「死」は「生」の反対語か
「私の死」は語り得るか
「死」が「生」の反対語だと教科書に記されありて、さう教へをり
以前、こんな短歌を作った。「生」と「死」それぞれが互いの反対語だとされることに違和感を覚えるのは、おそらく僕だけではないだろう。たしかに、生と死は対になってこの世に存在し、反対の事柄を指している。しかし、僕自身の「生」と「死」を考えた場合、「生」と「死」が反対語だとは思えなくなる。なぜなら、この私の「死」はこの世に存在するものではないからだ。「私の死」という、この世に絶対に存在し得ないコトガラと、「私の生」という、この世から絶対に無くならないコトガラを対比させることなど、全くナンセンスな言葉遊びに過ぎないとしか思えないからだ。
「私の死」は言葉の定義からして絶対にこの世に存在し得ないコトガラだ。「私の死」は語り得るコトガラではないのだ。「私の死」が無いのだから、「私の生」は絶対に無くなることは無い。いずれの考えもどーしたって間違い様がないだろう。そう考えると、「生」と「死」を反対語だとすることは、絶対的に「在る」コトガラと絶対的に「無い」コトガラとを相対させることになり、おかしな状況に陥ってしまう。絶対的に無いコトなど、たとえそれが空想上のコトガラだったとしてでも存在するとすることが不可能であり、どんなコトとも対峙することができないはずだからである。
ただし、そーは言っても、「私の死」という言葉を、まったく使ってはいけないことにするという訳にもいかない。だって、そーだろう。現実には私は必ずいつか死ぬのだから。「私の死」はあきらかに存在するのだ。だから、この視点で「私の死」は「私の生」のまっとうな反対語なのである。ここに、捻れが生じてしまう。「私の死」は絶対的に無いコト、ナンセンスでしかないコトでありつつ、かつ、あきらかに存在するコトとして捉えねばならなくなってしまうのだ。「死」は原理的に「生」の反対語ではあり得ないにもかかわらず、正しい反対語として扱わねばならない状況に陥ってしまうのである。
僕の、この混乱を分かってもらえるだろうか。
「死」が「生」の反対語だとされることに違和感を抱きつつ、しかし、それを完全に否定する訳にもいかない、という落ち着かない不安定さにイラつくのだ。
「私の生」は語り得るか
しかし、この混乱は正当なパラドクスだと言えるのだろうか。単純な勘違いでしかないのじゃないか。
というのは、「私の死」を存在し得ないものだと考える立場に立つならば、「私の生」の存在も言えなくなるのじゃないか、と考えられるからだ。「私の死」が存在し得ないとするなら、「私の生」は決して否定されないことになる。何かしらの物事に対してそれを否定することができないのであれば、それを肯定することもできないのじゃないだろうか。否定できないことがらを肯定するという文になど何の意味もあるはずがないじゃないか。「私は定義上死なないのだ」と定義した上で「私は生きている」と言うことに意味は無いだろう。
少なくともこれは総合文ではない。総合文でない「私は生きている」という文を語ったところで何にもならないだろう。それは、何の意味のない単なる言葉遊びなのだ。
そもそも、「私は死ぬ」をこの世界の出来事でないと考えるのであれば、「私は死なない」もこの世界の出来事ではないのだ。だから、この、この世界の出来事ではないコトを表す文「私は死なない」は、「私は死ぬ」と同様に無意味だとしなければならないのだ。
「私の死」を語り得ないとする立場に立つなら、「私の生」も語り得ないとしなければならないのだ。
そー考えると、「私の死」が「私の生」の反対語ではあり得ないとするのは、まったくとんちんかんな暴走であり、妄想でしかないのだ。結局、私の死と私の生とを対比させることはナンセンスな言葉遊びだと言っていたことは、そのまま当たっていたのだ。
つまり、「私は死なない」という立場で「生」と「死」を考えることはナンセンスであり、「私は死ぬ可能性がある」という立場でだけ考えたときは「私の生」と「私の死」は語り得る意味のある言葉になるのだ。この「私も他者も死ぬ可能性がある」という立場で考えたときの「生」と「死」のみがその反対語について語る価値のある言葉になるのだ。
そして、「生」と「死」は正しく正当な反対語なのであり、そーでなければならないのだ。
どーだろうか。これで少しはすっきりしただろうか。ここまで考えても、やはりもやもやしたものが残ってしまうのは僕だけだろうか。
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「死」は言葉以前に存在しているので、「生」の反対語であるかどうかという問い自体がナンセンスであるようにも思えます。それと同様、「生」も言葉以前に存在しているので
言葉による腑分けはおのずと限界があるのではないでしょうか!!
投稿: 呼戯人 | 2011年12月26日 (月) 17時31分
呼戯人さん、コメントありがとうございます。
「死」も「生」も、もちろん言葉以前に存在しています。しかし、「それゆえ、その反対語を考えることに限界がある」というのはどうもよく分かりません。「死」も「生」も或る意味で言葉が無ければ存在していないとも言えますが、そのこととも関係しているのでしょうか。「死」や「生」が言葉以前に存在し、かつ、言葉が無ければ存在できないのであれば、「蛸」も「しゃもじ」も「時間」も「愛」も言葉以前に存在し、かつ、言葉が無ければ存在できないのではないかという点がよく分からないのです。もう少し考えてみます。
投稿: 横山信幸 | 2011年12月26日 (月) 22時17分
知覚されないものは存在しない(バークリー)とか言語化されないものは存在しない(構造主義とか分析哲学)といった思考に私達は囚われすぎているように感じます。あまりに複雑な哲学的思考に対して常識的な普通の生活者の思考を対置してみると、双方の思考の陥穽を見ることができるように思います。
投稿: 呼戯人 | 2011年12月27日 (火) 09時51分
「世界は私の世界」という独我論的視点で考えた時、「蛸」は私の言語で「蛸」として認識して初めて「蛸」として存在し得ます。これに対し、実在論的な、常識的な生活の思考の視点で見ると、言葉以前に「蛸」が存在していると言えます。この、双方の思考の陥穽から抜け出る方法を考えたくて、ウィトゲンシュタイン「探求」や、クリプキ・マルカムなどその周辺を読んでいます。独我論と実在論を新しい視点でひっくり返してくれているので、この点を読み解いて、このブログで記していきたいと考えています。
投稿: 横山信幸 | 2011年12月27日 (火) 19時17分
独我論というのは、デカルトの方法的懐疑によって提出された思考実験の一つですが、私は哲学的錯誤ではないかと思っています。私的言語というものが可能性としてはあり得ても(例えばカスパー・ハウザーの例のような)、現実に使っているのは共用の言語とそのルールです。私たちは共同主観的な言語と生活形式の中にいるのであり、独我論というのは可能性としてあり得ても、現実的にはあり得ない存在構造なのではないかと考えます。「蛸」は私の言語ではなく、日本人が使用する日本語としての単語です。・・・と私は思うのですが・・!!
投稿: 呼戯人 | 2011年12月30日 (金) 11時35分