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2012年12月17日 (月)

自由と決定論は両立できないか<心は実在するか1>

自由を考える

心の哲学と呼ばれるものでは、自由意志と決定論の問題や、心身問題や、志向性の問題や、私の同一性の問題など、いくつもの問題について討議されている。
本ブログでも、これらについて考えていこうと思う。
まず、決定論が正しければ自由意志がないのではないかという、自由の問題について考えてみたい。

 

物理現象と行為

決定論とは一般的に、世界の未来がすでにすべて決定していて、すべてのものがその運命に沿って存在する以外ないのだとする、世界の捉え方である。
工業ロボットが車を組み立てる。ここにロボットの自由があるなどということは考えられないだろう。工業ロボットが車を組み立てるのは単なる物理現象でしかなく、行為ではないのである。
では、ドラえもんならどうか。ドラえもんがどら焼きを食べるのは行為なのか、単なる物理現象なのか?
あるいは、私たち人間が毎日生活をしているのは物理現象なのか、行為なのか?

上の文章で僕は、そこに自由があるならそれは「行為」であり、そこに自由がないならそれは「物理現象」であるとするような言葉のつかい方をしてしまっている。このような言葉づかいによる分析は「自由論」の中で多く為されているものであるが、この言葉づかいが間違っていると僕は考えている。
ドラえもんも人間も物理現象でありながら行為を為していると考えるべきだと思うのだ。物理現象と自由は対立するものではなく両立し合えるものだと思うのだ。

 

両立論と非両立論

ホッブス(1588‐1679)によると、決定論と自由は両立するとする考えを「両立論」と言う。
Photo_3


それに対して、決定論と自由は両立しないと考える立場は「非両立論」と呼ばれる。非両立論はさらに決定論を認めるか認めないかで分かれ、決定論を認める場合、自由は否定されることになる。この立場を「固い決定論」とも言う。(これに対して両立論も決定論を容認するが、こちらを「やわらかい決定論」と言う。)
決定論を認めない非両立論は一般的に自由を擁護する立場になり「リバリタリアニズム」と呼ばれる。

僕横山は両立論者である。しかし、ストレートに両立論についてだけを話しても論が深まらないだろうから、まず非両立論者による「自由意思と決定論の両立不可能性」というすばらしい証明を見ていくことから始めたいと思う。そして次に両立論者による自由と責任の関係についての考えなどを見ていき、それから僕自身の両立論に関する考えも紹介していきたいと思う。

 

「自由意志と決定論の両立不可能性」

「自由意志と決定論の両立不可能性」はヴァン・インワーゲン(1942-)という非両立論者による論文で、選択可能性と決定論が両立しないことを完全完璧に論証した。論旨は次のようなものである。
Inwagen
Peter Van Inwagen

「決定論」とは次の2つのテーゼの連言である。
(a) すべての瞬間に対して、その瞬間の世界の状態を表す一つの命題が存在する。
(b) もしAとBがそれぞれ或る瞬間の世界の状態を表す命題ならば、Aと物理法則の連言はBを含意する。

このように定義したうえで決定論が真であるが否かは物理法則の性格に依存すると言う。

たとえば、もしすべての物理法則が「すべての核反応において運動量はほぼ完全に保存される」とか「力は質量と加速度の積におおよそ等しい」などというあいまいな命題でしかないなら、決定論は偽となる。

…と言う。まあそれぁそうだろう。あいまいな物理法則はあいまいな未来予測しかできないのだから当然だ。しかしこの論文は、この定義に大きな意義がある。物理法則によって命題にし得るか否かという人間に扱える内容が決定論の意味になったのだからだ。決定論を「神の意志による論」や「決まっているのだから決まっているのだなどとするトートロジーによる論」などに頼ることなく、きちんと、人間に知り得る物理法則と人間に知り得る命題によって世界の状態が決められ得ると定義してしまったことにその素晴らしさがあると思う。この定義は僕も大賛成だ。そして次のような美しい証明が展開される。

或る時刻Tに右手を挙げることで或る犯罪者の死刑を止めることができる裁判官Jがいた。Jはその時刻Tに手を挙げなかった。その結果、死刑は執行された。Jは束縛されていず、怪我を負ってもいず、麻痺もしていない。
Jが生まれる前の或る瞬間を「T0」、
時刻T0の世界の状態を表す命題を「P0」、
時刻Tの世界の状態を表す命題を「P」、
すべての物理法則の連言を命題にしたものを「L」、
とする。
① 決定論が真であるならば、P0とLとの連言はPを含意する。
② Jが時刻Tに手を挙げていなかったならば、Pは偽であった。
③ ②が真であり、さらにJが時刻Tに手を挙げることができたならば、JはPを偽にすることができた。
④ JがPを偽にすることができ、そして、P0とLとの連言がPを含意するならば、JはP0とLの連言を偽にすることができた。
⑤ JがPとLとの連言を偽にすることができたならば、JはLを偽にすることができた。
⑥ JはLを偽にすることはできなかった。
∴⑦ 決定論が真であるならば、Jは時刻Tに手を挙げることができなかった。

どうだろう。なんと美しい証明だろう。
ここの紹介では少し端折っているが、元の論文ではこの何倍も用意周到に論を展開している。物理法則によって世界が言い表せて、人はその物理法則に反する力を持っていないのであるなら、人は物理法則に従った世界のあり方に従う以外ないのである。この内容自体は当たり前のことではあるが、その当たり前のことをまったく隙のない議論で証明したことは驚くべきことである。
そして、論はさらに次のように展開する。

自由と決定論の両立を示そうとする「条件分析」という議論があり、…その「条件論者」によると、次のように言う。
⑧ SはXすることもできた。
という形の言明は、次を意味する。
⑨ もしSがXすることを選んでいたならば、SはXしていただろう。
と。

このような「自由とは他の行為をしようと思えば他の行為をしていたということを意味することなのだ」という「両立論」への抜け道を残そうとする論議に対しても、これを否定する。

⑨は⑧の正確な分析であるかどうかという論争もあるが、⑧と⑨が同じことを意味しているかどうかに関わりなく、本論が推論として妥当であることは明らかである。⑨の形に⑥を書き換えてみる。
(6a) JがLを偽にすることを選んでいたならば、JはLを偽にしていたであろうということは事実ではない。
ここで、(6a)は真である。もし、誰かが命題Rを偽とすることを選び、またRが物理法則であるならば、彼はその命題を偽にすることに必ず失敗するだろうからである。

つまり、「自由」の意味を「他の行為も為し得た可能性(選択可能性)があること」としてとらえるとしても、「仮に他の行為をしようと思っていれば他の行為をすることができていた」という意味としてとらえるとしても、自由意志と決定論は両立し得ないのである。自由意志があるのだとするならば、物理法則によって世界が決まるという決定論自体をひっくり返してしまわねばならないのだ。

完全完璧な論理ではないだろうか。この論のどこにも間違っているところなどあり得ないようにも見える。しかし、僕は、「自由」のとらえ方について根本的なところで間違っているように思えるのだ。非両立論はある意味、大きな勘違いをしているように思えるのだ。

それについては、次節以降で。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

こんばんは、工藤です。

>しかし、僕は、「自由」のとらえ方について根本的なところで間違っているように思えるのだ。非両立論はある意味、大きな勘違いをしているように思えるのだ。

そうですね(様相が自由を担保し得るという錯誤もまた然り)。

工藤さん、コメントありがとうございます。
しかし、ずいぶん遅い時間に読んでくださつているのですね。永井本とその批判の方はまだ読めていません。すみません。

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