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2011年7月30日 (土)

無意味とナンセンス≪「論理哲学論考」を論考する4≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

矛盾とトートロジー

ウィトゲンシュタインは「4.461 トートロジーと矛盾は無意味だ」「4.4611 しかし、トートロジーと矛盾はナンセンスではない」と言う。この「無意味」と「ナンセンス」の意味を考える。

前節で見てきたように「論考」にとって、「4.2 命題の意味とは事態の成立不成立の可能性と命題との一致不一致である。」つまり、命題の意味とは「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準」ということであった。また、「5.11 幾つかの命題に共通な真理根拠の全てがある命題の一つの命題の真理根拠にもなっているとき、後者の命題が真であることは前者の諸命題が真であることから帰結すると言われる。」とも言う。これは、図で表すと、たとえばこのようになる。

Sinn_2 

上図で見て、真理根拠が限定されているものほど、情報量は多く、意味が大きいと言える。命題は真理根拠が限定されるほど、多くを語ることになるのだ。そして、その極限として、矛盾は真理根拠を失ってしまい、真になる領域を持てなくなったものである。だから、矛盾は何も語らないので、無意味になる。
逆に、真理根拠が限定されていないものほど情報が少なく、意味が小さいことになる。命題は真理根拠が限定されないほど、多くを語れないくなってしまうのだ。そして、その極限としてトートロジーは真理根拠に満たされてしまい、偽になる領域を持てなくなったものである。だから、トートロジーは何も語らないので、無意味になる。かくして、矛盾とトートロジーは世界がどうなっているかについて何の情報も伝えることができず、意味を持つことができないのだ。

そして、矛盾からはどんな命題でも導出し得る。また、トートロジーはどんな命題からも導出される。

 

意味の意味SinnlosとUnsinnとSinnとBedeutung

「意味」という言葉の意味はずいぶん混乱しやすい言葉づかいがされているので、注意してみていく必要がある。
ウィトゲンシュタイン以前の、フレーゲにおいては、Sinn(ジン)が「意義」を示す。つまり他の言葉で言い変えて説明するときの「意味」である。そしてBedeutung(ベドイトゥング…呼戯人さんに教えてもらって、読み方を訂正しました。ありがとうございました)が指示対象を示す。つまり、存在するそのものを指示して示すときの「意味」である。「明けの明星」と「宵の明星」のBedeutungは、どちらも金星を指すので、同じものだが。Sinnは違う意味を持つ。SinnとBedeutungの両者は日本語に訳された年代によってどちらもが「意味」とされている時期がそれぞれあるので要注意である。

さらにややこしいのは、ウィトゲンシュタインにおいては、名のみがBedeutungのみを持ち、命題のみがSinnのみを持つのである。この命題のSinnが「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準」なのである。
そして、ウィトゲンシュタインは、Sinnlos(ジンロス)とUnsinn(ウンジン)という言葉も使う。

Sinnlosは一般的に「無意味」と訳され、その命題が世界の在り方についての情報を持っていない場合を言う。「指示対象に関する情報が無い」ということである。単なる偽は無意味ではないが、矛盾の命題は常に偽であることにため世界のあり方に関する情報をもてないので「無意味」である。さらに、トートロジーも世界の在り方を語っていないという点で「無意味」である。
Unsinn「ナンセンス」と訳され、その命題が論理形式違反になっている疑似命題であり、対象を指示するような文になっていないような場合を言う。「対象を指示していない」ということである。

「矛盾とトートロジーが無意味であってナンセンスでない」というのは、矛盾もトートロジーも命題として正しい論理形式を示しているが、その命題が真であるか偽であるかが情報として現実世界を語らないものでしかないということである。

 

「海砂利水魚が来た」と「五劫の擦切れが来た」

では、たとえばつぎの文ではどうか。

A. 「海砂利水魚」が来た。

B. 「五劫の擦切れ」が来た。

Sinn_4 Sinn_5

「海砂利水魚」は上田晋也、有田哲平の二人が、「くりぃむしちゅー」に改名する以前のコンビ名である。「五劫の擦切れ」は今僕が考えた適当な架空のコンビ名である。どちらも現在このようなコンビ名のコンビは存在しない…という点では同じである。しかし、Aは無意味で、Bはナンセンスなのである。

A.「『海砂利水魚』が来た」は、「上田が来た」かつ「有田が来た」かつ「上田と有田が海砂利水魚というコンビを結成している」という意味であろう。しかし、上田と有田は実際には現在、「海砂利水魚」というコンビを結成していない。
だから、「『海砂利水魚』が来た」かつ「上田と有田は海砂利水魚というコンビを結成していない」ということになるので、<「上田が来た」かつ「有田が来た」かつ「上田と有田が海砂利水魚というコンビを結成している」かつ「上田と有田は海砂利水魚というコンビを結成していない」>であるので、矛盾になるのだ。命題の意味とは「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための『基準』に対して判断された真偽」、ということであったのだから、この場合、Aには「基準」があり、命題は偽であるという意味では意味はあるとも言えるのだが、指示対象に関する情報は皆無であるのでSinnlossなのである。
上田と有田の両氏がホントにやって来たとしても、その二人は海砂利水魚ではないので、A.「海砂利水魚が来た」は、偽になり、矛盾になり、無意味になるのだ。

これに対して、B. 「『五劫の擦切れ』が来た」は、何が来ると言っているのか、さっぱり分からない。「五劫の擦切れ」がコンビ名であると分かったとしても、何が来たらそれが真だと言えるのか分からない。命題の意味とは「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための『基準』に対して判断された真偽」ということであったのだから、この場合、Bには「基準」がなく、真偽決定できる可能性がなく、命題の真偽が決定できるという意味での「意味」が無い。命題になっていない疑似命題であり、ナンセンスなのである。

矛盾とトートロジーは、命題ではあり、「世界が実際にどうなっていればその命題自身が真だと言えるのかを決める線引きのための基準」としての意味はある。だから「ナンセンス」ではない。しかし、その指示対象は消え去ってしまっていて、存在しない。その意味で「無意味」なのだ。

※注意:ここまでの「無意味」と「ナンセンス」の言葉づかいに関する解説は、フレーゲ、ウィトゲンシュタイン(野矢訳)に従ったものである。困ったことに、フッサールの言葉づかいはこれと違うので、注意が必要である。フッサールの言葉づかいでは、「円い四角」などの矛盾については「Widersinn(反意味)」とし、「緑はあるいはである」のようなウィトゲンシュタインの言うUnsinnナンセンスを「Sinnlos(無意味)」とする。日本でもこの系列の言葉づかいも導入されているので、「Sinnlos(無意味)」が二つの意味を持ってしまうことになり混乱を生んでいる。

つづく

「論考」を論考する 目次

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コメント

今晩は。余計なことかもしれないけれど、Sinnはジンと読みBedeutungは、ベドイトゥングと表記したほうが原音に近いと思います。ウィトゲンシュタインは習慣でそうなっているけれど、本当はヴィットゲンシュタインと表記したほうがいいと思います。これもまあ加藤周一がベトナムのことをヴィエトナムと表記するのと同じで、慣習の問題かもしれませんが・・・。それと同じで私には論理命題と客観的世界がつながっていて、同じ構造をしているとはとても思えません。そもそも客観的世界があるというほうが間違っているような気がします。ユクスキュルではありませんが、生物はその生物独特の環境適応の仕方があって、人間は人間独特の環境適応の仕方を持ってこの世界に生まれてきたと考えるほうがいいように思います。無意味とナンセンスも笑いをもたらしたりするので、なぜか無意味とは思えません。逆説とナンセンスに満ち満ちているのが世界と人生であるような気がします。

呼戯人さん、こんばんは。
Sinnはジン、Bedeutungはベドイトゥング、早速訂正しました。ありがとうございました。
Bedeutungはベドイチュンなのかべダウタンなのか、Sinnはシンなのかジンなのかいつも迷っていたので、助かりました。ヴィットゲンシュタインは一般的なウィトゲンシュタインでそのまま使っておきます。
客観的世界があると言う方が間違っているというその言葉の中に真相に迫れるものがありそうに思います。ウィトゲンシュタインはしかし、「2.1511 像は現実に到達する」という言い方をしています。その逆説の中にも生はあるのかもしれないと、僕もそんな気がします。

こんにちは。「像は現実に到達する」と断言しているヴィットゲンシュタインの論拠はどこにあるのでしょうか。黒澤明の「羅生門」をご覧になったことありますか?一つの殺人事件に関する証言が証人によって幾通りも異なることを主題にした映画でした。芥川龍之介の「藪の中」を原作にした映画です。一種の不可知論あるいは相対主義を主題にした見事な映画です。その反対にヴィットゲンシュタインの場合到達するその先に客観的な現実があると想定していると思われます。その場合、論理命題に還元できるものだけが事実またはその集合としての世界となります。しかし、殺人事件となると論理命題のみに還元できない現実があります。それら語りえないものについても裁判は語らなければなりません。そうすると現実とは様々な立場からする解釈の堆積となります。一義的に決定できる論理的現実などありません。事態として数えげられる論理的必然性の中に現実が収まっている
可能性は高いですが、そうでない場合もありえます。そもそもヴィットゲンシュタインの言っている現実とはどのようなものなのでしょうか?

呼戯人さん、コメントありがとうございます。
映画「羅生門」見たことあります。面白い映画でした。神の視点による実在論的な世界観を疑い、個々の主観のみから世界を考えることをも疑っていて、答えの無さの中を漂うような終わり方でしたよね。
ウィトゲンシュタインの言う「現実」というものが何を指すのか、非常に興味があります。ウィトゲンシュタインはこの「論考」の時点で、ある種の言語論的転回を果たしていて、「自分の手に入れた命題がすでに、そのもの自体が現実に直結している。命題に直結しているものが現実そのものなのだ」としているのではないかというように思っています。いかがでしょう。

こんばんは。そうなんです。ヴィットゲンシュタインは、自分の作った命題が現実に到達しているということを確信していました。また自然科学的な命題でなければ、すべては無意味かナンセンスと考えていました。こんなに極端な世界観は、ヴィットゲンシュタインしかもてません。だから、「世界とは私の世界である」ということになったのではないでしょうか!!しかしそれにも関らず、彼はショーペンハウアーやトルストイなんかを読まずにはいられなかったのです。「意志と表象としての世界」なんてカントによってですら、不可知とされていたのに、論理命題だけで意志の哲学なんて展開のしようもなかったはずですよね。
その上ハイデッガーを読み、カール・ポパーとは喧嘩をしています。なんか無茶苦茶です。

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