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2011年8月28日 (日)

語り得る偶然と語り得ない必然≪「論理哲学論考」を論考する11≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

カントとウィトゲンシュタインを比較する

カントもウィトゲンシュタインも、二人とも、神の視点なるものによって確定される世界を「実在論」を認めない。また、世界は誰かの思い込みに過ぎないとする「観念論」や、世界の存在が無いのだなどとする「懐疑論」も認めない。実在論でも観念論でもない、その間で、形式を当てはめることによって世界を立ち上げ、存在を考えようとするという点で両者は非常によく似ている。
しかし、大きな違いが二つある。一つは、カントが物自体というモノの存在と認め、人間にはその実在に到達できないとしたのに対して、ウィトゲンシュタインは命題によって現実に完全に達することができるとし、命題自体にこそその実在の本質があるとしたことだ。もう一つは、カントが「アプリオリな総合」を積極的に認めたのに対し、ウィトゲンシュタインは「アプリオリな総合」を完全に否定していることだ。本節では、この二点の違いについて、実在世界のとらえ方や因果律否定論に対してのそれぞれの対峙の仕方などを見ていくことで、存在論の考察を深めたい。

 

現実に達し得るか否か

カントは、物自体が存在するからこそ、観念論に陥らない客観的な世界を見出すことができるとし、しかし、人間は物自体に到達することはできないとした。これに対して、ウィトゲンシュタインは像(命題)が「完全に」世界の現実に達することができるとする。だから、逆に言うとウィトゲンシュタインの世界は像によって「完全に」語り得てしまう対象でしかないのである。つまり私が立ち上げた像によって世界の様子が確定されてしまうと言えるし、命題こそが実在の根源的本質であるとも言えるのだ。これが、「前期ウィトゲンシュタインの言語的転回」である。

 

カントの因果律

では、この二人は因果律をどう解釈したか。

Humeヒューム Kantカント  Wittgenstein_2ウィトゲンシュタイン

ヒュームは因果律を否定した懐疑論者だ。あらゆる法則などというものはすべて経験から類推されたものであるから、絶対的に正しいと言えるものではない。原因があって結果が出るのだという因果律さえ絶対とは言えないのは同じだとした。

カントは、ヒュームの因果律否定に、ある程度の理解を示しながら、その姿勢は間違っているとした。
「彼(ヒューム)が因果論を詳論し、因果論の真理性がアプリオリな認識にもとづくものでないこと、因果律を権威づけるものは必然性ではなく単に経験の過程においてであること、それが主観的必然性であることを指摘したのはまったく正当であった。しかし、…彼は法則に従ってなせる現実の偶然性から、法則そのものの偶然性を誤って推論したものであり、ある事物の概念を出て可能な経験となることと、実際の経験の対象の総合という経験的総合とを、混交したのである。」(「純粋理性批判超越論的方法論」)
認識論として、ヒュームとカントは途中までは同じことを言っている。しかし、カントは太陽の熱でロウが溶けるのは、やってみなくても法則として分かるとすべきなのだと、アプリオリな認識なのだと言う。世界認識の全てを懐疑することは可能である。しかし、世界認識の全てを懐疑したまま、ほったらかしてしまってはいけないとするのだ。だからこそ、アプリオリな総合認識を得ることができると言う。そして、これにつづけて、カントは悟性を限界づけていく自覚が必要だと訴えていく。カントの文章はこの辺りからさらに難解になってくる。歯切れが悪いと言っていいかもしれないくらいだ。ここにカントの苦悩が見えるとも言える。僕はこの悪文に、カントがアプリオリに知れることと、経験から知れることの間で、「本当にあるモノ」を見つけようと、もがいている姿を思うのだ。アプリオリな認識と経験的認識を無理につなぎ合わせなければ本当の「知」にはたどり着けないとカントは考えたのだろう。だから、カントの考えで因果律は正当な法則として認められる。

 

語り得る偶然と語り得ない必然

このカントの苦悶と比べて、「論考」のウィトゲンシュタインは、ずい分、スッキリしている。
「6.3 論理の探究とはすべての法則性の探求にほかならない。そして、論理外では一切が偶然的である」「6.31 いわゆる帰納的法則はおよそ論理法則ではない。それは明らかに有意味な命題だからである。それゆえまたアプリオリな法則でもありえない」「6.32 因果法則とは法則ではない。法則の形式である」「6.34 ニュートン力学によって世界が記述され得ることは世界について何ごとも語りはしない。一方ニュートン力学によって世界が事実そうある通りに記述され得る。このことは語り得るものとなっている」「6.36 かりに因果法則が存在するとすれば、それは『自然法則が存在する』というものになるだろう。しかし、人はそれを語り得ない。それは示されている」(「論理哲学論考」)
ウィトゲンシュタインにとって因果律は帰納法則でしかない。そして、帰納法則とは経験を俟たないと真か偽かが決定されない、アポステリオリな内容である。それは、だからこそ世界の現実を語ることができる有意味な発言なのである。カントが苦悶していたアプリオリとアポステリオリの間で、ウィトゲンシュタインはその二つをすっぱりと断ち切ってあっさりと整理してしまった。

論理はアプリオリである。
論理は内的である。
論理は分析的である。
論理は形式的である。
論理は必然的である。
論理は超越論的であり、先験的である。
論理は語りえない。

論理はアプリオリである。論理法則は現実世界がどうなっているかに関係なくすべて決定される。現実世界に関係なく決定されるのだから、経験を必要としないでその真偽が決定できる。これを「アプリオリ(先天的)」と言う。
論理は内的である。ある対象にとってその内容を持たないことを論理的に考えられないことを「内的」と言う。命題のその内容が論理を持たないことが考えられないから、当然、論理的な発言の内容は内的である。
論理は分析的である。論理法則はその命題を示す文章自身によってのみ、その真偽が決定される。これを「分析的」命題と言う。
論理は形式的である。世界を見分けようとするとき絶対に必要なフレームが論理である。論理に当てはめることで世界ははじめて意味のある世界として立ち上がる。
論理は必然的である。世界がどうなであろうと、論理形式は必ずその形になるのである。
論理は超越論的である。先験的である。世界を意味あるものにするために当てはめるフレームが論理であるという意味で超越論的である。世界がどうなっていようと論理は論理として真偽が問われることは無い。世界がどうなっていようと論理には関係ないという意味で先験的である。
論理は語り得ない。世界がどうなっているかとは関係なく論理形式が形成され、その形式を当てはめることで世界の様子ははじめて語り得るものになる。しかしこのとき論理形式自体は語ることができない。論理の側は語り得るものではないのだ。
この、論理の側の、フレームと言えるべきモノ、アプリオリで、内的で、分析的で、形式的で、必然的で、超越論的で、先験的で、語り得ないモノがある。カントの言う形式の側である。ウィトゲンシュタインは時間や空間や色を例として挙げているが、さまざまな形式があるだろう。その中でも論理は絶対に必要な形式であると言う。

一方、
世界の事実は、アポステリオリである。
世界の事実は、外的である。
世界の事実は、総合的である。
世界の事実は、経験的である。
世界の事実は、具体的である。
世界の事実は、偶然的である。
世界の事実は、語り得る。
この、世界の事実の側の、アポステリオリで、外的で、総合的で、経験的で、具体的で、偶然的で、語り得るモノがある。カントの言う物自体の側である。

ウィトゲンシュタインは、この、語り得る側と、語り得ない側とを明確に区別し、線引きする。形式の側に配置されるモノは必ず、アプリオリで、内的で、分析的で、形式的で、必然的で、超越論的で、先験的で、語り得ないモノでなければならず、世界の事実の側に配置されるものは必ず、アポステリオリで、外的で、総合的で、経験的で、具体的で、偶然的で、語り得るモノでなければならないのである。
だから、ウィトゲンシュタインの世界では「アプリオリな総合」などあり得ない。そして、語り得る側のみを語り、語り得ない側については沈黙せよと言う。

 

ウィトゲンシュタインの因果律

さて、この世界観の中で、因果律はどう捉えられるか。
ウィトゲンシュタインにとって因果律は帰納的法則でしかない。帰納的法則であるから、総合的で、経験的で、アポステリオリであって、決して、アプリオリではない。
カントは自身の掲げたカテゴリー表の中に「因果性」を入れ、因果形式を「カテゴリー形式」の一つであるとした。だから、カントによると因果律はアプリオリである。そして、それは事実、世界を表しているので総合的でもあるのだ。この混濁にこそ実在の真実があるとカントは考えたのである。
しかし、ウィトゲンシュタインはそのような混濁を良しとしない。ウィトゲンシュタインにしても、「因果形式」を設定すればそれが「形式」になってアプリオリなモノになることは、カントと同じはずである。ただ、ウィトゲンシュタインの「因果形式」は語り得ないモノなのである。そこから分離され、世界と比較しアポステリオリに世界を語ることができる「因果法則」は、すでにアプリオリではありえないのだ。

 

語り得る世界と語り得ない世界

この、「アプリオリ=分析的」であり「アポステリオリ=総合的」だとして整理するような世界観によって、ウィトゲンシュタインは語り得るモノを語り得ないモノから取り分け、分離することができた。そして、さらに、それによって、「言語的転回」を果たし、命題こそが世界を完全に捉えるものであるとして、現実に達すると明言することができたのである。

しかし、そのためにウィトゲンシュタインは多くのモノを語り得ないとしなければならなかった。命題の意味からはみ出すものが語り得ず、形式が語り得ず、論理や倫理が語り得ず、世界の限界である「私」が語り得ず、ここにあるコレの存在そのものが語り得なくなってしまった。だから、カントが苦悩して考え抜いた実在の本質へ辿りつこうとした問題は、その手からするりと通り抜けてしまったのではないだろうか。ウィトゲンシュタインは「言語的転回」によって確かに現実に到達したのだけれど、それは、もしかすると、現実の抜け殻というべきものだったのかもしれない。

 

だから、ウィトゲンシュタインは中期から後期にかけて、前期で逃がしてしまったそれを追いかけて行ったのだろう。
「論考」についての考察は、ここで一旦閉じることにして、次節からはウィトゲンシュタインの後期の考え方について追ってみたい。

つづく

「論考」を論考する 目次

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