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2011年7月13日 (水)

盲国で「見える」は言えるか…私的言語か

たとえば、世界中の人間が誰も目が見えず、世界に「見える」とか「光」とか「色」とかいう言葉がないのだとする。そして、私一人が世界で初めて「見える」存在になったとする。
このとき、私は「見える」や「光」や「色」という概念を持つことができるだろうか。

私は少なくとも「私的感覚」を持っているだろう。しかし、「私的言語」は持つことができるのだろうか。

たとえば、モンシロチョウは人間に見えない紫外線を見ることができる。この事を「紫外線が見える」と言って表現される。
では、たとえば、特別な温度センサーを持っている動物がいて、離れている物の温度を知ることができるとする。この動物のこの感覚はどのように表現されるべきか。「温度が見える」だろう。我々「見える」ものの言葉づかいで言うなら「見える」と表現されるべきなのだろう。本当は「見える」ではない言葉を当てはめて使った方がいいのかもしれないが、我々には「見える」としか言えないし、「見える」で十分伝わる。(というかこれ以上の言葉がないのだから、これ以上伝えることができない。)

だから、「見える」という言葉がない言語世界において、私一人が「見える」とき、その、離れていてもモノの形大きさが分かるということを「見える」と表現するわけにはいかない。私にしか見えないなら「見える」とは言えないのだ。その場合は、「聞こえる」がその代わりをつとめることになるだろう。
「モノの形が聞こえる」「モノの大きさが聞こえる」という言い方になるしかないし、それで十分伝わるのだ。

しかし、このとき私が見えている色に「赤」や「青」などの名前をつけることはできるのではないだろうか。
この色の名前は、人には伝わらないだろう。でも自分に「聞こえている」の内容を「赤」か「青」かにふりわけることができるのではないか。それなら、それは「私的言語」と呼ぶべき言葉ではないのだろうか。それとも、これも「私的言語」ではないのだろうか。

思いつきの言々

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