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2011年8月18日 (木)

論理と倫理が語り得ないわけ≪「論理哲学論考」を論考する9≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

語り得ないことの内容について考えている。
「語り得ないこと」について、ウィトゲンシュタインは次の四つを言っている。
(ア)要素命題から全思考が確定されるがゆえにその範囲からはみ出すものについては語り得ないこと
(イ)モノがいかにあるかは語り得るが、それが何であるかは語り得ないこと
(ウ)論理や倫理など、言語の前提となるルール設定が語り得ないこと
(エ)世界の限界としての私が語り得ない存在であること、
の四つだ。

この四つのうち、ここでは(ウ)の論理や倫理の語り得なさについて考える。

 

論理の語り得なさ

論理は二つの意味で語り得ない。一つめは論理の命題がトートロジーであるがゆえの語り得なさであり、二つめは論理が論理のルール設定を自ら設定し得ないがゆえの語り得なさである。

トートロジーであるがゆえに論理が無意味であることをウィトゲンシュタインは次のように言う。
「6.1 論理の命題はトートロジーである」「6.11 ゆえに論理の命題は何も語らない(分析的命題である)」
トートロジーとは命題の真偽に関係なく、つねに真となる命題である。世界がどーなっているかについて、何も語らず、世界の論理的形式を示すだけである。世界を語らず、言葉の意味だけからつねに真となることがらだけを寄せ集めて積み重ねたものだと言うことができる。だから、論理の命題は何も語らないのだ。

 

ルイスキャロルのアキレスと亀のパラドクス

もう一つの方の、ルール設定を自ら設定し得ないがゆえの語り得なさについて考えよう。
ルイスキャロルのパラドクスというものがある。「不思議の国のアリス」のルイスキャロルだ。ゼノンのパラドクスに因んでアキレスと亀が競走した後の話となっている。こんな話だ。

亀「アキレスさん、すみませんがこうノートに書いてください。
<(A)同一のものに等しいものは、互いに等しい
(B)三角形の二つの辺は同一のものに等しい
(Z)この三角形の二つの辺は、互いに等しい>
ユークリッドの読者なら、ZがAとBから論理的に導かれ、それでAとBが真と認めるなら、Zも真と認めなければならないということに同意するでしょう。でも、中には『AとBは真だと認めるんだけど、「もし~なら~だ」という仮言的命題は認めない』という読者だっているとは思いませんか。こうした読者はZが真であると認める論理的必然性はないわけです。では私がそのような読者だとして、私がZが真であると論理的に認めざるを得なくしてみてください。」

アキレス「君はAとBを認めるが、仮言的命題は認めないと。それをCと呼ぼう。しかし君は
<(C)もしAとBが真ならば、Zも真でなければならない>をみとめない。そこで僕が君にCを認めるように頼まなければならない。」

 

亀「認めましょう。あなたのノートに書き加えてくれたら、すぐに。さて、私が言う通りに書いてください。
<(A)同一のものに等しいものは、お互いに等しい
(B)三角形の二つの辺は同一のものに等しい
(C)もしAとBが真ならば、Zも真でなければならない
(Z)この三角形の二つの辺は、お互いに等しい>
AとBとCが真ならば、Zも真でなければならない。これは別の仮言的命題ではないでしょうか?それで、私がそれが真だと分らなければ、AとBとCを認めても、まだZを認めないとは思いませんか?」

アキレス「そうだな。それなら僕は君にもうひとつ仮言的命題に同意を求めなければならない。」

 

亀「あなたが書き留めさえしたら、喜んで同意しましょう。これを<(D)AとBとCが真ならば、Zも真でなければならない>と呼びましょう。ノートに書き加えましたか?」

 

アキレス「さあ、君はAとBとCとDを認めるからには、もちろんZを認めるね。」

 

亀「私はAとBとCとDを認めます。でもまだZを認めるのを拒否するとは思いませんか?それではノートに書いてください。これを<(E)AとBとCとDが真ならば、Zも真でなければならない>と呼びましょう。私がそれに同意しないなら、もちろん私はZに同意する必要はありません。だからそれは必要なステップです。」

アキレスは「わかったよ。」と言いましたが、その口調は悲しげでした。

と、このような話だ。
つまり、「(A∧B)→C」を認めさせるためには、その「(A∧B)→C」を前提として認めさせる必要があり、「((A∧B)→C)∧(A∧B))→C」としなければならないと言うのだ。そしてこの後退は無限に続いていき、無限に後退したとしても結局、認めさせることには成功しないのだ。このお話の教訓はこうだろう。論理は、そのルール自体を自ら設定することはできない。無理にルール設定をしようとしても、ルール設定をしたその論理文自体に対するルールが必要になってしまい、どこまでも無限後退に陥る。そのルールに従ってその文法で話をすると決めるのなら、もう、えいやっと全ルールを一気に受け入れてしまう必要があるのだ。そうでなければ、自分が語っている言葉の文法をどうすべきか自ら語ることになってしまいパラドクスを生んでしまうのだ。
だから、論理はどのような論理で考えられるかを語ることはできないのだ。これも、語り得る思考の範囲からはみ出しているものなのだ。そのはみ出している部分「論理」は、その言語を用いる者が言語とともに一挙に受け入れてしまわねばならないのだ。そのことを「論考」は「6.13 論理は超越論的だ」と言っているのだろう。

 
倫理の語り得なさ

倫理についても、その前提になる価値を決定させるような語り方をすることはできない。「~すべきだ」という発言についてその理由を問い詰めていくと、どこかで理由なくその価値観を受け入れなければならない地点が現れるのだ。

たとえば、「CO2排出量を減らすべきだ」という「~すべきだ」発言について、「それはなぜか?」が問うとする。
さらにたとえば、「温暖化のために動植物が地球に住みにくくなるからだ」と答えたとする。そうすると、それに対しても「それはなぜか?」が問い得る。「なぜ、動植物が住みにくくなってはいけないのか?」
それに、さらに「人間も地球に住みにくくなるからだ」と答えたとする。それに対しても「それはなぜか?」が問い得る。「なぜ、人間が住みにくくてはいけないのか?」
それに、さらに「自分や家族が住めなくなってしまう」と答えたとする。「愛する者が生きられないのは悲しいことだからだ」と答えたとする。しかし、どこまでも「それはなぜか?」が問い得る。言語の範囲内で最後まで答えきることは不可能なのである。

どこかで、理由もなくその価値観を受け入れなければならない地点があると認めなければならないのだ。それを受け入れなければ価値観について倫理について語ることは不可能になるのだ。

倫理は、その価値自体を自ら設定することはできない。無理に価値を設定しようとしても、価値設定をしたその倫理文自体に対する価値が必要になってしまい、どこまでも無限後退に陥る。その価値に従ってその文法で話をすると決めるのなら、もう、えいやっと全価値を一気に受け入れてしまう必要があるのだ。そうでなければ、自分が語っている言葉の文法をどうすべきか自ら語ることになってしまいパラドクスを生んでしまうのだ。
だから、倫理はどのような倫理のもとで考えるべきなのかを語ることはできないのだ。これも、語り得る思考の範囲からはみ出しているものなのだ。そのはみ出している部分「倫理」は、その言語を用いる者が言語とともに一挙に受け入れてしまわねばならないのだ。そのことを「論考」は「6.421 倫理は超越論的だ。(倫理と美はひとつである)と言っているのだろう。

論理も倫理も、ウィトゲンシュタインのいう思考の範囲ではないのだ。

これが、(ウ)の論理や倫理の語り得なさ、言語の前提となる言語のルール設定が語り得ないことである。

(エ)の「私」の語り得なさについては次節で。

つづく

「論考」を論考する 目次

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コメント

2500年前のミレトスで、大地を支たえているのは何かという問題が話題になったが、アナクシマンドロスは、これはどこまで行っても答えが出ないことを悟って、論理の無限後退を避けるために、重力の概念を提出したという話が伝わっています。論理の無限後退を避けるために、大地は球体をしていて、重力によって宙に浮いていると推論したそうです。
論理によって語りえないものの向こう側に行く努力が近代の宇宙像に近いものを推論させたのは歴史の皮肉でしょうか。科学も語りえぬものを語ろうとする努力の中で発展してきたのではないでしょうか。だとするとヴィットゲンシュタインの語らぬ禁欲は何のためなのかよくわからなくなります。

呼戯人さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
「論理の無限後退を避けるために、重力の概念を提出した」というのは面白い興味深い話ですね。ウィトゲンシュタインが語り得ないと言ったのは、どういう範囲で語り得ないということなのか。「論考」で語り得ないとされたことについては「論考」の言葉づかいでは明らかに語り得ないことだと思います。しかし、それが、実際にどれほど有用な言葉なのかはていねいに考える必要がありそうですね。

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