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2011年7月19日 (火)

世界がコトからできているわけ≪「論理哲学論考」を論考する1≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

ウィトゲンシュタインの世界観は、カントと同じように超越論的なものである。
「論理哲学論考」では「2.0231世界の実体を規定しうるのは形式であって、実質的な世界の在り方ではない」「2.0232一言でいうなら対象は無色なのである」と言っている。世界は、そのままでは人間が理解できるような「色」がついておらず、「形式」というフレームを当てはめることによってはじめて理解可能な姿になるとするものだ。世界は、人間が理解できる意味をはじめから備えていない。人間が意味づけしなければ意味は生じないのだ。そして、その意味づけをするときに形式という「フレーム」が必要になる。
たとえば、世界を表に表して理解しようとするのなら、その表をどんな枠組みにして、どんな見出しをつけるかを決めるのは理解する側の仕事であって、世界の側にはじめから備わっている問題ではない。…とする世界観である。

しかし、カントの世界とウィトゲンシュタインの世界は、同じ超越論的世界でもずいぶん違う。

カントは「物自体」という世界のもとになるモノがあると考え、世界はモノからできているとした。これに対し、ウィトゲンシュタインは、「1.世界は成立しているコトの全てである」と言う。実際そーなっている「コト」が世界を作っているもとになっていると言う。
なぜ、世界は「モノ」からではなく「コト」からできていると言い変えなければならなかったのだろう。

Wittgenstein

このことを考える前にウィトゲンシュタインの言葉づかいについてその意味をはっきりさせておきたい。ウィトゲンシュタインは「事実」「事態」「対象」「名」「命題」などの言葉によってその世界観を表しているが、その言葉の意味は普通ではないとことも多い。まず、その言葉の意味を確かめながらウィトゲンシュタインの世界観を見ていこう。

【事実】現実に成立しているコト。

【事態】起こりうることがら。成立していることがらと成立していないことがらの両方。事実に対して成立していない可能性の部分まで含めて考えられるもの。

【世界】事実の総体。実際に起こっていることがらだけを全て集めたものを世界とする。

【対象】事実や事態を分析して得られる、世界を構成する要素。

【像】事実の写像。世界を理解可能な形に処理したもの。世界を分析し構成することは、人間はそのままでは不可能であるので、何らかの枠に当てはめなければならない。この、人間が理解可能になるように処理をしたものを像という。レコードも楽譜もメロディーの像である。その音の集まりをメロディーとしてとらえられたのなら、その音列も分析構成されているわけだから、それは像である。特に「論理」という枠組みに当てはめたものを「論理像」と言う。そして、全ての像は論理像でなければならない。それに対して全ての像が空間的な像であるわけではない。

【形式】カントが時間空間やカテゴリーなどの形式によって世界を分析し得るとしたのと同じ意味で使われていると考えてよい。世界を理解可能な像に射影するための枠組みのこと。ただし、ウィトゲンシュタインが考える形式は時間空間やカテゴリーなどにとらわれず様々なものを設定し得る。そして、それらの全ての形式において「論理」が基礎となり、「論理」を含まない形式は無いとする。

【思考】事実の論理像。「3.事実の論理像が思考である」は、実際に起こっているコトに対する像のみを思考としてとらえると書かれているようにも読めるが、可能性についても思考できると読める部分もある。

【命題】世界と射影関係にある表現。思考の表現。

【名】命題の構成要素。命題は名だけからできている。対象を指示する。ただし、命題の構成要素の全てなのだから、一般的な「名」という言葉の「物の名前」という意味とはずいぶん違う。物の名前を指すだけではなく、形容詞や動詞などの様子を表す言葉や物の関係性を表す言葉も「名」に含まれる。

ウィトゲンシュタインのいう「世界」は、形式に当てはめられることによって、「像」として理解可能な形になる。世界は事実(実際にそーなっていること)から成り、事実は諸対象から成る。そして、世界は思考という像として理解され、事実は命題という像として理解され、対象は名という像として理解される。…という構造である。

世界

形式

世界

 ↑組合せ

事実

 ↑構成

対象

  -

  →

  -

  →

思考

 ↑組合せ

命題

 ↑構成

こう見てくると、世界の最小単位は「対象」なのだから、「世界は対象からできている」とすべきなのではないだろうか。「世界は成立しているコトの全て」としなくても、「世界はモノの全て」としてもいいような気もする。なぜ、ウィトゲンシュタインは「論考」の冒頭その「1」から「世界」がコトからできていると宣言しなければならなかったのだろうか。

「対象」とはどんなものなのだろうか。「モノ」を指すだけなのだろうか。
たとえば世界が「空と大地」のみからできているとして、「空」と「大地」だけを対象としていいだろうか。たとえば世界が「クォークと原子」のみからできているとして、「クォーク」と「原子」だけを対象としていいだろうか。

ダメなのである。
「対象」は「名」という像として理解される。だから、対象が「空」と「大地」だけなのであれば、「空」と「大地」という「名」だけがあればその世界を表せることになるはずだ。しかし、関係性を表されないと「空」「大地」というそれぞれが互いに関係し合うことは理解できずじまいになる。結局「空」も「大地」もその意味すらを持つことができなくなってしまう。
対象が「クォーク」と「原子」だけなのであれば、「クォーク」と「原子」という「名」だけがあればその世界を表せることになるはずだ。しかし、関係性を表されないと「クォーク」「原子」というそれぞれが互いに関係し合うことは理解できずじまいになる。結局「クォーク」も「原子」もその意味すらを持つことができなくなってしまう。

では、関係性を表す言葉も含めればいいか。「空」「大地」「上に」「下に」「広がる」「青い」「クォーク」「原子」「つながる」「強い力」「弱い力」「~の」「~と」という関係性を表現できるモノを「対象」とし、その言葉を「名」として考えればいいのだろうか。

ダメなのである。いくら関係性の言葉も一緒に挙げ連ねたとしても、言葉同士が構成されない限り、意味のある関係性は立ち上がってこないのだ。「大地の上に空が広がる」「クォークとクォークが強い力でつながる」というように意味のある関係を立ち上げるには「文」を作らねばならないのだ。

だから、ウィトゲンシュタインは「命題」を像の最小の「要素」とし、「事実」を「世界」の最小の「要素」としたのだ。そして、さらに、名の意味が何であるかは、この関係性においてのみ言い表すことができるだけで、関係性がなければ名は意味を持つことができないのだとした。このことをウィトゲンシュタインは「3.221対象に対して私は名を与えることができるだけである。そして、記号は対象のかわりをする。私は対象について〔その性質などを〕語ることはできるが〔性質を抜きにして〕対象を〔単独で〕言い表すことはできない。命題はただものがいかにあるかを語り得るのみであり、それが何であるかを語ることはできない」と言っている。

「名」は「命題」になってはじめて世界の像たり得るのだ。それゆえ、「名」を世界を表す最小単位とすべきではない。「命題」を要素として考えるべきなのである。「モノ」は世界の最小単位ではあり得ない。「コト」だけが世界の最小単位になり得るのである

つづく

「論考」を論考する 目次

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コメント

こんばんは。ヴィットゲンシュタインの世界観は決して超越論的なものではありません。。
彼は論理が実在していると考えていたし、その論理の写像が命題であると考えていました。前期のヴィットゲンシュタインは人間の認識は世界の写像であると考えていたわけです。それはカントの世界観とは非常に異なるものだと思います。カントは世界は人間の構成物だと言いますが、ヴィットゲンシュタインは写像と言います。ここで両者は決定的に異なっています。それに後期になるとこの論理の写像論を捨てて言語ゲームを展開してゆきます。

呼戯人さん、コメントありがとうございます。
ていねいな指摘をいただいて、とてもうれしいです。カントとウィトゲンシュタインの違いを考えていきたいと思っているので、その点に関する指摘がほんとにありがたいです。
「ウィトゲンシュタインの世界観が超越論的ではない」というのは、「ウィトゲンシュタイン入門」で永井均が、
「この自我(主体)をデカルト以来の近代的自我やカント以来の超越論的=先験的主体の意味にとるならば、それは根本的な誤解である。通常、超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に対して形式(形相)を、つまり意味を付与することによって、内的関係がはじめて設定される、と考えられている。ウィトゲンシュタインにおいてはそうではない。自我は、すでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それにいわば実質を、もっと強くいえば存在を、付与するのである。「私」とは、世界に意味を付与する主体ではなく、世界をこの世界として存在させている世界の実質そのものなのである。」
と語っている、この視点での指摘と考えていいでしょうか。永井が「独我論的視点をはっきりさせたい」という意味合いで、「transzendental」を「超越論的」と「先験的」の2つに訳し分けた思いは理解できますが、偏った考えがあるようにも思います。(僕も偏ってますが)L.W.自身は「6.13論理はtranszendentalである。」「6.421倫理はtranszendentalである。」と言っている。これを「超越論的世界観」と呼ぶことは間違いではないと思っています。呼戯人さんの言われるように、L.W.が論理が実在すると考えていたとしても、論理だけから立ち上がる文は必然的にトートロジーになり、L.W.のいう「無意味」になってしまうのですから、「先験的」であることには違いなく、習慣的な訳し方から「超越論的」と言ってもいいように思います。いかがでしょうか。

命題がトートロジーである、ということはヴィットゲンシュタイン自身認めているところです。けれど、トートロジーが無意味であるといってはいません。
また論理が超越論的であるという意味は、人間がいなくなっても論理そのものは実在しており、世界はその論理形式によって成り立っているという意味で先験的だという意味で
はないでしょうか。それは倫理も同じ。この前期ヴィットゲンシュタインの写像理論はカントからの後退のように見えますが、ルネサンス以来のヒューマニズムからの脱却のようにも見えます。言語ゲームになると写像理論は捨て去られ、世界は言語ゲームであるという言いかたになります。永井均の<私>論は、私にはよくわかりません。永井の読み方に従うと、ヴィットゲンシュタインの言う<私>は<神>に等しいもののようになってしまいます。
 若い頃哲学を学び、今それを忘れ去ろうという年頃になっています。私の言うことは迷蒙かもしれませんが、永井均の独我論的言説も迷蒙のような気がいたします。もう一度勉強しなおしてみようと思います。

呼戯人さん。
早速、ていねいな説明ありがとうございます。すごい論戦になってきて大変うれしいです。

L.W.にとって、「無意味sinnlos」は「分析的」とか「内的である」とかいうことを指しているようですね。そして、「ナンセンスunsinn」は「指示対象sinn」を指し得ない、論理形式違反を指すようです。で、その意味だろうと思いますが、「4.461 トートロジーと矛盾は無意味sinnlosである。」「4.461 しかし、トートロジーと矛盾はナンセンスunsinnではない。」と言っています。ですから、「論理は超越論的」だと、L.W.が言ったのは「論理は分析的であり内的であるという意味で先験的だ」と言ったものとして考えるのがストレートな考え方に思えます。「人間とは無関係に、人間の存在以前のものとして」先験的だと言っているのではないと思えるのです。呼戯人さんのおっしゃっている「先験的」は「我コギトによる世界開闢の以前に世界が存在しているのだ」と言う意味での「先験的」ということであり、我コギトによる開闢が世界をはじめて成立させるものではないということだと理解したのですが、どうでしょうか。しかし、そう捉えると前期のL.W.にとっての「世界は私の世界」であるはずで齟齬が出てくるように思えます。この辺りどうお考えでしょうか。
僕としてはこのブログで、
前期のL.W.が「分析的」と「無意味」と「アプリオリ」とを一括して「内的」と非常に単純化することによって、言語と世界との関係を鋭く整理することができた。しかし、その結果、カントが「アプリオリな総合」で苦悩した「私の認識を実質的な世界に対する楔として打ち込むには如何にすべきか」という問題を隠してしまい、後期の自分に先送りしてしまったのではないか、
という方向で検討していきたいと考えています。

これを考えていく上で、今のこの論議は非常にありがたい内容になっています。どうぞよろしくお願いします。

遠い霧の彼方から蘇るわずかな記憶を元にしてコメントしているだけです。ヴィットゲンシュタインの哲学の偉大な点をちゃんと理解しているわけではありません。フレーゲやラッセルの記号論理学ももう忘れてしまいました。数学ができないので、ヴィットゲンシュタインの記号論理がどうして新しかったのかをちゃんと理解しているわけではありません。しかし、命題論理で語ることのできることしか哲学の俎上にのせてはいけないというヴィットゲンシュタインの態度に若い頃反発を覚えました。ジル・ドゥルーズの言葉を引用すれば、彼は「哲学の殺害者だ」ということになります。でも出来るだけ読みなおして、考えてみようと思います。私が大学生の頃ヴィットゲンシュタインを習ったのは増成隆士先生です。ご存知ですか?今日は散文的な感想になってしまいました。分析的とか内的とかいう術語の意味を今すぐ思い出せないので、少し勉強しなおしてからコメントさせて頂きます。

こんばんは。少しだけ論理哲学論考を読み返してみました。内的関係というのは、事実と命題の間にある論理形式が写像の関係にあるということだと納得しました。だから論理が超越論的であるという意味は、すべての論理的可能性は対象が与えられるとともにすぐに事態として成立するということだと思います。別の言葉で言いかえると論理的必然性のことをL・Wは、超越論的だと表現しているのではないでしょうか。世界はこのように出来ているのでなければならないという主張は、カントのいうトランツェンデンタルとは異なるような気がするのですが、いかがでしょうか。倫理的なものや美的なものは論理命題では語りえぬものですが、哲学が何故論理と数学の中だけで表現されるものだけに限られなくてはならないのか私にはよく理解できません。

呼戯人さん。
きちんと解説して下さるので、お考えがよく分かります。ありがとうございます。

「すべての論理的可能性は対象が与えられるとともにすぐに事態として成立するということ」つまり「論理的必然性のことをL・Wは、超越論的だと表現している」…なるほど、必然的で確定的な論理の上に描かれた世界はそれによって、必然的で確定的な世界であるということでしょうか。そうであるなら、そうかもしれません。しかし、必然的で確定的な世界であるという世界観は、カントにしても物自体の存在を認めていたわけですから、大きな違いがあるとは思えないところもあります。ただ、L.W.は世界自体に到達できるとし、カントはできないとしており、その点でL.W.の方が実在論と独我論が接近していると言えるのかもしれませんね。もしかすると、呼戯人さんが実在論の側から、ぼくが独我論の側から同じ世界を見ているのかもしれないという気もします。もう少し考えてみたいと思います。
増成隆士先生は存じません。僕は、哲学についてきちんと学校や誰かに習ったわけではなく、全くの素人です。入門書などを読んで独りよがりな考えを走らせているばかりですので、ずいぶん間違いも多いと思います。
これからも、教えていただければありがたいです。
よろしくお願いします。

こんばんは。私こそ色々と教えてもらって感謝にたえません。私も分析哲学に関してはまったくの素人なので、横山さんのブログを読ませてもらいながら復習しています。もう三十年も前に書いた卒論はニーチェの認識論に関するものでした。その後はフランクフルト学派などを主に読んできました。まったく偶然に横山さんのブログを知ることになり、専門家でない人がこんなに熱心に素晴らしい文章をお書きになっているのを見て、埃にまみれていた哲学の本をもう一度取りだすことになりました。私のブログは下手な詩で埋まっています。久しぶりに哲学への情熱が蘇りました。ありがとうございます。そういえば、永井均の「ウィトゲンシュタイン入門」も本棚にありました。読みなおしてみます。これからも哲学を教えて頂けたら幸いです。

はじめまして。時間のことを検索していたら面白いブログを見つけてしまいました。
素人で恐縮なのですが、ひとつ質問させてください。

「コトがモノより先」というウィトゲンシュタインの主張は、【あ】「意味の有無においては、コトがモノより先」ということでしょうか?それとも、【い】「意味なんて考えなくても、とにかくコトが先」ということなのでしょうか?

なぜこの質問をしたかと言うと、【い】だと違和感を感じるためです。
違和感の理由は、「知覚や質量なら、意味がないモノとして、意味のあるコトに先んじて存在できるんじゃないか」と感じるためです。

【あ】なのか、【い】なのか。そしてもし【い】なら、私の違和感のどこが間違っているのか。知りたいです。

以上です。横から失礼しました。
まだ本章の途中なので、ゆっくり読ませていただきます。有意義な日曜日になりそうです♪

SHIROさん、コメントありがとうございます。
僕の理解では【あ】です。
「論考」は世界解釈を命題によってなす場合の限界を探ろうとする書ですので、その思索作業はすべて言語システムを検討する内容になっているとおもいます。

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