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2011年8月16日 (火)

ここにあるコレが語り得ないわけ≪「論理哲学論考」を論考する8≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

語り得ないことの二つ目は、(イ)モノがいかにあるかを語り得るが、それが何であるかは語り得ないこと…である。

「論考」にとって、世界がどーなっているのかを語り得る手段は命題だけである。名では世界を語ることができない。命題は意義(sinnジン)を持つ。命題は言葉によって世界がどのようになっているかを説明するものであり、別の言葉によって言いかえることも可能である。ただし、命題は、世界がどーなっているかを語ろうとするだけで、そこに指示されている対象を直に差し出すことはしない。「3.221 命題はただものがいかにあるかを語り得るだけで、それが何であるかを語ることはできない」のだ。

言葉が指示しているもの、それが何であるかを指し示さなくては言葉は現実に達することはできない。ウィトゲンシュタインはその役割を「名」が果たしていると言う。名は指示対象(bedeutungベドイトゥング)を持ち、それが何であるかを示す。しかし、「3.26 定義を用いて名をさらに分解することはできない」のだから、名を別の言葉で言いかえることができない。ウィトゲンシュタインは、だから、名には意義sinnがないとする。命題には意義sinnがあるが、指示対象bedeutungはない。名には指示対象bedeutungがあるが、意義sinnはないのである。

そうするとどうなるか。言葉は現実に達し、現実そのものがどーなっているのかを、全て語ることができる。しかし、それが何であるかは語ることができず、示し得るのみである。言葉でもって、世界が何であるかを言うことができないのだ。言葉で言えるのは、世界がどーなっているかだけなのだ。

たとえば、ここにリンゴがある。

このリンゴは、それがどんな品種で、どんな色で、どんな重さで、どんな匂いで、どんな様子であるか、どのようなものであるかについて、厳密に、言語の限界まで細かく言及することができる。しかし、「これが何であるか」「これがコレであること」「これがここにあるコレであること」は言語で言い表すことができないのだ。
厳密に言語の限界までその細部にわたって言及することができたとしても、そのモノが、何であるか、ここにあるコレであることを言えないのであれば、その言語はもはや「命のないがらくた」(青色本)なのかもしれない。しかし、それはどーしようもないのである。言語の限界を超えたことは言えないのだから仕方ないのである。

以上が、(イ)モノがいかにあるかを語り得るが、それが何であるかは語り得ないこと…の中身である。

残りの、(ウ)(エ)の語り得なさについては、次節にまわしたい。

つづく

「論考」を論考する 目次

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