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2012年11月24日 (土)

「心の哲学」を考える<心は実在するか0>

ジョン・R・サールの「マインド心の哲学」は名著だ。

僕のような、哲学初心者にもたいへん分かりやすく、心の哲学をかみ砕いて紹介してくれる。しかし、サールが重要な部分で間違っていると、僕は考えている。

心の哲学は、

 ① 二元論

 ② 観念論

 ③ 唯物論

のように、大別して整理される。この中で観念論と唯物論とは、くっきりと分離して考えれらえているが、僕はこの整理の仕方に問題があると思っている。

心身問題は、ウィトゲンシュタインの言う「世界の限界としての私」なる語りえない主体をどう見るかという、独我論的視点が深くかかわっていると、僕は考えている。

ここからは、いわゆる「心身問題」について、そして、「心とは何か」について、サールの説明に沿って心の哲学をふり返り、サールの考えを間違いとする、僕の考えを述べたいと思う。

つづく

<心は実在するか>

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コメント

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>心身問題は、ウィトゲンシュタインの言う「世界の限界としての私」なる語りえない主体をどう見るかという、独我論的視点が深くかかわっている

「心身問題は、言語ゲームに決してあらわれない=語られも示されもしない、自らがそれであるところのもの~伝達・指示・並列不可能な[Xなる身体に受肉する<ココロ‐コトバ>]と言語ゲームの関係を自得することによってのみ解消され得る(* Xには“自らの生ける身体”を当てはめて頂きたい)」

言うまでもないと思いますが、

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
独我論≠唯独性
です。

工藤さん、コメントありがとうございます。
少しずつ、僕の考えていることを整理して表明させていただきます。また、ご感想をいただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

工藤さんの永井批判を読ましてもらいたいと思っているのですが、どこに書かれているのか、分からないで困っています。書かれいる場所の詳しいURLを教えてください。

工藤さん

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179

は何度も案内してもらいましたので、何度も読みました。
でも、ジャーゴンが多すぎて言葉の意味が取れず理解できていません。
できるだけ、ジャーゴン抜きで解説してもらえればありがたいです。

工藤さんのいう、唯独性とは何を意味しようとしている言葉でしょうか。

おはようございます、工藤です。解説?をいくつか。

永井均氏によれば、独在性の<私>は「身体等との関係が偶然的である存在」です(この<私>が概念的構成物―ペガサスのような虚構存在―に過ぎないことは既に何度も述べたので割愛させて頂きます)。

>工藤さんのいう、唯独性とは何を意味しようとしている言葉でしょうか。

おそらく[横山信幸なる身体に生起する痛み]や[横山信幸なる身体から開けた視野]には「最も重要な意味で隣合うものがない」筈です。この「隣合うもののなさ」が唯独性―伝達・指示・並列不可能性と言っても同じことですが―です。既述の通り、伝達し合うことが出来る=言語ゲームにあらわれるのは「[横山信幸なる身体に生起する痛み]や[横山信幸なる身体から開けた視野](という発語や文字)」だけなのですから。

補足しますと、

[横山信幸なる身体から開けた視野]が捉える指示・並列可能な諸事物―対象として捉えられた諸事物と言っても良いと思いますが―例えば、花々や野良猫や他人の身体等と、“貴方”が現にそれであるところの生そのもの=伝達・指示・並列不可能な[横山信幸という生ける身体]との差異を“貴方=[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ‐コトバ>]”は理解している筈では? これが言語ゲームにあらわれることが出来ない=伝達・指示・並列不可能な[存在]論的差異なのです。既述の通り、伝達し合うことが出来る=言語ゲームにあらわれるのは「言語ゲームにあらわれることが出来ない=伝達・指示・並列不可能な[存在]論的差異](という発語や文字)」だけなのですから。

工藤さん、早速の回答ありがとうございます。

<私>の形而上学を解消する ―《私》の文法的構成と<私>なる錯誤―
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564

の永井批判についてと
「唯独性」についてとは、おかげで、おぼろげに理解できました
ただ、
>永井均『ウィトゲンシュタインの誤診』批判は
> https://twitter.com/nineteen_jacob
> で御読み頂けます。

については、どこにあるのか、わかりません。それとも、

これは上の
「<私>の形而上学を解消する ―《私》の文法的構成と<私>なる錯誤―」
と同じ内容でしょうか。

こんばんは、工藤です。

>これは上の
「<私>の形而上学を解消する ―《私》の文法的構成と<私>なる錯誤―」
と同じ内容でしょうか。

重なる部分もありますが、殆どが「書き下ろし」だと考えて頂いて結構です。

>どこにあるのか、わかりません。

スクロールして頂ければ見つかると思うのですが・・・

工藤さん

>スクロールして頂ければ見つかると思うのですが・・・

失礼しました。見つけました。
かなりスクロールしなくちゃいけなかったのですね。

まだ、永井の青色本批判の本を読んでいないので、それを読んで、工藤さんのご意見の感想もまた述べられたらいいと思います。がすこし時間がかかりそうです。
ありがとうございました。

 私は哲学好きでもなく、単に「私」がここにいる不思議に取り付かれているだけの者です。
 多くの哲学者がたくさんな哲学の定義を使って難しく語っている哲学には付き合いきれません。
 で・・・
 最近このブログを見つけました。 今頃ですが投稿してみます。
  ---
 私はこう考えています。
 まず、今の今「私(意識)」が覚醒していないと「ある」は意味を持ちません。
 多くの人の脳みそが覚醒しているときに観測して記録したものを、読んで「ある(と考えて辻褄が会う)」なあ、と思ているのも、 ・・・今の今「私(意識)」が覚醒しているからです。

 「私(意識)」が覚醒しない時、を想像できるのも、・・・今の今「私(意識)」が覚醒しているからです。

 つまり、
 今の今「私(意識)」が覚醒していない、などという状況に出くわすことが不可能です。
 あえて言うのなら ・・・「(図り知れない)混沌」です。
 「私(意識)」が覚醒していないときにも宇宙が「ある」のかどうか、なんて興味がありませんので、あえて言うならこれも、・・・「(図り知れない)混沌」としておけば、私には十分です。

 さて、本題です。
 今の今「私(意識)」が覚醒していて、観測したものごとを脳みそが認識するなら「ある(と考えて辻褄が合う)」でしょう。 いわゆる科学の世界です。
 しかし、

 【 脳みその認識機能が、自身の認識活動自体を直接的自己認識している 】
 とししたら、どうなるのでしょう。

 「私(意識)」は、自己の認識活動は絶対に疑いもなく「ある」と信じるでしょう。
 なせならばその認識には媒介する何もなく、直接的だからです。
 そして、「私(意識)」以外の認識機能からすれば、脳みその外から観測することは絶対に不可能です。

 「絶対にある」のに「絶対に観測できない」
 になりませんか?

 アナログな認識機能には意識がある可能性が高い(観測不能なので永遠に仮説)。
 ディジタルな認識機能には意識があるとは言い難い。
 
 こんな単純なことですが、分かりやすく解説された読み物はあるのでしょうか?

福市さん、ようこそいらっしゃいました。コメントありがとうございます。来場歓迎いたします。幾つかのコメントどれも興味深い内容でしたが、お返事は此処でまとめてさせていただきます。

コギトの話は、福市さんの指摘はかなりもっともだと思います。哲学には詳しくないと言われながら鋭い考察をされているので、来ていただいて嬉しくなってしまいました。概ねその通りだと思います。「概ね」と言うのは、福市さんの真意を僕が掴めていない部分があるので返答しにくいところがあるためです。

このページのコメントでも僕の読解力では読み解けないところがあるので、そちらの例で説明させてもらいます。

福市さんは「「私(意識)」は、自己の認識活動は絶対に疑いもなく「ある」と信じ」と言われました。ある意味では、この福市さんの発言は疑い得ない内容のようにも思えます。しかし、ここで言われている「私(意識)」なるものが、他者と対立し得る対象なのか否か、他時間に跨がって 共有される可能性があるものなのか否かは、必ずしもはっきりさせられているわけでは無いように僕には思えます。また、「ある」とは「無い」との対比によって意味付けられるレベルの「ある」なのか否か、「自己の認識活動』とはそれが何であるかをどうやったら知れるものなのか、も、僕には不確実な部分があるように思えます。そして、さらに重要な点は、それを、きちんと言語的に分析しようとすればするほど、その文の真偽は不確実なものになっていくのではないかという疑いを持ち得るということです。

僕には、そのような「言語的な分析」とその限界を探る活動にこそ、世界を知ることの本質があるとする思い込みがあるので、どうしてもそのように思われてしまいます。でも、福市さんのような考察こそを真理だとすることからしか、哲学は始められないとする哲学者も少なくないと思います。

僕が大好きな(でもその思索内容には賛同していない)永井均などは、かなり、福市さんの考えに近いのではないかという気がします。「私、今、そして神」とか「意識はなぜ実在しないのか」などの著作が僕からのお勧めです。(ただ、僕は決定的に間違っていると思っています)

それから、「哲学は頭が固い」というご指摘についてですが、それは確かにそういう哲学者もいるかもしれません。つまり、「哲学」を絶対的真理を手にしたときのその「答え」だと考えている哲学者ももしかしたらいるかもしれませんが、それはごく少数だと思います。多くの哲学する人が考えている「哲学」とは、それがなぜ正しいと言えるのか、それが正しいとというのは一体どういうことなのか、等という問いを問い続け、どこまでも逃げていく真理を追求し続けようとする、その「運動」こそが哲学だと捉えられていると思います。そして、そう捉えるとすると、哲学は決して頭の固いだけのものではないはずだと思えます。


福市さんのお名前のところをクリックするとFBのプロフィールが見られましたが、福市さんは仏教関係者ですか?もしそうなら、いろいろ教えてほしいです。

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