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2011年7月

2011年7月30日 (土)

無意味とナンセンス≪「論考」を論考する4≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

矛盾とトートロジー

ウィトゲンシュタインは「4.461 トートロジーと矛盾は無意味だ」「4.4611 しかし、トートロジーと矛盾はナンセンスではない」と言う。この「無意味」と「ナンセンス」の意味を考える。

前節で見てきたように「論考」にとって、「4.2 命題の意味とは事態の成立不成立の可能性と命題との一致不一致である。」つまり、命題の意味とは「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準」ということであった。また、「5.11 幾つかの命題に共通な真理根拠の全てがある命題の一つの命題の真理根拠にもなっているとき、後者の命題が真であることは前者の諸命題が真であることから帰結すると言われる。」とも言う。これは、図で表すと、たとえばこのようになる。

Sinn_2 

上図で見て、真理根拠が限定されているものほど、情報量は多く、意味が大きいと言える。命題は真理根拠が限定されるほど、多くを語ることになるのだ。そして、その極限として、矛盾は真理根拠を失ってしまい、真になる領域を持てなくなったものである。だから、矛盾は何も語らないので、無意味になる。
逆に、真理根拠が限定されていないものほど情報が少なく、意味が小さいことになる。命題は真理根拠が限定されないほど、多くを語れないくなってしまうのだ。そして、その極限としてトートロジーは真理根拠に満たされてしまい、偽になる領域を持てなくなったものである。だから、トートロジーは何も語らないので、無意味になる。かくして、矛盾とトートロジーは世界がどうなっているかについて何の情報も伝えることができず、意味を持つことができないのだ。

そして、矛盾からはどんな命題でも導出し得る。また、トートロジーはどんな命題からも導出される。

 

意味の意味SinnlosとUnsinnとSinnとBedeutung

「意味」という言葉の意味はずいぶん混乱しやすい言葉づかいがされているので、注意してみていく必要がある。
ウィトゲンシュタイン以前の、フレーゲにおいては、Sinn(ジン)が「意義」を示す。つまり他の言葉で言い変えて説明するときの「意味」である。そしてBedeutung(ベドイトゥング…呼戯人さんに教えてもらって、読み方を訂正しました。ありがとうございました)が指示対象を示す。つまり、存在するそのものを指示して示すときの「意味」である。「明けの明星」と「宵の明星」のBedeutungは、どちらも金星を指すので、同じものだが。Sinnは違う意味を持つ。SinnとBedeutungの両者は日本語に訳された年代によってどちらもが「意味」とされている時期がそれぞれあるので要注意である。

さらにややこしいのは、ウィトゲンシュタインにおいては、名のみがBedeutungのみを持ち、命題のみがSinnのみを持つのである。この命題のSinnが「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準」なのである。
そして、ウィトゲンシュタインは、Sinnlos(ジンロス)とUnsinn(ウンジン)という言葉も使う。Sinnlosは一般的に「無意味」と訳され、その命題が指示する対象が世界に無いような場合を言う。「指示対象が無い」ということである。Unsinnは「ナンセンス」と訳され、その命題が論理形式違反になっている疑似命題であり、対象を指示するような文になっていないような場合を言う。「対象を指示していない」ということである。「矛盾とトートロジーが無意味であってナンセンスでない」というのは、矛盾もトートロジーも命題として正しい論理形式をしているが、その命題が真になるような状況が現実世界にあり得ないものでしかないということである。

 

「海砂利水魚が来た」と「五劫の擦切れが来た」

では、たとえばつぎの文ではどうか。

A. 「海砂利水魚」が来た。

B. 「五劫の擦切れ」が来た。

Sinn_4 Sinn_5

「海砂利水魚」は上田晋也、有田哲平の二人が、「くりぃむしちゅー」に改名する以前のコンビ名である。「五劫の擦切れ」は今僕が考えた適当な架空のコンビ名である。どちらも現在このようなコンビ名のコンビは存在しない…という点では同じである。しかし、Aは無意味で、Bはナンセンスなのである。

A.「『海砂利水魚』が来た」は、「上田が来た」かつ「有田が来た」かつ「上田と有田が海砂利水魚というコンビを結成している」という意味であろう。しかし、上田と有田は実際には現在、「海砂利水魚」というコンビを結成していない。
だから、「『海砂利水魚』が来た」かつ「上田と有田は海砂利水魚というコンビを結成していない」ということになるので、<「上田が来た」かつ「有田が来た」かつ「上田と有田が海砂利水魚というコンビを結成している」かつ「上田と有田は海砂利水魚というコンビを結成していない」>であるので、矛盾になるのだ。命題の意味とは「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準」ということであったのだから、この場合、Aには意味があるが、指示対象が無いのだ。
上田と有田の両氏がホントにやって来たとしても、その二人は海砂利水魚ではないので、A.「海砂利水魚が来た」は、偽になり、矛盾になり、無意味になるのだ。

これに対して、B. 「『五劫の擦切れ』が来た」は、何が来ると言っているのか、さっぱり分からない。「五劫の擦切れ」がコンビ名であると分かったとしても、何が来たらそれが真だと言えるのか分からない。命題の意味とは「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準」ということであったのだから、この場合、Bには意味が無い。命題になっていない疑似命題であり、ナンセンスなのである。

矛盾とトートロジーは、命題ではあり、「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準」としての意味はある。だから「ナンセンス」ではない。しかし、その指示対象は消え去ってしまっていて、存在しない。その意味で「無意味」なのだ。

つづく

「論考」を論考する 目次

2011年7月25日 (月)

「かつ」や「または」が否定から出来ているわけ≪「論考」を論考する3≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

「否定」自身は世界の対象ではない。「ない・¬」という言葉は世界の対象を示す名ではなく、現実にこれに対応する「コト」は何もない。否定は「コト」ではなく、像に対する操作でしかない。
では、「かつ・選言∧」「または・連言∨」「ならば・条件→」「同値≡」「任意の・全称∀」「少なくとも一つの・存在∃」など論理学に用いられる言葉が示すものも、否定と同様に操作でしかなく、「コト」ではないのだろうか。

Tigersgamba1

「タイガースが勝った。かつ、ガンバが勝った。または、エヴェッサが勝った」を絵で描けるか

「コト」ではないのである。
「任意の・全称∀」と「少なくとも一つの・存在∃」は別格であり、あとで別に考えなくではならないのだが、「かつ・選言∧」「または・連言∨」「ならば・条件→」「同値≡」はどれも「~ない・否定¬」の仲間であり、ウィトゲンシュタインのいう対象「コト」ではないのである。
これを考えるために、もう一度、命題とは何かを確かめておかねばならない。
ウィトゲンシュタインはこう言う。
「4.022 命題はその意味(論理空間における論理領域)を示す。命題はそれが真ならば事実がどうであるか(その論理領域の範囲)を示す。」
「4.023 命題は、あとはイエスかノーかを確かめればよいというところまで、現実を確定していなければならない。」
「4.024 命題を理解するとは、それが真であるとすれば事実はどうであるかを知ることである」
「4.2 命題の意味とは事態の成立不成立の可能性と命題との一致不一致である。」

命題の意味とは、世界が実際にどうなっていれば、その命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準だ…ということなのだ。

具体的には、こういうことだ。
たとえば、この世界が、「タイガースが勝った・T」という対象1つだけから成っていたとする。この世界の要素命題はこの1つだけなのだ。
すると、この要素命題Tに対応する真理可能性は真と偽の2種類になる。
T║真|偽|
「タイガースが勝った」と「タイガースが勝っていない」である。

そして、考えられるすべての命題がTの真理可能性と一致するかしないかの可能性は4種類になる。(2^(2^1)=4)
①.Tが真でも偽でも、真。
②.Tが真のとき真で、偽のとき偽。
③.Tが偽のとき真で、真のとき偽。
④.Tが真でも偽でも、偽。
これだけだ。この要素命題がただ1つだけの世界では、すべての命題はこの4つの内のいずれかでしかないのだ。
なぜなら、「4.2 命題の意味とは事態の成立不成立の可能性と命題との一致不一致である。」…ということだからだ。
これを、表にして示すならこうなる。

1_2

①はトートロジーだ。トートロジーになる文が全て、これと同じ意味を持つ1つの命題ということになる。
②は「タイガースが勝った」だ。たとえば「タイガースが勝ってなくはない」など、タイガースが勝つことになる文は全て、これと同じ意味を持つ1つの命題を表すことになる。
③は「タイガースが勝ったではない」だ。「タイガースが勝ってなくないことは無い」など、タイガースが勝たなかったことになる文は全て、これと同じ意味を持つ1つの命題を表すことになる。
④は矛盾だ。矛盾になる文が全て、これと同じ意味を持つ1つの命題を表すことになる。
そして、「タイガースが勝った」の1つだけしか「要素命題」を持たない世界では、これ以外の命題はあり得ないのだ。

 

では、たとえば、この世界が、「タイガースが勝った・T」と「ガンバが勝った・G」いう対象2つだけから成っていたとすると、どうだろう。
世界の要素命題はこの2つだけだとする。
この要素命題TとGに対応する真理可能性は4種類になる。(2^2=4)

2

である。
そして、いろいろな命題がTとGの真理可能性と一致するかしないかの可能性は16通りになる。(2^(2^2)=16)
表にして示すならこうだ。

3

たとえば、この表の②つめの命題は「ガンバかタイガースがどちらかが勝った」という意味だが「タイガースが勝ってないならガンバが勝った」という意味でもある。命題の真理可能性は○○○×で同じだからだ。
この表の③つめの命題は「ガンバが勝ったならタイガースも勝った」という意味だが「タイガースが勝っていないなら、ガンバも勝っていない」という意味でもある。命題の真理可能性は○○×○で同じだからだ。
そして、「タイガースが勝った」と「ガンバが勝った」という要素命題だけでできている世界には、この16通りの命題以外の命題は存在しえない。この16個だけが全ての命題なのだ。

 

では、たとえば、この世界が、「タイガースが勝った・T」と「ガンバが勝った・G」と「エヴェッサが勝った・E」いう対象3つだけから成っていたとする場合ならどうだろう。
世界の要素命題はこの3つだけだとする。
このとき、要素命題TとGとEに対応する真理可能性は8種類になる。(2^3=8)
そして、いろいろな命題がTとGとEの真理可能性と一致するかしないかの可能性は256通りになる。(2^(2^3)=256)
表にして示すならこうだ。

4

そして、「タイガースが勝った」と「ガンバが勝った」と「エヴェッサが勝った」という要素命題だけでできている世界には、この256通りの命題以外の命題は存在しえない。この256個だけが全ての命題なのだ。

これが、「4.2 命題の意味とは事態の成立不成立の可能性と命題との一致不一致である。」が語っている意味だ。命題の意味がこのように、「世界が実際にどうなっていれば、その命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準だ」…ということなのだ。

 

すると、

世界が1つの事実だけから成っているのであれば、世界を示すべき命題は4つだけしかなく、それが全てになる。世界が2つの事実だけから成っているのであれば、命題は16個だけしかなく、それが全てになる。3つなら256個だけ、4つなら65536個だけ、6つなら18446744073709551616個だけ、が全てになる。世界がn個の事実だけから成っているのであれば、世界を示すべき命題は2^2^n個だけしかなく、それが全てになるのだ。
そして、「否定¬」という操作は、その命題の真理可能性に対するさまざまな操作の形をとることになり、それが「かつ・選言∧」「または・連言∨」「ならば・条件→」「同値≡」という形になることもある。この視点で見れば「かつ・選言∧」「または・連言∨」「ならば・条件→」「同値≡」というものは「否定¬」が複数回、ほどこされたものであるということもできるのだ。
 

だから、「かつ・選言∧」「または・連言∨」「ならば・条件→」「同値≡」も、「否定¬」と同様に「名」ではなく、世界の対象を指すものではないと言えるのだ。

こうして、「かつ」「または」「ならば」「同値」という言葉はどれも世界の真理可能性に対する操作であることがはっきりする。「~ない」同様に、世界の対象ではありえないことがわかる。「かつ」も「または」も「ならば」もコトではないのである。

では、「任意の・全称∀」と「少なくとも一つの・存在∃」も操作なのだろうか。それは次節で。

 

つづく

「論考」を論考する 目次

2011年7月23日 (土)

「無い」がコトで無いわけ≪「論考」を論考する2≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

ウィトゲンシュタインの世界観は、超越論的である。(呼戯人さんから、この言葉の使い方についての疑問が提起され、検討しているところなので、後で撤回することになるかもしれないが、ウィトゲンシュタインもカント同様、形式を用いることによって世界は理解可能になると言う世界観であることには違いないのだから、とりあえず、超越論的だとしておきたい。)

ウィトゲンシュタインの世界観は超越論的ではあるが、カントのように空間やカテゴリーを絶対とせず、論理こそが絶対必要な形式だとした、そして、論理と言語で世界の写像を作ることによって世界を知ることができるとした。この部分がカントとの明確な違いの一つであるが、ここに注目する前にその像について先に検討したいと思う。

写像関係ができるとき、事実の像として「命題」ができ、その事実の要素である対象の像として、命題の要素になる「名」ができる。この「名」とはどのようなものであるのか。前節では、「名」の指すものが「モノの名前」のみに限られず、状態や関係性を示すものであること、命題が名のみから成るということから、それが名詞に限られず形容詞や動詞なども含まれなければならないということを、考えた。「青い空が広がっている」という命題は「青い」と「空が」と「広がっている」という「名」からできている。「名」と言っても「青い」や「広がっている」などの形容詞や動詞も含まれる。その指示するのはモノだけとは限らないのだった。

それでは、どんな言葉でも「名」になり得るのだろうか。

ダメなのだ。たとえば、否定を表す語「ない」は、「名」にはなり得ない。
こういうことだ。

「リンゴが無い」の絵を描くことはできるか。映像で表すことはできるか。
Ringoganai

こんな絵でなら、リンゴが無いことを表せるだろうか。ダメだ。何の前提もなしで誰かにこの絵を見せて何を表しているかを判断してもらったとしても、「リンゴが在るか無いかのどちらか」になるかも知れないし、「リンゴがある可能性は半分しかない」になるかもしれない。映像でならどうか。やはり、ダメだ。せいぜい表現できたとしても、「リンゴが無くなった」でしかないだろう。

「リンゴが無い」はそのまま像として表現できないのだ。なぜなら、「リンゴが無い」の像は「リンゴがある」と同じものだからだ。「リンゴが無い」は「リンゴがある」の否定であり、否定は世界の「対象」ではないからである。否定を表す言葉は「名」ではないからである。

「太郎は走っていない」の絵は描くことができるか。

Hasiranai1
こんな絵でなら表現できるか。
ダメだ。これでは、走っていないのか、走っているのが太郎じゃないのか、分からない。そもそも、「×」印は絵ではない。記号だ。

Hasiranai2
ダメだ。「走っていない」ではない。「止まる」だ。

Hasiranai3
ダメだ。「歩いている」だ。

「太郎が走っていない」はそのまま、像として表現することはできないのだ。
なぜなら、「太郎が走っていない」の像は「太郎が走っている」と同じものだからだ。「太郎が走っていない」は「太郎が走っている」の否定であり、否定は世界の「対象」ではないからである。否定を表す言葉は「名」ではないからである。

このことを、ウィトゲンシュタインは「論考」で次のように言っている。
「4.0621 記号「P」と「¬P」が同じことを語り得るということは重要である。というのも、そのことは記号「¬」が現実における何物にも対応していないことを示しているからである。命題「P」と「¬P」は逆方向の意味を持つが、しかしそれらには同一の現実が対応する。」
「5.44 かりに「¬」が表す対象が存在するというのであれば「¬¬P」は「P」と異なることを語っていなければならない。なぜなら「¬¬P」はまさに対象「¬」に関わっているが「P」はそうではないからである。」
(「¬」は否定を表す論理記号である。「論考」では実際には「~」という記号で否定が表されているが、このブログではこれまで「¬」で否定を表してきたので、「¬」で統一した。)

こうして、「否定」は世界の対象ではなく、「無い」は名ではないことが分かる。「否定」は対象ではなく、論理による命題の操作なのである。操作自体は現実世界には直接対応する対象を持たないのだ。

だから、「否定」と同じように、命題に対する操作はどれも、現実世界に直接対応する対象を持たないことになるのだが、これについては次節にまわしたい。

つづく

「論考」を論考する 目次

2011年7月19日 (火)

世界がコトからできているわけ≪「論考」を論考する1≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

ウィトゲンシュタインの世界観は、カントと同じように超越論的なものである。
「論理哲学論考」では「2.0231世界の実体を規定しうるのは形式であって、実質的な世界の在り方ではない」「2.0232一言でいうなら対象は無色なのである」と言っている。世界は、そのままでは人間が理解できるような「色」がついておらず、「形式」というフレームを当てはめることによってはじめて理解可能な姿になるとするものだ。世界は、人間が理解できる意味をはじめから備えていない。人間が意味づけしなければ意味は生じないのだ。そして、その意味づけをするときに形式という「フレーム」が必要になる。
たとえば、世界を表に表して理解しようとするのなら、その表をどんな枠組みにして、どんな見出しをつけるかを決めるのは理解する側の仕事であって、世界の側にはじめから備わっている問題ではない。…とする世界観である。

しかし、カントの世界とウィトゲンシュタインの世界は、同じ超越論的世界でもずいぶん違う。

カントは「物自体」という世界のもとになるモノがあると考え、世界はモノからできているとした。これに対し、ウィトゲンシュタインは、「1.世界は成立しているコトの全てである」と言う。実際そーなっている「コト」が世界を作っているもとになっていると言う。
なぜ、世界は「モノ」からではなく「コト」からできていると言い変えなければならなかったのだろう。

Wittgenstein

このことを考える前にウィトゲンシュタインの言葉づかいについてその意味をはっきりさせておきたい。ウィトゲンシュタインは「事実」「事態」「対象」「名」「命題」などの言葉によってその世界観を表しているが、その言葉の意味は普通ではないとことも多い。まず、その言葉の意味を確かめながらウィトゲンシュタインの世界観を見ていこう。

【事実】現実に成立しているコト。

【事態】起こりうることがら。成立していることがらと成立していないことがらの両方。事実に対して成立していない可能性の部分まで含めて考えられるもの。

【世界】事実の総体。実際に起こっていることがらだけを全て集めたものを世界とする。

【対象】事実や事態を分析して得られる、世界を構成する要素。

【像】事実の写像。世界を理解可能な形に処理したもの。世界を分析し構成することは、人間はそのままでは不可能であるので、何らかの枠に当てはめなければならない。この、人間が理解可能になるように処理をしたものを像という。レコードも楽譜もメロディーの像である。その音の集まりをメロディーとしてとらえられたのなら、その音列も分析構成されているわけだから、それは像である。特に「論理」という枠組みに当てはめたものを「論理像」と言う。そして、全ての像は論理像でなければならない。それに対して全ての像が空間的な像であるわけではない。

【形式】カントが時間空間やカテゴリーなどの形式によって世界を分析し得るとしたのと同じ意味で使われていると考えてよい。世界を理解可能な像に射影するための枠組みのこと。ただし、ウィトゲンシュタインが考える形式は時間空間やカテゴリーなどにとらわれず様々なものを設定し得る。そして、それらの全ての形式において「論理」が基礎となり、「論理」を含まない形式は無いとする。

【思考】事実の論理像。「3.事実の論理像が思考である」は、実際に起こっているコトに対する像のみを思考としてとらえると書かれているようにも読めるが、可能性についても思考できると読める部分もある。

【命題】世界と射影関係にある表現。思考の表現。

【名】命題の構成要素。命題は名だけからできている。対象を指示する。ただし、命題の構成要素の全てなのだから、一般的な「名」という言葉の「物の名前」という意味とはずいぶん違う。物の名前を指すだけではなく、形容詞や動詞などの様子を表す言葉や物の関係性を表す言葉も「名」に含まれる。

ウィトゲンシュタインのいう「世界」は、形式に当てはめられることによって、「像」として理解可能な形になる。世界は事実(実際にそーなっていること)から成り、事実は諸対象から成る。そして、世界は思考という像として理解され、事実は命題という像として理解され、対象は名という像として理解される。…という構造である。

世界

形式

世界

 ↑組合せ

事実

 ↑構成

対象

  -

  →

  -

  →

思考

 ↑組合せ

命題

 ↑構成

こう見てくると、世界の最小単位は「対象」なのだから、「世界は対象からできている」とすべきなのではないだろうか。「世界は成立しているコトの全て」としなくても、「世界はモノの全て」としてもいいような気もする。なぜ、ウィトゲンシュタインは「論考」の冒頭その「1」から「世界」がコトからできていると宣言しなければならなかったのだろうか。

「対象」とはどんなものなのだろうか。「モノ」を指すだけなのだろうか。
たとえば世界が「空と大地」のみからできているとして、「空」と「大地」だけを対象としていいだろうか。たとえば世界が「クォークと原子」のみからできているとして、「クォーク」と「原子」だけを対象としていいだろうか。

ダメなのである。
「対象」は「名」という像として理解される。だから、対象が「空」と「大地」だけなのであれば、「空」と「大地」という「名」だけがあればその世界を表せることになるはずだ。しかし、関係性を表されないと「空」「大地」というそれぞれが互いに関係し合うことは理解できずじまいになる。結局「空」も「大地」もその意味すらを持つことができなくなってしまう。
対象が「クォーク」と「原子」だけなのであれば、「クォーク」と「原子」という「名」だけがあればその世界を表せることになるはずだ。しかし、関係性を表されないと「クォーク」「原子」というそれぞれが互いに関係し合うことは理解できずじまいになる。結局「クォーク」も「原子」もその意味すらを持つことができなくなってしまう。

では、関係性を表す言葉も含めればいいか。「空」「大地」「上に」「下に」「広がる」「青い」「クォーク」「原子」「つながる」「強い力」「弱い力」「~の」「~と」という関係性を表現できるモノを「対象」とし、その言葉を「名」として考えればいいのだろうか。

ダメなのである。いくら関係性の言葉も一緒に挙げ連ねたとしても、言葉同士が構成されない限り、意味のある関係性は立ち上がってこないのだ。「大地の上に空が広がる」「クォークとクォークが強い力でつながる」というように意味のある関係を立ち上げるには「文」を作らねばならないのだ。

だから、ウィトゲンシュタインは「命題」を像の最小の「要素」とし、「事実」を「世界」の最小の「要素」としたのだ。そして、さらに、名の意味が何であるかは、この関係性においてのみ言い表すことができるだけで、関係性がなければ名は意味を持つことができないのだとした。このことをウィトゲンシュタインは「3.221対象に対して私は名を与えることができるだけである。そして、記号は対象のかわりをする。私は対象について〔その性質などを〕語ることはできるが〔性質を抜きにして〕対象を〔単独で〕言い表すことはできない。命題はただものがいかにあるかを語り得るのみであり、それが何であるかを語ることはできない」と言っている。

「名」は「命題」になってはじめて世界の像たり得るのだ。それゆえ、「名」を世界を表す最小単位とすべきではない。「命題」を要素として考えるべきなのである。「モノ」は世界の最小単位ではあり得ない。「コト」だけが世界の最小単位になり得るのである

つづく

「論考」を論考する 目次

2011年7月17日 (日)

ウィトゲンシュタインとカント≪「論考」を論考する0≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

独我論を考える上で、ウィトゲンシュタインを避けるわけにはいかない。この辺りで、ウィトゲンシュタインが世界と言語をどうとらえたかを考え、存在に関する考察の中心課題へと進んでいきたい。

デカルト以来の、「存在の正しさがどのように確かめるられるか」という疑問に対し、全てを懐疑するわけにもいかず、全てを神に委ねるわけにもいかず、哲学はその矛盾の中で様々なアイデアを出してきた。この存在への問いに対して、カントは「アプリオリとアポステリオリ」「分析と総合」という観点を導入し、「アプリオリな分析的認識」と「アポステリオリな総合的認識」との間に「アプリオリな総合」なるものを捻り出すことによって、答えようとした。人間の認識は「物自体」には到達することはできないけれど、自ら感性や悟性などの人間が認識できるフレームに世界を当てはめることによって、世界データを手にして、世界を認識することができるようになる。そして、そこに「だって、そーなんだもん」と言えるような状況が確かめられることによって、そのフレーム自体を「アプリオリな総合」にできるとしたのだ。「神の視点による実在論」ではなく、「人間の視点による実在論」というアイデアを、カントは「超越論的観念論」および「経験的実在論」と呼び、観念論と実在論を1つにした。

ウィトゲンシュタインの世界観は、カントの「超越論的」な世界観に寄り添った部分が多く、非常に似ている。しかし、ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」という本で「アプリオリな総合」という認識を認めず、人間は世界の像を作ることによって世界に到達できるとした。この世界観は、カント以上に独我論的だとも言える。まずはこの「論考」の内容とカントの存在論とを比較しながらその内容を考える。

 

つづく

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2011年7月13日 (水)

盲国で「見える」は言えるか…私的言語か

たとえば、世界中の人間が誰も目が見えず、世界に「見える」とか「光」とか「色」とかいう言葉がないのだとする。そして、私一人が世界で初めて「見える」存在になったとする。
このとき、私は「見える」や「光」や「色」という概念を持つことができるだろうか。

私は少なくとも「私的感覚」を持っているだろう。しかし、「私的言語」は持つことができるのだろうか。

たとえば、モンシロチョウは人間に見えない紫外線を見ることができる。この事を「紫外線が見える」と言って表現される。
では、たとえば、特別な温度センサーを持っている動物がいて、離れている物の温度を知ることができるとする。この動物のこの感覚はどのように表現されるべきか。「温度が見える」だろう。我々「見える」ものの言葉づかいで言うなら「見える」と表現されるべきなのだろう。本当は「見える」ではない言葉を当てはめて使った方がいいのかもしれないが、我々には「見える」としか言えないし、「見える」で十分伝わる。(というかこれ以上の言葉がないのだから、これ以上伝えることができない。)

だから、「見える」という言葉がない言語世界において、私一人が「見える」とき、その、離れていてもモノの形大きさが分かるということを「見える」と表現するわけにはいかない。私にしか見えないなら「見える」とは言えないのだ。その場合は、「聞こえる」がその代わりをつとめることになるだろう。
「モノの形が聞こえる」「モノの大きさが聞こえる」という言い方になるしかないし、それで十分伝わるのだ。

しかし、このとき私が見えている色に「赤」や「青」などの名前をつけることはできるのではないだろうか。
この色の名前は、人には伝わらないだろう。でも自分に「聞こえている」の内容を「赤」か「青」かにふりわけることができるのではないか。それなら、それは「私的言語」と呼ぶべき言葉ではないのだろうか。それとも、これも「私的言語」ではないのだろうか。

思いつきの言々

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