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2012年10月28日 (日)

「「p」はpと語る」はなぜ独我論を導くか<「論理哲学論考」を論考する・追記1>

「5.542明らかに「Aはpと信じている」「Aはpと考える」「Aはpと語る」は、もとをたどれば「「p」はpと語る」という形式になる。そして、ここで問題となるのは、事実と対象の対応関係ではなく、対象と対象の対応関係を通して与えられる事実相互の対応関係なのである。」

は、以下のように展開されて、独我論を導くと考える。

 

 

まず、論考から次の論を引く。
「4.01命題は現実の像である」

そしてまた、

「5.54命題はただ真理操作の基底としてのみ他の命題中に現れる」

ゆえに、他の命題中にあって、真理操作の基底になっていないのであれば、その文は現実の像ではない。…①

また、

「世界は必ず像として理解される」

「像は主体によって立ち上げられる」

ゆえに、「世界は主体の世界である」

つまり

「5.62世界は私の世界である」…②

さらに、

「5.632主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」

「主体は世界像を立ち上げ理解する者としてのみの存在である」

ゆえに、「主体は主体の世界である」

つまり、

「5.63私は私の世界である」…③

①②③より

「他者の立ち上げた世界像は他者の世界の像であり、現実の像ではない。」

そこから、

「他者は、他者の世界の主体であって、現実世界の主体ではない」

が得られる。

ゆえに

「5.62独我論の言わんとするところはまったくは正しい。」

 

 

とりあえず、メモのみ。 

・・・・・・・・・・・・

(さらに追記。

なんだかややこしい分析をしてしまったが、結局ここで言われてることは、次の点に集約されてるのだろう。

事実と対象の対応関係ではなく、対象と対象の対応関係を通して与えられる事実相互の対応関係

つまり、私が捉える世界認識は、私が言語分析的に捉えた対象としての世界を私が捉えるその言語的分析に対応させること以上のことにはなり得ない、ってこと。

だから、我々が有意味に捉えられる世界の「事実」とは我々が分析的に捉えた「対象」だとするしかあり得ない。

ここで、ウィトゲンシュタインが言ってる独我論とは、「世界の事実とは私が分析的に捉えた対象でしかない」というものなのだろう。

追記、2018.5.12)

つづく

「論考」を論考する 目次

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コメント

工藤さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

「私の世界」について文法的な限界があるのとは別に私秘的な限界があると考えるのは、ドグマなのではないかという気がします。これは世界の表裏であり一体のものではないかと思うのです。ウィトゲンシュタイもこの辺りにずいぶん格闘していたようですから、僕もしっかりと丁寧に考えたいと思います。

工藤さん、回答が早いですね。ありがとうございます。

論考のウィトゲンシュタインは独我論者ですから正しくないに決まっています。語り得ないはずの「世界の限界」を語っているのですから間違っていないはずがありません。しかし、まっすぐにぎりぎりまで単純化された世界把握は非常に重い内容を持っていると思います。
そしてやはり、「文法的限界」と「私秘的な限界」は同一であり、さらにそれは「世界を世界たらしめている唯一絶対の主体としての私の限界でもある」とも考えています。

論考は「3.333関数自身をその関数の入力項とすることはできない。…かくしてラッセルのパラドクスは片付く。」と言っています。これは、関数はその定義域がどんな範囲であるかという内容をも含めて一つの関数なのだから、定義域が変われば違う関数になるということだと思います。
同様に文を関数として考えてみますと、文中にその文自身を代入しようとしても出来上がった文は新しい文であって元の文ではありません。こう考えると、うそつきパラドクスに陥らずに済みます。
主体の問題についても、ウィトゲンシュタインは同じように考えていると思います。「Aは『Bはpと考えた』と考えた」というような階層を持つ文において、主体Bが主体となっているのは、主体Aのお話の中での事柄なのであって、主体Bと主体Aは同一世界の主体になることはあり得ない。また、主体Aが逆に主体Bの世界に代入されることあり得ません。無理に代入しようとしてもその時に現れるのは、さらに別の新しい世界になってしまうからです。そして、世界にどれだけ多数の主体があったとしても、それらは所詮お話の中の空想世界の主体であって現実の主体ではありません。現実世界を成立させているのは唯一「私」という主体のみです。
この「私」が「5.63私は私の世界である」の「私」という唯一絶対の主体でしょう。
工藤さんが、[○○なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]と表現しているのはこの唯一絶対の主体なのではないでしょうか。

(<ココロ-コトバ>は「こころ ひく ことば」と読むのでしょうか、「こころ は ことば」とよむのでしょうか、「こころ としての ことば」と読むのでしょうか。)

僕の考えでは、だから、ウィトゲンシュタインも僕も、うそつきパラドクスの間歇には落ちていないと考えているのですがいかがでしょうか。

ちょうど昨日、デイヴィドソンの「行為と出来事」を図書館で借りてきたところでした。「主観的、間主観的、客観的 」も図書館にあったので、今インターネット予約をしました。

工藤さんとの議論で自分の考えがずいぶん整理されてきています。ありがとうございます。

「「オバマは米大統領になった」「水はH2Oである」は論理的に無矛盾だから「真」と言えるか。答えは否。」・・・・・・について。
もちろんその通りだと思います。命題が無矛盾だからと言って必ず真だとは限りません。「論考」にしても、無矛盾だから真だと言っているわけではありません。「Aはpを語る」の「p」についても、それがお話の中の話であるなら有意味な命題にはなり得ず、原理的にトートロジーになるしかないので無意味だと言っているのではないでしょうか。これは、「オバマは米大統領になった」という文はその真偽に関わらず有意味な命題であるが、「オバマはアメリカ国である」などという擬似命題は真偽を問う以前に意味を持たないのだという問題に似ていると思います。

「6・7・8番の課題文で、【仮に】8番の文が真【ならば】3つの文は無矛盾であり、このパズルにおける真とは論理的無矛盾性を確保する為の任意に付与したりしなかったりするものでしかない」という問題・・・・・・について。
これについても、問題は課題文が真であるか否かではなく、命題として意味があるか否かだと思います。その文が無意味であったりナンセンスであったりすれば、世界記述ではないとすべきだということこそ、問うべきポイントだということです。うそつきパラドクスの「この文は偽である」という文についても同様で、真か偽かの問題としてではなく命題か否かの問題として捉えるべきで、この2者を混同してしまわないよう整理して考える必要があります。

このような視点で、僕は、「論考」は「うそつきパラドクス」とは異なるステージの問題なのだと考えています。論考が「「Aはpを語る」などはもとをたどれば「“p”がpを語る」を意味する」と言っているところで問うているのは、「pの真偽」ではなく「pが有意味か」という論点であり、「pがいかなる世界についての世界記述か」という論点だ、というのが僕の理解です。

論理学で命題を関数として扱っていることまで否定されるのは、よく分かりませんでした。自分なりに理解できればこれも反論したい気はあるのですが。

「“僕”は自らがそれであるところのもの、即ち[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]を「現実世界」とは呼ばないし呼ぶべきではない」・・・・・・について。
そのような工藤さんの言葉づかいが正しい日本語であり真っ当なものの見方だと思います。「論考」は独我論ですから、その点で完全に間違っていますし、まったく無意味だとさえ言えると思います。しかし、その「論考」の矛盾した言葉づかいを認めることで見えてくる一つの、とても重い、世界があるとも感じています。

工藤さん、難しいです。
「文を真/偽にする[言語に回収不可能なものとしての事物=真理]はどう読むのか、何を指しているのか、さっぱり分かりません。
「うそつきパラドクス」を命題か否かの問題として捉えるのが何故間違っているのか、やっぱり分かりません。

一昨日からパソコンが使えず、この欄もケータイから入力してるので、なかなか苦労しています。
もう少し読解のためのヒントをください。

「文・言語に回収不可能な事物」というのは「現実の事象」を指すと考えていいでしょうか。

うそつきパラドクスに対する、僕と論考の解決策は、問題を横滑りさせて問題自体をなかったことにしているだけで、解決にはなっていない・・・工藤さんのご指摘はそういうことなのでしょうか。


階層化について、
クリプキは知りませんが、ラッセルはタイプ概念を導入して言葉の意味を階層化しました。論考はこれに対し、文の代入において代入される文が命題でなくなってしまうという新しい「階層」を発明しています。同じ階層でもこの二人のものはまったく違います。これを一括りにしてしまっては何を指してダメとしているのか分かりません。工藤さんはバラドクスをどう解くのが正しいとお考えでしょうか。

基本的に「私の世界」は「現実の世界」と一致するというのが論考の世界観です。
「幸福な世界」と「不幸な世界」は別ものですし、「昨日の世界」と「今日の世界」も別ものですが、これらすべては「現実の世界」の中の「お話」として回収され得ると、僕は理解しています。
工藤さんは何故、回収できないとお考えなのでしょうか。

工藤さんのパラドクス対処法を僕なりに解釈してみました。以下で合っているでしょうか。

文が有意味であるとは、(1)文の意味(Sinn)があること。(2)無矛盾であること。(3)真偽の基準としての現実の対象(Bedeutung)があること。の3つの異なる基準があるが、ここでは(3)を考える。
Bedeutungが現実に存在する場合その文は「真」であり、存在しない場合「偽」である、とする。また、現実に存在するともしないとも決定できない場合「真偽」は無い、とする。
一方、「〜は真である」「〜は偽である」という文節はBedeutungがない。
そこで、「この文は偽である」という課題文について、Bedeutungがあるかを考える。すると、明らかにBedeutungが存在するとは言えない。また存在しないとも言えない。文の構造的にBedeutungが存在しないのだから、偽ですらなく、無意味である。


・・・と理解したのですが、どうでしょうか。論理的手法がダメということは、文の構造的な問題であることを考えなかったり、「「Bedeutungが存在する」ではない」と「存在しない」を区別しなかったりして、課題文を「偽」とするということではないですよね。
しかし、このアイデアって、ウィトゲンシュタインの言っていることと違わないような気がするのですが…。少し時間をかけて考えたいと思います。整理できれば、何故同じかを述べたいです。

工藤さん、こんばんは。

工藤さんは、「2.1511像は現実に到達する」に賛同されないのではないですか。或いは、「誰にも到達し得ない本当の現実がある。」という世界観をお持ちなのではないですか。
なかなか、工藤さんの世界が理解できないので、そんな気がしてきました。

文を真/偽にする「文言語に回収不可能な現実の事象や物」はBedeutungではない。ではその意味するところは何なのか。イメージしやすくなるようなSinnをもう少し下さい。

世界の内容は真偽を問うことができるが、その外側のことは真偽の問題ではないというのが、「論考」の論旨ですよね。たとえば「満月はどれくらいの期間満月なのか」という問いは「満月」という言葉をどう定義するかの問題であって、世界の内容に関する自然科学の問題ではないです。
同様に、「『私の世界』は『現実の世界』に一致するか」という問いは定義の問題であって、現実世界がどうなっているかの問題ではない。だから、これを否定するには、この言葉づかいが不合理であったり不便であったり不都合があったりするという次元の話にするしかないと思うのです。

実際、「主体によって構成された世界とは別に本当の現実世界がある」とするような言葉づかいで世界を語ることも、「唯一絶対の主体によって構成された世界こそが現実世界である」とするような言葉づかいで世界を語ることも可能だと思います。
だから、ここでどちらかをダメだとかOKだとか判断するには、それがどんな不合理や不便や不都合があるかという問題として考えないといけないと思います。

ただ「横山なる主体によって構成された世界が現実世界である」という文は、他者と共有できる訳のない言葉づかいですから、不都合があります。しかし、不可能かというと不可能ではないような気がします。そこに、真理を考えるための重い内容があるのなら、それはそれで価値のある言葉づかいだと思います。

工藤さんとの議論も、結局その世界観はどれだけ都合がいいかというプラグマティズムの問題になるのではないかと考えています。

工藤さん、追記します。
「横山なる主体によって構成された世界が現実世界である」というのは「論考」の世界観ではありませんでした。現実世界を構成する主体はもはや横山個人とは別ものですから、正しくは「唯一絶対の主体によって構成された世界が現実世界である」と言わなければならないところでした。

神の問題と死の問題を除外すれば、独我論の適否を議論できますが、そうでない
ならばむずかしいと思います。

Y・Nさん、コメントありがとうございます。
神と死と独我論の関連は僕にとって大問題です。Y・Nさんはなぜ神と死を除外すれば独我論の適否を議論できるとお考えなのか、よろしければ教えてください。大変興味があります。

工藤さん、こんばんは。(1)a[語り得ず示されるもの]とb[語り得ず示されもしないもの]の差違は言語の内容以前の二者、a[言語のルール設定]とb[言語を言語たらしめる主体]という理解でいいでしょうか。しかし、だとしたら「『私の世界』は『現実の世界』に一致するか」という問いはaとbのいずれの問題として考えるべきなのでしょうか。
(2)は、いわゆる意味論の三視点、「統辞論syntax」「意味論semantics」「実用論pragmatics」において、「実用論」を重視して考えるべきとした僕に対して、「意味論」こそを重視すべきだとされているのではないでしょうか。或いは、この三者を俯瞰する視点から考えるべきだとされているのではないでしょうか。見当違いでしょうか。

工藤さん、こんにちは。

さらに質問を2つさせていただきます。

一つ目、
語り得ず示されるものと、示されないものについては、おおよそ了解しました。ありがとうございます。それで、「『私の世界』は『現実』に一致するか」は、「示されるもの」と「示されないもの」のどちらの問題として考えるべきだとお考えですか。僕はどちらの問題だとしても、定義の問題に還元できると思えるのですが…。

二つ目、
「言語に回収不可能なもの」について、
(1)言語は現実に到達しないがゆえに回収不可能、なのか。
(2)言語は現実に到達するが原理的に回収不可能、なのか。
(3)どちらでもない、なのか。その場合言語と現実の関係はどうなっているか。

です。よろしければご回答ください。

工藤さん、丁寧な回答ありがとうございます。
おかげで、僕たち互いの個性的な言葉づかいでも、その意味を共有させられるようになってきつつあると感じています。

「『私の世界』が『現実』に一致するか」をどう捉えるかという点が問題だと思い、そこを問い続けさせてもらっています。もう少しお付き合いください。
ウィトゲンシュタインは「像が現実に到達する」と言い、カントは「物自体には達し得ない」と言った。この二者の立場の違いを、単純に、絶対的な視点でどちらかが間違っているとする事っていうのは、あまり意味がないように思えるのです。絶対的な視点での議論ではなく、どこがどう合理的で便利で、どちらが豊かな世界かなどという視点の議論ならとても有意義な議論になると思います。

僕が「言語は現実に到達するか」をお聞きしているのは、この二人の立場の違いをイメージしています。そして、二人の「本当の現実」を「到達可能なもの」と考えるのか否かという問いは、「本当の現実」を「到達可能なもの」と定義するか、「到達不可能なもの」と定義するのか、という問題に還元できる、ということを問いたいのですが、そういう意味でも不可能だとお考えですか。

それとも「回収不能」とは「還元不能」とまったく違う意味を示しているのか。

まったくの素人ですが、独我論を論破することは困難でしょうね。なぜなら、それは
個人的な意見(考え方)だから。だれでも、この宇宙で自分が一番重要だと思わざる
をえないからだと思います。意識・感覚はあくまで個人に属し、親子間でさえ共有は
できない。駅前で裸踊りができないのは表面的な常識・知識ができなくさせるのであって、他人が反応するだろうという客観性は経験から身についたクセだろうと思います。
でも、心の深層では唯我的な思考を展開しても不合理だとは到底思えない。

言い忘れました。存在・物質・時間・今論(流れつつある時間論)のうち時間に関して
「死と対峙する我」が独我論を生じさせたものと考えます。つまり、死んでも物質は
残るかどうかは誰が何と言おうと個人が判断するものじゃないですか?
視覚的な視像について、存在は時間だと思わざるを得ない。つまり唯我的な継起である。 と

Y・Nさん、回答ありがとうございます。
「死と対峙する我」というのは、「論考」の「5.621世界と生とは一つである」「6.44神秘とは世界が如何にあるかではなく、世界があるというそのことである」と同じことを意味されているような気がします。
僕は独我論が好きで、このようなブログを立ち上げているのですが、それでも独我論は何かしらの勘違いでしかないと思って、その論駁を試みています。ご意見いただければありがたいです。これからもよろしくお願いします。

工藤さん、こんばんは。

>そういう意味でも不可能だとお考えですか。
>はい。 現にあるもの・事柄の[自得]は「定義する」ことではありません。

びっくりしました。過激ですね。

>[前言語的な差異]は我々の定義によって成立したわけではない―ということ、です。

「本当の現実」を「到達可能なもの」と定義するか、「到達不可能なもの」と定義するのかという問題さえも、言語によって語りえないとされるのですから、工藤さんは言葉の実用論的意味(Pragmatics)の価値を認めないだけではなく、構文論的意味(Syntaxあるいは内包的意味)の価値をあまり認められないのではないですか。言葉の意味は指示対象的意味(Semantics) にこそより価値がある…と、いうようにおっしゃっているように感じました。合っているでしょうか。

また、神の視点による絶対的な世界観があって、絶対的な言語があると考えられているように感じました。だからこそ、人間が達することができるところまでだけを現実とするという言語観を否定されているように感じました。間違っているのでしょうね。

工藤さん、こんばんは。
同一の言語内でその言語のルールについて語るのは嘘つきパラドクスになってしまうでしょうが、メタ言語を設定して元の言語のルールについて語るのはまったく問題ないですよね。そのメタ言語についても、さらにその上階のメタメタ言語を設定すれば語り得る内容になります。そう考えると、言語が現実に到達すると定義する事も、到達しないと定義する事も、十分語り得るはす。
ここでは、語り得ず示され得ない次元が問題にはならないと思います。
語り得ない次元がどうして関係してくるなあか分かりません。

工藤さん。

工藤さんは実は、言語以前に絶対的な現実世界が実在すると想定されているのではないでしょうか。
だから、現実に関する定義が出来ないと結論されているのではないでしょうか。

でも、「言語以前には絶対的な現実世界など無いのだ」と想定する事も可能なはずです。

しかし、そのメタ言語は言語以前の事を問うてはならない・・・という「前提」に反する。
問うてはならないという「前提」が絶対的にあるから、現実に関する定義は出来ないのです。

これは逆に言うと、現実に関する定義が出来ないのは、それを問うてはならないという絶対的な「前提」を前提にしてしまっているから、にすぎないのではないでしょうか。

工藤さん、

命題は現実の像であって現実そのものではないということは勿論、僕も理解しています。僕も命題と現実が同一だと言おうとはしてません。
「命題は現実に到達する」は同一ということではなく、(原理的に)細部の違いなく一致している、ということです。

「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか、が知りたいのです。単純に文法の問題になぜ、ならないのでしょうか。

(1)「今から日本語禁止ってことにして話しするよ」と日本語で言う。
(2)「今から『言語は現実に到達する』ってことにして話しするよ」と言語で言う。
(3)「今から『言語は現実に到達しない』ってことにして話しするよ」と言語で言う。

(1)と(2)(3)の違いが分かりません。なぜ、単純に文法の問題にならないのでしょうか。

言語の網の目から洩れる現実が存在すると想定することも、
言語の網の目より細かな現実など、そもそも存在しないのだとすることも、十分出来ると思えるのですが。

工藤さん、こんにちは。

3点、考えました。

1.[現実]と「現実」の差異が消去できないというのは、まず本当の[現実]があって後に言葉としての「現実」が生じるという構図を絶対視している言語観だと理解しました。
そのような、言語に先行する[現実]があるとするなら、[現実]「現実」間の差異は消去できないでしょう。
しかし、ここで、一般的な言語ルールの前提として、「「現実]が言語に先行する」というメタルールが設定されているのではないかと勘繰ってしまいます。

言語の階層化の否定以前に、実はすでにメタ言語が密輸入しているのではないでしょうか。

2.定義の問題は結構タフな問題だと思っています。
「菅直人が大統領になった」という文は現行の日本語では偽にしかなりませんが、「首相になった事を『大統領になった』と言い換えよう」という言葉遊びをする事は全く可能であり、その言葉遊びの中では「菅直人が大統領になった」は真に成り得ます。
これは、単なる言葉遊びのお話ですが、日常言語とて、結局この言葉遊びと大差ないものでしかないのではないかと考えます。


3.お薦めいただいたデイヴィドソン「主観的.間主観的.客観的」を読みはじめました。
あのスワンプマンの例でも、結局は定義の問題になるように思います。
雷に撃たれる前の「私」がスワンプマンと「私」と同一のものである、として定義すれば、スワンプマンはまさしく私になる。そういう問題なのではないか、そういう問題にしかならないのではないか、と思うのです。

工藤さんに嫌がられるのでしょうが、僕は写像理論支持派です。(ウィトゲンシュタインが写像の間違いを認めたということでしたが、それはどこで読めるでしょうか。)
ですから、像と対象は同一だとは言いません。(像は認められないでしょうが、同一でないことは、工藤さんもOKですよね。)だから、誰かのことを無痛人間だと言えば、その人が無痛人間になる・・・なんて事は認めません。

定義によって変え得るのは言葉のルールです。
三角形の内角の和が180°だと定義しても180°とは限らないと定義しても、目の前にある三角形は変化しません。
しかし、180°ではないと定義すると三角形の概念自体が変わります。(ここは工藤さんは認めてくださらないかも知れないですね。)

[現実]と「現実」の差異が消去できないのは「端的な事実」であるという工藤さんの立場からすれば、[現実]と「現実」の差異を「前提」にしているという僕は「端的に」間違っている。

一方、[現実]と「現実」の差異があるか否かは、言語ルールに関する問題であるとする僕の立場からすれば、工藤さんは密かにメタルールを持ち込んでいるに過ぎないと考える。これは「端的に」そうなのです。

どちらも「端的に」そうであると考えているのですから、この水掛け論をどちらか一方の結論に決着させることは難しいようです。

工藤さん

確かに、でたらめな定義遊びは何の意味も持たず言語もどきのようなものしか作ることができませんよね。
出鱈目で恣意的な定義をすることは定義することではなく私的定義とさえ呼べない代物だとおっしゃるのは、その通りだと思います。

しかし、三角形の内角の和が180°と限らないと定義して非ユークリッド空間の概念を導入すると、幾何的パラダイム転換が起こり三角形の概念自体が変わるのだ・・・と、考え得ることは、はっきりと意味があるのではないでしょうか。
言語ルールを変更しても目の前にある存在は何一つ変わりません。しかし、そのものの概念自体が変わるのでその見え方がまるで変ってしまうような状況は、少ないかもしませんが、確実にあり得ます。

工藤さん

内角の和が完全に180°に等しくなるような厳密な「三角形」は現実にはありえません。この世はユークリッド空間ではないからです。でも、現実に存在する三角形を三角形と呼ぶ言語は確かに存在し、完全に通用しています。だから、内角の和が180°になるとは限らない三角形を「三角形」と呼ぶとすることにしても、通用する言葉になると思います。
三角形の内角の和が280°と定義すればどうかというと、そこまで数が大きくなるとうまくないと思います。でも、程度問題でしかないように思います。


>>「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか
>伝達・指示・並列不可能な[工藤庄平なる身体に生起している首痛]と、“僕”や横山さんが為し・或は書きつける「伝達・指示・並列不可能な[工藤庄平なる身体に生起している首痛](という発語や内語・或は文)」があるとき―後者が前者に「一致する(写像する)」とか「一致しない」などということが【本当に】成立しているのか? 【虚心坦懐に=事柄に即して】御考えください。

いろいろと虚心坦懐に考えようとしているのですが、やはり、「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」と真剣に端的に考えられます。

工藤さん、ありがとうございます。
思考をチェックしていただいているおかげで、少しずつですが整理できてきています。

(修理にだしていたパソコンがようやく返ってきました。ここのコメントもやっと入れやすくなりました。コピペができるようになりました。長文引用ができます。)

>【誰かが「端的にそうである」と考えること】によって、以下の事実及び事柄
①誰かが「菅直人は米国大統領になった」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
②誰かが「水は摂氏1550度で個体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。
④誰かが「ユークリッド幾何学における三角形の内角の和は280°である」と定義すれば、ユークリッド幾何学における三角形の概念=内角和は180°が変わるのでしょうか。―否。
が覆ることはありません。
結局、横山さんの主張は―例えば「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」と定義すれば、殴打等されても痛みを感じなくなる、ということになりそうです。これはトンデモと言う他ありませんが、これまでの主張を敷衍する限り、そうならざるを得ません。

この部分で、
工藤さんは「定義」を、言葉の「意味」の確定だと捉えられているのではないでしょうか。
しかし、僕が問題にしたい「定義」はその言語自体のルール設定の変更なのです。

その言語の言葉遣いのままで、
「菅直人は米国大統領になった」とか
「水は摂氏1550度で個体になる」とか
「鯨は『サバ科』である」とか
「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」
などと言ってその言葉の意味だけを変えようとしてもそれは当然でたらめの「偽」にしかなりません。
ところが、僕の言っている「定義」は言語が新しく作り変えられるようなルール設定の変更なのです。そう考えると、、
「菅直人は米国大統領になった」とか
「水は摂氏1550度で個体になる」とか
「鯨は『サバ科』である」とか
「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」
などと言うことも一概に不可能ではなくなります。しかしだからと言ってこんな出鱈目は意味のある言葉遣いになりませんが、それでも不可能ではありません。

ただ、言語のルール設定の変更が、いつも出鱈目で使い物にならないかというとそんなことはなく、適切なパラダイム転換は起こりえます。非ユークリッド空間への転換などという大きな転換だけでなく、不幸だった私から幸福になった私という転換でも言語ルールは転換され、新しい言葉遣いが要求されるようになります。
「定義」の問題は野放図に何でも、言語を使いものにならないようにするだけでなく、新しい世界を生み出すものにもなり得ます。

だから、
「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」
という文についても、そのどちらを選ぶかは一つの同じ世界の中でどちらが正しいかを選ぶ作業なのではなく、どちらの言葉遣いを選ぶか、あるいは、どちらの世界を選ぶかという選択であります。それゆえ、問題はその言葉を共有する当事者の同意によって決められる問題になると思うのです。

工藤さん

>「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」と真剣に端的に考えようが考えまいが―そのことと[横山信幸なる身体に生起する痛み]は無関係なのでは? [現実(事物世界)]についても然り。

その通りだと思います。「定義」をどう変更しようと、語りえる「意味」は変わりません。だから、

>国際社会における認証や法的効力を有しない単なる言葉遊び「菅直人は米国大統領になった」が「菅直人は米国大統領になった」という文を真にすることは出来ません。
②誰かが「水は摂氏1550度で固体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。

と仰るのが、言葉の意味を問うている上で、僕もまったく正しいと考えているのは、これまでに延べている通りです。

しかし、僕が言語のルール変更と言っているのは、この世界内の語りえる事象についてではなく、この世界の限界にあって語り得ないことがらについてなのです。語り得ない世界の限界は、言語の中でその真偽を問うことができず、言語のルールによって「すでに」決まったものとして示されたり、文法上の規定にされてしまったりするような問題に、回収されるものだと思っています。

たとえば、
(a)「【男の価値】とは、『死ぬ時に何を残したかで決まる』ものである」
という文は、日常生活で意味がある文ではありますが、世界と見比べて真偽が決定できるものではありません。そういう意味では(a)文は有意味だとも言いにくいです。
ここで、(a)文を真とするか偽とするかで言語ルールが異なり、それが違う言語にならざるをえないというのが「論考」の言語観だと思います。工藤さんは否定されるかもしれませんが、そういう言語観も「あり」だと、僕は思っています。

>横山さんにとっては、横山さんと横山さんの言葉遣いを採用してくれる人々から成る集団が「世界」なのですか? そして、横山さんの言葉遣いを採用しない存在者は「同じ世界の住人ではない」―そう「定義した」と。

これについても、
(a)「【男の価値】とは、『死ぬ時に何を残したかで決まる』ものである」
を真とする者同士では、同じ言語を使い他者として存在することになり、(a)を偽とする者同士では、違う言語を使う他者として存在することになる。・・・・それだけのことだと考えます。僕の言葉づかいを採用する人は、同じ価値観で話をすることができる他者であり、僕の言葉づかいをしない人は価値観を共有できない他者になると。

>[現実(事物世界)の在り方]は「どちらの言葉遣いを選ぶか、あるいは、どちらの世界を選ぶかという選択=出鱈目かつ意味不明な文を作ること」とは独立・無関係です。もしそうでなければ、我々が[現実(事物世界)の在り方]を「発見する(経験的探究を通して[現実(事物世界)の在り方]に即した概念を構成する)」ことはあり得ません。

「論考2.025実体は形式と内容からなる」で言うところの「内容」を「現実」、「形式」を「言葉遣い」として捉えると、もちろん[現実]は「言葉遣いの選択」とは独立で無関係であります。(「内容」と[現実]は違うし、「形式」と「言葉遣い」は一致しないと叱られるかもしれませんが、ここでいう大筋で大差はないのではないかと思っています。)
僕が違うことを言っているとは思えないので、何が問題なのかよくわかりませんでした。

>①②は[事物世界の在り方]と連関しており、単に「言葉の意味を問うている」だけではないのです。別の言い方をすれば、或る文を真/偽にする[言語に回収不可能なもの]が言語ゲームを含むケース―例えば「バラク・オバマは米国大統領になった」という文を真にする[出来事]は言語ゲーム(選挙制度等々)を含んでいます―と含まない(と考えられる)ケース―[事物の在り方]―の差異を理解しておく必要がある、ということです。

この部分は仰っている意味が取れなかったのですが、[現実]に「形式」が含まれないケースと、含まれるケースがあるということなのでしょうか。

工藤さん

「論考」が間違っているという文脈の中で

>[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]において構成された<工藤庄平>なる概念的構成物=お話の中の主体(他者)と、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]は全く別物ですから。

と仰っているのですが、僕にはそれがなぜ「論考」批判になるのか理解できないのです。工藤さんのおっしゃっていることはすっかり「論考」でも説明可能に思えるからです。どこが、「論考」と齟齬を起こしているとお考えなのでしょうか。

僕は「論考」はかなり特定された状況でしか働くことができない、一般的ではない理論だと考えています。しかし、大筋では間違っているとは思えないのです。(要素命題が互いに独立でなければならないとしているところなど、小さなほころびはいくつかありますが。)一般相対性理論がかなり広範な状況をカバーできる理論であるのに対し、ガリレオ力学は慣性系というかなり窮屈な範囲でしか働くことができません。ガリレオ力学はそういう意味でかなり特殊ではあり間違っているとも言えないこともないですが、まったく使い物にならない理論というわけではありません。「論考」も同様の特殊な状況しかカバーできない理論だと思えるのです。
工藤さんによればウィトゲンシュタインが「論考」の写像理論を間違えだと認めているということですが、それが本当だとしても、それは特殊理論だという意味以上の批判だとは思えないのです。ウィトゲンシュタインが写像理論の間違いを認めたというのはどの書で確かめられるでしょうか。自分で見てみたいのですが。

ここまで、工藤さんからたくさんのコメントをいただいて、かなりわかってきたという自負があったのですが、暗礁に乗ってしまった気分です。

工藤さん

>「『論考』において、私は論理的分析と直示的説明のことがよく解っていなかった。当時、私は<言語と現実の結合>などというものが存在すると(誤って)考えていたのである」―『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』

ありがとうございます。少しすっきりしました。

「論考」でウィトゲンシュタインは語の意味を確定できるとしていたが、語の意味は確定できるものではないという批判ですね。もともと、語の意味が確定できないのだから、言語が現実に到達するか否かを問うことが意味はないということでもある。その意味で写像理論は一般化できる理論ではない。


>伝達・指示・並列不可能な[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]と伝達可能な―横山さんがこの文章を「目に入れる」ことが出来るという意味で―「伝達・指示・並列不可能な[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>](という発語や文字)」を混同してはならないように、[現実(事物世界)]とそれについての「説明(発語や文字)」も混同してはならない、ということです。

難解な文でしたが、かなり、ざっくりと
「語り得ない[主体]と、語り得る対象としての「主体」を混同してはならないように、[現実]と「言語」を説明してはならない」
として解釈させてもらいました。
工藤さんがこの文で、「論考」の間違いを指摘したのは、上と同様のことで、もともと、語の意味が確定できないのだから、言語が現実に到達するか否かを問うことが意味はない。・・・・として理解しました。

しかし、やはり僕としては、「論考」が、まったく役に立たない誤謬と捉えるべきではないのではないかとも考えています。
理由は前回言った通り、「論考」が、ガリレオ力学のように、特殊な状況だけを扱った理論であり一般化されないという不備があるだけで、その特殊な状況の中では整合的だからです。

「論考」では語がその意味を確定させることができます。実際の生活の中でそのようなことは、ガリレオの慣性系が実際にはありえないように、ありえません。しかし、仮に語の意味を確定させることができたとしたら、を問うているこの理論は、その射程の狭さゆえに、かなりすっきりと世界を説明してくれます。その中では写像理論は意味を持ち、十分役に立ちえます。

工藤さんはこれまで、語の意味が確定できないという一般的な理論からの視点で「論考」の特殊性を批判し、僕はその特殊化された狭い理論からの視点で、語の意味が確定できることを前提とする必要を説いていたので、すれ違いが出てきたのではないかという気になりました。

工藤さん

【現実と命題の対応説や真理関数の胡乱さを自覚→言語ゲームの着想を得る】と解しても大差ありません。

工藤さんは、現実と命題の対応説や真理関数の胡乱さから得た「言語ゲーム」という、一般的な理論からの視点で「論考」の特殊性を批判し、僕はその特殊化された狭い理論からの視点で、現実と命題を対応させ得ることを前提とする必要を説いていたので、すれ違いが出てきたのではないのでしょうか。

一般的な視点から「論考」が間違いだといえば、間違いです。独我論が導かれる理論ですから。しかし、ガリレオ力学のように、有用だという意味では、有意義で有意味だと思います。

工藤さん

>後期ウィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、「【有意味性の[外]を消去し得るという錯誤】―即ち『唯言論』こそが哲学的混乱及び似非問題(嘘つきパラドックス等)の真の源泉であり、哲学を全き闇へ落とし込む陥穽である」

…(というのが何を意味されているのかよくわかりませんが)
それだから、「論考」が間違いだと了解したとします。

しかし、ガリレオ力学のように、有用だという意味では、有意義で有意味だと言えるのではないですか。

工藤さん

付け加えです。

>「“私”の世界=“私”が今理解する唯一の言語」に回収不可能な[現実(事物世界)]と[生ける身体]

というのは「語り得ない[主体]と、語り得る対象としての「主体」」というとらえでは間違いですか。そのようなとらえ方でしたら、「論考」はしています。工藤さんが考えている主体と論考の主体とはどこが違うのでしょうか。

補足しますと、

>しかし、ガリレオ力学のように、有用だという意味では、有意義で有意味だと言えるのではないですか。

僕は「有用な虚偽」に興味がないので、何とも言いようがありません(付言しますと、ガリレオ力学との類比には違和感を覚えます)。

>工藤さんが考えている主体と論考の主体とはどこが違うのでしょうか。

既述の通り、『論考』の形而上学的な(語り得ぬ)主体には[身体]が欠けています。

>「私の世界」について文法的な限界があるのとは別に私秘的な限界があると考えるのは、ドグマなのではないかという気がします。

問題は『論考』6・43「幸福な人の世界/不幸な人の世界」で示唆されている【差異】を「“私“の世界=“私”が今理解する唯一の言語」の内に回収することは出来ない、ということです。真理を巡る問題―嘘つきパラドックス―と絡めて言えば、これは我々が文を真/偽にする[言語に回収不可能なもの]と真なる文の差異を理解していることに対応しています。「唯言論」の誤りは、ラッセルやタルスキ或はクリプキの遣り方―言語に階層差を持ち込む―では嘘つきパラドックスを解消出来ないことに示されているのではないでしょうか。
察するに、横山さんの言う「私秘的な限界」は「“私“の世界=“私”が今理解する唯一の言語」の内に回収されてしまうものであって、僕が“自得して頂こうと”している「[存在]論的断絶」或は「唯独性」とは違うように思われます。
別の言い方をすれば、『論考』のウィトゲンシュタインと横山さんは、嘘つきパラドックスにおけるラッセルやタルスキと同じ陥穽に嵌り込んでいるように見えるのです。

>これは世界の表裏であり一体のものではないかと思うのです。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
「“私”の世界」―精確に言えば、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]に[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]を回収することも、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]に[現実~事物世界]を回収することも出来ません。
『論考』以後のウィトゲンシュタインが『青色本』や『個人的経験及び感覚与件について』等に通底する諸問題に傾注したのは何故か?―を考えてみるのも有益でしょう。

工藤さん

僕が言語ゲームを一般的と評したのは、一般相対性理論が広範な内容をその対象とできるのと同じ意味でです。世界の見方に過ぎないと考えるのは、僕も同じです。

工藤さん

非常に残念ですが、さっぱり分かりません。

今度、12月9日に大阪哲学道場で「論考」について発表しますので、ぜひ来てください。話を聞かせてくださいませんか。

工藤さん

大阪哲学道場の主宰から、回答がありました。
工藤さんが以前永井論文の無断発表をしようとした人物と同一であれば、参加はしてもらうわけにはいかない、とのことです。

もし、そうなのであれば、残念です。

工藤さん

大阪哲学道場は残念でしたが、本ブログは歓迎です。いつでもウェルカムでお待ちしています。

工藤さん

パソコンの調子が悪く、またリカバリーをしたところです。おそるおそるいろいろ試しています。こちらの具合のせいかもしれませんが、

永井均『ウィトゲンシュタインの誤診』批判について

https://twitter.com/nineteen_jacob

のどこを読んだらいいのかわかりません。
少し詳しい URL を教えてください。

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