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2012年1月22日 (日)

クリプキの「クワス算」≪「哲学探究」を探求する2≫

ウィトゲンシュタインの「哲学探究」を哲学的に探求する。

「201.われわれのパラドクスはある規則がいかなる行動の仕方も決定できないということ、なぜなら、どのような行動の仕方もその規則と一致させることができるから、ということであった。そしてまた、どのような行動の仕方も規則と矛盾させることができるということでもあった。だから、ここには一致も矛盾も存在しないであろうと考えられる。」(「哲学探究」)

ウィトゲンシュタインは、このように「規則が行動についてどのようにも決定することができ、また、どのようにも決定することができないこと」を指摘している。しかし、「探究」でこう述べた直後にこのパラドクスを「誤解」だと切り捨てている。この「規則のパラドクス」は確かに乗り越えられるべきものであろうが、考える価値の無いものでは、全くない。ウィトゲンシュタインよりも半世紀年下のアメリカ人哲学者ソール・クリプキは「ウィトゲンシュタインのパラドクス」として取り上げ、「クワス算」なるものによって深く考察した。
本節では、このクワス算について考えることで、どんな規則も、どんな行動と一致させることができてしまったり、矛盾させることができてしまったりする問題について追っていきたい。

 

正しく加算できる範囲は有限である

加算は、その「足される数」と「足す数」がどんなに大きくなっても計算して答えを出すことができる。
「無限の加算には無限の答えがすでに存在しているのだ。」・・・と実無限主義者はふつう考える。

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実無限に対抗する可能無限主義者にしても、はじめから無限の答えがあるという考えは間違いだとしながらも、「あらゆる加算はその「足される数」と「足す数」が与えられればその答えは必ず一つだけ決定することができる。」・・・と考える。
一般的な数学でも当然、この実無限主義か可能無限主義かのどちらかで、考えられている。

しかし、クリプキは、加算の計算ができる可能性は、実無限でも可能無限でもなく、有限であるとする。ある範囲までしか正しく可算できないと言うのだ。人間に計算する力が不足しているからできないというのでではなく、神でもできないと言うのだ。

Photo_3

デカルトは計算をするたびに間違いを起こさせる神を発明して、常に計算間違いをしてしまう可能性を考えたが、クリプキが言う「計算不能性」は、もともと正しい計算が有限でしかあり得ないというもので、神でさえ無限に正しい計算をすることはできないとするものだ。

 

「加算とは何か」をどう共有するか

では、もともと加算のルールというのはどういうものなのだろう。

「2グループの対象の数をそれぞれ数えておいて、その2グループの対象をすべてまとめて1グループにした上で、その数を数えたものについて、最初の数を加算した結果後の数になることを言う」・・・といったものを加算として考えてみようか。
しかし、ここで言う「対象」とか「数える」とか「まとめて1グループとする」というのはどういうことなのかと問われたとしたらそれに対するさらなる説明が必要になる。結局、加算のルールを最初の最初っから確認しようとすれば、具体的なモノを指さして直示的に説明していくことになるのじゃないだろうか。
たとえば、加算のルールを、言葉が全く通じない異星人に伝えようとするとそうなるだろう。

<左の3つのおはじきを指差して、「1,2,3,・・・3」と数える。右の2つのおはじきを指差して「1,2,・・・2」と数える。それから、左右のおはじきを合わせて一つのグループにして、「1,2,3,4,5,・・・5」数え、「3+2=5」と書いて見せる。>

と、こんな感じになるだろう。
うまい具合に相手の異星人は天才的コミュニケーション能力を持っていて、この説明で「3+2=5」の式とそれが示すものとの関係を理解することができたとしよう。(そーゆーことにしておかないと、まったくコミュニケーション不能になってしまってこれ以上、話を進められなくなってしまうのだから、しかたないと思ってほしい。)

<そして、この「3+2=5」と同じようにしておはじきで示しながら、「1+1=2」や「2+2=4」や「6+13=19」などと、いろいろな加算の例を見せて、「あとはこんな風に計算していく。以下同様だ。」と言って説明を終わる。>

無限に例を見せていくわけにはいかないから、この例示は必ず有限になる。

これで、この相手の異星人はすべての加算を正しくできるようになるのだろうか。そして、この説明で我々人間は「加算とは何か」を正しく共有できるようになるのだろうか。

 

クワス算

ところが、この異星人がついついクワス算をしてしまうクワス星人であったとする。

「クワスquus」算とはクリプキが「プラスplus」に対してそれとは少し違った計算規則として考えたものである。「plus」を「quus」というようにpをqに変えたのはクリプキのしゃれっ気なのだろう。こーゆーものである。
Quus
x*y=x+y(xとyがどちらも57より小さいとき)、または、5(xかyのどちらかが57以上のとき)

つまり、「足される数」と「足す数」のいずれもが57より小さいときは一般的なプラスの加算と同じ答えが出るのであるが、「足される数」と「足す数」のどちらかが57以上のときはその答えが「5」になるという計算が「クワス算」である。
「1+1=2、・・・2+2=4、・・・3+2=5、・・・6+13=19、以下同様。」という有限の規則説明をしたとき、確かにその中には57以上の数については説明していなかった。
そこで、われわれ一般の地球人は、先の説明で一般的なプラスの加算を考える「プラス星人」であるので、「以下同様」と言われたときに、普通のプラス加算をイメージしていくことができる。しかし、クワス星人は、「以下同様」と言われたときに、フツーにフツーのこととしてクワス算を考えることができるし、それしかできないのである。

そして、そのように考えると、プラス星人とクワス星人はどちらが正統でどちらが異端であるかを決めることができないのである。どちらが正しくどちらが間違いであるか決められなくなっているのだ。

だから

68+57=?

の答えは、
プラス人にとっては68+57=125で、125になるが、
クワス人にとっては68*57=5で、5になる。

また、そこに新しい規則を考えてしまうフラス人が来て68+57=7だと主張するかもしれないし。ブラス人が来て68+57=9と主張するかもしれない。
どの答えもそれぞれの規則において正しく、68+57=125だけが正統で正当な正答だと言うわけにいかないのだ。

そう考えると、我々はあらゆる規則に対して正しい従い方をすることができなくなってしまう。そんなことが正しい考察だと考えられるだろうか。クワス算についてはもっとしっかりと疑ってかかる必要を感じるのは僕だけじゃないだろう。

次節、クワス算に対する更なる考察と、言葉の意味を規定することさえできなくなると言うクリプキの主張について考えていきたい。ウィトゲンシュタインの言う、そのパラドクスが誤解だということについてもさらにその後で追求したい。

つづく。次節、規則のパラドクスが炸裂する

「探究」を探求する目次

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コメント

クリプキのこの議論は、「固有名」を巡る議論と一緒で私には理解を越えるものです。
通常の規則によれば、単純に加算が連続すると考えるのでは無いでしょうか。クワス算なるものはクリプキの議論以外には存在しません。それは社会的承認という次元を考えてみると通常の規則以外に私たちはクワス算の規則を必要としないと考えます。推論には社会的妥当性をもった連続性が必要と思います。しかし社会的妥当性がどのように担保されているかという根拠はどこにもありません。それは慣習としかいいようがありません。ニーチェなら力への意志とでもいうでしょう。力への意志が勝利を収める場所で慣習が成り立つということでしょうか。それ以外に規則の通用を担保するものはありません。無根拠な遊戯と実験が社会的妥当性という規則を成立させるのでしょうか?

理解を超えると言いながら鋭いコメントありがとうございます。お答えにならないかもしれませんが・・・。僕は、独我論と独我論のダメなわけにとても興味があるのです。ウィトゲンシュタインの言語ゲームや私的言語批判のアイデアには或る種の独我論を論駁できるものがあるのではないかと思い、これらのアイデアと独我論との関係をしっかりと追及していきたいと思っています。今考えているグルーやクワス算も、この後「探求」の202「規則に従うと言うことは一つの実践である」という言につなげていき、言葉の意味とは解釈ではなく使用だとする内容へ展開していきたいと考えています。ここで、「ことばが意味を持ち得ない」とするクリプキの懐疑を理解することが私的言語批判の理解につながると考えています。
言語が社会的な活動であることも考えていきたいと思いますが、その前にもうすこししつこく「グルー」と「クワス算」に取り組みたいと思います。

日本で独我論を問いつめているのは、永井均であると思いますが、彼の議論を読むと私は何故かコフートの自己愛人格障害の症例を思い出します。これは極端なアナロジーかもしれませんが、自分自身を含めて精神病理的な偏向と哲学的議論がどこかで繋がっているような気がしてなりません。では健康とはなにかという問題が持ち上がってきますが、哲学の側から見るといわゆる健康な人間とは思考が欠落した反射神経しかもたない野蛮と見えるような気がします。しかし哲学は面白いですよね!!

クワス算はpをqにひっくり返して名前を付けてるんですね。知りました。
加算の定義を変更する提案をします。
「0があって、1こ次の数」にする。

3+2=0+1+2+2=0+1+1+1+2=0+1+1+1+1+1=5  
0+1+1=2   
2+2=0+1+1+2=0+1+1+1+1=4

クワス算は計算すべてに定義がある。
という違いがあります。

少ない数の定義の塊のほうがすごいぞ!
だって、楽です。
だから
足し算のほうが正当
と地球人らしく偉ぶってみることはできますが、
クワス星人はクワス算のほうが楽だといいそうですねぇ。

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