フォト
無料ブログはココログ

« 規則のパラドクスが炸裂する≪「哲学探究」を探求する3≫ | トップページ | 言語ゲームは実在論を許すか≪「哲学探究」を探求する5≫ »

2012年2月 7日 (火)

ウィトゲンシュタインのパラドクスと言語論的転回≪「哲学探究」を探求する4≫

ウィトゲンシュタインの「哲学探究」を哲学的に探求する。

言語論的転回と言われるものが「探究」の大きなテーマの一つである。言葉の意味とは、それが指示する対象ではなく、その言葉の使用だと言うものだ。本節では、ウィトゲンシュタインが言語論的転回によって規則のパラドクスを誤解だと結論付けた問題について考えてゆきたい。

 

ウィトゲンシュタインのパラドクス

前節まででグルーとクワス算を紹介して規則のパラドクスについて検討してきたが、ウィトゲンシュタイン自身が挙げた例によって、もう一度パラドクスを見ておく。

「185節.…(0から1000までの範囲で2xという数列を正しく言えるようになった生徒とその先生との会話にて。)…
生徒に対して1000以上の数列(「+2」)を書き続けさせると、彼は、1000、1004、1008、1012と書く。
先生「よく見てごらん。何をやっているんだ。つまり、きみは2を足していかなければいけないんだよ。よく見てごらん。」しかし少年はそれが理解できない。
少年「ええ!でもこれでいいんじゃないですか。僕はこうしろと言われたと思ったんです。」あるいは「でも、僕は同じようにやってるんです。」
このとき、「でも、君は「+2」が分からないのか」と言い、説明をくり返しても役に立たない。この人間はごく自然にあの命令を我々の説明にもとづいて「1000までは2を、2000までは4を、3000までは6を加えていけ」という命令を我々が理解するように、理解してしまうのだ。」(「探究」)

と、こういうものである。
この少年は「+2」という規則に対して、当然の、フツーのこととして、我々とは違う解釈をしてしまう。この少年の間違いに対して、きちんと理由立てて、少年を納得させることはできないのだ。なぜなら、我々の解釈を正しいとするなら、少年の解釈も正しいとしなければならなくなってしまうからである。我々がフツーに我々の解釈をしてしまうように、少年はフツーにそのように解釈してしまうのだ。逆に言うと、少年がなぜかフツーにそのように解釈してしまうように、我々はなぜかフツーに我々の解釈をしてしまう。我々にとって規則「+2」が無限の数列の値をすでに確定させているように思えるのは、我々がはじめに「+2」を我々のルールに則って判断してしまっているためであるのだ。我々は我々のルールで判断し、少年は少年のルールで判断しているだけだ。だから、少年が少年のルールにのっとって判断しているその仕方が我々と違うからと言って、それが間違いだとは言えないのだ。違う解釈をしてしまう人種に対して客観的に、どちらが正しいと言うことはできず、いずれか一つの解釈を正統で正当な正答だとする理由はなくなってしまうのである。規則を解釈によって把握していこうとする考え方はパラドクスを起こしてしまうのである。

 

解釈説と実践説

そこで、ウィトゲンシュタインはこう言う。

「201節.我々のパラドクスは或る規則がいかなる行動の仕方も決定できないということだった。…ここに誤解があるということは、我々がこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行っているという事実のうちにすでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで我々を少なくとも一瞬のあいだ安心させてくれるかのように。言いかえれば、このことによって、我々は解釈ではなく、応用の場合場合に応じ、我々が「規則に従う」と呼び「規則に叛く」と呼ぶことがらのうちにおのずから現れてくるような、規則の把握が存在することを示すのである。それゆえ、規則に従うそれぞれの行動は解釈である、と言いたくなる傾向が生ずる。しかし、規則のある表現を別のある表現で置き換えたもののみを「解釈」と呼ぶべきであろう。」

つまり、規則の把握とは規則に従ったり叛いたりする事柄のうちに自ずから現れるべきものであるはずなのに、解釈が規則の把握であるかのように誤解してしまうからパラドクスが生まれるのだ。…と、言うのである。そして、こう続ける。

「202節.それゆえ、規則に従うということは一つの実践である。…」

ここに、ウィトゲンシュタインの言語論的転回が示されている。
規則の把握とはその人がどう行動するかで示されるのだと言うのである。「規則に従うこととは規則を解釈することである」とする考え方「解釈説」では、規則の把握が行為を決定しているというものだったが、「規則に従うことが実践なのだ」とする考え方「実践説」では、反対に、行為が規則の把握を決定しているのだと言うのである。

 

建築家と助手の言語ゲーム

このアイデアは具体的にはどうゆうことになるのか、「探究」の2節6節で建築家とその助手の会話例を挙げているので、この例で考えてみよう。

「2節.…一つの言語を考えてみよう。その言語は、建築家Aとその助手Bとの間の意思疎通である。…石材には台石、柱石、板石、梁石がある。BはAが必要とする順番で石材を渡さなくてはならない。このため二人は「台石」「柱石」「板石」「梁石」という語から成る一つの言語を使用する。Aはこれらの語を叫ぶ。―Bはそれらの叫びに応じて、石材を持っていく。―これを完全に原初的な言語と考えよ。」
1
言語ゲームが成立してはじめて語は意味を持ち得る。

「6節.我々は、2節で述べた言語がAとBの全言語であり、したがって、一民族の全言語であると想像することができよう。子ども達は、そのような活動を行いその際そのような語を用い、そのようにして他人の言葉に反応するよう教育される。訓練ということの一つの重要部分は教える者が諸対象を指差して、子どもの注意をそれらのものへ向け、それとともに何か語を発すること、たとえば「板石」という語をそのような形をしたものを提示する際に発音することから成り立つ。(これを私は「直示的説明」とか「定義」とか名付けない。子どもはまだ名づけるということがどういうことなのか問うことができないからである。私はこれを「語の直示的教示」と呼ぶ。これが訓練ということの重要部分を構成すると言ったが、それは、人間にとってそういう風になっているからであって、他の考え方ができないからではない。)このような直示的教示は語とものとの間に一つの連想的結び付きを作り出す、と言える。…たとえ、直示的教示が表象を喚び起こすのだとしても、私はそれが語の理解をもたらすと言うべきなのであろうか。「板石!」という叫びに応じてしかじかのふるまいをする者は、その叫びを理解していないのだろうか。もちろん、直示的教示がそうした理解を生みだすのに役立っているだろうが、しかし、それは一定の教育を伴ってはじめて、可能になるのである。…「私はロッドをレバーに結び付けて、ブレーキを修繕する。」もちろん、そのためには他の全機能が与えられていなければならない。それがあってはじめてブレーキレバーはブレーキレバーになり得るのである。…」

前節で考察したように、言葉の指示対象となるべき外延を取り出していくという規則を考えるとすると、「規則に従うことが解釈である」という考え方がそのまま「言葉の意味が解釈になる」という考えを指すことにつながる。
そうすると、「解釈説」とは、「板石」という言葉の意味が板石と呼ばれるべき対象のモノのことだということになる。しかし、これに対し、ウィトゲンシュタインは規則に従うことを実践だとする。つまり、言葉の意味とは実践そのものだと言うのだ。「実践説」とは、「板石」という言葉の意味はその指示対象ではなく、「板石!」という叫びに反応して助手Bがその石材を持っていくという適応なのだということになる。
そこで、この「台石」「柱石」「板石」「梁石」のみを全言語とする国を考えて、その国で子どもにこれらの言語を教え訓練する場面を想像してみる。大人が子どもに対して、「台石」の対象物を指差して「台石」と言い、「柱石」の対象物を指差して「柱石」と言う。このような行いは「直接指し示して(直示して)説明して、定義しているのだ」と普通は考える。しかし、ウィトゲンシュタインは、この時点ではまだ、これだけでは直示説明でも直示定義でもないのだと言う。この国のこの場面では、この子はまだ説明とか定義とかに対する実践の仕方を身に着けておらず、名づけるということがどのような実践なのか問えないのだ。名づけるということがどういうことか分からないのである。
2
言語ゲームごっこを修得してはじめて子は名の意味を知ることができる。

一般には、「板石」という言葉があれば、その意味はその板石と言われる当のモノを指す。しかし、「実践説」によると、この「板石」という言葉がいかに使用されるかという適応方法がまた別の言葉の適応方法と結びついて「適応例の相互ネットワーク」を形成したとき、その中でどのような位置に当たるのかを、意味することになるのである。ウィトゲンシュタインはこの「言葉の適応例を相互に関係づけたネットワークシステム」のことを「言語ゲーム」と呼ぶ。(正確に言うと、ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」の意味を「言葉の適応例のネットワークシステム」だと言ったわけではない。僕の勝手な言語ゲーム解釈です。)だから、実践説による言葉の意味とは「言語ゲームにおける言葉の使用」なのだということができる。

 

パラドクスの解消

そして、この実践説によって言葉の意味を捉えると、規則のパラドクスはパラドクスではなくなる。なぜなら、解釈説によって、「板石」という言葉がその指示対象なのだとすると、その解釈は解釈する人によってちがう場合、対象を確定することができなくなってしまう。だから、「板石」の解釈をさまざまに変容させ、「板石!」と叫ばれているのに「梁石」を差し出したり「板石」を隠したりすることもあるだろう。そして、どの解釈が正しいとは言えなくなる。しかし、これに対し「板石!」という叫びが手渡すという適応行為を促すという言語ゲームシステムの中での「位置」が「板石」という言葉の意味であるのだとすると、問題にはならない。「板石!」という叫びに対して反応するときに別の解釈をして「梁石」を差し出したり「板石」を隠したりしてしまうこともあるだろう。しかしこの時には、単に、当の言語ゲームに入り込めず、ゲームから押し出されるだけで終わる。逆なのだ。解釈が言語の意味を決めるのではなく、行為が言葉の解釈を確定するのだ。そして、板石を手渡すという反応をする者だけがこのゲームを理解し「板石!」という叫びの意味を理解していると言えるのだ。こうして、規則のパラドクスは消失する。
叫びに対してどう動くかというシステム全体の中で、言葉がどういう場所に位置づいて、どういう役割を果たすかがその意味になるのだ。たとえて言えば、ブレーキレバーはそれのみでブレーキレバーにはなり得ず、ブレーキシステム全体の中で位置づいてはじめてブレーキレバーになり得るのだ。

3
ブレーキシステムと連動しないとブレーキレバーじゃない。

だから、「「+2」をせよ」と言われているのに、「1000、1004.1008、1012」と「4飛び」の数列を答えてしまう少年は、単純に、「我々の「+2 」ゲームに参加できていない」として排除してしまっていいのだ。・・・と言うか、排除してしまうしかないのだ。我々の「+2」がどうしてもできないのなら、そのゲームに一緒に参加することはできないのだ。

どうだろう。なんだか、煙に巻かれている気もしないではないが、それしかしょうがないのである。「規則の把握」とは言語ゲームを実践し得る者だけが、逆に、その実践から求め得るモノでしかないのだ。「言葉の意味」とは言語ゲームを実践し得る者だけが、逆に、その実践から求め得るモノでしかないのだ。

ウィトゲンシュタインは、このアイデアを進めていって、私的言語が不可能であるという結論に達した。言語ゲームというシステムについてと私的言語については、また、次節で考えたい。

つづく

「探究」を探求する目次

« 規則のパラドクスが炸裂する≪「哲学探究」を探求する3≫ | トップページ | 言語ゲームは実在論を許すか≪「哲学探究」を探求する5≫ »

コメント

KAと申します。
規則のパラドックスがまるで理解できないでいます。
ご教示いただけないでしょうか?
例えば、1000の次に1004を書くのは、
「以下同様に」のルールに反しているように思うのですが、
どうなのでしょうか?

KAさん、いらっしゃい。ハンドル名でも記名していただけると僕としてもなぜかずいぶん安心して議論できるので、ありがたいです。過去には幾つものハンドル名を騙って人をバカにするような書き込みのしかたをする人がいたので、少しナーバスになりすぎているのかもしれませんが、容赦ください。

クワス算のページは見てもらえたでしょうか。「+2」の話でもおなじですが、規則設定というものは、いかなるものでも、元をただせば規則への従いかたを有限の例示によって示してその後は「以下同様に」と言って相手に判断してもらう以外ないものです。しかし、例示が有限である限りは、必ずその規則への従いかたは一意的に決まらない隙間が残ることになります。規則のパラドクスとはその事を指摘した問題提起です。


横山さん、さっそくありがとうございます。
クワス算のページも読んでいるのですが・・・。
素朴な疑問ですが、続けさせてください。

例示が有限といっても、何か、構造のようなものを示しているのであって、
「以下同様に(その構造をキープせよ)」ということで、
隙間は埋まるようにも思うのですが。

例えば、100、102と書いたとき、100と102の間には数は一つ(101)だけ、
1000、1004と書くと、間には3つの数があり、構造(?)が異なっています。
あるいは、前者の場合は次の次の数を続けているけれども、
後者は次の次の次の次の数で、やはり構造が異なっているように思います。

クワス算も読んでくださったのなら、もう付け加えることはないのですが、チャレンジしてもう少し説明してみます。

コミュニケーションの相手が人間なら生来的に我々と同様の反応を示すとイメージしてしまいやすいでしょうから、何か我々とは全く別の発想をする異星人をイメージしてみてください。
そして、その異星人と次のような表を読み取りあうとします。
1 a
2 b
3 c
4 d
5 e
……
これを見て、我々は普通これが(1 a)(2 b)(3 c)(4 d)(5 e)という組み合わせを示していると読みますよね。
でも、A星人は(1 b)(2 c)(3 d)(4 e)(5 f)と読むかもしれません。ここで、ウィトゲンシュタインが主張しているのは、我々の読み方が正当でその異星人の読み方が不当だとする根拠は論理の中にはないということだと僕は理解しています。
また、B星人は(1 i)(2 n)(3 s)(4 s)(5 g)と一見てんでばらばらにみえるような法則で読むかもしれません。もしかするとこの配列の1000桁目までは我々と同じ読み方をして1001桁目からはA星人と同じ読み方をする変なやつがいるかもしれません。たしかにどう見てもそいつは変なやつです。でも、B星人やその変なやつよりも我々の方が正当な規則にしたがっているとする根拠は論理の中にはありません。我々がその規則の正当性を説こうとしても相手はどこまでも「でも、それを正当だとする根拠は何か」ということを原理的に問い続けることができます。そして我々は最後には、規則の根底は必ず論理では保証できない思い込みによって支えられなければならないところにいたってしまいます。なぜなら、規則の根拠になる例示が有限でしかあり得ないから仕方ないのです。

と思います。

1000の次に1002を続けるべき理由として、我々が「次の次の数を続けていかねばならない」というものを挙げて説明したとしても、相手の異星人は、「でも、次の次の数を続けていかねばならないとする根拠は何か」と問うことも、「でも、次の次の数が1002だと言える根拠は何か」と問うこともできるのです。そのようなむなしい問いは論理的に無限に続けられるということです。

そもそも、「以下同様に」という語も含めてすべての言葉の使用規則が共有できていないところから検討しなければならないとすれば、
無限の状況パターンにおいて「以下同様に」という語の使用が適合するか否かという規則を確定させるためには、無限のパターン例示が必要となる。
という問題になってしまうわけです。

いや、もっと言えば、規則の適合ということの意味さえ共有できていないところから検討するのであれば、無限の規則適合のパターンがあったとしても、さらに、新たな場面ではいかなる判断も確定させることはできないとも言えます。

ありがとうございます。

まずは、概ね通じ合っているのに、齟齬が発生するケースを考えてみたいです。

先生が例示によって伝えようと意図した手順、原則のようなものをA、
生徒が例示によって理解した手順、原則のようなものをA'とします。
AやA'は、それぞれ、考察の便宜上、比較的安定的なもの(誰がいつやっても同じ結果が出るようなもの)とします。

①生徒は、どの数についてもちゃんとA'を適用したけれども、
  A'は、A'(1000)=1004となるようなものになっていた。
  (少なくとも具体的に示された数については、AとA'は一致するようになっていたが、
   なぜか、例えば「1000に対しては1004だよな」といった理解も含まれていた。)


②AとA'は、概ね一致していたが、生徒は1000への適用にあたって、
 なぜかA'を2回適用し、A'(A'(1000))=1004の結果を得た。
 生徒は、「以下同様」というのを、1000においては手順を2回適用するものだと理解していた。
(ここで2回適用というのは不一致の単なる一例です。)

このような感じで齟齬が発生するということなのでしょうか???

そんな感じだと思います。
①少年はずっと一貫して「同様に」(+2)を施しその上で「1000+2=1004」だと考えているか、或いは②「同様に」というものを、1000を相手にするときは「1000+2+2=1004」だと考えているか、ということですね。
その他の捉え方も有るかもしれませんが①②でもよいと思います。

ありがとうございます。
今までは規則のパラドックスが、
まるで理解できませんでしたが、
おかげさまで、少し、
分かってきたように思います。

「探究」について、もう少し読ませて頂こうと
思います。

KAさん、それはよかったです。よろしければまたお越し下さい。いつでも歓迎します。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/53911589

この記事へのトラックバック一覧です: ウィトゲンシュタインのパラドクスと言語論的転回≪「哲学探究」を探求する4≫:

« 規則のパラドクスが炸裂する≪「哲学探究」を探求する3≫ | トップページ | 言語ゲームは実在論を許すか≪「哲学探究」を探求する5≫ »