フォト
無料ブログはココログ

« いったん、つづく≪「哲学探究」を探求する15.1≫ | トップページ | 大阪哲学道場12/9レジュメ »

2012年10月28日 (日)

「「p」はpと語る」はなぜ独我論を導くか<「論理哲学論考」を論考する・追記1>

「5.542明らかに「Aはpと信じている」「Aはpと考える」「Aはpと語る」は、もとをたどれば「「p」はpと語る」という形式になる。そして、ここで問題となるのは、事実と対象の対応関係ではなく、対象と対象の対応関係を通して与えられる事実相互の対応関係なのである。」

は、以下のように展開されて、独我論を導くと考える。

 

 

まず、論考から次の論を引く。
「4.01命題は現実の像である」

そしてまた、

「5.54命題はただ真理操作の基底としてのみ他の命題中に現れる」

ゆえに、他の命題中にあって、真理操作の基底になっていないのであれば、その文は現実の像ではない。…①

また、

「世界は必ず像として理解される」

「像は主体によって立ち上げられる」

ゆえに、「世界は主体の世界である」

つまり

「5.62世界は私の世界である」…②

さらに、

「5.632主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」

「主体は世界像を立ち上げ理解する者としてのみの存在である」

ゆえに、「主体は主体の世界である」

つまり、

「5.63私は私の世界である」…③

①②③より

「他者の立ち上げた世界像は他者の世界の像であり、現実の像ではない。」

そこから、

「他者は、他者の世界の主体であって、現実世界の主体ではない」

が得られる。

ゆえに

「5.62独我論の言わんとするところはまったくは正しい。」

 

 

とりあえず、メモのみ。 

 

 

つづく

「論考」を論考する 目次

« いったん、つづく≪「哲学探究」を探求する15.1≫ | トップページ | 大阪哲学道場12/9レジュメ »

コメント

『論考』における「限界の二義性」を指摘しておきます。6・44「限られた全体」或は6・43「幸福な人の世界/不幸な人の世界」 限界が①論理に由来するのか②[固有身体]―自らがそれであるところのもの~伝達・指示・並列不可能な[生ける身体]―の唯独性に由来するのか。②に由来する限界―例えば[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]の唯独性―は論理に回収出来ないし、①論理の限界―アンチノミー等―を②に由来すると考えるのは明らかに的外れでしょう。『論考』は、この点の突き詰めが甘いと思います。
自らがそれであるところの[生ける身体]、伝達・指示・並列不可能な[Xなる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]の唯独性については
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
*Xには“自らの生ける身体”を当てはめてください。

工藤さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

「私の世界」について文法的な限界があるのとは別に私秘的な限界があると考えるのは、ドグマなのではないかという気がします。これは世界の表裏であり一体のものではないかと思うのです。ウィトゲンシュタイもこの辺りにずいぶん格闘していたようですから、僕もしっかりと丁寧に考えたいと思います。

こんにちは、工藤です。コメントをいくつか。

とりあえず『論考』は誤っているという前提で―詳しい話は後ほど―お話させて頂きます。僕は「ウィトゲンシュタインが何を考えていたか」よりも「事柄そのものがどうなっているか」に興味があるので・・・

>「私の世界」について文法的な限界があるのとは別に私秘的な限界があると考えるのは、ドグマなのではないかという気がします。

問題は『論考』6・43「幸福な人の世界/不幸な人の世界」で示唆されている【差異】を「“私“の世界=“私”が今理解する唯一の言語」の内に回収することは出来ない、ということです。真理を巡る問題―嘘つきパラドックス―と絡めて言えば、これは我々が文を真/偽にする[言語に回収不可能なもの]と真なる文の差異を理解していることに対応しています。「唯言論」の誤りは、ラッセルやタルスキ或はクリプキの遣り方―言語に階層差を持ち込む―では嘘つきパラドックスを解消出来ないことに示されているのではないでしょうか。
察するに、横山さんの言う「私秘的な限界」は「“私“の世界=“私”が今理解する唯一の言語」の内に回収されてしまうものであって、僕が“自得して頂こうと”している「[存在]論的断絶」或は「唯独性」とは違うように思われます。
別の言い方をすれば、『論考』のウィトゲンシュタインと横山さんは、嘘つきパラドックスにおけるラッセルやタルスキと同じ陥穽に嵌り込んでいるように見えるのです。

>これは世界の表裏であり一体のものではないかと思うのです。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
「“私”の世界」―精確に言えば、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]に[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]を回収することも、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]に[現実~事物世界]を回収することも出来ません。
『論考』以後のウィトゲンシュタインが『青色本』や『個人的経験及び感覚与件について』等に通底する諸問題に傾注したのは何故か?―を考えてみるのも有益でしょう。
猶、「相互的な私秘性」の成立を解明しつつ、ウィトゲンシュタイン的な遣り方では治せない(とされる)「病気=永井流独我論」を根治する道筋を示した書物としてデイヴィッドソン『主観的、間主観的、客観的』を挙げておきます。キイワードは【三角測量】です。

工藤さん、回答が早いですね。ありがとうございます。

論考のウィトゲンシュタインは独我論者ですから正しくないに決まっています。語り得ないはずの「世界の限界」を語っているのですから間違っていないはずがありません。しかし、まっすぐにぎりぎりまで単純化された世界把握は非常に重い内容を持っていると思います。
そしてやはり、「文法的限界」と「私秘的な限界」は同一であり、さらにそれは「世界を世界たらしめている唯一絶対の主体としての私の限界でもある」とも考えています。

論考は「3.333関数自身をその関数の入力項とすることはできない。…かくしてラッセルのパラドクスは片付く。」と言っています。これは、関数はその定義域がどんな範囲であるかという内容をも含めて一つの関数なのだから、定義域が変われば違う関数になるということだと思います。
同様に文を関数として考えてみますと、文中にその文自身を代入しようとしても出来上がった文は新しい文であって元の文ではありません。こう考えると、うそつきパラドクスに陥らずに済みます。
主体の問題についても、ウィトゲンシュタインは同じように考えていると思います。「Aは『Bはpと考えた』と考えた」というような階層を持つ文において、主体Bが主体となっているのは、主体Aのお話の中での事柄なのであって、主体Bと主体Aは同一世界の主体になることはあり得ない。また、主体Aが逆に主体Bの世界に代入されることあり得ません。無理に代入しようとしてもその時に現れるのは、さらに別の新しい世界になってしまうからです。そして、世界にどれだけ多数の主体があったとしても、それらは所詮お話の中の空想世界の主体であって現実の主体ではありません。現実世界を成立させているのは唯一「私」という主体のみです。
この「私」が「5.63私は私の世界である」の「私」という唯一絶対の主体でしょう。
工藤さんが、[○○なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]と表現しているのはこの唯一絶対の主体なのではないでしょうか。

(<ココロ-コトバ>は「こころ ひく ことば」と読むのでしょうか、「こころ は ことば」とよむのでしょうか、「こころ としての ことば」と読むのでしょうか。)

僕の考えでは、だから、ウィトゲンシュタインも僕も、うそつきパラドクスの間歇には落ちていないと考えているのですがいかがでしょうか。

ちょうど昨日、デイヴィドソンの「行為と出来事」を図書館で借りてきたところでした。「主観的、間主観的、客観的 」も図書館にあったので、今インターネット予約をしました。

こんばんは、工藤です。御質問?に答えさせて頂きます。

>(<ココロ-コトバ>は「こころ ひく ことば」と読むのでしょうか、「こころ は ことば」とよむのでしょうか、「こころ としての ことば」と読むのでしょうか。)

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
<心=言葉>ということですね。生成論的な観点から言えば、言語習得以前の赤ん坊は[生ける身体=意識]ではあっても<心=言葉>は持っていない―所有を意味する表現は使いたくないのですが―わけです。そして、[生ける身体=意識]においてアポステリオリに形成されるのが<ココロ-コトバ>である、と。

>同様に文を関数として考えてみますと、文中にその文自身を代入しようとしても出来上がった文は新しい文であって元の文ではありません。こう考えると、うそつきパラドクスに陥らずに済みます。

これはポイントレスだと思います。第一に、文は関数ではありません(論理学者が陥る陥穽)。次に、嘘つきパラドックスが図らずも示してくれているのは ①文を真/偽にする[言語に回収不可能なもの]と②言語内の事柄である論理的無矛盾性との【差異】であって、関数云々は無関係であるということ。
例えば「バラク・オバマは米国の大統領になった」「水はH2Oである」等の文は「論理的に無矛盾である」から「真である」のでしょうか。答えは、否、であると思われます。
さて、では、以下のパズル―嘘つきパラドックスのヴァリエーション―に御答え下さい。
6:7番の文と8番の文は真なる文である。
7:6番の文は真なる文である。
8:6番の文は偽なる文である。
もう御解りだと思いますが、【仮に】8番の文が真【ならば】互いに言及し合う3つの【文の関係は無矛盾】です。つまり、このパズルにおける真とは【論理的無矛盾性を確保する為に我々が任意に付与したりしなかったり出来るもの】でしかありません。
では、「バラク・オバマは米国の大統領になった」という真なる文については?
この先はあえて言わないでおきます。

>世界にどれだけ多数の主体があったとしても、それらは所詮お話の中の空想世界の主体であって現実の主体ではありません。現実世界を成立させているのは唯一「私」という主体のみです。

『論考』解釈としては「正しい=オーセンティック」と思いますが、事柄としては間違っていますね。[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]において構成された<工藤庄平>なる概念的構成物=お話の中の主体(他者)と、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]は全く別物ですから。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
加えて、“僕”は自らがそれであるところのもの、即ち[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]を「現実世界」とは“呼ばない”し、呼ぶべきではないと考えています。“僕”「現実世界」という言葉を―[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]や[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]や・・・全てを含み込んで在る[現実~事物世界]の為に取っておきたいのです。
[現実~事物世界]―スピノザはそれを【神】と呼んでいました。

>この「私」が「5.63私は私の世界である」の「私」という唯一絶対の主体でしょう。
工藤さんが、[○○なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]と表現しているのはこの唯一絶対の主体なのではないでしょうか。

精確に言えば、否、です。もう御解りでしょうが、[現実~事物世界]が[○○なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]を在らしめているのであって、その逆ではないのですから。

工藤さんとの議論で自分の考えがずいぶん整理されてきています。ありがとうございます。

「「オバマは米大統領になった」「水はH2Oである」は論理的に無矛盾だから「真」と言えるか。答えは否。」・・・・・・について。
もちろんその通りだと思います。命題が無矛盾だからと言って必ず真だとは限りません。「論考」にしても、無矛盾だから真だと言っているわけではありません。「Aはpを語る」の「p」についても、それがお話の中の話であるなら有意味な命題にはなり得ず、原理的にトートロジーになるしかないので無意味だと言っているのではないでしょうか。これは、「オバマは米大統領になった」という文はその真偽に関わらず有意味な命題であるが、「オバマはアメリカ国である」などという擬似命題は真偽を問う以前に意味を持たないのだという問題に似ていると思います。

「6・7・8番の課題文で、【仮に】8番の文が真【ならば】3つの文は無矛盾であり、このパズルにおける真とは論理的無矛盾性を確保する為の任意に付与したりしなかったりするものでしかない」という問題・・・・・・について。
これについても、問題は課題文が真であるか否かではなく、命題として意味があるか否かだと思います。その文が無意味であったりナンセンスであったりすれば、世界記述ではないとすべきだということこそ、問うべきポイントだということです。うそつきパラドクスの「この文は偽である」という文についても同様で、真か偽かの問題としてではなく命題か否かの問題として捉えるべきで、この2者を混同してしまわないよう整理して考える必要があります。

このような視点で、僕は、「論考」は「うそつきパラドクス」とは異なるステージの問題なのだと考えています。論考が「「Aはpを語る」などはもとをたどれば「“p”がpを語る」を意味する」と言っているところで問うているのは、「pの真偽」ではなく「pが有意味か」という論点であり、「pがいかなる世界についての世界記述か」という論点だ、というのが僕の理解です。

論理学で命題を関数として扱っていることまで否定されるのは、よく分かりませんでした。自分なりに理解できればこれも反論したい気はあるのですが。

「“僕”は自らがそれであるところのもの、即ち[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]を「現実世界」とは呼ばないし呼ぶべきではない」・・・・・・について。
そのような工藤さんの言葉づかいが正しい日本語であり真っ当なものの見方だと思います。「論考」は独我論ですから、その点で完全に間違っていますし、まったく無意味だとさえ言えると思います。しかし、その「論考」の矛盾した言葉づかいを認めることで見えてくる一つの、とても重い、世界があるとも感じています。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>このような視点で、僕は、「論考」は「うそつきパラドクス」とは異なるステージの問題なのだと考えています。論考が「「Aはpを語る」などはもとをたどれば「“p”がpを語る」を意味する」と言っているところで問うているのは、「pの真偽」ではなく「pが有意味か」という論点であり、「pがいかなる世界についての世界記述か」という論点だ、というのが僕の理解です。

僕が『嘘つきパラドックス』を採り上げたのは、「唯言論」批判という文脈において『論考』と通底する哲学的混乱を抱えているように見えたからに過ぎず、他意はありません。そもそも「文を真/偽にする[言語に回収不可能なものとしての事物=真理]や[存在]論的に断絶した[他者]を横山さんが論じておられる【有意味性の次元】に回収することは出来ない」というのが僕の主張の眼目だったのですから。繰り返しますが、

問題は『論考』6・43「幸福な人の世界/不幸な人の世界」で示唆されている[差異]を「“私“の世界=“私”が今理解する唯一の言語」の内に回収することは出来ない、ということです。真理を巡る問題―嘘つきパラドックス―と絡めて言えば、これは我々が文を真/偽にする[言語に回収不可能なもの]と真なる文の差異を理解していることに対応しています。「唯言論」の誤りは、ラッセルやタルスキ或はクリプキの遣り方―【言語に階層差を持ち込む】―では嘘つきパラドックスを解消出来ないことに示されているのではないでしょうか。

【言語に階層差を持ち込む】―文を真/偽にする[言語に回収不可能なものとしての事物=真理]を【有意味性の次元=文の意味・言語】に回収し得るという誤謬は、[存在]論的に断絶した[他者]を【有意味性の次元=“私”が今理解する唯一の言語】に回収し得るという錯誤とパラレルだと思います。

>しかし、その「論考」の矛盾した言葉づかいを認めることで見えてくる一つの、とても重い、世界があるとも感じています。

「一つの、とても重い、世界がある」―伝達・指示・並列不可能な[Xなる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]の【唯独性】こそが「それ」である、と言っておきます。
* Xには“自らの生ける身体”を当てはめてください
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179

『嘘つきパラドックス』について一点だけ補足させて頂きます。

>うそつきパラドクスの「この文は偽である」という文についても同様で、真か偽かの問題としてではなく命題か否かの問題として捉えるべきで、この2者を混同してしまわないよう整理して考える必要があります。

「命題か否かの問題」―既に示した通り、『嘘つきパラドックス』を【有意味性の次元=それは命題であるか否か】で捉えるのはポイントレスだと思います。
ラッセルやタルスキ或はクワインやクリプキの『失敗』から学ぶべきものとは?
この先はあえて言わないでおきます。

工藤さん、難しいです。
「文を真/偽にする[言語に回収不可能なものとしての事物=真理]はどう読むのか、何を指しているのか、さっぱり分かりません。
「うそつきパラドクス」を命題か否かの問題として捉えるのが何故間違っているのか、やっぱり分かりません。

こんばんは、工藤です。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323256140
御参考になれば、幸甚です。
「我々は『オバマは米大統領になった』という文と『それ』を真にする[文・言語に回収不可能な出来事]の差異を理解している」

補足です。

>「うそつきパラドクス」を命題か否かの問題として捉えるのが何故間違っているのか、やっぱり分かりません。

「命題か否かの問題として=有意味性の次元で捉え」ようとする限り、『嘘つきパラドックス』は解消(解決ではない)不可能なのです―現にそうなっていますね。

一昨日からパソコンが使えず、この欄もケータイから入力してるので、なかなか苦労しています。
もう少し読解のためのヒントをください。

「文・言語に回収不可能な事物」というのは「現実の事象」を指すと考えていいでしょうか。

うそつきパラドクスに対する、僕と論考の解決策は、問題を横滑りさせて問題自体をなかったことにしているだけで、解決にはなっていない・・・工藤さんのご指摘はそういうことなのでしょうか。


階層化について、
クリプキは知りませんが、ラッセルはタイプ概念を導入して言葉の意味を階層化しました。論考はこれに対し、文の代入において代入される文が命題でなくなってしまうという新しい「階層」を発明しています。同じ階層でもこの二人のものはまったく違います。これを一括りにしてしまっては何を指してダメとしているのか分かりません。工藤さんはバラドクスをどう解くのが正しいとお考えでしょうか。

基本的に「私の世界」は「現実の世界」と一致するというのが論考の世界観です。
「幸福な世界」と「不幸な世界」は別ものですし、「昨日の世界」と「今日の世界」も別ものですが、これらすべては「現実の世界」の中の「お話」として回収され得ると、僕は理解しています。
工藤さんは何故、回収できないとお考えなのでしょうか。

おはようございます、工藤です。とりあえずコメントをいくつか。

>これを一括りにしてしまっては何を指してダメとしているのか分かりません。

僕の言葉が足らない?のかもしれませんが、別に一括りにしているわけではないのです。とはいえ、両方とも誤謬であることに変わりありませんが。

>工藤さんはバラドクスをどう解くのが正しいとお考えでしょうか。

先ず、嘘つき文ではない所謂「普通の平叙文」における①文の意味(有意味性の次元)②一つの文における・或は複数の文の関係性における論理的無矛盾性③文を真/偽にする[文・言語に回収不可能な現実の事象や物]の区別を押さえておくこと。
加えて(既に述べた通り)このパラドックスは論理学的な手法によっては解消出来ません。これも押さえておく必要があります。
次は、【基本的に】「~は真である」や「~は偽である」という【言語表現(文法)】や【発語(言明)】が【「~」が志向する[文・言語に回収不可能な現実の事象や物]をつくり出すことはない】ということ。これも押さえておく必要があります。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323256140
件の注意点を銘記した上で、「この文・言明は偽である」という文・言明の有意味性及び「それ」を真/偽にする[文・言語に回収不可能な現実の事象や物]の存否について考えてみてください。

>基本的に「私の世界」は「現実の世界」と一致するというのが論考の世界観です。
「幸福な世界」と「不幸な世界」は別ものですし、「昨日の世界」と「今日の世界」も別ものですが、これらすべては「現実の世界」の中の「お話」として回収され得ると、僕は理解しています。 

『論考』解釈としては「正しい=オーセンティック」と思いますが、事柄としては間違っていますね。[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]において構成された<工藤庄平>なる概念的構成物=お話の中の主体(他者)と、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]は全く別物ですから。

>工藤さんは何故、回収できないとお考えなのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
“僕”がそれであるところのもの~[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]は[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]でも[現実(事物世界)]でもないから、です。視野が[現実(事物世界)]を包摂・回収出来ないように。

工藤さんのパラドクス対処法を僕なりに解釈してみました。以下で合っているでしょうか。

文が有意味であるとは、(1)文の意味(Sinn)があること。(2)無矛盾であること。(3)真偽の基準としての現実の対象(Bedeutung)があること。の3つの異なる基準があるが、ここでは(3)を考える。
Bedeutungが現実に存在する場合その文は「真」であり、存在しない場合「偽」である、とする。また、現実に存在するともしないとも決定できない場合「真偽」は無い、とする。
一方、「〜は真である」「〜は偽である」という文節はBedeutungがない。
そこで、「この文は偽である」という課題文について、Bedeutungがあるかを考える。すると、明らかにBedeutungが存在するとは言えない。また存在しないとも言えない。文の構造的にBedeutungが存在しないのだから、偽ですらなく、無意味である。


・・・と理解したのですが、どうでしょうか。論理的手法がダメということは、文の構造的な問題であることを考えなかったり、「「Bedeutungが存在する」ではない」と「存在しない」を区別しなかったりして、課題文を「偽」とするということではないですよね。
しかし、このアイデアって、ウィトゲンシュタインの言っていることと違わないような気がするのですが…。少し時間をかけて考えたいと思います。整理できれば、何故同じかを述べたいです。

こんにちは、工藤です。以下、コメントになります。

>文が有意味であるとは、(1)文の意味(Sinn)があること。(2)無矛盾であること。(3)真偽の基準としての現実の対象(Bedeutung)があること。の3つの異なる基準があるが、ここでは(3)を考える。

第一に、(3)真偽の基準としての現実の対象(Bedeutung)がなくても【文の有意味性】は失われません。次に、僕の言う③文を真/偽にする[文・言語に回収不可能な現実の事象や物]は、フレーゲ~前期ウィトゲンシュタインが言う意味での所謂「Bedeutung」ではありません。しかし、この点については僕の書き方にも問題があったようです。以下、修正しますと―

先ず、嘘つき文ではない所謂「普通の平叙文」における①文の意味(有意味性の次元)②一つの文における・或は複数の文の関係性における論理的無矛盾性と、③文を真/偽にする[文・言語に回収不可能な現実の事象や物]の区別を押さえておくこと。

工藤さん、こんばんは。

工藤さんは、「2.1511像は現実に到達する」に賛同されないのではないですか。或いは、「誰にも到達し得ない本当の現実がある。」という世界観をお持ちなのではないですか。
なかなか、工藤さんの世界が理解できないので、そんな気がしてきました。

文を真/偽にする「文言語に回収不可能な現実の事象や物」はBedeutungではない。ではその意味するところは何なのか。イメージしやすくなるようなSinnをもう少し下さい。

世界の内容は真偽を問うことができるが、その外側のことは真偽の問題ではないというのが、「論考」の論旨ですよね。たとえば「満月はどれくらいの期間満月なのか」という問いは「満月」という言葉をどう定義するかの問題であって、世界の内容に関する自然科学の問題ではないです。
同様に、「『私の世界』は『現実の世界』に一致するか」という問いは定義の問題であって、現実世界がどうなっているかの問題ではない。だから、これを否定するには、この言葉づかいが不合理であったり不便であったり不都合があったりするという次元の話にするしかないと思うのです。

実際、「主体によって構成された世界とは別に本当の現実世界がある」とするような言葉づかいで世界を語ることも、「唯一絶対の主体によって構成された世界こそが現実世界である」とするような言葉づかいで世界を語ることも可能だと思います。
だから、ここでどちらかをダメだとかOKだとか判断するには、それがどんな不合理や不便や不都合があるかという問題として考えないといけないと思います。

ただ「横山なる主体によって構成された世界が現実世界である」という文は、他者と共有できる訳のない言葉づかいですから、不都合があります。しかし、不可能かというと不可能ではないような気がします。そこに、真理を考えるための重い内容があるのなら、それはそれで価値のある言葉づかいだと思います。

工藤さんとの議論も、結局その世界観はどれだけ都合がいいかというプラグマティズムの問題になるのではないかと考えています。

工藤さん、追記します。
「横山なる主体によって構成された世界が現実世界である」というのは「論考」の世界観ではありませんでした。現実世界を構成する主体はもはや横山個人とは別ものですから、正しくは「唯一絶対の主体によって構成された世界が現実世界である」と言わなければならないところでした。

こんにちは、工藤です。コメントをいくつか。

>同様に、「『私の世界』は『現実の世界』に一致するか」という問いは定義の問題であって、現実世界がどうなっているかの問題ではない。だから、これを否定するには、この言葉づかいが不合理であったり不便であったり不都合があったりするという次元の話にするしかないと思うのです。

①[語り得ず示されるもの(論理、倫理)]と[語られも示されもしないもの(現実、Xなる身体に受肉する<ココロ-コトバ>)]の差異を理解すること。
②我々は「水はH2Oである」という文の意味とその文を真にしている[事物の在り方]との差異を理解している。同様に、[現実(事物世界)]と[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]の差異を【定義の問題=有意味性の次元】に還元することは出来ない(cf.ハイデガーの言う[存在]忘却)。
ウィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、「【有意味性の[外]を消去し得るという錯誤】―即ち『唯言論』こそが哲学的混乱及び似非問題(嘘つきパラドックス等)の真の源泉であり、哲学を全き闇へ落とし込む陥穽である」と。

>ただ「横山なる主体によって構成された世界が現実世界である」という文は、他者と共有できる訳のない言葉づかいですから、不都合があります。しかし、不可能かというと不可能ではないような気がします。そこに、真理を考えるための重い内容があるのなら、それはそれで価値のある言葉づかいだと思います。

「横山信幸なる主体によって構成された世界が現実世界である」「横山信幸なる主体によって構成された世界だけが本当に伝達・指示・並列不可能である」は偽なる文ですが、「横山信幸なる主体によって構成された世界は伝達・指示・並列不可能である」は真なる文でしょう。ただし、最後の文の真理性は[語られも示されもしないもの]なのでしょうが。
「[現実(事物世界)]の中の[語られも示されもしない存在=真理]」

>「横山なる主体によって構成された世界が現実世界である」というのは「論考」の世界観ではありませんでした。現実世界を構成する主体はもはや横山個人とは別ものですから、正しくは「唯一絶対の主体によって構成された世界が現実世界である」と言わなければならないところでした。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
「現実世界を構成する主体はもはや横山個人とは別もの」―これが一人称の特殊な用法から生じた<妄想=私なる錯誤>であることは既に何度も述べたので割愛させて頂きます。

神の問題と死の問題を除外すれば、独我論の適否を議論できますが、そうでない
ならばむずかしいと思います。

Y・Nさん、コメントありがとうございます。
神と死と独我論の関連は僕にとって大問題です。Y・Nさんはなぜ神と死を除外すれば独我論の適否を議論できるとお考えなのか、よろしければ教えてください。大変興味があります。

工藤さん、こんばんは。(1)a[語り得ず示されるもの]とb[語り得ず示されもしないもの]の差違は言語の内容以前の二者、a[言語のルール設定]とb[言語を言語たらしめる主体]という理解でいいでしょうか。しかし、だとしたら「『私の世界』は『現実の世界』に一致するか」という問いはaとbのいずれの問題として考えるべきなのでしょうか。
(2)は、いわゆる意味論の三視点、「統辞論syntax」「意味論semantics」「実用論pragmatics」において、「実用論」を重視して考えるべきとした僕に対して、「意味論」こそを重視すべきだとされているのではないでしょうか。或いは、この三者を俯瞰する視点から考えるべきだとされているのではないでしょうか。見当違いでしょうか。

おはようございます、工藤です。御質問に答えさせて頂きます。

(1)a[語り得ず示されるもの]とb[語り得ず示されもしないもの]の差違は言語の内容以前の二者、a[言語のルール設定]とb[言語を言語たらしめる主体]という理解でいいでしょうか。

「主体」とは呼びたくないんですが・・・。先ず、[語り得ず示されもしないもの]―[現実(事物世界)]と[Xなる身体]* Xには“自らの生ける身体”を当てはめて頂きたい―が【前言語的な[事実]=言語の内容(有意味性の次元)に還元不可能な[存在]である】という理解については無問題でしょう。
次に、[語り得ず示されるもの]―記号Aの使用(『論考』)や「我々の世界において殺人が忌避されていること」や幾何学等―は【我々が恣意的に設定したルール、或はそのようなルールを任意に設定すること】ではありません。それらは「我々の生の形式」なのです。

>或いは、この三者を俯瞰する視点から考えるべきだとされているのではないでしょうか。見当違いでしょうか。

ポイントは―言語とそれに回収不可能なものとの差異、言語に回収不可能なもの([現実(事物世界)]と[Xなる身体]* Xには“自らの生ける身体”を当てはめて頂きたい)における前言語的な差異を自得することでしょう。

補足しますと、

「言語を言語たらしめている」―精確に言えば、言語ゲーム(内語~独りプレイは言語ゲームではありません。付言すれば、独りプレイが他者との前言語的な交流なしに生成することはあり得ません)を成立させている―のは[Xなる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]でしかあり得ないと思われます(* Xには“自らの生ける身体”を当てはめて頂きたい)。

工藤さん、こんにちは。

さらに質問を2つさせていただきます。

一つ目、
語り得ず示されるものと、示されないものについては、おおよそ了解しました。ありがとうございます。それで、「『私の世界』は『現実』に一致するか」は、「示されるもの」と「示されないもの」のどちらの問題として考えるべきだとお考えですか。僕はどちらの問題だとしても、定義の問題に還元できると思えるのですが…。

二つ目、
「言語に回収不可能なもの」について、
(1)言語は現実に到達しないがゆえに回収不可能、なのか。
(2)言語は現実に到達するが原理的に回収不可能、なのか。
(3)どちらでもない、なのか。その場合言語と現実の関係はどうなっているか。

です。よろしければご回答ください。

こんばんは、工藤です。御質問に答えさせて頂きます。

一つ目の御質問ですが、事柄に即して―『論考』を離れて、ということですが―考えれば、後者でしょう。これを【有意味性の次元=定義の問題等】に解消出来ないことは―僕の論述を自得して頂けたなら―明らかだと思われます。
例えば、“僕=[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]”は「右足が痛い」という文の意味とその文を真にする[右足の痛み]を区別し得るし、その区別・差異を―現に今[右足の痛み]が生じていなくても―理解していますが、「同じこと」が“貴方=[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]”にも成り立つのであれば、[現実(事物世界)]と[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]との【前言語的な=有意味性の次元に回収不可能な差異】も自得して頂けると思うのですが・・・

二つ目の御質問ですが、件の記述だけでは返答出来ません。「言語は現実に到達する/しない」ということの内実が不明瞭だからです。そのことを御理解頂いた上で言えば―“僕=[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]”が「右足が痛い」という文の意味とその文を真にする[右足の痛み]を区別し得ること・或はその区別・差異を―現に今[右足の痛み]が生じていなくても―理解していることは[言語に回収不可能なもの=このケースでは右足の痛み が存在する]ことの証左である、と。
当然ながら、[工藤庄平なる身体に生起する痛み]は伝達・指示・並列不可能―即ち[語られず示されもしないもの]―です。ここで「同じこと」が“貴方=[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]”にも成り立つのであれば、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]と[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]との【前言語的な=有意味性の次元に回収不可能な差異】も自得して頂けると思うのですが・・・

工藤さん、丁寧な回答ありがとうございます。
おかげで、僕たち互いの個性的な言葉づかいでも、その意味を共有させられるようになってきつつあると感じています。

「『私の世界』が『現実』に一致するか」をどう捉えるかという点が問題だと思い、そこを問い続けさせてもらっています。もう少しお付き合いください。
ウィトゲンシュタインは「像が現実に到達する」と言い、カントは「物自体には達し得ない」と言った。この二者の立場の違いを、単純に、絶対的な視点でどちらかが間違っているとする事っていうのは、あまり意味がないように思えるのです。絶対的な視点での議論ではなく、どこがどう合理的で便利で、どちらが豊かな世界かなどという視点の議論ならとても有意義な議論になると思います。

僕が「言語は現実に到達するか」をお聞きしているのは、この二人の立場の違いをイメージしています。そして、二人の「本当の現実」を「到達可能なもの」と考えるのか否かという問いは、「本当の現実」を「到達可能なもの」と定義するか、「到達不可能なもの」と定義するのか、という問題に還元できる、ということを問いたいのですが、そういう意味でも不可能だとお考えですか。

それとも「回収不能」とは「還元不能」とまったく違う意味を示しているのか。

まったくの素人ですが、独我論を論破することは困難でしょうね。なぜなら、それは
個人的な意見(考え方)だから。だれでも、この宇宙で自分が一番重要だと思わざる
をえないからだと思います。意識・感覚はあくまで個人に属し、親子間でさえ共有は
できない。駅前で裸踊りができないのは表面的な常識・知識ができなくさせるのであって、他人が反応するだろうという客観性は経験から身についたクセだろうと思います。
でも、心の深層では唯我的な思考を展開しても不合理だとは到底思えない。

言い忘れました。存在・物質・時間・今論(流れつつある時間論)のうち時間に関して
「死と対峙する我」が独我論を生じさせたものと考えます。つまり、死んでも物質は
残るかどうかは誰が何と言おうと個人が判断するものじゃないですか?
視覚的な視像について、存在は時間だと思わざるを得ない。つまり唯我的な継起である。 と

おはようございます、工藤です。コメントをいくつか。

>それとも「回収不能」とは「還元不能」とまったく違う意味を示しているのか。

同じです。
ポイントは【有意味性の次元=定義の問題】に「落とせない」―[前言語的な差異]は我々の定義によって成立したわけではない―ということ、です。

>、「本当の現実」を「到達可能なもの」と定義するか、「到達不可能なもの」と定義するのか、という問題に還元できる、ということを問いたいのですが、そういう意味でも不可能だとお考えですか。

はい。
現にあるもの・事柄の[自得]は「定義する」ことではありません。

独我論について補足しますと、

①“自ら”がそれであるところのもの~[Xなる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]の伝達・指示・並列不可能性 と ②一人称の特異な用法 を結び付けたところに生じた<妄想=私なる錯誤>の一つ、なのでしょう。 * Xには“自らの生ける身体”を当てはめて頂きたい

Y・Nさん、回答ありがとうございます。
「死と対峙する我」というのは、「論考」の「5.621世界と生とは一つである」「6.44神秘とは世界が如何にあるかではなく、世界があるというそのことである」と同じことを意味されているような気がします。
僕は独我論が好きで、このようなブログを立ち上げているのですが、それでも独我論は何かしらの勘違いでしかないと思って、その論駁を試みています。ご意見いただければありがたいです。これからもよろしくお願いします。

工藤さん、こんばんは。

>そういう意味でも不可能だとお考えですか。
>はい。 現にあるもの・事柄の[自得]は「定義する」ことではありません。

びっくりしました。過激ですね。

>[前言語的な差異]は我々の定義によって成立したわけではない―ということ、です。

「本当の現実」を「到達可能なもの」と定義するか、「到達不可能なもの」と定義するのかという問題さえも、言語によって語りえないとされるのですから、工藤さんは言葉の実用論的意味(Pragmatics)の価値を認めないだけではなく、構文論的意味(Syntaxあるいは内包的意味)の価値をあまり認められないのではないですか。言葉の意味は指示対象的意味(Semantics) にこそより価値がある…と、いうようにおっしゃっているように感じました。合っているでしょうか。

また、神の視点による絶対的な世界観があって、絶対的な言語があると考えられているように感じました。だからこそ、人間が達することができるところまでだけを現実とするという言語観を否定されているように感じました。間違っているのでしょうね。

こんばんは、工藤です。御質問に答えさせて頂きます。

>また、神の視点による絶対的な世界観があって、絶対的な言語があると考えられているように感じました。

これは―僕ではなく―スピノザですね。彼の言う『無限知性』=横山さんの言う「絶対的な言語」と考えて間違いないと思います。

>工藤さんは言葉の実用論的意味(Pragmatics)の価値を認めないだけではなく、構文論的意味(Syntaxあるいは内包的意味)の価値をあまり認められないのではないですか。言葉の意味は指示対象的意味(Semantics) にこそより価値がある…と、いうようにおっしゃっているように感じました。合っているでしょうか。

違います。
我々が伝達出来るのは「[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]」とか「伝達・指示・並列不可能な視野」とか「[Xなる身体に受肉する<ココロ-コトバ>] * Xには“自らの生ける身体”を当てはめて頂きたい」とか・・・いう発語や文字だけです。
“僕”がそれであるところのもの~[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]は伝達・指示・並列不可能です―[<これ>]は発語や文字ではないのですから。

補足しますと、

ポイントは、我々が指示出来るもの(お台場や横山信幸や蜘蛛や・・・)と伝達・指示・並列不可能な[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]との差異を理解すること、でしょう。

工藤さん、こんばんは。
同一の言語内でその言語のルールについて語るのは嘘つきパラドクスになってしまうでしょうが、メタ言語を設定して元の言語のルールについて語るのはまったく問題ないですよね。そのメタ言語についても、さらにその上階のメタメタ言語を設定すれば語り得る内容になります。そう考えると、言語が現実に到達すると定義する事も、到達しないと定義する事も、十分語り得るはす。
ここでは、語り得ず示され得ない次元が問題にはならないと思います。
語り得ない次元がどうして関係してくるなあか分かりません。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>メタ言語を設定して元の言語のルールについて語るのはまったく問題ないですよね。そのメタ言語についても、さらにその上階のメタメタ言語を設定すれば語り得る内容になります。

ですから、僕はそのような遣り方を【言語に階層差を持ち込む】と表現したわけです。付言すると、例えばクリプキは【言語に階層差を持ち込むこと=メタ言語/対象言語の区別という考え方そのもの】に疑義を呈しています。まあ、件のパラドックスはクリプキの遣り方でも解消出来なかったわけですが。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323256140
前提①のところを御読みください。
「文を真/偽にする[もの]を文の意味に回収することは出来ない」

工藤さん。

工藤さんは実は、言語以前に絶対的な現実世界が実在すると想定されているのではないでしょうか。
だから、現実に関する定義が出来ないと結論されているのではないでしょうか。

でも、「言語以前には絶対的な現実世界など無いのだ」と想定する事も可能なはずです。

しかし、そのメタ言語は言語以前の事を問うてはならない・・・という「前提」に反する。
問うてはならないという「前提」が絶対的にあるから、現実に関する定義は出来ないのです。

これは逆に言うと、現実に関する定義が出来ないのは、それを問うてはならないという絶対的な「前提」を前提にしてしまっているから、にすぎないのではないでしょうか。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

例えば、“僕=[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]”は「右足が痛い」という文の意味とその文を真にする[右足の痛み]を区別し得るし、その区別・差異を―現に今[右足の痛み]が生じていなくても―理解していますが、「同じこと」が“貴方=[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]”にも成り立つのであれば、[現実(事物世界)]が“誰か”の想定でも“誰か”が恣意的に導入した前提でもないことも自得して頂けると思うのですが・・・

補足しますと、

結局「[現実(事物世界)]と「現実(という言葉~定義~概念)」の差異を理解している」ということ(の内実)が自得されない限り、終わりなき空転しか残されていないように見えるのです。

工藤さん、

命題は現実の像であって現実そのものではないということは勿論、僕も理解しています。僕も命題と現実が同一だと言おうとはしてません。
「命題は現実に到達する」は同一ということではなく、(原理的に)細部の違いなく一致している、ということです。

「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか、が知りたいのです。単純に文法の問題になぜ、ならないのでしょうか。

さらに補足しますと、

僕は「[現実(事物世界)]を定義してはならない」と主張したつもりはありません(僕のこれまでの投稿を御読みください)。僕が強調したのは「哲学に頭をやられていなければ、我々は[現実(事物世界)]と『現実(という言葉~定義~概念)』の差異を理解しているのではないか」即ち「我々は[言語に回収不可能なもの]と言語~定義~概念の差異を理解している」ということでした。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>命題は現実の像であって

僕は写像理論に対して何のシンパシーも抱いておりませんし、それが誤りであることはウィトゲンシュタイン本人や他の人たちが説得的に論じていますので、僕が今更付け加えることはありません。

補足しますと、

>「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか

伝達・指示・並列不可能な[工藤庄平なる身体に生起している首痛]と、“僕”や横山さんが為し・或は書きつける「伝達・指示・並列不可能な[工藤庄平なる身体に生起している首痛](という発語や内語・或は文)」があるとき―後者が前者に「一致する(写像する)」とか「一致しない」などということが【本当に】成立しているのか? 【虚心坦懐に=事柄に即して】御考えください。

(1)「今から日本語禁止ってことにして話しするよ」と日本語で言う。
(2)「今から『言語は現実に到達する』ってことにして話しするよ」と言語で言う。
(3)「今から『言語は現実に到達しない』ってことにして話しするよ」と言語で言う。

(1)と(2)(3)の違いが分かりません。なぜ、単純に文法の問題にならないのでしょうか。

言語の網の目から洩れる現実が存在すると想定することも、
言語の網の目より細かな現実など、そもそも存在しないのだとすることも、十分出来ると思えるのですが。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

①誰かが「菅直人は米国大統領になった」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
②誰かが「水は摂氏1550度で個体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。

補足しますと、

>言語の網の目から洩れる現実が存在すると想定することも、
言語の網の目より細かな現実など、そもそも存在しないのだとすることも、十分出来ると思えるのですが。

何を想定し如何に定義しようが、[現実(事物世界)]と「現実(という言葉~概念)」の差異を消去することは出来ません。“僕=[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]”が「右足が痛い」という文の意味とその文を真にする[右足の痛み]を区別出来る・その区別を―現に今[右足の痛み]が生じていなくても―理解しているように。

工藤さん、こんにちは。

3点、考えました。

1.[現実]と「現実」の差異が消去できないというのは、まず本当の[現実]があって後に言葉としての「現実」が生じるという構図を絶対視している言語観だと理解しました。
そのような、言語に先行する[現実]があるとするなら、[現実]「現実」間の差異は消去できないでしょう。
しかし、ここで、一般的な言語ルールの前提として、「「現実]が言語に先行する」というメタルールが設定されているのではないかと勘繰ってしまいます。

言語の階層化の否定以前に、実はすでにメタ言語が密輸入しているのではないでしょうか。

2.定義の問題は結構タフな問題だと思っています。
「菅直人が大統領になった」という文は現行の日本語では偽にしかなりませんが、「首相になった事を『大統領になった』と言い換えよう」という言葉遊びをする事は全く可能であり、その言葉遊びの中では「菅直人が大統領になった」は真に成り得ます。
これは、単なる言葉遊びのお話ですが、日常言語とて、結局この言葉遊びと大差ないものでしかないのではないかと考えます。


3.お薦めいただいたデイヴィドソン「主観的.間主観的.客観的」を読みはじめました。
あのスワンプマンの例でも、結局は定義の問題になるように思います。
雷に撃たれる前の「私」がスワンプマンと「私」と同一のものである、として定義すれば、スワンプマンはまさしく私になる。そういう問題なのではないか、そういう問題にしかならないのではないか、と思うのです。

こんにちは、工藤です。コメントをいくつか。

>[現実]と「現実」の差異が消去できないというのは、まず本当の[現実]があって後に言葉としての「現実」が生じるという構図を絶対視している言語観

違います。
[現実]と「現実」の差異が消去出来ないことは[端的な事実]であって、誰かが恣意的に案出した言語観とは無関係ですし、[この事実]は「存在はその概念に先行する」といった論理的プライオリティの話とは独立でしょう。
例えば、“僕=[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]”は「右足が痛い」という文の意味とその文を真にする[右足の痛み]を区別し得るし、その区別・差異を―現に今[右足の痛み]が生じていなくても―理解していますが、これは「先ず言語~概念に回収不可能な[痛み]があって後に言葉~概念としての『痛み』が生じるという構図」にコミットしなくても自得出来ます(とはいえ、「その構図」は真だと思いますが)。

>「菅直人が大統領になった」という文は現行の日本語では偽にしかなりませんが、「首相になった事を『大統領になった』と言い換えよう」という言葉遊びをする事は全く可能であり、その言葉遊びの中では「菅直人が大統領になった」は真に成り得ます。
これは、単なる言葉遊びのお話ですが、日常言語とて、結局この言葉遊びと大差ないものでしかないのではないかと考えます。

僕は「米国大統領」と書いたのですが・・・

①誰かが「菅直人は米国大統領になった」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。

どうも横山さんは「言語の意味は“私”が決める」という主意的な言語観に囚われているようです。別の言い方をすれば、「言語の意味が歴史・制度的なものに規定されている」という側面を軽視しているように見えるのです。
国際社会における認証や法的効力を有しない単なる言葉遊び「菅直人は米国大統領になった」が「菅直人は米国大統領になった」という文を真にすることは出来ません。
付言しますと、
②誰かが「水は摂氏1550度で固体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。

>雷に撃たれる前の「私」がスワンプマンと「私」と同一のものである、として定義すれば、スワンプマンはまさしく私になる。そういう問題なのではないか、そういう問題にしかならないのではないか、と思うのです。

後期ウィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、「【有意味性の[外]を消去し得るという錯誤】―即ち『唯言論』こそが哲学的混乱及び似非問題(嘘つきパラドックス等)の真の源泉であり、哲学を全き闇へ落とし込む陥穽である」と。

補足しますと、

結局、横山さんの主張は―例えば「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」と定義すれば、殴打等されても痛みを感じなくなる、ということになりそうです。これはトンデモと言う他ありませんが、これまでの主張を敷衍する限り、そうならざるを得ません。

工藤さんに嫌がられるのでしょうが、僕は写像理論支持派です。(ウィトゲンシュタインが写像の間違いを認めたということでしたが、それはどこで読めるでしょうか。)
ですから、像と対象は同一だとは言いません。(像は認められないでしょうが、同一でないことは、工藤さんもOKですよね。)だから、誰かのことを無痛人間だと言えば、その人が無痛人間になる・・・なんて事は認めません。

定義によって変え得るのは言葉のルールです。
三角形の内角の和が180°だと定義しても180°とは限らないと定義しても、目の前にある三角形は変化しません。
しかし、180°ではないと定義すると三角形の概念自体が変わります。(ここは工藤さんは認めてくださらないかも知れないですね。)

[現実]と「現実」の差異が消去できないのは「端的な事実」であるという工藤さんの立場からすれば、[現実]と「現実」の差異を「前提」にしているという僕は「端的に」間違っている。

一方、[現実]と「現実」の差異があるか否かは、言語ルールに関する問題であるとする僕の立場からすれば、工藤さんは密かにメタルールを持ち込んでいるに過ぎないと考える。これは「端的に」そうなのです。

どちらも「端的に」そうであると考えているのですから、この水掛け論をどちらか一方の結論に決着させることは難しいようです。

こんにちは、工藤です。コメントをいくつか。

>どちらも「端的に」そうであると考えているのですから、この水掛け論をどちらか一方の結論に決着させることは難しいようです。

【誰かが「端的にそうである」と考えること】によって、以下の事実及び事柄
①誰かが「菅直人は米国大統領になった」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
②誰かが「水は摂氏1550度で個体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。
④三角形の内角の和が280°と定義すれば、三角形の概念=内角和は180°が変わるのでしょうか。―否。
が覆ることはありません。

結局、横山さんの主張は―例えば「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」と定義すれば、殴打等されても痛みを感じなくなる、ということになりそうです。これはトンデモと言う他ありませんが、これまでの主張を敷衍する限り、そうならざるを得ません。

補足しますと、

「以後テーブルを『ペッペル』と呼ぶことにしよう」―既にテーブル概念を習得した人物が「以後テーブルを『ペッペル』と呼ぶことにしよう」と決めることは出来ますが、これを「概念の変化」と呼ぶのは不適切だと思われます(「『ペッペル』なる私的名前が付加された」と呼ぶべきでしょう)。
翻って、或る概念を習得することは【既にその概念を習得した人物が出鱈目かつ恣意的な定義を為すこと―例えば、三角形の内角和を280°と定義する―】ではありません。そもそも【それ】は「定義する」ことではないし、私的定義とも呼べない代物に過ぎないと思われます。
どうも横山さんは「言語の意味は“私”が決める」という主意的な言語観に囚われているようです。別の言い方をすれば、「言語の意味が歴史・制度的なものに規定されている」という側面を軽視しているように見えるのです。
国際社会における認証や法的効力を有しない単なる言葉遊び「菅直人は米国大統領になった」が「菅直人は米国大統領になった」という文を真にすることは出来ません。
付言しますと、
②誰かが「水は摂氏1550度で固体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。

工藤さん

確かに、でたらめな定義遊びは何の意味も持たず言語もどきのようなものしか作ることができませんよね。
出鱈目で恣意的な定義をすることは定義することではなく私的定義とさえ呼べない代物だとおっしゃるのは、その通りだと思います。

しかし、三角形の内角の和が180°と限らないと定義して非ユークリッド空間の概念を導入すると、幾何的パラダイム転換が起こり三角形の概念自体が変わるのだ・・・と、考え得ることは、はっきりと意味があるのではないでしょうか。
言語ルールを変更しても目の前にある存在は何一つ変わりません。しかし、そのものの概念自体が変わるのでその見え方がまるで変ってしまうような状況は、少ないかもしませんが、確実にあり得ます。

こんにちは、工藤です。コメントをいくつか。

>しかし、三角形の内角の和が180°と限らないと定義して非ユークリッド空間の概念を導入すると、幾何的パラダイム転換が起こり三角形の概念自体が変わるのだ・・・と、考え得ることは、はっきりと意味があるのではないでしょうか。

言うまでもないことですが、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は通約不可能であり、後者において【三角形】は存在しません(勿論、横山さんが【三角形とは異なる何か】を『三角形』と「呼ぶ」のは自由でしょう。賛同は得られないと思いますが)。

>言語ルールを変更しても目の前にある存在は何一つ変わりません。しかし、そのものの概念自体が変わるのでその見え方がまるで変ってしまうような状況は、少ないかもしませんが、確実にあり得ます。

そのような状況が存在することを否定したつもりはありませんが・・・繰り返しますと、僕の主張(の一つ)は【言語ルールを変更しても[現実(事物世界)]は何一つ変わらない】ということでした。

補足しますと、

三角形の内角の和を280°と定義する?ことはユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の差異とは何の関係もありません。

【誰かが「端的にそうである」と考えること】によって、以下の事実及び事柄
①誰かが「菅直人は米国大統領になった」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
②誰かが「水は摂氏1550度で個体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。
④三角形の内角の和が280°と定義すれば、三角形の概念=内角和は180°が変わるのでしょうか。―否。
が覆ることはありません。

工藤さん

内角の和が完全に180°に等しくなるような厳密な「三角形」は現実にはありえません。この世はユークリッド空間ではないからです。でも、現実に存在する三角形を三角形と呼ぶ言語は確かに存在し、完全に通用しています。だから、内角の和が180°になるとは限らない三角形を「三角形」と呼ぶとすることにしても、通用する言葉になると思います。
三角形の内角の和が280°と定義すればどうかというと、そこまで数が大きくなるとうまくないと思います。でも、程度問題でしかないように思います。


>>「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか
>伝達・指示・並列不可能な[工藤庄平なる身体に生起している首痛]と、“僕”や横山さんが為し・或は書きつける「伝達・指示・並列不可能な[工藤庄平なる身体に生起している首痛](という発語や内語・或は文)」があるとき―後者が前者に「一致する(写像する)」とか「一致しない」などということが【本当に】成立しているのか? 【虚心坦懐に=事柄に即して】御考えください。

いろいろと虚心坦懐に考えようとしているのですが、やはり、「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」と真剣に端的に考えられます。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>内角の和が完全に180°に等しくなるような厳密な「三角形」は現実にはありえません。この世はユークリッド空間ではないからです。でも、現実に存在する三角形を三角形と呼ぶ言語は確かに存在し、完全に通用しています。

当然でしょう。寧ろ、ここでの問題は【この文脈において「現実」や「三角形」という言葉がどのように使われているのか】であって、【この話】と僕が自得して頂こうとしている[現実(事物世界)]は独立です。加えて、我々は幾何学的円と経験的円を混同したりはしません(cf. カント)。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
あえて定義するなら、[現実(事物世界)]とは「それ自体で存在するもの=自存的存在」です。翻って、言語(精確に言えば[<ココロ-コトバ>])や数学や幾何学は自律的な体系ですが、[存在]論的には「[事物]において存在するもの=[<受肉する>]存在」なのです。

>だから、内角の和が180°になるとは限らない三角形を「三角形」と呼ぶとすることにしても、通用する言葉になると思います。

重要なことは、通用するか否か―賛同してくれる人は極めて少ないと思いますが―ではなく、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は通約不可能であり、後者において【三角形】は存在しない―勿論、横山さんが【ユークリッド幾何学における四角形(内角和が360°)や円】を『三角形』と「呼ぶ」のは自由ですが―ということでしょう。

>いろいろと虚心坦懐に考えようとしているのですが、やはり、「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」と真剣に端的に考えられます。

【誰かが「端的にそうである」と考えること】によって、以下の事実及び事柄
①誰かが「菅直人は米国大統領になった」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
②誰かが「水は摂氏1550度で個体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。
④誰かが「ユークリッド幾何学における三角形の内角の和は280°である」と定義すれば、ユークリッド幾何学における三角形の概念=内角和は180°が変わるのでしょうか。―否。
が覆ることはありません。

結局、横山さんの主張は―例えば「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」と定義すれば、殴打等されても痛みを感じなくなる、ということになりそうです。これはトンデモと言う他ありませんが、これまでの主張を敷衍する限り、そうならざるを得ません。

補足しますと、

「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」と真剣に端的に考えようが考えまいが―そのことと[横山信幸なる身体に生起する痛み]は無関係なのでは? [現実(事物世界)]についても然り。

工藤さん、ありがとうございます。
思考をチェックしていただいているおかげで、少しずつですが整理できてきています。

(修理にだしていたパソコンがようやく返ってきました。ここのコメントもやっと入れやすくなりました。コピペができるようになりました。長文引用ができます。)

>【誰かが「端的にそうである」と考えること】によって、以下の事実及び事柄
①誰かが「菅直人は米国大統領になった」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
②誰かが「水は摂氏1550度で個体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。
④誰かが「ユークリッド幾何学における三角形の内角の和は280°である」と定義すれば、ユークリッド幾何学における三角形の概念=内角和は180°が変わるのでしょうか。―否。
が覆ることはありません。
結局、横山さんの主張は―例えば「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」と定義すれば、殴打等されても痛みを感じなくなる、ということになりそうです。これはトンデモと言う他ありませんが、これまでの主張を敷衍する限り、そうならざるを得ません。

この部分で、
工藤さんは「定義」を、言葉の「意味」の確定だと捉えられているのではないでしょうか。
しかし、僕が問題にしたい「定義」はその言語自体のルール設定の変更なのです。

その言語の言葉遣いのままで、
「菅直人は米国大統領になった」とか
「水は摂氏1550度で個体になる」とか
「鯨は『サバ科』である」とか
「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」
などと言ってその言葉の意味だけを変えようとしてもそれは当然でたらめの「偽」にしかなりません。
ところが、僕の言っている「定義」は言語が新しく作り変えられるようなルール設定の変更なのです。そう考えると、、
「菅直人は米国大統領になった」とか
「水は摂氏1550度で個体になる」とか
「鯨は『サバ科』である」とか
「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」
などと言うことも一概に不可能ではなくなります。しかしだからと言ってこんな出鱈目は意味のある言葉遣いになりませんが、それでも不可能ではありません。

ただ、言語のルール設定の変更が、いつも出鱈目で使い物にならないかというとそんなことはなく、適切なパラダイム転換は起こりえます。非ユークリッド空間への転換などという大きな転換だけでなく、不幸だった私から幸福になった私という転換でも言語ルールは転換され、新しい言葉遣いが要求されるようになります。
「定義」の問題は野放図に何でも、言語を使いものにならないようにするだけでなく、新しい世界を生み出すものにもなり得ます。

だから、
「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」
という文についても、そのどちらを選ぶかは一つの同じ世界の中でどちらが正しいかを選ぶ作業なのではなく、どちらの言葉遣いを選ぶか、あるいは、どちらの世界を選ぶかという選択であります。それゆえ、問題はその言葉を共有する当事者の同意によって決められる問題になると思うのです。

おはようございます、工藤です。コメントをいくつか。

>「菅直人は米国大統領になった」とか
「水は摂氏1550度で個体になる」とか
「鯨は『サバ科』である」とか
「私は痛みを感じない、謂わば無痛人間である」
などと言うことも一概に不可能ではなくなります。しかしだからと言ってこんな出鱈目は意味のある言葉遣いになりませんが、それでも不可能ではありません。

「こんな出鱈目は意味のある言葉遣いになりませんが、それでも不可能ではありません」―例えば「横山さんが【ユークリッド幾何学における四角形(内角和が360°)や円】を『三角形』と【呼ぶ】のは自由ですが・・・」
どうも横山さんは「言語の意味は“私”が決める」という主意的な言語観に囚われているようです。別の言い方をすれば、「言語の意味が歴史・制度的なものに規定されている」という側面を軽視しているように見えるのです。
国際社会における認証や法的効力を有しない単なる言葉遊び「菅直人は米国大統領になった」が「菅直人は米国大統領になった」という文を真にすることは出来ません。
付言しますと、
②誰かが「水は摂氏1550度で固体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。

>ただ、言語のルール設定の変更が、いつも出鱈目で使い物にならないかというとそんなことはなく、適切なパラダイム転換は起こりえます。非ユークリッド空間への転換などという大きな転換だけでなく

先ず、ユークリッド幾何学から非ユークリッドへの「転換」とはどういうことでしょう? 両者は独立の体系ですし、後者によって前者が否定或は消去されたわけでもありません。次に、ユークリッド幾何学と異なる前提を置くことで非ユークリッド幾何学が成立したという歴史的な経緯と横山さんが言われる「言語のルール設定の変更」をパラレルに扱うのは誤りである、ということ。
とりあえず【出鱈目でも意味不明でもない言語のルール設定の変更】の一例として「スズムシ~マツムシ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%A0%E3%82%B7
を挙げておきます。「マダガスカル」なんかもそうですね。

>不幸だった私から幸福になった私という転換でも言語ルールは転換され、新しい言葉遣いが要求されるようになります。

これだけではよく解りませんが、ポイントレスのような気がします。既述の通り、「以後テーブルを『ペッペル』と呼ぶことにしよう」―既にテーブル概念を習得した人物が「以後テーブルを『ペッペル』と呼ぶことにしよう」と決めることは出来ますが、これを「概念の変化」と呼ぶのは不適切だと思われます(「『ペッペル』なる私的名前が付加された」と呼ぶべきでしょう)。
翻って、或る概念を習得することは【既にその概念を習得した人物が出鱈目かつ恣意的な定義を為すこと―例えば、三角形の内角和を280°と定義する―】ではありません。そもそも【それ】は「定義する」ことではないし、私的定義とも呼べない代物に過ぎないと思われます。

>「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」
という文についても、そのどちらを選ぶかは一つの同じ世界の中でどちらが正しいかを選ぶ作業なのではなく、どちらの言葉遣いを選ぶか、あるいは、どちらの世界を選ぶかという選択であります。それゆえ、問題はその言葉を共有する当事者の同意によって決められる問題になると思うのです。

「それゆえ」の前後で論述内容に齟齬が生じているように見えます。横山さんにとっては、横山さんと横山さんの言葉遣いを採用してくれる人々から成る集団が「世界」なのですか? そして、横山さんの言葉遣いを採用しない存在者は「同じ世界の住人ではない」―そう「定義した」と。
「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」と真剣に端的に考えようが考えまいが―そのことと[横山信幸なる身体に生起する痛み]は無関係なのでは? [現実(事物世界)]についても然り。

補足しますと、

当然ながら、[現実(事物世界)の在り方]は「どちらの言葉遣いを選ぶか、あるいは、どちらの世界を選ぶかという選択=出鱈目かつ意味不明な文を作ること」とは独立・無関係です。もしそうでなければ、我々が[現実(事物世界)の在り方]を「発見する(経験的探究を通して[現実(事物世界)の在り方]に即した概念を構成する)」ことはあり得ない。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
「全ての哲学的-似非問題の源泉は<世界>と[現実(事物世界)]を混同するところに存する、というのが僕の診断です」

工藤さん

>「「痛い」という文は痛いという現実に完全一致できると「する」ことはできるのではないか、或いは、完全一致しないと「する」ことができるのではないか」と真剣に端的に考えようが考えまいが―そのことと[横山信幸なる身体に生起する痛み]は無関係なのでは? [現実(事物世界)]についても然り。

その通りだと思います。「定義」をどう変更しようと、語りえる「意味」は変わりません。だから、

>国際社会における認証や法的効力を有しない単なる言葉遊び「菅直人は米国大統領になった」が「菅直人は米国大統領になった」という文を真にすることは出来ません。
②誰かが「水は摂氏1550度で固体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。

と仰るのが、言葉の意味を問うている上で、僕もまったく正しいと考えているのは、これまでに延べている通りです。

しかし、僕が言語のルール変更と言っているのは、この世界内の語りえる事象についてではなく、この世界の限界にあって語り得ないことがらについてなのです。語り得ない世界の限界は、言語の中でその真偽を問うことができず、言語のルールによって「すでに」決まったものとして示されたり、文法上の規定にされてしまったりするような問題に、回収されるものだと思っています。

たとえば、
(a)「【男の価値】とは、『死ぬ時に何を残したかで決まる』ものである」
という文は、日常生活で意味がある文ではありますが、世界と見比べて真偽が決定できるものではありません。そういう意味では(a)文は有意味だとも言いにくいです。
ここで、(a)文を真とするか偽とするかで言語ルールが異なり、それが違う言語にならざるをえないというのが「論考」の言語観だと思います。工藤さんは否定されるかもしれませんが、そういう言語観も「あり」だと、僕は思っています。

>横山さんにとっては、横山さんと横山さんの言葉遣いを採用してくれる人々から成る集団が「世界」なのですか? そして、横山さんの言葉遣いを採用しない存在者は「同じ世界の住人ではない」―そう「定義した」と。

これについても、
(a)「【男の価値】とは、『死ぬ時に何を残したかで決まる』ものである」
を真とする者同士では、同じ言語を使い他者として存在することになり、(a)を偽とする者同士では、違う言語を使う他者として存在することになる。・・・・それだけのことだと考えます。僕の言葉づかいを採用する人は、同じ価値観で話をすることができる他者であり、僕の言葉づかいをしない人は価値観を共有できない他者になると。

こんにちは、工藤です。コメントをいくつか。

先ず、以下の事柄

②誰かが「水は摂氏1550度で固体になる」と言えば、その文は真になる=その文を真にする[出来事]が生起するのでしょうか。―否。
③我々が「鯨は『サバ科』である」と定義すれば、それまで鯨と呼ばれていた[生物]はエラ呼吸し・卵を産み・DNAが変化するのでしょうか。―否。

は[事物世界の在り方]と連関しており、単に「言葉の意味を問うている」だけではないのです。別の言い方をすれば、或る文を真/偽にする[言語に回収不可能なもの]が言語ゲームを含むケース―例えば「バラク・オバマは米国大統領になった」という文を真にする[出来事]は言語ゲーム(選挙制度等々)を含んでいます―と含まない(と考えられる)ケース―[事物の在り方]―の差異を理解しておく必要がある、ということです。

>工藤さんは否定されるかもしれませんが、そういう言語観も「あり」だと、僕は思っています。

否定云々―例えば「横山さんが【ユークリッド幾何学における四角形(内角和が360°)や円】を『三角形』と【呼ぶ】のは自由でしょう―というより、僕は「言語観云々」や「出鱈目で意味不明な文を作ること」ではなく、[現実(事物世界)の在り方]の探究と哲学的似非問題=<言語>のお祭りの解消に傾注したいというだけなので・・・

>言語の中でその真偽を問うことができず、言語のルールによって「すでに」決まったものとして示されたり、文法上の規定にされてしまったりするような問題に、回収されるものだと思っています。

以前別の処でも書きましたが、基本的に様相文に対して真偽を問うことは出来ません(様相論理学者の妄説に反して)。様相文が文法的混乱―哲学的似非問題の源泉―を生じさせ易いのもそこに起因しています。
とはいえ、[現実(事物世界)の在り方]は「どちらの言葉遣いを選ぶか、あるいは、どちらの世界を選ぶかという選択=出鱈目かつ意味不明な文を作ること」とは独立・無関係です。もしそうでなければ、我々が[現実(事物世界)の在り方]を「発見する(経験的探究を通して[現実(事物世界)の在り方]に即した概念を構成する)」ことはあり得ません。

>[現実(事物世界)の在り方]は「どちらの言葉遣いを選ぶか、あるいは、どちらの世界を選ぶかという選択=出鱈目かつ意味不明な文を作ること」とは独立・無関係です。もしそうでなければ、我々が[現実(事物世界)の在り方]を「発見する(経験的探究を通して[現実(事物世界)の在り方]に即した概念を構成する)」ことはあり得ません。

「論考2.025実体は形式と内容からなる」で言うところの「内容」を「現実」、「形式」を「言葉遣い」として捉えると、もちろん[現実]は「言葉遣いの選択」とは独立で無関係であります。(「内容」と[現実]は違うし、「形式」と「言葉遣い」は一致しないと叱られるかもしれませんが、ここでいう大筋で大差はないのではないかと思っています。)
僕が違うことを言っているとは思えないので、何が問題なのかよくわかりませんでした。

>①②は[事物世界の在り方]と連関しており、単に「言葉の意味を問うている」だけではないのです。別の言い方をすれば、或る文を真/偽にする[言語に回収不可能なもの]が言語ゲームを含むケース―例えば「バラク・オバマは米国大統領になった」という文を真にする[出来事]は言語ゲーム(選挙制度等々)を含んでいます―と含まない(と考えられる)ケース―[事物の在り方]―の差異を理解しておく必要がある、ということです。

この部分は仰っている意味が取れなかったのですが、[現実]に「形式」が含まれないケースと、含まれるケースがあるということなのでしょうか。

こんにちは、工藤です。コメントをいくつか。

>「論考2.025実体は形式と内容からなる」で言うところの「内容」を「現実」、「形式」を「言葉遣い」として捉えると、もちろん[現実]は「言葉遣いの選択」とは独立で無関係であります。(「内容」と[現実]は違うし、「形式」と「言葉遣い」は一致しないと叱られるかもしれませんが、ここでいう大筋で大差はないのではないかと思っています。)
僕が違うことを言っているとは思えないので、何が問題なのかよくわかりませんでした。

『論考』の誤りについては既に論じたので、割愛させて頂きます。

>この部分は仰っている意味が取れなかったのですが、[現実]に「形式」が含まれないケースと、含まれるケースがあるということなのでしょうか。

違います。

繰り返しますが、

>基本的に「私の世界」は「現実の世界」と一致するというのが論考の世界観です。
「幸福な世界」と「不幸な世界」は別ものですし、「昨日の世界」と「今日の世界」も別ものですが、これらすべては「現実の世界」の中の「お話」として回収され得ると、僕は理解しています。 

『論考』解釈としては「正しい=オーセンティック」と思いますが、事柄としては間違っていますね。[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]において構成された<工藤庄平>なる概念的構成物=お話の中の主体(他者)と、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]は全く別物ですから。

>工藤さんは何故、回収できないとお考えなのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
“僕”がそれであるところのもの~[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]は[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]でも[現実(事物世界)]でもないから、です。視野が[現実(事物世界)]を包摂・回収出来ないように。

工藤さん

「論考」が間違っているという文脈の中で

>[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]において構成された<工藤庄平>なる概念的構成物=お話の中の主体(他者)と、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]は全く別物ですから。

と仰っているのですが、僕にはそれがなぜ「論考」批判になるのか理解できないのです。工藤さんのおっしゃっていることはすっかり「論考」でも説明可能に思えるからです。どこが、「論考」と齟齬を起こしているとお考えなのでしょうか。

僕は「論考」はかなり特定された状況でしか働くことができない、一般的ではない理論だと考えています。しかし、大筋では間違っているとは思えないのです。(要素命題が互いに独立でなければならないとしているところなど、小さなほころびはいくつかありますが。)一般相対性理論がかなり広範な状況をカバーできる理論であるのに対し、ガリレオ力学は慣性系というかなり窮屈な範囲でしか働くことができません。ガリレオ力学はそういう意味でかなり特殊ではあり間違っているとも言えないこともないですが、まったく使い物にならない理論というわけではありません。「論考」も同様の特殊な状況しかカバーできない理論だと思えるのです。
工藤さんによればウィトゲンシュタインが「論考」の写像理論を間違えだと認めているということですが、それが本当だとしても、それは特殊理論だという意味以上の批判だとは思えないのです。ウィトゲンシュタインが写像理論の間違いを認めたというのはどの書で確かめられるでしょうか。自分で見てみたいのですが。

ここまで、工藤さんからたくさんのコメントをいただいて、かなりわかってきたという自負があったのですが、暗礁に乗ってしまった気分です。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>僕にはそれがなぜ「論考」批判になるのか理解できないのです。工藤さんのおっしゃっていることはすっかり「論考」でも説明可能に思えるからです。どこが、「論考」と齟齬を起こしているとお考えなのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
伝達・指示・並列不可能な[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]と伝達可能な―横山さんがこの文章を「目に入れる」ことが出来るという意味で―「伝達・指示・並列不可能な[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>](という発語や文字)」を混同してはならないように、[現実(事物世界)]とそれについての「説明(発語や文字)」も混同してはならない、ということです。

>ウィトゲンシュタインが写像理論の間違いを認めたというのはどの書で確かめられるでしょうか。自分で見てみたいのですが。

「『論考』において、私は論理的分析と直示的説明のことがよく解っていなかった。当時、私は<言語と現実の結合>などというものが存在すると(誤って)考えていたのである」―『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』
『哲学的文法』『青色・茶色本』『哲学探究』・・・「私は言わずに済むことを言わないだけである(ウィトゲンシュタイン)」

工藤さん

>「『論考』において、私は論理的分析と直示的説明のことがよく解っていなかった。当時、私は<言語と現実の結合>などというものが存在すると(誤って)考えていたのである」―『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』

ありがとうございます。少しすっきりしました。

「論考」でウィトゲンシュタインは語の意味を確定できるとしていたが、語の意味は確定できるものではないという批判ですね。もともと、語の意味が確定できないのだから、言語が現実に到達するか否かを問うことが意味はないということでもある。その意味で写像理論は一般化できる理論ではない。


>伝達・指示・並列不可能な[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]と伝達可能な―横山さんがこの文章を「目に入れる」ことが出来るという意味で―「伝達・指示・並列不可能な[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>](という発語や文字)」を混同してはならないように、[現実(事物世界)]とそれについての「説明(発語や文字)」も混同してはならない、ということです。

難解な文でしたが、かなり、ざっくりと
「語り得ない[主体]と、語り得る対象としての「主体」を混同してはならないように、[現実]と「言語」を説明してはならない」
として解釈させてもらいました。
工藤さんがこの文で、「論考」の間違いを指摘したのは、上と同様のことで、もともと、語の意味が確定できないのだから、言語が現実に到達するか否かを問うことが意味はない。・・・・として理解しました。

しかし、やはり僕としては、「論考」が、まったく役に立たない誤謬と捉えるべきではないのではないかとも考えています。
理由は前回言った通り、「論考」が、ガリレオ力学のように、特殊な状況だけを扱った理論であり一般化されないという不備があるだけで、その特殊な状況の中では整合的だからです。

「論考」では語がその意味を確定させることができます。実際の生活の中でそのようなことは、ガリレオの慣性系が実際にはありえないように、ありえません。しかし、仮に語の意味を確定させることができたとしたら、を問うているこの理論は、その射程の狭さゆえに、かなりすっきりと世界を説明してくれます。その中では写像理論は意味を持ち、十分役に立ちえます。

工藤さんはこれまで、語の意味が確定できないという一般的な理論からの視点で「論考」の特殊性を批判し、僕はその特殊化された狭い理論からの視点で、語の意味が確定できることを前提とする必要を説いていたので、すれ違いが出てきたのではないかという気になりました。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>「論考」でウィトゲンシュタインは語の意味を確定できるとしていたが、語の意味は確定できるものではないという批判ですね。
>語の意味が確定できないのだから、言語が現実に到達するか否かを問うことが意味はない。・・・・として理解しました。

違います。【現実と命題の対応説や真理関数の胡乱さを自覚→言語ゲームの着想を得る】と解すべきでしょう。従って、以下のコメント

>工藤さんはこれまで、語の意味が確定できないという一般的な理論からの視点で「論考」の特殊性を批判し、僕はその特殊化された狭い理論からの視点で、語の意味が確定できることを前提とする必要を説いていたので、すれ違いが出てきたのではないかという気になりました。

も然り。

補足しますと、

後期ウィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、「【有意味性の[外]を消去し得るという錯誤】―即ち『唯言論』こそが哲学的混乱及び似非問題(嘘つきパラドックス等)の真の源泉であり、哲学を全き闇へ落とし込む陥穽である」と。

ポイントは「語の意味の確定云々」ではない、ということです。

工藤さん

【現実と命題の対応説や真理関数の胡乱さを自覚→言語ゲームの着想を得る】と解しても大差ありません。

工藤さんは、現実と命題の対応説や真理関数の胡乱さから得た「言語ゲーム」という、一般的な理論からの視点で「論考」の特殊性を批判し、僕はその特殊化された狭い理論からの視点で、現実と命題を対応させ得ることを前提とする必要を説いていたので、すれ違いが出てきたのではないのでしょうか。

一般的な視点から「論考」が間違いだといえば、間違いです。独我論が導かれる理論ですから。しかし、ガリレオ力学のように、有用だという意味では、有意義で有意味だと思います。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>工藤さんは、現実と命題の対応説や真理関数の胡乱さから得た「言語ゲーム」という、一般的な理論からの視点で「論考」の特殊性を批判し、僕はその特殊化された狭い理論からの視点で、現実と命題を対応させ得ることを前提とする必要を説いていたので、すれ違いが出てきたのではないのでしょうか。

違います。
後期ウィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、「【有意味性の[外]を消去し得るという錯誤】―即ち『唯言論』こそが哲学的混乱及び似非問題(嘘つきパラドックス等)の真の源泉であり、哲学を全き闇へ落とし込む陥穽である」と。

補足しますと、

事柄に即して言えば、『論考』に欠けているのは「“私”の世界=“私”が今理解する唯一の言語」に回収不可能な[現実(事物世界)]と[生ける身体]への目配りなのですが・・・とはいえ、ウィトゲンシュタインがそのことに自覚的であったか否かはどうでもよいことだと思います。

工藤さん

>後期ウィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、「【有意味性の[外]を消去し得るという錯誤】―即ち『唯言論』こそが哲学的混乱及び似非問題(嘘つきパラドックス等)の真の源泉であり、哲学を全き闇へ落とし込む陥穽である」

…(というのが何を意味されているのかよくわかりませんが)
それだから、「論考」が間違いだと了解したとします。

しかし、ガリレオ力学のように、有用だという意味では、有意義で有意味だと言えるのではないですか。

工藤さん

付け加えです。

>「“私”の世界=“私”が今理解する唯一の言語」に回収不可能な[現実(事物世界)]と[生ける身体]

というのは「語り得ない[主体]と、語り得る対象としての「主体」」というとらえでは間違いですか。そのようなとらえ方でしたら、「論考」はしています。工藤さんが考えている主体と論考の主体とはどこが違うのでしょうか。

再度補足しますと、

横山さんの主張に反して、「言語ゲーム」は一般的な理論といった代物ではありません。それは「世界の見方(捉え方)」なのです。
翻って、「私は言わずに済むことを言わないだけである(ウィトゲンシュタイン)」―ウィトゲンシュタインが敢て言わなかった(と思われる)ことを自得して頂こうとしているのが・・・

補足しますと、

>しかし、ガリレオ力学のように、有用だという意味では、有意義で有意味だと言えるのではないですか。

僕は「有用な虚偽」に興味がないので、何とも言いようがありません(付言しますと、ガリレオ力学との類比には違和感を覚えます)。

>工藤さんが考えている主体と論考の主体とはどこが違うのでしょうか。

既述の通り、『論考』の形而上学的な(語り得ぬ)主体には[身体]が欠けています。

>「私の世界」について文法的な限界があるのとは別に私秘的な限界があると考えるのは、ドグマなのではないかという気がします。

問題は『論考』6・43「幸福な人の世界/不幸な人の世界」で示唆されている【差異】を「“私“の世界=“私”が今理解する唯一の言語」の内に回収することは出来ない、ということです。真理を巡る問題―嘘つきパラドックス―と絡めて言えば、これは我々が文を真/偽にする[言語に回収不可能なもの]と真なる文の差異を理解していることに対応しています。「唯言論」の誤りは、ラッセルやタルスキ或はクリプキの遣り方―言語に階層差を持ち込む―では嘘つきパラドックスを解消出来ないことに示されているのではないでしょうか。
察するに、横山さんの言う「私秘的な限界」は「“私“の世界=“私”が今理解する唯一の言語」の内に回収されてしまうものであって、僕が“自得して頂こうと”している「[存在]論的断絶」或は「唯独性」とは違うように思われます。
別の言い方をすれば、『論考』のウィトゲンシュタインと横山さんは、嘘つきパラドックスにおけるラッセルやタルスキと同じ陥穽に嵌り込んでいるように見えるのです。

>これは世界の表裏であり一体のものではないかと思うのです。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
「“私”の世界」―精確に言えば、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]に[横山信幸なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]を回収することも、[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ-コトバ>]に[現実~事物世界]を回収することも出来ません。
『論考』以後のウィトゲンシュタインが『青色本』や『個人的経験及び感覚与件について』等に通底する諸問題に傾注したのは何故か?―を考えてみるのも有益でしょう。

工藤さん

僕が言語ゲームを一般的と評したのは、一般相対性理論が広範な内容をその対象とできるのと同じ意味でです。世界の見方に過ぎないと考えるのは、僕も同じです。

再度補足しますと、

>ただ「横山なる主体によって構成された世界が現実世界である」という文は、他者と共有できる訳のない言葉づかいですから、不都合があります。しかし、不可能かというと不可能ではないような気がします。そこに、真理を考えるための重い内容があるのなら、それはそれで価値のある言葉づかいだと思います。

「横山信幸なる主体によって構成された世界が現実世界である」「横山信幸なる主体によって構成された世界だけが本当に伝達・指示・並列不可能である」は偽なる文ですが、「横山信幸なる主体によって構成された世界は伝達・指示・並列不可能である」は真なる文でしょう。ただし、最後の文の真理性は[語られも示されもしないもの]なのでしょうが。
「[現実(事物世界)]の中の[語られも示されもしない存在=真理]」

>「横山なる主体によって構成された世界が現実世界である」というのは「論考」の世界観ではありませんでした。現実世界を構成する主体はもはや横山個人とは別ものですから、正しくは「唯一絶対の主体によって構成された世界が現実世界である」と言わなければならないところでした。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
「現実世界を構成する主体はもはや横山個人とは別もの」―これが一人称の特殊な用法から生じた<妄想=私なる錯誤>であることは既に何度も述べたので割愛させて頂きます。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>世界の見方に過ぎないと考えるのは、僕も同じです。

失礼ながら、横山さんが「(世界の見方・捉え方としての)言語ゲーム」の革新性を【真に】理解しているとは思えません(写像理論への拘泥その他を鑑みるに)。
「それ」は【或る仕方で】哲学的似非問題を【完全に】消滅させることが出来たかもしれないのですが・・・

工藤さん

非常に残念ですが、さっぱり分かりません。

今度、12月9日に大阪哲学道場で「論考」について発表しますので、ぜひ来てください。話を聞かせてくださいませんか。

>今度、12月9日に大阪哲学道場で「論考」について発表しますので、ぜひ来てください。話を聞かせてくださいませんか。

https://sites.google.com/site/kyotocolloquium/home/meetings
これに参加しようと思っていたのですが、丁度次の日なんですね。
僕は大丈夫ですが・・・大阪の主催者さんに話して頂ければ。

工藤さん

大阪哲学道場の主宰から、回答がありました。
工藤さんが以前永井論文の無断発表をしようとした人物と同一であれば、参加はしてもらうわけにはいかない、とのことです。

もし、そうなのであれば、残念です。

工藤さん

大阪哲学道場は残念でしたが、本ブログは歓迎です。いつでもウェルカムでお待ちしています。

こんばんは、工藤です。
永井均『ウィトゲンシュタインの誤診』批判は
https://twitter.com/nineteen_jacob
で御読み頂けます。
御参考になれば、幸甚です。

工藤さん

パソコンの調子が悪く、またリカバリーをしたところです。おそるおそるいろいろ試しています。こちらの具合のせいかもしれませんが、

永井均『ウィトゲンシュタインの誤診』批判について

https://twitter.com/nineteen_jacob

のどこを読んだらいいのかわかりません。
少し詳しい URL を教えてください。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/55992905

この記事へのトラックバック一覧です: 「「p」はpと語る」はなぜ独我論を導くか<「論理哲学論考」を論考する・追記1>:

« いったん、つづく≪「哲学探究」を探求する15.1≫ | トップページ | 大阪哲学道場12/9レジュメ »