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2011年8月21日 (日)

私が「私」を語り得ないわけ≪「論理哲学論考」を論考する10≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

「5.631 思考し表象する主体は存在しない。『私が見出した世界』という本を書くとすれば、そこでは私の体についても報告され、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないかなど語られねばならない。これは、すなわち主体を孤立させる方法である。あるいはむしろ重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本で論じることができない唯一のもの、それが主体である。」とウィトゲンシュタインは言う。

ここで言われる主体「私」は、私の体ではない。私の思考でもない。ウィトゲンシュタイン個人や横山個人ではない。それは人間ではない。世界の内部に存在する事実ではないのだ。
ここで言われる主体とは、世界の限界であり、世界の開闢者としての「私」だと言えるのかもしれない。

神の視点による実在を認めないのであれば、「人間が知らないだけで本当はこうであるのだ」という「本当の世界」なるものを認めないで、この世界を考えるのであれば、世界は、世界を開闢する者の世界でしかないことになる。世界はこの主体が切り取って立ち上げた世界としてのみ存在すると考えねばならないのだ。
ただし、この世界の開闢者とは、人が誰しもそれぞれの世界を開闢するという、どこにでもある「私」を意味するものではない。誰もが世界の開闢者だというのであれば、その世界の限界としての「私」も、凡百の「私」の内の一つでしかないことになる。そんな凡百の私であればそれは世界の中に存在し、語られるべき存在になってしまう。ここでいう「私」とは唯一の世界を開闢している唯一の存在としての「私」、世界と一つになってしまう「私」、独我論と実在論が一致してしまう地点の「私」である。

たとえば、「机の上に青いカップがある」という一つの命題だけで言いつくされてしまうような世界であったとすれば、『私が見出した世界』という本の中身は「机の上に青いカップがある」だけになる。その世界には「机の上に青いカップがある」という事実しか存在しない。「私」という事実など、世界の中に存在しないのだ。しかし、「机の上に青いカップがある」という世界があったのなら、その世界を「机の、上に、青い、カップが、ある」というふうに切り取って立ち上げた主体があるはず。「論考」の言う世界は、主体がなくては立ち上がれないのだ。ただし、主体は世界の内部にあってはならない。主体があってはじめて主体の無い世界が立ち上がる。言いかえれば、主体は世界と一つである。「5.621 世界と生は一つである」「5.63 私は私の世界である」なのである。

この「私」は世界の事実でも事態でもないのだから、「論考」のいう思考の対象であるはずがなく、当然、語り得ないものである。こうして、「論考」は、語り得るものを確定させ、語り得ぬものをその対象から排除していった。言語は、世界がどうなっているのかを語るのみで、それが何だあるのかについては語ることができない。論理や倫理など、言語のルール設定、価値設定が成立した上でのみ語ることができ、その設定自体を語ることはできない。世界の内部にいる事象としての私について語り得るのみで、世界を立ち上げている、世界の限界としての「私」、世界の開闢者としての「私」について語ることができない。言語が語り得るのは、世界がどうなっているのか、命題として像として切り取られ立ち上げられた世界の姿のみである。要素命題から構成され、組み合わされて作られた命題によって織りなされる思考の空間の中だけが語り得る中身なのである。

これで、一応、「論考」のウィトゲンシュタインとカントの共通点と差異について語るための材料を集めてくることができたと思う。次節で、ようやく両者の比較の話に戻りたい。

つづく

「論考」を論考する 目次

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コメント

今晩は。世界には主体など存在しないというヴィットゲンシュタインの主張には賛同できるところがありますね。しかし、そうすると何故「世界は私の世界」となるのでしょうか。ヴィットゲンシュタインのアフォリズムは論理からはみ出て、語りえないことを語っている部分がありますね。論理命題で世界の可能性を描こうとしているのに、表現が論理のルールからはみ出ている。一つの著作としても論理の一貫性がない。イタリア旅行をしていたヴィットゲンシュタインはイタリアの経済学者ピエロ・スラッファーに「論考」の説明をしていたときに、スラッファーはちょっとヴィットゲンシュタインを小馬鹿にしてアゴの先を指でこすって、これの論理的意味は何かね?と列車の中で聞いたそうです。それを見たヴィットゲンシュタインは顔を真っ青にして黙ってしまったという逸話が残っています。

呼戯人さん、こんにちは。
「論考」は当然すぎることばかりをすごく真っ直ぐに書いたものというのが僕の印象です。あまりに真っ直ぐすぎて、その射程が狭いものになってしまい、一般的な生活に対しては使い物にならないのだと思います。スラファーとの逸話も「ウィトゲンシュタイン入門」その他で読んだことがあります。書の射程が短いせいで身振りなどの言葉は引っかからなかったのですね。

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