フォト
無料ブログはココログ

« 「語の理解」の基準≪「哲学探究」を探求する15≫ | トップページ | 「「p」はpと語る」はなぜ独我論を導くか<「論理哲学論考」を論考する・追記1> »

2012年9月20日 (木)

いったん、つづく≪「哲学探究」を探求する15.1≫

ここまで、ウィトゲンシュタインの「探究」について、語の意味や基準を完全に確定することができないこと、しかし確定できないでも言語ゲームのなかで語の使用自体を語の意味とすることによって人は語の意味に到達し得るということを見てきた。

ここからさらに、ウィトゲンシュタインの哲学が行動主義かどうか、や、「探究」が無限をどう扱っているか、そして、意味盲とアスペクト盲について、ウィトゲンシュタインの思索を掘り進めていこうと考えていたのだが、さらに「探究」について考察するためには、いったん「探究」を離れて「心身問題」の歴史的状況などを見てから再度戻ってきた方が適切だと思われてきた。

そこで、いったん≪「探究」を探求する≫を中断して、「心」と「モノ」について哲学はどう考えてきたのかを見ていきたいと思う。そのあとで、また、「探究」に戻ってくる。

いったん、つづく、です。

つづく

「探究」を探求する目次

« 「語の理解」の基準≪「哲学探究」を探求する15≫ | トップページ | 「「p」はpと語る」はなぜ独我論を導くか<「論理哲学論考」を論考する・追記1> »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/55705676

この記事へのトラックバック一覧です: いったん、つづく≪「哲学探究」を探求する15.1≫:

« 「語の理解」の基準≪「哲学探究」を探求する15≫ | トップページ | 「「p」はpと語る」はなぜ独我論を導くか<「論理哲学論考」を論考する・追記1> »