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2011年5月 7日 (土)

「べきべきべき…集合」とカントールパラドクス≪無限は実在するか8≫

一口に「無限」と言っても、自然数のように数え得るようなモノだけでなく、無理数のように順番に数えていくことができないモノもあって、無限の濃度は全てが一色というわけではないことを対角線論法を通して見てきた。
そこでここでは、無限集合の「冪(べき)集合」というものを作り出していくことによって、更なる高濃度の無限を得ることができる…ということを確かめていきたい。
そして、実無限を突き詰めていくと、無限集合のサイズ自体が無限の種類を持っていることが明らかとなり、「無限の無限の無限…」という無限の楽園なるところにまで突きあたることになるのだ。しかし、そもそも、この実無限なるものは「限りなく続く永遠の、到達不可能なはずのその果てにまで到達してしまえた」とするような矛盾をはらんだモノである。だから、この無限の楽園も矛盾をはらんでいる。…という実無限の可能性と問題点についても、このページでは考えていきたいと思う。

 

「べきべきべき…集合」

冪(べき)集合というのは、ある集合の部分集合を全て取り出したものである。無限集合の部分集合を全て取り出したなら、元の無限集合よりも無限濃度が高まった集合になるのである。

たとえば、{a,b,c…}という集合の部分集合をすべて書きだそうとするなら図のように要素{a,b,c…}を一列に並べてそれらを部分集合の要素として採る「1」か採らない「0」かを示していく表を作れば良い。

1

この表では、部分集合①が{c…}、②が{a、c…}、③{b…}などというように、でたらめな順番で部分集合を並べているが、要するにどんな順番でもすべての場合の数を示すことができればそのパターンの数が部分集合の数になるはずだ。

有限な集合で考えればこのことはさらに明らかになる。
元の集合が{a,b,c}の3つの要素から成っているものであったなら、その部分集合は、下表のφ、{c}、{b}、{b、c}、{a}、{a,c}、{a,b}、{a,b,c}の8つ考えられる。

2

3つの要素に対する部分集合の数は、3つの要素に対して「0」と「1」の2つずつのパターンを考えることができるので、「 2 」個できることになる。

だから、有限集合だけでなく、無限集合に対しても同様に部分集合を作れるのだとすることも可能なはずだ。濃度「アレフゼロ・ℵ 」の要素の対してできる部分集合は、アレフゼロ・ℵ の要素に対して「0」「1」の2つずつのパターンを考えることができるので「2のアレフゼロ乗・2ℵ0」個できることになるのだ。
つまり、有限集合に対しても無限集合に対してもその部分集合を全て採り出すと、2の冪(べき)乗個の集合が作られることになる。そのために、これらの集合は「冪集合」と呼ばれる。

そして、この作業は前ページで見た対角線論法と同じである。有理数の濃度から実数の濃度への飛躍を図った作業と冪集合を求める作業とはまったく同じであるのだ。

Photo_2

3   

だから、実数は有理数の冪集合だとも言えるのだ。そして、このとき、有理数の濃度・可算濃度が「アレフゼロ・ℵ0であるなら、実数の濃度・連続体濃度が「2のアレフゼロ乗・2ℵ0」になるのだ。このことは、実数R の濃度を|R|と書き、有理数Qの濃度を|Q|と書き、有理数の部分集合全体の集合をP(Q)と書くなら、

R|=|P(Q)|=2ℵ0>|Q

だと書くことができる。
そしてこの「2ℵ0」を「アレフ1・ℵ」と記述することにするなら

=2ℵ0=|R

と書ける。さらに、この冪集合を採ると

|P(R)|=2ℵ1

となり、冪集合の冪集合(べきべき集合)が出現する。これは、実数よりも濃度の高い無限になっていて、これはさらに「アレフ2・ℵ」のように表すことも可能なより大きな無限なのである。
そして、このような大きな無限を出現させる運動はどこまでも無限に続けることができる。どこまでもどこまでも、「べきべきべき…集合」なんてものも考えることが可能になるのである。(この「べきべきべき…」の「…」は実無限の「…」と同じものである。つまり、どこまでも限りなく続く永遠の、到達し得ないはずのその果てにまで到達してしまった」ものとしてとらえることもできる。)

ここに、カントールによる無限が、正しく無限に広がり、その「楽園」が完成する。

しかし、楽園の誕生とともに、この無限の底なしの広がりを「実在」したものととらえること自体が許されるのかという問題が現れてくる。それが、「カントールのパラドクス」であり、「ラッセルのパラドクス」であり、「ゲーデルの不完全性定理」である。

 

カントールのパラドクス

カントールのパラドクスとは、「全ての集合の集合なるものが存在し得るか」というものである。
「全ての集合の集合」などというものが存在し得るのであれば、この集合Xはあらゆる集合のなかで最大の濃度を持つはずである。しかし、このXも集合である以上その冪集合を採ることが可能なはずである。そしてその冪集合はXよりも高い濃度の集合になるはずである。これは、Xが最大の集合であることと矛盾しているので、Xは存在しえない。
「全ての集合の集合」などというものが存在し得ないのであれば、「べきべきべき…集合」という概念自体が認められないものになり、延いては実無限自体が認められないという結論に達してしまう。

もともと、「実無限」という数のとらえ方が「到達しえない彼方に到達できてしまうとする」という矛盾を認めた上に成りなっているのだから、実無限から広がっていったカントールの無限の楽園は砂上の楼閣なのだと言うこともできる。

しかし、本当に実無限は使えないものなのだろうか。可能無限ならば良いのだろうか。可能無限にも問題は多いのではないのか。

次節では、ようやく可能無限について検討するところに戻りたい。

つづく

無限は実在するか目次

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