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2011年12月23日 (金)

「死」は「生」の反対語か

「私の死」は語り得るか

 

「死」が「生」の反対語だと教科書に記されありて、さう教へをり

 

以前、こんな短歌を作った。「生」と「死」それぞれが互いの反対語だとされることに違和感を覚えるのは、おそらく僕だけではないだろう。たしかに、生と死は対になってこの世に存在し、反対の事柄を指している。しかし、僕自身の「生」と「死」を考えた場合、「生」と「死」が反対語だとは思えなくなる。なぜなら、この私の「死」はこの世に存在するものではないからだ。「私の死」という、この世に絶対に存在し得ないコトガラと、「私の生」という、この世から絶対に無くならないコトガラを対比させることなど、全くナンセンスな言葉遊びに過ぎないとしか思えないからだ。

「私の死」は言葉の定義からして絶対にこの世に存在し得ないコトガラだ。「私の死」は語り得るコトガラではないのだ。「私の死」が無いのだから、「私の生」は絶対に無くなることは無い。いずれの考えもどーしたって間違い様がないだろう。そう考えると、「生」と「死」を反対語だとすることは、絶対的に「在る」コトガラと絶対的に「無い」コトガラとを相対させることになり、おかしな状況に陥ってしまう。絶対的に無いコトなど、たとえそれが空想上のコトガラだったとしてでも存在するとすることが不可能であり、どんなコトとも対峙することができないはずだからである。

  

ただし、そーは言っても、「私の死」という言葉を、まったく使ってはいけないことにするという訳にもいかない。だって、そーだろう。現実には私は必ずいつか死ぬのだから。「私の死」はあきらかに存在するのだ。だから、この視点で「私の死」は「私の生」のまっとうな反対語なのである。ここに、捻れが生じてしまう。「私の死」は絶対的に無いコト、ナンセンスでしかないコトでありつつ、かつ、あきらかに存在するコトとして捉えねばならなくなってしまうのだ。「死」は原理的に「生」の反対語ではあり得ないにもかかわらず、正しい反対語として扱わねばならない状況に陥ってしまうのである。

僕の、この混乱を分かってもらえるだろうか。

「死」が「生」の反対語だとされることに違和感を抱きつつ、しかし、それを完全に否定する訳にもいかない、という落ち着かない不安定さにイラつくのだ。

 

 

「私の生」は語り得るか

 

しかし、この混乱は正当なパラドクスだと言えるのだろうか。単純な勘違いでしかないのじゃないか。

というのは、「私の死」を存在し得ないものだと考える立場に立つならば、「私の生」の存在も言えなくなるのじゃないか、と考えられるからだ。「私の死」が存在し得ないとするなら、「私の生」は決して否定されないことになる。何かしらの物事に対してそれを否定することができないのであれば、それを肯定することもできないのじゃないだろうか。否定できないことがらを肯定するという文になど何の意味もあるはずがないじゃないか。「私は定義上死なないのだ」と定義した上で「私は生きている」と言うことに意味は無いだろう。

少なくともこれは総合文ではない。総合文でない「私は生きている」という文を語ったところで何にもならないだろう。それは、何の意味のない単なる言葉遊びなのだ。

 

そもそも、「私は死ぬ」をこの世界の出来事でないと考えるのであれば、「私は死なない」もこの世界の出来事ではないのだ。だから、この、この世界の出来事ではないコトを表す文「私は死なない」は、「私は死ぬ」と同様に無意味だとしなければならないのだ。

「私の死」を語り得ないとする立場に立つなら、「私の生」も語り得ないとしなければならないのだ。

 

 そー考えると、「私の死」が「私の生」の反対語ではあり得ないとするのは、まったくとんちんかんな暴走であり、妄想でしかないのだ。結局、私の死と私の生とを対比させることはナンセンスな言葉遊びだと言っていたことは、そのまま当たっていたのだ。

つまり、「私は死なない」という立場で「生」と「死」を考えることはナンセンスであり、「私は死ぬ可能性がある」という立場でだけ考えたときは「私の生」と「私の死」は語り得る意味のある言葉になるのだ。この「私も他者も死ぬ可能性がある」という立場で考えたときの「生」と「死」のみがその反対語について語る価値のある言葉になるのだ。

そして、「生」と「死」は正しく正当な反対語なのであり、そーでなければならないのだ。

 

どーだろうか。これで少しはすっきりしただろうか。ここまで考えても、やはりもやもやしたものが残ってしまうのは僕だけだろうか。

 

思いつきの言々

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コメント

「死」は言葉以前に存在しているので、「生」の反対語であるかどうかという問い自体がナンセンスであるようにも思えます。それと同様、「生」も言葉以前に存在しているので
言葉による腑分けはおのずと限界があるのではないでしょうか!!

呼戯人さん、コメントありがとうございます。
「死」も「生」も、もちろん言葉以前に存在しています。しかし、「それゆえ、その反対語を考えることに限界がある」というのはどうもよく分かりません。「死」も「生」も或る意味で言葉が無ければ存在していないとも言えますが、そのこととも関係しているのでしょうか。「死」や「生」が言葉以前に存在し、かつ、言葉が無ければ存在できないのであれば、「蛸」も「しゃもじ」も「時間」も「愛」も言葉以前に存在し、かつ、言葉が無ければ存在できないのではないかという点がよく分からないのです。もう少し考えてみます。

知覚されないものは存在しない(バークリー)とか言語化されないものは存在しない(構造主義とか分析哲学)といった思考に私達は囚われすぎているように感じます。あまりに複雑な哲学的思考に対して常識的な普通の生活者の思考を対置してみると、双方の思考の陥穽を見ることができるように思います。

「世界は私の世界」という独我論的視点で考えた時、「蛸」は私の言語で「蛸」として認識して初めて「蛸」として存在し得ます。これに対し、実在論的な、常識的な生活の思考の視点で見ると、言葉以前に「蛸」が存在していると言えます。この、双方の思考の陥穽から抜け出る方法を考えたくて、ウィトゲンシュタイン「探求」や、クリプキ・マルカムなどその周辺を読んでいます。独我論と実在論を新しい視点でひっくり返してくれているので、この点を読み解いて、このブログで記していきたいと考えています。

独我論というのは、デカルトの方法的懐疑によって提出された思考実験の一つですが、私は哲学的錯誤ではないかと思っています。私的言語というものが可能性としてはあり得ても(例えばカスパー・ハウザーの例のような)、現実に使っているのは共用の言語とそのルールです。私たちは共同主観的な言語と生活形式の中にいるのであり、独我論というのは可能性としてあり得ても、現実的にはあり得ない存在構造なのではないかと考えます。「蛸」は私の言語ではなく、日本人が使用する日本語としての単語です。・・・と私は思うのですが・・!!

ウィトゲンシュタインの「私的言語論」などをめぐって粘り強い議論をしているようですが、私はフレーゲ以降の記号論理学とか言語哲学の煩瑣な議論に一通り首を突っ込みましたが、うんざりして途中でやめました。というのも私の哲学の基盤がフッサールからハイデガーやメルロー・ポンティなどの現象学、形而上学にあるからです。18歳のときにショーペンハウエルの主著を読んでいるときに突然啓示が訪れ、世界の見方が180度ひっくり返りました。フッサール的にいえば「現象学的還元」ということになりますが、簡単にいえばアリストテレスの言う「世界が存在することへの驚き」に目覚めたのです。世界が何故存在するのか、そしてそれを見ているこの私という存在は何者なのか、その謎に取り憑かれました。鎌倉の禅寺に行き座禅しましたが、謎は解けませんでした。かくいう形而上学の魅力に比べるとウィトゲンシュタインの問題など形而下的な問題にすぎません。

「クオリア」というのは感覚の質的なものに名づけた概念でしょう。茂木健一郎が使い始めて流行しましたが、カントではありませんが、そういうのを「実体論的誤謬推理」といい、基本的に間違いで、そんなものはありません。「クオリア」なんて分かったような分からない言葉を不用意に使うべきではありません。

鈴木重昭さん、こんにちは。コメントありがとうございます。非常に的確な批評でよく分かりました。

形而上学的な問題は確かに魅力的だと思います。ウィトゲンシュタインの問題が形而下でしかないとおしゃるのも、その通りだと思います。ただ、形而上学の無意味だけれどもわくわくする感じと、形而下問題の有意味だけれどもくだらない感じの狭間で、ウィトゲンシュタインは有意味の限界にひりひりと追っているので、単純に魅力がないと切り捨てられるようなものではないと思っています。
「クオリア」という語は確かに不用意に使うべきでないと思います。まったく無意味な語かもしれません。ただ、無意味と有意味の狭間を考えるときに、使わざるを得ないような語であるような気もしています。

コメントまたいただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

ウィトゲンシュタインにはいろいろ入口がありますが、フレーゲやラッセルの論理学、分析哲学から入る場合と、私のようにソシュール、ヤコブソンの言語学から入る場合があると思います。ジョン・オースティンやジョン・サールをよんで、それからウィトゲンシュタインに入りました。言語学から見るとウィトゲンシュタインの私的言語論の批判はそもそも成り立たない議論です。言語には私的も公的もありません。私的使用というのはそれを使う人だけの勘違いにすぎません。言語は人間にとって規範であり、人間はそれを通してしか考えることはできません。私的なものなどどこにもありません。
ウィトゲンシュタインは視野狭窄のように言語を掘り進みましたが、哲学史や同時代の哲学を広く知っていません、それが欠点でもあり長所ですが、せいぜいショーペンはウワーとカント、そして同時代のウイーンのマウトナーやロースの言語批判が素養でしかないでしょう。私はウィトゲンシュタインの哲学そのものよりもそれを生み出した背景に興味があって文学ではホーフマンスタールやムジールやブロッホをよく読み、またジョンストンやショースキーやマグリスのウイーンの文化・歴史を読みました。ウィトゲンシュタインは世紀末のハプスブルグ帝国の文化的デカダンスの生み出した哲学者だと良く分かりました。私は哲学をやる場合はそれをめぐる参考文献をいろいろ読んでから中心に迫るというやり方をずっと取ってきました。裏口から入るようなやり方でフェアーではないと思います。しかしいろんな文脈から迫ると見えないものも見える場合があります。ウィトゲンシュタインの哲学をめぐる文献は国内で手に入る限りのものは集めて読みました。永井や野矢の著書も大抵は眼を通しています。ウィトゲンシュタインだけでなく、もっと広く読まれることをお勧めします。

鈴木さん、こんにちは。

言語学の視点から見れば「私的言語」が成り立たないというのは大変興味深いです。「私的なことなどどこにもない」というのは、本ブログの
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/311-a503.html
「独我論を論駁する3」のページで考えた、永井均の「要私的言語論」に対しても批判できるような、語りえないことを語る人とも論議が可能であるような立地点のある論なのでしょうか。よろしければ詳しく教えてください。

去年からずっとウィトゲンシュタイン「探求」を読んでいます。もう1年になるのですが、ようやくその6~7割を理解できるようになってきたところです。これを読むのに、もちろん他の本も理解の補助にするため読むようにしています。永井均、野矢茂樹、黒崎宏、Nマルカム、クリプキ、Dブルア、Nグッドマン、Jサール、サルトル、クワイン、カント、戸田山和久、入不二基義、飯田隆、土屋賢二などが役に立っています。フッサール、竹田青嗣、三浦俊彦、橋爪大三郎なども読みましたが、僕の興味とは少し方向が違うように思いました。お勧めの本があれば、これも教えてください。

鈴木です。ウィトゲンシュタインに関して、その参考文献や論じている人の範囲はほとんどあなたと重なりますから、私から薦める本はたぶんないと思います。戸田山和久は読んだことがありません。また、サルトルはフッサールに関してはやや参考になりますが、ウィトゲンシュタインとはかけ離れていると思います。私は最近は「探究」よりも関心が「確実性の問題」の方に移っているので、モラウェッツや菅豊彦の本を読み、大学図書館から名前は忘れましたが「ウットゲンシュタイン・最後の思考」という本を読みました。これは私見ですが、晩年のウィトゲンシュタインは論理の根底にそれを成り立たせている確実性の基盤があると思うようになったのではないかと思います。フッサール的にいえば世界信憑ですね。私たちが生きていて格別不安に襲われないのは世界が存在しているという確信・信憑があるからです。晩年にフッサールはそれを「大地」と名づけました。カントはコペルニクス的転回といって世界を成り立たせているのは人間の主観であるといいましたが、フッサールはそれをひっくり返して「大地」こそ確信の基盤だといったのです。ウィトゲンシュタインと晩年のフッサールが重なるのではないかと思い、その比較に興味を持って読んでいます。
また、言語学をやっていれば言語に私的も公的もないことは自明だと思います。ソシュールは19世紀の歴史言語学、言い換えると言語を歴史的に研究してその音韻変化を比較する通時言語学から転換して、言語を今話している場面で切り取る共時言語学を開拓しましたが、そこには人間主体など入る余地はありません。音韻変化は人間以前の無意識の段階で生じます。音素と音素の組み合わせはランダムで起こるのです。この考えが後にヤコブソンの構造言語学につながるのですが、構造主義はのちに人間の主体を無視しすぎるとして批判を受けました。ラングよりもパロールを重視する方向に移行しました。しかし、私は基本的にソシュールの考え方が正しいものと思っています。

鈴木です。忘れていました。知っているかどうかコリン・マッギンの「ウィトゲンシュタインの言語論」は良い本です。彼にはこのほかに「意識の神秘は解明できるか」という話題になった本もあります。それぞれ勁草書房と青土社から出ています。在庫があるかどうかは分かりません。参考までに。

鈴木です。度々追加です。コリン・マッギンの「ウィトゲンシュタインの言語論」はクリプキ批判です。クリプキに関心がある人には、きっと面白いと思います。
ウィトゲンシュタインは80年代に柄谷行人が「探究」をひっさげて登場した頃からウィトゲンシュタインとの関連で彼の本を徹底的に読むべく著作を集め、一時読み耽ったことがありました。彼は70年安保世代で特に「日本近代文学の起源」を読んで私はショックを受けました。柄谷行人の考えのもとにあるのは結局フーコーですね。フーコーはトーマス・クーンの「パラダイム」論を人文科学に応用したのだと思います。言説(ディスクール)とはソシュールの共時言語学で言うシステムを言い換えたものだと思います。その時代を横に輪切りにしてみれば、そこで飛び交っている概念は相互に関連し結び合って一定のシステムをなしているのです。フーコーは18世紀にパラダイムの転換があったといっています。歴史には連続の面と断絶の面があるとすれば、西欧では18世紀であり、日本では19世紀の明治維新です。その時代の制度やメディアによって人間の「内面」ができ、また「日本国」というものができました。明治以前には「個人」もいなければ、「日本国」もありません。ベネディクト・アンダーソンが言うように「ナショナリストは国家が近代に初めてできたのに、古くからあるものと思いやすい」のです。勿論、文学も明治に始まったのに、学校教育で教え込まれたせいで古代から連綿として続いているものと作為され、それを私たちは信じています。明治のナショナリズムの生み出したフィクションにすぎません。今あるものを過去もあると思うのは人間のさけがたい習性です。また、言語学をやった人は分かることですが、声と文字は別々に発達したもので、声を表記したものが文字だという考えは明治に始まったものです。日本に限らず、どの国も話すことばと書くことばは別であることが普通でした。わが国の場合、明治以前までは漢文が公式に用いられましたし、西欧でも長く公式にはラテン語が用いられました。話すことばと書くことばが一緒になったのは明治が初めてなのです……。
まあ、これ以上ながながと論じるのはやめます。「制度としての近代文学」と題して100枚近くの論文を書きました。近代文学が80年代に終わったことも今では自明なのに、私の論文を読んだ人は眉唾だといいます。学校教育の先入観は恐ろしいです。

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