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2012年7月13日 (金)

独我論を論駁する3≪「哲学探究」を探求する11≫

私的言語を批判するウィトゲンシュタイン、を批判する永井均、を批判する僕、を批判する

 

第3の独我論

第3の独我論は、世界が私の私的言語によって成立するという考え方である。ウィトゲンシュタインが呈した私的言語の不可能性を認めず、私的言語があってはじめて言語も世界も成り立ち得るとする言語論的独我論だ。
まず、ウィトゲンシュタインの私的言語批判はこうである。言葉の意味とはその使用であり、言葉が使用されないなら、その意味を確定させることはできない。すべての言葉は使われることによって、言葉同士が対比され、或いは言葉と世界が対比されて関係しあい、確かめられることで、語の使用者自身も、はじめて語の意味を知ることができるのだから、私的言語は不可能である。
これに対して言語論的独我論に近い立場から、永井均は次のように異を唱える。
「ウィトゲンシュタインという哲学者は「私的言語」というものが可能か否かを論じて、不可能であるという結論を出したのですが、あの議論ははっきりと誤りで、私的言語がなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は完成するのですが、ただそうであるということを通常の公的言語で語ろうとするとそのこと自体は公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので言わんとすることが言えない―言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう―ということが起こるのです。」(永井均「なぜ意識は実在しないのか」p36)
たとえば「痛い」という言葉は、もともと自分が痛がっている仕草の様子に対して他者から声かけられ、仕草に対応するものとして導入され言語訓練されていくのであるが、その後自分自身で「痛みそのもの」を自覚し、「実際に痛むこの感覚のクオリア」を私的言語として(転じて)理解することによって、言語が完成すると永井は言うのである。
この永井の考え方の方が、ウィトゲンシュタインの説く語の意味よりも一般的であり、独我論者だけでなく万人に受け入れられやすいものだろう。しかし、僕はウィトゲンシュタインの方が正しいと考えている。

 

語の意味を捉えるには公的言語に頼る以外ない

具体的に考えよう。たとえば、今パソコンのディスプレーに[R192.G0.B0]の色が見えているとき、私はこれを「赤」と呼ぶ。そして、この「赤」という語が、「この今この眼前にありありと私に見えている『本当の』赤色」のことを、つまり、私のクオリアに現れている発色のことを指しているのだ、と考えるのが永井のいう語の意味である。語の意味をその使用だとするのではなく、それよりも根源的な意味として、この私への現れだとしてしまって楔を打つのだ。一般的で常識的な語の意味の捉え方だと言えるだろう。
R192_2
しかし、ウィトゲンシュタインによると、この言葉の捉え方は私的言語に頼っているためうまくいかない。私が私のクオリアでもって語の意味を確定させようとするとき、その語の意味の同一性を担保するための比較対象が必要になり、その対象と比較し得た時点で、それは私的言語でなくなり公的言語に成り下がってしまうからである。私のクオリアに現れているこの赤色をたとえば「赩(キョク)」と名づけたときに、この「赩」という語の意味を自分自身で私的に捕まえることができるか、が今の問題である。しかし、これまで見てきたように、私的な語を私的なままで、その意味を確定させることなどできないのだ。「赩」の意味を確定させるためには、何らかの方法で、何某かの色見本になるようなもの(たとえば昨日見た赤とんぼの色の記憶)と比べなければならない。そして、どんな類の色見本だったにせよ、色見本なるものと比較した時点で、それは公的言語となり私的言語ではなくなる。なぜなら、色見本と比べ得るということは、語の同一性を計るためのルール設定ができているということになるからだ。逆に言うと、ルール設定ができるということは語の同一性が確認できるということであり、そして、それは他者に主張し得る内容であるということに他ならないからである。
つまり、語の意味を捉えようとするとき、私的な語と思っていたものは公的な語にすり替わってしまい、この私のクオリアへの現れを表しているものではなくなるのだ。だから、私が私のクオリアのみをもって、私的に、語の意味を確定させることはできないのだ。

 

私的クオリアこそ語の意味か

だが、しかし、永井はそんなことが無理であることなど百も承知した上で、私的言語から始めなければ言語は完成できないと言っているのじゃないだろうか。だって、世界は私が実際に開闢しているから、ここに存在しているのであって、私が実際に感じている「これ」が無いなら、世界はその存在自体を失ってしまうんじゃないか。私が感じている「これ・このクオリア」があってはじめて世界は存在するのだから、このクオリアの私的な存在を認めないなら、そんな世界記述なんぞ、元々最初からスタートが切れてないものでしかなかったと言わなければならないのじゃないか。この永井側の話の方が圧倒的に当たり前の視線に思える。永井はこうも言う。
「たとえば私は、外部からそれとわかる脈絡や表出(転んで顔をしかめるとか)といっさい無関係に、自分に向かって断言できる。「私がいま感じているのは、私がずっと『痛み』と呼んできたものである」と。「痛み」というだれもが知っている語が使われていてもこれは私的言語である。なぜなら、他のだれがどう言おうとこれは私が「痛み」と呼んできたものだと言っているのだから。」(永井均「私・今・そして神」P197)
Photo
私が「痛い」と呼んできたものをいま感じている

私が実際に感じている「これ」があってはじめて世界が立ち上がるような、根源的に私的な出来事「これ」がある。たとえば「これA」は私がずっと痛みと呼んできた感覚である。だから、これは「痛み」と呼ぶべきものである。このときこの「痛み」は根源的に私的な言語である。私的なこの「これ」は私がずっと「痛み」と呼んできたものだから「痛み」という公的言語で語っているけれどもその内容は、私的なものであり、私的な言語理解によって表現しているのだから、これは私的言語である。―と言うのだ。

 

私的クオリアと言語の決定的断絶

しかし、あぁ、だがしかし、この話には誤解があるのだ。私が実際に感じている私的な「これ」と言語との間には、決定的な無限の深さの断絶が存在するからだ。私の私的な「これ」は言葉で言うには、どこまでも逃げていってしまい、結局比喩でしかなくなってしまうようなものなのだ。言葉に乗せた瞬間に断絶のこちら側に来てしまう(向こう側に行ってしまう)からだ。私が感じているこの私的な痛みを「痛み」と呼ぶとき、私のこの私的な痛みのクオリアは、言葉の「痛み」に成り下がってしまって比喩になってしまう。言語化という行為が、私的なこれと言語との間にある決定的な無限の断絶を渡らせてしまうのだ。だから、「私が感じている私的な痛みが本当の『痛み』なのだ」と発言するその行為自体が、私的世界と言葉との断絶を渡ることそのものになってしまい、発言内容が間違いになってしまうのだ。
ウィトゲンシュタインの言う私的言語とは原理的に他者に伝えられない言語であり、それゆえ、原理的に自分自身にも理解不能な言語である。だから、それは実際には何物をも指し示すことができず、言語の役割を果たすことができない言語もどきでしかない。もし、言語としての何かを指し示すことができるのであれば、それは公的言語にすり替わってしまったと考えねばならない。
だから、永井が「私がいま感じているのは、私がずっと痛みと呼んできたものである」と発言することで私的クオリアを私的言語として表現し結合することができるとしているのは、この点で論の飛躍があり、私的言語の意味を取り違えているか何か、(無理をしているという以上の)勘違いがある。

 

第3の独我論がダメなわけ

ここに一つの私的クオリアがある。これを、私がずっと痛みと呼んできたものだとするには、必ず過去の対照となる私的クオリアと比較しなければならない。そして同じ「痛み」と名づけて言語化することによって同一性を担保するという主体的な行為をしなければならない。しかし、この言語化という行為は、同じ痛みであったから同じく「痛み」と名づける判別行為ではなく、同じく「痛み」と名づけるから同じ痛みにする分別行為なのだ。何物かが何物かであるとき、それを名指すための客観的な「神のものさし」など存在しない。人間が、或いは私が、その物を名づけて言語のものさしに当てはめるから、その物ははじめて何物かに成るのだ。そして、言語のものさしに当てはめられて比較されたその何物かは、言語化によって、必ず公的言語に成り下がってしまうのだ。永井の言う「私がいま感じているのは、私がずっと痛みと呼んできたものだから、『痛み』は私的言語である」という発言は、もし、自分のルール設定で(自分勝手なルールだとしても)ルールに正しく当てはめられたのであればそれは公的言語でしかないので、間違いになる。そして、もし、自分の思い込みによってルールもなくでたらめに「痛み」という言葉に当てはめたのならば、それは私的言語といえるかもしれないのだが、ただし何の意味も持たない、言語もどきでしかないものなのだ。だから、無意味である。つまり、「私がいま感じているのは、私がずっと痛みと呼んできたものである」という発言は、間違いであるか、もしくは、無意味であって、いずれにしてもダメなのだ。
こうして、「世界が私の私的言語によって成立する」という第3の独我論は否定される。

 

前節からの宿題

さて、前節で、「世界の限界としての私」私Aが心の中で思うだけであれば、「世界は私の世界だ」という文は有意味であり、この認識論的独我論は可能なのではないかという疑問が、残っていたが、これについても、本節の検討によって、それが不可能であることがはっきりしたと言えるだろう。私Aが心の中で思うだけであっても、それは公的に他者と分かち合える世界でしかなく、独我論と呼べるようなものではないのだ。

 

語り得ないことの向こう側

以上で、僕の独我論論駁は終わりである。
しかし、ここまで考えても、永井の論説はそれさえも踏まえたうえで、無理や間違いを承知して言っているのだろうと思われる。「ただそうであるということを通常の公的言語で語ろうとするとそのこと自体は公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので言わんとすることが言えない―言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう―ということが起こるのです。」という一節がその無理の向こうを語ろうとしていることを示しているからだ。語り得ないことの彼岸を語ろうとしているのだから、一般的な論理考察なぞしても仕方がないということなのだろうと思う。この辺りが独我論問題の、難しくて、難儀で、魅力的で、悲しくも無意味なところであろう。

つづく

「探究」を探求する目次

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コメント

永井の問題は独我論とは考えていないものです どっちかというと独在性の問題 もっと近しいのは開闢 まあつまり
「並び立つ私がいて当然だろう 正直我が独りなんていう考えも直感もないわさ」
「<A>にとって考えたいのはとにもかくにもなんで<こんなところ>から開けてるのか!」 問題だと考えております
というわけで永井の独在性論はウソッパチなんですね なぜかというと開けてるのは何故か!<A(こんなところ)>からだからです 永井の論はありがたい?残念?なことにわざわざ<私(A)>のために論を展開してるという形をとっているのでして呼び水なのではあるが真水じゃないわけです <A(私)>の根底に流れいるのが真水で わざわざ揚水してくれたわけです とはいえ呼び水(しかし真水にあらず)として非常に有効なのでありがたい存在ですが なんていうかむちゃくちゃをいうと 「永井に悪いなぁ だってこれほどの論を展開してるのに <ここ>は<A>からであり「永井」から開けてなくてさ!」というわけですね 永井は絶対に認めないでしょう(永井こそ真水がわく源泉だろ!と考えているでしょう)が
もちろん単純に「ここから開けてる だから私が中心だ」というのもどうにも腑に落ちない部分もあるわけです (永井もいっているようですが) あまりにもできすぎた話なわけで ですからメタにインチキ(勘違い)なんじゃないかという匂いはあるんです その辺はまだよくわかりませんが…
ですから実は私は独我論者にとってどの様に世界がみえるのかがよくわかりません 永井も独我論者?に「永井は独我論がわかってない」と突っ込みを入れられて困ったらしい?ですが どうにも私と近しいものの見方というか 問題を考えてるのではないかと考えております そしてその考え(開闢の問題の考察)を進める(場合によっては戻る)為に散々様々な他者の論をこき使ってるような気がします とことん貪欲かつ性格が悪いんでしょうね
まあなんにしろ考えるための道具?が言語しかない(と思っている)ので 必敗は約束されてるような思考というか 無理な突撃です 今展開した論?に対しても反駁や論駁はいくらでもできるでしょう 当然ですね とはいえ今のところ非常に面白いので考えることをやめられないというのが正直な気持ちです

Aさん、こんばんは。ていねいなコメントありがとうございます。

独我論と独在性についてしっかりとご自分で考えてこられたのだろうなと思いました。自分の言葉で、考察しておられるので、その内容がとてもよく分かります。「真水」の言い回しなぞ大変面白いです。

言葉の使い方について、永井均と僕とでは違うので、違和感を覚えられるかもしれませんが、「独在性」と僕の言う「言語論的独我論」とはかなり近いところにあると考えています。
「私の認知によって世界が開闢し、そしてまた、言語化によって世界が成立する」という言い方をするときに、この「認知」と「言語化」、「開闢」と「成立」が一致するとするなら、おそらく、Aさんの「独在性」と僕の「認知的独我論」は一致します。そして、これが一致するなら、このブログ本節で僕が示したことを根拠として、「世界の中心は私」という言説が偽だと判断すべきものになると思います。また一致しないなら、世界の中心は私」という言説が無意味だと判断すべきものになると思います。

僕の興味とAさんの興味がおそらくずれているので、関係のないことを返答していると思われるかもしれませんが、僕は大変面白いところを考えておられると興味津々です。よろしければ、またご意見ください。

大変親切なコメント恐れ入ります 正直言いまして その無意味のほうだと考えます なぜかというと恐縮ですが 私の文はあくまでも<A(私)>自身に対してつぶやいている一人ごとなわけです つまり触発されて書いてしまったわけです 私もまるっきり無礼ですね
そして私の文の間違い?ですが <私>によって中心化された とはおおざっぱないいまわしであって中心という考えは特にないんです 問題はとにかく <現にここから開かれている> というものです もちろん一人ごとだろうが 今の説明だろうが 言葉に乗っかっちゃってるんで 無意味なわけでして でおそらくですが その無意味を承知で突撃してるわけです 生意気をいうとその突撃をしちゃってるアホ?がもう一人永井という考えです 今のところ そして独我論につきもの?の問い たとえば「その私ってだれ?」という問題には関心ないんです つまり「そのわたしはAである(でない)」という考えをするしないに対して関心がおきません 
そしてですね SF的なことをいうと 宇宙人?がやってきて「言語じゃない何か 考える道具(おおぱっぱな言い方ゆるしてください 矛盾してるのはわかってます)をあげるから それは言語じゃないので一般化しないから すべてを明らかに引っぺがすモノだよ!」といってくれてその道具をもらってですね<なんでこんなところから開かれてるんだよ!>という謎? 問いに対して なんと!考察を進めることができても <ここから開闢しちゃってる>のが なんていうかメタインチキなんじゃないか ひどい勘違いしてるんじゃないか ということに強い関心があるんですね んでそうやって四方から攻撃?を受けて完敗して で「開かれ方」が勘違いだ間違いだ と考えてもですね でもやっぱりそうやって負けてヘタっているのはやはり<ここから>、<で、なんでこんなところから開かれてるんだよ!>になるわけですね もちろんウロボロスのように続くわけですが(笑) 
正直なんでボクは生まれてきたんだろう! というような疑念というか問いはなかったし今もありません 中心化されてるという気もしないんです あと永井の弟子の青山氏という人が「本を読むとフムフムと思うが、しかし本を閉じるとどうしてこういう独在性の問題が伝わるのか?」というような疑念を抱いてますが そういう考えにビックリするわけです なぜなら永井なぞ<私>ではない以上 せっかく考えてるのに<ここからひらけてないので>残念でした!という対象でしかないからです つまり徹頭徹尾伝わってないわけですね というわけで永井の論は偽の問題定義であり ですがすばらしい思考展開でありがたい というのが率直な考えです とまあ こういう論も言語である以上(もちろん一人ごとのつもりですがひとりごとも言語にたよるしかない以上)一般化されてしまうので やはり無意味という結論になるのは当然でしょう しかし残念な?ありがたい?ことに 巨大でどんな攻撃にもビクともしない風車に挑むのをやめるのは先になるという感じです

Aさん、こんにちは。
僕は以前、このブログで次のように書いてウィトゲンシュタインとカントを対比しました。

「カントは、物自体が存在するからこそ、観念論に陥らない客観的な世界を見出すことができるとし、しかし、人間は物自体に到達することはできないとした。これに対して、ウィトゲンシュタインは像(命題)が「完全に」世界の現実に達することができるとする。だから、逆に言うとウィトゲンシュタインの世界は像によって「完全に」語り得てしまう対象でしかないのである。つまり私が立ち上げた像によって世界の様子が確定されてしまうと言えるし、命題こそが実在の根源的本質であるとも言えるのだ。これが、「前期ウィトゲンシュタインの言語的転回」である。」

ウィトゲンシュタインは、だから、言語の向こう側には語りえない何かがあるのではなく、何もないこと、それゆえ、語りえないものについては沈黙せねばならないことを説いたのだと思います。
これに対して、永井やAさんは、言語の向こう側(こちらがわ?)に語りえない何か私的世界があるとする立場なのではないでしょうか?
カントが物自体を考えたのとはまた別の、言語の向こう側があると・・・・。この私的世界とは、私の眼前にいま広がっている「これ」のことなのですから、その存在は当然と言えば当然にも思えます。
しかし、ウィトゲンシュタインフリークの僕としては、その語りえない私的世界があるというのは単なる幻想なのではないかと勘繰っています。

いかがでしょうか?
言語の境界ぎりぎりを考えるのって面白いですね。

わざわざのご返信痛み入ります。正直申しまして横山さんのように哲学的な思索をなさる人に畏怖を感じているんですよ。私には思索を重ねるという粘りが足りないというなんともトホホな部分が多く、拝聴に頼るというヘタレでして。永井も哲学的な思索を重ねるタイプですが、多少哲学考察する人間のなかではあまりにもちゃんとしてないように見受けられます。(もちろん最大級の賛辞という側面もありますが)
考えたんですがやはり<私(A)>の問題は「言語の持つ圧倒的な力、無力さ、恐ろしさ」と「とにかくこうある、存在する、存在への驚愕と恐怖」という二つから「ずれている」というのが今のところの見解です。二つ(言語と存在の哲学)の思索を読んで聞いたところ「やはり哲学はすげーなぁ」と感動はしたんです。そしてその二つからアプローチする(せざるを得ないとは考えてますが)のが問題の中心へ行くための方法?かもしれんと考えてはいたんですが、どうにもやはりずれ(というより無関係性)があるのではないか。というのが今のところの見解です。「存在する、とにかくこうである」ということに驚愕しそれにたいして考えるという人がいてくれるので、そこからアプローチした考えを永井が利用はしましたが私も永井もどうもずれを感じているようです。つまり問題は「存在」にあるのでは「無い」のではないか(しかし存在を考慮せずに考えることもできないんじゃないのっていう悩ましさはあります)。言語からのアプローチの言語哲学から永井はさまざま考えています。正直先達の言語への思索に圧倒されますが、それでも永井にしろ私にしろやはりしっくりきてないようなずれを感じるんです。永井は言語を持たない動物が<主体>であっても。とか前言語的な、言語を持たないただたんにそこから開けてる<主体>であっても。やはり<なんでこんなところから開けてるんだよ!>性は担保されるのではないか!と言ってるんです。これは間違ってるというか矛盾があったりおかしかったりするので、おそらく永井も言うことに恐怖を感じながら書いていたと思うんですが、そういう「デタラメをあえて」書かないとどうしても<どうしてこんなところから開けちゃってるだよ!>問題の特殊性?を発露することができないのではないかという考えなんです。つまり<A(私)>にとってですね「ああそうなんだよ、それなんだよ」と納得(もちろん危険な納得ですが)して、さきほどいったずれ(無関係性)よりも中心にずっと近い(近づいてる)という気がしちゃうんですね。
近い(近づいてる)問題への感覚としては、失礼を承知でかきますが「永井やAはうんぬん」という一緒くたにされる感じがどうにも「<ここから開けてる>んだから開けてない永井と同列にしないでくれ!」という生意気な考えがどうしても頭をもたげてしまうんです。問題の問題性からいいまして「永井(の問題)なぞ偽で無いも同じなのである、思索は利用させてもらうけど!」ってやつです
ただやはり言語や存在が<私>の問題?を包括しちゃってはいるのではないか。逃れることはできんよ!という悩ましさもあり面白さもあるんです。
なんにせよ初発がとにかく徹頭徹尾<なぜこんなところから開けてるのか!>でありそれのヘンテコ振りに鉄槌がくだりヘタるわけです「へたってしまった…完敗だ 開闢問題なぞ最初からないんだ…」と、しかし、しかしですよ残念なことに?ありがたいことに?<なぜ完敗したこんなところから開けてるんだよ!>とまたもや!なるわけです 人から見ると(上からみると)ぐるぐる回ってるように見えるかもしれませんが 螺旋階段のごとく自分は回りながら「上がってる」か「下がってる」つもりなんですね。
この問題?はあくまでも「分母」なんです。世界側が「分子」であり<こんなとっから開けてる>という側が分母であり、その分母は無限大というのがしっくりくる(しかし乱暴この上ない)例えです。ですので分子(世界側)は基本実数なんで、どんだけ<私>の世界、人生がすごかろうがどうしても実数/無限大=0 なわけです。ただし世界側にも「私」はいますのでそれを(世界を人生を周りの人や動物や環境やモノを)考慮せずに生きていることはないんですね。ただし根源的?にどうしても「0」になってしまうので、なんていうか世界の端にいるような態度、こころづもり、になってしまうんです。ろくなもんじゃないですが… 「神」は分子側の話なのでおそらく永井も私も自分が神だと考えないんだと思います。「神」は分子側の無限大かもしれませんが。(無限大/無限大の答えはどうなるんでしょうね)
長々とした文でしたが、コンピューター(ネット)というものは本当にありがたいです。さまざまな思索に触れることができるので。横山さんのすばらしい思索に触れたりできるのも世界側のおかげですね(笑)
最後になりますが、ありがとうございました。

Aさん、
独我論への思索が大好きで、こういうブログを立ち上げているのですから、このようなコメントを頂けるのは本当にうれしいです。
とても楽しかったです。
また、お待ちしています。いつでもお越しください。

横山様

はじまして、工藤と申します。唐突で恐縮なのですが、

<私>の形而上学を解消する http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564 現実性について http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179 永井均氏の近刊に対する批判的検討 http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120703/1341335112

僕的には―上記の論考によって永井哲学の「カラクリ」は解明されたと確信しております。

御参考になれば幸甚です。

工藤さん、はじめまして。コメントありがとうございます。
工藤さんは、ジェイコブさんですよね。間違えていたらごめんなさい。
哲学道場大阪5月で「永井均氏の『青色本』に対する論評をさらに批判する」を予定されていた方ではありませんか。そのテーマを聞いて、お話を聞くのをとても楽しみにしていたのですが、流れてしまって残念でした。
また機会があれば哲学道場で話をお聞きしたいと思っています。
さて、工藤さんのブログの「<私>の形而上学を解消する」の部分を読ましてもらいました。せっかく教えていただいたのに、残念ながら、僕の読解力では工藤さんが<私>の何を問題にされていて、どう解消されようとしているのか、具体的なイメージをもって理解することができませんでした。ごめんなさい。さっぱりわかりません。

御返信ありがとうございます。

>さて、工藤さんのブログの「<私>の形而上学を解消する」の部分を読ましてもらいました。せっかく教えていただいたのに、残念ながら、僕の読解力では工藤さんが<私>の何を問題にされていて、どう解消されようとしているのか、具体的なイメージをもって理解することができませんでした。

そうでしたか・・・僕の経験から言いますと、横山さんのように仰る方は少なくありません。他方、一読して理解してくださる方がおられます。割合的には半々くらいでしょうか。
<私>を巡る哲学的似非問題は、[この身体であること]の並列不可能性という端的な事実と純粋に文法的な事柄の混同から生じるわけですが―永井氏のテキスト、たとえば『転ブラ』とか『私今神』を読書会形式で分析していく遣り方が解り易いのかもしれませんね。
追々企画実行していく所存です。

ウィトゲンシュタインの独我論をめぐる議論を聞いていて不可解なのは、そもそも我なるものがあるんだろうかという疑問です。デカルトの心と物という実体があるという考えからb近代哲学が始まりましたが、心なんて体のどこにもないんですね。心は実体ではなく、単に「ことば」に過ぎないのではないのか。カントは超越論的統覚の元に我があると想定したわけですが、あくまでも仮想的に過ぎないでしょう。人間は生まれたときは心も我もないわけだし、世界が立ち上がってきたときに並行的に心や我が出来上がってくるわけでしょう。確かなことはこの世界を覗き込んでいる何者かがいるという微かな感覚にしかすぎません。つまり、物を見ているこの頭の背後に見えない空洞があり、そこに私なるものが潜んでいると思っているわけですが、もしかしたら空っぽなんではないかといつも思っています。考えるためには我なんて必要ではないと思います。「心の哲学」で機能主義の考え方がありますが、心とか我は人間の脳や身体の働きをさしていう「ことば」に過ぎないでしょう。「ことば」があると実体もあると思うのをカントは実体論的誤謬推理といいましたが、独我論をめぐる議論を聞いているとその種の誤謬推理だという気がして仕方がありません。

この種の本格的な哲学の議論が出来るブログがあるのは貴重です。さっきの続きですが、私がいるから私ということばがあるのではなく、逆で、私ということばがあるから私がいると思うのではないか。カントの実体論的誤謬推理とは人間の習性として、ことばがあるとその元に実体があると思いやすいということです。しかし、繰り返しますが「心」という実体はありません。昔は「心」は心臓にあると思われてきました。18世紀の解剖学により心臓がポンプにすぎず、単純な器官にすぎないと分かって、今世紀に脳に移りましたが、それは脳が良く分かっていなかったからで、デカルトなどは脳下垂体にあるとまでいいましたが、結局脳も細胞の集まりにすぎず、そこにも「心」がないと分かるようになります、きっと。では「心」とか我はいったいどこにあるのか。「ことば」にしかないといえばすこし抵抗があります。やはり身体となんらかの連関があるのではないか。よく分かりません。
そもそも物が見えるのは何故なのか、それが謎です。大森荘蔵が精力的に取り組みましたが、依然として良く分かりません。網膜には風景が転倒して映っているはずなのに、何故眼は正立して見ているのか。また、神経線維のなかを化学物質のパルスが走って脳に到達する、つまりデジタルで伝わるのに、どうしてアナログに変換できて、物が形あるものとして見えるようになるのか、また、感覚の微妙な質的なもの、たとえば温かいとか美しいというようなもの、つまりデジタルでは伝わらないものが脳ではどうして分かるのか、考えれば考えるほど分からなくなります。「クオリア」とはこの謎を突破するために無理やり考え出されたことばですが、新しい概念ができたからといってそれは問題を横滑りさせたものにすぎず、謎はなんら解決しません。
私の哲学のメイン・ストリームは前にもいいましたように存在論・形而上学です。18歳のときの世界を前にしての驚きから出発しました。そもそも世界が何故存在するのか、そしてそれを見ている私なるものとは一体何者なのか、というものです。あとしばらくすれば私はこの世の中から死んで去ってゆきます。もし私という存在が独我論のいうように唯我独尊ならば、過去何千年も私はいなかったのだし、またしばらくすれば私なるものは消滅します。これは戦慄すべきことです。あるいは世界は私がいなくなっても存在し続け、回転をやめないかもしれません。しかし、私のいない世界とは一体何なのでしょうか。
独我論が正しいならば私はどこにも生まれず、また消滅したりもしないはずです。アウグスティヌスのいうように私があるあいだは死はなく、また私が死んだあとは私がありません。つまりどっちにしても死はないことになります。私が見たり立ち会う死はいつも他人のそれで、私は私の死に立ち会えません。では、死はないのかといえば、そこまでいう勇気がありません。やはり遠からず私は死に、世界は私の死後も存続するでしょう。哲学的にはおかしな考えですが、この確信をひっくり返すのは困難です。
それで最近は仏教の理論に首を突っ込んでいます。2世紀の龍樹の「空論」です。読むとウィトゲンシュタインの「論考」と見間違えるほどです。龍樹は「中論」を唱えたことで有名です。「中」とは存在でも無でもない、その中間ということです。いいかえると、それが「空」ということの意味です。世界が存在していて、私たちはそこに生まれ、死んでそこを去ってゆくのですが、龍樹は私たちはどこにも生まれず、またどこにも去らないといいます。不生不滅とはそういうことです。私たちの外に世界があるから、私たちはそこに生まれたり、そこを去るものと思いやすいが、もし世界が私を離れて存在しないものならば、私はここに生まれ、ここに死ぬのでどこにも行かないことになります。私の存在に根拠がないように世界にもその存在の根拠はなく、両者はいわば虚空に浮いているものにすぎない、と。世界は存在しないのでもなく、また存在するのでもない、つまり「空」である、と。「空」は否定でも肯定でもありません。否定でもあり、肯定でもある。どちらでもあり、どちらでもない。龍樹はこの世界の出来事をすべて「ことば」に還元しておいて、最後にその「ことば」そのものを否定し去るのです。それで世界は消滅するかといえば、そのまま存続するのです。今あるとおりに世界も私たちもあり続け、何ものも失われず、何ものも付加されず、存在し続けます。なにも変りません。ありのままに存在すること、絶対の否定は絶対の肯定です。
大乗仏教のこのような考えは、世界のあり方を全面的に肯定し擁護する護教論におちいる危険性を持っています。歴史を顧みれば仏教がそのような働きを持ったことは否定できません。
龍樹の「空論」は唯識論の世親(バスバンドウ)に比べれば、はるかに私には身近なものです。仏教は世親に見られるように基本的に唯心論の体系です。今の私たちには到底受け入れられません。しかし、龍樹の「空論」はウィトゲンシュタインに近いということもあり、依然として魅力的です。ぜひ読まれることをお勧めします。


あまり興味も関心もないとは思いますが、私は長いことフッサールをやっていたので今回その話をします。前にもいいましたように18歳のときにショーペンハウエルの主著を読んでいるときに啓示にも等しい体験をして哲学に入りました。それからカント哲学をやり、フッサールに入りました。当時あまりフッサールを論じている人はいなかったと記憶しています。なぜ惹かれたかといえば当時本郷の出版社に勤めているころ、すぐ裏手に「みすず書房」があり、同じ出版者の社員同士だと本が2割引で買えたからです。フッサールの著作の翻訳がみすず書房から続々刊行されていました。「現象学の理念」をそこで手にして現象学的還元の方法が悉しく述べられていました。私がショーペンハウエルによって目覚めさせられたことの正体がこれだと思いました。生涯でこれほど感激させられたことはありませんでした。フッサールはその中で、自然的なものの見方と現象学のものの見方を区別して論じています。自然的なものの見方とは私たちの日常のものの見方の延長で、世界が存在することにたいし不思議にもなんとも思わないあり方を言います。これにたいし現象学のものの見方とは、この自然的なものの見方を転換し、世界の存在を判断中止の状態に中吊にし、もっぱらそれを構成している作用にたちかえって世界のあり方を考えることを意味しました。自然的なものの見方に立脚する限り、世界を構成している作用は見えません。あくまで潜在的に留まります。しかし、ひとたび現象学的還元の方法を行い、世界の見方を転換すると、私と世界とを結び付けているこの作用が顕在化します。それが「志向性」というものです。この「志向性」により私と世界とは密接に結び合わされているのです。たとえていえば私と世界との関係は蚕と繭のような関係です。ハイデガーはこれを「世界-内-存在」といいました。それは単に私たちが世界のなかに存在しているという単純なことを述べているのではありません。しかしこのフッサールの考えは世界と私たちのよそよそしい関係を解消し、世界との絆を回復する意味で近代の病弊から脱却することを教えてくれるとともに、容易に「独我論」に陥りやすい考えでもあります。そのため「デカルト的省察」で他我論を展開し克服しようとしましたが、広松渉のいうように古いリップスの美学の感情移入論に解決を求めたために失敗に終わりました。最近「間主観性の現象学」が翻訳されたので早速読みましたが、初期とほとんど変っていないのでがっかりしました。
とはいえ、私は今でもフッサールのいう現象学的還元の方法が哲学の唯一の普遍的な方法だと思っています。晩年のフッサールは「作用」に変えて「能作」という概念を用い、発生的現象学を展開しました。「経験と判断」でそれが論じられていますが、ほとんど死後の遺稿の形で残されました。「自然の空間性の現象学的起源に関する基礎研究」と題する遺稿では、驚くべきことにカントのコペルニクス的転回をもう一度ひっくり返すといっています。すばらしい論文です。フッサールはけっして終わっていません。
ウィトゲンシュタインの哲学は論理に終始しており、彼自らも言っているように論理は基本的にトートロジーであり、そこから発見するものはなにもありません。直観とか体験に根ざしていてこそ論理も生きてくるのだと思います。私がウィトゲンシュタインに魅力を覚えないのはその辺にあるのかもしれません。

訂正です。龍樹(ナーガルジュナ)の著作名は「中論」です。「中論」の翻訳は中村元と黒崎宏のものを読んでいますが、黒崎は承知のようにウィトゲンシュタインに関する著作があり、その関連で「中論」を取り上げたようですが、黒埼自身はサンスクリット語が分からないので既訳からアレンジしたようです。
ところでウィトゲンシュタインの「論考」は6.4あたりからそれまでの論旨から調子が変ってきます。かなり行き当たりばったりの著作で計画的なものではない印象を受けます。恐らく途中から考えが変って結局真理は論理の向こう側にあると気付いたのではないでしょうか。最後の「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という一言で全部がひっくり返る仕組みになっています。私はウィトゲンシュタインがいうように論理が基本的にトートロジーであり、真理は論理の中にはない、体験や直観の中にある、そういっているような気がします。我田引水かもしれませんが。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>私ということばがあるから私がいると思うのではないか。カントの実体論的誤謬推理とは人間の習性として、ことばがあるとその元に実体があると思いやすいということです。

大略仰る通りだと思います。
「内容なき(=感官との連関を欠いた)思考は空虚である」
「存在はレアールな述語ではない(=概念のみから現実存在を導出することは出来ない)」―これらの諌言(カント)が古びることは―いままでも、これからも―ないでしょう。

>私はウィトゲンシュタインがいうように論理が基本的にトートロジーであり、真理は論理の中にはない、体験や直観の中にある

現象学的還元の是非、或は体験や直観に回収不可能な[真理]の存在はともかくとしても、[真理]が論理に回収不可能であることは「嘘つきパラドックス」等によって示されていると思います。

鈴木さん、工藤さん、こんにちは。コメントありがとうございます。とくに鈴木さんのはたいへん長文なのでたいへんだったろうなと思いました。平易に書いていただいて僕にも分かりやすかったです。
「私という言葉があるから私がいると思う」「我なるものがあるんだろうか」「独我論をめぐる議論がその種の実体論的誤謬推理だ」
というところですが、僕のこのページの前の「独我論を論駁する2」で考えた「認識論的独我論が私の意味を取り違えたための混乱である」という論ととても近いように思います。読んでいただけましたか?
同様のことをお考えだったのでしょうか、それとも全く違いますか。

鈴木さん、
お勧めいただいたコリン・マッギンの「ウィトゲンシュタインの言語論」が、娘の通っている大学の図書館にありました。借りてきてもらって読んでみます。ありがとうございました。

私は昔から哲学者の本を読むときは、まず解説書などを徹底的に集めて予備知識を得てから読むという癖があり、いわば外堀を埋めてから本丸にゆくやり方を取ってきました。裏口から入るようなやり方でけっしてフェアーではないと思っていますが、とにかくそうしてウィトゲンシュタインに関しては神田と早稲田の古書店を回り、手に入る限りの文献は集めました。たぶん重なるところがあると思いますが、参考までに以下書き出しました。
  
   ※アンソニー・ケニー「ウィトゲンシュタイン」(法政大学出版)
    ノーマン・マルコム「何も隠されていない」(産業図書)
         〃     「ウィトゲンシュタインと宗教」(法政大学出版)
         〃     「ウィトゲンシュタイン」(講談社現代新書)
   ※スティーヴン・トゥルーミン「ウィトゲンシュタインのウィーン」(TBSブリタニカ)
    デヴィット・ワイナー「天才と才人・ウィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影                響」(三和書籍)
   ※トーマス・モラウェッツ「ウィトゲンシュタインと知」(産業図書)
   ※コリン・マッギン「ウィトゲンシュタインの言語論」(勁草書房)
    デヴィット・ブルワ「ウィトゲンシュタイン・知識の社会理論」(勁草書房)
    ウイリアム・バートリー「ウィトゲンシュタインと同性愛」(未来社)
    ヘンリー・ステーテン「ウィトゲンシュタインとデリダ」(産業図書)
    デヴィッド・エドモンズ「ポパーとウィトゲンシュタイン」(筑摩書房)
   ※ソール・クリプキ「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(産業図書)
   ※ブライアン・マクギネス「ウィトゲンシュタイン評伝」(法政大学出版)
    アレキサンダー・ウォー「ウィトゲンシュタイン家の人々」(中央公論社)
    レイ・モンク「ウィトゲンシュタイン」(みすず書房)
    アルフレッド・エイヤー「ウィトゲンシュタイン」(みすず書房)
    A・C・グレーリング「ウィトゲンシュタイン」(講談社選書メティエ)
    春日佑芳「ウィトゲンシュタイン」(ペリカン社)
    菅豊彦「実践的知識の構造(勁草書房)
    飯田隆「ウィトゲンシュタイン」(講談社)
    野矢茂樹「論理哲学論考を読む」(哲学書房)
    鬼界彰夫「ウィトゲンシュタインはこう考えた」(講談社現代新書)

以上です。※を印したものは読んだなかで最も良かったものです。
なお、「独我論を論駁する2」は未読ですので、日を改めて読ませてもらいます。

鈴木さん、こんばんは。

スティーヴン・トゥルーミン「ウィトゲンシュタインのウィーン」と
ブライアン・マクギネス「ウィトゲンシュタイン評伝」が図書館で予約できました。早速読んでみたいと思います。
ありがとうございます。

鈴木です。
ショーペンハウエルの「哲学小品集」のなかの「著述と文体」というエッセイで、かなり辛らつなことをいっています。ものを書く人には三種類あり、一つは考えないで書く人。人の本を利用して書く人。この部類が最も多い。二つ目は書きながら考える人で、つまり書くために考える人。これも次いで多い。三つ目は考え抜いて、考えがまとまってから書く人。この部類はきわめて少ない、と。
この分類でいうと私はさしづめ一つ目の人間で、このタイプには読書家が多いといっています。いうとおりで、同じショーペンハウエルの「自分で考えること」というエッセイで、読書家とは他人の頭で考える人だといっています。「本を読むのは自分で考えることの代用品で、たえず本ばかり読んでいれば他人の思想が流れ込んでくる。これほど有害なことはない」と。
私は、哲学に始まり、社会科学から、文芸評論から、小説まで単行本で6000千冊を越える膨大な本に囲まれ、日々本を読んで暮らしていますが、たくさん読むためには広く浅く読まねばならず、そのため結局どんな分野にもディレッタントでしかない羽目におちいっています。熱しやすく、また醒めやすく、一時的に夢中になったかと思うと、急に飽きて他の分野に移ってしまいます。
このたびブログを読まさせてもらって、到底同じ土俵にのって議論ができないと痛感しました。何をおっしゃっているのか情けないことに私には理解不能でした。まるで研究者・学者のジャーゴンが乱舞している様を見るようで、参戦は諦めました。私は部外者の立場から、読む読まれないに関係なく、一人で呟いていることにします。
文章を読んでいますと、失礼を承知でいえば、ショーペンハウエルでいう二つ目の分類に入るお人かと存じます。つまり、書きながら考える人、書くために考える人のようにお見受けいたします。およそ論文のスタイルではないと思います。思考の過程をそのままを見せられているように感じます。論文を書く場合は、整理して、平易に、明晰に書いておられるのだと推察しますが、ブログの文章を読む限りでは他人に読まれることを意識しての文章ではなく、自己内対話のように読まれます。できることならば、整理して、研究者の内輪だけで分かる言葉ではなく、私のようなシロウトにも分かるような文章で書いていただければひじょうに助かるのですが、それは無理でしょうか。
ショーペンハウエルは、難しいことを難しく書くことは誰でもできる、難しいことを平易に書くのはきわめて難しいといっています。哲学に限らず、文章を書いたら、誰か他人、たとえば奥さんとか息子さんに読んでもらって、それで分からなかったら他人が悪いのではなく、書いた本人が悪いのだと思わなければならない、ともいっています。仲間内で読むのではなく、まったく関係ない第三者に読んでもらうことが必要です。そのためには極力専門用語を使わないことです。専門用語はシロウトにたいするこけおどしか、シロウトは立ち入るなというセクト主義でしかありません。
気に触ったら幾重にもお詫びします。いずれにしましても、今後は私一人で放言をきままに書き連ねてゆきたいと思います。

前便でかなり失礼なことを申し述べました。失礼ついでに、放言を弄します。黙殺するか、半分耳をふさいでお読みください。
永井均について、かれが千葉大の教官をしているときに、私の住んでいるところでもあったので、謦咳に接したことがあります。今は知らず、若いときのかれは好男子で好青年でした。それでかれの著書を読みました。初期の頃は結構夢中に読みましたが、千葉大を去った頃から、わけのわからないことをいい出して「私・今・そして神」にいたって、もう尾いてゆけないと思い、読むのをやめました。
哲学に限らず思想でも、現実との絆が切れると、まるで糸の切れた風船のように思考が自己回転をはじめ、とんでもないところに行き着きます。下界から上昇してゆくのは快感を覚えるもののようで、またそれに追随して後からくっついてゆくオタクと称するファンがいます。ばかばかしい話です。昔展覧会の会場で、師匠の後にぞろぞろと弟子が金魚の糞のようにつきしたがっている光景を見たことがあります、また大学病院で教授の後を大勢のインターンが神妙にしたがって歩いている光景を見たことがあります、それと同じで永井も今は新興宗教の教祖と見まがうばかりです。
人間の知識に携わっている人は誰でもご存知ですが、知識を得ると下界を離れどんどん上昇してゆき、下界に住んでいる人は有象無象のバカな大衆に見えてまいります。知識は人を尊大にさせます。おれはこんなに知っているが、お前たちは何も知らないバカな連中だ、と。この知識の上昇志向を、親鸞は「往相」と名づけました。親鸞も若いときは仏教の知識を得て、大衆を睥睨する上昇志向の人間でしたが、越後に流罪され、その後関東に住んで布教するにつれ、否応なく大衆と混じって生活するうちに己の知識を誇る尊大さと大衆を蔑視する考えの過ちに気付き、地に足をつけて考える「環相」に思い至りました。
僧侶であることを捨て、僧でもない俗でもない境地に至りました。
私は評論家・柄谷行人と同じ70年安保世代の生き残りで、若いときはマルクス主義の論議に明け暮れ、労働組合を立ち上げてその委員長になり労使交渉に携わりましたが、その結果職を失い、東京を去って千葉に帰ってまいりました。自分がいかに思い上がっていたか、つくづくと思い知らされました。
それからは地に足をつけて考えてゆこうと、自分の原点である18歳のときの体験の意味を考えることに思い決めました。地に足のつかない哲学や知識は結局泡沫のようなもので、若いときの自己顕示欲の表れに過ぎないと思いました。たった一人になってみれば知識を誇ったり、自己顕示欲に浸ったりしても、観客がいないのであっては、まったく無意味だからです。
永井均の文章を読んだり、また、あなたのブログを読んだりしていると、昔の知識を経て限りなく上昇していた頃の私が髣髴と思い出され、どこかで墜落しなければ良いがと危ぶみながら眺めております。大学は生活感のない学生に取り巻かれたオタクの世界です。それが学問だという人もいますが、学問をやればやるほど、足が地から離れてゆき、
生活者をバカにする尊大さを増幅させるだけです。
哲学に限らず学問は視野狭窄を容易に起こさせます。周囲に広い世界があるのに、それが見えなくなります。哲学にしても、いろいろな哲学があり、世界はとても広いものです。
私は一介の読書好きにすぎませんが、できるだけ視野狭窄におちいらないよう自戒しております。
私にはオリジナルと称する思想はほとんどありません。読書家は他人の頭で考える人間です。
大学図書館で松岡正剛の「読書・千夜一夜」という分厚い本を読み耽って、それを手引きにいろんな本を読ませてもらいました。松岡は読書家としては透徹した読解力を持ち、すごいなと感嘆しましたが、かれの書く本はオリジナルなものがまったくなく、落胆しました。所詮編集者に過ぎないのか、と思いました。
それと同じで、私もいろいろな本を読みますが、オリジナルなものはまったくといっていいほど、ありません。狭い所を掘り進んでゆく、集中力とエネルギーに欠如しています。その点では、あなたのブログを読んでいて羨ましいと思っております。私には永井の本と同様にわけがわかりませんが。

鈴木さん、こんばんは。
僕のブログが、地に足のついてない内容を書いているとの指摘は、僕の力不足のためだから仕方ないと思いますが、僕は僕の興味をストレートに追いかけているだけですから、それが自己顕示欲のためのような書きぶりは、心外に感じました。

さて、仰るとおり、僕は考えながら書くタイプです。書くことで、読んでいる内容や考えている内容が自分でも理解できてくるので、読むため考えるために書いているという側面が大きいです。でもだからこそ、独創的でありながら独りよがりにならないように書くこと、特に中学生にも分かる文章をと心がけて平明な言葉遣いをしようとしてきたつもりなのですが、やはり独りよがりの文に成ってしまっていましたね。独善的なジャーゴンとうけとられてしまったのは、もしかすると「懐疑論的独我論」「認識論的独我論」「言語論的独我論」の辺りではないでしょうか。これはほとんど僕の自分勝手な言葉の使い方ですから、理解不能と言われても仕方ないかもしれません。「独我論を論駁する1」で丁寧に説明したつもりだったのですが、表現するってことは難しいですね。それとも、論の展開自体全部が独りよがりで分かりにくかったでしょうか。
鈴木さんの「独我論をめぐる議論が実体論的誤謬推理だ」というお考えと、僕のいう「認識論的独我論は私を取り違えた混乱だ」という説はリンクする部分が多くて、面白い議論になると思っていたので、残念です。
もっと勉強して分かりやすい文がかけるように精進したいと思います。
またいらしてくださいね。いつでもウエルカムで待っていますので。

鈴木です。すこし言い過ぎて心証を害されたようで、申し訳ありません。
すこし土俵に乗って議論に加わりますと、まず「独我論」という言葉がずいぶん出てくることに違和感を持ちました。
といいますのは、私もすこし述べさせていただきましたが、私とか心という言葉はなんら実体のないもので、なにか実体的なものと思うのは実体論的誤謬推理だと何度も申し上げました。そして、我とか心がないのであればそもそも「独我論」などありえようがないのです。独我論を論駁するというのは独我論があるということを前提にする議論です。私が違和感を持ったのはそのことが原因です。
それに永井の言葉だという「私的言語がなければ言語は不可能です」というのも、逆であって「私的言語を認めたら言語学は成り立たない」というのが正しいので、まったく言語学を知らない人の言動です。
ウィトゲンシュタインは、私が痛みを覚えて「痛い」と叫ぶのを私的言語とかいうようですが、言語学にとって感覚は言語の外部にあり、まったく関知しないところです。そして「痛い」というのはただの言葉であって私的でも公的でもありません。感覚が私秘的だから「痛い」は私的言語だというのはおかしな話です。言語は実質を持たない形式体系ですから、そもそも感覚と対照する必要などありません。むしろ問題とすべきは「痛い」と類似する「かゆい」とか「熱い」とか「固い」とかの差異のほうです。
ウィトゲンシュタインは「家族類似性」という言葉を使っていますが、それはソシュールの「パラディグム」に相当します。「パラディグム」とは語と語との横のつながり、網状をなした語のシステムのことです。語と語とは家族類似的に繋がっており、私たちはその無数の語から一つの語を選択しているのです。
言語は実質をもたず、語と語との間には、ネガティブな差異しかありません。ネガティブという意味は私たちには見えないし、恣意的だということです。恣意的という意味は、たとえば私たちは「鳥」を指差して「トリ」という音声を発しますが、それは「マツ」でもよいし、「ヤマ」でも良いのです。「トリ」と呼ぶ必然性はどこにもありません。なにかそこに必然的なつながりがあると思うのは私たちの慣習に基づいているだけです。
ソシュールは言語は差異からなる恣意的な体系だといいます。ウィトゲンシュタイン的にいえば「言語ゲーム」です。
つまり言語には実体がないし、規則がないということです。
ウィトゲンシュタインの「哲学探究」とソシュールの言語学には同じような考えがいくつもあります。ソシュールはウィトゲンシュタインよりも半世紀も前にすでに同じ思想に到達していたのです。
ウィトゲンシュタインが「哲学探究」をアウグスティヌスの言語論の批判からはじめているのはひじょうに印象的で、そこでかれは言語の直示的定義を批判しています。直示的定義とは、物を指して言葉を発することです。つまり物に言葉を貼り付けることです。ソシュールは言葉は物につけた名前ではないといっていました。このアウグスティヌスの言語の直示的定義の批判はかれの初期の「論考」の批判です。つまりかれは「論考」の批判から「哲学的探究」をはじめたのです。
かれは「青色本」で近代哲学の常識になっている意味にたいする批判をすでにおこなっています。近代哲学は意味を人間の「心」や「主体」に基づけました。フッサールは意味は人間の主体による意味付与作用に基づくといいました。ソシュールはこれを批判して、意味は語と語との差異から生じ、主体は不要であるといいました。ウィトゲンシュタインは意味を人間の心とか内部の源泉に求める考えを否定しました。
ソシュールが言語から人間主体を排除し、意味を語と語との差異に、しかもネガティブな差異に求めたとき事実上近代哲学の人間中心主義は終わったのです。
ご存知のようにウィトゲンシュタインは「哲学探究」の143節から142節まで「規則に従う」というクリプキがとりあげて有名になった議論をしています。ソシュールがすでに論じているように言語には恣意性しかなく、確固とした規則などありません。規則はあらかじめあるのではなく言語を発したそのつど作られるのです。
また、243節から315節まで、いわゆる「私的言語論の批判」を展開しています。先ほどもいいましたように、感覚は言語の外部ですから言語学の関知するところではありません。また「痛い」という言葉は感覚に名づけた言葉でもありません。「痛い」ということは私だけが知っている私的言語だというのも間違いです。この種の誤解は近代哲学の考えからまだ抜け出ていないことを示しています。感覚と言葉は切り離して考えなければなりません。私たちは子供が「痛い」という言葉を発したとき、その向こう側の感覚を参照する必要などありません。言葉の意味だけを考えればよいのです。そして言葉の意味は言葉の差異に内蔵されており、それを外に求める必要はないのです。
ソシュールは言語には実体はないといいました。ということは「心」だろうと「我」だろうと同じです。その種のものは私たちの体のどこにもないし、ただの言葉にすぎません。そして言葉の根底にはネガティブな恣意性しかないということは、何もないということに等しいのです。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」もソシュールと同じです。言語は「シニフィアン」の戯れであり、深層などなく、そこにはランダムな結合と離散が渦巻いているのです。規則はそのつどそのつど作られては用済みになって、また別の規則に取って代わられます。
ウィトゲンシュタインは「論考」で近代哲学の立場に立っていましたから、基本的に自己内のモノローグに終始していました。モノローグということは独我論ということです。デカルト以来、あるいはプラトン以来の西欧哲学といってよいかと思いますが、西欧哲学はモノローグに終始してきました。それは柄谷行人のいうように基本的に「話す」立場です。ところが、ウィトゲンシュタインは「哲学探究」でモノローグでなく、ダイアローグ、つまり「聞く」立場に移行しました。言語は「話す」ときは単一ですが、「聞く」ときはさまざまに様相で表れます。なぜならば「聞く」立場は「他者」を不可欠とするからです。「他者」は言語をさまざまに用いて話します。そこにはランダムな言語ゲームが、それも単一ではない言語ゲームがあります。だから、言語の意味は一義的ではなくなります。一つの言葉に一つの意味ではなく、さまざまな意味が生じてきます。だから言語の意味を知ろうとしたらコンテクストを、つまり言葉を発した状況を参照しなければなりません。ここまでくるともう近代哲学など無用の長物になります。フレーゲの意味論も、あるいは前期ウィトゲンシュタインの意味論も役に立たなくなります。
すこし眠くなってまいりましたので、この辺で駄弁をやめます。また、時間を見て続きをお話したいと思います。

度々すいません。言語の意味の「使用説」についてちょっと一言もうします。
ウィトゲンシュタインが「言語の意味は、その使用である」といったのは、ラッセルとフレーゲの言語の意味は「指示対象である」という説にたいする批判からでした。これに論理実証主義者は「検証原理」をくっつけて「語の意味とはその検証の様式だと」しましたが、それを見てウィトゲンシュタインは直ちにこの言語の「使用説」を撤回しました。かれは「哲学的考察」で、この言語使用説を展開したのですが、かれはその言語使用説をかれの「論考」にたいする批判として考えたのですが、誤解されやすいと気付いて撤回したのです。検証とは語の意味を事実と照合して確かめることであり、一種の経験論を意味します。かれは「哲学的考察」以降、別の道を模索することになります。かれはケンブリッジから故郷のオーストリアの小学校の教員をして子供たちに混じり、その規則を無視してランダムに話す子供たちの言葉に触れ、後にオックフォードのジョン・オースティンが唱えるような言語行為論に到達しました。それが「言語ゲーム」です。語の意味がその使用(慣用)にあるということは語の意味はその言葉が発せられる状況、布置によるということを意味し、だから聞き手が話し手の言葉を理解するためには規則を共有していなければなりません。しかし、ウィトゲンシュタインは子供たちが規則を共有しない「他者」であることを発見し、言語の根底には規則がないということを、言い換えればソシュールのいうような恣意性を見出したのです。子供は規則を共有しないにもかかわらず、平気で言葉を交わし、不都合を感じません。
言語の意味の使用説と「探究」の「言語ゲーム」の間には微妙な違いがあり、規則を共有するかしないかの違いにすぎません。ひじょう紛らわしいことは事実ですが、やはり区別すべきだと思います。
ソシュールは言語の個人的使用のことを「パロール」といい、それを己の「ラング」の言語晝から排除しました。言語の意味は使用の中になく、語と語の差異の中にある、といいました。しかし、ソシュール以降の言語学はこの言語使用の面の排除を批判し、「パロール」の復権を唱えました。やはり語の意味は主体の意味付与作用にあるのではないか、というのです。これは、再びフッサールに戻ることを意味します。このように言語学にもいろいろな見解がありけっして一枚岩ではありません。
語の意味は使用されることで確定されるというのは論理実証主義者の言い分です。色の意味は家族類似的な色のシステムの差異の中にあり、色見本と対照する必要はありません。ウィトゲンシュタインは「色彩について」という晩年の遺稿の中で、このソシュールと同じ見解に到達しました。それは一種の全体論であって、色はこの全体的な色彩のシステムからの選択によります。私たち人間はこの微妙な色の違いを知っており、色見本など参照する必要はありません。
国によって虹の色を7色と見る人がいたり、いや2色だという人もいます。これはその国の言語システムと同様に色彩のシステムがちがうからで、現実の色と対照してそうなっているわけではありません。色見本は各国によって異なります。それはちょうど、言語の音韻が各国の言語によって異なるのと同じです。ある国は色見本を参照して虹は2色だといい、またある国は色見本を参照して7色であるといいます。つまりすでに色見本を参照するしないにかかわらず、虹の色は各国によってその色彩のシステムによりア・プリオリに決まっているのです。だから、色見本を見るのは単なる後付けの儀式にすぎません。
ちょっと気付きましたので、書きました。

すいません。また訂正です。眠い眼をこすりながら書いていたので数字を間違えました。「哲学探究」の「規則に従う」を論じているのは138節から242節まででした。
それとここ1週間ばかり、このブログの文章を書いていて睡眠不足におちいりましたので、少し眠る時間が欲しく、ペースを落とします。飽きやすい性質もありますが、疲れました。連日のように読んでいただいて、横山さんも疲れたのではないかと存じます。読んでいただいてありがとうございました。もちろんブログをいただければ読ませていただきますが、これまでとちがいお返事は少し間が空くと存じます。ご了承ください。

こんばんは、工藤です。コメントをいくつか。

>ラッセルとフレーゲの言語の意味は「指示対象である」という説

この要約は不十分というより間違っています。その是非は別にしても、フレーゲにおける“Bedeutung”と“Sinn”―因みに英語では“meaning”と“sense”になりますが、前者に対しては“reference”が当てられることも多いです―の差異は押さえておくべきでしょう。

>しかし、ウィトゲンシュタインは子供たちが規則を共有しない「他者」であることを発見し、言語の根底には規則がないということを、言い換えればソシュールのいうような恣意性を見出したのです。

クリプキが『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で示してみせたような「言語或は規則の無底性」とソシュールの言う「記号の恣意性」は全く異なる事柄であり、同列に論じることは出来ません。これは『同書』と『一般言語学講義』を読み比べれば明らかなことです。

>子供は規則を共有しないにもかかわらず、平気で言葉を交わし、不都合を感じません。

重要な御指摘だと思います。この辺の事情についてはディヴィドソンの議論が簡明にして説得的です。

>つまりすでに色見本を参照するしないにかかわらず、虹の色は各国によってその色彩のシステムによりア・プリオリに決まっているのです。

これをアプリオリと言ってよいものかどうか。たとえば虹を二色と見る人が七色と見るようになる(そのような見方を習得する)ことは可能です。その逆はありそうにありませんが。

工藤さん、鈴木です。初めてブログします。すでに書きましたように私は本はいろいろ読みますが、専門的な研究者ではないので初歩的な間違いが多々あると思います。ご指摘ありがとうございました。
一つだけ、ソシュールはシニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的だといいましたが、言語にはネガディブな差異しかないといったとき、同じことを考えていたのではないでしょうか。晩年にかれが、もしかしたら言語なんてないのかもしれないという懐疑に襲われたといわれています。晩年のソシュールが言語についてほとんど沈黙し、アナグラム論などに没頭したのはそこに原因があったのではないか。言語の根底には何もないということを考えていたのだと思います。それとクリプキのそれが違うか、同じかは判断できませんが、どうでしょう?

プラトンが西欧で始めて哲学を始めたとき、それは他者との対話篇つまりダイアローグからでした。しかし彼の対話はけっして他者、すなわちギリシャの外部の民族との対話ではなく身内の中での対話でしかありませんでした。ギリシャは他民族とはたえず戦争をしていたのですから。結局プラトンの対話篇はモノローグでしかありません。
近代哲学のの基礎を気付いたデカルトは真理を他者ではなく己の内省に求め、そして最終的に真理を他者である神に求めざるを得ませんでした。この流れはカントも同様で、かれは他者を物自体と称して外部に排除しました。カントの物自体は他者のことであり、デカルトの神とおなじものです。
ヘーゲル弁証法は、弁証法すなわち対話(ダイアローグ)と称しながら、かれにとって他者や自然は見知ったもの、規則を共有するもの同士の内輪の中の対話(モノローグ)でしかなく、いっていること、すなわちダイアローグなどではなくモノローグでしかありませんでした。外部の他者が弁証法の論理によって容易に己に回収されてしまうのも、その他者が他者でなんかではなく、身内だからに他なりません。
近代哲学の最後のフッサールは「デカルト的省察」の「他我論」において破綻しました。かれは己の内省の果てにクラウス・ヘルトが「生き生きした現在」でいうように、またデリダが「声と現象」でいうように、真理の源泉である超越論的主観性の根源が結局何もない、ただの差異の戯れがあるだけだということを見出したのです。晩年のフッサールは近代哲学の終りを予感していました。
このようにプラトンからデカルトを経てフッサールまで、西欧哲学の歴史はモノローグという自己内対話に終始してきたのです。
言語学は18~19世紀の他民族の言語の音韻を比較研究する通時言語学から出発しました。他民族、すなわち他者の声に耳を傾けることなしに言語学は成り立ちません。話す立場からは音韻の差異、その弁別は聞き分けられません。
ソシュールが言語学から「パロール」を排除し「ラング」の言語学を創始したとき、それは一見して他者を排除してモノローグに回帰するように見えながら、モノローグの果てに、つまり言語の根底を掘り進むことによって何が見えてくるかを探求しました。その結果、言語にはネガティブな差異しかないということを、言い換えればそこには何もないことを見出したのです。晩年のソシュールは謎の沈黙に入りました。
ウィトゲンシュタインが「論考」を著したとき、かれはショーペンハウエルとカントという近代哲学を下敷きにしてそれを書きました。だから「論考」はモノローグであり、独我論でしかなかったのです。カントはモノローグに基づく「純粋理性批判」からダイアローグに基づく「実践理性批判」を著し、倫理こそ自分の哲学の本体だと称しました。これを受けショーペンハウエルはその主著「意志と表象としての世界」で世界を表象と意志とに分け、意志を根源的なものだと称しました。「論考」はショーペンハウエルの「表象の世界」です。「論考」はラッセル、フレーゲの記号論理学のテクニカルな議論により目を眩ませられますが、それは若いウィトゲンシュタインの若者特有の衒気にほかならず、表層のそれをめくってみれば近代哲学の構図そのものです。かれは「話す」立場に立っていました。かれはショーペンハウエルの「意志の世界」を結局語りえないものとして残しました。しかし、後期の「哲学探究」では規則を共有しないもの同士の対話、すなわちダイアローグに転換しました。それをかれは子供の会話から、他民族が複雑に交じり合ったハプスプルグ帝国の子供たちの文法(シンタックス)もなにも無視しためちゃくちゃな言葉が飛び交っている只中に置かれて、思い当たったのです。子供たちは文法の知識もまた他者とコミニケーションするための規則も共有していませんが、それだって会話が成立しているのです。ウィトゲンシュタインは唖然としたに違いありません。
ソシュール言語学といい、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」といい、かれらの「話す立場」から「聞く立場」への転換は、終始モノローグでしかなかった西欧哲学の伝統を断ち切って新しい平野へと私たちを導きました。近代哲学もかれらによって終わりました。
まあ、こんなことは評論家柄谷行人の受け売りで、今では常識に属することですが、面白半分に書いてみました。

いわゆる「私的言語」について。
ウィトゲンシュタインのいわゆる私的言語の批判はかれの「探究」の243節から315節で論じられています。私的言語とは人の感覚が他人にはうかがい知れない私秘性をもっているから、「痛い」と叫んだとき、その言葉は一般の言葉と区別して「私的言語」といわれます。
この「私的言語」に関する言語学の回答はきわめて単純明解です。「私的言語」などない、その一言です。
「山」や「川」という言葉にたいし「痛い」という言葉がなにか特別な言葉のようにいうのは間違いで、「山」も「川」も「痛い」もともに言葉だという点では同じです。言葉は家族類似的な横の結びつきによって無数の言葉と連携するシステムをなしています。意味は、この家族類似的な語と語との差異にもとづき決まります。たしかに「山」という言葉と「痛い」という言葉はかけ離れているように見えます。家族類似的ないろいろなグループからすれば、たしかに両者は遠いグループです。「痛い」というグループにもっとも近いのは「熱い」とか「固い」とか、その種の感覚用語のほうで「山」「川」のような自然の対象物とはかけ離れています。それは単にグループが違うだけで、ともに言葉だという点では同じです。「痛い」はそれらの自然物をさす言葉に対し、なんら特権的な言葉を意味するものではありません。
近代哲学の祖、デカルトは言葉と物、言葉と感覚を対比して、すべての知識を感覚にもとづけ、感覚という絶対に疑いえないものにもとづけることで明証的な体系を構築しようとしました。感覚は「痛い」と同時に「痛くない」とはいえないからです。フッサールのいうように体験は疑うことができません。しかし体験や感覚に真偽ニ値はありません。今になって思えば、なぜそんな真偽ニ値のない感覚に知識をもとづけようとしたのか不思議なほどです。
カントも知識を感覚に由来するものに限定し、知識の真偽の根據を感覚に求めた点で、デカルトと、基本的に、同じ道をとりました。カントを継承するフッサールも、初期には、現象学的還元によってすべての知識を「原的」に疑いえない感覚にもとづけ、「心的過程」に還元することで、明証的な体系を構築しようとするデカルトの道をとりました。
この、近代哲学の言葉と物、言葉と感覚を一対一に対応させて考える「対応理論」は、ソシュールとウィトゲンシュタインによって批判され、終わりました。ウィトゲンシュタインが「探究」で私的言語を批判したのは、かれの初期の「論考」の、カントを下敷きとする、言葉と事態とを対応させる、いわゆる「写像理論」にたいする批判です。
もしほんとうに私的言語をいいたいのなら、「痛い」という言葉を使わずに、自分だけにしか分からない暗号か呪文を考えて、いご痛みを感じたらその暗号か呪文を唱えればよいのです。それこそ私的言語でしょう。ただし、わたしが痛みを感じて暗号か呪文を唱えて他人に救いを求めても、けっして救急車を呼んではくれないでしょう。他人はこの人はなにか頭が狂っているとしか思わないでしょう。
医者は患者が「痛い」と訴えたら「どこが痛いの?」と聞き、患者はお腹をさして「ここが痛いの」と答える。医者は患者のいう「痛い」という言葉を「痛み」という感覚を参照して判断するのではありません。医者は「痛い」という言葉と患者のしめす仕草や振る舞いを総合的に判断し、病気を特定します。その場合の「痛い」はし仕草や振る舞いという行為と一体をなし、その一部と考え判断するのです。これはウィトゲンシュタインの後にジョン・オースティンが唱えた「言語行為論」の考え方ですが、「探究」はそれに先駆け、オースティンと同じような立場に立っているのです。
言葉というのはいわば社会の共有財産であり、日本語はこの日本列島に住む日本人の先人からのながい歴史をゆうする財産です。けっして個人のものではありません。だからこの日本語を使う人は好むと好まざるとにかかわらず社会に流通する日本語というものの規範に従わざるをえないし、たとえ感覚が他人にうかがい知れない自分だけの固有のものであっても、ひとたび言葉を使って表現する以上、この規範に従わざるをえません。もちろん、個人の痛みには質的にさまざまな違いがあるでしょう。それを表現する言葉がただひとつ「痛い」しかなければ医者に診てもらったときにその痛みの性質や症状を補足して説明しなければなりません。複雑なことを表現するには言葉はなんといっても少なすぎます。
言語の本質がソシュールのいうようにコミニケーションの手段や道具ではないといっても、私たちが相互のコミニケーションの手段、道具として言葉を使っていることはなんら変りません。
こうしたことは常識に属することで、なにも言語学をもち出さなくても誰にも分かっていることです。単純なことをわざと複雑にするに及びません。
「私的言語論」は「痛い」という規範としての言葉を「痛み」という私的感覚に結びつけた錯誤からはじまった虚構の議論です。

鈴木さん、工藤さん、こんばんは。コメントありがとうございます。
疑問と感想5点挙げます。

1.「実体論的誤謬」と独我論について、
鈴木さんの「独我論をめぐる議論が実体論的誤謬推理だ」というお考えと、僕のいう「認識論的独我論は私を取り違えた混乱だ」という説はリンクする部分が多いと書きましたが、少し違っていたようですね。一つのテーブル上で話すべき内容ではなく、次元の異なった内容であることが分かりました。勘違いしてご迷惑をかけました。ただ、「『我』や『心』という語は実在論的誤謬であるから、それらは存在しない。だからそもそも独我論などありえない」という説は話が性急すぎるかと思います。その論理でいうと「『日曜日』などもともと実在せず、言語の上だけの存在なのだから、『日曜日の経済的価値』など意味がない」という論説だって成り立ってしまいます。

2.私的言語について、
ソシュールの言語学の視点から、鈴木さんが端的に批判されているのは、真っ当であり、正しいと思います。しかし、「言語論の見地から見て私的言語は間違っている」という論は、私的言語容認派から見ると「私的言語が間違っているとする見地から見ると、私的言語が間違っている」という論でしかないのではないかという気がします。本ブログで、かなり面倒な手間をかけて論を重ね、私的言語が自分でも意味不明な言葉でしかないことを言っているのは、永井均の側から考えて私的言語批判をしたかったからです。

3.ダイアローグ的哲学とモノローグ的哲学について、
後期ウィトゲンシュタインとソシュール以前の哲学がモノローグの哲学であるという話はとても分かりやすく、上手いこと表現されるなあと感心しました。しかし、モノローグがつまり独我論だという話につながるのは短絡的だと思います。後期ウィトゲンシュタイン以前のモノローグ哲学は、独我論的でもあり実在論的でもあります。ダイアローグ哲学が<「他者」との関係性の中での言葉の実践による言語理解>であるとすれば、モノローグ哲学は<言葉を解釈して還元しようとする言語理解>だと言えるものではないでしょうか。

4.ソシュールとウィトゲンシュタインについて
ソシュールの言う「言語は差異からなる恣意的な体系」というものと、ウィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」は似て非なるものです。「恣意的な体系」という言語観は「言語の解釈説」から「実践説」へ抜け出ようとしている真っ只中で、モノローグ哲学にまだ片足を突っ込んでいる状態であるような気がします。

5.Paradigmについて
「paradigm」はソシュールの語の使い方では、「語のつながりの網状のシステム」のことなのですね。ウィトゲンシュタインでは「範型」と訳され、「語を理解する手段としての、指示内容のお手本」のことで、クーンでは「ある時代や文化においての支配的な規範」です。同じ言葉でもいろいろな使われ方をするのですね。おもしろいです。

横山さん、工藤さん、いろいろ耳の痛いコメントをいただきありがとうございました。特に横山さんは裏の裏、そしてその裏と複雑に考えるのですね。私のように単線で考えるような人間には正直言ってお手上げです。独我論をめぐる議論はブログをろくに見ておりませんでしたので、今後時間をかけてゆっくり考えてみます。
オリンピックが始まりましたので当分お休みです。ゆっくり眠りたいです。

こんばんは、工藤です。コメントをひとつだけ。

>ただ、「『我』や『心』という語は実在論的誤謬であるから、それらは存在しない。だからそもそも独我論などありえない」という説は話が性急すぎるかと思います。その論理でいうと「『日曜日』などもともと実在せず、言語の上だけの存在なのだから、『日曜日の経済的価値』など意味がない」という論説だって成り立ってしまいます。

「世界の見方・捉え方」としての言語ゲームの革新性―そのひとつは、最早「『日曜日』や『今』や『私』等は実在するか否か?」といった哲学的似非問題に思い煩わされる必要はない、ということを示した点にあります。『それら』の実在性を云々する前に、先ず「普段それらの『言葉』がどのように使われているかを見る」こと。そして、そのような観点から我々の生活を捉えたときに見えてくる新しい世界の相貌。

>その論理でいうと「『日曜日』などもともと実在せず、言語の上だけの存在なのだから、『日曜日の経済的価値』など意味がない」という論説だって成り立ってしまいます。

これは実在と意味を混同しています。たとえば、コナン・ドイルの言を信じるなら「『シャーロック・ホームズ』は架空の人物であり、その意味で実在しないが、『シャーロック・ホームズ』は推理小説である(当然ながら有意味である)」という論説なら成立するでしょうが。
我々が『日曜日』や『今』や『私』の実在性を問うとき―それらの『言葉』は“何”を「指し示して」いるのでしょうか? たとえば“僕”が「私の身長は169cmです」と言うとき―この言明における“私”は、工藤庄平という身体的存在者を「指示して」いますね。
では「私は現に今工藤庄平だが、横山信幸でもあり得たし、そもそも工藤庄平や横山信幸が存在しているにも関わらず私は存在しないこともあり得た」という言明は如何でしょう。この言明における“私”は、本当に、身体的存在者との関係が偶然的であるような現実性を「指し示して」いるのでしょうか。
私はその様相言明を為し得るし、その様相文を使うことが出来る―だからといって、そのような<私>が現実に存在しなければならないことになるでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120703/1341335112
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564

大分前に別のところでも書いたのですが、基本的に(一部?の論理学者の妄説に反して)様相文は真理値を持ちません。別の言い方をすれば、様相文の真理条件を云々するのはナンセンスということです。
詳しくは http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120207/1328617871 を御読みください。

「ヒトラーが著名な画家として生涯を終えることもあり得た」―ここで“著名な画家として生涯を終えたヒトラー”の実在性を云々することに意味があるでしょうか。

工藤さん、ありがとうございます。
おっしゃる通りです。
「シャーロックホームズが実在しない」からと言って、「『シャーロックホームズという推理小説』はナンセンスである」は導かれません。
同じく、「日曜日も経済も実在しない」から、「『日曜日の経済的価値』などナンセンスである」は導かれません。

だから、「我や心は実在論的誤謬である」から、「独我論はナンセンスである」を導くことはできないと思うのです。

おはようございます、工藤です。コメントをいくつか。

>「我や心は実在論的誤謬である」から、「独我論はナンセンスである」を導くことはできないと思うのです。

はじめに言っておきますと、「永井哲学の解消」と「独我論の論駁」は各々個別的に果たされるべき問題です。
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564 これを御読み頂ければ解る?と思いますが、独我論を論駁せずとも永井哲学は解消出来ます(逆もまた然り)。

先ず「普段『私』や『心』という言葉がどのように使われているか」を見る。次に「それ」と「哲学者の言語ゲームにおける『私』や『心』という言葉の用法」を比較してみる。これが全てです。

今更僕が言うまでもなく「独我論はナンセンス(というより端的な誤謬)」でしょう。
しかし[工藤庄平なる身体に受肉する<ココロ‐コトバ>]の唯独性は・・・
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20120209/1328771179

工藤さんの「<私>の形而上学を解消する」のページで書かれているのは、つまり、「永井の<私>のような自己の捉え方から世界を語ろうとするのは、言語ゲームの考え方に照らし合わせてみれば、それが勘違いであると分かる。」ということでしょうか。
そうだとすれば、それは全くその通りで、完全に正しいと思います。
ただし、独我論者や永井周辺の立場にいる人の問題意識が言語ゲームによって解消されるかは、疑問です。
それは、独我論が論駁された次のステージの問題なのではないかという気がします。

どうして、みんな独我論を目の敵にするんだろな。独我論者は他論を論駁したりしないのに。独我論が論駁されるなら、「独我」でいいよ。孤独な生。生まれる時も死ぬ時も孤独だし、その間だって、けっこう孤独でしょ。そんな孤独な生の駆け込み寺が、独我論と違うんかな~。他論に比べても実践的だし、ナンセンスだけど無意味ではないと思う。

taatooさん、こんばんは。

独我論はナンセンスです。でも前にも言いましたが、僕は独我論を否定していますけど独我論大好きです。僕が掴みたいと熱望している生と死の秘密を知るための一番のカギになると思っています。
だから、ナンセンスだけど無意味ではないとおっしゃる意図はとてもよく分かります。

上の本文を読んでいただいたなら、僕が独我論をいくつかに分類して考えていることは知っていただいていると思います。1つ目は懐疑論としての独我論、2つ目は認識論的独我論、3つ目は言語論的独我論です。taatooさんが言われている「独我論」はいちばん一般的な独我論であるところの、「世界にいる主体は私だけかもしれない」のようにいつも世界を考えるときに「かも知れないし、そーじゃないかも知れない」がつく懐疑的独我論ですよね。(間違っていたらごめんなさい。)
もし独我論の次のステージについて考えてみようと思われるなら、ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」はぜひお勧めです。

指示・伝達・並列不可能な[固有名を与えられた身体から開けた生]が存在することに対する驚愕は、永井均氏の言う 身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>~《私一般》なる概念的構成物とは無関係でしょう。
*この文を読む人が自得する他ありません

[工藤庄平なる身体から開けた生]の唯独性は、永井均氏の言う 身体や自己意識との関係が偶然的な<この私>~《私一般》なる概念的構成物とは無関係です。
とはいえ、[工藤庄平なる身体から開けた生]の唯独性は言語ゲームに現れません。
(永井均氏の謬見に反して)我々が伝達し合えるのは[工藤庄平なる身体から開けた生]の唯独性【という文字や発語】に過ぎないのですから。

ありがとうございます。

いつもながらの洞察と分析とご配慮に、リスペクトしています。あっさりと分析されている自分が、ちょっとつらいですが、うれしくもあります。自分の立ち位置って案外自分ではわからないもので、たぶん、ご指摘の通りかもしれません。懐疑論とつながっているのは確かです。仮説の累積が唯物論なら、独我論と同型だと思ってるくらいですから。いろんな独我論があるみたいですね。小学生くらいの頃に読んだ「胡蝶の夢」というお話が、私の独我論のイメージです。横山さんの分類のどれになるんでしょうか。「論考」は読んでみたいです。読めるかどうかには、懐疑的です。

永井均氏でも白熊クヌートetcでもあり得たのに、なぜ今現にこいつである<私>が存在するのだろうか?

―我々の生が死に囲まれているなら、知性の健康も狂気に囲まれている(ウィトゲンシュタイン)

或る人に真理を納得させるには、真理を証明するだけでは十分でなく、錯誤から真理への道を発見しなければならない(ウィトゲンシュタイン)

―とはいえ、錯誤から真理へ至る道の自得と錯誤を駆動する欲望の解消が融即することは希である、ようですね。

主不在。工藤さんのブログみたいですね。ウィットゲンシュタインも、とても詩的ですね。なんか、すごく優柔不断な感じが伝わってきます。そこが、また魅力なんでしょうね。でも、誠実で信頼の置ける感じもします。

「探究」261節:「それは感覚なんぞではないのだ。「E」と書くとき彼には何事かが起こっているのだ。それ以上のことは言えないのだ、と言ってみたところで、やはり何の役にも立たないだろう。「起こる」や「何事か」もまた公共言語に属しているのだから。」

私的言語を語ろうと、もがいているように見えるんですけど。横山さん、どう思われますか?

taatooさん、こんばんは。
確かに、このブログ、工藤さんの方が僕よりたくさん書いてくださってるかもしれませんね。( ^ω^ )

「探究」を読まれましたか。大修館版ですか。すごいですね。章立てもなく、どこで段落が切れるのかも記されてないから読みにくいですよね。僕は10回くらいは読んだと思いますが、まだ「探究」の7、8割方しか理解できないです。本意がどこにあるのか分かりにくくて読んでいたらつい眠たくなってしまう著作ですが、、まとまりのない文の書き方が魅力的で、最高に大好きな一冊です。

「論考」と「探究」でのウィトゲンシュタインの立ち位置はずいぶん違いますが、どちらも語りえないことと語りえることの境界を引こうとした著作であると思います。taatooさんの読みの通り、私的言語のようになってしまっているところも多いですね。語りえないはずの、境界外の事柄までを語ろうとしているのは、その語りえないことと語りえることの境界を引こうとしたためなのだと思います。

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