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2011年8月 5日 (金)

前期ウィトゲンシュタインの独我論≪「論理哲学論考」を論考する6≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

ウィトゲンシュタインは「神の視点による本当」を認めない。この点でカントとは違う。カントが存在するとした「物自体」は「神の視点による本当」だと言えるだろうが、人間はこれには達しえないとカントが考えたのに対して、ウィトゲンシュタインは
「2.1511 像は現実に到達する」
と明言している。「神による本当」などありはしないのだとするからこそ、私は現実に達することができるのだ。
だから、その意味でウィトゲンシュタインは独我論が正しいという立場をとる。本節では、この、ウィトゲンシュタインが独我論を認めたわけを考えていきたい。

ウィトゲンシュタインが
「5.62 世界が私の世界であることは、この言語の限界が世界の限界を意味することに示されている」と言ったのは、次の3点のことがらから導かれたとも考えられる。

① 「4.024 命題を理解するとは、事実はどうであるかを知ることである」つまり、命題の意味とは世界が実際にどうなっていればそれが真だと言えるのかを決める線引きのための基準であるということだ。
② 「4.023 命題はあとはイエスかノーかを確かめればよいというところまで現実を確定していなければならない。現実は命題によって完全に記述されなければならない。」「4.26 全ての真な要素命題の列挙によって世界は完全に記述される」命題によって世界が完全に記述される。つまり、世界とは命題によって記述された内容に示されたことが全てなのだ。
③ 「5.5571 アプリオリに要素命題を挙げることができないのなら、要素命題を列挙しようとすることは、最後にはナンセンスに行きつく」神が全ての要素命題を教えてくれるなら世界の全てが書き出せるのだが、しかし、そんなわけはないのだ。

たとえば、「空が赤い」という命題について、これが真であり、空の色に関する発言の全てなのであれば、現実の空の色も「赤い」のみで表現される内容がその全てとなるのだ。実際にはもっと詳しく色を表現することができるがそれでも限界はある。どこかでくわしく表現しようとする限界がきて、その言語による表現内容が現実の「赤色」を指していることになり、その表現内容が世界の限界になる。…そんなバカな。…単に我々の言語がそれを表現しえないというだけで、現実の空の色は無限に多様な色彩を持っているはずだ。現実の世界が言語以上の多様さを持たないなどということがあるだろうか。
しかし、この疑いは、「神の視点による本当」を棄てられないで「本当は神は自然に無限に多様な色彩を持たせてるはずだ」と思い込んでいるにすぎないとも言えるのだ。
この私の言語の限界を超えた世界の存在を言ったって仕方ないととらえるべきなのである。
そして、さらに積極的に、この言語の限界が世界の限界であり、世界は完全に記述されるととらえるべきなのである。

たとえば、「A君は足が痛い」という命題について、これが真であれば、「A君は足が痛い」は現実に到達するのだ。「本当は痛くないんじゃないか」という疑念が湧くのも当然だ。しかし、命題の意味とはそれを真とするか否かを測るための線引きの基準であるのだから、「A君は足が痛い」という命題の意味を知っている人というのはその命題がどーすれば真だと分かるのかを決めている人を指す。つまり、「A君は足が痛い」の意味を知ることとはどーすれば真だと分かるのかその線引きを決めることである。
だから、「A君は足が痛い」と言える人とは、A君が痛がっている様子でどこまで真実味があればそれが真だと言えるのかを決めている人なのである。そんな意味を勝手に決めていいのかという気もするが、いいのである。だって仕方ないのである。言葉を使うとは結局そういうことなのだ。
「痛くない」ということにも意味がある可能性があると言いたいのだったら「A君は足が痛いそうだ」などと言いかえればいいだけのことだ。
この私の言語の限界を超えた世界の存在を言ったって仕方ないのである。
そして、さらに積極的に、この言語の限界が世界の限界であり、世界は完全に記述されるととらえるべきなのである。

たとえば、「ほかのいかなる物質とも一切の相互作用を持たないニューニュートリノという物質がある」という命題についてはどうか。どーしたって、このニューニュートリノの存在を確かめることはできない。だって、一切の相互作用を持たないのだから、その存在は物理的にも文法的にも確かめようがないのだ。だから、この命題は「どーすればその真偽が測れるかという基準」を持つことができない。この命題は意味をもたない。ナンセンスである。「ニューニュートリノ」は「在る」と言えないだけでなく「無い」とも言えないのだ。
「5.61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。それゆえ我々は論理の内側にいて「世界にはこれらは存在するがあれは存在しない」と語ることはできない」
とウィトゲンシュタインが言ったのも、そういうことであろう。
この私の言語の限界を超えた世界の存在を言ったって仕方ないのである。
そして、さらに積極的に、この言語の限界が世界の限界であり、世界は完全に記述されるととらえるべきなのである。

さらに、神が要素命題をすべて教えてくれるなら、我々は世界の全てを書き出すことができる。しかし、「神の視点による本当」を棄てたのだから、全ての要素命題を神が教えてくれるはずがなく、アプリオリに要素命題を挙げることも不可能というほかない。だから、自分で有意味な命題を探してこなくては仕方がない。世界がどんなふうに存在しているのか、命題を発言する私が、像として世界を語らなくてはいけないのである。

これらのことが、
「5.62 独我論の言わんとするところは全く正しい。世界が私の世界であることは、この言語の限界が世界の限界を意味することに示されている」
「5.621 世界と生は一つである」

という発言となり、ウィトゲンシュタインを独我論に導いたと言えるだろう。

このウィトゲンシュタインの独我論は、世界に私一人しかおらず他我が存在しないとするタイプの独我論ではない。世界は全て私の空想でしかなく実体が無いのだとするタイプの独我論でもない。「本当は」という神の視点なるものが無いとする独我論なのだ。「神の視点によると本当はこうである」とする立場の実在をみとめない。だからこそ、私が私の言語によって立ち上げた世界が「現実」であり、それがそのまま実在するものとなっていくのだ。
それゆえ、
「5.64 独我論を徹底すると、純粋な実在論と一致する」
ことになるのだ。
カントも独我論と実在論を一つにすることに成功したが、ウィトゲンシュタインはさらにスッキリとそれを成功させているように見える。

ではカントとウィトゲンシュタインの世界はどこまで同じでどこが違うのか、ウィトゲンシュタインの世界像はどこまで使えるものなのか。次節ではそこをもう少しつっこんで考えたい。

つづく

「論考」を論考する 目次

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コメント

今晩は。「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」という命題には全く納得がいきません。これは「私だけが神と同様の視点を有する特権的な存在である」ということを主張しているように見えます。それは「私が世界精神である」というヘーゲルと同じ主張を繰り返しているように見えるわけです。それは論証でも命題でもない、とてつもない誤謬のように見えるのですがいかがでしょうか?

呼戯人さん、こんにちは。
「論考」は自分で語り得ないとしている内容を語ろうとしているために、おかしなことになってしまっている所もあると思います。「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」の「純粋な実在論」というのは一般的な実在論(カントのいう先験的な実在論)ではなく、カントのいう経験的な実在論を指していると思います。だから、呼戯人さんの言われる「私だけが神と同様の視点を有する特権的な存在である」を意味するかということについては、或る意味でその通りだと思います。↑のブログ本文で書いたようにL.W.は、神の視点での実在を認めてないので、その意味で世界を開闢する視点である「私」だけが、世界の限界となり、神のごとき特権的存在であるとも言えるものになるのだと思います。ただし、この「私」は世界の中に存在するものではないのでその意味では神とはかなり違っているのかもしれません。これを独我論と呼ぶのは違うと言われると違うと思いますが、L.W.はこれを独我論と呼んでいるのだと思います。その視点で僕は。「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」に積極的に賛同しています。

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