フォト
無料ブログはココログ

« 独我論を論駁する1≪「哲学探究」を探求する9≫ | トップページ | 独我論を論駁する3≪「哲学探究」を探求する11≫ »

2012年6月23日 (土)

独我論を論駁する2≪「哲学探究」を探求する10≫

第2の論駁

第2の独我論は「世界とは私が認識する世界のことだ」とする認識論的独我論である。ここでいう「世界」は「この私」が開闢させることで存在しており、「この私」の認識そのものが世界の成立なのだとするものである。しかし、この認識論的独我論が示す「私」は、実は捉えることができない。捕まえようとしても雲散霧消してしまい、「私」そのものが消えてしまう、或いは逃げてしまうため、何も語れなくなってしまうのだ。本節では、認識論的独我論とは「私」の意味を取り違えたための混乱であることを考え、その論駁につなげていく。
さて、ここで問われている「私」とは何か。「私」の意味を曖昧にしたままでは、「世界は私の認識する世界である」というテーゼは宙に浮いてしまう。そこで、「私」の対象に成り得そうなものを、バラバラに解体して考えてみることに挑戦する。腕にナイフを突きつけられて傷が痛むという状況を例にして、「世界は私の世界」の「私」とは何を指すものなのかということを考えてみよう。

 

5人の私

私は、体にナイフを突きつけられて、実際に痛みを感じて、痛いと思い、痛いと言って、痛がる。この痛みの感じ方のそれぞれの段階はすべて、同一の人間のものであるとするのが、一般的な「私」の捉え方であろうが、それを、同一の人間かどうか分からないというところからスタートしてみようというのだ。
たとえば、アイウエオという5人の人間がいて、次のように一つの痛みと関わる、とする。
アは、痛みの原因となるナイフの傷を負う。
イは、痛みに対するふるまいを示して、痛がる。
ウは、「痛い」と言う。
エは、「痛い」と思う。
オは、痛みそのものを感じる。
Abcd
さて、この場合、ア~オの5人ともが同一の「私」でなければならないのであろうか。それとも、そのうちの1人が「私」であるのなら他の4人は他者になるのだろうか。
まず、初めに、ここでは「私」の「痛み」について考えているのだということを確認しておかねばならない。「問題となる痛みは私の痛みである」ということが問いの出発点になることをはっきりさせておかないと、定義次第で答えが変わるような、意味のない結論にしかたどり着けないかもしれない。「私の痛み」という言葉をスタート地点として「私」とは何かをアから順に考えていこう。

 

アは、「私」だろうか。その傷が「私」のこの痛みの原因になっているのであれば、その傷は「私」の傷だろう。ただ、傷の部分以外も含めてアの体全体が「私」の体であると言い切るには、情報が足りない。「この私」が傷の痛みだけを感じていて、他の感覚を何も持っていないというのであれば、その傷以外の部分も私の体であると言うことはできないかも知れない。しかし、もし、アの足に触れている土の冷たさを、「この私」が今実際に感じているとするなら、「この私」が感じている冷たさとアの足の感覚器が捉えるべき冷たさが一致していると判断できるなら、その冷たさの原因はアの足の感覚器にあると言うべきだろう。そしてその足は「私」の足というべきものに「なる」のだ。もし、「この私」に見えている光学的世界があり、その見えがアの目から見えるべき映像と一致すると判断できるなら、「私」の見えの原因はアの目にあると言うべきだろう。その目は「私」の目というべきものに「なる」。もし、この「私」に聞こえる音響世界があり、その聞こえがアの耳から聞こえるべき聞こえと一致していると判断できるなら、その聞こえの原因はアの耳にあると言うべきだろう。その耳は「私」の耳というべきものに「なる」。実際に「私」に感じられる感覚の、原因になっていると考えるべき感覚器がそこにあるのなら、それは私の体だと考えるべきものに「なる」。アのすべての感覚器が、「私」が実際に感じている感覚の原因になっていると判断できるなら、アは「私」の体だと言うことができるように「なる」のだ。このとき、アは正当に「私」の体だというべき物である。ただし、それは初めから「私」だと確定されているようなものではなく、状況から判断されて「後付け」で、「私」の体に「成る」ものなのだ。
ならば、この「アは私である」の「私」は、「世界は私の世界」の「私」と一致するのだろうか。これは、NOである。別のものなのだ。アは「私の痛み」という語が示す「私」の対象として探されてきた物であって、「世界を認識する側の私」ではない。アは「私」と呼ばれるに値する物として世界内に探し出された「私の答え=客体としての私」であって、「世界を認識する私」は世界の限界で答えを探す側の「私の問い=主体としての私」なのである。全く別物なのだ。アは、世界内の存在する「私」であるが、世界の限界で世界を認識する「私」ではないのだ。

 

では、イは「私」だろうか。その体が反応しているその仕草が、「私」が今現実に感じている痛みに対する反応と考える仕草であるならば、その体は「私」の体であると言うべきものになる。「私」の感じたこと思ったこと考えたことに対する反応と考えられるだけの、まっとうな対応の状況があれば、イは「私」の正当な体になる。では、この「イは私である」の「私」は「世界を認識する側の私」と一致するか。やはりNOである。アと同様に、イは「私」と呼ばれるに値する物として世界内に探し出された「私の答え=客体としての私」であって、世界の限界で答えを探す側の「私の問い=主体としての私」とは別物である。

 

次に、ウは「私」だろうか。「痛い」というその声が「私」の痛みに対して発せられた声だと考えるべき状況があるのなら、ウの声は「私」の声になり、その言葉は「私」の言葉になり、発声する体は「私」の体になる。ただし、ウの声や、ウの言葉やウの体は、「私」と呼ばれるに値する物として世界内に探し出された「私の答え=客体としての私」であって世界の限界で答えを探す側の「私の問い=主体としての私」とは別物である。

 

それなら、エも「私の答え=客体としての私」であって「私の問い=主体としても私」とは別物なのか。「痛い」という思いは、「私」の痛みに反応して心に生じた言葉なのだから、その思いは「私」の思いであり、その思いを生じさせるエの体は「私」の体だと言えるはずだ。しかし、この考えは変だ。「痛いと思った体がなぜエだと分かるのか」という問題が残るからだ。たとえば、「痛い」という言葉が心に生じるときに或る一定の脳波が生じ、それによってその脳が「痛い」と思ったことを確かめることができるとしよう。これなら、確かに「痛いと思った体がエだ」ということは分かるだろう。しかし、一定の外的表出によって「私」が判明するというのは、ウの時の、声を出して「痛い」と言った体を見分ける場合と同じ分類方法を考えることになってしまう。ここで考えたいのは、外的は表出からの判断ではなく、内的な「痛い」という「思い」のみを持っている体をどう分類するかということである。さきほど、「痛いという思いは私の痛みに反応して心に生じた言葉なのだ」と言ったが、この言い方は、エを「痛い」と思っている体のことだと定義してしまっている。これは不適切な定義であった。外的な反応にたよらずに「痛い」と思っている当の体が果たしてどれなのかを、決定する手立てはどこにもないからだ。「痛い」と思っているのは確かに「私」である。私が実際に痛いと思っているところからスタートしたのだから、これは間違いない。しかし、その「私」はエではないのだ。「痛い」と思っている「私」は本当にここにある。それは、世界を存在させている「私」であり、世界の限界としての「私」であり、「世界は私の認識する世界」というときの「私」である。しかし、その「私」は世界内にはどこにもいない。客体のない主体だけの「私」なのである。

 

だから、当然、オの体は「私」ではない。実際に「私」は痛みを感じている。そして、その痛みを感じているのがオだと定義したのだから、オは「私」でなければならないはずだ。しかし、これは間違った定義をしたための混乱である。この痛みを感じている体を一切の外的表出なしに探すなんて不可能であるし、無意味である。痛みの外的表出なしにオをその体とするような決め方はまったくダメなのだ。「私」は実際に痛みを感じている。けれど、その「私」はオではない。実際に痛みを感じている「私」はここにいる。それは「世界は私の認識する世界」というときの「私」である。しかし、その「私」は世界内のどこにもいない。客体のない主体だけの「私」なのである。答えのない問いだけの私なのである。

 

私Aと私B

このように見てみると、ア~オは、アイウとエオの2種類に分類できる。アイウの「私」は世界の中に存在し、傷ついたり、痛がったり、声を上げたり、話したり、食べたり、活動したりできる体を持ち得る「私」である。この「私」を以前僕は「私B」と名付けた。(※参考関連:独我論がダメなわけ5「世界の限界である私」は他者と向き合えるのか?エオの「私」は認識する側の「私」であり、世界の限界としての「私」である。これを僕は「私A」と名付けた。この「私B」と「私A」を混同してはならない。「世界とは私が認識する世界である」という認識論的独我論は「私B」と「私A」を混同して考えてしまったことによる混乱ではないだろうか。「私B」は「世界は私が認識する世界」の「私」とは別物であるため、「世界は私Bが認識する世界だ」という発言は偽になる。一方「私A」は発言しようにも
世界内に存在しない世界の限界であるから発言することが適わない。「世界とは私Aの認識する世界」という発言は「私A」にとってみれば当然すぎるような内容なのだが 口に出して言ってしまえば無意味なものになるのだ。いずれにしても「世界は私の世界」という文は正しい発言にはならない。この「私B」と「私A」を混同させてしまい、「世界とは私の世界」を意味のある発言であるかのように考えてしまったものが、認識論的独我論なのだ。
こうして、認識論的独我論は論駁される。

しかし、「世界は私Aが認識する世界」という文は、私Aの心の中だけで考えるには、思うだけであれば、完全に真な内容であり、独我論として可能なのではないかと疑われる。しかし、それもダメなのだ。これを否定するのが、第3の論駁である。次節で明らかにしたい。

 

つづく 第3の論駁へ

「探究」を探求する目次

« 独我論を論駁する1≪「哲学探究」を探求する9≫ | トップページ | 独我論を論駁する3≪「哲学探究」を探求する11≫ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/55032537

この記事へのトラックバック一覧です: 独我論を論駁する2≪「哲学探究」を探求する10≫:

» 認識論 [哲学はなぜ間違うのか?]
さて、拙稿のアプローチとしては、私はなぜ私を知っているのか、と問う前に、私はなぜ [続きを読む]

« 独我論を論駁する1≪「哲学探究」を探求する9≫ | トップページ | 独我論を論駁する3≪「哲学探究」を探求する11≫ »