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2012年8月29日 (水)

「語の理解」の基準≪「哲学探究」を探求する15≫

語の意味が語の使用にあるとウィトゲンシュタインは言う。たしかに語の意味が使用にあるのだという取り決めにしてしまえば、いろいろな問題が片付いて都合がいいのだろうが、しかし、語がもともと持っている語自身の内容というものもあるのではないだろうか。それを意味と言ってはいけない理由があるのだろうか。
たとえば、「或る語の意味を理解する」と言うときには、その語の使用法を理解しているというだけでなく、その語の指す内容をも掴んでいるように思える。僕らが語の指すものを画像としてイメージできたのであれば、語の意味はその使用にあるとされる以上の内容を持っていると言えるはずだ。また、「理解する」という動詞語は、脳や心の状態を表していると言ってもいいと思える。「理解する」という語に対して脳や心の何某かの状態が対応しているのであれば、語の意味はその使用にあるだけでなく、内容を持っていると言えるはずではないだろうか。
そこで本節では「理解する」と「読む」について考え、その意味するものが脳や心の状態でないこと、そして、確定できないようなあいまいな基準からしか得られないものであることを、見ていきたい。

 

理解が心の状態でないわけ

例えば「立方体」という語について、「立方体」と聞いて心に浮かぶイメージこそがその語の意味ではないのか。ところが、これはうまくいかないのだった。前節までで考えてきた規則のパラドクスがこれを許さないのだ。規則のパラドクスは、規則の解釈がどんな方法をとっても一つに決められないことを言っていた。クワス星人は「+」をクワスと解釈してしまう。そして、そのクワスの解釈をプラスの解釈より劣っているものだとすることは原理的にできなかった。「+」をプラスとして解釈すべきだと考えることが必然では決してないのだ。また、たとえば、「一人の老人が杖に身を支えながら険しい道を登っていく姿」(「探究」第139節)の画像を見て、火星人は坂を滑り落ちていると解釈するかもしれない。だから、つまり、「立方体」という語からどのようなイメージを持つことも理論的には可能であり、イメージをどのように解釈することも可能であるのだ。だとしたら、語の意味を語のイメージとして捉えて解釈する「語の意味の解釈説」には問題があることになる。

 

語の使用法のすべてをはっきりとさせられないこと

このことから、語の意味は使用にあるとしなければならないと考えたわけなのだが、その「語の意味の使用説」は大丈夫なのだろうか。「立方体」の意味が使用だけなのであれば、「立方体が理解できた」ということは「立方体」という語を使用する全ての場面をあらかじめ心の中で準備して考えておくということなのではないだろうか。しかしそんなことは無理だ。だから、語の意味の使用説もダメなのではないのか。
このように考えると、語の使用説を採る場合でも、語の使用法のすべてがはっきりしているときにだけ語が理解できるのだとするような単純な捉え方ではうまくいかないことが分かる。家族的類似のあいまいさのアイデアが適応されて、使用説ははじめて使える用語システムになるのだとウィトゲンシュタインは考えた。語の使用の仕方を家族的類似のようにあいまいに捉えて、結果的にうまく適応する場合にのみ、その使用が使える語の意味だと考えるようにするのだ。

 

言語ゲームが成立するときにのみ語が意味を持ち得ること

「正常な場合にだけ言葉の使用のされ方が明確に指定されている。我々はあの場合この場合にどう言うべきかを知っており、疑いを持たない。異常な場合になればなるほど、何を言うべきか疑わしくなっていく。」(「探究」第142節)
語を使ってみて結果的に言語ゲームが成立する状況があったとき、そのゲーム内の正常な場合に限って語は意味を持ちえることになる。語の使用が家族的類似のあいまいな範囲からはみ出てしまうような場合ゲームは成立せず、語の意味は崩壊していくことになる。たとえば、目の前にりんごがあることに合意できる者同士であれば、りんごの様子について語り合うことができるが、眼前の世界があることさえ合意できない者同士で「りんごの赤さ」を語ろうとしても「りんご」や「赤さ」や「世界」や「実在」が何を意味するものなのか分からなくなってしまうのだ。

 

出来るか否かだけが理解の基準であること

「・・・教師の苦労ののち、生徒が数列を正しく書き続けていくと仮定してみよう。そうすると、今我々は彼がこの体系に精通していると言うことができる。しかし、我々が正当にそう言えるためにはどこまで彼が数列を正しく書き続けなくてはならないか。ここにいかなる境界もないことは明らかである。・・・そこであなたは「人が数列のこの数やあの数まで書き続けられることなどは、単に理解のいろいろな使用例であるに過ぎない。理解そのものは一つの状態であってそこから正しい適応が生まれてくるのだ。」と言うだろう。・・・しかし、いろいろな使用例は理解の基準であり続けるのだ。」(「探究」第145節)
「理解」そのものは脳や心の或る状態であって、その状態になっているからこそその結果として数列が書き続けられたり、問題が解けたりするのだと一般的には思われているかもしれないが、そのような脳や心の状態こそが理解だとする考えなどどうやっても確かめられない空論でしかない。実際には、数列が書き続けられたり問題が解けたりすることが、「理解」の結果としての「徴候」と捉えられるのではなく、「理解」の定義としての「基準」と捉えられなければならないのだ。ただし、ここで、この数列がどこまで書き続けられれば正しく「理解」していると判断すべきなのかという、客観的な神に視点での「基準」などが存在するわけではない。「基準」は、家族的類似のあいまいなままその場その場の言語ゲームの状況に応じて変わり得る、不確定なものとしてあることになる。語の意味を理解することの基準は、結局、語の意味のいろいろな使用であるのだ。つまり、語が理解できたということは、語が正しく使えるということと、完全に、寸分違わず、等しいものであり、ここにこそ基準としての楔が打ち込まれるのだ。

 

説明できることが理解の基準ではないこと

もし、規則を見つけてなくてもちゃんと使えれば、それは「理解」したと言っていいのだ。もし、規則を見つけたと思ってもちゃんと使えないのなら、それは理解したとは言えないのだ。
「・・・次のような例を思い描いてみよう。Aは数列を書き出している。Bは彼を見て、数の系列の中に法則を見つけようとしている。・・・Aは「1,5,11,19,29」という数を書いた。そこでBはその先を知っていると言う。・・・たとえばBは「an=n2+n1」なる式を試したのかもしれない。・・・別の場合Bは・・・「項差の数列」を考えて「4,6,8,10」になることを見出した。・・・或いは「あ、この数列なら知っている」とただ数列を書き続けていく。」(「探究」第151節)
「Bが数列のシステムを理解する」ということはどっちみち単純に「
an=○○」なる式に思い至るということではない!」(「探究」152節)
「理解を<心的な出来事>などと決して考えるな。どのような場合に、どのような状況下で我々に「その先を知っている」と言うのかと、代わりに問え。」(「探究」154節)
実際の場面では、どんな状況下でなら理解したと言えるだろうか。それは、結果的に正解していた場合だろう。その数列の次に何が来るか理解しているというのは、その数列の次に何が来るかを言い当てられた場合のことなのだ。式に思い至ったからと言って正解できるとは限らない。逆に、式が思いつかないからと言って、正答できないとも限らない。
多くの日本語生活者は日本語の助詞「は」と「が」の使い分け方の規則について説明できるわけでもないのに、正しく使い分けできる。規則を理解しているというのは、説明できるということではなく、正しく使えるということなのだ。つまり、数列の次に何の数が来るかを理解しているというのは、式に思い至ったということではなく、正しく答えられるということだとすべきなのだ。
ただし、このような判定の仕方では、ただ分かったと独りよがりの勘違いをしているだけなのか、本当に分かったのかを、区別できないかも知れない。しかし、「本当」に分かったなどという神の視点など最初からないのだ。出来るということが、正しく理解したということそのものなのである。

 

「読む」の基準が確定できないわけ

この基準の考え方についてウィトゲンシュタインはさらに「読む」という活動について考察している。
ここで考えられている「読む」は、音読などの意味であって、文を理解するという意味ではない。そのような「読む」活動についてだと決めているのであるが、そう定めても、何をもって「読ん」でいるとすべきかをはっきりさせることができないとウィトゲンシュタインは言う。
「・・・たとえば、新聞を読むときに、読んでいる物に注意を払うこともできるし、単なる読取り機会として読んでいる物に注意を払わないでも正確に読むことができる者もいるだろう。これと比較して、初心者は苦労して文字をたどりながら読む。しかし、いくつかの語は前後関係から推測したり部分的に暗記したりして読む。このとき教師は彼が本当は読んでいないと言う。」(「探究」第156節)
読取り初心者と熟練者とでは「読む」の基準が異なるのだろうか。初心者がテキストを暗記して諳んじている場合、これを教師は「読ん」でいるとはしない。この理由が、脳や心が「読む」に対応する状態ではないからということであるのなら、熟練者がテキストに注意を払わないで音声化していることも「読む」には当たらないはずだ。つまり、心に何かを思い浮かばせながら音声化する作業を「読む」と定めれば良い、という単純な話ではないようなのだ。
では、もっと簡単に考えて、「テキストの音声化」を「読む」とすると定めれば問題は解消するだろうか。
「「誰しも手本からその複製を導き出しているなら読んでいるのだという説明」を調べよう。・・・いま我々が誰かにキリル文字のアルファベットを教え、どのように各文字が発音されるかを教えたとする。そして、或る章句を示し、彼が各文字を教えられたとおりに発音しながらその章句を読むとすると、そのとき、我々は彼が規則の助けを借りて或る語の音を書字から導き出していると言うだろう。そしてこういうことも読むことのはっきりした事例なのである。・・・」「しかし、この際に彼が常にAをbに、Bをcに、というふうに進んでZをaに書き換えるとしたらどうか。これをも我々は表による導き出しと呼ぶだろう。・・・彼が一つの書き換え方を継続せず、或る簡単な規則にしたがってそれを変更すると仮定してみよ。たとえば、いったんAをnに書き換えたなら、次のAはoに、その次のAはpに書き換えるといったぐあいに。だが、このやりかたと不規則なやり方との境界がどこにあるのか。」(「探究」第162・163節)
単純にテキストの音声化を読むとしてみても、どこまでが正しい音声化なのかその基準は、あらかじめ定めることはできない。神の視点での客観的なオールマイティーな基準というものがあるわけではないのだ。結局、その場その場の言語ゲームが成立するときにそれを成立させえるような基準を選んでいくという、かなりあいまいな方法しかないのだ。事前に基準を決めておくことはできない。実際に、ゲームを進めていきながらそのゲームを作っていくしかないのである。

 

まとめ

ここまでの考察は、次の3つの事柄を明らかにしようとしたものである。
①「語の理解」とは、脳や心の状態ではないこと。
②「理解」しているか否かの基準は、それができるという行動にのみあること。
③「理解」の基準は、家族的類似的なあいまいなものであり、あらかじめ客観的に神の視点で設定しておくことができず、言語ゲームの中でその都度設定するような不安定なものでしかないこと。

だらだらとした文になってしまったが、論がきちんとつながっているだろうか。
理解の基準が行動であるということは、言語ゲームのアイデアが行動主義を意味するものではないのか、という疑問が湧いてくるが、ウィトゲンシュタインはこれを否定し、また無限に対してゲームがどのように対応するのかを考えていく。だが、それはまた次節で考えていきたい。

つづく

「探究」を探求する目次

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コメント

はじめまして。
記事を読んで、すごく勉強されているんだなということが伝わってきました。

記事を読んでいくつか質問です。


「語が理解できたということは、語が正しく使えるということと、完全に、寸分違わず、等しいものであり、ここにこそ基準としての楔が打ち込まれるのだ」

ここにおいて、何をもって「正しい」というのでしょうか?
例えば、ここにAさんと、Bさんと、Cさんがいて、

Aさんが話すことをBさんとCさんが聞いているとします。

そのとき、BさんはAさんの言葉の使い方に何も感じず返答を行いますが、
CさんはAさんの話す言葉に対して「使い方めちゃくちゃだな」と思いながら返答を行っています。

この場合「話が通じてる」という立場に立てばAさんは「言葉を理解している」となるのでしょうが、

この「話が通じている」となる基準はなんなんでしょうか?

話に参加している誰かが「話が通じている」と思えば「話が通じていること」になるんでしょうか?
また逆に人がどう思うかは関係なく、ただそうなっていること(この場合では「話が通じていること」)しかないのいでしょうか?

それとも「本当に話が通じているのか」を知る神なる視点があるのでしょうか?


「ただし、このような判定の仕方では、ただ分かったと独りよがりの勘違いをしているだけなのか、本当に分かったのかを、区別できないかも知れない。しかし、「本当」に分かったなどという神の視点など最初からないのだ。出来るということが、正しく理解したということそのものなのである。」


「本当に」わかったという神の視点などない、というのには自分もそうかなと思います。

しかしそうなると何を基準にして「出来る」というのでしょうか?

またこの場合の、出来る、というのは具体的にどんな行為をさしているのですか?

自分が「出来」さえすれば、「正しく理解した」ということになるのですか?

質問攻めで申し訳ないですが、
ご返答いただけると幸いです。


チグバグさん、コメントありがとうございます。

①について、

「探究」においてウィトゲンシュタインは、語の「検証」に真偽決定の根拠が担保されているとする「検証主義」を取っていると思います。そして、それゆえ、「言明とは言語ゲームを成立させるための表出アイテムである」とするときにだけ、言葉は意味を持ち得るとしていると思います。
そのように言語をとらえるわけですから、その言葉が「通じる」とか「理解できた」というのは、言語ゲームが成立したかどうかという判断になります。

②について

しかし、その言語ゲームが成立したかどうかという、メタ的な言語ゲームが成立しているかどうかという話は、もはや、「とりあえず」的な冒険的仮設的な判断で、「言語ゲームが成り立ったいるとしてみる」(としてみる、としてみる・・・)という感じなのだと思います。

どうでしょうか。これでチグバグさんの質問に届く答えになったでしょうか。もし見当はずれの回答しかできてないようであれば、そのように指摘してもらえますか。

また、
「語の意味を確定しようとしてはダメなわけ≪「哲学探究」を探求する13≫」http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/13-60cf.html
のページも読んでもらえたでしょうか。これはそれにも関連する話かもしれません。

横山さん

お返事ありがとうございます。
自分もずっとウィトゲンシュタイン『哲学探究』とは格闘しているのですがまだまだ理解が及ばないところがたくさんあり無知をさらけ出してしまうかもしれませんが、何卒お付き合いしていただければ嬉しい限りです。


①について
具体的に探究のどのあたりでウィトゲンシュタインは「検証主義」を取っているのかと示されている部分はありますか?

それとウィトゲンシュタインの言う「言明」なるものがいまいちよくわかりません。横山さんはどのように「言明」を読み取っていますか?

「言葉が「通じる」とか「理解できた」というのは、言語ゲームが成立したかどうかという判断になります」


この判断を下すのは誰なんですか?
おそらく「自分」ということになるんですが、自分が言語ゲームが成立した、断定できれば「通じる」、「理解した」となるんですかね?

しかしそうなると何をもって言語ゲームが成立するかという問題になりますが、これに関しては横山さんがおっしゃっている②の「「とりあえず」的な冒険的仮設的な判断で、「言語ゲームが成り立ったいるとしてみる」(としてみる、としてみる・・・)という感じ」
だと思います。

つまり言語ゲームが成立しているかは考えてはいけない問なのかなと自分は感じました。

まさに「考えるな、見よ!」じゃないですが、これは自分自身で言語ゲームが成立しているな(例えば会話の言語ゲームだったらはんの自分が思う「スムーズに言葉のやりとりができること」)と思うこと(感じること?)がすべてなのかなと思いました。


お返事お待ちしております。

チグバグさん、コメントいただけて嬉しいです。
blogを読んでもらってこう質問までもらえると、書いた甲斐があります。

ただ、「探究」の本を僕は手元に持っていないので、お答えはあやふやなものしかできないかもしれません。

「探究」の「検証主義」はどこでわかるか?

本の中で「検証」という語はなかったかもしれません。しかし、最初の方の石工の親方と弟子の言語ゲームの話、りんごを買う言語ゲームの話のあたりを見ると、その言葉が人の活動の歯車として働いているという事実において、その語の意味をはっきりとさせることができるという趣旨だったと思います。僕はここで、人の活動を検証することによって言語の意味を明らかにできる立場だと読めると思い、「探究」の言語的立場は「検証主義」と言って良いかと考えました。

でも、いま本の内容をうろ覚えで言ってますので、正しいお答えができていないかもしれません。ゆるい話としての回答で勘弁してください。


言語ゲーム成立の判断は誰がどうやってするか?

チグバグさんの言われるとおりだと思います。
「『ゲームが成立している』と冒険的仮説的に判断してしまう」か、あるいは、
「自分自身がゲームにのめり込んでしまい、ゲームがうまく成立させていた要素についてを『後から』、言語ゲームの構成要素だったと振り返る」か、
そういう感じでしか、判断できないように思います。それはまさに「考えるな見よ」的なゲーム参加がカギであるように思います。


それから、もうすでに読まれたかもしれませんが、「黒崎宏「哲学的探求」読解」の「目次」を紹介します。
僕は「探究」の章立てのないだらだら文が読みにくかったのですが、それは、「探究」の内容を章立てしてくれているのでとても便利でした。

哲学探究 目次
第1部
節番号
1-25 1.言語ゲーム
26-38 2.直示的定義(説明)
39-64 3.名前・語の意味
65-88 4.家族的類似性
89-133 5.論理学・哲学
134-137 6.命題の一般形式
138-155 7.理解
156-168 8.「読む」
169-196 9.「導かれる」「知っている」機械
197-242 10.規則
243-280 11.私的言語
281-315 12.痛み
316-362 13.思考
363-397 14.想像
398-426 15.私・意識
427-465 16.一致・充足
466-512 17.根拠・命題の意味
513-557 18.命題の理解・括弧付きの意味・否定
558-610 19.眼目・心の状態・感情
611-693 20.「意志する」「意図する」「意味する」

第2部
章番号
1.感覚・感情・思い (174a-174j)
2.束の間の意味 (175a-176g)
3.イメージ (177a-177e)
4.魂・心・肉体 (178a-178j)
5.心理学 (179a-180d)
6.感情(1) (181a-183f)
7.夢 (184a-184f)
8.筋・運動感覚 (185a-186c)
9.感情(2) (187a-189e)
10.ムーアのパラドックス (190a-192l)
11.(1)アスペクト (193a-209m)
11.(2)アスペクト盲・持続 (210a-214c)
11.(3)意味と体験 (214d-219f)
11.(4)何も隠されてはいない (220a-224a)
11.(5)確実性 (224b-229d)
12.概念形成 (230a-230c)
13.記憶と体験 (231a-231g)
14.心理学と数学 (232a-232c)

ご参考まで。

テスト

まだ、コメント欄の表示が不安定な様子

横山さん
お返事ありがとうございます。

検証主義という言葉はいいですね。
自分もわりかししっくり来ます。

自分の話になって恐縮なのですが、
自分は、「なぜ人は会話をすることができるのか」という疑問を小さい頃から抱えていて、

言い換えるなら、
なぜ人の発している言葉をきいて、自分は言葉を返すことができるのか?
そもそも「言葉がわかる」とは?
なぜ大阪弁はわかるのに、津軽弁はわからないのか。
そもそも翻訳はなぜできるのか。

などが気になりいろいろな言語学者や、言語哲学の本を読んだんですが、その中でウィトゲンシュタイン やクラプキやクワイン、ディヴィドソンあたりがしっくりきてる感じです。

が、どの学者の本もとにかく難しく挫折挫折の連続の中、横山さんのブログを見て(おそらく?)独学で読み通して、ブログにまとめるその姿に感動すら覚えました。

ちょっと質問の主旨がかわるかもなんですが、
横山さんは「人はなぜ会話をできている」と思いますか?

自分の見解では、
「できるからできるんだ!」という禅問答のような答えが今のところ一応の着地点です笑

できるから、できる。理由や原因はそのあと。まず行動ありき。考えるのではなく見る。
言語ゲームらしいこの着地点ですが、これで完全に納得全くしていません。

お返事よろしくお願いします。

チグバグさん、

なぜ会話ができるのか?
そのチグバグさんの問いを、僕はすごく共感しつつ読みました。同様の疑問を僕も抱いているような気がします。

そして、僕の今のところの答えもチグバグさんの「通じるから通じるのだ」に近いものであるように思います。

もしかするとチグバグさんになら、僕の次のような拙い言葉づかいで通じるかもしれないと思い、酷く感覚的な言葉で回答をさせてもらいます。伝わらなかったらすみません、もっとていねいな言葉を努力しますので、言ってください。
すなわち、

「なぜ言葉が通じるか」という問いは、
「なぜ私は自分の考えを言葉にして捉えることができるのか」という問いに直結する。
それはまた「なぜ世界を言葉で記述できるのか」というといでもある。
そして、そう問うときそれらはみな
「世界は生そのものである」
という一点に焦点化され、
さらにそれは
「生はつねに自ら世界を拓く冒険であることのみによって意味をもつ」
という視点で捉えられることを要求する。

つまり、なぜ会話が通じるのかというと、冒険的に通じるということ。
一方で会話をすでに通じているものとして解釈をでっち上げ、
一方でそれをその土台の上でさらに通じるものになるように状況を確かめながら組み立ててゆく、
結果、会話として通じるものができ上がったという状況が仮設的にできてしまう。そのために会話が通じることにされてしまう、ということ。

ある意味で言うと、「本当は」通じているのかどうなのか解らないとも言えるのだけど、そのような「本当」などというものを拒否することによって、この眼前の会話成立の状況を肯定してしまえるものとすること。

それが会話成立の根拠なのだと思います。


、、、って、
なんか、自分で投げた石に自分が飛ばされていくというミュンヒハウゼンの逸話みたいな話ですが、
そんな感じで考えています。

横山さん
お返事ありがとうございます。

「本当は」会話は通じているかわからない。

とあるように、この「本当は〇〇」っていう言葉はとにかく曲者だと自分は認識しています。
本当は、と問わなければそもそも意識にすら上がらないものを、本当は、と問うことにより哲学的難題への渦に巻き込まれていく。
しかし問うてはいけない、とわかっても問うてしまうのが人間なのかなとここ最近は感じています。


それと、また自分の話であれなんですが、
僕もずっと「意味とは何か」に囚われてきました。

日本には方言、なるものがありますよね。
僕自身うまれてからいろいろ日本各地に住んだことがあるせいかこんな問いを持つに至りました。

例えば東京の言葉(いわゆる標準語)の「のんでだよ」と大阪弁の「なんでやねん」はほとんど意味するところは同じって感覚でわかりますよね。

それがなぜか僕はわからなかったのです。

なんでだよと
なんでやねんが一緒の意味になる、という時の意味ってなんだろう。

大方の人も、僕も便宜上は、感覚でわかるよというとおもうんですが、

では、感覚が意味なのか?

うーんなんかちがう、、

これを一般化して

Aがなんでだよ
Bがなんでやねん としたとき

A=Bとなるためには、
それぞれがA=C,B=Cとなるための
C、いわゆる意味が必要になってくると思うのです。


が、ここで言語ゲーム的な観点から、

一緒になるかどうかから意味なるものを求めてもそれは不毛だと。
そうじゃなくてただ使われてるだけなんだと。
それで後付けで人間が勝手に同じとしてるだけなんだ。

この考えはわりと今のところしっくりきてます。

だからこそ本当は英語の翻訳などもあれは全て後付けで、この日本語とこの映画は同じ「意味」ってことにしておくか、のように。

ただ、まだ心のどこかで意味なるなにかを求めている自分もいます。。

だって意味がほんとうにない、ってなるならここまで言語学が発達することもなかったでしょう。
が、しかし、もう一つの見方をすれば意味を幻想の形として後付けでつけたとすれば、わりと言語学の発達も納得するのかなとか思ったり、、


わかりづらく拙い文章で恐縮ですがこの意見に対してどうお考えになりますか?

ほんと自分の話ばかりであれなんですが横山さんのコメントに対しても後ほど自分の考えと一緒にお返事いたします。

チグバグさん、
意味論と倒語論について、僕は以前ブログで次のようにまとめました。

ルドルフ・カルナップ(1891~1970)によると文の分析の仕方には統語論(構文論)と意味論がある。統語論は、指示対象(その言葉が指している対象の事物)そのものを分析対象とするのではなく、ただ表現と表現の間の関係のみについて分析をする。これに対して、意味論は指示対象そのものを分析する。統語論での語の意味は、語の対象が「どんなであるか」であり、意味論での語の意味は、語の対象が「何であるか」である。統語論での語の意味は、大量の語の関係性の中での語の位置づけであり、意味論での語の意味はそこにある世界そのものについての言明である。

さて、この意味論と倒語論において、倒語論的な意味が言語によって表現され交換されることはそれほど問題視しなくてもよいかもしれませんが、意味論的意味をどう扱うかは様々な思索課題があるように思います。

言葉の意味論的意味があらゆる現実に到達可能であるということにしてしまうと、そこで語られる現実というものは、その言語において想定可能な範囲のものでしかなくなってしまうことになり、それが真の現実かと疑いたくなります。
だからと言って、言語が意味論的意味を語り尽くせないものであるとしてしまうのも、変な気がします。

それで、僕も、その辺りをどう捉えるかにも興味をもって、色々な本に当たっているところです。

横山さん
お返事ありがとうございます。

カルナップの意味論と統語論は耳にしたことはあったのですがまだ詳しく見てなかったので少し興味が湧きました。

横山さんは日常生活と哲学的思考をどうやりくりしていますか?

というのも、哲学的思考にさらされていると僕の場合なんかだと会話しているときだけでも「なぜ会話ができるのか」や、「言葉の意味は今どうなっているのか」が気になり会話そのものに集中できないからです。

もし横山さんがこのような時にどのような対応しているかあれば教えていただけると幸いです。

お返事よろしくお願いします。

横山さん
お返事ありがとうございます。

カルナップは名前は聞いたことあるのですがまだ読んだことはないのでいつかチャレンジしてみたいです。


横山さんは日常生活と哲学的疑問をどのように使い分けていますか?
僕は日常生活を送るにおいても哲学的疑問が頭角をあらわしてきて辛い時があります。

会話をしているときに「なぜ会話ができるのか」と考えたり、「ここで使われている言葉に意味はあるのか」などと考えてしまうと、会話そのものに集中ができません。

このような経験は横山さんはありますか?

多分哲学をしている多くの方々に僕のような葛藤を抱えているとおもうのですがいかがでしょうか。

お返事よろしくお願いします。

ごめんなさい💦
間違えて二つ送ってしまいました💦

チグバグさん、

2つのお答えがあります。

1つは、僕はADHD傾向があって、注意集中が複数の対象には向きにくいところがあるので大丈夫ということです。
シングルフォーカスのため、仕事場でスイッチを入れると仕事以外のことはまるまる忘れてしまいますので、そのスイッチがオフになるまで哲学の興味が起こってくることはすくないです。バークリーは、彼の哲学は唯心論なのに、どうやって日常的な生活を送ってるのかと訊かれて、「仕事場から出れば一般の生活思考になる」と答えたそうです。(本当かどうかわかりませんが。でも)その感覚は僕はとてもよくわかります。

もう1つは、僕の哲学の方向が、反実在論でありながら反独我論でもあるから大丈夫ということです。バークリーの場合だと、その唯心論の哲学内容のままで家族を愛するのは難しいかもしれないですが、僕の場合は思索内容が「生の哲学」に傾いてきたため、逆に、生きることへの支障が消えて来ました。

そんな感じで、僕の場合は哲学にかんしてはなんとか上手くいってます。

ただし、注意欠陥の支障は甚だしいですが。

コメント欄の表示がおかしかったので、二回書き込んでもらうことになったのでしょうか?ニフティココログ、どうも不調なのです

あ、でも、

最近、哲学思考と生活とのぎくしゃくが少なくなってきたのは、単に年齢のおかげなのかもしれません。
これまでのさまざまのコミュニケーショントラブルを思い浮かべると、普通の一般的判断をするまでに思考を哲学的考察の回りでぐるっとまわってこさせなくちゃ納得できないために、そこここで齟齬を起こしてました。

母から「何が善悪か判らないのか」と叱られて、「判るわけないやん」と思ってしまって、すんなり叱られることができなかったり、そのせいでトラブルになったことは数知れないと思います。

でも、それは僕がもともとそのような素直な判断の能力(つまり哲学的に考えないで思考できてしまう能力)が欠けていたためにそうなったのであって、哲学を知ったことは僕にとって逆に救いであったと思います。

哲学思索の内容とは無関係に、
加齢とともに、何事にもあまりこだわらずよい意味で「どうでも良い」と思えるようになってきたので、コミュニケーショントラブルが減ってきた、というのが実際の話かもしれません

横山さん
お返事ありがとうございます。

自分も実はADHDの診断を受けています。
ですが自分の場合は集中力が散漫になってしまうほうなので結構苦労をしています。。

加齢とともに消えていくというのは自分の知り合いの哲学を独学でなされている方もおっしゃっていました。
歳を取るほど生きやすくなる、と自分は勝手に思っています。

僕は、今まで生きてきていつもまずは自分の考えを最優先にして生きていました。
これからもそこは変えないつもりです。

例えば「言葉の意味とは?」と自分で気になったとしても、まずは無茶苦茶でもいいから自分の頭一つで考えてみる。

そこからようやく書籍や文献に当たるという感じです。

ですので僕は自分で組み立てた考えに名前なんかつけて勝手に自分で楽しんでいます。

しかし自分で考えついた論ほど他者には理解されにくいし、なによりここが哲学がわかりにくいとされる所以なのかなとも思っています。
それに僕自身疑問に思っていることがそもそも周りから理解されないことがほとんどでした。

過去の哲学者たちはこうやって自分の言葉で思考をつづったからこそ他者には伝わりづらいんでしょうね。きっと。

ウィトゲンシュタインなんかはまさにこの典型だと思います。ずっと自分の言葉のみで語り続けたからこそ一目置かれる存在になったのかな〜なんて思ったりしてます。


前置きが長くなってしまいました。

横山さんは自分が哲学的疑問をもつにいたったことはありますか?そしてその時、その疑問を他者に話したことはありますか?
それとも興味、または好奇心で哲学を学ばれているのですか?


お返事お待ちしております。

僕の原初の哲学体験は、以下の3つかなと思います。

○母から「何が悪いか判らんの?」と叱られて「判るわけないやん」と思ったこと。

○大リーグボール1号って理屈としてアリなの?と思ったこと。

○「蝿男の恐怖」を観て、転送機で転送されたら死ぬのじゃないか?と思ったこと。
これについてはブログにも書きました。http://sets.cocolog-nifty.com/blog/021.html

まあずいぶんイヤな子供だったと思います

横山さん
お返事ありがとうございます。

自分も横山さんのお母様とのやりとりのようなことは経験したことがあるので、自分んもかなり嫌な子どもだったと思います。


改めて今回この記事では「語の理解」について書かれていますが、これに関してまた僕はいくつかの考えがありまして横山さんにぜひご覧になっていただきたいです。


外国語を学ぶときに多くの人は単語帳や文法書を用いて学習するとは思いますが、このとき単語帳には例えば「apple:りんご」のように書いてあるわけです。

もう一つ。
英語という言語を知りもしない男のことを考えてみてください。
その男はある時英語が母国語の国を訪れそこに住むことになりました。
しばらく生活しているうちにだんだんと現地の言葉がわかってくるようになり、現地の人と何不自由なくコミュニケーションを取ることができます。

もちろんのことですが、この男は英語の単語帳、文法書を用いて英語を学んだわけではありません。
もしかしたらこの男にとっては、「apple:石」なのかもしれません。

ここで僕が言いたいのは、
そんな無茶苦茶なこと有り得ない!とか、
そういうことはあるかもね、
ということでもなく(実際あるとは思いますが)、

コミュニケーションをとるにあたり(辞書的な)意味は必要ないということです。

自分はこのことが言語ゲームの根本だとも思います。

ここで僕の考えとして、
単語帳や文法書は「言語ゲームに乗る(僕は言語ゲームが円滑に行われる状態のことを言語ゲームに乗ると形容しています)」
ために必要なツールだと思っています。

それゆえ先に言語ゲームに乗れている人は単語帳や文法書は必要ないのです。

考えてみればとても当たり前のことなんですが、僕たちが普段日本語を喋りながら、じゃあ日本語の文法を言えるのかというと言えない人がほとんどなのも、意味や仕組みを言えなくても言語ゲームに乗ることはできるからなのです。

故に実際単語の意味を聞いたら個々人で全然違う意味を答えても、言語ゲームさえ円滑に進んでいれば問題ないのです。
ここには単語の意味の正解も間違いもありません。

これに似た考えを横山さんも考えたことあるのかなと記事を読んで感じたので投稿しました。

長文、乱文失礼します。

お返事いただけたら幸いです。

チグバグさん、
コメントありがとうございます。

「探究」の論旨のほとんどは「言語の原初的成立についての意味と条件」だと思いますので、
言ってらっしゃるような考察は「探究」を読むうえで避けて通れないと思います。

そして、チグバグさんが言う

>コミュニケーションをとるにあたり(辞書的な)意味は必要ないということです。自分はこのことが言語ゲームの根本だとも思います。

はまったくその通りだと思います。しかし、

>ここで僕の考えとして、 単語帳や文法書は「言語ゲームに乗る(僕は言語ゲームが円滑に行われる状態のことを言語ゲームに乗ると形容しています)」ために必要なツールだと思っています。それゆえ先に言語ゲームに乗れている人は単語帳や文法書は必要ないのです。

とおっしゃるのは、僕の考える所とはまったく逆です。

「単語帳は言語ゲームにすでに先に乗れている人にのみ利用価値があるツールで、まだ言語ゲームに乗れていない人が新しくゲームに乗るためには全く必要ないものだ」

というように思われて仕方ないです。


横山さん
お返事ありがとうございます。

>とおっしゃるのは、僕の考える所とはまったく逆です。

「単語帳は言語ゲームにすでに先に乗れている人にのみ利用価値があるツールで、まだ言語ゲームに乗れていない人が新しくゲームに乗るためには全く必要ないものだ」

というように思われて仕方ないです。

この点についてもう少し詳しく説明していただけたら有難いです。

また、僕の言ったことについて詳しくいうと、

外国語を話せない(=言語ゲームに乗れない)人は単語帳や文法書を使って外国語を話せるようになる(=言語ゲームに乗れる)

一方もともと外国語を話せる(もっというとその人にとっては外国語が母国語であるから外国語とは言わないけれども)人はすでに話せている故、単語帳や文法書で確認する必要はない。

うーん、、、自分で書いててなんだかこれじゃ伝わりきらないなあ、という気持ちもあります。

言い換えれば、「単語帳や文法書を学べばどうして外国語が話せるようになるのか」ということかもしれません。
しかしこれに対しても「話せるようになるからなるんだ」といういつもの禅問答的答えがしっくりきます。

お返事お待ちします。

なるほど。
僕は勘違いして、母語さえまだもたない人が言語ゲームに乗ってない人なのだと思ってました。

つまり、母語が使用できない人は母語と外国語の変換方法を得たところで宝の持ち腐れでしかないと、そういう話だと勘違いしていました。

母語を習得してるしその上、外国語もマスターしてる人は、単語帳は要らない、という話だったのですね。
それなら、了解できます。

横山さん
お返事ありがとうございます。

このように考えるとわかるのは自分の内面のみで、他者に関してそのふるまいしかわかりえない、ということです。

自分はサールのあげる3つの独我論のうち「他人も心的状態をもっているが、その内容はわからない。(私と違っているかもしれない)」の言説が一番しっくりきてます。
逆転クオリアの思考実験なんかがしっくりきます。

横山さんの書かれている独我論の記事にまだ目を通しきれていないので横山さんの考える独我論も拝見したいかぎりです。

自分はものごころついたときから、自分と他者で「言葉の辞書的意味」を尋ねさせた時、別々の答えが出てきても、言語ゲームにさえ乗っていれば問題ない、

ということが無性に気持ち悪くどこか恐怖すら感じるのです。

横山さんもこの記事で


>たとえば、「或る語の意味を理解する」と言うときには、その語の使用法を理解しているというだけでなく、その語の指す内容をも掴んでいるように思える。

言語ゲームに乗っているとみなが同じ辞書的意味を共有しているという錯覚に陥ります。
しかし考えてみるとそれはおかしいことがわかる。

感情と理屈のせめぎ合いのような・・・

なんともいえないモヤモヤがつねにじぶんのうちにありますね

チグバグさん、

問題にされている思索は僕もたいへん興味のあるところです。しかしそれについて、僕はチグバグさんとは違う理解をしてるかもしれません。
つまり、僕は逆転クオリアがあり得ないと考えています。そもそも、物的存在と相関を持たない現象的意識は有意味に語ることができないので、そのクオリアが「物的存在と独立なクオリア」である限り、それがあるとか無いとかいうことが有意味であるわけがないと考えているからです。
しかし、僕のその考えは必ずしも多数派でないかもしれません。僕にとっては、僕の思考は当たり前のことを言ってるだけに思えるのですが、哲学者の中にははそう考えない人も少なくないみたいです。でも、「クオリアがある」派のほうが多数かというとそれも微妙なようです。

いずれにしても、この問題は、広く色々な思索課題を含んでいるので、思索を分析するしかたは様々だと思います。僕のブログ内の「私的言語批判」のページや「クオリア批判」のページが、もしかすると参考になるかもしれません。貼っておきますので、よろしければ読んでください。

私的言語がダメなわけ1≪「哲学探究」を探求する6≫
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/6-c516.html

私的言語がダメなわけ2≪「哲学探究」を探求する7≫
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/27-5a21.html

クオリアとゾンビと現象判断のパラドクスがダメなわけ<心は実在するか13>
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html

また、僕のいう「有意味」については以下のページでまとめた感じで話してますので、こちらもよろしければ。

無意味とナンセンス≪「論理哲学論考」を論考する4≫
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/4-25ff.html

横山さん
お返事ありがとうございます。

>そもそも、物的存在と相関を持たない現象的意識は有意味に語ることができないので、そのクオリアが「物的存在と独立なクオリア」である限り、それがあるとか無いとかいうことが有意味であるわけがないと考えているからです。


この文を読んで僕は「他人の心がわかる、わからない、ということ自体がそもそも無意味」という思考を思いだしました。

日本の哲学者だと永井均さんなんかがよく述べられていると思うんですが、「他者の考えていることがわからない」とよくいいますが、そもそも「他者の心」なるものが分かった時点でそれは「自分のクオリア」として知覚されていることなので、わかる、わからない以前に語ることが無意味なのです。

横山さんのおっしゃっている「クオリアの非存在」しかり僕の「他者の心」然り、このようなことがウィトゲンシュタインのいう「語り得ぬもの」に含まれているのかな、なんて思ったりします。


しかし僕はもっと単純に、語り得ぬものは表せるんじゃないかとも思います。

今こうやって「言葉」をつかい僕は横山さんに対してコメントを書いていますが、今使われている言葉の意味を問いだしたら、(足場がなくなる、とでも表現すればいいのでしょうか)何も語ることができない。
つまり今使われている言葉の意味、使用方法などは語ってはいけない。もっと直接的にいうと問うてはいけないものなんです。

ゆえに語り得ぬもの、だからこそ沈黙しなければならない。

横山さんの「語り得ぬもの」について教えてくだされば幸いです。

チグバグさん、コメント重ねていただくことができてうれしいです。ありがとうございます。

僕の考えている「語り得ぬもの」はウィトゲンシュタイン「論考」のそれです。
僕は、「語り得ないこと」について、ウィトゲンシュタインは次の4つを言っていると捉えています。すなわち、
(ア)要素命題から全思考が確定されるがゆえにその範囲からはみ出すものについては語り得ないこと、
(イ)モノがいかにあるかを語り得るが、それが何であるかは語り得ないこと、
(ウ)論理や倫理など、言語の前提となる言語のルール設定が語り得ないこと、
(エ)世界の限界としての私が語り得ない存在であること、
の4つです。
(基本的に(ア)が「語り得ない」もののすべてなのですが、そのなかでも特徴的なのが(イ)(ウ)(エ)だと考えています。)

それぞれ以下のページでそれらについての僕の読みをまとめていますので、宜しければお読みください。

(ア)について
要素命題と論理空間の作り方≪「論理哲学論考」を論考する7≫
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/7-96e6.html

(イ)について
ここにあるコレが語り得ないわけ≪「論理哲学論考」を論考する8≫
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/8-71ba.html

(ウ)について
論理と倫理が語り得ないわけ≪「論理哲学論考」を論考する9≫
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/9-1a05.html

(エ)について
私が「私」を語り得ないわけ≪「論理哲学論考」を論考する10≫
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/10-f1f9.html

テスト。
ココログ、まだ、表示が不安定な様子。

横山さん
お返事ありがとうございます。

横山さん(ウィトゲンシュタイン)があげる語り得ぬものの中で、以前の僕が投稿した際の語り得ぬものと、わりと近いなと感じたのは(ウ)論理と倫理が語り得ないわけ かなと思います。

>論理は、そのルール自体を自ら設定することはできない。無理にルール設定をしようとしても、ルール設定をしたその論理文自体に対するルールが必要になってしまい、どこまでも無限後退に陥る。そのルールに従ってその文法で話をすると決めるのなら、もう、えいやっと全ルールを一気に受け入れてしまう必要があるのだ。そうでなければ、自分が語っている言葉の文法をどうすべきか自ら語ることになってしまいパラドクスを生んでしまうのだ。

この部分にすごく共感を覚えます。

論考を経ての探求にむかったウィトゲンシュタインから感じることは、

「原点回帰」

だなと思っています。

というのは、哲学(それ以外にもさまざまな学問がそうだと思いますが)はずっと「〇〇とは何か」、「〇〇がわかっている(または正しい)となぜ言えるのか」などを問うてきました。

しかしまずは何よりも、その〇〇がが使われている状況(言語ゲームの場)を見よ。
問うのはそれからだ。

まず成立している、わかっている、理解している、という事実があり、そこから問うていく、感じといいますか。

ウィトゲンシュタインは何より心的なるものや、不確かな意味なるものを徹底的に排除した哲学者というだけあって、すごく現実味があります。

よく数学の問題を解く際にも、(言葉で言うところの意味なる)「頭の中に解き方、ひいてはなぜそうなるかをわからなけらばいけない」とよく言われますが、僕はこれは後付けだと思っています。

まずは何はどうあれ、「問題が解ける(模範解答と答えが一致する)」ことが先で、解き方やそうなるかは言ってしまえばなくてもいいのです。

心の中や頭という概念を持ち出すと、それこそわけがわからなくなってしまうことが自分には多かったので。。。

横山さん
今日の朝にコメント送信したはずなんですが、今見たら送信されていませんでした。

システムの調子が悪いのか、それとも何か他の原因があるのかなと。。。

今見たら今朝のコメントきちんと送られていました。
お騒がせしました。

チグバグさん、

このブログの管理システムであるニフティココログが3月下旬にリニューアルしてから、色々と不具合が続いてまして、このコメント欄の表示の反応の悪さもその一環だと思いますご迷惑をおかけしてしまい申し訳ないです。

さて、ウィトゲンシュタインが、心的なものや不確かなものを排除して思索をクリアにしたというのは、ある意味ではその通りだと思います。
ですが、その私的言語批判にしても語り得ないものの排除にしても、ウィトゲンシュタインの思索は一貫して心のなかの(論考のいう独我論的な)内容が他者と交換可能な言語で語り尽くせるのだと考えたところに、その思索の本質があるように思えてなりません。
つまり、ウィトゲンシュタインの哲学は、心的内容を排除したのではなく、心的内容が語り得るものだけですべてであることを示した、よりアグレッシブなものだったのではないかと思えるのです。
そこに、僕がウィトゲンシュタインに感じる最も深い魅力があります。

チグバグさん、
コメント欄に書き込んだ内容がすぐに表示されなくてもしばらくすれば出てきますので、申し訳ないですが出てないときは少しお待ち下さい。また、表示がなくっても横山には書き込みは届いてますので、書いたはずのコメントがどこかに行ってしまうことは、今のところないみたいです。

横山さん
お返事ありがとうございます。

>ですが、その私的言語批判にしても語り得ないものの排除にしても、ウィトゲンシュタインの思索は一貫して心のなかの(論考のいう独我論的な)内容が他者と交換可能な言語で語り尽くせるのだと考えたところに、その思索の本質があるように思えてなりません。
つまり、ウィトゲンシュタインの哲学は、心的内容を排除したのではなく、心的内容が語り得るものだけですべてであることを示した、よりアグレッシブなものだったのではないかと思えるのです。
そこに、僕がウィトゲンシュタインに感じる最も深い魅力があります。


自分は横山さんのおっしゃる「ウィトゲンシュタインの思索は一貫して心の中の内容が〜」の部分がよくわかりません。
わからない故横山さんのその意見を批判することもできません。
この部分に関しては横山さんは僕の見えてない部分が見えていると感じます。


少し話が脱線しますが、
自分は今周りに横谷さんと行っているような哲学の対話をする場がありません。厳密に言えば対話をしてくれる人がいない、ということです。

巷では哲学カフェなるものがあり、それにはよく参加しているのですが、どうも自分の求めているものとは違うのです。
(ブログを拝見しましたところ横山さんは関西の方なんですね。大阪哲学同好会なるものもあるんですね。そのような大規模な哲学ができる集まりは自分からしたら羨ましい限りです)


かといって過去の哲学者の書いた文献を読み漁り解釈がどうのこうのというのも違います。


自分は同じ疑問をもった仲間たちとその疑問について対話をしたい、という思いが強くあります。

それともう一つ。
僕は世間で言われている哲学、がよくわかりません。
哲学は学問なんかじゃないと思います。

その人当人が感じた疑問をただ考える。
それが哲学だと思っています。

僕も自分で考えるために過去の哲学者の書いた文献にも目を通します。
しかしそれは自分で考えるためであって決してその学者の思考を完全に理解する目的ではありません。

インターネットを検索してみればウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」だけでも数多の量の解釈が書かれたサイトにヒットします。

僕はどれひとつ取ってもそのサイトの内容を把握したとは言い切れません。

いつもはっきりと「わかる」のは自分の考え、自分の感覚、自分の思考だけなんです。


僕自身(この表現が適切かはわかりませんが)、とても打たれ弱く、哲学カフェなどで自分の考え、意見を述べるとことごとく否定されます。
どんな意見でも肯定される部分はあるはずだと思うのですけれどね。

僕はこの世界はおおきな「思い込み」でなりたっていると思いっています。
言葉が通じるのも、
コミュニケーションが取れるのも、
科学が発展するのも、
すべて壮大なる思い込みだと思っています。


数学、ひいては数は不思議だなと感じます。「絶対」がそこにあるような気がするからです。

「1+1=2」も僕は絶対とは思いません。
(別にクリプキのクワス算のようなものでもいいんですが、)いまこうやって1+1=2となっているのはたまたまで、次の瞬間から1+1=3にんっていてもおかしくないと感じるのです。

論理の正しさは、それがそう語られるところにある、と思います。
A=B,B=C⇒A=C となるのも理由はなくたまたまそうなっているんだなと思っています。

そもそも言語ゲームの立場に立てば、言葉を音節で分解することなどできないと思います。なぜなら言葉そのものに意味はないのですから。
言語ゲームの立場では言葉はただの音であり、しかしなにか気になる音、程度のものでしかないと思います。
(ここらへんのことが中村昇さんの『哲学探究入門』に書いてありました)

すべて思い込みで、思い込みの総体がこの世であり、まさに生だと思います。


まさに支離滅裂な文章ですが、なかなかこのようなことをかける場がなかったので本当に自分勝手ではありますがこの場をお借りして気持ちを言語化してみました。

僕で良ければいつもお相手します。話に来て下さい。
もっと大人数を望まれるなら、

大阪哲学同好会したらば掲示板
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/subject.cgi/study/12216/

を紹介します。
ぼくら大阪哲学同好会の掲示板です。例会に参加されないかたでも自由に議論に参加できます。
一般的哲学カフェよりさらに、種々の意見に対して誠実に議論しようという感じがあって、極度に打たれ弱い方にはキツイと感じさせてしまう側面があるかもしれません。でも、他のよくある哲学掲示板みたいな荒れた感じはないですし、基本的にみんな淑女紳士ですからたぶん大丈夫だと思います。一度覗いてみてください。

また、この世は思い込みでしかないという話はその通りだと思います。

横山さん
お返事ありがとうございます。

「大阪哲学同好会したらば掲示板」に関しましては気が向いたときに参加してみようかと思います^^
自分の哲学の知識、思考力でついていけるのか不安ではありますが興味はありますので。


横山さんも、「この世は思い込み論」に同意していただいてうれしいです。

科学の影響力か世の現象、ひいては人間の心、すべてが絶対的にわかるとされていますが、
実際には「わかる」というのはすべて自分の思い込みで成り立っているものです。


僕はいまは幼少期からずっと「理解とは何か」という問いにこだわってきました。
中学校の頃先生が「理解しろよ」というんですが、それがどういうことなのかわからない。

問題を解けることなのか?
概念を説明できることなのか?

いろいろと考えを深めた今なら、

授業という言語ゲームにおいては「問題を解ける」ことが「理解すること」だと気づきましたが、

「真理を探究する」意味での言語ゲームにおいては「理解する」がなにかわかりません。

チグバグさん、
掲示板は無理しなくて良いと思いますが、その気になられたらいつでも歓迎しますので、気楽に考えてください。

>「真理を探究する」意味での言語ゲームにおいては「理解する」がなにかわかりません。

これも、言語ゲームとして考えるのなら同じかと思います。
石工の親方と弟子のゲームなら、親方が「よし」とか「違う」とか言うので判断できるでしょう。
ペーパーテストなら採点の○×で判断できるでしょう。
物理科学なら理論を実証する実験結果が得られることで判断できるでしょう。
ややこしいのは、言語ゲームとしてこれらをとらえる場合、どれも問題の意味が先に確定されていてあとからその正しい答えが見つかる、というのではなく、それが正しい答えだと判断することが、直接問題の意味を確定させる作業でもある、ということです。
そのような、問題と答えの関係の捉え方で、「真理を探究する」ゲームを考えるとするなら、
まず自分で何が問いたいことなのかが分からないというところから、始まることになりそうですから、
問いと答えを一挙に見つけたときに「求めてたのはこれだった」と自分で感じられることによってその「探究」がなし得たことの検証になるのかもしれません。

という感じで、僕は思いましたが、それこそこの問いは人それぞれなのかもしれません。いかがなもんでしょう。難しいです。

横山さん
お返事ありがとうございます。

>まず自分で何が問いたいことなのかが分からないというところから、始まることになりそうですから、
問いと答えを一挙に見つけたときに「求めてたのはこれだった」と自分で感じられることによってその「探究」がなし得たことの検証になるのかもしれません。

問いたいことがわからない状態で、どのようにして答えを見つけるのでしょうか?
、という疑問がでてきました。

自分で考えてみると、
暗中模索することなのかな、と思います。

特に哲学的議題なんかを考察しているときなんかは問いにもなってない、ましてや答えなんてない状況からああでもない、こうでもないと考えることは日常茶飯事です。
そして自分の感覚が言語化できたと思ったときに答えと問いが一気に眼前に広がるイメージです。


それともう一つ。
どの哲学者の考えを述べる時もそうなんですが、今回だと

「ウィトゲンシュタインは・・・・」
「ウィトゲンシュタインの言語ゲームによると・・・・」

というふうに主語に必ずその哲学者の名前が入ります。
もちろんその人の考えだからというのもあるのでしょうが、このように主語を添えることにより、その考えは「絶対ではない」、いわゆる「本当に正しい考えとは言い切れない」と暗に明示している気がします。

僕個人としては言語ゲームの考えは、「意味」を考えるにおいてほぼほぼそのとおりだと思っているのですが、世の中には言語ゲームの批判というのもおそらくあるのでしょうね。

どの考えを自分が選ぶかはその人個人の自由なので僕はなんとも言えませんが、どうしてもそこで自分とは違う考えを抱いている他者を論破したくなるのもまた人間の性なんでしょうかね。

チグバグさん、
そうですね。言われる通り、自分の哲学を語るのにいちいち哲学のビッグネームを冠付けて言うのは、自分の責任を軽くするという意図が働いてるのかも知れませんね。
また、東京の方の大学の先生が過去の神学者を捏造してその捏造の引用で論文を書いてたのが、最近話題になってたそうですが、それはもしかするとビッグネームによる権威付けを図ったのかも知れないです。

ただ、過去の哲学者の名前をあげて哲学の話をすることのいちばんの目的としては、自分の考えを具体に説明するための道具として便利だってのがあるように思えてます。

でも、逃げ道として使ったり、単なる権威付けとして使ったりしてないか、振り返るようにしたいなぁと思います。

横山さん
お返事ありがとうございます。

言語ゲームに関して自分の思うところをまた少し言語化できました。

言語ゲームは「劇を演じること」に近いと思うのです。

言語ゲーム参加者は台本を渡されており、その通りにただセリフを話しているだけ。

そこに心的な意味なるもの、辞書的な意味なるものは存在しません。

言葉はただそこに使われているだけ。

もちろん帰納的にその劇のセリフを学者か誰かが解明して、「意味」や「文法」なるものをでっちあげることはできます。しかしそれは後付けなのです。

劇を演ずる、
具体的にいうなら

会話をする、独り言を言う(「独り言を言う役」を演じている)、食事をする、会議をする、、
まさに無数の劇があります。

ただ人間は心の中で「言語」を使い思索することができます。
このとき使われている言語に意味はあるのか?

自分は「ない」と考えています。
なぜなら言語は使用されて初めて意味を持つからです。

もちろん一人で思索して、行動に移すことはあります。しかしそれはただ行動に移したのです。
意味があるように感じられるのは、その「一人思索する言葉」に対して意味を与えるような劇に参加し続けていたからではないのかと考えます。

チグバグさん、

チグバグさんのいうように、
言語ゲームを
①すでに規定されている台本に従うだけのゲームであり、
②意味論的意味ではなしに、統語論的意味のみによって成り立っている、
と解釈することは可能でしょうし、そのような議論も実際にあると思います。

ただ、僕はそのような解釈よりも、もっと生と直結したものとして言語ゲームを捉える方がウィトゲンシュタインの意図にそうものになるだろうし、問われる哲学も面白くなるように思えてなりません。つまり、
言語ゲームを、すでに決定された台本による劇場と見るのではなく、劇を演じつつも同時に劇を新たに創作する遊びを為すこと、そのような、冒険的解釈と冒険的実践を一挙に作り上げていく作業こそに、その本質があると考えたいと思っています。そしてそれゆえ、そのゲームは私の生と一つになってしまうために、意味論的意味が問い得るし問われざるを得ないものになるように思われてなりません。

コメント確認

コメント確認

横山さん
お返事ありがとうございます。
(コメント確認2回も送りして申しわかりません💦)


>①すでに規定されている台本に従うだけのゲームであり、
②意味論的意味ではなしに、統語論的意味のみによって成り立っている、
と解釈することは可能でしょうし、そのような議論も実際にあると思います。


実際に議論はあるでしょう。
ここ最近しばらく横山さんとやり取りを続けさせてもらっている中で自分の言語観的立場が少しずつわかってきました。

「言語ゲームを土台(僕の言葉で言うなら言葉の「辞書的な意味」や「心的な意味」は後付けであり、とにかく言葉は使ってみる。どんなに辞書的な意味からでも、使用された内で伝われば意味がある。例 若者言葉なんて辞書から見たら意味も文法も無茶苦茶ですが言語ゲームを形成していまう。) にして、仮に「僕の言う意味」に名前を与えるとしたら統語論的意味論になる」。

たしか統語論的、意味論的と初めて出てきたのは横山さんがカルナップの例を出された時だと思います。

が、本当に僕が無知で申し訳ないんですが、意味論と統語論の区別がよくわかりません。
自分で調べもしたのですがはっきりしなかったので横山さんのこちらのブログでこの2つについて説明してあるものがあれば教えていただけると幸いです。

そしてもう一つ。
>劇を演じつつも同時に劇を新たに創作する遊びを為すこと、そのような、冒険的解釈と冒険的実践を一挙に作り上げていく作業こそに、その本質があると考えたいと思っています。そしてそれゆえ、そのゲームは私の生と一つになってしまうために、意味論的意味が問い得るし問われざるを得ないものになるように思われてなりません。

劇を演じつつ、劇を新たに創作するとはどういうことですか?

僕の感覚では、途中からみな台本なしのオールアドリブで劇を進めるけどうまく劇が進行している、ような感じでしょうか。

最後に
意味論的意味が問いうるし、とあるのは横山さんの言葉を借りると「ゲームが私の生と(私の見ている世界?)と一体化しているから」

だからこそ一体化、となると意味=私となり、意味が自覚されなくなる。

その状態であえて意味を問うならば、意味論的意味(辞書的意味?コンテクスト主義?)に陥らざるを得ないのでしょうか?

お返事よろしくお願いします。


意味論と統語論についての僕の理解は、よろしければ次のブログページをご覧下さい。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-09dd.html

リクエストありがとうございました。國分さん描きましたよ

追記。
記事のなかで僕は一貫してすべてのクオリアが語り得ない(私のクオリアも)としていますが、それは、クオリアを、物的対象と独立で完全に私的なものとして捉えるならばそれは絶対にあり得ない、とする立場です。僕は、現象的な感覚質(いわゆるクオリア)は完全に公的で語り得るものとしてとらえられなければならないとする立場にいます。

横山さん
お返事ありがとうございます。

中国語の部屋の思考実験が意味論、統語論を理解するのにいいのはよく分かりました。

またまた話しがされるかもですが、
いつもこうやって意味の話をするとき、例えば
日本語の助詞の「は」について説明するとき、

....「は」というのは、日本語の、、、

というふうに定義循環といいますか、説明するものを使ってしまっているんですよね。

同様にして意味を説明しようとしてる時点で意味を使っているといいましょうか、、

つまり言葉で言葉を、説明する限り必ず疑ってはいけない(ウィトゲンシュタイン なら解釈といったかもですが)地点があります。

言葉を使わずに言葉の意味を説明できることは果たしてできるのでしょうか。

以下の記事の中程の「語の意味は語の使用のこと」という段落に書いた「直示的教示」の説明がすこし関連すると思います。よろしければご覧下さい。

↑すみません。
リンク貼り忘れてました
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-9fba.html

直示的教示は、あとここにも

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/4-5b1d.html

コメント確認

横山さん
お返事ありがとうございます。


語の定義的な意味など無くなるのかと言えば、そうではない。ただし、これも言語ゲームの中で考えるべきものになるのだ。つまり「これは何か」「これはNだ」と問い答えるゲームの中でのみ語は定義的な意味を持ち得る。語の意味はまず定義的に定まっていてその上で言語ゲームに適応されるのではなく、言語ゲームの中での語の使用され方があってその上で定義も為されるのである。もし無理やりに語の意味を定義によって決めてしまおうとしても、その語がまだ何にも働いていないのだったら、その語は語として成立していないのである。

語の意味とは何か<「哲学探究」をまとめました上1>におけるこの部分は自分もすごく納得できます。

語の定義的な意味は、「その定義的な意味を問う言語ゲームの中」でのみ存在しうる。


自分はこうやってああでもない、こうでもないと考えているときに、どうしても哲学的(学問的)なこととなると反論が思うかんだり、それを否定する人や論があるものですが、

僕にとっての幸せというのは、「自分が正しい(これだ!)と思った考えを、自分が納得するからという理由だけで保持して生きていく」ってことだとぼんやりと思っていまして、

自分の考えに(例えば、「意味とは何か」に対する答えも自分で考え出した答えに従う)率直に生きることが楽な生き方、幸せなのかなとここ最近ずっと思ってます。

まあ、それがなかなかに難しいんですけれどもね。

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