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2012年4月30日 (月)

言語が独我論を許さないわけ≪「哲学探究」を探求する8≫

実在論が許されないわけ

「言葉の意味」なるものを、それが何を指すかを解釈することなのだと考えると、言葉の意味は捕まえようとしても逃げてしまい、確定させることができなかった。
このことによって、実在論は否定される。
実在論は、世界を構成している事物のすべてが言葉に先立って存在するのだとする立場である。だから、実在論においては、神の視点から見て絶対的な真だといえるような言葉が存在し、その言葉が正しく世界の構成物の一つ一つを指し示し得なくてはならないのである。ところが、言葉が指示する対象というものは神の視点をもってしても決定することができないことを、ウィトゲンシュタインの規則のパラドクスが明らかにしてしまった。それゆえ、実在論は否定されることになったのである。
言葉の意味が解釈によって決定されるとすることを「意味の解釈説」と呼ぶとするなら、実在論は意味の解釈説に依るものである。意味の解釈説が成り立たなければ許されないものなのだ。そして、意味の解釈説が否定されるなら実在論も否定されるものであるのだ。

 

独我論が許されないわけ

では、独我論はどうなのだろう。独我論も、意味の解釈説が否定されることによって、同じく否定されるのだろうか。
結論から言うと否定されるのである。独我論も、意味の解釈説が成立しないと許されない考え方なのだ。
独我論による世界は、私の言語が私的に捉えたものとして開闢された「私の世界」である。それゆえ、この独我論の世界は、私的言語が否定されることによって否定されるのである。

 

わたし的には100万円の石

まず、価値についての思考実験で、私的言語による世界認識というものが幻想であることを再度考えてみたい。

100


一般的な流通では10円の価値しかない石があるとする。でも、僕にとっては100万円の価値があると思っている。この「僕にとっては100万円」は他人には通じない「私的」な価値であろうか。
これは当然このままでは私的な価値ではない。いくら一般流通で10円の価値しかなくっても、僕は100万円じゃないとこの石を売る気にはならないといっているのだから、僕がこの石についてどのような価値を感じているかは、他者にも通じるものである。だから、私的価値とは言えない。ここで問題にしている「私的」という概念は、原理的に他者に伝えられない物事についてを言っているものだから、「私的価値」とは他者との価値基準の確かめを不可能にしている状況を考えなければならない。価値の基準になるべき「価値を比べる」という状況が存在しない世界を考える必要があるのだ。つまり、価値の交換が成立しない世界を考えることになる。お金で物を買うことができない。物々交換ができない。何と何の価値が等しいかを比べることが全くできない世界を考えるのだ。物を買えないのだから、この世界では、物の値段というものがない。物が公的な価値を持たない。お金が公的な価値を持たない。二つのもののどちらが公的価値が高いかなんてことも問題にすることができないのだ。この世界では何物も公的な価値は無いのだ。価値が無いというのは0円の価値しか無いということでは無く、公的な価値という概念そのものが無いということなのだ。
さて、この世界で「この石は私にとって100万円の価値があるのだ」と言ってみるとどうなるだろう。もちろん公的な価値は無いのだが、私的な価値については主張できているだろうか。
この世界では、私はこの石を他者と交換できない。だから公的な価値を主張できない。それなら、自分の手持ちのもの同士で価値を比べることはできるだろうか。ここでは他者に全く価値を伝えられない世界を考えているのだから、自分自身でも価値を比べることはできないとするべきだ。そうじゃないと、僕が他のものよりも石に価値を感じていることを伝えることが可能になってしまう。価値の伝達が不可能な世界では自分でも価値を確かめることができないはずなのだ。だとしたら、「100万円」などという言葉は、価値というものが全く意味を失ってしまった世界であり、勝手に価値なるものを捏造してしまっただけということになる。あるいは、何の意味もない一人ぼっちの儀式をしているだけになるのだ。価値の交換という、公的な価値基準となる行為が無くなってしまえば、私的な価値というものも基準を失ってしまって、無意味な飾りになってしまうということなのだ。

 

私のかぶと虫

「私的な意味」が許されないのは、価値に関することだけではない。「私的な言葉」で何かを語ろうとしても、つねに、公的な基準をもとにした内容でなければならないのだ。そしてこのことは、意味のある事柄を語ろうとするなら、必ず公的な言葉で語らなければならないことを意味している。ウィトゲンシュタインは、この「公・私」の関係を「かぶと虫」の比喩で語っている。

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「293.…一人に一つずつ箱を持っていて、その中に私たちが「かぶと虫」と呼んでいるような何かが入っていると仮定する。誰も他人の箱を覗き込むことができず、自分のかぶと虫を見ることによってのみ、かぶと虫とは何であるかを知ることができる。このとき、どの人もそれぞれの箱の中に違ったものを持っていることが当然あり得る。…箱の中のそのものは言語ゲームの一部ではないし、何かあるものですらない。なぜなら、その箱は空っぽでさえあり得るのだから。いや、箱の中のこのものを通り抜けて「短絡させる」こともできるのだ。それが何であろうと、それは消え失せてしまうのだ。(探究)」

箱の中のかぶと虫は、私だけのかぶと虫であって、他人のかぶと虫とはどんなものであるか全くわからない。だから、他者のかぶと虫は言語に乗せることができない。そして、私自身のかぶと虫についても、この「私的かぶと虫」はどのように言おうとしても、言語に乗せることができないのだ。「かぶと虫」という言葉の意味の基準は「それぞれの箱に入っているもの」という公的な基準しか存在せず、私的な基準で「私的なかぶと虫」に意味を持たせることができないのだ。それぞれの私的なかぶと虫は、どんなものであっても構わないどころか、無くても構わないようなものだからだ。言葉は、私的なかぶと虫を通り抜けて短絡してしまうからだ。
私には私の私的かぶと虫が確かに在る。しかし、それは言葉の網に引っ掛かるような「在り方」ではない。だから単純に私たちは言葉の上で「私的かぶと虫は無い」としなければならないのだ。ただし、その「無さ」は存在しないものでさえ無いほどの「無さ」なのである。私的なかぶと虫を語ろうとしても、それを語るための基準となる物差しは、どこまでも公的な物差しになってしまうからである。

 

私的な基準などない

私的な言語を私的な基準でとらえようとしてもそれは無理なのだ。私的な言語を私的な基準で捉えようとする愚かをウィトゲンシュタインは次のように揶揄している。

「265.…(今日の朝刊が真実を報道していることを確かめようとしてそれを何部も買い込んでくるようなものである。)」

「279.「でも、私は自分の身長がどれくらいか知っている」と言いながら手を頭に乗せているのを想像せよ。」
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朝刊の真実を調べるのに同じ新聞で調べたり、自分の身長を測るのに自分の身長と比べたりすることと同じように、私的な基準で私的な世界語ろうとすることは、意味のない単なる儀式なのである。

私的なかぶと虫は私的世界に存在するだろう。
しかし、私的なかぶと虫は語ることができないのだ。だから、私的なかぶと虫は存在し得ないのだ。「かぶと虫」は公的なものでしかないのだ。

私的な価値は私的世界に存在するだろう。
しかし、私的な価値は語ることができないのだ。だから、私的な価値は存在し得ないのだ。「価値」は公的なものでしかないのだ。

私的な痛みは私的世界に存在するだろう。
しかし、私的な痛みは語ることができないのだ。だから、私的な痛みは存在し得ないのだ。「痛み」は公的なものでしかないのだ。

私的な世界は私的世界に存在するだろう。
しかし、私的な世界は語ることができないのだ。だから、私的な世界は存在し得ないのだ。「世界」は公的なものでしかないのだ。

 

言葉の意味は、神の視点ででも、私的な視点でも、解釈することができない

このように私的言語が否定されることによって「独我論」は否定される。
言葉の意味を解釈しようとするとき、神の視点で解釈しようとしてもその意味は逃げていって捕まえられなかった。だから、実在論は否定される。そこで、私的な視点で解釈しようとしてみる。しかし、私的な視点でも意味の解釈はできない。言葉の意味は、神の視点ででも、私的な視点でも、解釈することができないのだ。
独我論は、実在論と同様に、「意味の解釈説」の上に築かれた幻想でしかなかったのだ。

 

しかし、次のような反論が考えられないか。
「痛みのように、私の感じる私的な事柄のみが本当に存在するということだ。痛みは私的な存在でしかないのだ。だから、独我論は否定されてはいけないのだ。」…という反論。

しかし、これも単なる勘違いでしかない。これについては次節で述べたい。また、公的な言葉で意味解釈することはできるのかについても、考えていきたい。

 

つづく独我論を論駁する

「探究」を探求する目次

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コメント

 哲学は全然詳しくないのですが、これを読んでいてちょっと疑問に思ったことがあります。
 たとえば、ある色覚障害を持った人が居て、その人は可視線の外側の色も見ることが出来るとします。彼女は紫外線を色としてみることができるので、それを「ウルトラバイオレット色」と名づけたとしましょう。また、現代より古い時代を想定し、紫外線を検出する手段は存在しないという設定も付け加えてみます。
 この場合、
 1.「ウルトラバイオレット色」が見えるのは彼女だけ、またそれは色覚異常によるものなので、見えていないとか見えていると思い込んでいるわけではなく、本当に色として見えている。
 2.彼女以外の人は、紫外線の存在すら知らないので「ウルトラバイオレット色」という言葉の「言語ゲーム」には参加できない。
 とするなら、「ウルトラバイオレット色」は私的言語といっていいのでしょうか?また、そうならば彼女は見えているにも関わらず「ウルトラバイオレット色」の「意味」を知らないことになるのでしょうか?(多分、「ウルトラバイオレット色」自体を知っているのと、その「意味」を知っているのとではここでは大違いなのですよね・・・ややこしい)
 以前テレビで通常の人間より色の分解能が高いという異常(というか、彼らから見れば、こっちが異常なのか?)をもった人が居るというのをみたことがあって、似たような例をでっち上げて見ました。ちなみに、女性に多いそうなので、上の例では主語を彼女にしてあります(どうでもいいんですけど)
 そんなわけで、「知っている」と「言葉の意味を知っている」というのはやっぱり全然違うというのがポイントになっている??
 ちょっとわかりずらいかもしれませんが、疑問に思ったのでコメしてみました。
 
  

通りすがりさん、コメントありがとうございます。
通りすがりさんが考えておられることと似たようなこと僕も考えていると思います。かなり共感して、コメントを読みました。

警察犬は遺留品の匂いから犯人を見つける…というゲームをして主人と匂いの意味を共有します。
井上夢人の「オルファクトグラム」で主人公は匂いを見ることができる超能力を持っているけれど、僕たち一般凡人にも理解できるような言語で書かれています。

ウィトゲンシュタインの言う「私的言語」とは、原理的に他者と共有できない言語である…と僕は理解しています。
他者には理解できないが自分だけは理解できる言葉、そんなものがあるとしても、自分が理解するには何某かの言語ゲームによって何某かの概念分類化が為されなければならない。何の言語ゲームも概念分類化もなく、その対象を理解したのだと言ってもそれは何の意味もない単なる儀式を行っていることにしかならない。
そして、自分が理解するときに何某かの概念分類化が為されたのであれば、それは言語ゲームによって他者と共有できるものに違いない。だから、私的言語は不可能である。…というのが僕の「私的言語」理解なのです。

UV色を、僕ら一般凡人は見ることができない。けれど、「UV色」という語の意味は僕らにも理解できる。そして、それを見ている本人にしても他者の理解程度にしか「UV色」の意味は理解できないはずだと思うのです。

妻が見ている「赤」を僕は見ることができない。けれど「赤」の語の意味は二人で共有できる。そして、妻にしても僕と共有している程度にしか彼女の見ている「赤」の意味を理解できてないはずだと思うのです。

いかがでしょうか。通りすがりさんの思いとは少しずれたお返事になってしまったでしょうか。

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