゴ(記憶表象のことでしょうか?)に至るプロセス―から判断する限り、先ず【記憶のリンゴなる対象?】が存在するわけですね?
では、お伺いしますが、抑も【記憶のリンゴ】とは何でしょうか? (想起処理?とは異なる)脳内の特定の神経パルスを指しているのでしょうか。それとも別の何かでしょうか。何れにせよ、これは哲学ではなく脳科学が判定を下すべき事柄だと思われます。
もう一つ、記憶のリンゴと現象のリンゴの違いを説明して頂けますか。

異邦人さん、

2つの質問。続けます。

1.「現象的意識は物理的対象を原因として生じるが、現象的意識は原因にはならない」という考えがエピフェノメナリズムか否かという問題は、
その現象的意識を物理的存在と位置づけるか、非物理的存在と位置づけるか、の選択によってそれが異邦人さんの唯物論になるかエピフェノメナリズムになるかが決まるというだけの、定義の問題でしかないと思います。
異邦人さんの現象的意識が物理的存在であるとする根拠は定義的な位置づけ以外にはないのじゃないでしょうか。
つまり、
(前提1)物理的存在であればそれが物理的存在であることが原理的に検証可能でなければならない。
(前提2)現象的意識は物理的原因にならない。
(前提2より)
(推論3)現象的意識は原理的に検証不可能である。
(前提1・推論3より)
(結論)現象的意識は物理的存在ではない。
というようは推論が立てられるのではないか、疑問が出てきます。この疑問は妥当でしょうか。

2.現象的意識の解析検証すべき内容が複雑過ぎるということが、なぜわかるのでしょうか。
現象的意識には認識できる内容が無いのに。これも、根拠のない定義的な位置づけでしょうか。

異邦人さま


>(客観的個物の場合)
実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。
>現象的意識は(機能的意識も)認識結果であり原因ではありません。


もし異邦人さまの仰るイメージ生成処理・想起処理なる代物が脳内の(各々異なる)物理的プロセスを指しているのであれば、我々は何らかの手段・方法によってそれら=脳内の(各々異なる)物理的プロセスを「見る」「知覚する」ことが出来る筈です。
念の為に言っておきますと、①脳内の(各々異なる)物理的プロセスを「見る」「知覚する」ことは②脳内の(各々異なる)物理的プロセスのメカニズムを「知る」「解明する」ことを含意しておりません。当然ながら、①と②は別の事柄です。
もう一つ言っておきたいことがあります。例えば、僕(工藤)がリンゴを「見ている」「知覚している」とき、僕は【自分がリンゴを知覚していることを知覚する】ことは出来ません(ナンセンス。痛覚や想起についても然り)。まあ、哲学に頭をやられていない人にとっては当然の話、というか、態々言表するまでもないことでしょうが。

さて、問題はここからです。
もし異邦人さまの仰るイメージ生成処理・想起処理なる代物が脳内の(各々異なる)物理的プロセスを指しているのであれば、それら=脳内の(各々異なる)物理的プロセスを【認識対象として】現象的意識なる代物が【生じる】というご主張は単なる事実誤認でしかありません。何故ならば、僕(工藤)が昨日の午前中に遭遇した出来事について思いを巡らせているとき、
a. [工藤庄平の脳内で生起している物理的プロセス]=工藤本人も第三者も「知覚する」ことが出来る事象

b. [工藤庄平の想起]=工藤庄平が直接「生きて」いる並列不可能な事象
の関係―認識論的には区別されるが、存在論的には一つの出来事である―は(異邦人さまの仰る)一方が他方を【認識対象として生じる】というものではないからです。
事柄に即して考える限り、異邦人さまのご主張はa. と b. の関係―認識論的な差異・区別―を因果関係と誤認した結果として生じた謬説と言わざるを得ないのです。

(前回の投稿に「補足」しておきました)

異邦人さま


>(客観的個物の場合)
実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。
>現象的意識は(機能的意識も)認識結果であり原因ではありません。
>脳(心)の中では常時情報処理が行われています。
様々な工程を通して情報処理が行われています。
各工程では「入力-処理-出力」という形で処理が進行しています。
ここで「入力を処理している状態」を(入力を)「認識」していると表現しました。


もし異邦人さまの仰るイメージ生成処理・想起処理なる代物が脳内の(各々異なる)物理的プロセスを指しているのであれば、我々は何らかの手段・方法によってそれら=脳内の(各々異なる)物理的プロセスを「見る」「知覚する」ことが出来る筈です。
念の為に言っておきますと、①脳内の(各々異なる)物理的プロセスを「見る」「知覚する」ことは②脳内の(各々異なる)物理的プロセスのメカニズムを「知る」「解明する」ことを含意しておりません。当然ながら、①と②は別の事柄です。
もう一つ言っておきたいことがあります。例えば、僕(工藤)がリンゴを「見ている」「知覚している」とき、僕は【自分がリンゴを見ていることを見る】ことは出来ません(ナンセンス。痛覚や想起についても然り)。まあ、哲学に頭をやられていない人にとっては当然の話、というか、態々言表するまでもないことでしょうが。

さて、問題はここからです。
もし異邦人さまの仰るイメージ生成処理・想起処理なる代物が脳内の(各々異なる)物理的プロセスを指しているのであれば、それら=脳内の(各々異なる)物理的プロセスを【認識対象として】現象的意識なる代物が【生じる】というご主張は単なる事実誤認でしかありません。何故ならば、僕(工藤)が昨日の午前中に遭遇した出来事について思いを巡らせているとき、
a. [工藤庄平の脳内で生起している物理的プロセス]=工藤本人も第三者も「知覚する」ことが出来る事象

b. [工藤庄平の想起]=工藤庄平が直接「生きて」いる並列不可能な事象
の関係―認識論的には区別されるが、存在論的には一つの出来事である―は(異邦人さまの仰る)一方が他方を【認識対象として生じる】というものではないからです。
事柄に即して考える限り、異邦人さまのご主張はa. と b. の関係―認識論的な差異・区別―を「入力-処理-出力」なる工程?と誤認した結果として生じた謬説と言わざるを得ないのです。

工藤庄平さん。
;
>>僕の周辺で異邦人さまの仰るような【質感】を感じると言う人は皆無でした。
>そういう方は何名ぐらいいらっしゃいますでしょうか?

まだお答えを頂いていませんが?

横山信幸さん。(>2013年10月24日 (木) 22時55分)

>1.「現象的意識は物理的対象を原因として生じるが、現象的意識は原因にはならない」という考えがエピフェノメナリズムか否かという問題は、
その現象的意識を物理的存在と位置づけるか、非物理的存在と位置づけるか、の選択によってそれが異邦人さんの唯物論になるかエピフェノメナリズムになるかが決まるというだけの、定義の問題でしかないと思います。

エピフェノメナリズムは二元論の立場の一つです。
唯物論には原理的にそのような立場はありません。
二元論と唯物論の違いを定義の問題でしかないとお考えなのですか?

>(前提2)現象的意識は物理的原因にならない。

現象的意識が物理的原因になる/ならないというのは二元論の問題です。
唯物論ではそのような問題はありません。
唯物論では、現象的意識は認識結果であって原因ではありません。

> (推論3)現象的意識は原理的に検証不可能である。

唯物論では原理的に検証可能です。

>(結論)現象的意識は物理的存在ではない。

唯物論では現象的意識は物理的現象です。

>というようは推論が立てられるのではないか、疑問が出てきます。この疑問は妥当でしょうか。

(唯物論では)その疑問は妥当ではありません。

>2.現象的意識の解析検証すべき内容が複雑過ぎるということが、なぜわかるのでしょうか。

現実に脳科学(自然科学)等によって脳の解析が殆ど進んでいないことから明らかです。
脳科学(自然科学)等によって脳についてかなりの知見が得られていますが、脳全体を解析することに較べれば全く微々たるものです。

>現象的意識には認識できる内容が無いのに。

「内容が無い」という表現をどのような意味でお使いであるのか把握できておりません。
「(現実的に)対象が認識できない」という意味でお使いなのでしょうか?
「(認識できない)その対象が存在しない」という意味でお使いなのでしょうか?
それとももっと違う意味でお使いなのでしょうか?

既に述べましたように、現象的意識は、例えば、イメージ生成処理を対象として生じます。
このことを横山信幸さんは「認識できる内容が無い」と表現するのでしょうか?

異邦人さま


>まだお答えを頂いていませんが?


八名です。


>認識や思考を可能にしている背景などない、と主張している方は何名ぐらいいらっしゃいますでしょうか?


認識や思考を可能にしている背景などない?? ―オカシイですね、誰がそんなことを主張したのでしょうか? 僕は【形・大きさ・色etc と区別され得るような】形の感じ・大きさの感じ・赤さの感じetc の質感などという代物を感じたりはしない―と申し上げた筈ですが。付言しますと、僕(工藤)の知覚や思考を可能にしているのは[工藤庄平なる身体から開けた生]とそれを含み込んで在る[現実=事物世界]でしょうね。

既に縷言したと思いますが、異邦人さまは他人の論述を文脈に即した形で理解しようと努めるのではなく、それを逐一ご自分の特異な用語法に【改訳】した上で見当外れな解釈を押し付けています。一言で言えば、「他人の見解を理解した上で批判する」というより「ご自分の思想を反芻することに終始している」ということですね。

既述の通り、僕がリンゴを見ている(知覚している)とき、【形・大きさ・色etc と区別され得るような】形の感じ・大きさの感じ・赤さの感じetc の【質感】などという代物を感じたりはしません。おそらく多くの人々―クオリアの哲学?に頭をやられた人々は除外させて頂きます―もそうだと思います。少なくとも僕の周辺で異邦人さまの仰るような【質感】を感じると言う人は皆無でした。【今現に】君がリンゴを見ていなくても、君は「このリンゴは表面がデコボコしていて小ぶりで赤みが強い」という文を使用出来るのではないか?という話であれば何の問題もなく同意出来るのですが・・・
とはいえ、↓過去のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/11-8d5c.html#comment-81902567
で示唆しておいた通り、我々は痛覚等の【内的感覚】或は苦悩や歓喜等の【感情】については①「左肩が痛い」「私は嬉しい」という文と②その文を真にする[固有名を与えられた身体において生起する痛み][固有名を与えられた身体において生起する歓喜]の差異を理解しているし、①と②の差異を理解していることと今現に[固有名を与えられた身体において生起している痛み]等との差異も【体感し得る】筈ですね。そして、既に論じたように、①と②の区別を理解し得るのは【人格=再帰的な自己了解を為し得る反省的主体・意識】なのでした。
以上、これまで述べてきたことからの必然的帰結として、「現象的意識と機能的意識は明確に異なるので重なることはあり得ない」という異邦人さまのご主張は矛盾していることになります。念の為?に↓前回のコメント
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82606478
と併せてお読みください。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html#comment-82427481
付言しますと、「明確に区別され得る現象的意識と機能的意識が存在する」という謬見の源泉は(サールの表現を借りて言えば)一人称の存在論と三人称の存在論の文法的関係に対する誤解、でしょうね。例えば、チャーマーズは一人称の存在論と三人称の存在論の文法的差異を論拠にして(物理的なものに付随しない・非機能的な)現象的意識なる代物の実在性を主張するわけですが、実際に彼がしていることは予め規定しておいたトートロジーの確認作業―もし物理的なものに付随しない・非機能的な現象的意識が存在するならば、それは物理的なものに付随していない!―に過ぎません。チャーマーズの失敗は彼の言う現象的意識・機能的意識が文法的虚構でしかないことを明白に示していると思います。異邦人さまのご主張も又然り。

異邦人さま


>まだお答えを頂いていませんが?


前回の投稿で回答しておきました。とはいえ、件の「数」が哲学的に重要な事柄であるとは到底思えないのですが。


さて、哲学的に重要な事柄といえば・・・↓まだお答えを頂いていませんが?
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82638265
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82639584
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82641535

忌憚なく言わせて頂ければ、異邦人さまは抑も哲学的議論の何たるかを全く理解しておられないと思います。↓横山さんも指摘していた
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82574779
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82566129
筈ですが、異邦人さまは他人の論述を文脈に即した形で理解しようと努めるのではなく、それを逐一ご自分の特異な用語法に【改訳】した上で見当外れな解釈を押し付けています。一言で言えば、「他人の見解を理解した上で批判する」というより「ご自分の思想を反芻することに終始している」ということですね。

何度でも繰り返しますが・・・論拠無き個人的信念・空想の押し売りや自説の破綻を隠蔽する為に黙りを決め込むことは哲学的議論の名に値しないと思います。

異邦人さん、

表現のむずかしさを感じています。前回の質問の仕方では意図が伝わりにくかったようですね。

二元論と唯物論の違いが定義の問題でしかないと考えているわけではなく、異邦人さんの唯物論を一元論と位置づけるか二元論と位置づけるかが、定義の問題でしかないかと疑っているのです。
しかし、これでも多分伝わらないでしょうから、また、順に質問を重ねていくことで質問の意図をはっきりさせるように目指したいと思います。

質問1.例えば、ディヴィドソンの非法則的一元論はいっぱんてきにエピフェノメナリズムだとする説が有力なようです。Wikiではエピフェノメナリズムは二元論だと断定されていますが、一概にそれが一般的な考えだとは限りません。もともとエピフェノメナリズムは「意識は物理状態によって決定するが、物質に対して因果的作用をもたらさない」というものです。この定義を素直にそのまま読めば、異邦人さんの唯物論はエピフェノメナリズムだと言っていいのじゃないかと思うのですが、
一元論を基盤としているか二元論を基盤としているかという問題を措いておくとしても、異邦人さんの唯物論がエピフェノメナリズムだとは認められないですか。

質問2.「唯物論では現象的意識が物理的原因になる/ならないというような問題はない」と仰る意味が掴めません。
「現象的意識は原因にならない」という発言が、「現象的意識は物理的因果関係の原因にならない」を含意しないということでしょうか。

工藤庄平さん。
>八名です。

その八名の中に実在論者はいらっしゃいますか?

横山信幸さん。(>2013年10月25日 (金) 13時03分)

>質問1.例えば、ディヴィドソンの非法則的一元論はいっぱんてきにエピフェノメナリズムだとする説が有力なようです。

一元論であればエピフェノメナリズムは否定されます。
非法則的一元論であればエピフェノメナリズムは否定されます。
Wikipediaによればディヴィドソン自身もエピフェノメナリズムを否定しています。
もし他の哲学者からディヴィドソンの説がエピフェノメナリズムだという評価を受けているのだとすれば、それはディヴィドソンの説が二元論(性質二元論)だと見做されているからでありましょう。
二元論(性質二元論)だと見做されているのであればエピフェノメナリズムだという評価も肯けます。
私もディヴィドソンの説は心の非法則性という主張から見て一元論というより二元論(性質二元論)に近いものと考えます。

一元論であればエピフェノメナリズムが肯定されることはありません。
エピフェノメナリズムが二元論だというのはその通りであると考えます。

>異邦人さんの唯物論がエピフェノメナリズムだとは認められないですか。

唯物論がエピフェノメナリズムになることはあり得ません。
エピフェノメナリズムは心身問題、二元論の立場の一つです。
唯物論には原理的に心身問題が無くエピフェノメナリズムは成立しません。

>質問2.「唯物論では現象的意識が物理的原因になる/ならないというような問題はない」と仰る意味が掴めません。
「現象的意識は原因にならない」という発言が、「現象的意識は物理的因果関係の原因にならない」を含意しないということでしょうか。

現象的意識は認識結果であり原因ではありません。

もちろんこの世界は因果のネットワークにより出来ていますから、現象的意識という認識結果が他の状況の原因になることはあります。
しかし今回論じている範囲では、現象的意識は認識結果であり原因ではありません。

異邦人さん、

質問を重ねます。

1.

> 唯物論には原理的に心身問題が無くエピフェノメナリズムは成立しません。

とのことでしたが、では、異邦人さんの唯物論が「意識は物理状態によって決定するが、物質に対して因果的作用をもたらさない」とする説の一つであることも否定されますか。

2.

> 現象的意識は認識結果であり原因ではありません。

との説明は、「現象的意識が物理的因果関係の原因にならない」を含意しているのでしょうか。それとも全然違うことを仰っているのでしょうか。

横山信幸さん。(>2013年10月25日 (金) 14時51分)

>では、異邦人さんの唯物論が「意識は物理状態によって決定するが、物質に対して因果的作用をもたらさない」とする説の一つであることも否定されますか。

唯物論では意識は「ある物理状態」であり「ある物質状態」です。
意識は「ある物理状態」や「ある物質状態」と一体のものです。
お互いに因果的作用するのか否かという表現には適しません。
その表現が適するのは意識と物質が別々のものである場合です。
意識と物質が「実体として別である(実体二元論)」場合や「性質として別である(性質二元論)」場合に適する表現です。
一元論/唯物論にはその表現は適しません。

>>現象的意識は認識結果であり原因ではありません。
>との説明は、「現象的意識が物理的因果関係の原因にならない」を含意しているのでしょうか。それとも全然違うことを仰っているのでしょうか。

上で述べたとおり「現象的意識が物理的因果関係の原因になる/ならない」というのは二元論の場合に使われる表現です。
一元論/唯物論にはその表現は適しません。

横山信幸さんは現象的意識が何に対して物理的因果関係の原因になるとお考えなのでしょうか?

横山信幸さん。(>2013年10月25日 (金) 14時51分)

今回のすれ違いは二元論で使われる表現を一元論/唯物論に適用しようとしたために起こっているものと考えます。

異邦人さん、

>横山信幸さんは現象的意識が何に対して物理的因果関係の原因になるとお考えなのでしょうか?

あらゆる一般的な物理的事象です。

質問1.

>意識は「ある物理状態」や「ある物質状態」と一体のものです。お互いに因果的作用するのか否かという表現には適しません。その表現が適するのは意識と物質が別々のものである場合です。

何故そんなことをおっしゃるのか理解できません。
ある物理状態Aとある物理的状態Bはふつう、お互いに因果的作用し得ます。ふつうお互いに因果的作用しえないのなら物理的状態とは呼ばないでしょう。意識が「ある物理状態」であるがゆえに、「意識とある物理的状態はお互いに因果的作用する」という文も意味が持てるのではないですか。それがダメだとされる理由を詳しく教えてください。


>「現象的意識が物理的因果関係の原因になる/ならない」というのは二元論の場合に使われる表現です。一元論/唯物論にはその表現は適しません。

そうでしょうか。
唯物論では、すべての物理的状態は物理的因果関係においてそれ自身以外の何らかの物理的状態の原因になり得るでしょう。
現象的意識が物理的状態であるのなら同様に、物理的因果関係においてそれ自身以外の何らかの物理的状態の原因になり得るのではないですか。
「現象的意識が物理的因果関係の原因にならない」というのはそのような意味ですので、完全に唯物論に即したことば遣いをしているつもりです。

質問2.

この意味において

「現象的意識は(機能的意識も)認識結果であり原因ではありません。」というのは、「現象的意識は物理的因果関係においてそれ自身以外の何らかの物理的状態の原因になり得ない」を含意していますか。

横山信幸さん。(>2013年10月25日 (金) 14時51分)

スレ違いの原因がはっきり分かった気がします。
横山信幸さんは二元論の視点で問題を考えていたのですネ。
そのことに気付きませんでした。
「物理的因果関係」というのは二元論の「相互作用」を指していたのですね。
唯物論には原理的に「相互作用」の問題が存在しないので、横山信幸さんが何故それを問題にされているのかずっと不思議に思っておりました。
横山信幸さんが二元論の視点で問題を考えていたのに気付いてやっと疑問が氷解しました。
エピフェノメナリズムを問題にされたのもその為だったのですね。
唯物論には存在しない問題なので不思議に思っていたのですが、これで解決しました。

横山信幸さん。(>2013年10月25日 (金) 18時55分)

すれ違いになってしまったコメント(2013年10月25日 (金) 19時01分)で解決したと思ったのですがハズレだということですね。(^^;;;
そうだとしますと何処ですれ違ってしまっているのかますます解らなくなりました。
もう一度検討し直してみます。

異邦人さん

異邦人さんは現象的意識が物理状態だと仰る。そのことばの意味を率直に受け取ろうとしているのです。
「物理状態である」とはいかなる意味か。一般的に「物理状態である」「物理的事実」「物理的事象」「物理的」と称されるものは、相互作用関係の中でどのような系を作りえるかという視点でその意味をはっきりさせると思います。
そのため、「異邦人さんの現象的意識がいかなる作用関係を持ち、いかなる物理的系を作るのか」を知りたいと思ったのです。

そのためできるだけ率直に、ことばの意味を歪曲しないように、一般的な物理の世界を見るときの言葉づかいをしようとしています。二元論の言葉づかいをしようとはしていません。

横山信幸さん。(>2013年10月25日 (金) 18時55分)

>何故そんなことをおっしゃるのか理解できません。
ある物理状態Aとある物理的状態Bはふつう、お互いに因果的作用し得ます。ふつうお互いに因果的作用しえないのなら物理的状態とは呼ばないでしょう。意識が「ある物理状態」であるがゆえに、「意識とある物理的状態はお互いに因果的作用する」という文も意味が持てるのではないですか。それがダメだとされる理由を詳しく教えてください。

そのことを否定している訳ではありません。前回下記のように述べた通りです。
もちろんこの世界は因果のネットワークにより出来ていますから、現象的意識という認識結果が他の状況の原因になることはあります。

リンゴ認識の図式で考えて見ます。
(図式)実在のリンゴ>~>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
現象のリンゴが機能的意識となり、イメージ生成処理を対象として現象的意識が生まれます。
この現象的意識が因果のネットワークの中でまた別の現象の原因となることは当然あります。
しかし、現象的意識が生まれるところまでが今回の議論の範囲であり、それを原因として次にどのような現象が起きるのかというような話は今回の議論の範囲外であろうと思います。
今回の議論の範囲では現象的意識は結果であって原因ではないものと考えます。

横山信幸さんは現象的意識が生まれた後、それが原因となって続けて起こる様々な現象群まで視野に入れられているのでしょうか?

>唯物論では、すべての物理的状態は物理的因果関係においてそれ自身以外の何らかの物理的状態の原因になり得るでしょう。
現象的意識が物理的状態であるのなら同様に、物理的因果関係においてそれ自身以外の何らかの物理的状態の原因になり得るのではないですか。
「現象的意識が物理的因果関係の原因にならない」というのはそのような意味ですので、完全に唯物論に即したことば遣いをしているつもりです。

上で述べた通りです。

>「現象的意識は(機能的意識も)認識結果であり原因ではありません。」というのは、「現象的意識は物理的因果関係においてそれ自身以外の何らかの物理的状態の原因になり得ない」を含意していますか。

横山信幸さんの問題意識がどのような点にあるのか把握できておりませんので、今のところご質問にお答えするのには困難を感じております。

すれ違いの原因がどの点にあるのか把握しようと努めているのですが、未だ把握できていません。m(__)m

こんばんは、工藤です。今し方拝読致しました。では、コメントをいくつか。


>その八名の中に実在論者はいらっしゃいますか?


八名全員が所謂「素朴実在論者」ということでした。

ところで、↓まだお答えを頂いていませんが?
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82638265
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82639584
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82641535

率直に申し上げて、論拠無き個人的信念・空想の押し売りや自説の破綻を隠蔽する為に黙りを決め込むことは哲学的議論の名に値しないと思います。

異邦人さま


>リンゴ認識の図式で考えて見ます。
(図式)実在のリンゴ>~>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
現象のリンゴが機能的意識となり、イメージ生成処理を対象として現象的意識が生まれます。
>(客観的個物の場合)
実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。


あれれ、オカシイですね。異邦人さまは①我々が事物を「知覚する」ケースと②我々が「思い出す」「想起する」ケースをパラレルに扱っておられるようですが、
①リンゴ(客観的個物)~リンゴの知覚印象(各自にとって私秘的なものだが、客観的個物と不可分な関係を有する)

②リンゴの記憶表象(各自にとって私秘的なもの)
を【対象】として扱うのは不適切だと思いませんか? リンゴ(客観的個物)が知覚の「対象」であると言うならともかく、リンゴの知覚印象とか記憶表象或は異邦人さまの仰るイメージ生成処理とか想起処理なる代物が「対象」であるというのは意味が解りません。


>(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。


↑異邦人さまの表記法―記憶のリンゴ?から想起処理?そして現象のリンゴ(記憶表象のことでしょうか?)に至るプロセス―から判断する限り、先ず【記憶のリンゴなる対象?】が存在するわけですね?
では、お伺いしますが、抑も【記憶のリンゴ】とは何でしょうか? (想起処理?とは異なる)脳内の特定の神経パルスを指しているのでしょうか。それとも別の何かでしょうか。何れにせよ、これは哲学ではなく脳科学が判定を下すべき事柄だと思われます。
もう一つ、記憶のリンゴと現象のリンゴの違いを説明して頂けますか。

横山信幸さん。

ここで述べることが横山信幸さんお求めの答えになるかどうかは解りませんが、唯物論の原理から述べ直してみます。

この世界は物質のみより成ります。(唯物論)
この世界の全ては物質が物理法則に従って運動することにより生み出されています。
表現を変えれば、この世界は物質の物理的相互作用より成る因果のネットワークにより成立しています。
我々の脳は高度な情報処理機械であり広大な情報処理空間を生み出しています。
この広大な情報処理空間こそが精神世界(心の世界)です。
精神世界は純粋な物理的現象です。
あらゆる心的現象は全て純粋な物理的現象です。

現象的意識や機能的意識は心的現象の一部であり純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は物理的現象であるので、ある物理的現象の結果として生まれ、別のある物理的現象の原因となります。
このように現象的意識や機能的意識は他の物理的現象と同様、物質の物理的相互作用より成る因果のネットワークの一部を構成しています。
あらゆる物理的現象はある物理的現象の結果として生まれ、別のある物理的現象の原因となります。
(以上)

工藤庄平さん。
>>その八名の中に実在論者はいらっしゃいますか?
>八名全員が所謂「素朴実在論者」ということでした。

その八名の方々は皆チャーマーズの現象的意識に関する議論をご存知の方々でしょうか?

異邦人さま


>その八名の方々は皆チャーマーズの現象的意識に関する議論をご存知の方々でしょうか?


四名は知っていますね。

ところで、↓まだお答えを頂いていませんが?
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82638265
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82639584
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82641535

何度でも繰り返しますが・・・論拠無き個人的信念・空想の並べ売りや自説の破綻を包み隠す為に黙りを続けるのは知的誠実に悖る行為と言わざるを得ません。

異邦人さま


>(客観的個物の場合)
実在のリンゴ>光>視覚>視覚データ>イメージ生成処理>現象のリンゴ
イメージ生成処理を対象として現象的意識が生じます。
(記憶内容が対象の場合)
記憶のリンゴ>想起処理>現象のリンゴ
想起処理を対象として現象的意識が生じます。
>現象的意識は(機能的意識も)認識結果であり原因ではありません。
>脳(心)の中では常時情報処理が行われています。
様々な工程を通して情報処理が行われています。
各工程では「入力-処理-出力」という形で処理が進行しています。
ここで「入力を処理している状態」を(入力を)「認識」していると表現しました。
>あらゆる心的現象は全て純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は心的現象の一部であり純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は物理的現象であるので、ある物理的現象の結果として生まれ、別のある物理的現象の原因となります。


もし異邦人さまの仰るイメージ生成処理・想起処理なる代物が脳内の(各々異なる)物理的プロセスを指しているのであれば、我々は何らかの手段・方法によってそれら=脳内の(各々異なる)物理的プロセスを「見る」「知覚する」ことが出来る筈です。
念の為に言っておきますと、①脳内の(各々異なる)物理的プロセスを「見る」「知覚する」ことは②脳内の(各々異なる)物理的プロセスのメカニズムを「知る」「解明する」ことを含意しておりません。当然ながら、①と②は別の事柄です。
もう一つ言っておきたいことがあります。例えば、僕(工藤)がリンゴを「見ている」「知覚している」とき、僕は【自分がリンゴを見ていることを見る】ことは出来ません(ナンセンス。痛覚や想起についても然り)。まあ、哲学に頭をやられていない人にとっては当然の話、というか、態々言表するまでもないことでしょうが。

さて、問題はここからです。
もし異邦人さまの仰るイメージ生成処理・想起処理なる代物が脳内の(各々異なる)物理的プロセスを指しているのであれば、それら=脳内の(各々異なる)物理的プロセスを【認識対象として】現象的意識なる代物が【生じる】というご主張は単なる事実誤認でしかありません。何故ならば、僕(工藤)が昨日の午前中に遭遇した出来事について思いを巡らせているとき、
a. [工藤庄平の脳内で生起している物理的プロセス]=工藤本人も第三者も「知覚する」ことが出来る事象

b. [工藤庄平の想起]=工藤庄平が直接「生きて」いる並列不可能な事象
の関係―認識論的には区別されるが、存在論的には一つの出来事である―は(異邦人さまの仰る)一方が他方を【認識対象として生じる】というものではないからです。
事柄に即して考える限り、異邦人さまのご主張はa. と b. の関係―認識論的な差異・区別―を「入力-処理-出力」なる工程?と誤認した結果として生じた謬説と言わざるを得ないのです。

異邦人さん、

このページのコメントがかなり多くなってきて、少し重くなってきましたので。最新のページの方で再質問コメントさせてもらいます。よろしくお願いします。

横山信幸さん。了解しました。移動します。

異邦人さま


>あらゆる心的現象は全て純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は心的現象の一部であり純粋な物理的現象です。
現象的意識や機能的意識は物理的現象であるので、ある物理的現象の結果として生まれ、別のある物理的現象の原因となります。


http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82366381
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82367449
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82376086

現象的意識や機能的意識は心的現象の一部であり?? ―あれれ、【心的現象の一部】ですか。ということは(異邦人さまの仰る)現象的意識や機能的意識なる代物以外の心的現象が存在するわけですね?
ところで、(異邦人さまの仰る)想起処理とかイメージ生成処理は純粋な物理的現象ですよね?

とりあえず、(異邦人さまの仰る)現象的意識や機能的意識なる代物以外の心的現象とは何かご説明して頂けますか。

異邦人さま


ところで、↓まだお答えを頂いていませんが?
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82638265
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82639584
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-4ba2.html#comment-82641535

何度でも繰り返しますが・・・論拠無き個人的信念・空想の並べ売りや自説の破綻を包み隠す為に黙りを続けるのは知的誠実に悖る行為と言わざるを得ません。

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