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2012年6月 3日 (日)

独我論を論駁する1≪「哲学探究」を探求する9≫

独我論を論駁する。
ウィトゲンシュタインの哲学は、その生涯を通じて独我論と向き合うものだったと言えるだろう。「論考」で肯定的に捉えていた独我論を「青色本」や「探究」では否定的に捉え直すことで「私」と「世界」の存在を問い続けた。そのなかで、「独我論」は語り得ないだけではなく、論駁されるべきものだということを明らかにしたのである。本節では、独我論を3つに分類して捉え、それぞれの独我論が独我論として成立し得ないことを考えていきたいと思う。

3つの独我論
第1の独我論は、実在論に対する批判としての、懐疑論的独我論である。世界に私一人しか生者は存在せず、他の人間どもはみな意識のないゾンビなのかも知れない。あるいは、世界は培養液の中の脳が見ている夢かも知れない。マトリックスが作り出したヴァーチャル空間かも知れないし、5分前に突然出現した記憶群かも知れない・・・という懐疑がこの独我論である。ここに今パソコンの画面が開かれているこの世界は、本当は私が見ている夢かもしれない。そう考えると、目の前にあって、手に触れて確かめられるような物でさえ、絶対に存在するとは言えない。だから、物事が実在することを認めない、実在論を否定する世界観である。
第2の独我論は「世界とは私が認識する世界のことである」とする認識論的独我論である。この独我論では、独我論なのに他者に意識があるかどうかということは重要な問題にならない。なぜなら、私の意識のみが世界を立ち上げるという点において、比類なく突出しているため、他我があるかどうかという問題はもはやどうでもよくなるのである。この独我論は、世界が私だけのセンスデータによって全て決定されるという驚きであり、根本的な他者の不在に対する驚きである。その意味で「世界は私の世界である」と言われる独我論が、この第2の独我論である。
第3の独我論は私的言語に基づいて世界が立ち上がってくるという言語論的独我論である。今目の前に見えて感じられている「私の世界」の空は、私の言語において正しく「青く」、この左肩は私の言語においてまざまざと「痛く」、台所で苺ジャムが煮える香りはありありと「甘い」。世界は私の私的言語によって、正しく「青く」、まざまざと「痛く」、ありありと「甘い」ものだとして、言語的にくさびが打ち込まれ、これを基底として成立するものだとするのである。だって、私が感じているこの空のこの私的な青さを「本当の青さ」だと言わなくして言語にどんな意味があると言うのだろう。私が感じているこの私的な痛みを「本当の痛み」だと言わなくして世界にどんな意味があると言うのだろうか。私の感じている私的感覚こそが世界の基底にならなければ、世界は無意味なのじゃないか。この独我論は、私的言語によって私の私的感覚が正しく文章化されることで、はじめて世界が成り立つのだとする世界観である。世界は私だけが立ち上げる私的言語のみによって成立しているのだということへの驚きが、この独我論なのである。
これら、懐疑論的独我論と認識論的独我論と言語論的独我論は互いに関連し合い、密接に寄りかかりあってそれぞれのレベルで「世界に我が独り、比類無き存在である」ことを主張する。

第1の論駁
では、これらの独我論はどうすれば論駁できるだろうか。
まず第1の独我論はどうか。懐疑論的独我論とはどういうものか。ここで問うている懐疑論は、「私以外の人間はみな意識のないゾンビだ」などのように独我論的で非日常的な世界観を問いかける。しかし、問いかけるのみで、その内容を断定して押しつけはしない。もしこれが、私の意識以外は非実在なのだと断定してしまうものであったなら、非実在論的な世界が実在しているのだと主張するものになり、その断定は矛盾するものになる。非実在論的な世界の、あるいは独我論な世界の実在を主張しようとするなら、それは同時にその主張自身が懐疑の対象になってしまい、「その世界が夢かも知れない」という自己矛盾に陥るからだ。だから、ここで考えるべき懐疑論的独我論というものは何かを断定するものであってはならない。だから、懐疑論的独我論は世界の内容を断定して押しつけるものではない。「そうかも知れない」と言うだけのものなのだ。では、「かも知れない」と言って懐疑するだけで、世界を断定しないままで残すものであれば正しい論として成り立つのだろうか。世界に私一人しか生者は存在せず、他の人間どもはみな意識のないゾンビなのかも知れない。あるいは、世界は培養液の中の脳が見ている夢かも知れない。マトリックスが作り出したヴァーチャル空間かも知れないし、5分前に突然出現した記憶群かも知れない・・・というように、すべての懐疑に「かも知れない」をつけて発言すればいいのだろうか。しかし、だとすると、これはちゃんとした独我論と言える主張ではなくなる。確かにどんな懐疑も、断定することなく懐疑だけで終わらせるのであれば、真なる主張になることはなる。ただし、それはもはや何か意味ある内容を主張するものではなくなってしまうのだ。この懐疑論的独我論は、世界のあり方がどんなものであるかは絶対的なものとして何か一つの答えを決定することができないということを表すものにすぎないのである。だから、それは素朴な実在論を否定するだけでなく、素朴な独我論をも否定してしまうことになる。ここで問われていることが、世界を何らかの解釈として断定してしまうことができないとするものであることは、その通りであり、それ自体驚愕に値する。しかし、それはもはや独我論と呼ぶべきものではないのだ。「この世界は培養液の中の脳が見ている夢かも知れないし、5分前に突如出現した記憶群かも知れない」という発言は何か独我論的な世界観を確定したものとして捉えようと主張するものではなく、単に無数の世界解釈が可能であること、ひいては世界を一つの解釈に当てはめて理解しようとすることが無意味だということを主張するものにすぎないのだ。実在論と独我論が二項対立関係にあると考えるなら、実在論の否定が独我論の肯定を意味するのだと思えてしまう。しかし、そうではない。実在論と独我論は二項対立なのではないのだ。実在論も独我論も、その解釈が決定できると考える点では同じである。どちらも解釈説なのだ。つまりここで考えている懐疑論は、「実在論の否定=独我論の肯定」を意味するものではなく、「実在論と独我論の否定=解釈説の否定」を意味するものだったのだ。懐疑論的独我論は解釈説批判であり、独我論批判でもあったのである。懐疑論的独我論は正しい。ただし、それは独我論ではないのだ。

つづく 第2の論駁へ

「探究」を探求する目次

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