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2012年3月11日 (日)

私的言語がダメなわけ2≪「哲学探究」を探求する7≫

前節では、その内容を他者に伝え得る可能性がない「私的言語」は、他者がその意味を捉えられないだけでなく、自分自身もその意味を捉えることができず、不可能であることを見てきた。本節では、具体的な場面について、どんな場面が私的言語に当たるのか、或いは当たらないのかを考えたい。

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地球最後の一人は私的言語を語るのか


 
①人類最後の一人になってしまったら、私は私的言語をしゃべるのか?

人類がみんな死んでしまって、最後の一人だけ生き残ったとして、その時私は私的言語なるものを語ることになるのだろうか。
ならないだろう。この状況で語るものは私的言語と呼べるものではない。確かに、誰も他者のいないこの状況は私的空間だと言うこともできるだろうが、私的言語ではない。すでに言葉を獲得している私は、他者の存在を前提にしたものの言い方を身につけてしまっているからだ。たとえば、足の小指を机にぶつけて「痛い」と叫んだとしたら、それは他者を意識した発言ではなかったとしても、他者を前提にした言語ゲーム無なり得る発声であることには変わりない。絶滅したと思っていた人類がまだ生き残っていて、私の「痛い」と叫ぶのを聞いたら、その意味は伝わり言語ゲームが成立する。だから、この「痛い」は私的言語ではない。

 

②人類最後の一人がまだ赤ちゃんだったとしたら、どうか?

では、人類最後の一人になってしまった私が、まだ言葉を習得していない子どもだったとしたら、どうか。子どもを養育する機械システムは生き残っていて、大切に育てられるのだが、言葉を教わらないで一人っきりで育っていく子どもだったとしたら、どうなのだろう。
この子が足の小指を机にぶつけたときの衝撃を知って、この感覚に「E」なる名をつけることを発明するとしよう。この発明は大変難しい発明だろうけれども不可能ではない。足の小指をぶつけるたびに「E」と叫ぶという独り遊びをすることも発明できるかもしれない。
この状況なら、私は、他者を全く前提としない言葉を生みだしたと言えるのではないだろうか。しかし、この状況でも「E」は私的言語ではないのだ。全滅していたと思われていた(私にとっては全くその存在を知らない)人類なるものが生き残っていて、この独り遊びを見たとすれば「E」の意味を理解しゲームに参加することが可能である。この「E」は一般の言語に翻訳可能になるのだから私的言語とは言えないのだ。私的言語とは一体何なのだろう。

 

 

③私が石だったらどうか?

では、私が石だったらどうだろう。石なのだけど、意識を持っていて、感覚もあって、ものが見えて、聞こえて、内的言語も持っている、とする。でも、石だから、外から見て何の反応もせず、意識があるようには見えないのだとしたら、どうだろう。外と交流しようがないのだから、他者がこの石の思いを理解したり言語ゲームを共有できたりすることはできない。だとしたら、この石は私的言語を持てるのではないか。

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しかし、ダメなのだ。二つのパターンが考えられる。一つは、石が自分で何を考えているのかが分からないからダメなパターンで、もう一つは、石が自分で何を考えているかを把握できるけれどそれが私的言語ではなくなるからダメだというパターンだ。

 

「パターン1」

一つめの、石が自分でなのを考えているかが分からないというのは、自分の考える言葉に対応する事柄を一つに決定することができず、その上言語ゲームにもなることが無く、言葉の意味は何の形をも取ることができないというものだ。
たとえば、石が、朝の光を受けて或る感覚を覚えるとする。そして、自分でその感覚を「A」と名付ける。次の日にまた朝の光を受けて或る感覚を覚える。自分でその感覚を「B」と名付ける。また或る時、雨に濡れて或る感覚を覚える。その感覚を「C」と名付ける。この「A」「B」「C」のようにあらゆる感覚にすべて別の名前をつけていくとする。しかし、あらゆるモノが全て別の名を持ってしまってそれぞれが関連を持てないのであれば、仲間分けによって世界を分析するという言葉の最も大切な機能は発揮されない。言葉に何らかの意味を持たせるためには何らかのルールにそって言葉を仲間分けしていかなければならないのだ。
ところが、このとき、「A」「B」「C」を外的な違いによって仲間分けしたのでは、それは私的言語ではなく公的言語になる。「A」と「B」が朝の光に対する感覚で、「C」だけが雨を受けた感覚だから違う、というのでは、他者から見てその違いを判別できる公的言語になってしまうのだ。だから、私的言語を考えるためには、外的な違いではなく、内的な違いを見出さなくてはならない。でも、これがうまくいかない。
「A」「B」は「まぶしい」、「C」は「冷たい」だと解釈するにもその意味を基礎づけるための、「秤」や「目盛り」になるような何かがなければならないのだが、うまく基礎づけられるような内的心象なるものを私的に決めることができないのである。内的心象において、或るものを「まぶしい」、或るものを「冷たい」とするためにはその仲間分けをするための「秤・基準スケール」は私的に存在しないのである。この辺り、詳しくは前節までで述べたとおりである。

 

「パターン2」

それでも、内的心象で、明らかに「まぶしい」と「冷たい」は確かに違う。雨に濡れていなくても光を浴びていなくても「まぶしい」とか「冷たい」とか感じることはできるはずだ。それなら、これは石が内的心象でけで感じる事柄を言葉にしたのだから、「私的言語」として成立するのではないか。
ところが、これが二つ目のダメなわけになるのだ。心象だけだろうが、何だろうが、「まぶしい」と「冷たい」の違いを自分自身で理解して分析するためには、やはり、その違いの基準を測るスケールが必要になるのだ。基準を設定してはじめて、石が自分で自分に「まぶしい」と「冷たい」の違いを分からせることができるようになる。そして、これは同時に「まぶしい」と「冷たい」の違いは他者に伝え得る内容になるのである。雨に濡れなくても「冷たい」と感じることがあったとしても「冷たい」とは「雨に濡れたときのような感覚」などと言うことによって自分で理解できるようになり、そして、何らかの公的言語に翻訳可能な言葉になるのだ。

 

結局、今回の考察は、「私的言語」とは他者がその意味を捉えられないため、自分自身にも意味が捉えられないような言語であること、そのために不可能な言語であることを確かめたにすぎないものになってしまった。

「私的言語」は、本当にどうしても不可能だとしなければならないのだろうか。
それでも、僕が今ここに感じている赤色の「赤さ」、胸の奥に疼くかさぶたの「重さ」は他者には決して伝えることができない私的な言語として、僕の中に存在しているのではないだろうか。この点に関して、次節で、独我論と関連づけて考えたい。

つづく

「探究」を探求する目次

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