「論考」と「探究」≪「探究」を探求する0≫
ウィトゲンシュタインの「哲学探究」を哲学的に探求する。
ここまで「論理哲学論考」を読み、「私が私の言語によって世界を語る」というのはどーゆーことなのかを、また「世界は私の世界である」という前期ウィトゲンシュタインの独我論とはど―ゆーものなのかを、考えてきた。
ここからは、後期ウィトゲンシュタインが、言語と世界の関係や独我論などをどー捉えたのかについて考えていきたい。
ウィトゲンシュタインの後期哲学を代表する「哲学探究」では、
「規則は行動を決定し得ないこと」
「言語の意味はどんなふうにも解釈できるので、言語の意味を確定させ得ないこと」
それゆえ
「自分にしか分からない言葉で物事を考える『私的言語』なるものが不可能であること」
そして、
「言語と世界は『言語ゲーム』という社会的活動の中でのみ立ち上げることができること」
を示している。
これらのアイデアは、要素命題の組合せによって文の意味が確定されるとし、その根底に独我論があるとした「論考」とは完全に相容れない内容になっている。だから、後期ウィトゲンシュタインは前期の言語哲学を否定し、全く新しいアイデアで新しい哲学をしたと言われる。しかし、「論考」に見られる前期哲学と「哲学探究」に代表される後期哲学は相反するところばかりではなく、互いに補完し合っているものになっていると、僕には思えるのだ。僕には、「論考」と「探究」との関係が、同一のアイデアを特殊化したものと一般化したものでしかないように思えるのだ。
そこで、「規則」とは、「文の意味」とは、「言語ゲーム」とは、「私的言語」とは、「独我論」とは、どーゆーことなのか、ていねいに考えていきながら、「探究」を読み進めることに挑戦したい。
「探究」は現在、「哲学探究」と「哲学的探求」という2種類の訳本があるが、本ブログでは「探究」と記述していくことにする。
次節、規則に従うことの不可能性を考えるため、「クワス算」や「グル―」などウィトゲンシュタイン以外の人のアイデアについても考える。
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