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2012年2月13日 (月)

言語ゲームは実在論を許すか≪「哲学探究」を探求する5≫

規則のパラドクスは実在論を許さない

 

言葉の意味を解釈しようとしても、その解釈を一つに定めることができず、どんな解釈もが許され、それゆえどんな解釈もが許されなくなってしまう。だから、言葉は意味を持つことができない。こんな無茶苦茶な結論が規則のパラドクスから得られた。そして、このパラドクスは実在論をも否定する。

言葉の意味が一つの解釈に定められないということは、或る名前が、それ自体で存在する「事物」なるモノを指し得ないということになるだろう。なぜなら、或る事物がそれ自体で存在することができ、その「実在」しているモノが「名」を持てるのであれば、その「名」は、その解釈をその一つのモノに定め得るはずだからだ。つまり、「事物が何モノにもたよらずそれ自体で存在すること」を「実在」と呼ぶのだとすれば、規則のパラドクスは「実在」を許さないのだ。

 

 

言語ゲームは実在論を許すか

 

しかし、それだったら、ウィトゲンシュタインが規則のパラドクスを乗り越えるために考えた言語ゲームだって、実在論の否定の上に成り立っていなければならないことになる。ホントは実在論といっしょに言語ゲームも否定されなきゃならないのじゃないか。ウィトゲンシュタインは、言葉の意味を解釈だとするからパラドクスが起こるのであって、言葉の意味は言語ゲームの実践なのだとした。確かに、その言語ゲームが実在論無しでも実践できると言うのなら、言語ゲームはパラドクスを乗り越えられるだろう。しかし、そんなこと無理じゃないのか。

たとえば、建築家Aが助手Bに「板石!」と叫ぶとき、Aなる人物とBなる人物が実在しているという土台があってはじめて言語ゲームが成立するのではないか。建築家が助手に「台石」「柱石」「板石」「梁石」を叫ぶゲームを考えるには「まず、建築家と助手ありき」であって、はじめてゲームが為されるのではないのか。

ところが、そーではないのだ。言語ゲームは実在論という土台を必要としないのだ。

建築家が助手に「台石」「柱石」「板石」「梁石」を叫ぶゲームを考えるときには「まず、言語ゲームありき」なのである。実在する建築家Aがどんな人物であるかという問題は、まだこのゲームの中には含まれていない。この時点の「建築家」は、実在する建築家でも、実在する人物Aでも、実在する何者でもなく、単なる言語ゲームの駒でしかないのだ。

「建築家」を建築家たらしめるには、「建築家Aが叫んだ」などの言語ゲームをまた新しく導入する必要がある。言語ゲームがあって、はじめてその対象となるモノが世界内の存在として立ち上がるのだ。言語ゲームが無ければモノの存在も無いのである。「実在あって言語ゲームがある」のではなく、「言語ゲームがあって存在がある」のだ。だから、言語ゲームの考え方で言うと、この世界は「事物」がそれ自体で初めっから存在しているのではなく、言語ゲームの中で、言語ゲームというシステムの「部品」としてだけ存在し得るようなモノだけで出来ているのである。ブレーキシステムの中にあってはじめてブレーキレバーがブレーキレバーになるように、言語ゲームの部品となってはじめてモノは世界内の存在となるのだ。その意味で言語ゲームの世界は実在しないとも言える。

言語ゲームは実在論に乗っかる必要はないのだ。

だから、言語ゲームは、実在論を否定するものであり、規則のパラドクスを乗り越えることができるものなのだ。

 

 

言語ゲームは独我論を許すか

 

しかし、それなら、独我論についてはどうなのだろう。規則のパラドクスは独我論を許すのだろうか。言語ゲームは独我論を許すのだろうか。規則のパラドクスは、言葉の意味が一つの解釈に決定されないということだけではなく、私が私の考えている内容を正しく解釈することさえできないという結論をも導いた。このことから独我論の否定が導かれるのではないだろうか。

ウィトゲンシュタインは、この点について、私的言語の不能性や痛みの問題を論じながら深く考察している。僕もこの問題にしっかり食らいついていきたい。次節へ。

 

つづく

 

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コメント

ソシュールの構造言語学とヴィットゲンシュタインの言語ゲームはどういう関係にあるのだろうかという疑問が湧いてきます。差異の体系として言語はあるというソシュールの言語学は現代の様々な言語論的転回の起点になっていますね。ヴィットゲンシュタインはそれをどうとらえていたのでしょうか?ソシュールもモノと言語の直接的結びつきを否定して、記号としての言語を強調しますが、それは言語に関する20世紀の思考の特徴ですよね。特に構造主義はソシュールの言語学を全面的に取り入れています。それはヴィットゲンシュタイン同様、常識的な実在論を否定します。また主観ー客観の二元論やそこから出てくる独我論も否定します。ソシュールから出てきた構造主義とヴィットゲンシュタインの対話は実り多き果実をもたらすのではないでしょうか?

呼戯人さん、コメントありがとうございます。
「この世界の机という机が全部もともと、「机」という一つの性質を持っているから「机」という名がつけられたのではない。「机」という名がつけられたから、それらは同じ一つの性質を持っていることになったのだ」…この転回が、ソシュールの言語論的転回の中心だと言えるでしょうか。L.W.もこれの影響をモロに受けていると思います。「いつも同じ一つの感覚を持っているから「E」と名づけてカレンダーに記したのではない。「E」と名づけたから、それが同じ一つの感覚になったのだ」というアイデアが、私的言語を否定する土台になっていると思うからです。
おっしゃるように、構造主義とウィトゲンシュタインを比較して考えるのも面白そうですね。構造主義について勉強したいと思います。

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