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2012年8月29日 (水)

「語の理解」の基準≪「哲学探究」を探求する15≫

語の意味が語の使用にあるとウィトゲンシュタインは言う。たしかに語の意味が使用にあるのだという取り決めにしてしまえば、いろいろな問題が片付いて都合がいいのだろうが、しかし、語がもともと持っている語自身の内容というものもあるのではないだろうか。それを意味と言ってはいけない理由があるのだろうか。
たとえば、「或る語の意味を理解する」と言うときには、その語の使用法を理解しているというだけでなく、その語の指す内容をも掴んでいるように思える。僕らが語の指すものを画像としてイメージできたのであれば、語の意味はその使用にあるとされる以上の内容を持っていると言えるはずだ。また、「理解する」という動詞語は、脳や心の状態を表していると言ってもいいと思える。「理解する」という語に対して脳や心の何某かの状態が対応しているのであれば、語の意味はその使用にあるだけでなく、内容を持っていると言えるはずではないだろうか。
そこで本節では「理解する」と「読む」について考え、その意味するものが脳や心の状態でないこと、そして、確定できないようなあいまいな基準からしか得られないものであることを、見ていきたい。

 

理解が心の状態でないわけ

例えば「立方体」という語について、「立方体」と聞いて心に浮かぶイメージこそがその語の意味ではないのか。ところが、これはうまくいかないのだった。前節までで考えてきた規則のパラドクスがこれを許さないのだ。規則のパラドクスは、規則の解釈がどんな方法をとっても一つに決められないことを言っていた。クワス星人は「+」をクワスと解釈してしまう。そして、そのクワスの解釈をプラスの解釈より劣っているものだとすることは原理的にできなかった。「+」をプラスとして解釈すべきだと考えることが必然では決してないのだ。また、たとえば、「一人の老人が杖に身を支えながら険しい道を登っていく姿」(「探究」第139節)の画像を見て、火星人は坂を滑り落ちていると解釈するかもしれない。だから、つまり、「立方体」という語からどのようなイメージを持つことも理論的には可能であり、イメージをどのように解釈することも可能であるのだ。だとしたら、語の意味を語のイメージとして捉えて解釈する「語の意味の解釈説」には問題があることになる。

 

語の使用法のすべてをはっきりとさせられないこと

このことから、語の意味は使用にあるとしなければならないと考えたわけなのだが、その「語の意味の使用説」は大丈夫なのだろうか。「立方体」の意味が使用だけなのであれば、「立方体が理解できた」ということは「立方体」という語を使用する全ての場面をあらかじめ心の中で準備して考えておくということなのではないだろうか。しかしそんなことは無理だ。だから、語の意味の使用説もダメなのではないのか。
このように考えると、語の使用説を採る場合でも、語の使用法のすべてがはっきりしているときにだけ語が理解できるのだとするような単純な捉え方ではうまくいかないことが分かる。家族的類似のあいまいさのアイデアが適応されて、使用説ははじめて使える用語システムになるのだとウィトゲンシュタインは考えた。語の使用の仕方を家族的類似のようにあいまいに捉えて、結果的にうまく適応する場合にのみ、その使用が使える語の意味だと考えるようにするのだ。

 

言語ゲームが成立するときにのみ語が意味を持ち得ること

「正常な場合にだけ言葉の使用のされ方が明確に指定されている。我々はあの場合この場合にどう言うべきかを知っており、疑いを持たない。異常な場合になればなるほど、何を言うべきか疑わしくなっていく。」(「探究」第142節)
語を使ってみて結果的に言語ゲームが成立する状況があったとき、そのゲーム内の正常な場合に限って語は意味を持ちえることになる。語の使用が家族的類似のあいまいな範囲からはみ出てしまうような場合ゲームは成立せず、語の意味は崩壊していくことになる。たとえば、目の前にりんごがあることに合意できる者同士であれば、りんごの様子について語り合うことができるが、眼前の世界があることさえ合意できない者同士で「りんごの赤さ」を語ろうとしても「りんご」や「赤さ」や「世界」や「実在」が何を意味するものなのか分からなくなってしまうのだ。

 

出来るか否かだけが理解の基準であること

「・・・教師の苦労ののち、生徒が数列を正しく書き続けていくと仮定してみよう。そうすると、今我々は彼がこの体系に精通していると言うことができる。しかし、我々が正当にそう言えるためにはどこまで彼が数列を正しく書き続けなくてはならないか。ここにいかなる境界もないことは明らかである。・・・そこであなたは「人が数列のこの数やあの数まで書き続けられることなどは、単に理解のいろいろな使用例であるに過ぎない。理解そのものは一つの状態であってそこから正しい適応が生まれてくるのだ。」と言うだろう。・・・しかし、いろいろな使用例は理解の基準であり続けるのだ。」(「探究」第145節)
「理解」そのものは脳や心の或る状態であって、その状態になっているからこそその結果として数列が書き続けられたり、問題が解けたりするのだと一般的には思われているかもしれないが、そのような脳や心の状態こそが理解だとする考えなどどうやっても確かめられない空論でしかない。実際には、数列が書き続けられたり問題が解けたりすることが、「理解」の結果としての「徴候」と捉えられるのではなく、「理解」の定義としての「基準」と捉えられなければならないのだ。ただし、ここで、この数列がどこまで書き続けられれば正しく「理解」していると判断すべきなのかという、客観的な神に視点での「基準」などが存在するわけではない。「基準」は、家族的類似のあいまいなままその場その場の言語ゲームの状況に応じて変わり得る、不確定なものとしてあることになる。語の意味を理解することの基準は、結局、語の意味のいろいろな使用であるのだ。つまり、語が理解できたということは、語が正しく使えるということと、完全に、寸分違わず、等しいものであり、ここにこそ基準としての楔が打ち込まれるのだ。

 

説明できることが理解の基準ではないこと

もし、規則を見つけてなくてもちゃんと使えれば、それは「理解」したと言っていいのだ。もし、規則を見つけたと思ってもちゃんと使えないのなら、それは理解したとは言えないのだ。
「・・・次のような例を思い描いてみよう。Aは数列を書き出している。Bは彼を見て、数の系列の中に法則を見つけようとしている。・・・Aは「1,5,11,19,29」という数を書いた。そこでBはその先を知っていると言う。・・・たとえばBは「an=n2+n1」なる式を試したのかもしれない。・・・別の場合Bは・・・「項差の数列」を考えて「4,6,8,10」になることを見出した。・・・或いは「あ、この数列なら知っている」とただ数列を書き続けていく。」(「探究」第151節)
「Bが数列のシステムを理解する」ということはどっちみち単純に「
an=○○」なる式に思い至るということではない!」(「探究」152節)
「理解を<心的な出来事>などと決して考えるな。どのような場合に、どのような状況下で我々に「その先を知っている」と言うのかと、代わりに問え。」(「探究」154節)
実際の場面では、どんな状況下でなら理解したと言えるだろうか。それは、結果的に正解していた場合だろう。その数列の次に何が来るか理解しているというのは、その数列の次に何が来るかを言い当てられた場合のことなのだ。式に思い至ったからと言って正解できるとは限らない。逆に、式が思いつかないからと言って、正答できないとも限らない。
多くの日本語生活者は日本語の助詞「は」と「が」の使い分け方の規則について説明できるわけでもないのに、正しく使い分けできる。規則を理解しているというのは、説明できるということではなく、正しく使えるということなのだ。つまり、数列の次に何の数が来るかを理解しているというのは、式に思い至ったということではなく、正しく答えられるということだとすべきなのだ。
ただし、このような判定の仕方では、ただ分かったと独りよがりの勘違いをしているだけなのか、本当に分かったのかを、区別できないかも知れない。しかし、「本当」に分かったなどという神の視点など最初からないのだ。出来るということが、正しく理解したということそのものなのである。

 

「読む」の基準が確定できないわけ

この基準の考え方についてウィトゲンシュタインはさらに「読む」という活動について考察している。
ここで考えられている「読む」は、音読などの意味であって、文を理解するという意味ではない。そのような「読む」活動についてだと決めているのであるが、そう定めても、何をもって「読ん」でいるとすべきかをはっきりさせることができないとウィトゲンシュタインは言う。
「・・・たとえば、新聞を読むときに、読んでいる物に注意を払うこともできるし、単なる読取り機会として読んでいる物に注意を払わないでも正確に読むことができる者もいるだろう。これと比較して、初心者は苦労して文字をたどりながら読む。しかし、いくつかの語は前後関係から推測したり部分的に暗記したりして読む。このとき教師は彼が本当は読んでいないと言う。」(「探究」第156節)
読取り初心者と熟練者とでは「読む」の基準が異なるのだろうか。初心者がテキストを暗記して諳んじている場合、これを教師は「読ん」でいるとはしない。この理由が、脳や心が「読む」に対応する状態ではないからということであるのなら、熟練者がテキストに注意を払わないで音声化していることも「読む」には当たらないはずだ。つまり、心に何かを思い浮かばせながら音声化する作業を「読む」と定めれば良い、という単純な話ではないようなのだ。
では、もっと簡単に考えて、「テキストの音声化」を「読む」とすると定めれば問題は解消するだろうか。
「「誰しも手本からその複製を導き出しているなら読んでいるのだという説明」を調べよう。・・・いま我々が誰かにキリル文字のアルファベットを教え、どのように各文字が発音されるかを教えたとする。そして、或る章句を示し、彼が各文字を教えられたとおりに発音しながらその章句を読むとすると、そのとき、我々は彼が規則の助けを借りて或る語の音を書字から導き出していると言うだろう。そしてこういうことも読むことのはっきりした事例なのである。・・・」「しかし、この際に彼が常にAをbに、Bをcに、というふうに進んでZをaに書き換えるとしたらどうか。これをも我々は表による導き出しと呼ぶだろう。・・・彼が一つの書き換え方を継続せず、或る簡単な規則にしたがってそれを変更すると仮定してみよ。たとえば、いったんAをnに書き換えたなら、次のAはoに、その次のAはpに書き換えるといったぐあいに。だが、このやりかたと不規則なやり方との境界がどこにあるのか。」(「探究」第162・163節)
単純にテキストの音声化を読むとしてみても、どこまでが正しい音声化なのかその基準は、あらかじめ定めることはできない。神の視点での客観的なオールマイティーな基準というものがあるわけではないのだ。結局、その場その場の言語ゲームが成立するときにそれを成立させえるような基準を選んでいくという、かなりあいまいな方法しかないのだ。事前に基準を決めておくことはできない。実際に、ゲームを進めていきながらそのゲームを作っていくしかないのである。

 

まとめ

ここまでの考察は、次の3つの事柄を明らかにしようとしたものである。
①「語の理解」とは、脳や心の状態ではないこと。
②「理解」しているか否かの基準は、それができるという行動にのみあること。
③「理解」の基準は、家族的類似的なあいまいなものであり、あらかじめ客観的に神の視点で設定しておくことができず、言語ゲームの中でその都度設定するような不安定なものでしかないこと。

だらだらとした文になってしまったが、論がきちんとつながっているだろうか。
理解の基準が行動であるということは、言語ゲームのアイデアが行動主義を意味するものではないのか、という疑問が湧いてくるが、ウィトゲンシュタインはこれを否定し、また無限に対してゲームがどのように対応するのかを考えていく。だが、それはまた次節で考えていきたい。

つづく

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