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2011年7月17日 (日)

ウィトゲンシュタインとカント≪「論理哲学論考」を論考する0≫

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を論考する

独我論を考える上で、ウィトゲンシュタインを避けるわけにはいかない。この辺りで、ウィトゲンシュタインが世界と言語をどうとらえたかを考え、存在に関する考察の中心課題へと進んでいきたい。

デカルト以来の、「存在の正しさがどのように確かめるられるか」という疑問に対し、全てを懐疑するわけにもいかず、全てを神に委ねるわけにもいかず、哲学はその矛盾の中で様々なアイデアを出してきた。この存在への問いに対して、カントは「アプリオリとアポステリオリ」「分析と総合」という観点を導入し、「アプリオリな分析的認識」と「アポステリオリな総合的認識」との間に「アプリオリな総合」なるものを捻り出すことによって、答えようとした。人間の認識は「物自体」には到達することはできないけれど、自ら感性や悟性などの人間が認識できるフレームに世界を当てはめることによって、世界データを手にして、世界を認識することができるようになる。そして、そこに「だって、そーなんだもん」と言えるような状況が確かめられることによって、そのフレーム自体を「アプリオリな総合」にできるとしたのだ。「神の視点による実在論」ではなく、「人間の視点による実在論」というアイデアを、カントは「超越論的観念論」および「経験的実在論」と呼び、観念論と実在論を1つにした。

ウィトゲンシュタインの世界観は、カントの「超越論的」な世界観に寄り添った部分が多く、非常に似ている。しかし、ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」という本で「アプリオリな総合」という認識を認めず、人間は世界の像を作ることによって世界に到達できるとした。この世界観は、カント以上に独我論的だとも言える。まずはこの「論考」の内容とカントの存在論とを比較しながらその内容を考える。

 

つづく

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コメント

失礼いたします。近畿圏を含む各地で素人同士の哲学討論会を開催する「哲学道場」の世話役の深草と申します。

ブログの内容を拝見し、横山さんに是非来てほしいと思いましたのでコメントさせていただきました。ご都合などよろしければ当討論会へのご出席、ご発表などを検討して頂けますと幸いです。よろしくお願いします。

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