今が一つしかないわけ
「ここ」という場所が二つ設定できるか、「今」という時間が二つ設定できるか、を考える。そして、「私」の意味の考察につなげる。
「ここ」は一つしか無いのか
「ここ」という場所は物理空間として同時に一つしかあり得ないのか。そんなことは無い。
「ここ」は同時に二つの場所にあり得る。たとえば、私の目。私の目は、同時に二つの場所にあり得る。当たり前だ。右目は左目より5cmほど右に位置する。たとえ5cmでも距離のある場所を二つ「ここ」として設定できている。二つの場所を同時に「ここ」として見ることができるのだ。
だから、たとえば、私の両目がもっと離れて、まったく別の場所にあったり、私の体が二つあって、大阪とスコットランドの両方が「ここ」になったりすることも、空想上の話としては、不可能ではない。
「ここ」は物理空間の二つの離れた場所を取り得るのだ。
「今」は一つしか無いのか
では、「今」という時間も、物理時間の上に二つ以上あり得るのか。僕が何を考えたいのか、問題にしたいことの内容を理解してもらえるだろうか。
たとえば、私の右目が特別で、3分後の世界が見えるとしよう。左目と体は3分前の世界にあって、3分前の世界で生活しているのだが、右目だけはその3分後の世界が見えると言うのだ。無茶苦茶な空想かもしれないが、そのような目を持つことは可能だろうか。どうだろうか。これは出来そうな気もするのだが、自由に生きようとすると原理的に不可能になるのだ。
不可能だという理由を順に見ていこう。
この右目が可能であるなら、3分後が見える右目で競馬のレース結果を見てから、その勝ち馬の馬券を買う…ということができるはずである。しかし、どんどん金儲けができてウハウハになるからとか、同義的に道徳的に否定されるべきだからなどと言っても、それだけでは、「今」が複数存在することが原理的に不可能だということにはならない。
問題は、その右目によって3分後の「私」自身が見られることにある。
3分後に勝ち馬が決定するのであれば、その勝ち馬の馬券を「私」が買っていたかどうかも決定するはずだということにあるのだ。3分後の「私」がその馬券を買ってなかったのであれば、その時点で「私」が負けることは決定されてしまうはずで、その馬券を買わないことも決定されるはずである。だから、私は買った馬を見てからその馬券を買うことはできないのである。3分後に馬券を買っていない私を、右目が見てしまったのなら、馬券を買っていないソイツを私自身だとする立場になるのなら、私は原理的にその勝ち馬券を買うことはできないのだ。
つまり、3分後の世界が「今」決定されてしまうのであれば、私は「今」を自分の意志で行動することができなくなってしまうのだ。もし、3分後に自分自身が勝ち馬券を買っていなかったのを、右目で見ていたとしても、それでも、無理して勝ち馬券を買うことができるとするなら、それは、3分後に馬券を買っていなかったのは「私」では無いのだ。
右目で見ていたのは、3分後の世界だと思っていただけで、3分後の世界でも何でもない、単なるそっくり似の別世界でしかなかったのだ。
「右目で見えているのはどうやら3分後の世界らしい」と思えたとしても、その右目で見えた勝ち馬に全財産を賭けるにはかなりの度胸がいる。それは、自分でその馬券を買う自由があるのなら、その馬券が外れてしまう可能性は0パーセントではあり得ないからだ。
右目で見える世界が「3分後の世界」であるのだとするのなら、それは、世界に自由意志が無いとすることと同じことなのだ。逆に、自由意志があるということにするのなら、右目で見えるのはどんなに似ていたとしても「3分後の世界」だと決定できないということを、選択したことになるのだ。
だから、「今」を自由に生きるためには、「今」は一つでなければならない。
ただし、自由意志が無くてもいいのなら、「今」は二つでも三つでも設定することができる。世界の運命がすでに決定されていて、どの馬券が勝つか先に知っていても、すでに決まった通りに、3分前に買った通りに買うしかできないような世界なのだったとしたら、「今」が一つである必要はなくなる。いくつもの「今」があって、それぞれの時間世界を私の目が見ている…という世界は、無茶ではあるが、不可能ではない。しかし、「私の自由意思によって状況を変えることができる」という世界を想定するためには、その状況を変化させるための「今」が一つだけあることが必要になるのである。
「認識の今」「自由意志の今」
「今」とは通常、「世界の状況がありありと見えて、新しい変化の情報が次々増えていくその瞬間」という「A.認識の今」と、「自分の自由意思によって世界の状況に変化を及ぼすその瞬間」という「B.自由意志の今」の、二つの意味がいっしょに使われている。この「A.認識の今」と「B.自由意志の今」は必ずしも同時に使われる必要はなく、それぞれが別々で考えることもできる。
それは、「認識する私」と「自由意志を持つ私」によって「今」という時間であるとされるのだろう。
この二つの今のうち「認識の今」という時間が世界を生み出すのだろう。そして、「自由意志の今」というただ一つ時間内に、「自由意志を持つ私」がただ一人存在することが、私の「生」を生みだすのではないだろうか。
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