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2012年1月

2012年1月29日 (日)

規則のパラドクスが炸裂する≪「探究」を探求する3≫

ウィトゲンシュタインの「哲学探究」を哲学的に探求する。

規則のパラドクスは、ウィトゲンシュタインが誤解だと評したことからウィトゲンシュタイン自身から認められていないように扱われることがある。しかし、クリプキが重要視したようにウィトゲンシュタインも重要視していたと、僕は信じている。僕が本ブログで問いたいと思っている「独我論と実在論」を本質的に問い、そして破壊してしまう大問題だからだ。

 

筆算しても数えてもクワス算

前節で、クワス算を正しいとする者を単純に間違いとすることができないことを考えた。でも、そんなの、おかしい。ちゃんと計算したり、数えたりすれば、68+57=125であることが、きちんと分かるはずだ。クワス人はちゃんと計算し、数え直したとしても、やはり、68+57=5だと言うのだろうか。
ちゃんと筆算してみよう。
僕らはちゃんと「+」計算の筆算の手順を覚えている。

1
68+57=125の計算手順例
Ⅰ.8+7=15 1くり上がって十の位の上に①を書く。
Ⅱ.①+6+5=12 1くり上がって百の位に1、十の位に2を書く。

――――――と、これが一般的な加算の筆算手順である。ところがこれに対してクワス算的筆算はこーなるである。

2
「+」のクワス的筆算方法
「68+57」の68も57も57以上なので・・・
Ⅰ.8+7=5 くり上がらないから、十の位の上に①を書かない。
Ⅱ.6+5=0 0だから、十の位にも百の位にも数字を書かない。

――――――となる。結局、xかyかが57以上であるなら、x+y=5であると言うこと以上のことは何も言っていないのだか、これがクワス的筆算なのである。
じゃあ、実際に数えてみれば、加算の正しい答えが分かるだろうか。
3_3

実際に数えればいーじゃん。
68と57あわせて、100と20と5、だから、125
でも、クワス的な数え方だと、68も57も57以上だから、クワス的にあわせて、5。
これがクワス的な「実際にあわせて数える」・・・の解釈だ。だから、5。

――――――となる。やはり、xかyかが57以上なら、x+y=5であるということ以上のことは出てこない。しかし、これがクワス的な「合わせて数えてみる」という言葉の意味になってしまうのだ。
ちゃんと、筆算したり数えたりしてもダメなのである。クワス算が正しいとする者は、理屈抜きでクワス算が正しいとしてしまうのだから。様々な角度から、その間違いを指摘しようとしても、その内容ではなく、その状況の方を変換してしまう。筆算の仕方自体を違う物にしてしまったり、数えるという概念自体を変えてしまったりするので、間違いでしかなかったものが間違いでなくなってしまうのだ。
つまり、規則を解釈するやり方は最終的に「だって、仕方ないじゃん。そーなんだもん」という勝手な思い込みによって支えられるべきものなのでしかないのだ。だから、その意味で、クワス人は「+」記号の意味をクワス算として解釈し、我々プラス人はプラス加算として解釈する。このどちらが正しいとか間違っているとか言う根拠は、無くなってしまうのだ。
それゆえ、「68+57=5」だと主張する人が現れたとき、それが間違いだと言えなくなってしまうのだ。規則をどう解釈しても、いずれも同じように正しいとすべきであり、いずれも同じように間違っているとすべきなのだ。このように考えてくると、もはや、僕らは「規則に従う正しさ」を失ってしまう。やはり、「規則のパラドクス」は認識力の不足による認知不能ではない。これは神の力を持ってしても認識することができない、基本的な無意味なのである。

 

言葉の意味がなくなる

この「規則のパラドクス」は、規則に従っているか否かに関する内容を無意味にするだけでなく、「言葉の意味」をも無意味にしてしまう。
たとえば、「グリーン」という言葉が意味するものは、「グリーン」という言葉によって示される外延をすべて挙げて並べることではっきりさせることができるだろう。しかし、「グリーン」という言葉で示す外延を挙げていけという「命令」を「規則」として捉えると、この「規則」はやはりいか様にも解釈できるのだ。そして、「グリーン」という言葉はいかなる意味をも持つことができ、いかなる意味をも持つことができなくなってしまう。グルー星人はエメラルドをグルーだと解釈し、我々グリーン星人はグリーンだと解釈する。どちらも正しく、どちらも正しくないのである。
こうして言葉という言葉はすべて意味を確定させることができなくなってしまう。クリプキのこの「規則のパラドクス」は言葉の意味を消失させてしまう。恐るべき爆弾なのだ。

 

自らの考えの意味さえなくなる

そしてこのパラドクスの破壊力はさらに大きく炸裂する。他者との意見の違いの正誤を決定できないだけでなく、自分自身がどう解釈しているかさえも決定できないと言うのだ。

こういうことである。
自分で思い込んでいることが規則に従うことで無いとするならば、それは単に思い込んでいるだけで規則に従っている訳ではないとする立場に立つならば、自分が規則にどのように従っているのかを自分で知ることができない、とするのだ。僕は僕がどのように規則に従っているのか自分で知らないのである。だって、僕は僕自身がどのように規則に従っているのかを、自分自身に納得させられるだけの言葉を持たないのだから。
だから、僕は「+」記号によってどんな計算をしていたのか自分で分からないことになってしまう。
そして、これは、僕が「僕自身どのように規則に従っているのか」を決められないのだということであり、僕が僕自身何を言っているのか、自分が使っている言葉の意味さえ正しく掴めないことになってしまうということなのだ。僕は僕が何を言っているのか知り得ないのだ。僕は僕が何を思っているのか知り得ないのだ。

 

 

とんでもない爆弾だ。あらゆる、哲学を、世界を破壊してしまう。この徹底的な破壊の中からウィトゲンシュタインは言語ゲームというアイデアとともに新しい哲学と世界を再生させる。そして、この爆弾によって「独我論と実在論」が破壊されることになると僕は考えている。でも、それらはまた明日。

 

つづくウィトゲンシュタインのパラドクスと言語論的転回

「探究」を探求する目次

2012年1月22日 (日)

クリプキの「クワス算」≪「探究」を探求する2≫

ウィトゲンシュタインの「哲学探究」を哲学的に探求する。

「201.われわれのパラドクスはある規則がいかなる行動の仕方も決定できないということ、なぜなら、どのような行動の仕方もその規則と一致させることができるから、ということであった。そしてまた、どのような行動の仕方も規則と矛盾させることができるということでもあった。だから、ここには一致も矛盾も存在しないであろうと考えられる。」(「哲学探究」)

ウィトゲンシュタインは、このように「規則が行動についてどのようにも決定することができ、また、どのようにも決定することができないこと」を指摘している。しかし、「探究」でこう述べた直後にこのパラドクスを「誤解」だと切り捨てている。この「規則のパラドクス」は確かに乗り越えられるべきものであろうが、考える価値の無いものでは、全くない。ウィトゲンシュタインよりも半世紀年下のアメリカ人哲学者ソール・クリプキは「ウィトゲンシュタインのパラドクス」として取り上げ、「クワス算」なるものによって深く考察した。
本節では、このクワス算について考えることで、どんな規則も、どんな行動と一致させることができてしまったり、矛盾させることができてしまったりする問題について追っていきたい。

 

正しく加算できる範囲は有限である

加算は、その「足される数」と「足す数」がどんなに大きくなっても計算して答えを出すことができる。
「無限の加算には無限の答えがすでに存在しているのだ。」・・・と実無限主義者はふつう考える。

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実無限に対抗する可能無限主義者にしても、はじめから無限の答えがあるという考えは間違いだとしながらも、「あらゆる加算はその「足される数」と「足す数」が与えられればその答えは必ず一つだけ決定することができる。」・・・と考える。
一般的な数学でも当然、この実無限主義か可能無限主義かのどちらかで、考えられている。

しかし、クリプキは、加算の計算ができる可能性は、実無限でも可能無限でもなく、有限であるとする。ある範囲までしか正しく可算できないと言うのだ。人間に計算する力が不足しているからできないというのでではなく、神でもできないと言うのだ。

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デカルトは計算をするたびに間違いを起こさせる神を発明して、常に計算間違いをしてしまう可能性を考えたが、クリプキが言う「計算不能性」は、もともと正しい計算が有限でしかあり得ないというもので、神でさえ無限に正しい計算をすることはできないとするものだ。

 

「加算とは何か」をどう共有するか

では、もともと加算のルールというのはどういうものなのだろう。

「2グループの対象の数をそれぞれ数えておいて、その2グループの対象をすべてまとめて1グループにした上で、その数を数えたものについて、最初の数を加算した結果後の数になることを言う」・・・といったものを加算として考えてみようか。
しかし、ここで言う「対象」とか「数える」とか「まとめて1グループとする」というのはどういうことなのかと問われたとしたらそれに対するさらなる説明が必要になる。結局、加算のルールを最初の最初っから確認しようとすれば、具体的なモノを指さして直示的に説明していくことになるのじゃないだろうか。
たとえば、加算のルールを、言葉が全く通じない異星人に伝えようとするとそうなるだろう。

<左の3つのおはじきを指差して、「1,2,3,・・・3」と数える。右の2つのおはじきを指差して「1,2,・・・2」と数える。それから、左右のおはじきを合わせて一つのグループにして、「1,2,3,4,5,・・・5」数え、「3+2=5」と書いて見せる。>

と、こんな感じになるだろう。
うまい具合に相手の異星人は天才的コミュニケーション能力を持っていて、この説明で「3+2=5」の式とそれが示すものとの関係を理解することができたとしよう。(そーゆーことにしておかないと、まったくコミュニケーション不能になってしまってこれ以上、話を進められなくなってしまうのだから、しかたないと思ってほしい。)

<そして、この「3+2=5」と同じようにしておはじきで示しながら、「1+1=2」や「2+2=4」や「6+13=19」などと、いろいろな加算の例を見せて、「あとはこんな風に計算していく。以下同様だ。」と言って説明を終わる。>

無限に例を見せていくわけにはいかないから、この例示は必ず有限になる。

これで、この相手の異星人はすべての加算を正しくできるようになるのだろうか。そして、この説明で我々人間は「加算とは何か」を正しく共有できるようになるのだろうか。

 

クワス算

ところが、この異星人がついついクワス算をしてしまうクワス星人であったとする。

「クワスquus」算とはクリプキが「プラスplus」に対してそれとは少し違った計算規則として考えたものである。「plus」を「quus」というようにpをqに変えたのはクリプキのしゃれっ気なのだろう。こーゆーものである。
Quus
x*y=x+y(xとyがどちらも57より小さいとき)、または、5(xかyのどちらかが57以上のとき)

つまり、「足される数」と「足す数」のいずれもが57より小さいときは一般的なプラスの加算と同じ答えが出るのであるが、「足される数」と「足す数」のどちらかが57以上のときはその答えが「5」になるという計算が「クワス算」である。
「1+1=2、・・・2+2=4、・・・3+2=5、・・・6+13=19、以下同様。」という有限の規則説明をしたとき、確かにその中には57以上の数については説明していなかった。
そこで、われわれ一般の地球人は、先の説明で一般的なプラスの加算を考える「プラス星人」であるので、「以下同様」と言われたときに、普通のプラス加算をイメージしていくことができる。しかし、クワス星人は、「以下同様」と言われたときに、フツーにフツーのこととしてクワス算を考えることができるし、それしかできないのである。

そして、そのように考えると、プラス星人とクワス星人はどちらが正統でどちらが異端であるかを決めることができないのである。どちらが正しくどちらが間違いであるか決められなくなっているのだ。

だから

68+57=?

の答えは、
プラス人にとっては68+57=125で、125になるが、
クワス人にとっては68*57=5で、5になる。

また、そこに新しい規則を考えてしまうフラス人が来て68+57=7だと主張するかもしれないし。ブラス人が来て68+57=9と主張するかもしれない。
どの答えもそれぞれの規則において正しく、68+57=125だけが正統で正当な正答だと言うわけにいかないのだ。

そう考えると、我々はあらゆる規則に対して正しい従い方をすることができなくなってしまう。そんなことが正しい考察だと考えられるだろうか。クワス算についてはもっとしっかりと疑ってかかる必要を感じるのは僕だけじゃないだろう。

次節、クワス算に対する更なる考察と、言葉の意味を規定することさえできなくなると言うクリプキの主張について考えていきたい。ウィトゲンシュタインの言う、そのパラドクスが誤解だということについてもさらにその後で追求したい。

つづく。次節、規則のパラドクスが炸裂する

「探究」を探求する目次

2012年1月 8日 (日)

「グルー」のパラドクス≪「探究」を探求する1≫

ウィトゲンシュタインの「哲学探究」を哲学的に探求する。

ウィトゲンシュタインを探求すると言ったそのしょっぱなから、ウィトゲンシュタイン以外の人物のアイデアの紹介を始めるのはどんなものかとも思うが、「探究」の言っている「規則解釈の不可能性」と深く関連することがらとして、「グルー」と「クワス算」を考えることから「探究」の検討に入っていきたいと思う。

「グル―」は、ウィトゲンシュタインより17歳若いアメリカ人哲学者グッドマンが、帰納法の可能性を懐疑して編み出した色彩に関するお話である。
帰納法というのは、これまでの経験から得られたたくさんのデータをもとにして、同様の結果を推測することができるとするものである。慣性の法則も、F=maも、メンデルの遺伝法則も、科学的法則と呼ばれるものはすべて帰納的に得られる仮説である。
たとえば「エメラルドはグリーン色だ」という文に対して、これまで土中から掘り出されたエメラルド10000個がすべてグリーン色と認められれば、この文は十分に確証することができ、10001個目のエメラルドもグリーンだと正しく推測することができる。
ここまではどこにもおかしなところはないはずだ。しかし、ここで、「グルー」という色概念を持ってくると変なことになってしまうのだ。

こーゆーものだ。
「『グルーgrue』は、時刻tより前に調べられたものについてはそれがグリーンgreenである時に適用され、それ以外のものについてはそれがブルーblueであるときに適用される。」(グッドマン「事実・虚構・予言」)
これをエメラルドの話で考えてみるとこうなる。「エメラルドはグルーだ」という文に対して考えると、或る時刻tの時点ですでに土中から掘り出され調べられたエメラルドの色はグリーンgreenであることになり、まだ土中にあって調べられてないエメラルドはブルーblueであることになる。

Greengrue

この、「グルーgrueが時刻t以降にブルーblueとして確認される」というのは掘り出される時に青く変色するという意味ではない。時刻tの時点で掘り出されていたものが、たまたまグリーンgreenで、掘り出されていなかったものがたまたまブルーblueだっただけのことである。そんなことは、ほとんどありそうに無い話ではあるが、まったく無いという訳ではない。「グルーgrue」という色概念は、ずいぶん無理な設定を要求する言葉ではあるが、絶対あり得ないことを言うような、不可能で無意味な言葉だというわけではない。変ではあるが、そーゆー変なものとして認められるべき言葉である。

しかし、この「エメラルドはグルーgrueだ」という文が認められるのであれば、「これから掘り出されるエメラルドはブルーblueだ」とする推測を認めなければならないことになる。ただ、この推測を認めるわけにはいかないだろう。もし、この推測が認められるなら、次に掘り出されるエメラルドはどんな色にでも推測できてしまい。推測自体が意味を失ってしまうことになるからだ。
こういうことだ。グレッドgred(:時刻tまでに調べられたものの色がグリーンgreenで、まだ調べられてないものの色がレッドredであるような色を示す形容詞)を用いて「エメラルドはグレッドgredだ」という文で推測すれば、次に掘り出されるエメラルドはレッド赤色だと推測しなければならない。
グレローgrellow(:時刻tまでに調べられたものの色がグリーンgreenで、まだ調べられていないものの色がイエローyellowであるような色を示す形容詞)を用いて「エメラルドはグレローgrellowだ」という文で推測すれば、次に掘りだされるエメラルドはイエロー黄色だと推測しなければならない。
こんな推測の仕方に何の意味がるだろう。こんな帰納的推測が正しいはずが無い。こんなおかしな言葉づかいをすること自体、許される訳が無い・・・と普通は考える。
では、この「グルーgrue」「グレッドgred」「グレローgrellow」などという形容詞のどこかがダメなはずなのだが、どこがダメなのだろうか。
これらの形容詞の定義に、「時刻t」などという恣意的な時間指定があるのがダメなのだろうか。それとも、「調べたもの」などという、人為的な作業を前提としているからダメなのだろうか。

しかし、生まれつき「グルーgrue」という言葉を使っていて、「グリーンgreen」「ブルーblue」の方を知らないという「グルー国」の言語を考えた場合、この批判は当たらなくなる。

そういう言い方をするなら、僕らは生まれつき「グリーンgreen」という言葉に慣れ親しんでいるグリーン国の住人だとも言えるだろう。グリーン国では「グリーンgreen」「ブルーblue」という言葉がもともとあってこれをもとに「グルーgrue」「ブリーンbleen」を定義する。「ブリーンbleenとは、時刻tまでに調べられたものについてそれがブルーblueであり、時刻tまでに調べられなかったものはグリーンgreenである」という具合にだ。

グリーン国で僕らが考える「エメラルドはグル―だ」のイメージ
Greengrue_2


グリーン国で僕らが考える「エメラルドはグリーンだ」のイメージ
Greengreen_3

これが逆に、グル―国では「グルーgrue」「ブリーンbleen」という言葉がもともとあって、これをもとに「グリーンgreen」「ブルーblue」を定義する。「グリーンgreenとは、時刻tまでに調べられたものについてグルーgrueであり、時刻tまでに調べられなかったものについてはブリーンbleenであるような色だ。」「ブルーblueとは、時刻tまでに調べられたものについてはブリーンbleenであり、時刻tまでに調べられなかったものについてはグルーgrueであるような色だ。」という具合にだ。

グルー国で彼らが考える「エメラルドはグルーだ」のイメージ
Gruegrue

グルー国で彼らが考える「エメラルドはグリーンだ」のイメージ
Gluegreen

こう考えると、「グルーgrue」「ブリーンbleen」の方ばかりが、時制に依存しているからダメだとか、人為的であるからダメだとは、単純に言えなくなる。グル―国の人から見ると、グリーン国の我々の方がよっぽど変な言葉づかいをしているとも言えるのだ。

だから、実際に時刻tになるまでは、「エメラルドはグリーンgreenだ」も、「グルーgrueだ」も、どちらが正しくてどちらがダメだとできるような積極的な証拠は無いのだ。
ただし、それは時刻tになるまでの話だ。時刻tを過ぎてしまえばその推測の正しさや間違いが立証される。時刻tを過ぎて発見されたエメラルドがグリーンであったなら、「エメラルドはグリーンgreen」という法則は立証され、「エメラルドはグルーgrue」という法則は否認されることになる。
しかし、もちろん、時刻tを迎えてからその正しさや間違いが分かっても意味が無いとも言える。時刻tを迎えて「エメラルドはグルーgrueである」が否認されたとしても、「グルー2grue2:時刻t2までにグリーンgreenと確認され、t2以降はブルーblue」という新しい言葉、新しい時刻t2による新しい「グルー’・grue’」はいつまででも現れ続る。たとえば、2012年1月8日午前0時時点を境にグリーンとブルーを区別するような「グルー’・grue’」は、2012年1月8日午前0時以降に現れるエメラルドによって検証される。しかし、その時点でさらに2012年1月8日午前1時を境にして区別するような「グルー2grue2」、2012年1月20日午前0時時点で区別する「グルー3grue3」、2050年1月1日午前0時で区別する「グルー4grue4」など、どこまでも新しい「グルー'・grue'」が現れて、「グリーンgreen」とどちらが正しいか決定できないような比較対象になってしまう。時刻tを時間的に過ぎたからと言って問題が解決することにはならないのだ。

問題は、こんな変な推論ではあるが、普通のまっとうな推論と比較しても、言葉を比べるだけではどちらが本当に正しいのかを判断することができる材料がなく、その時刻が来るまでどちらが正しいのか決められないことなのだ。もちろん時刻tが来ればグルーgrueなどという概念がダメだと分かる、しかし、それはもはや正しい帰納法的判断ではない。
そして、さらに問題は、我々の「エメラルドはグリーン」という仮説が「エメラルドはグルー」という仮説より優位であるとするものなどなにもなく、そういう意味では、「グリーン」の方がおかしな形容詞かもしれないのだから、何をよりどころに法則なるものを立ち上げるべきなのかという疑問に、答えようがないことなのだ。

こう考えてくると、僕らはまっとうな帰納的推論をすることができそうにないのだ。

この問題は、言葉がどんな解釈をも許してしまい、その意味を決定することができないという「ウィトゲンシュタインのパラドクス」にも大いに関連してくる。
次節、クリプキの「クワス算」を見ていきながら、この点を考えていきたい。

つづく

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2012年1月 3日 (火)

「論考」と「探究」≪「探究」を探求する0≫

ウィトゲンシュタインの「哲学探究」を哲学的に探求する。

ここまで「論理哲学論考」を読み、「私が私の言語によって世界を語る」というのはどーゆーことなのかを、また「世界は私の世界である」という前期ウィトゲンシュタインの独我論とはど―ゆーものなのかを、考えてきた。

ここからは、後期ウィトゲンシュタインが、言語と世界の関係や独我論などをどー捉えたのかについて考えていきたい。
ウィトゲンシュタインの後期哲学を代表する「哲学探究」では、
「規則は行動を決定し得ないこと」
「言語の意味はどんなふうにも解釈できるので、言語の意味を確定させ得ないこと」
それゆえ
「自分にしか分からない言葉で物事を考える『私的言語』なるものが不可能であること」
そして、
「言語と世界は『言語ゲーム』という社会的活動の中でのみ立ち上げることができること」
を示している。
これらのアイデアは、要素命題の組合せによって文の意味が確定されるとし、その根底に独我論があるとした「論考」とは完全に相容れない内容になっている。だから、後期ウィトゲンシュタインは前期の言語哲学を否定し、全く新しいアイデアで新しい哲学をしたと言われる。しかし、「論考」に見られる前期哲学と「哲学探究」に代表される後期哲学は相反するところばかりではなく、互いに補完し合っているものになっていると、僕には思えるのだ。僕には、「論考」と「探究」との関係が、同一のアイデアを特殊化したものと一般化したものでしかないように思えるのだ。
そこで、「規則」とは、「文の意味」とは、「言語ゲーム」とは、「私的言語」とは、「独我論」とは、どーゆーことなのか、ていねいに考えていきながら、「探究」を読み進めることに挑戦したい。

「探究」は現在、「哲学探究」と「哲学的探求」という2種類の訳本があるが、本ブログでは「探究」と記述していくことにする。

次節、規則に従うことの不可能性を考えるため、「クワス算」や「グル―」などウィトゲンシュタイン以外の人のアイデアについても考える。

つづく

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