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2012年2月26日 (日)

私的言語がダメなわけ1≪「哲学探究」を探求する6≫

ウィトゲンシュタインは私的言語が不可能だと言う。
私的言語とは、他人に通じる可能性が無い、私だけの言葉のことである。他人に通じないような言葉は、自分自身でさえもその意味を捉えることができないとして、私的言語は成立しないと言うのだ。本節では「探究」の中でこの問題を探り、私的言語がなぜダメなのか、どこまでダメなのかについて考えていきたい。

 

私的言語とは

ウィトゲンシュタインは「私的言語」を次のようなモノだとしている。
「243節.…誰かが自分だけの内的体験― 自分の感じ、気分などを― 自分だけの用途のために書き付けたり口に出したりできるような言語を考えることができるだろうか。― さて、我々は自分たちのふつうの言語でできないのか?〔もちろんできる。〕― だが、私の考えていることはそういうことではない。そのような言語に含まれる言葉はそれを話している者だけが知り得ること、つまり直接的で私的なその者の感覚を指し示すはずなのである。それゆえ他人はこの言語を理解することができない。」
他人には理解しようがない、私だけにしか分からない、まったくの「私的」な言葉が「私的言語」なのである。もし自分一人きりで使用している言葉があったとしても、他者から理解可能な一般言語に翻訳可能なのであれば、それはここで言う「私的言語」ではない。たとえば、火星で一人っきりで生まれ育った人物が、天才的言語能力を持っていて、一人で様々な言葉を発明し一人で使用しているということも、可能な事態として空想することができる。この場合、この言語が一般の言語に翻訳することができるのであれば、彼の言語は他者から理解され得る。そうすると、これは「私的言語」には当たらない。ウィトゲンシュタインの言う「私的言語」とは原理的に他人に理解されないような「私的さ」を持った言語のことなのである。

 

表出される感覚語は私的言語ではない

「256節.さて、私の内的体験を記述し、私だけが理解できるような言語についてはどうだろうか。どのようにして私は自分の諸感覚を言葉によって表記しているのか。日常行っているようにか。だとすると…私の言語は<私的>でない。…しかし、もし私に感覚の自然な表出がなく、感覚だけがあったとしたらどうか。私は単純に名と感覚を結びつけ、それらの名を記述に用いるのである。」
私の感覚語は、日常的には私が感じた内容を自然に表出することで、他者と共有することができる。痛いときには顔をしかめ「痛がる」ことで、私が痛みを感じていることを他者が認識し、「痛い」という語で表現される状況であることを共通認識できる。言語ゲーム論では、私が痛がることが「痛い」という言語の意味なのであるから、私が痛がってはじめて「痛い」という言葉は言葉であり得る。さっきの火星の一人ッぼっちの子が、一人ぼっちでも、痛いときには痛がり、楽しいときには笑い、普通に生活しているのであれば、その子の独り言は内容を確かめることが可能であり、一般の言語に翻訳できる。だから、これは私的言語ではない。それでは、この天才児に自然な表出が無いとするならどうなるのだろうか。 

 

痛みを表出しない子は「痛い」という言葉を持ち得ない

「257節.『人間が自分たちの痛みを表出しない(呻かず、顔をゆがめない、など)としたら、どうであろうか。そのとき人は子どもに<歯痛>といった言葉の慣用を教えることはできないだろう。』― では、その子どもが天才で、自分で感覚の名を考えだす、と仮定しよう。― その時にはもちろんそうした言葉で自分自身を理解させることなどできないだろう。― だから、彼はその名を理解しているがその意味をだれにも説明できないというわけか。― しかしそれなら、彼が<自分の痛みに名前を付けた>ということはどういうことなのか。― どのようにして彼は、痛みに名前をつけるなどということを行ったのか?!そして、彼が何をしたにせよ、それはどのような目的を持っているのか。― 『彼は感覚に名を与えたのだ。』と言う人があれば、その人は、単なる命名が意義を持つためには言語の中ですでにたくさんのことが準備されていなくてはならない、ということを忘れている。誰かが痛みに名を与えるということについて、我々が語るときにはその場合の『痛み』と言う語の文法こそ準備されていたものなのであって、それはこの新しい語の配置される場所を示している。」
この天才児はどんなに痛みを感じてもその痛みを顔に出すことは無い。だから、どの感覚が他者の言う「痛み」なのかを突き合わせることができない。他者がいう痛みとこの天才児の「痛み」を一致させることは原理的に不可能なのである。それでも彼がその在る感覚に、勝手に「痛み」と名付けることならできるのではないかと思われる。しかし、ウィトゲンシュタインはこれを否定する。或る感覚を「痛み」と名付けるときには、事前に「痛み」なる言葉がどう使われるのかという「文法」が準備されないと、命名が意義を持つことはできないからだ。言語ゲームの中で「痛み」と言う言葉がどう配置されるかは、「痛み」という言葉がどう使用されるかによって決まる。だから、使用されない言葉はそもそも意味が無いのである。そして、他者の確認が無ければ語の意味は確定されないのである。しかし、自分自身の心の中で呟くという方法で、言葉の使用できるのではないだろうか。そして自分だけで語の意味を決めてしまってもいいのじゃないかという疑問が湧いてくる。ところがウィトゲンシュタインはそれも否定する。

 

私的感覚「E」

「258節.次のような場合を想像してみよう。私はある種の感覚がくり返し起こることについて、日記をつけたいと思う。そのため、私はその感覚を『E』なる記号に結び付け、自分がその感覚を持った日には必ずこの記号をカレンダーに書きこむ。― 第一に言いたいのはこの記号の定義を述べることができないということだ。― にもかかわらず、私は自分自身に対してそれを一種の直示的定義として与えることができる!― どのようにして私はその感覚を指し示すことができるのか?― 普通の意味ではできない。だが私はその記号を口に出したり書いたりして、自分の注意をその感覚に集中させて― それゆえ、言わば心の中でそれを指し示す。― でも、何のためにそのような儀式をするのか。というのは、そのようなことは儀式であるとしか思えないからだ!しかし、定義は記号の意味を確定させるのに役立つ。― ところが、そのことは正に注意力の集中によって行われる。なぜなら、そうすることによって私は記号と感覚との結合を自分に刻みつけているから。― もっとも「自分に刻みつける」というのは、このような出来事を経過すれば、私が正しくその結合を思い出すようになるということでしかない。しかし、この場合、私には正しさの基準が無いのである。人は私にとっていつも正しいと思われることが正しいのだと言うかもしれない。このことはここでは<正しい>ということについて語ることができないということでしかないのだ。」
「260節.『ところで私はこれもくり返し起こった感覚Eだと信ずる。』―あなたは多分そう信じると信じているのだ。そうすると、この記号をカレンダーに記入した人は全然何も書きとめなかったことになるのか。―誰かが記号を― たとえばカレンダーに― 記入すれば何かを書きとめたことになるのが当然などと考えるな。書きとめることには確かに何らかの機能はあるけれども、記号『E』には今のところまだ何の機能もないのである。…」

E

同じ感覚だから同じ名をつけるのではない。同じ名をつけたから同じ感覚になったのだ。

私的言語がダメなわけ

自分だけで感覚に名をつけたとしてもそれは儀式でしかない。自分で何らかの感覚に「E」と名付けるとき、同じ感覚がくりかえし起こるから、それに同じ名「E」と付けたのではないのだ。同じ「E」という名を付けたからそれらは同じ感覚になったのである。だから、どんな感覚が起こっていたとしても、それに意味なく思いつきでそれに命名していることと変わりなくなってしまう。単に儀式でしかないのだ。言語ゲームにおいて、正しさの基準とはゲームの中での位置であるが、ここでのゲームとは、単に一人で儀式を行っているだけのものである。それは儀式の中の位置づけでしかなく、意義のある位置にはならないのだ。だから、「E」には意味があるとは言えない。何らかの記号をカレンダーに書きとめていたとしても、何の意味もないこと印を意味もないときに書いていただけなのである。ただし、この例では、ある感覚が起こった時に記された記号であることには間違いないとも言える。それは、感覚「E」を初めに定義するとき、それを「感覚」という公的言語で示しているからである。正しく「E」を私的言語として示すならば「E」は感覚でさえ無いはずだ。そうするともう「E」はいついかなる時に書き記されるべき記号なのか他人にも分からないだけでなく、自分にも分らなくなってしまうのである。
言語ゲームの中で位置づけられない語は、他者と意味を共有できないだけでなく、私的にも言語化できない。自分でも意味の分からない言葉になってしまうのだ。

「271節.…人が回すことができても、それと一緒に他のものが動かないような歯車は、器械の一部ではないのだ。」
言語ゲームの本質は語の適応例相互のネットワークであるから、自分で勝手に何かを名付けてもそれが何か他のものと関連づけられることがないのなら言語ゲームの一部となることはできない。だから、原理的に他者が理解することができない「私的言語」は、原理的に自分自身にとっても理解することが不可能なのだ。儀式でしかなく、言語ゲームに取り入れられない「飾り」の歯車でしかないのだ。

しかし、ここにある「この」痛みは「私的」でないのか、この赤色の「この」赤さは「私的」であると言えるのじゃないか。それがないとどんな言葉も死んでしまうのでなないか。そういう「私的」な言語があるのではないかということが、問われていることなのに問題がすり抜けてしまっていると思えるのは僕だけか。
また、他人と共有すれば言葉が意味を持つなんて変じゃないか。他人と共有しなくても意味ある言葉もあるんじゃないのだろうか。

これらの問いに、ウィトゲンシュタインはそんな疑問も一部は間違いであり、一部は問いでさえ無いとし、一部には答えていない。そこの所は次節で。

つづく

「探究」を探求する目次

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