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2012年7月30日 (月)

論理的固有名と言語ゲーム≪「哲学探究」を探求する12≫

ここまで、実在論にせよ独我論にせよ世界を解釈することによって世界を知ろうとすることが厳密には不可能であることを考えてきた。ウィトゲンシュタインはこの地点から前に進むためには言語ゲームに依らなければならないとする。言語ゲームによって、言語の使用自体を言語の意味として理解することが、世界を理解する唯一の道だとするのだ。実在論や独我論がダメだった今、言語ゲームなら本当に大丈夫なのだろうか。
ここからは、この言語ゲームがどのようなものなのか、どのようにすれば言語ゲームによって言語と世界を把握することができるのかをみていきたい。
本節では、ラッセルの論理的固有名と言語ゲームの関係について考えてみよう。

一般名と固有名

物事の名には一般名と固有名がある。
「パンダ」「天体」「人間」「バンパイヤ」など、ものの種類を分類するときの名を一般名と言い、「カンカン」「地球」「松本人志」「ドラキュラ」など、個別のものを特定するときの名を固有名と言う。
たとえば、「ユニコーン」は角が一本生えている伝説の馬だが、これは動物種の名なので一般名である。「ペガサス」は翼の生えた伝説の馬だが、これはその一頭の個別の名なので固有名だ。

Pegasus
ペガサスの指示対象

さて、この一般名と固有名のものの存在を、論理文で言うときにどうなるか。
固有名の「ペガサス」の場合だと「ペガサスがいる」は、
「ペガサスが存在する」
∃p
(pはペガサス、∃は存在する…を表す)
で意味が通る。
しかし、一般名の「ユニコーン」の場合だと「ユニコーンがいる」は、
「あるものが存在し、それはユニコーンである」
∃x(Ux)
(xはあるもの、Uxはあるものがユニコーンであること)
としなければならないのだ。
そう考えると、固有名が何かを名指しているのに対して、一般名というものは、それが何かを直接名指すものではなく、ものの「性質」を表す語に過ぎないと言うことができそうだ。

語の意味にはSinn(ジン)とBeduitung(ベドイトゥング)があると以前述べた。Sinnは語の内包的意味で、その語がどうのようなものであるか形容して説明するものである(最近の訳本では意義と訳させることが多い)のに対し、Beduitungは語の外延的意味で、その語が何を名指すか、指示する対象を示すものである。
このSinnとBeduitungを用いて先ほどの論理文を考えると、一般名はSinn(内包的意味)を表していて、固有名こそがBeduitung(指示対象)を表しているものであるとも言える。
だから、論理学では固有名こそが本来の名であるような言い方をされることが多い。

固有名に関する2つの問題

しかし、ここで固有名に関する2つの問題が立ち上がる。
① 「ペガサス」は固有名であるが現実にBeduitung(指示対象)が無い。だから、「ペガサスは存在しない」という普通に意味が通る文が、意味不明のナンセンス文として扱われることになってしまう。「ペガサス」がBeduitungのみを指す単純な固有名だとすると変なことになってしまうのだ。
② 「フォスフォラスとヘスペラスは同じものである」という文が無意味になってしまう。「フォスフォラス」は「明けの明星」明け方の金星を指す固有名であり、「ヘスペラス」は「宵の明星」夕方の金星を指す固有名である。両者は固有名であり、そのBeduitung(指示対象)は金星という一つの天体である。だから、「フォスフォラスとヘスペラスは同じものである」という文は「金星と金星は同じものである」ということを意味していることになってしまい、無意味な文でしかなくなってしまう。「フォスフォラス」と「ヘスペラス」がBeduitungのみを指す単純な固有名だとすると変なことになってしまうのだ。

論理的固有名

そこで、ラッセルは論理的固有名というアイデアをでっちあげる。5分前世界創造説やラッセルのパラドクスのあのラッセルである。
ラッセルは次の3つを固有名の条件とした。
① 固有名のBeduitung(指示対象)はアプリオリに存在する。だから、Beduitungのない名は固有名でない。
② 固有名の機能とは何某かの特定の対象を名指すことのみである。
③ 固有名を使うものは、その対象を見知ってなければならない。
この条件に当てはまるものだけが固有名に値するとしたのだ。
この条件に当てはめてみると、「ペガサス」はBeduitungが無いうえに、誰もその対象を見た人がいないので固有名ではない。「松本人志」は彼を見知った人の視点では固有名だと言えるが、僕横山信幸は会ったことが無いので僕にとっては固有名ではない。僕の祖母「横山かね」は僕にとって見知った人間だがすでに他界しBeduitungが存在しないので、これも固有名ではない。
ラッセルによると、厳密にこの3条件を満たす、本来の意味での固有名は「これ」「それ」「あれ」といった直示的な表現のみがふさわしいものであるとし、これを「論理的固有名」と言った。
首をかしげたくなるような説だが、ラッセルがそこまで突っ走ってしまった気持ちもわかる気がする。
「ペガサスが存在しない」という文では、「ペガサス」が固有名ではなくなったのだから、単に「あらゆるものはペガサスではない」と同値のものを示す文だということになり、不思議はなくなる。「フォスフォラスとヘスペラスは同じものである」という文にしても、「フォスフォラス」も「ヘスペラス」も固有名ではないのだから、「或るものが存在し、それはフォスフォラスでもあり、ヘスペラスでもある」という文と同値になってはっきりと有意味な文になるので、不思議はなくなるのだ。

ウィトゲンシュタインの反論

しかし、これに対しウィトゲンシュタインは、これは本質的な問題解決ではないと言う。
「…「これ」という語…「それ」という語は何を指しているのか。混乱を引き起こしたくないなら、これらの語が何かを名指していると言わない方がよい。かつて、これこそが本来的な名であると言われたのである。…なるほど、我々が直示的な定義において名指されるものを指示し、その時に名を発音するというのは事実である。同様にして我々は直示的定義において一つのものを指しながら「これ」と発音する。「これ」という語と名が、しばしば文章の関係で同じ位置にくる。けれども、名にとって特徴的なのはまさにそれが直示的な「それがNである」によって説明されるということである。しかし、我々は「それを<これ>という」とか「これを<これ>という」とかといった説明をするだろうか?このことは名指すことの一つの神秘的なこととして把握することに関係している。名指すことは一つの語と一つの対象の奇妙な結合に見える。―哲学者が名と名指されるものとの関係そのものを取り出そうとして、眼前の対象を見つめつつ、或る対象をくり返し、また「これ」という語をくり返すとき、或る奇妙な結合が実際に生じてくる。なぜなら、哲学的問題は言語が仕事を休んでいるときに発生するからである。」(「探求」第38節)

結局は、ものの名を解釈して論理的に分析しようとすることによって、名の意味を取り出そうとすること自体が間違いなのであって、正しくは言語ゲームの中で考えなければならないものなのだ。言語ゲームにおける語のBeduitungとはゲームの中での語の使用においての語の役割(言語生活の中での働き)のことである。そして、その視点で言うと、言語ゲームの中でのものの「名」とは「これを○○という」の○○に当てはまる言葉としての役割を果たすものに過ぎない。だから、「これ」が本来的なものの名だとすることなんて、まったく本末転倒で問題を自分で複雑にしてしまっているだけの混乱だと言える。ものの「名」が、「名」として働いているときには、言語ゲームがゲームとして成立して、混乱は起きない。しかし、ラッセルのような哲学者がその「名」の意味を、意味だけで単独に取り出そうとして、ゲームから外れた瞬間に、「名」はその働きを停止し、意味は見失われてしまうことになる。「哲学的な問題は言語が仕事を休んでいるときに発生」してしまうのである。

そして、この言語ゲームの視点で考えると、さっきの固有名の問題はきれいに消失してしまう。なぜなら、「ペガサス」も「フォスフォラス」も「ヘスペラス」も、たとえば「背に翼を持つその馬はペガサスと呼ばれた」「明け方に輝いているあのフォスフォラスと呼ばれる明星と、夕方のあのヘスペラスと呼ばれる星は、実は同じ一つの天体なんだ」などというような言葉のやりとりの中で、語としていかなる役割を持つかということだけが問題になるのであり、その「語の役割」なるものだけが語の本来のBeduitung(指示対象)なのであって、それらの語が何を名指しているかという、モノとしての対象など実在しても実在しなくても関係なくなるからである。
こうして、哲学論争となっていた固有名の問題は回避され得ることになる。

ラッセルの固有名の問題について、ウィトゲンシュタインはさらに語っているのだが、それはまた次節で。

つづく

「探究」を探求する目次

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